本国寺の変を聞いて織田信長が京都に駆けつけたのが1月10日、
防衛体制の不備を思って義昭二条城の築城を開始したのが2月2日、
そしてこれに足利義昭が入ったのが4月14日のことでしたが、
信長は義昭二条城の一応の完成を見るや、その1週間後の21日には帰国の途に就いてます。
信長、せっかちすぎますね…(;^_^A
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●信長と義昭の蜜月
信長の帰国について、
『信長公記』は「5月11日、濃州岐阜に致って御帰城なり」と記し、「5月11日」に岐阜城に着いたと記します。
何日に京都を発った、とは書かれていませんが、永禄11年(1568年)に京都から岐阜に戻った際は、2日間で帰国しているので、これをそのまま当てはめれば、9日に京都を出発したことになります。
しかし、『信長記』には「5月11日」に都を立ち、13日に岐阜城に着いた、とあります。こちらは「5月11日」は京都を出発した日だ、とするのですね(゜-゜)
また、『太閤記』は(5月)12日に京都を出立した、と記します。
『信長記』も『太閤記』も同じ小瀬甫庵が作者なんですけどね…(;^_^A
『総見記』は『信長記』と同様に、5月11日に京都を出発、13日に岐阜城に戻った、としています。
果たして、信長が京都を出発したのは5月9日なのか?11日なのか?12日なのか?
しかし、実のところは…なんと3つとも違ったようです😓
なぜそう言えるのかというと、『言継卿記』に次のように書かれているからです。
4月20日条
…織田弾正忠が明日下向(都から地方へ行くこと)するということなので、別れの挨拶をするために弾正忠のもとを訪ねようと思ったが、とんでもない風雨だったために取り止めた(『多聞院日記』4月20日条にも、「夜中より大雨風、一日不止」とある)。
4月21日条
…早朝に織田弾正忠を訪ねたところ、春日室町(春日通りと室町通が交わる地点。義昭二条城のすぐ南西にある)において落ち合い、別れの挨拶をしたところ、これから武家(足利義昭)のもとに参上すると言うので、これに同道した。弾正忠は武家に対面し、盃を頂戴した。また、武家は太刀・馬を弾正忠に下された上、さまざまな事を話し、互いに涙を流していた。弾正忠を門の外まで見送り、東の石垣の上に立ち、弾正忠が粟田口に入るまでこれを遠見(遠くを見ること)していた。
『言継卿記』の内容を見るに、どうやら京都を出発したのは「4月21日」のことであったようです。
『多聞院日記』4月20日条にも、
…信長は21日に京から帰国するという。
…と書かれています。
『言継卿記』の内容を見て驚きなのは、
①義昭と信長が涙を流しながら話していること(原文は「各落涙共也」で、桐野作人氏は『織田信長』で、「義昭が恩人の信長との別れが辛くて涙ぐんだのか、近臣たちも落涙したという、と訳している。これだと信長は泣いていないが、義昭と信長、とした方がしっくりくるように思う。もしくは、別れが辛そうに色々と話す義昭を見て、周りの者が泣いていた、と訳すべきか)
②義昭が長時間にわたって信長を見送っていること(ルイス・フロイスによると、帰国の途に就いた信長を、和田惟政は6里・7里[24㎞~28㎞]ほども見送ったが、信長は惟政に都に戻るように言うとともに、フロイスに恐れるな、安心せよ、と伝えるように言った、という)
…の2つです。2人の関係が非常に親密で、蜜月関係にあった事がうかがえますね😕
また、『太閤記』や『総見記』には、信長が帰国する際に、義昭と次のやり取りがあった、と書かれています。
『太閤記』…信長が木下藤吉郎とともに帰国しようとしたところ、将軍家(足利義昭)は「世の中が落ち着くまで、内裏守護・当家の補佐として、木下藤吉郎を残してほしい、木下に過ぎるものはいない」と無理を言ってこれを止めたので、信長は仕方なく藤吉郎を京都に残し、(5月)12日に京都を出立した。
『総見記』…信長公は公方(足利義昭)に別れの挨拶をし、5月11日に京都を出発、13日に岐阜城に戻った。この際、公方は信長公に、「二条の御所は兵が少ない。また敵が攻め寄せてくることがあるだろう。警固のために勇士を残しておいてくれないだろうか」と頼んだが、信長公は木下藤吉郎を残して帰国した。当時の人々は、森・柴田・佐久間あたりの宿老を残されるのだろうと思っていたが、そうではなくて藤吉が残されたので、「心が読めない信長公であることよ」と言い合ったという。藤吉の名誉、身に余るものがあった。
木下藤吉郎秀吉は閏5月25日に東寺に宛てて書状を出しており、どうやらこの辺りまでは確実に京都に残っていたようです。『言継卿記』7月12日条には、岐阜城に赴いた山科言継が、岐阜にいた武井夕庵と「木下藤吉」に贈り物を贈った、と書かれており、この頃までには京都を離れ、美濃に帰っていたことがうかがえます。
まぁ、とにかく、木下秀吉は京都に残っていたわけで、この部分については『太閤記』や『総見記』の記述の裏付けができるわけです。
「当時の人々は、森・柴田・佐久間あたりの宿老を残されるのだろうと思っていた」とありますが、フロイスの1569年7月12日付書簡には、「(1569年6月8日)私が岐阜に到着した時、佐久間殿と柴田殿はまだ都から到着していなかった。2日後(1569年6月10日[永禄12年5月26日])、彼ら2人が都から到着した」とあり、信長が帰国した後も柴田勝家と佐久間信盛は5月24日あたりまでは都に残っていたことがわかるので、木下秀吉だけを残した…というのは誤り、ということがわかります。秀吉を際立たせるための脚色でしょうか(;^_^A
しかし、佐久間・柴田が帰国した後も、木下秀吉は約1か月にわたって京都に残っていることが確認できるので、…5月下旬に、佐久間・柴田・木下らが帰国しようとしたところ、足利義昭が誰かを残すように要請した(『太閤記』の、義昭が藤吉郎を指名した…というのは脚色の可能性が高いと思います😓)、そこで信長は宿老ではない秀吉を残したので、人々は驚いた…ということになるのかもしれません。
つまり、『太閤記』や『総見記』は実際より1か月ずれているものの、正しい内容を書いているのかもしれないのですね。
1か月ずれている…の件にしても、『太閤記』や『総見記』は信長の帰国を5月11・12日に設定しているので、日付のずれはあまりないことになります😲
いずれも信憑性が問題視される書物ではありますが、その中には真実も多く含まれていると思うのです。
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