織田信長は上洛後、有名な関所撤廃の政策を実施しています。
そこで、今回は、①関所とは何の目的で作られたのか、②信長はなぜ関所を撤廃したのか、…という事について見ていこうと思います!
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇乱立する関所
古代の関所といえば有名なのが、伊勢国の鈴鹿の関・美濃国の不破の関・近江国の逢坂の関(逢坂の関以前には越前に愛発の関があり、9世紀初頭に消滅した)ですね。
この関所が設けられた理由について、『続日本紀』は「非常に備う」ためであった、と述べています。
非常事態と言えば、謀反が挙げられます。
有名なのが藤原仲麻呂の乱(764年)で、この時、鈴鹿関・不破関・愛発関が封鎖され、藤原仲麻呂の逃走を防いでいます。
しかし、789年に桓武天皇は、関所は交通の便を失わせ、人々の往来を滞らせるもので、人々の憂いのもとになっている、これは改めなければならない、と言って鈴鹿・不破・愛発の三関を廃止しています。
古代において既に関所は交通の便を考えて廃止された過去があったのですね(゜-゜)
しかし、桓武天皇の死後、三関は復活し、810年の薬子の変の際には封鎖が実施されています(この時には愛発の関は使用されていない)。
この頃の関所は治安を守るためのものであったのですが、
次第に、通行料をとるための関所が登場してくるようになります。
多く設置されたのは港や河川で、船が通過する際に通行料をとっていました。
これに対し、鎌倉幕府は何度も河川に関を設けることを禁止する命令を出しています。
例えば1262年には、「一、河手(河川の関所で通行料を取ること)の事 …これを停止すべし」と命じています。
何度も、という事からわかるように、禁止令が出されても、しばらくすると関はすぐに復活していました。いたちごっこになっていたのですね(◎_◎;)
後醍醐天皇も建武の新政の際に、関所は「商売往来の弊、年貢運送の煩」となっているから、大津・楠葉以外の関を禁止する、という命令を出しています。
その後、室町幕府ができた後、足利尊氏が関の禁止を命じ、関の禁止を実行しない場合、守護は解任する、という厳しい内容の法令を出しています。
しかし、室町幕府後半になると、禁止令は有名無実となり、また関所は増えだしていきます。
京都でいうと、その出入り口に関所が設けられたのですが、その後、なんと京都内部にも関所ができたので、町の中を行き来するのも面倒な事態に発展していきます(;^_^A
『大乗院寺社雑事記』には、「一条九条の間難儀」(一条通りから九条通りに行くだけでも大変だ)とその様子が書かれています。
1462年には、淀川近辺だけで380もの関所があったと言いますから、ハンパないですね(◎_◎;)
他にも、伊勢神宮への参道である桑名~日永間に関所が60あり、1つ通るごとに1文ずつ取られたそうです。
1488年、将軍の足利義政はこれを咎めましたが、北畠氏は、「国司は収入が少ないから、関銭で収入を補っているのだ」と言って将軍の言うことに耳を貸しませんでした(;'∀')
北畠氏がいう事を聞かなかったのには、実はもっともな理由があり、
関所を取り締まるべき幕府が関所を設けてせっせと蓄財に励んでいたのですね💦
『大乗院寺社雑事記』には、その様子が次のように書かれています。
文明12年(1480年)9月16日条
…京都七口(京都の入り口)に関が設けられて、京都へ行くのがまったくどうしようもなくなってしまったので、住民たちがこれについて訴えるために蜂起したという。この関は、内裏を修理する費用を手に入れるためだといって設けられ、莫大な通行料を得ているが、実際は内裏修理には使用されず、すべて御台(将軍の妻。日野富子)の物になっているという。まったく人々にとって「迷惑珍事」(迷惑で、困った)関である。
10月23日条
…京都七口に新たに作られた関は、ことごとく蜂起した住民たちによって破壊されたという。「珍重々々」(めでたいめでたい)。内裏修理のためだと言って作られたが、通行料は御台の物になってしまっていたという。
文明13年(1481年)1月11日条
…京都の七口にまた御台が関を設けようとしたが、農民たちが蜂起の話し合いのために集まったのを聞き、設けられずにいるという。
だいぶがめつかったようですね(-_-;)
幕府の関は通行料を高くとりすぎて長続きしなかったようですが、幕府以外の関は低料金で親切(?)であったため農民の攻撃を免れ、その後も京都近くには新たに関がどんどん作られていったようで、『大乗院寺社雑事記』文明17年(1485年)7月11日条にはこの有り様について「希代不思議事也」と記されています。
〇信長による関所撤廃政策
戦国時代になると、関の管理者は寺社から戦国大名の手に移り、戦国大名たちは関を収入源の1つとしました。
恩賞として関を与えている戦国大名も見られます(◎_◎;)
(例えば武田勝頼は、木曽義昌に、美濃を攻略した際には関千貫文を与える約束をしている)
戦国大名にとって関は重要な存在であったことがわかりますね(゜-゜)
ですから、関を撤廃することになかなか踏み切ることができなかったのは当然でしょう。
戦国大名の中には、関を一部撤廃したり(例えば武田信玄は娘の安産を願って一部の関を撤廃している)、特権的に関の通行の自由を認めたりする者もいましたが、全面的に撤廃しようとする戦国大名はいませんでした。
(全面的までとは言わないが、関所撤廃の範囲が大きかった大名として大内義隆がいる。義隆は天文6年[1537年]頃、筑前一国の関所を撤廃している。筑前を制圧した直後なので、経済復興のための時限的なものであった可能性もあるが)
その中で、領国内の関所の全面撤廃に踏み切ったのが織田信長でした。
『信長公記』には、細川殿での能の鑑賞後のタイミングで、関所撤廃についての記述があります。
「其の後、且(かつう)は天下御為、且は往還旅人御燐愍の儀を思し食され、御分国中に数多これある諸関諸役上げさせられ、都鄙の貴賎、一同に忝しと拝し奉り、満足仕り侯訖(おわんぬ)」
(1つは天下のため、1つは旅人を憐れんだため、信長は領国中にある関所を停止させたので、人々は皆ありがたいことだと思い、不満が無くなったという)
信長の関所撤廃について、『信長公記』には他にも、
・永禄12年(1569年)10月4日頃 伊勢国平定後
「当国の諸関、取分け往還旅人の悩みたる間、末代において御免除の上、向後関銭召し置くべからずの旨、固く仰せ付けらる。」
(伊勢国の関所は、旅人たちの悩みの種になっていたので、信長は、今後永久に停止し、関銭を取ってはならないと命令した)
・天正3年(1575年)9月 越前国平定後
「一、分国いずれも諸関停止の上は、当国も同前たるべき事」
(信長の領国では関所を停止しているのだから、越前も当然そうする事)
・天正10年(1582年)3月 甲斐・信濃平定後
「一、関役所、同駒口、取るべからざるの事」
(甲斐・信濃では関所を停止し、運送業からも税を取ることがない事)
…という、合計4つの記述があります。
小瀬甫庵の『信長記』は、伊勢平定後に初めて関所停止の場面があり、
そこには、
…伊勢国を平定した信長は、家臣を集めて次のように言った。「伊勢国の関所をことごとく停止しようと思っているのだが、どうか。行き来をする者たちは費用がかさんでいるし、そもそも行き来するものの大半は伊勢神宮に参ろうとしている者たちである。人々の心を安らかにすることは、国を治める者が楽しみにすることである。物事をするときに、自分のため、家のためにそれをするならば、長く世を治めることはできない。国のため、人々のためにそれをするならば、人に施す恵みが限りなく伝わって、長く家は栄えるという。上の者が下の者をかわいがって育てれば、下の者もまた上の者を父母のように思おう。それなのに、凡庸な君主は下の者からしぼり取って私腹を肥やせばそれでよいと思っている。その者は知らないのだ、そのことがわが身を滅ぼすことになる事を。人々が庸主に苦しめられているのを、私はいつも憂えている。私が困難に耐え、昼夜を問わず外に出て働いているのは、暴虐なものを討ち、人々を安心させようと思っているからにほかならぬ」これを聞いた家臣たちは感じ入り、「昔、中国の殷の湯王が夏の桀王を滅ぼし、周の武王が殷の紂王を討ったのも、このためであったのでしょう」と言った。これを伝え聞いた人々は、天下をうまく治められるものは、信長殿しかおらぬ、とささやきあったという。11月11日に上京した信長は、「今回伊勢国を平定し、万民をかわいがり育てるために、関を停止させ、人々が行き来する際に煩いが無くなるように命令いたしました」、と足利義昭に伝えたところ、義昭は非常に感じ入って、国光の脇差を信長に与えた。
…と(実際にあったかどうかは不明ですが[だいぶいいこと言っていますが<誰かさんに聞いてほしい言葉でありますが>])書かれています。
織田信長の関所撤廃の真偽については、
『多聞院日記』永禄12年(1569年)1月10日条に「元日より伊勢の関悉以上了(元日から伊勢国のすべての関所における関銭の徴収が停止となった)」とあり、
ルイス・フロイスがイエズス会への報告書に、「彼の統治前には道路において高い税を課し、1 レグア(約5.6キロメートル)ごとにこれを納めさせたが、彼は一切免除し税を全く払わせなかったので、一般人の心をうまくとらえることができた」と書いていますので、実際にあった事であることが証明されています。
『信長公記』は、信長が関所を撤廃した理由として、天下のため、旅人のためであった、と書き、『信長記』は人々を安心させるためだ、としていますが、抽象的に過ぎるので、もう少し深掘りしてみたいと思います。
各研究者は次のように述べています。
・呉座勇一氏…「信長の関所撤廃により、信長の支配領域においては、人々は関銭を払うことなく、通行・輸送を自由に行なうことができるようになった。信長は関所撤廃によって、支配領域内の流通を促進させ、都市発展させようとしたのだろう」
・胡煒権氏…「信長、そしてその織田政権の関所撤廃は貿易[交易の誤りか?]の推進が目的であり、商品流通を円滑に実現するために行われた」
・フロレンティナ・エリカ氏『近代の道筋をつけた織豊政権』…関所の撤廃が行われる前は、商人たちは関所を通行する度に通行税を払わされたため、商品の値段にも影響し、どうしても売値が高くなった。商品流通の推進を妨げる関所の弊害に気づいていた信長は、経済活動を活発にするために関所の撤廃を積極的に実施した」
この3氏の意見は商品の流通を円滑にするため、という事で一致していますね。
しかし、なぜこのタイミングで?というのはクリアできていません。
このことについて説明しているのが久野雅司氏で、『織田信長政権の畿内支配』には、「上洛戦で荒廃した商業都市京都を復興させるために関所を廃止したといえる」と記述しています。
永禄12年(1569年)4月20日付けの、曇華院(京都市)雑掌宛て信長朱印状には、「去年錯乱以来年貢不納之由、無是非候」 (昨年、世が乱れてから、年貢が納められていないと聞いているので、仕方ない)と書かれており、ここから、信長の上洛戦によって土地が荒れ、年貢がなかなか集まらなくなってしまっていたことがわかります。
ですから、信長としては、戦乱で荒れた土地の経済復興を図るために、関所の撤廃を実行したと考えられるのですね。
戦乱で各地に散った農民を呼び戻すのに、関所があっては戻りたくても戻れません。通行料が無くなることによって、人々は元の土地に戻りやすくなるのです。
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