社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 信長は義昭の「御父」⁉~信長御感状御頂戴の事

2024年1月11日木曜日

信長は義昭の「御父」⁉~信長御感状御頂戴の事

 やるべきことを終えた信長は、京都に長居はせずに帰国の途に就きます。

まぁ、大軍を抱えていたので、食料や金銭的な面からも早く帰りたかったんでしょうね(;^_^A

しかし、義昭は信長に1・2日間ほど待ってほしい、と引きとめます。

その理由とは…。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇三通の御内書

能を終えた織田信長は、足利義昭に対し、美濃に帰国することを伝えます(「10月24日、御帰国の御暇仰せ上げらる」『信長公記』)。

『足利義昭入洛記』では、「23日に信長をめされ、観世大夫御能つかまつり、献々の後、御暇を申上候処に、天下の御用仰せつけらるべきとて、一両日はめしをかれ」とあり、能の直後に別れの挨拶をしたことになっています。これに対して、足利義昭は畿内に関することで頼みたいことがあると言って、数日間信長を引きとめています。

25日、信長は義昭の使者から御内書(将軍の出した書状)を受け取ります。

その内容について、『信長公記』は次のように記しています。

「25日に御感状。その御文言、

『今度、国々凶徒等、日を歴ず、時を移さず、悉く退治せしむるの条、武勇天下第一なり。当家の再興これに過ぐべからず。弥国家の安治、偏(ひとえ)に憑み入るの外、他無し。なお藤孝・惟政申すべきなり。

10月24日 御判 御父 織田弾正忠殿』

 御追加

『今度の大忠に依って、紋桐・引両筋遣わし侯。武功の力を受くべき祝儀なり。

10月24日 御判 御父 織田弾正忠殿』

と、なし下され、前代未聞の御面目、重畳書詞に尽し難し。」

信長が受け取った御内書は2通あり、

1つ目は、…三好三人衆たち逆臣を、短期間で討伐したその武勇は、天下第一である。将軍家の再興にあたって、信長以上に功績を挙げた者はいない。今後の治安維持について、信長を頼みにする他ない。という内容で、

2つ目は、今回の功績に対し、足利家の家紋である桐紋・ニ引両紋の使用の許可を与える、というものです。

足利家の家紋の使用の許可については、信長の前にも、三好長慶が永禄4年(1561年)に足利義輝から認められています。

これだけでも、信長以前に畿内を席巻していた三好氏と同格と認められるという十分な名誉なのですが、

それ以上に名誉であったのは、信長に対し「御父」・「殿」の字が使用されていることでした(◎_◎;)

まず「御父」ですが、信長と義昭の間には全く血縁関係はありません。それなのに、その信長を父とまで思っている、と言う厚遇を見せているのですから、驚きです(足利義昭は天文6年[1537年]生まれ、信長は天文3年[1534年]生まれなので、信長の方が一応3歳年長です)。

次に「殿」ですが、御内書では、将軍は相手に対して平仮名で「とのへ」と宛書きするのが普通だったのですが、ここでは漢字の「殿」を使用しており、こちらも信長を特別待遇で扱っていることがわかります。

このことについて、『足利季世記』は、…御父・殿の文字、どちらも「古今無双の面目(名誉)」であった、と記し、『総見記』には、…御内書には、「御父」の文言や、「殿」の文字が書かれていたが、これは「希有の事」(めったにない珍しいこと)であった、と書かれています。

しかし、「殿」については、足利氏の家紋の使用の許可を認められた三好長慶に対しても使われているため、こちらは前例があります(;^_^A

『総見記』には、信長がこの御内書を受け取った時の反応が次のように書かれています。

…(信長が恩賞のほとんどを断ったので)将軍家はこれでは信長の忠義を尽くした功績を証明するものが無いことを案じて、今までに並ぶものがない感状として、三通の御内書を書いて信長に与えた。そして、今日にも帰国の途に就いて、休息するとよい、と信長に伝えた。信長はお礼を申し上げて、次のように言った。「今回の戦争における勝利はまったく公方の御威光によるもので、少しも信長の手柄ではありません。御内緒の事は有り難いことで、家の名誉として頂戴し、帰国いたします。その他の恩賞は受け取りません。天下はまだ一つになっていません。私の分はいいですから、公方様に忠節を尽くす者が出たら、その者に恩賞をお与えになるべきです。御内書の内、一通は公方様が直々に書かれたものかと思われますが、これは信長のような者が受け取れるようなものではありません。もし愚かである私が受け取ったら、神仏の加護は尽き果ててしまうでしょう。」こうして、信長は三通の御内書のうち、将軍家御自筆の一通は返還して、他の二通を受け取り、清水寺に戻った。

3通⁉Σ( ̄□ ̄|||)

どうやら御内書はもう一通あったようです。

その御内書は、ありがたいことに『古今消息集』に残されています。

その内容は、

「三職の随一、勘解由小路家督存知せしむべく候、然る上は武衛に任じ訖(おわんぬ)。今度の忠恩尽くし難きに依って、此(かく)の如く候なり」

(今回の言い表すことのできない忠義に報いるために、三管領家の筆頭である斯波氏の家督を継ぐことを認め、左兵衛佐に任じる)

三管領家(斯波・畠山・細川)は、足利将軍家を支える三本柱であり、左兵衛佐(または督)は、その中の筆頭である斯波氏が代々得ていた官職でした(天皇を警固する役所として兵衛府がありましたが、これを中国では「武衛」と呼んでいたので、日本でも兵衛府の官職につく者を「武衛」と呼んだ。源頼朝も左兵衛佐であった)。

その中の斯波氏はすでに、信長によって1561年に尾張から追放されて事実上滅亡していましたが、足利義昭は信長に斯波氏を継がせることで、以前の体制を再構築しようとしていたのでしょう。

ちなみに、畠山氏の当主の畠山秋高は、すでに自身の元の名前の「義秋」の「秋」の字を与えられており、細川氏の当主の細川昭元の「昭」も義昭の「昭」をもらったものであり、足利義昭が三管領家の者を厚遇していたことがわかります。

しかし、信長はこれを断っているのですね(;^_^A

『総見記』には、…新公方は信長を左兵衛督[従五位上の官位]につけようとしたが、信長は自分は微賤の身であるし、左兵衛督に任じられるような大したこともしていない、と固く辞退した。新公方はそれでは仕方ないと言い、従五位下の官位である弾正忠に任じるにとどめた、と書かれています。

『重編応仁記』にも同様の話が載っているのですが、こちらは、「陪臣(家来の家来…つまり足利将軍家の家来である斯波氏の家来の織田氏、ということ)の身でこのような位を受けるのは良くない」と言って断っています。

これを旧体制に取り込まれるのを革新的な考えを持つ信長が嫌ったため、とする見方もありますが、秩序を維持することにこだわる保守的な考えを持つ信長が嫌がったため、とする考え方もあります(;^_^A

さて、信長は斯波氏の家督を継ぐことは拒否して、足利氏の家紋の使用だけを受けたわけですが、もう1つ得ているものがありました。

『足利季世記』には、次の話が載っています。

…今回三好三人衆方から奪った近江・山城・摂津・和泉・河内について、欲しい分だけ与えよう、と義昭は言ったが、信長はこれを辞退して、和泉の堺・近江の大津・草津に代官を置くことを希望し、これを許可された。

堺・大津・草津という経済の重要地の代官職を得た、と言う話は、信長の経済感覚の鋭さを示すものだ、とされてきた有名なエピソードですね。

堺については、永禄12年(1569年)に、今井宗久を堺の代官に任じた、という実例があるのですが、大津・草津についてはよくわかっていません。六角氏が駒井氏を天文2年(1533年)に大津奉行に任じ、その後、駒井氏が代々大津奉行(代官)や草津代官を務めてきたらしいですが…。駒井氏は豊臣秀吉の時に大津奉行・草津代官に任じられているので、織田信長も駒井氏を奉行や代官に任じていたのかもしれませんね(゜-゜)

まとめると、信長が今回の上洛で得たのは、①足利氏の家紋の使用許可、②堺・大津・草津の代官設置の許可、③南近江…の3つであり、管領・副将軍職・畿内五カ国・斯波氏の家督などを受け取らないなど、信長は論功行賞で欲張ることなく、かなり控え目に対応していたことがわかります。

さて、得るものは得た信長は、帰国の途に就くのですが、『足利義昭入洛記』に、…少々の人数を相残し、とあるように、すべての軍勢を京都から引き払ったわけではありませんでした。

『多聞院日記』11月22日条には、…京都には尾張の佐久間(信盛)・村井(貞勝)・丹羽五郎左衛門(長秀)・明印(良政)・木下藤吉(秀吉)と5000ほどの兵が残っている。…とありますので、残されたのは彼らだったのでしょう。

その後信長は、『信長公記』によれば、26日は、近江の守山、27日は、柏原上(成)菩提院に泊まり、28日に、美濃の岐阜に凱旋しています。

太田牛一は、『信長公記』巻一を、「千秋万歳珍重々々」(非常にめでたいめでたい)という言葉で締めていますが、『総見記』にも、…多くの者がこれを出迎え、今回の勝利・名誉について、祝いの言葉を申し上げた。…とあるように、大変な祝賀ムードであったようです。

『足利義昭入洛記』には、「天下早速静謐、偏に信長武功名誉先代未聞也と、洛中貴賤感ぜずという事なし」(畿内を短期間で落ち着かせたのは、ただ信長の武功によるもので、その栄誉は前代未聞のものであると、京都の者たちで感じない者はいなかった)と書かれていますが、これらの文章からは、信長がもう1つの、目には見えない大きなものを得ていたことがわかります。

将軍家を再興させたという名誉、そして全国的な名声です。

1年前まで、京都からすれば地方の一武将に過ぎなかった織田信長は、たった1年…というか上洛戦を始めたのが9月7日で、[大和を除き]畿内を平定したのが10月2日なので、たった1ヶ月で、信長に対する世間の評価は大きく変貌することになったのです。


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