社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 1月 2024

2024年1月30日火曜日

「律令」(養老律令)①五刑

 日本の法律の基本となったのは701年に作られた大宝律令。

しかし、その内容はよく知らないですよね…(◎_◎;)

そこで、まず律の内容を調べてみました!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇大宝律令と養老律令

「律令」と言えばもっとも有名なのは「大宝律令」なんですが、

その内容を知っているか?と聞かれれば、う~ん、となっちゃうんですよね(;^_^A

そこで調べてみると、どうやら大宝律令は散逸してしまっていて、ほとんど内容がわからなくなっているそうです(◎_◎;)

しかし、757年に作られた「養老律令」は、井上光貞氏(1917~1983年。歴史学者・東京大学名誉教授)によれば、大宝律令の「若干の内容修正のほかは、たんに字句等の修正を施したにすぎないものであった」そうで、そこから大宝律令の内容がほぼわかるんだそうです😲

内容がほぼ変わらないのなら養老律令を作る必要はあったのか、と疑問に思いますが、

大宝律令のお手本を作った中国の唐では、皇帝が代替わりするごとに律令を改めて出すという習慣があり、これに倣ったものだと言われています(゜-゜)

大宝律令は701年、文武天皇の時に作られたものでしたが、

養老律令は718年に、文武天皇の死後、その母の元明天皇を経て、文武天皇の姉の元正天皇のときに律令の編纂が始められた(この時の年号は養老[717~724年])もので、文武天皇の子である聖武天皇の即位に合わせて作成が進められていましたが、編纂者の藤原不比等が720年に亡くなったために中断、757年に不比等の孫の藤原仲麻呂によって完成、施行されたものです。

その内容は、まず「律」と「令」に大別できます。

「律」は刑罰のきまり、「令」は政治を行う上でのきまりです。

「令」の内容には、例えば、官職について定めた官位令、僧について定めた僧尼令、田について定めた田令(有名な租や、班田収授などを扱っている)などの有名なものがあります。

しかし、「律」の内容となると、?が浮かんでしまうのですよね(;^_^A

そこで、今回は、古代ではどのようなことが罪になり、どのような罰が与えられていたのか、について見ていこうと思います!

(今後、「刑法の歴史シリーズ」ということで、②中世編…御成敗式目、③近世編…公事方御定書についても取り扱ってみようと思います)

〇どのような罰が行われていたのか

律は、刑罰の内容について記されることから始まります。

刑罰の内容は、有名な「笞・杖・徒・流・死」の5種類になります。

①笞罪・杖罪

笞罪は、獄令によれば、長さ3尺5寸(約105㎝)の笞でたたかれる刑罰です。

(大宝律令では3尺6寸[約108㎝]だったようです)

笞といっても、波打っているようなムチではなく、木製の棒でした(イメージと全然違う…)

木の棒であると、出っ張っている節目などが当たると痛そうなのですが、

優しいことに「皆節目削り去てよ」と書かれています。

獄令にはその太さについても書かれていて、太い部分(おそらく手元)は3分(約9ミリ)、細い部分(おそらく叩く部分)は2分(約6ミリ)でした。

かなり細いですね(;^_^A

折れちゃわないのかな??これだけ細いと逆に痛いのかもしれませんが。

杖罪は、同じく木の棒で叩く刑罰ですが、こちらは一回り太く、太い部分は4分(約1.2㎝)、細い部分は3分(約9ミリ)と決められていました。

この刑罰を受ける際は、首枷・足枷をつけることになっていました。

笞・杖を当てる場所も決まっており、臀部(尻)で、尋問する際は背中・尻を、それぞれ同じ回数分叩かれることになっていました。

笞罪には5種類ありました。

[1]10叩き・もしくは銅1斤(600g)を納める(和同開珎は1枚3~5gだったので、和同開珎で納めるとすると、120~200枚だったということになります。和同開珎は1枚100円程度だったようなので、1万2千円~2万円くらいということになります)。

今で言うと、「笞罪10、又は2万円以下の罰金に処する。」ということになるでしょうか(゜-゜)

銅を納めることで笞罪を逃れようとする場合。30日以内に納めなければいけませんでした。

[2]20叩き・もしくは銅2斤を納める

[3]30叩き・もしくは銅3斤を納める

[4]40叩き・もしくは銅4斤を納める

[5]50叩き・もしくは銅5斤を納める

最高刑の[5]は、今で言うと、「笞罪50、又は10万円以下の罰金に処する。」ということになります。

杖罪には5種類ありましたが、杖罪は太くなっているだけでなく、一番軽い罰でも、60叩きからスタートしています(◎_◎;)

[1]60叩き・もしくは銅6斤を納める

[2]70叩き・もしくは銅7斤を納める

[3]80叩き・もしくは銅8斤を納める

[4]90叩き・もしくは銅9斤を納める

[5]100叩き・もしくは銅10斤を納める

最高刑の[5]は、今で言うと、「杖罪50、又は20万円以下の罰金に処する。」ということになります。

銅を納めることで杖罪を逃れようとする場合。40日以内に納めなければいけませんでした。

②徒罪

獄令には、徒罪となり、労働刑となった者は、畿内のものであれば京都に送れ、それ以外の場合は現地で肉体労働をすること。女性の場合は、裁縫か、脱穀精米作業をさせる、とあります。

徒罪となった者は、鉄製の首枷・もしくは木製の首枷をつけなければなりませんでした。

しかし、病気の場合ははずしてもよい、と優しいところもあります。

また、10日ごとに1日の休日も設けられていました。

(しかし、労働刑を行なっている区域から出ることは許されない)

病気になった場合は、休むことが許されますが、休んだ日数の分、その後働かなければいけませんでした。

徒罪には5種類ありました。

[1]1年の懲役・もしくは銅20斤を納める

[2]1年半の懲役・もしくは銅30斤を納める

[3]2年の懲役・もしくは銅40斤を納める

[4]2年半の懲役・もしくは銅50斤を納める

[5]3年の懲役・もしくは銅60斤を納める

最高刑の[5]は、今で言うと、「3年の懲役、又は120万円以下の罰金に処する。」ということになります。

銅を納めることで徒罪を逃れようとする場合。50日以内に納めなければいけませんでした。

④流罪

流罪となった者は、その罪の重さに応じて、京都から近いところに移される近流、京都からまぁまぁ遠い所に移される中流、京都から遠い所に移される遠流のどれかの罰を受けることになっていました。

具体的に言うと、

近流は、越前(福井県北部)・安芸(広島県西部)、

中流は、信濃(長野県)・伊予(愛媛県)、

遠流は、伊豆(静岡県南東部)・安房(千葉県南端部) ・常陸 (茨城県) ・佐渡・隠岐・土佐(高知県)に移されることになっていました。

流罪となった者は、妻と同伴と決められていたようです(「妻妾棄放して配所に至ること得じ」)。

親や子どもがついていきたいと言ったら、これは許されていました。

また、移動中は、途中途中で食料を与えるように決められていました(しかし、その場所に2日以上とどまってはならない)。

徒罪には3種類ありました。

[1]近流・もしくは銅100斤を納める

[2]中流・もしくは銅120斤を納める

[3]遠流・もしくは銅140斤を納める

最高刑の[3]は、今で言うと、「遠流、又は280万円以下の罰金に処する。」ということになります。

期限はどれも1年と定められていました(名例律24)。

銅を納めることで流罪を逃れようとする場合。60日以内に納めなければいけませんでした。

⑤死罪

獄令によれば、死罪の執行にあたっては、逃走を防ぐために、枷を着けたうえ、囚人1人に対し20人の兵士がつけられました(囚人の数が1人増えるごとに、5人ずつ兵士は加算されていきます)。

親族や友人とは、別れの挨拶をすることが許されていました。

刑の執行は、時間は未の刻(午後1時)以降、場所は市と決められていました。

死罪には罪の重さに応じて2種類の罰があり、

重いものは斬刑、程度の軽いものは絞刑となっていました。

銅200斤を納めれば死罪も逃れることが許される場合もありました(!)

銅200斤は今だと400万円で、払えないことは無いですよね(゜-゜)

銅を納めることで死罪を逃れようとする場合。80日以内に納めなければいけませんでした。


2024年1月17日水曜日

「信長の関所撤廃は不完全⁉~関役所御免除の事」の2ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

「信長の関所撤廃は不完全⁉~関役所御免除の事」の2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2024年1月14日日曜日

信長の関所撤廃は不完全⁉~関役所御免除の事

 織田信長は上洛後、有名な関所撤廃の政策を実施しています。

そこで、今回は、①関所とは何の目的で作られたのか、②信長はなぜ関所を撤廃したのか、…という事について見ていこうと思います!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇乱立する関所

古代の関所といえば有名なのが、伊勢国の鈴鹿の関・美濃国の不破の関・近江国の逢坂の関(逢坂の関以前には越前に愛発の関があり、9世紀初頭に消滅した)ですね。

この関所が設けられた理由について、『続日本紀』は「非常に備う」ためであった、と述べています。

非常事態と言えば、謀反が挙げられます。

有名なのが藤原仲麻呂の乱(764年)で、この時、鈴鹿関・不破関・愛発関が封鎖され、藤原仲麻呂の逃走を防いでいます。

しかし、789年に桓武天皇は、関所は交通の便を失わせ、人々の往来を滞らせるもので、人々の憂いのもとになっている、これは改めなければならない、と言って鈴鹿・不破・愛発の三関を廃止しています。

古代において既に関所は交通の便を考えて廃止された過去があったのですね(゜-゜)

しかし、桓武天皇の死後、三関は復活し、810年の薬子の変の際には封鎖が実施されています(この時には愛発の関は使用されていない)。

この頃の関所は治安を守るためのものであったのですが、

次第に、通行料をとるための関所が登場してくるようになります。

多く設置されたのは港や河川で、船が通過する際に通行料をとっていました。

これに対し、鎌倉幕府は何度も河川に関を設けることを禁止する命令を出しています。

例えば1262年には、「一、河手(河川の関所で通行料を取ること)の事 …これを停止すべし」と命じています。

何度も、という事からわかるように、禁止令が出されても、しばらくすると関はすぐに復活していました。いたちごっこになっていたのですね(◎_◎;)

後醍醐天皇も建武の新政の際に、関所は「商売往来の弊、年貢運送の煩」となっているから、大津・楠葉以外の関を禁止する、という命令を出しています。

その後、室町幕府ができた後、足利尊氏が関の禁止を命じ、関の禁止を実行しない場合、守護は解任する、という厳しい内容の法令を出しています。

しかし、室町幕府後半になると、禁止令は有名無実となり、また関所は増えだしていきます。

京都でいうと、その出入り口に関所が設けられたのですが、その後、なんと京都内部にも関所ができたので、町の中を行き来するのも面倒な事態に発展していきます(;^_^A

『大乗院寺社雑事記』には、「一条九条の間難儀」(一条通りから九条通りに行くだけでも大変だ)とその様子が書かれています。

1462年には、淀川近辺だけで380もの関所があったと言いますから、ハンパないですね(◎_◎;)

他にも、伊勢神宮への参道である桑名~日永間に関所が60あり、1つ通るごとに1文ずつ取られたそうです。

1488年、将軍の足利義政はこれを咎めましたが、北畠氏は、「国司は収入が少ないから、関銭で収入を補っているのだ」と言って将軍の言うことに耳を貸しませんでした(;'∀')

北畠氏がいう事を聞かなかったのには、実はもっともな理由があり、

関所を取り締まるべき幕府が関所を設けてせっせと蓄財に励んでいたのですね💦

『大乗院寺社雑事記』には、その様子が次のように書かれています。

文明12年(1480年)9月16日条

…京都七口(京都の入り口)に関が設けられて、京都へ行くのがまったくどうしようもなくなってしまったので、住民たちがこれについて訴えるために蜂起したという。この関は、内裏を修理する費用を手に入れるためだといって設けられ、莫大な通行料を得ているが、実際は内裏修理には使用されず、すべて御台(将軍の妻。日野富子)の物になっているという。まったく人々にとって「迷惑珍事」(迷惑で、困った)関である。

10月23日条

…京都七口に新たに作られた関は、ことごとく蜂起した住民たちによって破壊されたという。「珍重々々」(めでたいめでたい)。内裏修理のためだと言って作られたが、通行料は御台の物になってしまっていたという。

文明13年(1481年)1月11日条

…京都の七口にまた御台が関を設けようとしたが、農民たちが蜂起の話し合いのために集まったのを聞き、設けられずにいるという。

だいぶがめつかったようですね(-_-;)

幕府の関は通行料を高くとりすぎて長続きしなかったようですが、幕府以外の関は低料金で親切(?)であったため農民の攻撃を免れ、その後も京都近くには新たに関がどんどん作られていったようで、『大乗院寺社雑事記』文明17年(1485年)7月11日条にはこの有り様について「希代不思議事也」と記されています。

〇信長による関所撤廃政策

戦国時代になると、関の管理者は寺社から戦国大名の手に移り、戦国大名たちは関を収入源の1つとしました。

恩賞として関を与えている戦国大名も見られます(◎_◎;)

(例えば武田勝頼は、木曽義昌に、美濃を攻略した際には関千貫文を与える約束をしている)

戦国大名にとって関は重要な存在であったことがわかりますね(゜-゜)

ですから、関を撤廃することになかなか踏み切ることができなかったのは当然でしょう。

戦国大名の中には、関を一部撤廃したり(例えば武田信玄は娘の安産を願って一部の関を撤廃している)、特権的に関の通行の自由を認めたりする者もいましたが、全面的に撤廃しようとする戦国大名はいませんでした。

(全面的までとは言わないが、関所撤廃の範囲が大きかった大名として大内義隆がいる。義隆は天文6年[1537年]頃、筑前一国の関所を撤廃している。筑前を制圧した直後なので、経済復興のための時限的なものであった可能性もあるが)

その中で、領国内の関所の全面撤廃に踏み切ったのが織田信長でした。

『信長公記』には、細川殿での能の鑑賞後のタイミングで、関所撤廃についての記述があります。

「其の後、且(かつう)は天下御為、且は往還旅人御燐愍の儀を思し食され、御分国中に数多これある諸関諸役上げさせられ、都鄙の貴賎、一同に忝しと拝し奉り、満足仕り侯訖(おわんぬ)」

(1つは天下のため、1つは旅人を憐れんだため、信長は領国中にある関所を停止させたので、人々は皆ありがたいことだと思い、不満が無くなったという)

信長の関所撤廃について、『信長公記』には他にも、

・永禄12年(1569年)10月4日頃 伊勢国平定後

当国の諸関、取分け往還旅人の悩みたる間、末代において御免除の上、向後関銭召し置くべからずの旨、固く仰せ付けらる。

(伊勢国の関所は、旅人たちの悩みの種になっていたので、信長は、今後永久に停止し、関銭を取ってはならないと命令した)

・天正3年(1575年)9月 越前国平定後

「一、分国いずれも諸関停止の上は、当国も同前たるべき事」

(信長の領国では関所を停止しているのだから、越前も当然そうする事)

・天正10年(1582年)3月 甲斐・信濃平定後

「一、関役所、同駒口、取るべからざるの事」

(甲斐・信濃では関所を停止し、運送業からも税を取ることがない事)

…という、合計4つの記述があります。

小瀬甫庵の『信長記』は、伊勢平定後に初めて関所停止の場面があり、

そこには、

…伊勢国を平定した信長は、家臣を集めて次のように言った。「伊勢国の関所をことごとく停止しようと思っているのだが、どうか。行き来をする者たちは費用がかさんでいるし、そもそも行き来するものの大半は伊勢神宮に参ろうとしている者たちである。人々の心を安らかにすることは、国を治める者が楽しみにすることである。物事をするときに、自分のため、家のためにそれをするならば、長く世を治めることはできない。国のため、人々のためにそれをするならば、人に施す恵みが限りなく伝わって、長く家は栄えるという。上の者が下の者をかわいがって育てれば、下の者もまた上の者を父母のように思おう。それなのに、凡庸な君主は下の者からしぼり取って私腹を肥やせばそれでよいと思っている。その者は知らないのだ、そのことがわが身を滅ぼすことになる事を。人々が庸主に苦しめられているのを、私はいつも憂えている。私が困難に耐え、昼夜を問わず外に出て働いているのは、暴虐なものを討ち、人々を安心させようと思っているからにほかならぬ」これを聞いた家臣たちは感じ入り、「昔、中国の殷の湯王が夏の桀王を滅ぼし、周の武王が殷の紂王を討ったのも、このためであったのでしょう」と言った。これを伝え聞いた人々は、天下をうまく治められるものは、信長殿しかおらぬ、とささやきあったという。11月11日に上京した信長は、「今回伊勢国を平定し、万民をかわいがり育てるために、関を停止させ、人々が行き来する際に煩いが無くなるように命令いたしました」、と足利義昭に伝えたところ、義昭は非常に感じ入って、国光の脇差を信長に与えた。

…と(実際にあったかどうかは不明ですが[だいぶいいこと言っていますが<誰かさんに聞いてほしい言葉でありますが>])書かれています。

織田信長の関所撤廃の真偽については、

『多聞院日記』永禄12年(1569年)1月10日条に「元日より伊勢の関悉以上了(元日から伊勢国のすべての関所における関銭の徴収が停止となった)」とあり、

ルイス・フロイスがイエズス会への報告書に、「彼の統治前には道路において高い税を課し、1 レグア(約5.6キロメートル)ごとにこれを納めさせたが、彼は一切免除し税を全く払わせなかったので、一般人の心をうまくとらえることができた」と書いていますので、実際にあった事であることが証明されています。

『信長公記』は、信長が関所を撤廃した理由として、天下のため、旅人のためであった、と書き、『信長記』は人々を安心させるためだ、としていますが、抽象的に過ぎるので、もう少し深掘りしてみたいと思います。

各研究者は次のように述べています。

・呉座勇一氏…「信長の関所撤廃により、信長の支配領域においては、人々は関銭を払うことなく、通行・輸送を自由に行なうことができるようになった。信長は関所撤廃によって、支配領域内の流通を促進させ、都市発展させようとしたのだろう」

・胡煒権氏…「信長、そしてその織田政権の関所撤廃は貿易[交易の誤りか?]の推進が目的であり、商品流通を円滑に実現するために行われた」

・フロレンティナ・エリカ氏『近代の道筋をつけた織豊政権』…関所の撤廃が行われる前は、商人たちは関所を通行する度に通行税を払わされたため、商品の値段にも影響し、どうしても売値が高くなった。商品流通の推進を妨げる関所の弊害に気づいていた信長は、経済活動を活発にするために関所の撤廃を積極的に実施した」

この3氏の意見は商品の流通を円滑にするため、という事で一致していますね。

しかし、なぜこのタイミングで?というのはクリアできていません。

このことについて説明しているのが久野雅司氏で、『織田信長政権の畿内支配』には、「上洛戦で荒廃した商業都市京都を復興させるために関所を廃止したといえる」と記述しています。

永禄12年(1569年)4月20日付けの、曇華院(京都市)雑掌宛て信長朱印状には、「去年錯乱以来年貢不納之由、無是非候」 (昨年、世が乱れてから、年貢が納められていないと聞いているので、仕方ない)と書かれており、ここから、信長の上洛戦によって土地が荒れ、年貢がなかなか集まらなくなってしまっていたことがわかります。

ですから、信長としては、戦乱で荒れた土地の経済復興を図るために、関所の撤廃を実行したと考えられるのですね。

戦乱で各地に散った農民を呼び戻すのに、関所があっては戻りたくても戻れません。通行料が無くなることによって、人々は元の土地に戻りやすくなるのです。


2024年1月11日木曜日

信長は義昭の「御父」⁉~信長御感状御頂戴の事

 やるべきことを終えた信長は、京都に長居はせずに帰国の途に就きます。

まぁ、大軍を抱えていたので、食料や金銭的な面からも早く帰りたかったんでしょうね(;^_^A

しかし、義昭は信長に1・2日間ほど待ってほしい、と引きとめます。

その理由とは…。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇三通の御内書

能を終えた織田信長は、足利義昭に対し、美濃に帰国することを伝えます(「10月24日、御帰国の御暇仰せ上げらる」『信長公記』)。

『足利義昭入洛記』では、「23日に信長をめされ、観世大夫御能つかまつり、献々の後、御暇を申上候処に、天下の御用仰せつけらるべきとて、一両日はめしをかれ」とあり、能の直後に別れの挨拶をしたことになっています。これに対して、足利義昭は畿内に関することで頼みたいことがあると言って、数日間信長を引きとめています。

25日、信長は義昭の使者から御内書(将軍の出した書状)を受け取ります。

その内容について、『信長公記』は次のように記しています。

「25日に御感状。その御文言、

『今度、国々凶徒等、日を歴ず、時を移さず、悉く退治せしむるの条、武勇天下第一なり。当家の再興これに過ぐべからず。弥国家の安治、偏(ひとえ)に憑み入るの外、他無し。なお藤孝・惟政申すべきなり。

10月24日 御判 御父 織田弾正忠殿』

 御追加

『今度の大忠に依って、紋桐・引両筋遣わし侯。武功の力を受くべき祝儀なり。

10月24日 御判 御父 織田弾正忠殿』

と、なし下され、前代未聞の御面目、重畳書詞に尽し難し。」

信長が受け取った御内書は2通あり、

1つ目は、…三好三人衆たち逆臣を、短期間で討伐したその武勇は、天下第一である。将軍家の再興にあたって、信長以上に功績を挙げた者はいない。今後の治安維持について、信長を頼みにする他ない。という内容で、

2つ目は、今回の功績に対し、足利家の家紋である桐紋・ニ引両紋の使用の許可を与える、というものです。

足利家の家紋の使用の許可については、信長の前にも、三好長慶が永禄4年(1561年)に足利義輝から認められています。

これだけでも、信長以前に畿内を席巻していた三好氏と同格と認められるという十分な名誉なのですが、

それ以上に名誉であったのは、信長に対し「御父」・「殿」の字が使用されていることでした(◎_◎;)

まず「御父」ですが、信長と義昭の間には全く血縁関係はありません。それなのに、その信長を父とまで思っている、と言う厚遇を見せているのですから、驚きです(足利義昭は天文6年[1537年]生まれ、信長は天文3年[1534年]生まれなので、信長の方が一応3歳年長です)。

次に「殿」ですが、御内書では、将軍は相手に対して平仮名で「とのへ」と宛書きするのが普通だったのですが、ここでは漢字の「殿」を使用しており、こちらも信長を特別待遇で扱っていることがわかります。

このことについて、『足利季世記』は、…御父・殿の文字、どちらも「古今無双の面目(名誉)」であった、と記し、『総見記』には、…御内書には、「御父」の文言や、「殿」の文字が書かれていたが、これは「希有の事」(めったにない珍しいこと)であった、と書かれています。

しかし、「殿」については、足利氏の家紋の使用の許可を認められた三好長慶に対しても使われているため、こちらは前例があります(;^_^A

『総見記』には、信長がこの御内書を受け取った時の反応が次のように書かれています。

…(信長が恩賞のほとんどを断ったので)将軍家はこれでは信長の忠義を尽くした功績を証明するものが無いことを案じて、今までに並ぶものがない感状として、三通の御内書を書いて信長に与えた。そして、今日にも帰国の途に就いて、休息するとよい、と信長に伝えた。信長はお礼を申し上げて、次のように言った。「今回の戦争における勝利はまったく公方の御威光によるもので、少しも信長の手柄ではありません。御内緒の事は有り難いことで、家の名誉として頂戴し、帰国いたします。その他の恩賞は受け取りません。天下はまだ一つになっていません。私の分はいいですから、公方様に忠節を尽くす者が出たら、その者に恩賞をお与えになるべきです。御内書の内、一通は公方様が直々に書かれたものかと思われますが、これは信長のような者が受け取れるようなものではありません。もし愚かである私が受け取ったら、神仏の加護は尽き果ててしまうでしょう。」こうして、信長は三通の御内書のうち、将軍家御自筆の一通は返還して、他の二通を受け取り、清水寺に戻った。

3通⁉Σ( ̄□ ̄|||)

どうやら御内書はもう一通あったようです。

その御内書は、ありがたいことに『古今消息集』に残されています。

その内容は、

「三職の随一、勘解由小路家督存知せしむべく候、然る上は武衛に任じ訖(おわんぬ)。今度の忠恩尽くし難きに依って、此(かく)の如く候なり」

(今回の言い表すことのできない忠義に報いるために、三管領家の筆頭である斯波氏の家督を継ぐことを認め、左兵衛佐に任じる)

三管領家(斯波・畠山・細川)は、足利将軍家を支える三本柱であり、左兵衛佐(または督)は、その中の筆頭である斯波氏が代々得ていた官職でした(天皇を警固する役所として兵衛府がありましたが、これを中国では「武衛」と呼んでいたので、日本でも兵衛府の官職につく者を「武衛」と呼んだ。源頼朝も左兵衛佐であった)。

その中の斯波氏はすでに、信長によって1561年に尾張から追放されて事実上滅亡していましたが、足利義昭は信長に斯波氏を継がせることで、以前の体制を再構築しようとしていたのでしょう。

ちなみに、畠山氏の当主の畠山秋高は、すでに自身の元の名前の「義秋」の「秋」の字を与えられており、細川氏の当主の細川昭元の「昭」も義昭の「昭」をもらったものであり、足利義昭が三管領家の者を厚遇していたことがわかります。

しかし、信長はこれを断っているのですね(;^_^A

『総見記』には、…新公方は信長を左兵衛督[従五位上の官位]につけようとしたが、信長は自分は微賤の身であるし、左兵衛督に任じられるような大したこともしていない、と固く辞退した。新公方はそれでは仕方ないと言い、従五位下の官位である弾正忠に任じるにとどめた、と書かれています。

『重編応仁記』にも同様の話が載っているのですが、こちらは、「陪臣(家来の家来…つまり足利将軍家の家来である斯波氏の家来の織田氏、ということ)の身でこのような位を受けるのは良くない」と言って断っています。

これを旧体制に取り込まれるのを革新的な考えを持つ信長が嫌ったため、とする見方もありますが、秩序を維持することにこだわる保守的な考えを持つ信長が嫌がったため、とする考え方もあります(;^_^A

さて、信長は斯波氏の家督を継ぐことは拒否して、足利氏の家紋の使用だけを受けたわけですが、もう1つ得ているものがありました。

『足利季世記』には、次の話が載っています。

…今回三好三人衆方から奪った近江・山城・摂津・和泉・河内について、欲しい分だけ与えよう、と義昭は言ったが、信長はこれを辞退して、和泉の堺・近江の大津・草津に代官を置くことを希望し、これを許可された。

堺・大津・草津という経済の重要地の代官職を得た、と言う話は、信長の経済感覚の鋭さを示すものだ、とされてきた有名なエピソードですね。

堺については、永禄12年(1569年)に、今井宗久を堺の代官に任じた、という実例があるのですが、大津・草津についてはよくわかっていません。六角氏が駒井氏を天文2年(1533年)に大津奉行に任じ、その後、駒井氏が代々大津奉行(代官)や草津代官を務めてきたらしいですが…。駒井氏は豊臣秀吉の時に大津奉行・草津代官に任じられているので、織田信長も駒井氏を奉行や代官に任じていたのかもしれませんね(゜-゜)

まとめると、信長が今回の上洛で得たのは、①足利氏の家紋の使用許可、②堺・大津・草津の代官設置の許可、③南近江…の3つであり、管領・副将軍職・畿内五カ国・斯波氏の家督などを受け取らないなど、信長は論功行賞で欲張ることなく、かなり控え目に対応していたことがわかります。

さて、得るものは得た信長は、帰国の途に就くのですが、『足利義昭入洛記』に、…少々の人数を相残し、とあるように、すべての軍勢を京都から引き払ったわけではありませんでした。

『多聞院日記』11月22日条には、…京都には尾張の佐久間(信盛)・村井(貞勝)・丹羽五郎左衛門(長秀)・明印(良政)・木下藤吉(秀吉)と5000ほどの兵が残っている。…とありますので、残されたのは彼らだったのでしょう。

その後信長は、『信長公記』によれば、26日は、近江の守山、27日は、柏原上(成)菩提院に泊まり、28日に、美濃の岐阜に凱旋しています。

太田牛一は、『信長公記』巻一を、「千秋万歳珍重々々」(非常にめでたいめでたい)という言葉で締めていますが、『総見記』にも、…多くの者がこれを出迎え、今回の勝利・名誉について、祝いの言葉を申し上げた。…とあるように、大変な祝賀ムードであったようです。

『足利義昭入洛記』には、「天下早速静謐、偏に信長武功名誉先代未聞也と、洛中貴賤感ぜずという事なし」(畿内を短期間で落ち着かせたのは、ただ信長の武功によるもので、その栄誉は前代未聞のものであると、京都の者たちで感じない者はいなかった)と書かれていますが、これらの文章からは、信長がもう1つの、目には見えない大きなものを得ていたことがわかります。

将軍家を再興させたという名誉、そして全国的な名声です。

1年前まで、京都からすれば地方の一武将に過ぎなかった織田信長は、たった1年…というか上洛戦を始めたのが9月7日で、[大和を除き]畿内を平定したのが10月2日なので、たった1ヶ月で、信長に対する世間の評価は大きく変貌することになったのです。


2024年1月8日月曜日

「足利義昭、征夷大将軍となる~新公方御隑陣将軍宣下の事」の2ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

足利義昭、征夷大将軍となる~新公方御隑陣将軍宣下の事の2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2024年1月4日木曜日

足利義昭、征夷大将軍となる~新公方御隑陣将軍宣下の事

 三好三人衆たちを畿内から追い払うことに成功した織田信長。

足利義昭が将軍となるための障害は無くなりました。

いよいよ、足利義昭が4年越しの宿願を果たす時が来たのです…!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

(※マンガの3ページ目は、都合により公開いたしません<(_ _)>)

〇足利義昭・織田信長、入京する

三好三人衆などが畿内から掃討されると、宮中において、足利義昭に対し将軍宣下を行うことが決定されます。義昭は宣下を受けるために宮中に参内するにあたり、特別な服装が必要でしたので、それを用意しなくてはいけませんでした。

その時の様子が『言継卿記』に載っていますので、紹介したいと思います。

10月3日、権中納言である飛鳥井雅教に呼ばれ、足利義昭が参内・将軍宣下となった時に備えて相談を受ける。参内の時の服装について、山科言継は烏帽子・直垂・大口袴・扇、冬の場合はこれに加えて袍(上着)・指貫の袴・腰巻であると伝える。

10月4日、山科言継、信長の右筆である明印良政に面会を申し出るが、果たせず。飛鳥井雅教、芥川城に出向き、参内・将軍宣下の事について話をする。

10月5日、飛鳥井雅教が芥川城から帰還。山科言継、飛鳥井から、服装の事について村井貞勝に伝えたことを聞く。

10月6日、義昭・信長からの使者として、正実坊がやって来て、参内の服装の用意を要請することを記す、飯河山城守信堅・三淵大和守藤英からの書状を山科言継に渡す。

10月7日、山科言継、参内時の服装について、足利義輝の時の服装を参考にすることを伝え、正実坊から下袴の絹1疋(2反。22~24m)・大帷(おおかたびら。下着)の布3丈8尺(38尺分。11.5m)を受け取る。

10月8日、山科言継、陽春院に行き、足利義輝の服装を見る。袍の丈は4尺5寸(136.8㎝)、下袴の丈は3尺5寸(106.1㎝)であった。

正実坊、改めて絹2疋(44~48m)を送る。袍・指貫の袴の裏地用。

10月9日、正実坊に使用した絹の残りを返す。

10月10日、村井貞勝家臣、絹織物の職人と共に来訪し、袍・指貫・直垂などのことについて尋ねる。

10月11日、山科言継、長橋局から服を染めるための染料を受け取る。

そしてこの後、足利義昭と織田信長が摂津の芥川城から京都に戻ることになります。

『信長公記』には帰洛(京都に戻る)の様子が次のように記されています。

「14日、芥川より公方様御帰洛。六条本国寺に御座なされ、天下一同に喜悦の眉を開き訖(おわんぬ)。信長も御安堵の思をなされ、当手の勢衆召し列れられ、直(すぐ)に清水へ御出

(14日、芥川城から公方様[足利義昭]が京に戻り、本国寺[日蓮宗の寺で、1685年に本寺と改めた)に移った。天下の者たちは非常に喜んだ。信長もこの様子を見て一安心し、織田の軍勢を引き連れて清水寺に入った)

一方で、『足利義昭入洛記』には、「芥川より15日に、信長、上意様を御供有て御帰洛すすめ申さる」とあり、「15日」に京都に戻った、と書かれています。

「14日」とするのは『信長公記』『総見記』、

「15日」とするのは『足利義昭入洛記』『信長記』。

果たして「14日」と「15日」、どちらが正しいのか…??

一番信頼が置けるのは『言継卿記』を見ると、…今日武家(足利義昭)が芥川から上洛し、六条本国寺に移るという。という内容が、10月14日条に書かれていますので、「14日」とするのが正しいのでしょうね(;^_^A

信長はあらかじめ本国寺に義昭を入れる準備を進めていたようで、

10月11日付の、堀秀政に対し、本国寺の周囲に土塁を築かせる普請を油断なく執り行うことを命じる書状が残っています(『本圀寺文書』)。

また、『言継卿記』の10月14日条には、足利義昭が本国寺に入った後、烏丸光康・光宣父子、日野輝資(1555~1623年)などが出迎えに赴き、未の刻(午後2時頃)に戻った、とも書かれています。ちなみにこの日の天気は晴れでした。

この時、信長はまだ入京せず(足利義昭もこの時入京はしていない。本国寺は下京の郊外にあるため)、京都の外にある清水寺に入りましたが、その理由として、『総見記』は、…信長は兵が乱妨を働くことを心配し、わざと京の外の東山清水寺に陣を構えた。…と書いています。

体面を気にする信長は、自軍の兵が天下の中心である京都で不法行為を働くことが無いようにだいぶ気を遣っていたようで、『信長公記』には次の話が載っています。

「諸勢洛中へ入り侯ては、下々届かざる族もこれあるべき哉の御思慮を加えられ、警固を洛中洛外へ仰せ付けられ、猥(みだりがましき)儀、これ無し」

(軍勢を京中に入れた時に、命令が行き届かない者が出てくることを心配し、不法行為が起きないように京の内外で警戒を強めさせたため、不法行為は起こす者はなかった)

また、『信長記』には、…信長は清水寺に入ったが、京都内外において、家来の者で乱暴な行為を行うものがあれば、一銭ぎり(死刑)と定め、柴田勝家・坂井政尚・森可成・蜂屋頼隆に命じて次の内容の制札を立てさせた。

「禁制 

一、我が軍勢が乱妨(略奪行為)・狼藉(乱暴なふるまい)を働くこと。

一、むやみやたらに山林の竹や木を伐採すること。

一、押買(無理やり安く買うこと)・押売(無理に売りつけること)・追立夫(農民を無理やり人夫にかりだすこと)。

以上定めたことに違反した者は厳しく処罰する。永禄11年(1568年)10月12日」

また、制札を立てるだけではなく、観察使・検見などに命じて厳しく取り締まらせたので、京都内外は落ち着き、罪を犯す者は一人もいなかった。はじめは織田軍が上洛する際、粗暴な田舎者がやってきて、どのようなひどい目に遭うかわからない、と京の人々は恐れていたが、織田軍が怖がられていたのは、ただ敵対する者たちが恐れる様子を、子どもや下々の者たちが見たり聞いたりして、怖がっていただけであって、実際織田軍を目にすると、予想外の者がやってきたようだ、と安堵し、みな自分の家に戻り、織田殿万歳万歳万々歳と称える声が満ち満ちた。…という話が載っています。

以前に紹介したように、『信長記』には同様の話が載っています。前回は、9月末に、京都近くに着陣したものの、入京はしませんでした。今回は、実際に織田信長が軍勢を率いて入京したので、京都の人々も、「京都の側に織田軍がやって来た時は何事もなかったが、京都の中に入ってくるとなると、中には不法行為を働く兵も出てくるのではないか」と心配した、ということなのでしょう。

10月12日に信長が京に禁制を出したことを証明する一次史料は残っていないため、この『信長記』の記述が正しいのかどうかはわかりませんが…(;^_^A

翌日(15日)、義昭にあいさつするため、「聖護院新円主(道澄)・左大将(今出川[菊亭]春季)・予(山科言継)・庭田(重保)・葉室(頼房)・若王子(増鎮?)・三条児(公仲)・倉部(山科言経[言継の子])・水無瀬(兼成)・理性院・万松軒」など数十人が本国寺を訪問しました。一色藤長・細川藤孝がこれを取り次ぎ、彼らは義昭と面会を果たします。「予・葉室・倉部」などが太刀を献上しました。続いて「左大将・予・庭田・葉室・倉部」などが織田信長のいる清水寺に赴きますが、混雑していて会うことができず、信長の右筆である明印良政に言伝をして帰っています。

そして16日、いよいよ織田信長と足利義昭は入京することになります🔥

16日のことについて、『言継卿記』は、…巳の刻(午前10時頃)、武家(足利義昭)は御供7騎とともに「細川亭」に移ったという。織田弾正忠は「古津所」に移った。「猛勢」(勢いが盛ん)であるという。…と記しています。

『信長公記』に「細川殿屋形御座として信長供奉なされ」とあるので、義昭の「御供」のうちの1人は織田信長であったのでしょう。

義昭が移った「細川亭」「細川殿屋形」について、『足利季世記』は、…公方様は入京し、故細川氏綱の旧宅に移った。…と記しています。

細川氏綱は以前にも紹介しましたが、三好長慶と手を組んで、対抗する細川晴元を破り、細川氏の宗家である京兆家の当主となった人物でした。

細川氏綱が1564年に亡くなった後は、養子の昭元(晴元の子)が跡を継いでいましたが、織田軍が上洛すると、三好三人衆たちと共に四国に逃れていました。こういう経緯で空き家になっていた細川氏の館に足利義昭は移ったわけですね。

信長は清水寺から「古津所」に移りましたが、この「古津所」は、細川家臣の古津氏の館とも、三好義興(三好長慶の子。1563年に既に死亡)の館とも言われています。

また、『信長公記』にはこの時のものとして、次の話が記されています。

「御殿において御太刀・御馬御進上。忝くも御前へ信長召し出だされ、三献の上、公儀御酌にて御盃并に御剣御拝領」

(細川の館を足利義昭の居所とし、その場所で太刀と馬を献上した。この時、かたじけないことに、信長は義昭の側に召し出され、三献[吸い物と肴の膳を三度出し、その度に大・中・小の大きさの杯で酒を勧める]でもてなされたうえに、義昭が自ら注いだ盃をいただき、剣までいただいた)

信長が義昭から手厚い待遇を受けていたことがわかりますね😲

17日、『言継卿記』によると、山科言継は再び信長に会いに行きましたが、この時も多忙のため面会できず、続いて義昭のところに訪れたものの、こちらも「御礼申すの輩数多、僧俗数を知らず」という状況で対面することができませんでした(◎_◎;)

また、この日の夕方、正実坊が、袍・腰巻・指貫が完成したと言って持ってきています。

〇将軍宣下と能張行

そして18日、義昭に対してついに将軍宣下が行われます。

これは義昭が参内して行われたものではありません。なぜなら、義昭はまだ参内(内裏に入る事)の許可が出ていないからです(;^_^A

そこで、この宣下では、義昭を征夷大将軍・参議・左近中将・従四位下に任じるだけではなく、昇殿…参内の許可も出されています。

また、この日は義昭を将軍などに任じることが決定し、その旨を書状にしたためただけで、この書状はまだ義昭に送られていません。

この日の巳の刻(午前10時頃)、山科言継は宝鏡寺殿でついに織田信長に挨拶を果たしているのですが、この際に将軍宣下の情報を信長に伝えていたことでしょう。

義昭に対して宣下が行われたのは、19日の事で、中原師廉・壬生朝芳が宣旨を持って義昭のもとを訪れています

20日には義昭の直垂・大口袴が完成し、正実坊はこれを山科言継に送っています。

22日、ついに足利義昭は参内を果たします。天気も折良く晴れでした。

参内する義昭に御供したのは細川藤賢(細川氏の分家である典厩家の出身。永禄の変以降、一貫して義昭方に属した。1517~1590年)・上野佐渡守(不詳)・一色藤長・細川藤孝・三淵藤英・上野中務大輔(清信?秀政? 幕府の奉公衆の1人)・和田惟政などでした(『言継卿記』)。

この時のことについて、諸書は次のように伝えています。

『信長公記』…「10月22日御参内。職掌の御出立ち儀式相調え、征夷将軍に備え奉り、城都御安座。信長日域無双の御名誉、末代の御面目、後胤の亀競に備えらるべきものなり」(10月22日に義昭は正式の服装で身を整え、征夷大将軍の宣下を受けた。これで京都は安らかに治まった。信長が義昭を将軍につけ、天下を落ち着かせたことは、末代まで伝えられ、手本とされるべき天下無双の名誉であった

『細川両家記』…10月22日に、一乗院殿は参内した。名前は義秋というそうである。この時、伊丹親興は警固役となり、池田勝正は道中の警備を任せられた。

『足利季世記』…10月22日、公方様は参内して征夷大将軍に任じられた。伊丹親興は警固を担当し、池田勝正は道中の警備を任せられた。

『総見記』…21日、新公方は参内し、征夷大将軍・左馬頭に任じられた。この際、伊丹親興は警固を務め、池田勝正は道中の警備を任せられた。

22日に参内した理由が征夷大将軍の宣下を受けるためだということがわかりますね(゜-゜)

織田信長について書いている本で、18日に義昭は参内して将軍宣下を受けた、と書いてあるものが結構あるのですが、これは誤りでしょう(;^_^A

(『総見記』の21日という日付、左馬頭に任じられたというのはどちらも誤り)

23日、参内を終えた足利義昭は、将軍宣下の祝いと、上洛戦で活躍した者たちへのねぎらいを兼ねて、能を上演することにします。

このことは、『言継卿記』10月23日条に、…今日、織田弾正忠は武家(足利義昭)に召し出され、そこで能が5番演じられたという。能の大夫は観世であったという。…と書かれているので、実際にあった事はほぼ確実です(『足利義昭入洛記』にも、…23日に信長を召した上で、観世大夫に能を演じさせた、とある)。

足利義昭が主催した能について、『信長公記』は次のように詳しく記しています。

「今度粉骨の面々見物仕るべきの旨上意にて、観世太夫に御能を仰せ付けらる。御能組、脇弓八幡、御書立13番なり。信長御書立御覧じ、未だ隣国の御望みもこれある事に侯間、弓矢納りたる処御存分無き由侯て、5番につづめらる

(義昭は、今回の上洛にあたって活躍した面々を慰労するため、観世太夫に能を上演することを命じた。能の演目は、弓八幡など13番あった。信長は演目表を見て、「まだ畿内周辺が不穏で、戦いが終わったわけでもないのに、13番もするなど考えられない」、と言って13番あったのを5番に短くした。)

能は江戸時代以前は猿楽とも呼ばれていたそうですが、大和国(奈良県)で有名であったのが大和四座で、外山座・坂戸座・円満井座・結崎座がありました。

結崎座の祖があの観阿弥(1333~1384年)で、2代目がその子の世阿弥(1363?~1443年)であり、それまで物まねが主であった猿楽を芸術性の高いものに大成させました。

3代目が世阿弥の弟の音阿弥(1398~1467年)で、それから続いて8代目が、今回の話に出てくる観世(左近)太夫で、名を元尚(?~1576年)といいます。

足利義昭はこの観世太夫に能を行わせたわけですが、この能において、信長は4つの気になる事を行っています。

①本来は13番行う予定であった能を、5番に減らした。

この理由について、『信長公記』は先述したように「まだ畿内周辺が不穏で、戦いが終わったわけでもないのに、13番もするなど考えられない」とし、

『足利季世記』は、「まだ諸国が落ち着いたわけでもないのにゆったりとくつろぐわけにはいかない」と記し、

『総見記』は、「まだ諸国で戦争は終わっておらず、注意しなければならない時期に、このようにゆったりとくつろいでいてはいけない、少しでも早く能を終えさせて、京都にいる武士たちを帰国させて休息させるべきである」と考えたためだ、としています。

また、本来は上演される予定であった「弓八幡」が削られていることについて、源氏の氏神である八幡神を扱う「弓八幡」を、平氏だと自称する信長が快く思わなかったためだ、とする説もありますが、

「弓八幡」は、後宇多天皇(1267~1324年)の時代、世の中が平和になったことを祝って、(武器が必要なくなったので)弓を八幡宮に納めに行く、という内容の話であり、

信長としては、先に述べた内容と同様に、世の中が収まっていないのに「弓八幡」だと⁉何を考えているんだ⁉…という思いで削ったにすぎないでしょう(;^_^A

ちなみに『足利季世記』では演目は「13番」ではなく「10番」であり、2番目の能は「八島」ではなくて、「弓八幡」が上演されています(◎_◎;)

(※今回の話の解説の続きは、都合により公開いたしません<(_ _)>)

2024年1月2日火曜日

献金する信長、献金させる信長~五畿内退治所々の合戦御仕置の事⑤

 10月2日、池田城を攻略した後、信長はいよいよ上洛を決意します(信長・義昭は京都に接近したものの、まだ京都内部には入っていない)。

信長・義昭にとって、晴れの舞台がやってこようとしていました…!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇献金する信長、献金させる信長

織田信長は芥川在城中の10月8日に朝廷に献金を行っています。

『言継卿記』には、…織田信長、朝廷のお金が不足していることを聞き、1万疋(=100貫。現在の1200万円)をこの日の朝に献上する…とあります。

献金と言えば、信長が美濃を平定した際に、朝廷と次のようなやり取りがありました。

永禄10年(1567年)年11月9日に、信長のもとに正親町天皇からの綸旨が下されてきたのですが、そこには、

「この度国々本意に属す由、尤も武勇の長上、天道の感応、古今無双の名将、いよいよ勝に乗ぜらるべきの条は勿論たり、なかんずく両国御料所且つ御目録を出さるるの条、厳重に申し付けらるれば、神妙たるべきの旨、綸命かくの如し。これを悉(つく)せ、以て状す」

(美濃を平定したことは、その優れた武勇と、天道に思いが通じたことによるもので、古今無双の名将と言うべきである。この勢いのままに物事を進めていってほしいが、特に、尾張・美濃の御料所[天皇の直轄地]のことと、目録の内容の事を、抜かりなく実行してくれると、うれしく思う)

…とありました。

この中にある「目録の内容」とは何かというと、万里小路惟房の添え状にその内容が記されていて、そこには、誠仁親王の元服費・御所(内裏)の修理費…と書かれていました。

天皇の土地を回復して、そこから上がる税金を送ってほしい、親王の元服にかかる費用、御所の修理費用を出してほしい…と言っているわけですが、

要するに金が無いのですね(;^_^A

12月5日付の熱田神宮所蔵文書によると、信長は綸旨の内容を承知していたことがわかります。

信長からの献金があったためか、11月22日に御所の修理が行われています(『御湯殿上日記』)。

献金と言えば、信長の父の信秀も御所修理費用として4000貫(1000貫?)を献上した、ということを以前に触れましたね。

また、献金を行なったのは織田氏だけではなく、徳川家康・水野信元も行っていることが『言継卿記』からわかります。

11月10日条には、水野信元が先の「禁裏御法事」の際に2千疋(=20貫。現在の240万円)を献じたこと、徳川家康が9月の「禁裏御法事」の際に2万疋(=200貫。現在の2400万円)を献じたことが記されています。

さて、信長は朝廷に献金しながらも、一方では畿内の国々に対し献金を命じています(◎_◎;)

おそらく①幕府・朝廷関係で使うお金を得るため、②従うかどうかを確認するため、という2つの意味があったのでしょう。

まず大和国に対して命じた内容について見てみましょう。

10月6日には織田家臣の志水悪兵衛尉長次・奥村平六左衛門尉秀正・跡辺兵左衛門尉秀次・織田修理亮吉清の4名が、大和国法隆寺に対し、「家銭」として「銀子150枚」を「今日中」に納めるように命じています(タイミング的には、松永勢が筒井城を攻撃している時)(『法隆寺文書』)。

『多聞院日記』10月23日条には、…この度、上総(信長)は、奈良中に防御制札(乱妨・狼藉を防ぐために出される制札)を出す代わりに、「判銭」(保護をしてもらう側が納めるお金)を納めるように要求したが、その額があまりに「過分」であった、やめてほしい。およそ千貫あまりも命じられた。これからどうなってしまうのだろうか…と書かれています。

以前にも紹介しましたが、織田軍は『多聞院日記』10月14日条によれば、大和各地で放火を働いています。翌日にも各地で田畑の作物を無理やり刈り取る「苅田」を行っています。自分たちでやっておきながら、焼かれたくなければ、作物を刈り取られたくなければ金を出せ、というのは暴〇団そのものですね(;^_^A

10月29日条には、尾張衆の制札銭の内容が判明し、上は3貫200文、下は50文と、それぞれの経済状態に応じて銭を納めるようにと命令された、やめてほしいやめてほしい…と書かれています。

11月27日、法隆寺は何とか御金を工面して、課されたお金の一部を松永久秀に納めますが、松永家臣の竹内秀勝は、早く残りも納めること、1日でも遅れたら、そちらの寺が不利益を受けることになる、と返しています(『法隆寺文書』)。ヤ〇ザ…(◎_◎;)

法隆寺はその後、12月9日に600貫文を支払っています。これで完済したのでしょうか…。

続いて、大和国以外の場合について見てみましょう。

『細川両家記』などには、石山本願寺や堺に対して献金を命じたことが記されています。

石山本願寺について、『細川両家記』は、…裕福な寺には礼銭(幕府の祝い事の際に献上する祝い金)が課された。大坂(石山本願寺)は5千貫を出したそうである。…と記し、『足利季世記』には、…今回織田軍が摂津を平定する際に、国中で乱妨(略奪行為)が横行し、由緒のある建物なども破壊され、寺は宝物を奪い取られ、寺社で裕福なところに対しては夫銭が課されたが、このようなことは前代未聞であった。石山[今の大坂]本願寺からは5千貫を課して徴収した。…とあり、『総見記』は、…畿内で繁盛している場所・寺社に対して、公方家再興のための軍用金を差し出すように命じた。摂津の石山本願寺は一向宗の総本山でとても豊かであったので、五千貫を差し出すように命じた。住職の光佐上人(顕如)は公方家再興の軍用金であれば、渋るわけにはいかないと、すぐに五千貫を差し出した。後の大坂という所はこの石山の事である。…と書いています。

石山本願寺は抵抗することなく、5千貫(現在の6億円)を差し出したようです。この頃の石山本願寺は従順であったようで、翌年1月11日には、信長に新年の慶賀のために金の太刀1振・馬1頭を贈っています(『顕如上人御書札案留』)。

一方で、拒絶反応を示したのが摂津・和泉国(大阪府南西部)にまたがる都市・堺でした。

堺の地名は、『堺市史』に「摂津・和泉・河内三国の堺であった事から、その地名を生じた」とあるように、摂津・河内・和泉三国の境目にあった事に由来しているようです。

堺の地名の史料上の所見は、藤原定頼(995~1045年)の書いた『定頼集』中にある、「9月ばかり さか井と云所に、しほゆあみ におはしけるに…」であるようです(文中の「しほゆあみ」は「潮湯あみ」のことで、『堺市史』によれば、「海水を沸して温浴するもの」であったそうです)。

この頃の堺はまだ「漁家の点綴(てんてい。散らばって存在していること)される位に過ぎ」(『堺市史』)ず、まだ都市として発達はしていませんでした。

堺は次第に発展し、鎌倉時代末期の正中2年(1325年)には、最勝光院(後白河天皇が1171年に立てた寺院)の荘園、「堺荘」となります(『東寺百合文書』)。摂津側にある堺荘は「北荘」、和泉側にある堺荘は「南荘」と呼ばれたようです。

この堺が港湾都市として発達してくるのは室町時代に入ってからでした。

応永6年(1399年)、応永の乱を起こした大内義弘が堺に上陸し、堺に城を築いて籠城したことや、

応永17年(1410年)、薩摩国(鹿児島県西部)の守護、島津氏が上京する際に、和泉堺(南荘)に上陸、帰る時も堺を利用している(『島津国史』)ことからも、そのことがうかがえます。

堺が『総見記』に「大福祐の所」と書かれているように、大変に豊かな町になる契機となったのは、文明8年(1476年)、日明貿易の拠点が兵庫港から堺に移ったことでした。

それまで使用されていた兵庫港は応仁の乱により荒廃したため、堺が貿易港として利用されることになったのですね。

その後、16世紀中ごろに堺は三好長慶の勢力下に入りますが、三好長慶の堺に対する扱いは丁重なものがありました。何しろ、長慶は堺に父を弔うための菩提寺である南宗寺を建てているのです。『堺市史』にも、「由来堺は三好氏と関係深く…」とあります。

そのため、三好三人衆方が織田信長に敗れて四国に逃げ去っても、その復帰を信じて、織田信長の献金要求に従うことを潔しとしない者が多かったのです(◎_◎;)

この経緯は、諸書には次のように書かれています。

『細川両家記』堺にも2万貫の矢銭(臨時の軍用金)が課されたが、堺はこれを承知せず、櫓をたて、堀を掘り、各所の入り口に樋を埋める(堀に竹槍を埋めたということか??)などしたため、矢銭の件は延期になったという。

『足利季世記』…堺には2万貫をかけて使いを送ったが、これに対し堺は承知しかねると返事したところ、それならば攻め取るまでだ、と返答があった。堺はこれに対して能登屋を大将として36人の会合衆の面々が団結し、櫓を立て、堀を掘り、北の各所の入り口には菱を埋めて防戦準備を整えたところ、使者は今は放っておくと言って帰っていった。

『総見記』…和泉の堺には、大変に豊かなところであったので、2万貫の軍用金を課した。堺は36人の庄官によって治められていたが、この者たちがこれを受け入れようとしなかったので、堺を攻めつぶそうとしたところ、堺は36人の内の能登屋・臙脂屋を大将として櫓を作り、堀を掘り、北口には菱をまいて防戦の用意をして待ち構えた。信長は大事の前の小事であるから、今は放置しよう、と言って堺を攻めることを延期した。

要求された2万貫というのは、石山本願寺に要求したものの4倍にあたり、現在で言うと24億円もの大金になります(◎_◎;)

それを支払えるだけの財力があると見なされていたのでしょうね。

堺は要求を拒否して、防衛態勢を整えていきますが、『細川両家記』は町の入り口に樋を埋めた、とあるのですが、『足利季世記』・『総見記』は菱を埋めた、としており、食い違っています。

『堺市史』には、「会合衆は協力して櫓を築き、濠(ほり)を深くし、北方の諸口には菱を蒔(ま)いて兵備を厳にした」とあり、後者の説を採用していますね(゜-゜)

『天王寺屋会記(宗及茶湯日記 宗及他会記)』の永禄12年の記録には、「去年10月比より堀をほり矢倉をあげ事の外用意共いたし候」と書かれており、

ここからは、①防衛態勢を整えたのが10月ごろであった事、②防衛のために堀をほり、櫓を築いた事がわかります。

樋を埋めた・菱をまいたと議論のある所が書かれていないのですが、それ以外は『細川両家記』などの史料の内容と一致します。

いつ書かれた物かわからないのですが、おそらくこの頃に書かれた書状があり、それには、

織田上総介近日馳上り候、その聞候。そこもと御同心においては、双方示し合はせ領堺に出向き、これを防ぐべく候」

…と書かれています。

これは、堺の会合衆が、摂津国の平野荘の年寄(指導者)たちに宛てて送った物で、織田信長が近日中に攻めてくるので、平野荘の者たちも心を合わせて堺に赴き、織田軍の攻撃を共に防ごう、と呼びかけています。

結局、信長は堺に献金を強制したり、兵を出したりすることはしませんでした。

『総見記』には、…信長は大事の前の小事であるから、今は放置しよう、と言って堺を攻めることを延期した、と書かれていますが、堺に出兵し、助けに来た三好と戦争になることを避け、足利義昭の将軍宣下を優先した、ということなのでしょう。

三好勢は織田軍と本格的にぶつかることは無く、四国に撤退していったため、兵力は温存されていましたから、四国に逃げ込んだ三好は、まだ天下(畿内)の不安定要素となっており、堺の人々はまだ情勢は流動的で、三好の天下に戻ることもあると考えていました。

信長は畿内の平定(天下布武)のためにも、四国の三好勢を何とかして本州に引き込み、野戦で破る必要があったのです…!


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