社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 朝ドラ『虎に翼』に登場する桂場等一郎のモデルになった最高裁判所長官・石田和外

2024年9月26日木曜日

朝ドラ『虎に翼』に登場する桂場等一郎のモデルになった最高裁判所長官・石田和外

 朝ドラ『虎に翼』で強烈な印象を残したキャラクター、桂場等一郎。

そのモデルとなった人物が石田和外です。

桂場は劇中で共亜事件を裁いていますが、石田和外はこの事件のモデルとなった帝人事件を裁いていますし、劇中で桂場が書いた判決文「水中に月影を掬するが如し」も実際に石田が書いたものです。

また、桂場は戦後に人事課長、最高裁判所長官になっていますが、石田和外も同じ職に就いています。

さて、桂場のモデルとなった石田和外はどのような人物であったのか、本人が書いた文章や、石田和外の死後に周囲の人々が石田の事を思い出して書いた文章をもとにして、見ていこうと思います。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


●幼少時代の石田和外

石田和外は自分の来歴を振り返っていくつかの文章を書いていますが、これらの文章を組み合わせて、まず、幼少の頃、どのようであったのかを見ていきたいと思います。

…祖父の磊(1845~1909年)は福井藩士の子として生まれ、明治23年(1890年)福井第92国立銀行の成立と共にその支配人となり、明治30年(1897年)~40年(1907年)まで頭取も務めた。明治36年(1903年)には福井商工会議所の初代会頭を務めた。また、明治26年(1893年)~31年(1898年)にわたって市会議長にもなった人物であった。

祖母は(祖父もだが)熱心な浄土真宗信者で、朝夕必ず仏壇の前でお経を読んでいたが、私たち兄弟が後ろに座って手を合わせていると、いい子だとほめられて頭をなでられ、お菓子などをくれた。孫の中で私が一番愛されたし、私も祖母が好きだった。慈悲深く、近所の苦しい人にも救いの出を差し伸べ、小遣いや物をやったりすることを楽しみにしていた。赤十字会員でもあった。

母・みつは子どもを9人産み、身体は頑丈で、若い時から並々ならぬ働き者であった。親類や近所の人たちともよく交際していて、てきぱきした典型的な主婦であった。子どもに対ししつけは厳しかったが、個性を重んじ、干渉がましいことはせず、自由放任であった。子どもに対して「さん」をつけて呼び、子どもの前では務めて笑顔でいるようにしていた。

母は父・龍雄を婿養子に迎えた。父は容姿端麗、身だしなみもよく、頭髪をきれいに分け、鼻の下に八の字にひねり上げた美髯を蓄えてピンと跳ね上げていた。性格は律儀・温厚で、上役に愛されていたようである。祖父母の信頼も厚く、親類にも好かれていたが、温室育ちで水泳ができず、また、酒も飲めず、子ども心にひ弱に感じられた。

1903年5月20日に私、和外が生まれたが、父は祖父母に、「ただ今玉のような男の子が生まれました」と伝えた。「和外」は祖父の命名で、変わった名であり、おそらく日本に1人であろう。お前は姓名診断で極上なのだよ、と言われたこともある。

[現在、静岡朝日テレビアナウンサーに石田和外という同姓同名の方がいるが、これは、生まれた時に最高裁判所長官であった石田和外にあやかってつけた名前であるそうな]

私は幼少の頃は腕白で、木によじ登っては鳥に頭をつつかれたり、木の枝と共に落ちて前歯を欠いたりしたこともあった。瘰癧(るいれき。結核性頸部リンパ節炎のこと)の手術を受ける際も逃げ出して木に登って医者たちを困らせた。

子どもの教育は、世界中いずこの国においてもその消長(衰えるか盛んになるか)に関わる最も大切な問題であるが、私ははじめ学業に熱心でなく(両親が仕事の関係で名古屋に行くことになった時、親がいないのが寂しくていっしょについていったため、小学校の最初の頃を1月ほど休むことになり、そのため勉強がだいぶ遅れる羽目になった)、宝永小学校1・2年の頃の評価に最高評価の「甲」は無く、「乙・丙」だらけであった。特に唱歌は苦手で、習字もことの外まずかった。2年夏の習字の宿題は、遊びすぎて忘れており、慌てて書こうとしたがうまく書けず、ついに姉に書いてもらった。その出来栄えはすばらしかった。その後、習字の時間、先生(女教師の宮川[朝比奈]富尾。師範学校を出てはじめて担任を受け持ったばかりで、まだ20歳前であった。石田和外は「はきはきした男勝りで、いつも熱情がこめられていた」「非常にしっかりしたいい先生であった」と書いている)が真っ先に私の背後に来られたのでひやっとした。先生は私の習字の書き方を見られた後、私の耳元に口を寄せて「あの宿題は誰かに書いてもらったのでしょう」と小さな声で言われた。穴があったら入りたい気持で、悪いことはできないものだと思ったが、皆の前であからさまに叱らず、こっそりしてくださった温かい心遣いは、今思ってもまことにありがたい。

朝比奈富尾先生は、昭和32年(1957年)頃、私が東京地方裁判所長の時、参観に来て下さったことがあるが、数年前(「数年前」と書いた文章が昭和42年[1967年]のものであるので、この数年前のこと)に亡くなった。

3年からは担任は男の江上豊先生になった。この頃、ようやく学習の理解が少しずつ深まり、冬、皆の前で先生から「石田は長足の進歩をした」と言われた。ある時は「石田、出る杭は打たれるぞ」とも言われた。このようにほめられるとうれしく、学業に励んだ結果、6年時にはクラスで最上位になった。ある時、県視学官(教員の監督を行なった行政官)がクラスに来られて、黒板に水中の魚の絵を描き、どこから突くとよいか、とお尋ねになった。光の屈折の難しい問題であったが、私が正解して終わった。

私は相撲が強かったが、ある時負けてしまった。その時、江上先生は「横綱、負けたな」と言われたが、これも嬉しかった。

私は江上先生によって人生への進路を開かれたのであったが、江上先生は福井地方大震災(1948年)で亡くなってしまった。




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