社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 3月 2023

2023年3月30日木曜日

天文3年(1533年)の尾張~織田信長誕生の1年前

 尾張守護・守護代がともに力を失う中、

台頭してきたのは奉行を務める弾正忠家でした。

織田良信・織田信貞(定)の二代で、中島郡・海東郡に勢力を広げ、

織田信貞の時には一大商業地である津島を手に入れて豊富な資金を獲得し、

経済力も拡大しました。

その織田信貞の跡を継いだのが、あの織田信長の父である織田信秀なのですが、

若いころの信秀について書かれている貴重な史料があります。

それを『言継卿記』というのですが、

信秀が出てくる場面は1533年…。

織田信長が生まれる1年前のことです!!😦

『言継卿記』には、筆マメな山科言継により、当時の尾張の様子が詳しく記されています。

今回は、その中でも印象に残ったエピソードをマンガで紹介したいと思います😆

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇蹴鞠による交流

天文2年(1533年)7月8日、織田信秀の招きを受けて、

権中納言の飛鳥井雅綱(1489~1571年)は蹴鞠を教えに尾張の津島にやってきました。

(雅綱は他にも、1525年に北条氏康、1549年に北条氏政・氏規に蹴鞠を教えています。)

山科言継(1507~1579年)は雅綱と18歳も歳の開きがありますが交友が深く、雅綱に誘われていっしょに尾張に行ったのですが、

言継はその時の様子を日記(『言継卿記』)に詳細に記録しています。

午後5時頃に織田信秀が雅綱を迎えに来て、雅綱は馬に乗って勝幡城に向かいましたが、

織田信秀は徒歩でその後を追ったといいます(「三郎不乗、跡に来候了」)。礼を尽くしているわけです。

夕食として冷麺と吸い物・酒が出ましたが、

その後、案内された新造の客殿の立派さに山科言継は驚いています

「城之内新造に移候了、未徒移之所也、驚目候了」)。

9日、蹴鞠を信秀たちと午後2時頃から3時間にわたって行い、

その物珍しさから見物人が数百人も集まったといいます

「見物之人数数百人有之」)。

10日も信秀たちと蹴鞠。

11日、織田右近という者と会話をしていますが、その中で、去年、織田信秀は守護代家と和睦(「和談」とある)をしたが、ようやくこの日、弟の信康清須城に挨拶(「出頭」とある)に行かせた、という内容が出てきます。

ここから、1532年まで織田信秀は守護代家と対立関係にあったことがわかります。

12日、信秀たちと蹴鞠をしましたが、その途中で守護代・織田達勝が勝幡城にやってきて、一緒に蹴鞠をしました。

信康の清須城訪問の際に、蹴鞠に来られませんか、という話があったのかもしれません。

17日、信秀たちと蹴鞠。

18日、信秀たちと蹴鞠。

20日、信秀家臣の平手政秀の屋敷を訪れて、精巧な彫り物がしつらえてある太刀を贈られてビックリしています。また、風流な座敷の様子もすごかったようです(「太刀遣候了、種々造作驚目候了、数寄之座敷一段也」

21日、信秀たちと蹴鞠。

22日、信秀たちと蹴鞠。

23日、和歌の会、蹴鞠。那古野城主・今川氏豊(竹王丸。「那古屋十二歳」と書かれている)が蹴鞠を教えてもらうために勝幡城にやってきたので、信秀たちと一緒に蹴鞠を行う。

25日、信秀たちと蹴鞠。今川氏豊も参加。

26日、信秀たちと蹴鞠。今川氏豊も参加。

27日、今川氏豊が来たので、蹴鞠の作法を教える。氏豊、蹴鞠が大好きになったんでしょうね(;^_^A

林秀貞も蹴鞠の門弟となりました。

この日、勝幡城から清須城に移ります。

29日、信秀たちと蹴鞠。織田達勝も参加。

8月2日、織田達勝たちと蹴鞠。信秀は参加せず。

4日、達勝たちと蹴鞠。

5日、達勝は饅頭が百個も入った鉢を持ってきました(;^_^A

6日、達勝達と蹴鞠。信秀も参加。途中で飛鳥井雅綱が疲れを訴え、その後、寝込んでしまいます。

7日、織田信秀が藤左衛門の所に出向いた、これは去年の戦い以来始めてのことであるらしい、と書かれています。ここから、織田信秀は守護代家だけでなく、清須三奉行の1つである藤左衛門家とも争っていたことがわかります。また、信秀の伯父(母の兄)である、とも書かれています。

織田信秀の母は「いぬゐ」といいますが、父は藤左衛門家の良頼で、兄が良縁でした。「いぬゐ」は1527年にはすでに亡くなっています。

8日、雅綱は高熱を出し、信秀たちが見舞に来ました。

9日、信秀が再び見舞に来ました。織田達勝も見舞に来ます。

10日、信秀が見舞。

11日、信秀が見舞。

12日、信秀の代わりに平手政秀が見舞う。

13日、信秀は内藤という者を見舞に行かせた。達勝も見舞う。

14日、信秀・達勝が見舞う。雅綱の帰京の相談。雅綱の祈祷の実施。

15日、信秀・達勝が見舞う。

16日、達勝が見舞う。雅綱はこの日、ようやく回復しました。

17日、織田達勝・平手政秀たちが来る。達勝は別れのあいさつにと贈り物をする。

18日、平手政秀が来たので、葛袴を贈ったが、政秀はお礼に200疋のお金を渡しました。

銭一貫文=銭1000文=銭100疋、だそうなので、二貫文分のお金ということですね。これは現在だと12万円くらいの金額になるそうです。

19日、織田達勝たちが来る。

20日、京都に向かって出発。達勝・信秀たちが別れのあいさつに来て見送ります。織田右近は23日まで同行し、美濃の垂井まで来たところで別れました。

…以上、7月8日から8月20日まで1か月以上にわたって飛鳥井雅綱・山科言継は尾張に滞在していたわけですが、

後半は伏せっていることが多かったものの、計15日も蹴鞠をしています。

この期間中に織田信秀は対立していた織田達勝と関係を修復させることに成功させていますが、飛鳥井雅綱を招いた理由の1つにはそれがあったのかもしれません。

また、途中で那古野城主の今川竹王丸(氏豊)が頻繁に蹴鞠に参加していますが、

①勝幡城に泊まっていた

②飛鳥井雅綱が清須城に移ってからは蹴鞠に参加していない

…ということから、織田信秀と親密であったこと、織田達勝とは疎遠であったこと、がうかがえます。

しかし、この今川竹王丸(氏豊)に対し、織田信秀は驚きの行動に出ることになるのです…!!(◎_◎;)

2023年3月28日火曜日

2023年3月27日月曜日

弾正忠家の台頭

 尾張では清須織田家岩倉織田家の争いは終結しましたが、

今度は守護斯波義達守護代の清須織田達定が争い、

守護代が自害する、

それが終わると遠江に攻めこんだ守護の斯波義達が今川氏に敗れ捕虜となる、

そして尾張に今川氏の勢力が入りこむ…

というように、16世紀初めの尾張は騒乱が続き、

守護も守護代も力を失ってしまうという状況になっていました。

そんな中で台頭してきたのが清洲織田家の重臣たちで、

特に力を伸ばしたのは、

後に織田信長を輩出する弾正忠家でした🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇弾正忠家の台頭

永正13年(1516年)12月1日に、守護代織田達勝は尾張中島郡妙興寺に安堵状を出していますが、

それと同時にほぼ同じ内容の安堵状が「信貞・良頼・広延」なる3人の人物からも出ているのです。

この3人は誰なのかというと、

織田信貞(定)・織田良頼・織田広延の3人であり、

『信長公記』にいうところの「此三人諸沙汰奉行人」

清須三奉行ともいわれる清須織田家の重臣のことだとされています。

なぜ安堵状が守護代の分だけでは不足なのかというと、

前の守護代である織田達定は1513年に守護の斯波義達と争って死に、

跡を継いだ織田達勝は織田達定の弟とされていますが、

織田達定の祖父・織田敏定が1450年の生まれ(1452年とする説もある)であるので、

その子の寛定は早くて1470年頃の生まれ、

その子の達定は早くて1490年頃の生まれとすると、

その弟とされる達勝は安堵状を出した頃20歳前後の年少であると考えられ、

年齢の面でも不足があったことに加え、

前の守護代・織田達定が守護と争って敗死していることからも、

守護代家の力が弱まっていたと考えられ、

衰えが見られる守護代家だけの安堵状では効力に疑問があると思われたからでしょう。

弱まる守護代家に対し、相対的に力が高まったのが三奉行でした。

この三奉行が守護代家とどのような血縁関係にあったかはよくわかっていません(;^_^A

安堵状に書いてある名前の順序からすると、

「広延>良頼>信貞」という序列になるようなので、

おそらく本家である守護代家に一番近かったのが織田広延だったのでしょう。

次の織田良頼は藤左衛門を通称とし、小田井城主でした。

小田井城は織田敏定が作ったとされる城で、

織田敏定が清須城を手に入れた後は織田良頼の父と考えられる良縁が任せられるようになったと言われています。

こちらも守護代家との血縁関係は不明です(;^_^A

さて、最後の信貞ですが、

この信貞は弾正忠を名乗る弾正忠家の当主で、

子があの織田信秀…織田信長の父であるので、織田信長の祖父ということになる人物です。

『信長公記』には、弾正忠家について、

「西巌 月巌・今の備後守…とてこれあり。代々武篇の家なり」と記されていますが、

「今の備後守」とあるのが織田信秀、「月巌」とあるのが織田信秀の父の織田信貞(定)(月巌は織田信貞の法名)、「西巌」とあるのが織田信貞の父の織田良信のこととされており、弾正忠家の初代が織田良信なる人物であることがわかります。

織田良信は織田敏定の弟とされ、中島郡に勢力を拡大しました。

妙興寺に残る文書には、

「妙興寺領花井・朝宮・矢合・鈴置・吉松、この五ヶ処、材岩の時召し置かれ候」

とあり、

文中にある「材岩」が別名・西巌である織田良信だとされているのですが、

織田良信が妙興寺の持つ5か所の土地を奪ってしまったことがわかります。

この文書には続きがあり、

「一木村は月岩の時召し置かれ候。今の御代に二段三段の処共を拾い集め、召し置かれ候はん由に候。代々かくの如く候いて、妙興寺即時に破滅候はんとて、一衆の歎きこれに過ぐべからず候…」

…と書かれており、

織田良信の子の織田信貞(法名・月巌)の代にさらに妙興寺から一木村を奪い、

その子の織田信秀の代には残った小さな土地までも没収するなど、

さらに中島郡へ勢力を拡大していったことが読みとれます。

織田良信の跡を継いだ織田信貞は中島郡だけでなく、

中島郡の南の海東郡にも手を広げ、勝幡城を築きます。

そして勝幡城からほど近い一大商業地、津島を勢力下に置くことを目論みます。

『張州雑志』には、その過程が記されています。

「大永年中、織田と諍論数度に及ぶ。同四年の夏、織田の兵津島を焼き払う。早尾の塁に退き、又戦う。この時、津島中ならびに寺社の什物・官符等焼失す云々。時に織田家和睦有て、同年十一月、信長公息女御蔵御方実は備後守信秀女、嫡大橋清兵衛重長後入道して慶仁と号すに入輿す。母は林佐渡守通村の女。これより津島一輩信長公麾下に属す」

大永年中というのは、1521年から1528年のことです。

内容を訳してみると、

…そのころ、津島と織田信貞との間でトラブルが何度も起き、

ついに大永4年(1524年)に織田信貞の兵が津島を焼き払った。

津島衆は早尾(現在の早尾町)に退いて合戦し、津島の大事な宝物・文書が燃えてしまった。

11月に和睦がなされ、信定(信長や信秀とか書かれているが、間違いだろう)の娘が津島の豪族に嫁ぎ、

以後、津島は織田弾正忠家の支配下に置かれるようになった…

…となりますが、1524年頃に織田信貞が津島を手に入れたことがわかります。

一大商業地・津島を押さえたことは大きく、

その財力が次代の織田信秀の飛躍を支えることになります🔥


2023年3月25日土曜日

ポーランド・ロシア戦争と第二次ポーランド分割(1792~1793年)

 露土戦争でロシアがポーランドにかまっている余裕が無いスキを狙って、

各種の改革を断行し、中央政府の力を強める5月3日憲法を作り、ロシアの従属下から脱しようとしたポーランド。

しかし、権利を制限されることに反発する貴族たち(シュラフタ)は、

改革に反対してタルゴヴィツア連盟を作り挙兵、

そしてなんとロシアに助けを求めたのでした…(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇ポーランド・ロシア戦争(5月3日憲法防衛戦争)

ロシアがポーランドの憲法賛成派と反対派の争乱に介入する際に、気になったのはオーストリアとプロイセンの存在でした。

オーストリアは憲法に賛成の立場を表明していましたし、

特にプロイセンはポーランドと防衛同盟を1790年に結んでいたからです。

しかし、両国にとって悩みの種がありました。フランスです。

フランスでは1789年にフランス革命が起きて絶対王政が崩壊しており、

その革命の影響が周辺国に及ぼうとしていました。

オーストリアはこれ以上革命が進展しないようにフランス政府に干渉し続けていたのですが、

これにフランス人は激怒し、ついに1792年4月20日、オーストリアとの戦争に発展しました。

1802年まで続くフランス革命戦争の始まりです。

ロシアのエカチェリーナ2世はこれでオーストリアは動けなくなったと確信、

さらにプロイセンについても二度目のポーランド分割を持ちかけて、

ポーランド側につかないように交渉しました。

1792年1月9日にはトルコとの戦争を終わらせたロシアは、

1792年5月18日、満を持してポーランドに侵入を開始します。

その大義名分は、

①ロシア軍がポーランド領内のウクライナにいることを難しくした

②ロシア人への迫害

③正教会への迫害

④四年議会で行われたエカチェリーナ2世への侮辱

…などが挙げられていましたが、

それらは名目にすぎず、実際はロシアから離れようとしているポーランドを再び従属化に置くことにありました。

ロシア軍の兵数は6万5000。数週間後には3万5000が加わり、合計10万の大軍となります。

しかし、ポーランドも多くの兵を徴兵しており、

7万人の兵を抱えていました。また、200門の大砲も保持していました。

プロイセンとの防衛同盟では、プロイセンは1万8000の兵を送ることになっていましたから、

それを合わせれば8万8000となり、ロシアに対抗できるような数字になります。

しかし、プロイセンはやってきませんでした。

その理由は、

「プロイセンは5月3日憲法の内容を事前に知らせてもらえなかった、

知らないうちに作られた憲法を守る義務はない」…というものでした(◎_◎;)

ポーランドは単独でロシアと当たらなければならないことになりました。

ポーランドの四年議会は国王スタニスワフ2世に軍の最高指揮権を委ねました。

スタニスワフ2世が司令官に任命したのは国王の甥のユゼフ・ポニャトフスキ(1763~1813年)でした。

この人物は決して血縁だけで選ばれたわけではなく、

オーストリア軍で働き、露土戦争で戦った経験を持っていました。

優秀な人物で、のちにナポレオンの下で働き、元帥に任じられたほどです。

この司令官を補佐したのが、

アメリカ独立戦争に参加して活躍したコシチュシュコ(1746~1817年)、

オーストリア軍で同僚であったミハウ・ヴィエルホルスキ(1755~1805年)達でした。

攻めるロシアは、ウクライナ方面軍が6万4千、リトアニア方面軍が3万3700の兵を有していましたが、これに対するポーランド軍は、

①[ウクライナ方面軍]ユゼフ・ポニャトフスキ率いる王冠軍団の5万2000 (1万3000の 騎兵と3万9000の歩兵)(※『リトアニアの歴史』では2万6000)

②[リトアニア方面軍]ドイツ南部に存在していたヴュルテンベルク公国の公子でポーランドのマグナートと結婚していたルートヴィヒ(1756~1817年)が率いるリトアニア軍団の1万8000( 7000の騎兵、1万の歩兵、1000人の砲兵)

…の2つで編成されていました。

しかし、リトアニア軍団を率いるルートヴィヒは戦争がはじまるとロシアと戦いを拒否して自分は最前線に出ず、撤退命令を繰り返しました。

ルートヴィヒの妻のマリア・アンナはこれに激怒し、夫婦は離婚します。

6月4日に司令官が交代されますが、リトアニア軍団はミールの戦い(6月10日)・ゼルバの戦い(7月4日)で敗北、6月14日には首都のヴィリニュスが無血開城するなど、劣勢を跳ね返すことはできず、ワルシャワ方面に向けて敗走します(72門あった大砲のうち65門を有したまま退却していた)。

ウクライナ方面では、ポーランド軍を包囲しようとするロシア軍の進撃に対し、

ユゼフ・ポニャトフスキは国境での防衛をあきらめて軍を後退させました。

そして6月18日、ツィエレンツェ(ジーレンツェ)の戦いが発生します。

ツィエレンツェはウクライナ首都のキーウと、東部の都市・リビウの中間地点にある部分です。(当時、キーウはロシア領、リビウはオーストリア領でした)

この戦いでユゼフ・ポニャトフスキはロシア軍を激戦の末に撃退することに成功しますが、被害は甚大なうえ、弾薬は尽きており、ツィエレンツェからさらに後退せざるを得ませんでした。

しかしこの勝利にポーランドは湧き、国王スタニスワフ2世は、

(第二次ウィーン包囲でオスマン帝国軍を破った)「ヤン3世以来の勝利だ」とこれをたたえています。

後退を続けるポーランド軍は、開戦1か月後にはウクライナにあった領土を失っていました。

その中でも、コシチュシュコがドゥビエンカの戦い(7月18日)で5300の兵でブク川を渡ろうとする2万5000のロシア軍の攻撃を防ぎ、4000人を戦死させる(ポーランド側は900人)、

マルクスフで行われた小規模な戦闘(7月26日)でユゼフ・ポニャトフスキ率いる騎兵隊がロシア軍を破る、などの活躍は見られました。

しかし次第に首都のワルシャワに迫られる苦しい戦局の中で、

国王スタニスワフ2世は戦争終結を図ってロシアと交渉をし、

エカチェリーナ2世の孫のコンスタンチンに王位を譲ることも提案しましたが、

ロシアはこれを受け入れませんでした。

そこでスタニスワフ2世がとった行動は、なんと憲法反対派のタルゴヴィツア連盟に降伏し、戦闘停止をポーランド軍に命令する、というものでした。

国王や大臣などから成る、「法の番人」と呼ばれる評議会が執行権を行使するのですが、

スタニスワフ2世は、12人の大臣(ポーランド6人、リトアニア6人)にタルゴヴィツア連盟に降伏すべきかどうかを審議させます。

7月23日に行われた評議会では、

7対5でタルゴヴィツア連盟に国王が加盟することが決定されました(反対の5人のうち3人[イグナツィ・ポトツキ、スタニスワフ・ソウタン、カジミェシュ・ネストル・サピエハ]はリトアニアの大臣であった)。

その結果をもって、王室副大臣のフーゴ・コウォンタイ(1750~1812年)は、

スタニスワフ2世に陛下、今日、タルゴヴィツア連盟に参加する必要があります、明日ではありません、一刻を争うのです、ポーランド人の血が流れているのですから」と言い、早急に決断することを勧め、

それを受けてスタニスワフ2世は翌日、タルゴヴィツア連盟に加盟することを決め、軍隊に戦闘停止命令を出すことにしたのでした。

決戦の準備をしていた司令官たちはこの決定に不服であり、

ユゼフ・ポニャトフスキは国王からもらった勲章を返上、

「私はそのような邪悪なことに対して準備ができていなかった」

「恥をかくことよりも死ぬまで戦う方がましだった」

と発言、

国王の暗殺・もしくは誘拐を提案されたものの、それは断り、

軍を離れてウィーンに逃れています。

コシチュシュコもドイツのライプツィヒに逃れました。

スタニスワフ2世の決定には軍人だけでなく、他の国民も不満を持ち、

7月24・25日にはサクソン庭園で愛国派はデモを起こし、

「王がいなくても憲法はある!」と叫びました。

スタニスワフ2世はこの状況におびえ、

ロシアに早くワルシャワを占領しに来るように要請しました。

まもなくポーランド全土が制圧されましたが、

その一部はプロイセンが占領したものでした。

フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(1744~1797年)は、

「フランス革命の影響からプロイセンを守るために、ポーランドに軍隊を送らざるを得ない」と言ってポーランド北西部を占領したのです。

スゴイ言い分ですね(◎_◎;)

しかも同盟していた相手なのに…。

ポーランド憲法反対派のタルゴヴィツア連盟によって支配されるようになりましたが、

そのやり方は抑圧的であったため、政情は不安定なものになりました。

この状況を見て、エカチェリーナ2世は力のないタルゴヴィツア連盟にポーランドを任せ続けるよりは、ポーランドを分割して獲得したほうが良い、と考え、

プロイセンと共に第二次ポーランド分割に乗り出します。

タルゴヴィツア連盟は驚いて、分割決定に抗議しましたが、後の祭りでした。

逆に分割されることはないだろうと思っていたのがスゴイです(-_-;)

〇第二次ポーランド分割とポーランドの保護国化

1793年、分割条約について話し合うための議会が開かれることになりましたが、

議員を決めるための選挙では、四年議会に参加した者・憲法採択に参加した者の参加は禁止されました。

また、ロシア・プロイセンに占領された土地の者も選挙には参加が許されませんでした。

すでにポーランドでは無くなっていたのです。

反対派と考えられるものは議会から追放され、自宅に隔離されました。

貧しい多数のシュラフタたちは、ロシアから賄賂をもらって、

ロシアが指定した議員に投票したといいます。

これが憲法賛成派の心配した点であり、

そのために憲法では貧しいシュラフタから参政権を取り上げていたのですが(-_-;)

1793722日、議会はロシアに領土を分割することを承認しました。

タルゴヴィツア連盟の面々は、領土を割譲する代わりに、

残ったポーランドの土地を手に入れることの無いように約束させました。

一方、ポーランドは裏切者であるプロイセンに領土を譲ることを認めようとしませんでした。

そこでロシアは9月23日、議会の会場を軍隊で囲み、大砲を周りに並べました。

そしてプロイセンとの条約に承認しない限り会場を出ることはできないと脅しました。

議員たちは沈黙で対抗します。

議長のビエリンスキーは署名に同意するか、と3度尋ねて、反応がなかったので、

「沈黙は同意を意味する」と述べて、満場一致で条約は承認された、と発言しました。

続いて1793年10月14日、ポーランドはロシアと永久同盟を結ぶ条約に同意させられましたが、

この条約により、ポーランドは次のことを認めることになりました。

・ロシアはポーランドに軍事基地を建設できるし、いつでも軍隊を送ることができる。

・ポーランドはロシアの同意なしに他国と同盟を結ぶことはできない。

・ポーランド軍を1万5000人に縮小

・選挙王政、拒否権の復活(5月3日憲法の否定)

・タルゴヴィツア連盟の解散

あるポーランド議員は、この条約によって、ポーランドははロシアの1つの州になった、と嘆きました。

一方、エカチェリーナ2世は次のように述べたといいます。

…私はフランスから広がる革命のウイルスを撃退した、

それだけでなく、かつてキエフ公国に属していた、正教会の人々が住む土地を取り戻した、と。


2023年3月23日木曜日

守護・斯波義達と守護代・織田達定の相克

 美濃の争いの影響で、協調関係にあった清洲織田氏・岩倉織田氏は再び敵対関係となってしまいました。

清須織田氏は織田敏定が病死(戦死の説も)、跡を継いだ子の織田寛定も戦死するというすさまじい状況の中、

寛定の跡を継いだ弟の寛村は戦いの才能があったのか善戦し、

尾張での戦いを優勢に進めていましたが、

そんな時に、美濃で協力関係にあった石丸利光斎藤妙純に敗れて自害したという報告が入ります。

清須織田家は敗北を覚悟しますが、そこに再び思わぬ報告が入ってくることになるのです…!(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇遠江をめぐる争い

清須織田家と岩倉織田家の争いは、

清須織田家が優勢に戦いを進めていましたが、

美濃では清洲織田家が支援する石丸(斎藤)利光が自害して果て、

美濃での戦いを終わらせた斎藤妙純が尾張に兵を向けてくることが考えられ、

岩倉織田家方は勢いづいていました。

しかしここで、思わぬことが起こります。

石丸利光を支援した六角高頼を討伐するため、斎藤妙純は兵を近江(滋賀県)に向けたのですが、

はかばかしい結果を残せず、やむなく美濃に戻ろうとしたところで、

土一揆が発生し、なんと斎藤妙純ら1000人が戦死してしまったのです(1497年1月10日)。

最大の後援者を失った岩倉織田家は戦いを続けられなくなり、

清須織田家と和睦することになりますが、

その後の岩倉織田家の衰えは顕著であり、

1499年まで中島郡の妙興寺宛に岩倉織田家は文書を出しているのに、

それ以降は清須織田家が妙興寺に文書を出していることから察されるように、

中島郡など各所で岩倉織田家の勢力は減退し、清須織田家の勢力が伸長するようになりました。

岩倉織田家の当主の織田寛広は死んだ年すらもわかっていません(1504年以後の消息が不明)し、その後を継いだのが誰かもよく分からないほどです。

後に織田信長と敵対する岩倉織田信安は、出身が清須織田家であるらしいので、

16世紀前半には、織田嫡流の岩倉の伊勢守家は清須の大和守家に吸収されていたと見るべきでしょう。

実際、織田寛村の跡を継いだ織田達定(?~1513年)は、岩倉城の伊勢守家を継承していたという説まであります。

さて、この織田達定は、織田寛定(織田寛村の兄。岩倉織田家との戦いで戦死した)の子であったといわれています。

織田寛定が1495年に戦死した後、守護代を引き継いだ織田寛村は1503年頃には早くも降板して守護代を織田達定に譲っていますが、

本人は兄の子である達定が成長するまでの中継ぎであると考えていたのでしょう。

新たに守護代となった織田達定ですが、達定の「達」は、

守護斯波義達(1486?~1569?)から一字もらったものです。

織田寛定・寛村の「寛」はその前の守護・斯波義寛からもらったもの、

織田敏定の「敏」はさらにその前の守護・斯波義敏からもらったものですね。

織田達定が仕えた斯波義達は遠江(静岡県西部)に執念を燃やした男でした。

明応3年(1494年)、駿河守護・今川氏親伊勢宗瑞(北条早雲)が斯波氏の領国である遠江に侵攻、明応6年(1497年)には遠江中部まで取られてしまっていました。

斯波氏としてはすぐに反攻したかったのですが、明応4年(1495年)から尾張で争乱が始まったのでそれどころではありませんでした。

清須織田家・岩倉織田家の争いが止んだところで、

まず斯波義達の父・斯波義寛が遠江奪回のための軍事行動を起こすことになります。

斯波義寛は作戦を成功させるために、

管領細川政元や信濃の小笠原氏・関東管領・山内上杉家と手を結び、

今川・伊勢(北条)包囲網を築いています。

黒田基樹氏の『今川氏親と伊勢宗瑞』によると、

斯波義寛が山内上杉顕定に宛てて出した書状が残っており、

それには、

①遠江に理由なく今川氏親が攻めてきたが、家臣の争いがあって放置せざるを得なかった。

②尾張・三河が落ち着き、信濃の小笠原氏も味方についたので、今年の秋に遠江を攻めるつもりである。

③山内上杉殿は、斯波氏の支援のため、伊豆や駿河に攻撃をかけてもらいたい。

…といったことが書かれていたようです。

文亀元年(1501年)、斯波義寛は満を持して遠江中部に進攻、久野(蔵王)城・馬伏塚城を攻撃します。

しかし、小笠原氏の援護は得たものの、山内上杉が動かなかったため今川・伊勢を挟撃することかなわず、

逆に味方の天方城や斯波義寛の弟・義雄が守る社山城が落とされるなど、

苦戦して文亀3年(1503年)には遠江から撃退されてしまいます。

勢いに乗った今川・伊勢は進んで三河(愛知県東部)を攻め、

永正3年(1506年)に今橋(豊橋)城を攻略、

永正5年(1508年)には西三河の岩津城まで進出します。

そしてこの年、将軍に復帰した足利義尹(もと義材)により今川氏親は遠江守護に任命され、斯波氏は名実ともに遠江を失うことになってしまいました。

それに対して斯波義寛の子・斯波義達は遠江奪還に動き、

永正7年(1510年)、遠江の反今川勢力である大河内氏(三河吉良氏の家臣で浜松荘の代官を務めていたが、この頃には自立していた)・井伊氏の挙兵に合わせて遠江にうって出ます。

しかし今川氏は強く、永正10年(1513年)に遠江における斯波氏の拠点・深嶽山城(三岳城)が陥落、再び遠江を失ってしまいました。

『名古屋合戦記』にはその顛末が次のように書かれています。

…後柏原天皇の頃(1500~1526年)、駿河の今川氏親は尾張の守護・斯波義達と敵対して戦った。その頃、三河国の臥蝶の地頭・大河内貞綱は吉良氏の家来であったが、近年自立して周囲に威を振るい、三河の武士を手なずけて今川領を奪おうとしたところ、氏親が攻めようとしてきたので、貞綱は慌てて斯波氏に援軍を頼んだ。義達は援軍を承諾し、貞綱は遠江国の引馬城に籠もった。氏親はこれを討伐しようと考えて、永正10年(1513年)3月、1万余りの兵を率いて遠江に進み、斯波義達は遠江の深嶽城に入った。今川家臣・朝比奈泰以がこれを夜襲したところ、尾張勢は敗れて奥山(三河との国境に近い所にある)に逃れた。

敗れた斯波義達は尾張に帰るのですが、そこで大事件が起きます。

『定光寺年代記』にはこうあります。

「尾州(尾張)尽く乱る」

尾張で争乱が起こったというのですが、

何が起きたのかというと、尾張守護・斯波義達と尾張守護代・織田達定が合戦に及んだのです(◎_◎;)

二人が戦うことになった経緯は明らかになっていませんが、

その理由として考えられるものは、

遠江奪還に織田氏が関わった形跡は全く見られず、守護と守護代の溝が深まっていた。そこに斯波義達が遠江で敗れて帰ってきたので、今が好機と織田達定が斯波義達に攻撃を仕掛けた…

というものでしょう。

しかし結果は意外なことに、

「尾張に国に於いて、武衛屋形(斯波義達)衆、織田五郎(達定)と合戦す。五郎生涯(生害。自害すること)す。侍衆三十余人討死す」『東寺過去帳』)…

織田達定の大敗に終わり、織田達定は自害に追い込まれることになりました。

織田達定を討伐した斯波義達は永正13年(1516年)、遠江の大河内氏からの救援要請に応えて再び遠江に出兵しますが、

『名古屋合戦記』には、上四郡を治める織田信安が出兵に反対し、参陣しなかった、と書いてあり、万全の体制ではなかったようです(◎_◎;)

今川氏親は3万の兵を率いて出陣、引馬城を包囲します(『名古屋合戦記』)。

氏親は金堀職人を動員して引間城の水の手を断つなどの作戦に出た結果、

翌年8月19日に斯波義達・大河内氏の籠もる引間城が陥落、大河内一族は滅亡します。

『宗長日記』にはその時の模様が次のように記されています。

「武衛又子細ありて出城。ちかき普斎寺と云う会下寺にして御出家、供の人数おのおの出家、尾張へ送り申されき」

命は助けられたものの剃髪させられて、尾張に送還されることになってしまった、というのですね(◎_◎;)

『名古屋合戦記』には、この時、今後今川氏に歯向かわないことまで誓約させられた、と書いてあります。なんという屈辱…( ;∀;)

こうして、20年以上にわたって続いた遠江争奪は今川氏の勝利で終わったのです。

『名古屋合戦記』は戦後の様子を次のように記しています。

…斯波義達は隠居して子の義統が跡を継ぎ、織田大和守などがこれを補佐した。今川氏親は大永年間(1521~1528年)のはじめに尾張に那古野城を築いて末子の氏豊を城主として入れ、尾張の押さえとした。義統の妹が氏豊に嫁ぎ、こうして織田・今川間は安定して落ち着くようになった。

今川勢力が尾張の内部に入ること・今川氏豊に斯波義達の娘が嫁がせることを斯波氏は認めており、

ここから、斯波氏が今川氏の下風に立つことになってしまったことがうかがえます(◎_◎;)

遠江での失敗後、斯波氏の影響力は大きく落ち、存在感を急速に失っていきます。

一方で、斯波義達と争って敗れた守護代の清須織田家も力を失っており、

しばらく尾張はリーダー不在の時期が長く続くことになります。

その中で力を伸ばしていくことになるのが、

清須織田家の重臣で清須三奉行と呼ばれる因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家であり、

この中の弾正忠家は、のちに織田信長を輩出することになるのです…!🔥

2023年3月20日月曜日

ポーランド分割⑥「1791年5月3日憲法の制定」の3ページ目を更新!

 「歴史」「明治時代」のところにある、

1791年5月3日憲法の制定

3ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年3月17日金曜日

明応の政変と再びの尾張争乱

 室町幕府10代将軍・足利義材(のちの義稙)のもと、

第二次六角征伐で活躍し、

さらに因縁の越前朝倉氏討伐を将来行うという約束を取りつけた織田敏定

織田敏定の思い通りに事が進んでいたのですが、

ここで事態は急転していくことになるのです…(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


明応の政変と再びの尾張争乱

斯波義寛・織田敏定は将軍・足利義材との結びつきを強めることで越前奪還・朝倉氏打倒を目指したのですが、

その義材は1493年、管領細川政元の起こしたクーデター(明応の政変)によって将軍職を追われてしまうことになります。

このクーデターには朝倉氏も協力しており、兵を京都に上洛させています。

クーデターの背後には足利義材―斯波義寛―織田敏定に対抗する細川政元―朝倉貞景、という対立構造があったのでしょう。

足利義材の没落によって、越前奪還の望みは絶たれることになりました。

 その中で、尾張では岩倉織田家の当主である織田寛広の父・織田広近1491年に亡くなります。

織田広近が死ぬまでは岩倉織田家と清洲織田家の間は平穏だったので、

織田広近は清洲織田敏定と融和派だったのかもしれません。

その広近が死んだことで徐々に岩倉織田家と清洲織田家の協調関係は崩れていき、

1495年、美濃(岐阜県南部)斎藤妙純(利国。斎藤妙椿の養子)と石丸利光(斎藤氏の重臣)の争いが起きると、

斎藤妙純の養女を妻としていた岩倉織田寛広は斎藤妙純方に、

石丸利光の娘が子の寛定の妻となっていた清洲織田敏定は石丸利光方についたため、

再び尾張は二つに分かれて争うことになります。

しかし、清洲織田敏定は美濃に向かう途中で病死(戦死という説もある)、

跡を継いだ織田寛定は明応4年(1495年)9月、岩倉織田家と戦って大敗、戦死してしまいます。

清洲織田寛定の跡を継いだ弟の織田寛村は苦境に陥ったものの、

『船田戦記』「下強上弱」(尾張南部を治める清洲織田家が優勢で、尾張北部を治める岩倉織田家が劣勢)とあるように、岩倉織田家相手に善戦します。

『大乗院寺社雑事記』によれば、

明応5年(1496年)3月2日、清洲・岩倉織田家が戦い、お互いに多くの死者を出し、

4月10日には斎藤妙純の仲介で停戦したものの、

5月20日ころには戦いが再開されていたようです。

織田敏定・織田寛定と父・兄を失う逆境の中で、約一年間も持ちこたえていた織田寛村は優秀であったといえますが、

美濃では明応5年(1496年)5月30日に清洲織田家が援助する石丸利光が敗れて一族と共に自害してしまい、状況は最悪なものになってしまいます。

しかし、ここで国外で大事件が起こり、尾張の状況はまた変わっていくことになるのです。

2023年3月16日木曜日

「1791年5月3日憲法の制定」の 2ページ目を更新!

 「歴史」「明治時代」のところにある、

1791年5月3日憲法の制定

2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

第一次ポーランド分割

 ついにポーランドが分割される時がやってきます(-_-;)

驚きなのは、ポーランド分割の理由が、ポーランド国外の事情も関わっていたということです。

ポーランドはなぜ分割されたのか?

今回はそれについて見ていこうと思います(゜-゜)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇第一次ポーランド分割(1772年)

1763年、アウグスト3世が死ぬと、ロシアの女帝エカチェリーナ2世の元愛人で寵臣、スタニスワフ(1732~1798年)がポーランドの王位につきます(スタニスワフ2世)。

国王選挙は、1万4000ものロシア兵がワルシャワを包囲する中で実施されました。

その結果、選挙は「なにごともなく満場一致で選出された」(スタニスワフ2世)。

ロシアに反発する声もありましたが、

スタニスワフはポーランド人、それもシュラフタ出身だったので、

ほとんど反対の声はなかったということです。

1767年には、ロシアは臨時議会を強行開催させ、

王国内の非カトリック教徒の権利を認めさせます(ロシアは正教会)。

当時、非カトリック(正教会・プロテスタント)は議員を出したり、

軍隊や行政機関で高い地位に就くことが認められていませんでした。

また、新しい教会を建設することも度々拒否されていたといいます。

議決の際には、議会はロシア兵に包囲され、議場内にも数名のロシア兵がいるという状態でした。

それでも司教たちが非カトリックの権利に反対する演説をしましたが、

ロシア兵は司教2名を逮捕、ロシアに送ります。

また、ポーランドの憲法はロシアの同意なしには変更できないことも認めさせました。

ここにポーランドは完全にロシアの傀儡国家となってしまったわけです。

シュラフタはバール連盟を作り、同じカトリックであるフランスやオーストリアの援助を得てロシアに抵抗しますが、一方で非カトリックである西ウクライナのコサックたちの反乱がおきたこともあり、1772年、ロシアに屈し、参加者たちはシベリア送りにされました。

(非カトリックに権利を認めることに反対する様子を、ヴォルテール「国民の4分の1が市民権を享受することを阻止するために」戦っている、と評した)

そしてこの年、ロシア・オーストリア・プロイセンによる第一次ポーランド分割が行われます。

分割を潔しとしない議員たちは議会に出席を拒否しました。分割反対派で出席した議員の一部は逮捕されました。その他の議員は賄賂(わいろ)を渡されていて、分割を認めてしまいます。

ロシアは9.2万㎢、オーストリアは8.3万㎢、プロイセンは3.6万㎢を得ました。

(ロシアは正教会地域・オーストリアはカトリック地域・プロイセンはプロテスタント地域)

面積では一番多いのはロシアですが、住民数ではオーストリアが一番でした。

一方、プロイセンが得た地域は面積は狭かったのですが、

グダンスク(ドイツ名はダンツィヒ)周辺の海に面した、経済的に豊かな地域を手に入れました。

これでポーランドは面積の30%、人口の35%を失いました。

このポーランド分割の背景には、

第一次露土戦争(1768~1774年)がありました。

オスマン帝国は隣り合うポーランドにロシアの勢力が伸びるのが好ましくなく、

フランスの後押しもあって、

1768年、バール連盟と戦っている途中のロシアに宣戦布告しますが、

オスマン帝国は陸に海に連戦連敗します。

(ロシアは1770年7月7日のラルガの戦いでは7万人のオスマン帝国軍を、7月21日のカグールの戦いでは15万人のオスマン帝国軍を撃破した。海では、バルチック艦隊を大回りさせて地中海に派遣し、1770年6月25~26日に行われた海戦でトルコ戦艦をほぼ全滅させることに成功した)

この状況を快く思っていない国がありました。オーストリアです。

オーストリアはバルカン半島は自身の勢力圏だと考えていたため、

ロシアがバルカン半島に進出するのを嫌がりました。

(この関係は第一次世界大戦まで変わってませんね💦)

オーストリアはオスマン帝国に協力してロシアと戦う準備を進め始めていました。

(1771年にはオスマン帝国を援助する秘密条約を結んでいた)

同じくポーランドを支援しているフランスも参戦するかもしれませんでした。

プロイセンのフリードリヒ2世はロシアと次のような条約を結んでいました。

どちらか片方が1つの国に攻撃された場合、もう片方の国は財政援助を行う。

どちらか片方が2つの国に攻撃された場合、もう片方の国は歩兵1万・騎兵2千を派遣する。

オーストリアも戦争に参加するとロシアは2国から攻撃されたという形となり、

プロイセンは援助だけではすまなくなる。フランスも加わると大戦争になってしまう。

フリードリヒ2世はこれを嫌がり、戦争を回避する案を考え出します。

それがポーランド分割でした。

ポーランド分割はロシア・プロイセン・オーストリア三者にとって得であり、

これでオーストリアはロシアに対して口をつぐんだのです。

つまりポーランドは大戦を抑えるための犠牲にされたのです。

第二次世界大戦前のチェコスロバキア(第二次世界大戦を抑えるために、イギリスなどがドイツがチェコスロバキアを併合することを認めた。この際、ポーランド・ハンガリーもチェコスロバキア分割に加わっている)を思い出させるできごとでした。

大国だったポーランドが衰えたのはなぜか

 16世紀にロシアを上回るほどの繁栄を誇ったリトアニア=ポーランド王国も、

17世紀になると途端に衰えていきます💦

なぜポーランドは力を失ってしまったのか、

今回はそれについて見ていこうと思います(゜-゜)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇斜陽

1620年、ポーランドはオスマン帝国と戦い、ツツォラの戦いで大敗します。

1621年、三十年戦争などで有名なスウェーデン王グスタフ2世アドルフの攻撃を受け、

スウェーデン・ポーランド戦争(1621~1629年)が起き、

序盤はリトアニアのリガを失うなど敗戦を重ねますが、次第に体勢を立て直し、

1629年に戦争は終結しますが、リトアニアの一部を失ってしまいます。

ヤン2世(1609~1672年)の時、

ウクライナでシュラフタによる収奪に怒りを覚えていたコサックたちの反乱(1648~1654年)があり、

1654~1660年にはロシア・スウェーデンと戦争になり、

ロシアとの戦争に敗れてウクライナの領土などを失い、スウェーデンとは苦戦しながらも押し返しますが、リガを失ってしまいました。

1640年以降のポーランドは経済的にも下降線をたどるようになっていました。

それまでの主力商品であった穀物の売り上げが低下していったのです。

なぜかというと、西ヨーロッパでジャガイモの栽培がおこなわれるようになったことが大きいと言われています。

西ヨーロッパでジャガイモが栽培されるようになったのは、

大航海時代の結果、アメリカ大陸からジャガイモが伝わったことによります。

さらにこの頃(1648~1660年頃)のポーランドは戦争とペストの流行により、

人口の4分の1を失い、国力は大きく低下していきました。

退潮のポーランドを盛り返させたのがヤン3世(1629~1696年)であり、

彼は1673年、ホチムの戦いでオスマン帝国を破って名を挙げ、

翌年、王に選ばれた男でした。

1683年、オスマン帝国によるウィーン包囲が起きると、

オーストリアと連合していたポーランドはこれを救援、

ヤン3世は軍制改革に努めて強化していた重装騎兵でオスマン帝国軍に突撃してこれを破り、

キリスト教世界の英雄と呼ばれるようになりました。

しかし一方でロシアの力は次第に強まってきており、1686年、ヤン3世はロシアの圧力に屈してロシアにとって有利な条約を結ぶことになります。

また、ヤン3世は、選挙で選ばれた弱みもあり、シュラフタに対して強く出ることができませんでした。

当時、議会は完全一致制で、1人の反対でもあれば議事は決まりませんでした。

17世紀後半に開かれた44回の議会のうち、15回は中断があり、2回は一つも法律を作れずに解散されたといいます。

ポーランドは前進しようにも、シュラフタに足を引っ張られていたのです。

次に王に選ばれたアウグスト2世(1670~1733年)の時に、

絶対王政を導入しようとしてシュラフタとの内戦が起こり、これにロシアが介入して解決したので、ますますロシアの影響力は強まっていきました。

アウグスト2世が死ぬと後継をめぐってポーランド継承戦争(1733~1735年)が起こりますが、

アウグスト3世(アウグスト2世の子。1696~1763年)はロシアの力を借りてこの戦争に勝利、国王になりますが、ここまでくるとロシアとの優劣は明らかでした。

こういう状況の中で、国王を中心に団結してロシアに立ち向かっていかなければならないはずですが、

ルソーは、『ポーランド政府論』(1771年)で、「ポーランド民族は、すべてであるシュラフタと、無である市民、無以下の農民、の3つの身分からなる」と述べているように、

シュラフタたちは自己の権益のことばかりを考えて行動しており、

また、彼らの横暴により、18世紀前半には議会はまったく機能しなくなっていたといいます。

ポーランドは自ら壊れていったのです。

ヨーロッパの大国、リトアニア=ポーランド王国

 現在のポーランドもヨーロッパの中では大きいほうではあるのですが、

(面積は31万㎢で、ヨーロッパでは9位、世界では69位)

最盛期のポーランドは面積は現在の3倍以上の100万㎢もありました(◎_◎;)

(現在のヨーロッパだとロシアに次いで2位に入る大きさになる。

2位のウクライナは60万㎢なので、それよりも1.7倍ほど大きい)

今回はヨーロッパの大国であった時のポーランドについて見ていこうと思います😆

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇ポーランド王国の誕生

現ポーランドの起源は、民間の言い伝えによるものですが、グニェズノの近くに住む貧しい農夫のピャストの子、シエモウィトという者が、8世紀にポピェルという現地の君主を倒して支配者となったことに始まると言います。

その後、シエモウィトのひ孫にあたるミェシュコ1世(935?~992年)の時にキリスト教に改宗、神聖ローマ帝国に貢物を差し出すなどして神聖ローマ帝国を後ろ盾にすることに成功(これでポーランド公となる)、その援助を受けてボヘミア王国(現在のチェコ)からシロンスク(ドイツ名シレジア。ポーランド南西部にあたる)を奪うなど勢力を拡大、

次のボレスワフ1世勇敢公(966?~1025年)はその異名の通り勇猛で、ボヘミア王国からクラクフ周辺を攻め取り、

さらには神聖ローマ帝国からも(!)土地を奪いました。

死ぬ直前に王位につき、ポーランド公国は王国に昇格しています。

ボレスワフ1世死後のポーランドは混乱が続き、

王が亡命したり、ボヘミアの反撃に遭ったり、神聖ローマ帝国と争ったり、

モンゴル軍の侵入を受けたり、ドイツ騎士団の東進を受けたりして衰退していきました。

その中で現れたカジミェシュ3世 (大王。1310~1370年)は外交で譲歩しながら(ドイツ騎士団に東ポモージェ[グダンスク(ドイツ名ダンツィヒ)を含む海岸沿いの地域を、神聖ローマ帝国にはシロンスクを譲った)ドイツ騎士団・神聖ローマ帝国と和睦に成功して情勢を安定させた上で、

ハンガリーの支援を受けてウクライナ方面に領土を拡大させました。

これだけ見ると「大王」と称されているのがナゾなのですが、

カジミェシュ3世の功績は主に内政面にあり、

①クラクフに大学を設置、②刑法などの法典の整備、③私有地化されていた王家の土地を回収、それに反発して起きた反乱を鎮圧、④貨幣改革、⑤税制改革…などを行って、のちのポーランド王国の隆盛の基盤を築きました。

ドゥウゴシの書いた年代記には、「カジミェシュ3世は土と木でできたポーランドを煉瓦のポーランドに変えた」と記されています。

このカジミェシュ3世は1370年、落馬がもとで死にましたが、跡継ぎとなる男子がいなかったため、

甥にあたるハンガリー王ラヨシュ1世(1326~1382年)が王に選ばれ、ルドヴィク1世となります。

この際、ルドヴィク1世は王に選ばれるために、貴族(シュラフタ)たちに新たに税を課さないという譲歩をしていました。

このルドヴィク1世も男子が無く、

中小貴族たちに対し、毎年6~24グロシュ納めさせていた土地税を永久に2グロシュに引き下げる・それ以外の負担をほぼ免除するという譲歩の代わりに、末娘のヤドヴィガ(1373?~1399)を女王にすることを認めさせます。

ポーランドは混乱の中で貴族の力が高まっていたのですが、ルドヴィク1世の2度にわたる譲歩により、決定的に貴族が大きな力を持つようになります。

〇ヨーロッパの大国~リトアニア=ポーランド王国

ポーランドは一時、ヨーロッパで最大の面積を持つ国だったことがあります。

1386年、ポーランド女王のヤドヴィガと、リトアニア大公ヨガイラ(1362?~1434年)が結婚して、リトアニア=ポーランド王国が成立したのですが、

その面積は100万㎢、人口は1200万を数えました。

ヨガイラはポーランド王家と特段血のつながりはなかったものの、

東に勢力を広げつつあったドイツ騎士団という共通の敵がいたこともあって(1383年にはドイツ騎士団にリトアニアの首都のヴィリニュスを攻撃され大略奪を許している)、

結婚と相成ったのです。

ヨガイラはポーランド名ヤギェウォで、ここから始まる王朝をヤギェウォ朝(ヤゲロー朝)といいます(1386~1572年。日本だとほぼ室町時代にあたる)。

ヨガイラは即位してヴワディスワフ2世と名乗り、

1410年にドイツ騎士団に戦いを挑んでグルンヴァルト(タンネンベルク)の戦いでこれに勝利します。しかし、ドイツ騎士団の首都、マリーエンブルクを包囲してもこれを陥落させるだけの力はまだありませんでした。

その後も断続的にドイツ騎士団と争ったヴワディスワフ2世は、1422年、メルノの和約によりジェマイティヤ(リトアニア北西部で海岸部にあたる)を奪い返すことに成功しました。

ヤギェウォ朝3代目のカジミェシュ4世(1427~1492年)は1454~1466年の13年戦争で、再びドイツ騎士団を破り、マリーエンブルク(マルボルク)を陥落させ、東ポモージェの回復に成功します。

ドイツ騎士団との戦いは1525年、ジグムント1世(1467~1548年)の時に終わりを告げ、騎士団はポーランドに臣従し、騎士団領はプロイセン公国となり、ポーランドの保護下に入りました。

しかし一方で東方ではモスクワ大公国との戦いが始まり、イヴァン3世(1440~1505年)の前に大幅に領土を削り取られ、続くヴァシーリー3世(1479~1533年)によって1514年、重要都市スモレンスクが陥落させられました。

また、ポーランド国内では中小貴族たち(シュラフタ)がますます勢力を拡大させており、

高位の聖職者と貴族の筆頭だけが参加できていた国王評議会に加え、1493年には下院(代議院)が作られてシュラフタたちも代表者を出席させて国政に参加できるようになり、国王評議会は規模を拡大させて全国議会(セイム)となっていましたが、

1505年には国王はこの議会の同意なしに新たに法律を作ることができなくなり、

1530年には全国議会(セイム)でシュラフタたちにより王は生きている間に王位継承者を決めることが禁止(王の死後、その子どもたちの中から選挙で選ぶ)、

1537年の戦争の際にはジグムント1世のシュラフタ軽視の傾向に反発して戦争への参加を拒否、ジグムント1世が動員令の撤回に追い込まれるなど(1422・1454年の戦争の際にもシュラフタたちが参加を拒否している)

王の力は相対的に低下していっていました(-_-;)

次のジグムント2世(1520~1572年)が跡継ぎ無くして死ぬと、

その後は全てのシュラフタが加わった選挙により王が選ばれるようになりました。

それによって選ばれたのが、なんとフランス皇子のアンリ(ポーランド語ではヘンリク)でした。

即位にあたって、シュラフタたちは新国王に①存命中に後継者を決めないこと、②開戦・講和については議会と協議して決めること、③特別税は議会の承認を必要とすること、④国王が以上の約束を守れない場合は家臣たちは忠誠を拒否できること、を認めさせようとしましたが、

ヘンリクはこれを拒否、1574年にはポーランドを脱出してフランスに帰国、急死した兄の跡を継いでアンリ3世(1551~1589年)となりました。

王がいなくなったため再び選挙が行われ、王となったのはハンガリー貴族でトランシルヴァニア公のステファン・バトルィ(1533~1586年)でした。

当時、ポーランドとロシア(元モスクワ大公国)は、16世紀後半にリヴォニア(エストニア南部・ラトビア北部)をめぐって断続的に抗争を続けていました。

1558年、ロシアのイヴァン4世(1530~1584年。モスクワ大公であったが、1547年に皇帝となった)はリヴォニアを攻撃し、1563年にポロツクを攻略するなど戦いを優勢に進めていましたが、

バトルィは王に即位すると、ロシアに対し積極的に反撃し、1579年にポロツクを奪い返し、1581年には逆にロシアに攻めこんでプスコフを包囲しました。

苦戦したイヴァン4世は1582年、ポーランドと休戦協定を結び、ロシア軍はリヴォニアから撤退、リヴォニアはポーランドに戻ることになりました。

バトルィは国内では大貴族(マグナート)のサミュエル・ズボロフスキと対立、1584年にこれを処刑してシュラフタと緊張が生じることになります。

1586年、バトルィが子どもの無いままに死ぬと、スウェーデンの王子が選挙で王に選ばれ、

ジグムント3世(1566~1632年。1592~1599年にはスウェーデン国王も兼ねたが、1599年に叔父のカールとの内戦に敗北してスウェーデン王位を失った)として即位します。

ジグムント3世はバトルィの路線を引き継いで、ロシア攻撃とシュラフタ弾圧を目論みます。

絶対王政を望んだジグムント3世とシュラフタたちは対立、ついにシュラフタと内戦状態(1606~1609年)となりますが、ジグムント3世は1609年、これを屈服させ、以後、シュラフタの力は弱まっていきます。

国内をおさめたジグムント3世は、1609年、さっそくロシアに遠征し、1610年、クルシノの戦いでロシア軍を破ったポーランド軍は、なんとモスクワまで進出してこれを占領し(翌年にはモスクワから撤退)1611年には約100年ぶりにスモレンスクを奪回しました。1618年、ロシアと休戦協定を結び、ロシアから多くの領土を奪い取ることに成功しました。

この時の領土がポーランドの最大領土で、ポーランドは絶頂の時を迎えました。

経済的にもポーランドは非常に好調で、ヨーロッパの人口増加に伴ってポーランド・ウクライナの平原で生産される穀物の需要が高まり、

1490年頃には6000ラスト輸出していた小麦・ライ麦は、

1620年代には7万5000ラストも輸出されるようになっていました。

この頃、ポーランドで生産された穀物は約60%も輸出に回されていたといいます。

当時、シュラフタは関税免除・外国商人と直接契約できるなどの特権を手に入れており、そこから得られる富はかなりのものになっていたようです(◎_◎;)

木戸孝允とポーランド

  東ヨーロッパの国、ポーランドは、

1795年に周囲の3カ国に分割されて、1918年まで滅びてしまっていた時期があります。

ポーランドはなぜ滅びることになったのか。

ポーランドが滅びたことは、明治時代の日本人たちにも影響を与え、

同じような道を歩まぬように反面教師とされていきます。

ポーランド滅亡は決して遠い過去の話ではなく、

現在でも起こりうることです。

その原因について学ばなければいけません。

※マンガの後に補足・解説を載せています。


〇木戸孝允、ポーランド滅亡を語る

木戸孝允(1833~1877年)は1871年12月より、1873年9月まで、岩倉使節団の一員として欧米を回りました。

帰国後の10月、木戸孝允は演説をしましたが、その際にポーランド滅亡について触れ、日本に警鐘を鳴らしています。

「…私は汽車に乗ってプロイセンからロシアに行くときに、悲しい笛の音色を聞いて目が覚めた。ガラス窓を開けると、ポーランドの住民がお金をめぐんでくれるように願っているのだった。私はポーランドの栄えていたときを思い、涙が流れるのを止めることができなかった。…」

原文:(…予火車に駕し、普より魯に行く、一暁悲に徹し、残夢たちまち破る、起ちて玻璃窓を推せばホーランドにして、土人の旅客に銭を乞うものなり、よってその盛時を追想し、涙禁ぜざるものこれを久しうす…

2023年3月15日水曜日

絶頂期の織田敏定~簗瀬河原の戦い(第二次六角征伐)

 第一次六角征伐で斯波氏は大軍で出陣し、

その貢献度の高さでもって朝倉氏に奪われた越前の奪還を幕府に承認してもらおうとしたのですが、

朝倉氏は管領細川政元と親しく、聞きいられなかったので、

斯波氏は勝手に帰国してしまいます。

悶々とする斯波義寛織田敏定でしたが、

なんと、越前を取り戻すチャンスが舞い込んでくることになります…(◎_◎;)

それはなぜか。

将軍・足利義尚が突然病気で倒れ、23歳の若さで亡くなったからでした。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇第二次六角征伐での織田敏定の活躍と朝倉征伐の内定

1489年、9代将軍・足利義尚が死ぬと、跡を継いだのは足利義尚の父・足利義政の弟、足利義視の子、…つまり、従兄弟の足利義材(のちに義稙。1466~1523年)が10代目の将軍となります。

しかし、1491年、後見人である足利義視が亡くなると足利義材の立場は急に微妙なものとなってしまいます。

当時の幕府の実力者は足利義政の妻・日野富子と管領・細川政元でしたが、

日野富子とは親の足利義視が対立したため仲が悪く、

(日野富子が足利義材の従兄弟にあたる[義材の父である義視の兄、政知の子]である清晃[のちの足利義澄]を大事にしたため)

細川政元とは、義材が庶流の阿波細川家の細川義春を重用したため(足利義材の妻は細川義春の妹)仲が悪くなっていました。

その中で父・義視を失ってしまったので、義材は心細い気持になったでしょう。

そこで義材は、義視が死ぬ前から考えていた、六角征伐を成功することで、

将軍として存在感を発揮するための実績作りをしようとしました。

(表向きには討伐の理由は、六角高頼が勢いを取り戻してきたから、ということにしていました[『蔭涼軒日録』])

延徳3年(1491年)3月に実施予定であった六角征伐は、1月に足利義視が病死したことにより延期されていましたが、

4月21日、ついに足利義材は六角征伐を6月に行うことを宣言しました(実際出陣したのは8月27日)。

すると、命令を受けた大名だけでなく、命令を受けていないものまで参陣したため、

「雲の如し、霞の如し」「惣じて数万人なり。…常徳院殿(足利義尚)御出陣に百倍なり」『大乗院社事雑事記』『実隆公記』)とされるほどの大軍になったといいます。

集まった大名には、細川・畠山・斯波の三管領家をはじめとして、赤松・山名・京極・一色の四職、阿波細川家・淡路細川家・若狭武田・土岐・北畠・仁木・大内氏がいました。

大軍で攻め寄せる幕府軍に対し、六角氏は前回と同じように甲賀郡に逃げ込んでゲリラ戦を展開します。

その中で六角高頼は11月4日に、重臣の六角(山内)政綱を使者として送り、和睦を図りますが、

足利義材はなんと、織田敏定と浦上則宗(赤松氏の重臣。 侍所所司代・山城守護代。1429~1502年)に命じて六角政綱を襲わせ、その配下30余人ともども殺させます。

織田敏定はこの後、剣を義材から与えられ、人々は「千載の名望」であると羨んだといいます。

翌年(延徳4年[1492年])3月、六角氏は反撃に出て、幕府軍の先鋒、細川氏の家臣・安富元家を攻撃し、これを敗走させることに成功します。

これに対して足利義材は赤松・斯波・若狭武田に攻撃を命令します。

『蔭涼軒日録』などによれば、この総大将は斯波でした。

そして出撃したのが織田敏定(斯波)、浦上則宗(赤松)、逸見弾正(若狭武田)が指揮する1千の兵でした。

延徳4年3月29日、簗瀬河原(東近江市)で織田敏定らの1千は六角氏の4千の大軍と激突し、なんとこれに大勝します。

敵の首の多くは織田敏定が奪ったといいますから、織田敏定は大活躍したわけです。

足利義材は続いて斯波義寛を先鋒に任じ、甲賀郡を攻撃させます。

六角高頼は伊勢国に逃れますが、そこでも北畠氏の攻撃を受け、多くの損害を被って壊滅してしまいます。

足利義材はここで勝利宣言を行い、明応元年(7月19日に明応に改元した)(1492年)12月14日に京都に凱旋しました。

足利義材の得意や思うべし、です。

しかし、『菅別記』12月13日条には、

六角氏の籠もる甲賀郡を長い時間がたっても誰も攻めようとしない、人々はもう敵はいないと訴えたので、将軍は帰京を決めたという、これが事実であれば、将軍の帰京は甚だ迂闊(うかつ)であったといえよう…とあり、

また、『大乗院寺社雑事記』12月23日条には、

近江はまた六角氏のものに戻ってしまった。ひどいことだ…とあって、

どうやら当時の人々には六角征伐は失敗だと映っていたようです(◎_◎;)

そこで足利義材は翌年(明応2年[1493年])2月15日、

失敗を取り返すためか、余勢を駆ってかはわかりませんが、

今度は河内の畠山基家(第二次六角征伐に参加した畠山尚順と対立していた人物。応仁の乱で活躍した畠山義就の子。1469~1499年)征伐に乗り出しますが、

足利義材は畠山征伐を終えた後は越前朝倉氏征伐を考えていたといいます。

『蔭涼軒日録』延徳3年(1491年)10月11日条には、

伝聞形式ではありますが、

六角征伐に参陣中の斯波義寛が足利義材から、

(朝倉)貞景御退治」と書かれた朝倉貞景討伐の命令書を受けとった、と書かれています。

それに対し、織田敏定は「貞景」の二字だけではわかりにくいので、

「越前国朝倉孫次郎貞景」と書き改めていただけないか、

と足利義材に伝えたところ、

そのように御内書が改めて作り直されたので、斯波義寛は面目を保つことができた…と書かれています。

「…武衛(斯波義寛)賜御内書、(朝倉)貞景御退治云々、織田大和守(敏定)聞于相公(足利義材)云、貞景之二字許如何、改書云、越前国朝倉孫次郎貞景退治云々、如此御改書有之、弥武衛御面目之至也云々、…」

足利義尚は朝倉氏に親和的でしたが、打って変わって足利義材は朝倉氏に否定的だったことになります。

応仁の乱の際に、父・足利義視の属した西軍を裏切った朝倉氏に怒りを持っていたのかもしれません。

元家臣だった朝倉氏が独立している状態になっていて、なんとかしたい斯波義寛、自分より格下であったのに越前守護まで成り上がった朝倉氏に不満を覚えている織田敏定の両名にとって、この話は願ってもみないものだったでしょう。

『大乗院寺社雑事記』明応元年(1492年)2月21日の条には、

…どうやら朝倉は越前から退き、元のように斯波が越前を治めることになるらしい、と人々が噂していた…、と書かれており、当時、斯波氏の越前復帰は世に広く知られるまでになっていたことがわかります。

織田敏定は六角征伐で大功を挙げ、そして将来の朝倉征伐の承認も得ました。

この時がまさに織田敏定にとっての絶頂であったのです。

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