※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●西田幾多郎(1870~1945年)
西田幾多郎は石川県に生まれ、1899年、母校の第四高等学校(金沢市)の教授となり、1913年には京都帝国大学教授となったのですが、
大熊玄氏『善とは何か』には、1911年に出版された「『善の研究』という本は、西田がかなり若い時(30代後半)に当時の高等学校生を相手にした講義をもとにして書いたもの」であり、「『善の研究』は、日本で最初に書かれた、独立した哲学書だと言われます。そうすると、西田幾多郎は、日本で最初の哲学者ということになります。…明治以前にも、日本にはたくさんのすぐれた思想家がいました」から、「(広い意味での)「哲学者」がいなかったわけではありません。…ここで言われている「最初の哲学者」というのは、もっと狭い意味…西洋で発展した「哲学」…にそった形で自ら思索した最初の人と言う意味で、…明治の最初のころは日本に翻訳・紹介されるだけだった「(西洋の)哲学」が、西田によって、…「(西洋的に)哲学する」ことが始まった、というわけです」とあります。
日本における最初の哲学書となった『善の研究』なのですが、では、「哲学」とは何なのでしょうか?
●哲学とは何か?
「哲」という漢字には、「物事の道理を明らかにする」という意味があります。
「道理」とは何でしょう?
『言海』には「道の理(すじ)。すじみち。わけ。ゆえ」とあります。
つまり、「哲学」とは、「なぜ?どうして?」を考える学問だということになりますが、「哲学」という言葉について、明治時代の思想家の西周は、『生性發蘊(はつうん)』で、英語の「philosophy」 を訳す際に「理学理論ナド訳スルヲ直訳トスレドモ、他二紛ルル多キ為メニ今哲學ト訳シ東州ノ儒學二分ツ」と記していて、「正しくは理学と訳すべきなんだろうけど、理学とすると他と被る部分が多いから、哲学という言葉を新たに造ることにしました」としていますが、「理学」というのは世の中の物ごとについて考える数学、天文学、物理学、地球科学、化学、生物学…などを含むものであり、たしかに「理学」とすると他との違いがよく分からなくなるのですね。
「philosophy」には物事の「根本原理」という意味があるようです。つまり、「哲学」とは「なぜ?どうして?」を考え続けて、突き詰めて、その究極のところ、一番深いところ、誰も反論できない、誰もが納得できる真理を見つけようとする学問だということになります。つまり「理学」の中でも「理of理」を考える学問なのですね。
今回の『善の研究』についてもそうで、西田幾多郎は「誰もが納得できる善とは何か?」を考えています。では、西田幾多郎は、何をもって「真の善」としたのか、見ていくことにしましょう。
●善とは何か
西田幾多郎は「人間は何を為すべきか、善とは如何なる者であるか、人間の行動はどこに帰着すべきか」について論じることにする、と述べて「善」について語り始めます。
まず西田は、「善」と「悪」を分ける判断基準とは何か?について考えます。
西田は、ここで直覚説・他律的倫理学説・自律的倫理学説がある事を紹介します。
直覚説とは、もともと人間には良心が備わっていて、何が善で何が悪かを無意識に判別できる、というものです。
これについて西田は、人間は善と思ってやったことについて、あとで後悔することもあるし、同じ行為についても、人によって善悪の判断が分かれることがあるのだから、これは正しくない、とします。
他律的倫理学説は、善悪の基準は「自身に対し絶大なる威厳・勢力を有する者の命令によって」「決定される」、とするものです。
…「自身に対し絶大なる威厳・勢力を有する者」として、君主と神がある、スコトゥス(1266?~1308年)は、善であるからそれをせよと神が命じるのではなく、神が命じるから善なのである、神が殺戮をせよと言えば、殺戮も善となる、と言い、一方で、ホッブズ(1588~1679年)は人間はもともと悪であって、放置すると弱肉強食の世となる、この不幸を脱するために権力を一君主に任せ、その命令に服従することにした、この君主の命に従うのが善で、背くのが悪である、とする。
これに対して西田は、君主や神が言うことをとにかく善だとするのは、「わからないけど従う」という盲目的服従である、そうなると無知な人ほど善人ということになってしまう、これが正しいということになると、道徳的束縛よりも権威の命令に従う方が進歩した状態、ということになってしまう、こうなると道徳は意味をなさず、善悪の区別もあいまいになり、腕力を持ったものが最も有力ということになってしまう、とこれを批判します。
自律的倫理学説には、「合理説」「快楽説」「活動説」があり、「合理説」は真理=善であり、真理だから善を為す、とするものです。これについて西田は、真理がわかったからといって何が善かは知ることはできない、「推理」に長じた人よりも、無知な人の方が善人である場合が多い、とこれを批判します。
「快楽説」は2つに分かれ、その内の1つは「利己的快楽説」で、自分にとって快楽を覚えることをすることが善であり、他人の為にしたことであっても、実はそれは自分が楽しくなるからしている、正義も社会も、全て個人の幸福・安全のためにある、とするものです。もう1つの「公衆的快楽説」は、逆に「社会公衆」の快楽を最上の善とするものです。多くの人を喜ばせる行動が善であるというのですね。ベンサムの「最大多数の最大幸福」に代表される考えです。ベンサムは、私たちの行為によって生じた快楽の量が多ければ多いほど善い行いである、といいます。これについて西田は、
・快楽説は人間的であるが、善悪の基準は苦楽の感情によって決まるということになり、(人間はそれぞれ苦楽の基準が異なるので)正確な客観的基準を与えることができない。
・自愛的要求と言われている者も、例えば食欲は快楽が目的というよりは、先天的本能の必然に駆られて起こるものである。
・飢えている者は食欲がある事を恨み、失恋した者は愛欲があるのを恨むのであるから、この場合は欲が無い方が幸せということになる。
・人は先天的に他愛の本能があり、他を愛することは我々に無限の満足を与えるが、自分のためにするという考えがあると、他愛による満足感は得られなくなる(確かに、親が子供を愛するとき、それは自分の老後の事を考えてやっているわけではないでしょうし、自分が満足するためにやっているわけでもないでしょう)。であるからして、人は快楽を求めて行動しているというのは、不適当である。
…と言って快楽説を批判します。
快楽説をとると、説明できない部分があります。例えば合唱コンクールがあり、生徒たちは、面倒だけど、クラス全体の事を考えて我慢して練習しているとします。優勝できた場合は、多くの快楽が得られるでしょう。しかし、優勝できなかった場合は、快楽は得られません。優勝できるクラスは1つだけ、つまり快楽説をとると合唱コンクールは最悪な行事ということになってしまいます。子供を叱ることもそうで、𠮟る方も叱られる方も快楽は得られません。これも、快楽説をとると最悪な行為ということになります。
するとこれらは何を目的として行われているのでしょうか?
西田はこう説明します。
…人間には快楽の前に、衝動や本能といった先天的要求がある。要求を満たすために目的ができると、意志の働きにより意識が統一されていく。この統一が完成した時、つまり、理想(その物の自然の本性[生まれつきの特質]を発揮する事)を実現できた時、我々には満足の感情が生じ、そうで無い時には、不満の感情が生じる。だから、善とは内面的要求すなわち理想の実現、言い換えると意志の発展完成である。このような倫理学説を「活動説」(energetism)という。…
人間は様々な事に気がとられ、なかなか集中できません。集中できないでいると、理想を実現することなどできないでしょう。そこで人間は他の要求を押さえつけて内面的要求(自分の潜在能力を最大限に実現することを指す。マズローはこれを、自分ができることをすべて成し遂げ、自分がなれる最高の自分になりたいという欲求と説明する)を選び、そこに意識を集中させて、その要求を達成しようとするわけです。そしてこの要求が果たされた時、人は満足を覚え、幸福になる、というのですが、これでは、自分の本当にやりたいことを達成するというだけで、単なるわがままなのではないか?との批判も起きそうです。
しかし西田は、自身の最も奥深くにある内面的要求を実現させること(理想)は、人生においてこれ以上厳しいものはない、と言います。ちゃらんぽらんな、軽い気持では無理なものなのであって、わがままとかいうレベルのものではないというのですね。
また、要求は最善の状態で達成されなければならない、身体の善が一部の善では無くて全身の健康にあるように、善とは全体との調和がとれていなくてはならない、とも言います。独りよがりの要求を満たすことは理想の実現にならないというのですね。そこで西田は、最上の善というのは、理性に従い、我々の能力を発展させ円満な発達を遂げることである、プラトンも、人間も国家も理性によってコントロールされた状態が最上の善と言っている、と述べます。本能のままに要求を満たそうとすれば、他の人に迷惑をかけ、全体との調和を破壊することになりますから。
しかし、理性に従うのが善というのならば、それは「合理説」と同じになってしまいます。西田はこれを否定して、次のように言います。
…人間の意識は1つであるからして、人間には自身の意識をつなげている統一力が存在するということになる。これが「人格」である。理性に従うというのも、この統一力に従うということに他ならない。…
私たちは法律や警察に従いますが、この法律や警察の大本には、国が存在します。法律や警察に従うというのも、国に従っていると同じでしょう。
…であるからして、善とは「人格」、すなわち統一力の維持発展にあるのである。…
国がだめなら法律や警察もダメになりますからね。大本である国を良くしていかなければなりません。
そして西田は「善行為」とは何かについて次のように結論付けます。
…つまり、善行為とは人格完成を目的にした行為のことであるが、これは自己の内面から出た要求に従った行為でなければならない。なぜなら、自己が要求したことでないものを実現しようとすれば、それは自己の人格を否定したことになるからである。…
「自分が本当にしたいこと」「自分に本当に合った事」を最善の状態で実現するのが善行為だというのですね。でも、「自分が本当にしたいこと」「自分に本当に合った事」は、どうやって見つけ出すことができるのでしょうか。
西田は次のように述べます。
…自己の全力を出し尽くして、ほとんど無意識になった時に、真の人格の活動が見える。例えば画家は、意識して描いている内はその人格を見ることができない。技芸が熟して、意識せずに描けるようになって始めて画家の人格が見ることができる。人格とは一時の情欲にではなく、最も厳粛な内側の要求に従うことで発現するのであり、艱難辛苦の事業なのである。個性の発揮に必要なのは強盛なる意志で、意志の薄弱と虚栄心は最も嫌うべき悪である。…
何かについて全力を出し尽くして取り組んだ末に、それを無意識でできるようになれば、そこに「自分らしさ」(個性)が見えるようになる、というのですね。プロの選手などは、最初はあこがれの選手のマネなどから始まると思うのですが、ひたすらに練習を重ねる中で、自分の体格や性格、得意なことに合わせて、だんだんアレンジを加えていき「自分らしさ」が現れてくるのだと思います。西田はこの「自分らしさ」(個性)について次のように言います。
…個人において絶対の満足を与えるものは自己の個人性(個性)の実現である。すなわち、他人には模倣のできない自己の特色を発揮する事である。一人一人顔が違うように、いかなる人間にも他人には模倣のできない特色を持っている。偉人とはその事業が偉大なために偉大なのではなく、強大な個性を発揮したために偉大なのである。社会において個人が充分に活動してその個性を発揮してこそ社会が進歩する。個人を無視した社会は決して健全なる社会とは言わない。…
人は個性を認められた(揶揄とかではなく賞賛)とき、えも言われぬうれしさを覚えますよね…。なんだか生まれてきた意味を感じますよね。
この「個性が認められる」というのは、社会に対して害を与えるのではそのような評価を受けないでしょう。「個性の発揮」というのも「最善の状態」のものであらねばならないわけです。西田はこれを主観(自己)と客観(自己以外の世界)を一致させることだと言っています。自己実現、個性の発揮は外物を自己に従えるという意味ではなく、自己実現、個性の発揮は客観的世界の理想と常に一致したものでなければならぬ、と。
…ということは、「個人的善」よりも「社会の善」が上位に来るのではないか、と西田は言います。我々は自己の満足よりも、自己の愛する者・自己の属する社会の満足により満足するのだと。親としては「自己の愛する者」である子どもが活躍すればうれしいわけです。恋人としては、彼氏や彼女が満足そうにしていれば自分も嬉しいわけです。最近は「推し活」が盛んですが、これも「自己の愛する者」を応援して、その結果、「自己の愛する者」が活躍している姿に満足を覚えるわけです。また、学生であれば、自分のクラスが合唱コンクールなどで優勝すればうれしさを覚えるでしょうし、野球チームを応援している人は、その野球チームが優勝すれば非常に興奮するでしょう。さらに広がってワールドカップで日本が勝ち進めばうれしいでしょうし、オリンピックで日本が金メダルを取りまくればうれしいわけです。うれしさの度合いというのは、自分に近しいほどうれしい感じもしますが、人間は1人に認められるより、より多くの人に認められたほうが嬉しく思えるでしょう。応援している人のライブに少ししか客が来ていないよりも、大勢の客が来ている方がうれしいでしょう。人間は、喜びを分かち合える人間の数が多いほどうれしさを感じるのではないでしょうか(自分だけがわかってあげられる…と思って満足を感じる人もいるでしょうが)。だから「推し活」でも「布教活動」などをするのでしょうし。人は、なんとかして推しの良さを知ってもらって、わかってもらって、少しでも多くの仲間(同志)を得たい、少しでもその良さを共有したい、共感できる人を増やしたいと思うのです。
さて、このような個性が発揮できるのも、その所属している社会が健全であればこそです。家族が崩壊していたら、国が強権国家であったら、個性は発揮される場面を失うでしょう。大事なのは社会が善であることです。戦時下だと、人のやりたいことというのは非常に制限されます(戦争があったために活躍できた人もいるでしょうが、全体としては少数でしょう)。手塚治虫は、戦争が終わった時に思ったのは、「ああ、これで思い切り漫画が描ける」ということであったといいます。平和であることが人格の発展、個性の発揮には必要なのです。そして西田は平和には人類的社会の団結が必要であるが、この理想は容易には実現できぬ。今日はなお武装的平和の時代である、と言っていますが、これは『善の研究』が書かれてから100年以上経っても同じ状況です。悲しいですね…。一方で西田は、こうも言っています。
…真正の世界主義というのは、各国家がなくなるという意味ではない。各国家が益々強固となって各自の特徴を発揮し、世界の歴史に貢献するの意味である。…
個人が個性を発揮することが世の発展につながるのであれば、国も同じようにそれぞれ多様で、それぞれ個性を発揮する状態であるべきだ、というのですね。個性を、多様性を認める世の中であることが人格の発展、個性の発揮に必要な条件であることがわかりますね。人が観光に行くのは、その個性が新鮮に感じられるからでしょう。全ての場所がまったく同じになれば、人は観光に行かなくなってしまうでしょうね。グローバリズムが進む昨今ですが、「その国らしさ」は失ってほしくないものです。
多様性を認める世の中、平和な世の中に必要なものは何か。西田は、それは「愛」だといいます。
…善とは愛である。愛とは自他一致の感情である。…
相手が「辛い」と思っているということを自分事のように感じることができるようになれば、相手に「辛い」ことはできなくなるでしょう。
西田は、この力を得るには、「ひとりよがりな気持ちを殺し尽くす」ことが必要だ、と言っています。自分さえよければいい、というのがすべての悪の本なのです。
西田は、「善」についてこのようにまとめています。
…内面を鍛錬して真の自己を知ると共に、外に対しては「人類一味」の愛を生じて最上の善を目的として行動する、これを完全なる善行という。真の善とは唯一つ、真の自己(個性)を知るということである。真の自己を知る方法は、自他(理想と現実、主観と客観)を一致させる力を会得することである。…
自分らしさ(個性)を発揮する一方で、他人事を自分事と感じるようになること、これを両立させることだというのですね。
ふつう善行と言えば、後半の他人事を自分事と思う、だけになりがちですが、それだと最終的に行きつくところは「みんないっしょ」「みんな平等」「無個性」になってしまいます。負けている人が出るとかわいそうだよね、だから50m走はやめよう、となると、個性を発揮する場面は失われてしまうことになります。何事もお互いを尊重し合うことが大切なのです。50m走に勝ったからといって、思いっきり喜んだいたら負けた人を苦しめることになる。相手がいるからこそ勝てた、という感覚を持たなければなりません。剣道は、一本を取っても必要以上に喜びの反応(ガッツポーズなど)を示すと、その一本が取り消されます。
自分らしくありつつも、思いやりを忘れない。確かにこれは尊敬できる人間の姿ですよね。
このような人間になるために頑張らなくては…と思います。