社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 9月 2023

2023年9月28日木曜日

滋賀・三重・和歌山の産業

  何かに特化している町は面白いですね! 😍

今回は近畿地方の都道府県のうち、

「滋賀・三重・和歌山の産業」について見ていきます!😋

3つの県を比べると、

滋賀・三重が第二次産業

和歌山が第一次産業第三次産業とが盛んだということがわかりますね。

でも、これらの県ではなぜその産業がさかんなのでしょうか??(゜-゜)

その理由について探ってみましょう!!😆

※マンガの後に各市町村についてまとめた表を載せています!!




甲賀市の工業団地

















2023年9月26日火曜日

[明治日本にも影響を与えたポーランド分割]「コシチュシュコの蜂起」の4ページ目を更新!

 「歴史」「ヨーロッパ史」のところにある、

[明治日本にも影響を与えたポーランド分割]コシチュシュコの蜂起(1794年)4ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

[明治日本にも影響を与えたポーランド分割]「コシチュシュコの蜂起」の 3ページ目を更新!

 「歴史」「ヨーロッパ史」のところにある、

[明治日本にも影響を与えたポーランド分割]コシチュシュコの蜂起(1794年)

3ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年9月24日日曜日

[明治日本にも影響を与えたポーランド分割]「コシチュシュコの蜂起」の 2ページ目を更新!

 「歴史」「ヨーロッパ史」のところにある、

[明治日本にも影響を与えたポーランド分割]コシチュシュコの蜂起(1794年)

2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年9月22日金曜日

コシチュシュコの蜂起(1794年)

 1792年の5月から7月にかけて行われたポーランド・ロシア戦争で敗北したポーランドは、

1793年9月に、ロシアとプロイセンによる第二次ポーランド分割に遭います。

そしてポーランド分割後も、残ったポーランドに対してロシアは圧力を強めていきます。

これに対して、ポーランドは最後の抵抗を試みることになるのです…!(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



〇コシチュシュコの蜂起

第二次ポーランド分割後、ポーランドのタルゴヴィツア連盟政府はロシアの言われれるがままに政策を実行し、

5月3日憲法は廃止され、

出版物の検閲が行われて、タルゴヴィツア連盟政府・エカチェリーナ2世・ロシア軍人を批判する文書の出版が禁止され、

ロシアに対してわずかでも抵抗を考えている者は警察により逮捕されました。

また、国の財産に対する収奪も行われ、ワルシャワの7つの銀行が倒産しました。

1793年12月、駐ポーランドのロシア軍最高司令官オシップ・イゲルストロムは特使・全権公使に任命されると、

ポーランドに対し、

戦争で大きな活躍をしたポーランド人に与えられるヴィルトゥティ戦争勲章を身に着けることを禁止、

ロシアの検閲なしに議会が法律を作ることを禁止しました。

さらに、1794年2月、ポーランド軍を15000人から7500人に削減し、減らした分の兵士をロシア・プロイセン軍に編入することを決定しましたが、

強まるロシアの圧力に不満と危機感を募らせていたポーランドの人々は、この決定に我慢がならず、ついに蜂起を決意します。

1794年3月12日、アントニ・ユゼフ・マダリンスキ将軍はロシアの決定に従わずに部隊をクラクフに向けて進軍させました(ワルシャワを迂回して進むためにプロイセン領内を通ることになり、プロイセン軍と何度か小競り合いになった)。

これを受けて各地で反ロシアの暴動が起こっていきます。

ポーランド・ロシア戦争で敗北した後、国外に逃れ蜂起の計画を練っていたコシチュシュコは慌ててポーランドに帰国し、

3月24日、クラクフの教会で他の蜂起メンバーと、サーベルを手に祖国を守る決意を誓いあった後、

クラクフの広場にて蜂起を宣言します。

「不幸なポーランドの現状は世界に知られている。隣接する 2 つの大国の邪悪さと祖国に対する裏切り者の犯罪により、この国は奈落の底に突き落とされた。エカチェリーナ2世は不誠実なフリードリヒ・ヴィルヘルムと共謀して、ポーランドの名をこの世から無くそうとしてこのような不法行為をしたのだ。この2つの政府がその貪欲のために行っていない犯罪、嘘、偽善、欺瞞はない。ポーランドの独立・幸福の保証人であると恥知らずにも宣言したロシア皇帝は、ポーランドの国々を引き裂き、分裂させ、独立を侮辱し、絶え間ない災難によってポーランドを苦しめた。ポーランドがその暴力的な束縛に嫌気がさして自治権を取り戻すために立ち上がったとき、祖国の裏切り者たち[タルゴヴィツア連盟]を利用し、陰謀でもって、全国議会(セイム)と国民が全権をゆだねた国王に国を守ることを巧妙に思いとどまらせた後、すぐに恥ずべき裏切り者たち[タルゴヴィツア連盟]を裏切った。このような策略により、ポーランドの手中に収めたエカチェリーナ2世は、フリードリヒ・ヴィルヘルムとともに、彼らの飽くなき欲望を満たすために、隣接諸国を支配して暴虐の限りを尽くしている。彼らは、ポーランド共和国の永遠不滅の財産を奪い、犯罪的な議会で分割の承認を得て、隷属と奴隷の宣誓を強制し、国民に最も厳しい義務を課した。このことは、彼らが北ヨーロッパの国々を収奪するための獲物として見なし、法律も国境も彼らの好み次第であると考えていることを示している。それにもかかわらず、ポーランドの他の地域は、このような恐ろしい状況が改善しようと手伝おうともしない。その間に、ロシアの皇帝はヨーロッパ列強にとって危険な計画を隠しながら、野蛮で容赦のない仕打ちをポーランドに与えた。それは、自由、安全、個人の財産という最も神聖な権利を踏みにじるものであり、ポーランド人の考えや感情もまた彼女の迫害から逃れる術を知らず、制限をかけられた。祖国への裏切り者だけが、いかなる犯罪を犯しても処罰されない。彼らは、国民から財産を奪い取り、敗戦した祖国から戦利品を得たかのように、国家の職を自分たちで分け合った。そして、国の名を借りて、外国の言われるがままに命令されたことすべてを卑劣に実行する。ロシアから送られた特使は、議会で法律が可決されるとすぐに、法律を変更、または破壊してしまう。一言で言えば、国家の政府、国民の自由、安全、財産は皇帝の奴隷である召使いの手に委ねられており、国内にはびこるその軍隊はロシアの不法行為の盾となっている。ポーランド国民はこの巨大な不幸に打ちのめされ、敵の武力よりも裏切りに苦しめられ、国家・政府からのわずかな保護もなく放置され、そのために自由、安全、財産という最も神聖な権利を失ってしまっている。

私たちポーランド人、クラクフ県の住民は、暴君が未だに私たちから奪えていない1つの財産として祖国に人生を捧げており、滅びて自国の廃墟に自らを埋めるか、祖国を略奪的な暴虐と恥辱的な束縛から解放するか、という揺るぎない決意を持って、私たちは最後の暴力的な手段に頼ることにします。私たちは神の前で、人類全体の面で、すなわち世界のあらゆる財産よりも自由が大切にされている諸国民の前で、次のように宣言します。

圧政と武力・暴力に対する抵抗権を行使し、私たち全員が兄弟であるという精神で力を結集します。そして、私たちの偉大な事業の成功は、私たち全員の緊密な団結にかかっていると信ずるが故に、これまで一つの土地の住民、一つの祖国の住民、そして私たち全員を分断してきた、あるいは分断する可能性があるすべての偏見や意見を放棄し、お互いに犠牲や手段を惜しまないことを約束します。ポーランドを外国の兵士から解放し、すべての国境を回復し確保し、国内外のあらゆる暴力と収奪を根絶し、国民の自由とポーランド共和国の独立を強固にすること、これが我々の蜂起の神聖な目標である。結果が失敗に終わったとしても、我が祖国とその住民の現在の状況を考えると、蜂起は避けられないことであり、私たちにとって必要なことです。そこで、私たちは全員の共通の意志により、以下のことを決定します。

1. 我々は、タデウシュ・コシチュシュコを武装蜂起全体の最高かつ唯一の司令官および統治者として選出し、この宣言により承認する。

2. 前記国軍最高司令官は、直ちに最高国家評議会を召集する。私たちは、この評議会の人選とその組織化を速やかに進める。

3. 長官の権限には、国軍の設立、すべての軍階級の人物の指名、祖国の敵に対するこの軍の使用方法が含まれる。

5. 国家最高評議会は、国軍の維持、および我が国の蜂起に必要と思われるすべての経費のために国庫を提供する。また、我が国のために諸外国からの支持と援助を得るよう努める。…(以下略)」

そしてコシチュシュコは不足する兵を補うため、クラクフのあるマウォポルスカ県に対し、5つの家につき、1人の割合で兵士を出すことを求めました。

しかし蜂起の失敗を懸念したためか、兵士はなかなか集まらず、目標の1万人には達しませんでした。

そこでコシチュシュコは他の地域から兵士を集めるために移動を開始しますが、

ロシアも黙っておらず、討伐のための兵を動かしていました。

移動する両軍は、ラツワヴィツェにおいて激突することになります…!🔥

〇ラツワヴィツェの戦い

4月1日、コシチュシュコは1000の兵を率いてワルシャワに向けて北上を開始、途中で他の部隊と合流して兵力を4000ほどにまで増加させつつ(この中には大鎌で武装した農民兵約2000も含まれていた[大鎌で武装した農民兵をコシニェジという])、まずスカルブミエシュを目指しました。

そこにはロシア軍のフョードル・デニソフの部隊が駐屯しており、ポーランド軍の接近を知ったデニソフは、4月4日の早朝、ポーランド軍を挟撃することを考えて部隊を2つに分け、1つの部隊(兵力:2500)を自分自身が、1つの部隊(兵力:3000)をトルマソフが指揮することとし、前日ポーランド軍がいたコニウザに向かいます。

一方のコシチュシュコも朝にコニウザから進軍を開始、午前6時頃、トルマソフ軍に属するアンドリアン・デニソフ(フョードル・デニソフの甥)のコサック部隊と衝突しました。

ここで得た捕虜からロシア軍の挟撃作戦を知ったコシチュシュコは、軍を迂回させて挟撃を回避する作戦を取ることにします。

トルマソフはそうはさせじと行く手を阻む形で移動しました。

午後になって両軍は本格的に衝突、戦いは激戦となりましたが、兵力的にポーランド軍が優勢だったこともあり、トルマソフ軍は敗北して逃走します。

この時になってデニソフ軍が到着しましたが、時すでに遅し(ポーランド軍がコニウザから移動したことを知らなかったことと、前日の雨で地面がぬかるんでいたため、戦場に到着するのが大幅に遅れた)。

大砲を数発放っただけで退却せざるを得ませんでした。

こうしてラツワヴィツェの戦いはコシチュシュコ軍の勝利に終わったわけですが、

この戦いでは大鎌で武装した農民兵たちの奮戦が光り、

コシチュシュコは特に活躍したバルトシュという農民をほめ、

彼を昇進させるとともに、シュラフタの身分とグウォヴァツキの姓を与えています。

一方、ポーランド軍は勝利しましたが、少なくない被害を受けていたのと、デニソフが再びやってくるのを警戒して、コシチュシュコはワルシャワ行きをやめ、クラクフに戻ることを選択しました。

ワルシャワ進軍はうまくいきませんでしたが、コシチュシュコはこの勝利を広くアピールします。

その結果、ポーランド各地で蜂起が広がっていくことになりました。

〇ワルシャワ蜂起

ラツワヴィツェの勝利がポーランド全国に伝わると、首都ワルシャワも騒然としてきました。

これに対し、国王スタニスワフ2世は、コシチュシュコの蜂起に反対する文書に署名したうえで、国民に対し、フランス革命はまちがっている、フランスを頼ってはいけない、落ち着いて行動するようにと伝えます。

そして、ロシアの特使にして駐ポーランドのロシア軍最高司令官のオシップ・イゲルストロムに、ロシア軍と共にワルシャワの外に避難させてくれるように頼みました。

イゲルストロムはこれを拒否し、ワルシャワに入ってくる郵便物の検閲を始めたり、怪しい動きを見せる人物の逮捕を命じたりするなど、蜂起の動きを弾圧を強めることで抑え込もうとします。

また、ワルシャワのポーランド人守備隊の武装解除と、兵器庫の制圧の準備も進めさせました。

一方、コシチュシュコはトマシュ・マルシェフスキを密かにワルシャワ市内に送りこみます。

トマシュ・マルシェフスキは革命同盟を結成し、仲間を集めてワルシャワでの蜂起の準備を進めました。

そこにロシア軍が兵器庫の制圧を実行に移そうとしている、という情報が入り、革命同盟は蜂起を決意します。

4月17日の3時半、まだ暗い中で革命同盟は行動を開始、兵器庫に向かいました。

5時、ロシア軍は兵器庫への攻撃を開始しますが、ポーランド守備隊と援軍としてやってきた革命同盟軍の攻撃を受けて撃退されます。

兵器庫を確保した蜂起軍は、市内各地で防衛線を張るロシア軍と衝突、激戦の末にこれを突破して王宮にせまりました。

翌日朝にイゲルストロムは降伏を伝え、蜂起軍が休戦に応じた隙を狙ってワルシャワから脱出します。

イゲルストロムを捕らえることはできませんでしたが、こうしてワルシャワでの蜂起は成功に終わることになりました。

4月23日にはリトアニアの首都ヴィリニュスでも蜂起がおこり、これもロシア軍を追い出すことに成功しています。

4月25日、リトアニアの指導者のひとりであり、リトアニアをロシアに編入することを提案したり、リトアニア軍を削減する計画を立てたりしたシモン・マルシン・コサコウスキーはヴィリニュスで裁判にかけられ、公開絞首刑となりました。

これにワルシャワも続きます。

タルゴヴィツア連盟政府の主要メンバー、ユゼフ・アンクヴィチ、ユゼフ・コサコウスキ、ピョートル・オジャロフスキ、ユゼフ・ザビウォは捕らえられて裁判に懸けられました。

(ユゼフ・アンクヴィチ:第二次ポーランド分割の際、議員たちが反対の意思を無言をもって示した時、議長に対し、「沈黙は同意を意味する」と助け船を出した人物。

ユゼフ・コサコフスキ:タルゴヴィツア連盟のリトアニアにおける指導者であった人物。

ピョートル・オジャロフスキ:ワルシャワの司令官となり、政府とロシア軍に対し怪しい活動をするものを監視・逮捕した人物。裁判の尋問で分割条約に署名したこと、その時ロシアから金をもらったこと、コシチュシュコ蜂起に対し鎮圧を命じたことを認めた。

ユゼフ・ザビウォ:ポーランド・ロシア戦争で早々にポーランド軍を裏切り、タルゴヴィツア連盟に味方し、のちにリトアニアの副指揮官となった人物)

5月9日、4人は死刑を宣告され、公開絞首刑となります。

ユゼフ・アンクヴィチは「分割条約に署名したことは死刑に値する」と言い、堂々とした態度で絞首刑に臨んだといいます。

この4人の処刑だけではワルシャワ市民の不満は解消されず、6月28日、市民たちはタルゴヴィツア連盟に参加していたメンバーで、刑務所に入れられていた者たちを引きずり出して、勝手にこれを絞首刑にしてしまいます(◎_◎;)

(イグナツィ・マサルスキ:ヴィリニュス司教・国家教育委員会委員

アントニ・チェトヴェルチンスキ:リトアニア税務委員会委員

カロル・ボスキャンプ=ラソポルスキ:第二次ポーランド分割の際、反ポーランドのパンフレットを書いた

マテウシュ・ログスキ:警察署長)

他にも蜂起に非協力的で、ロシアとつながりがあると見なされ投獄されていた弁護士のミハウ・ウルファースなども処刑されました。

この頃は、フランスではジャコバン派による恐怖政治の時期にあたるため、これに影響を受けた可能性が高いですね…💦

コシチュシュコは、この動きに対し、「昨日ワルシャワで起こったことは、私の心を苦しさと悲しみで満たした…法律に従わない者には自由に値しない」と非難しています。

裁判所はまた、スタニスワフ・シュチェスニー・ポトツキ、フランチェスコ・クサウェリ・ブラニツキ、セウェリン・ジェブスキ、イェジ・ヴィエルホルスキ、アントニ・ポリカルプ・ズウォトニツキ、アダム・モシュチェンスキ、ヤン・ザグルスキ、ヤン・スチョシェフスキに対し財産没収の上、死刑を宣告、これらのメンバーはワルシャワにいなかったので、9月29日、代わりに人形や肖像画が吊るされています(◎_◎;)

〇ポワニエツ宣言

5月5日、ポワニエツに進んだコシチュシュコは、

5月7日、このポワニエツで重要な布告(ポワニエツ宣言)を出します。それは長年奴隷のような扱いを受けてきた、ポーランドの農民に関する布告でした。

その内容は農奴制を制限して農民の自由を与えるもので、

①農民の移動の自由

農民の地主に対する賦役を25~50%削減

(農民は領主の直営農場で無償で働かされていたが、週に5・6日働かされている者は2日分免除され、週に2~4日働いている者は1日分免除され、週に1日働いている者は2週間で1日分免除されることになった)

軍隊に参加している間、農民を農奴から解放する

軍隊に参加する農民を農地からの追放することの禁止

…といったことが書かれています。

コシチュシュコはこの布告の中でこう言っています。

「もしポーランド人が自分たちの強さを知っていて、その力のすべてを活用できていたら、ポーランド人は決して敵の武器を恐ろしいとは思わなかったであろう。…不幸と苦しみを終わらせる時が来た。ポーランドは一つの目標を達成するために、心を一つに合わせるべきである…」

コシチュシュコは、一部の者だけが反ロシア戦闘に参加するだけでは勝ち目が薄い、国全体が団結してロシアにかからなければ勝てない、と考えていました。

確かに、アメリカは一丸となって戦った結果、イギリスから独立することに成功し、フランスは外国の連合軍を撃退することに成功しています。

一方、ポーランドでは、これまで外国が攻めてきたときに戦ったのはシュラフタ身分の者しかいませんでした。

(これは日本と似ています。元寇があった時も、守ったのは武士身分だけでした。日本の場合は撃退できていますが、幕末に至って、日本は帝国主義をとる外国から国を守るためには、日本がバラバラになっていてはいけない、ということで廃藩置県を実施して藩を廃止し、農民身分にも国防意識を持ってもらうために徴兵令を実施しています)

コシチュシュコはポーランド・ロシア戦争の敗戦から、挙国一致の体制を作らなければならないと痛感していたのです。

コシチュシュコがポワニエツ宣言を出したのは、決して道徳的な面によるものだけではなく、農民兵の助力を期待した、ということも理由の1つにあったでしょう。

(これはアメリカが南北戦争において奴隷解放宣言を出したのと似ています)

ラツワヴィツェの戦いにおいて、農民兵が活躍したことも、コシチュシュコが布告を出すことを後押ししたでしょう。

コシチュシュコの苦心の跡が見られるのは、完全に農奴制を廃止しなかったことです。

これだと地主層…シュラフタたちからの協力が得られなくなることは明白だったからです。

(アメリカで完全な奴隷解放ができたのは、奴隷に頼る南部と違って、北部では奴隷を使った農業がおこなわれていなかったため、反対の声が少なかったことが大きいでしょう。むしろ北部の人たちは、南部から自由になった黒人を工場での労働力として使えると歓迎していました)

コシチュシュコは挙国一致の体制を作るために、シュラフタにも配慮した、折衷案的な布告を出したのです。

(布告の中には、この布告は農業のやる気と祖国を守る意識を増すために出したものであって、布告を悪用して農業をなまけ、地主を困らせるようなものは裁判所に連れていくことになる、という内容も書いてあります)

しかし、自分の利益のことしか考えないシュラフタはこの布告に猛反発し(そんな場合じゃないって言うのに)、この布告の効果は限定的なものに終わってしまいます(-_-;)

どこまでも重たいシュラフタ…(日本でも明治時代に、武士に払う給料を廃止して国の財政を好転させたいという政府に反発して、武士の反乱とか起きてますね…)。

国のことよりもまずは自分の生活。まぁわからなくもないのですが、その結果、この後のポーランドやシュラフタがどういう目に遭うことになるか、火を見るよりも明らかなんですけどね。。

「小を捨てて大に就く」ことが大事なのに、「大を捨てて小に就く」ようではいけません(-_-;)

〇ポーランドVSロシア・プロイセン・オーストリア

ポワニエツに進んだコシチュシュコは、ここでヤン・グロホフスキの部隊の到着を待って、ロシア軍のデニソフに戦いを仕掛けようと考えていました。

デニソフはそうはさせじと、5月13日、合流前にコシチュシュコ軍を攻撃しましたが、これは撃退されています。

5月16日、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム2世がポーランド蜂起の鎮圧に参加すると発表、フランス方面に展開していた軍の半分、2万5千をポーランドに移動させます。

ここにコシチュシュコはロシアだけではなく、プロイセンも相手にしなければならなくなりました(◎_◎;)

これを受けて、ポーランド軍の合流を防げなかったデニソフは、プロイセン軍がいるシュチェコチニに逃れます。

コシチュシュコはこれを追って6月6日、シュチェコチニでロシア・プロイセン連合軍と激突しました。

ポーランド軍は15000、ロシア・プロイセン軍は26500で、ポーランド軍の劣勢は否めない状況でした。

しかも主力となるプロイセン軍は国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が自ら指揮していました(直接指揮したのはファブラット将軍でした。ファブラットは怪力の持ち主であったようで、馬を乗り手ごと持ち上げたり、大砲も持ち上げることができたと言われています(◎_◎;))。

戦いの序盤はポーランド軍がプロイセン軍の騎兵隊を撃退するなど奮戦しますが、

ポーランド軍の5倍以上の大砲を有するロシア・プロイセン軍からの激しい砲撃を受け、

シュチェコチニの戦いはポーランド軍の敗北に終わります。

ポーランドの将軍ユゼフ・ウォジツキは頭に砲弾を受け死亡、ヤン・グロホフスキは重傷を負って翌日に死亡しました。

ラツワヴィツェの戦いで活躍したバルトシュ・グウォヴァツキも致命傷を負い、間もなく亡くなっています。

コシチュシュコも負傷し危うい所を、ユースタキ・サングシュコに救われています(コシチュシュコは「ここで死なせてくれ」と訴えたという)。

ポーランド軍にとってこの敗戦のダメージは大きく、この戦い以後、ポーランド軍は後退を続けることになります。

6月8日には東部方面を任されていたユゼフ・ザヨンチェクがヘウムの戦いでロシア軍に敗北してワルシャワに退却します。

クラクフにはプロイセン軍が迫り、クラクフを任されていたイグナツィ・ヴィニャフスキは、進退窮まった場合はオーストリアに降伏するように命令されていたのにもかかわらず、6月15日、プロイセンに降伏してしまいました。

6月26日にはヤクブ・ヤシンスキとイェジ・フランチェシェク・グラボウスキの部隊がソウィの戦いでロシア軍に敗北。

6月27日にはオーストリア軍も蜂起軍との戦いに参加することを発表、7月7日にはルブリンを占領しています。

7月10日、ワレンティ・クワシニフスキが騎兵隊を巧みに操り、プロイセン軍を撃退してささやかな勝利を挙げましたが、ポーランド軍は絶望的な状態に陥りつつあることに変わりはありませんでした。

7月13日、ロシア・プロイセン軍がポーランドの首都ワルシャワに到達、約2か月にわたるワルシャワ包囲が始まることになります(◎_◎;)

〇ワルシャワ防衛戦(7月13日~9月6日)

ワルシャワを防衛するポーランド軍は4万4千(3万5千という説も)で、ワルシャワの周囲に要塞と塹壕を築いていました。

包囲するロシア・プロイセン軍は、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世自らが指揮するプロイセン軍が2万5千~3万、ロシア軍が1万3千~6万5千で合計3万8千~9万5千でした。

城攻めには防衛する側の3倍~5倍の兵が必要と言われますが、そうなるとロシア・プロイセン軍の兵数は3倍に満たなかったことがわかります(◎_◎;)

7月27日、重砲の到着を待って、ロシア・プロイセン軍はワルシャワ西部のヴォラ(現在は主要な金融街に発展した地区)に最初の攻勢を仕掛けますが、ここを防衛するユゼフ・ポニャトフスキとユゼフ・ザヨンチェクはこれを撃退することに成功します(!)。

しかし、8月12日にはリトアニアの首都・ヴィリニュスが包囲の末に陥落するなど、劣勢状態は変わりませんでした。

しかし、8月20日から、プロイセンが支配するポーランド地域で次々と反乱が起こり(大ポーランド蜂起)、状況は変わり始めます。

これはワルシャワ包囲のためにプロイセン支配下のポーランドに駐屯するプロイセン軍が手薄になったことによるものでした。

これに驚いたプロイセン軍は、ワルシャワ包囲の決着をつけようとあせり、8月28日、ワルシャワに大攻勢を仕掛けます。

プロイセン軍はワルシャワ西部にあるワルシャワ近郊の町・ベモウォ・ビエラニを攻略することに成功しますが、続くマリモント・ポポンスキへの攻勢はヤン・ヘンリク・ドンブロフスキがよく守ったため敗北、撃退されます。

プロイセンは8月29日、仕方なく軍の一部を反乱鎮圧に向かわせますが、これによりさらに兵力も減少し、これ以上包囲を続けることは困難であると考えたヴィルヘルム2世は9月6日にワルシャワの包囲を解き、撤退しました。

大きな戦果を挙げることに成功したポーランド軍は、対プロイセンで攻勢に出ることになりますが、ロシアはワルシャワ包囲でさしたる被害も受けていなかったため、脅威の存在であることには変わりがなく、ポーランドは対ロシアで守勢を続けることになります。




2023年9月19日火曜日

最も大切な自由は「言論・出版の自由」⁉~ジョン・ミルトン『アレオパジティカ』

 一口に「自由」といっても、さまざまな「自由」があります。

学問の自由、信教の自由、職業選択の自由、居住・移転の自由、言論・出版の自由、集会・結社の自由などなど…。

どれも大切な自由ですが、17世紀のイギリスの詩人、ジョン・ミルトンはこの中でも「言論・出版の自由」が最も大切だと考えました。

それはなぜでしょうか?

ジョン・ミルトンがそう考える理由を、ミルトンが1644年に書いた『アレオパジティカ』から読み解いてみようと思います😀

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇当時のイギリスの状況

1517年、ルターが「95箇条の論題」を出してローマ教会を批判してから、ローマ教会反対派と、ローマ教会の影響力から脱したい諸侯の利害が一致したことにより、ヨーロッパでは宗教改革の嵐が吹き荒れ、カトリックとプロテスタントの対立の構造が生まれました。

1534年、イギリスでもヘンリー8世がローマ教会と対立、独立して国教会を立ち上げましたが、離脱した理由が離婚問題であったこともあり、宗教問題で対立したドイツなど違い、国教会はカトリック・プロテスタント、どっちつかずのものになっていました。

この国教会をプロテスタントのみの純粋(ピュア)なものにしたい、と思ったのが清教徒(ピューリタン)と呼ばれる人たちです。

エリザベス1世(在位:1558~1603年)はカトリック・ピューリタンに対して中立の立場を取りましたが、

その後のジェームズ1世(在位:1603~1625年)・チャールズ1世(在位:1625~1649年)はカトリック寄りで、ピューリタンに対して弾圧を加えました。

1620年にはピューリタンたち102人が迫害を逃れてメイフラワー号に乗ってアメリカに逃れ、1637年にはカトリック寄りとなっている国教会への忠誠を拒否した3人のピューリタンが耳を切り落とされ、顔に焼き印を押されるという事件も起こりました。

1631年からは出版物の検閲が始まり、ピューリタンに対する弾圧は強まっていきます。

これに対し議会では1641年、チャールズ1世の政治を非難する抗議文が賛成159票、反対148票の11票差で採択され、議会派と国王派の対立が鮮明となり、ついに両派の戦争に発展することになります。

翌年1月、検閲を担当していた高等法院星室庁が廃止され、印刷・出版の自由が回復しました。

しかし反国王軍の中でも穏健な長老派と過激な独立派で対立が見られるようになり、

1643年6月14日、議会で多数を占める長老派は検閲を経なければ出版を認めないという検閲令を出しました。

検閲令の目的が国王派だけでなく、独立派の排除にもあったことは明らかです(-_-;)

この動きに我慢がならなかったのがジョン・ミルトン(1608~1674年)その人でした。

ミルトンは裕福な家に生まれ、5歳の時には家庭教師(長老派であった)をつけられ、1625年にはケンブリッジ大学に入学(卒業時には優等卒業生24名中4位となっている)、1638~1639年には15か月にわたってフランス・イタリア旅行もさせてもらっています。

非常に勉強に熱心であり、伝記作家のジョン・オーブリーによれば、ミルトンは「若い頃、とても熱心に勉強し、とても遅くまで起きていて、たいていは夜の12時か1時まで起きていた」といいます。

その結果、ミルトンはラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を学生時代に習得、その後オランダ語もマスターすることになります(この語学力を買われて、後に政府の外事長官となる)

オーブリーはまた、ミルトンの容姿についても触れており、それによると、「彼の顔色はとても美しく、人々は彼をキリスト大学の婦人と呼んだほどだった」といいます。確かに若いころについて書かれた絵はザ・美少年という感じです。

イギリスの情勢の悪化を知って旅行から帰国したミルトンは、多くの小冊子(パンフレット)を書いて、ピューリタンを弾圧していた高等法院とカンタベリー大司教、ウィリアム・ロードを批判する活動に加わります。

その活動が実り、1641年、ロードは失脚し、ロンドン塔に投獄されることになりました。

しかし、その後、先に述べたように、今度は長老派の者たちによる不寛容な支配がはじまり、1643年に検閲令が出されてしまいます。

ミルトンは以前と同じく、長老派に対する敵対姿勢を取り、

長老派を批判するために書かれたのが『アレオパジティカ』であり、

これは検閲令に反して、1644年11月23日に無許可で出版されたものでした(◎_◎;)

(そのため翌月に議会に呼び出され、審問を受けることになる)

〇アレオパジティカ

タイトルは古代ギリシャのイソクラテスの演説、『アレオパギティコス』から取られたもののようです。

(『アレオパギティコス』は、古代ギリシャで政治の中心地であったアレオパゴスの丘のこと)

…ということは『アレオパギティコス』の内容は言論・出版の自由について述べたものなのだろうか?と思ったのですが、

その内容を見ても言論・出版の自由については書かれていません(;^_^A

『アレオパギティコス』は、政権を非難する内容の物なので、そこから取られたものでしょうか??(゜-゜)

それとも古代ギリシャのような、言論・出版の自由を制限しない政治を期待したからなのか…ジョン・ミルトンはその点について語っていないのでわかりません(-_-;)

では、『アレオパジティカ』の内容について見ていきましょう。

ミルトンはまず、

「どんな出版物も、事前に検閲官が1人でも許可しなければ印刷できないとする検閲令を考え直していただきたい」

と、『アレオパジティカ』の表紙に「出版の自由のために」と書いてあるように、

検閲令を廃止して出版の自由を回復することを議会に訴えかけます。

ミルトンは検閲令の廃止を求める理由として、

まず過去の歴史をひもとき、

「教皇マルティネス5世[在位:1417~1431年]の時、正統と認められない異端のキリスト教の書物を読むことが禁じられ、トリエント公会議[1545~1563年]で禁書目録が作られたが、異端だけではなく、検閲官の好みに合わないものまで発禁処分とされるようになってしまった。

それまでは、古代ギリシャで取り締まられたのは神に対する冒涜・人を中傷するものだけで、学問に関するものは無く、ローマでも同様で、オクタヴィアヌス[初代ローマ皇帝]と敵対したポンペイウスを賞賛した書物も禁止されなかった」

…と、以前は自由に書物を出版することができていて、検閲などは無かった、と述べます。

そして、検閲の悪い点について、

「学問の進歩を止め、議論する力を低下させてしまう」と記しています。

どうしてそうなるのか。

学ぶ意欲のある所は、必ず多くの書物と、多様な意見がある。

全ての考え、誤っているものも読み、対照させることによって、人は真理に到達できる。

検閲令が行われ、老ガリレオ[『近代科学の父』と呼ばれるガリレオ・ガリレイ。1564~1642年。ミルトンがイタリアを旅行した時まだ生存していた]が裁かれた外国に行くと、そこの者は、最近書かれた本は国にへつらったものや、でたらめしかないと嘆いていた。

制限を受けると、真理は真実を語らなくなる。」

…とミルトンは説明しています。

たしかに、2つの異なる説があったときに、一方の説しか見なければ、偏った考えを持つようになってしまいそうです(;^_^A

例えば、Aはいい人間だという人の話と、Aは悪い人間だという人がいて、後の方しか聞かないとAは悪い人間としか思わなくなるでしょう。

物事は多面的に見ることによって真実が見えてきます。

ミルトンはまた、

悪いことが書いてあるとそれに影響されてしまい悪になる、というなら、

「そもそも聖書には悪人について詳しく書かれているので、その論理で行くと聖書が禁書目録の筆頭に書かれなければいけなくなる。

風紀を正したいのだとしても、音楽や踊りなど、人間が楽しみとするものをすべて取り締まらなければならなくなる。

出版だけ禁止しても無意味であるし、また、出版を禁止しても、その考えは口頭でも広げられる。

以上から、検閲は無益である。

これは、鳥を閉じ込めるために庭の門を閉めればいい、と考えるのと一緒である」と手厳しく論じます。

それから、ミルトンは検閲は「学問(学者)・一般の人・牧師に対する侮辱である」とも言います。

なぜか。

「検閲を担当する者は、学識があり、思慮分別がある人でなければならないが、そのような人物は検閲官に就きたいとは思わないので、無知・傲慢で、金銭目的の者が検閲の職に就くことになる。

学者は調査をし、考えを整理し、他の者と話し合うなど、努力を重ねたうえで出版物を作っている。

それを、毎日大量の出版物を読み、じっくり考える余裕のない検閲官の軽率な判断にゆだねられることになるのは、学問に対する侮辱というほかない。

一般の人にとっても恥辱である。検閲官を通さないと読ませないほど、国民を警戒し、軽率な人間だと思っているのであるから。

我が国の牧師の名誉も傷つける。教会で説教をしているのにもかかわらず、説教の効果が無いと見なしているのだから」

…ミルトンは以上のように説明します。なんとも痛烈です(;^_^A

そしてミルトンはこうまとめます。

「出版において必要なのは、少しの寛大とわずかな自制心で十分である。

今は大変な時期であり、諸問題については、大いに論じ、書き、語らなければならない。検閲など不要である。

他のすべての自由以上に、知り、発表し、自由に論議する自由を我に与えよ。」

これは今でも十分に通用しますね。

今はだれでも自分の意見をSNSを通じて発信することができるようになった時代ですが、自分の思いにそわない物を感情的に厳しく責め立てます。

論理的に言わなければ感情論の応酬になってしまって決着がつきません(むしろ悪化します)。

また、論理的に言うだけでも相手は悔しくて納得しませんから、負の側面だけを語るのもいけません。

今回の場合ミルトンは、風紀をよくしたいんだよね、でも、それは検閲令では効果が無いかな、と言っていますが、こんな感じです(本当はここをこうすれば、うまくいくと思うよ、という言い方が望ましいのですが、今回の場合は改良の余地がない…(;^_^A)

そして大事なのは権力を持つ側が寛大であることです。

自分に対する批判は政治家は甘んじて受けなければなりません。

税金で生活しているうえに、国民の生活に与える影響が大きいのですから。

批判を受けて、それを改良すれば国民の為になるわけです。

逆に批判をありがたいと思わねばなりません(人格批判はNGですが)。

(節度を持った)自由な議論こそが社会をよりよくします。

誹謗中傷など人格を攻撃する発言以外は取り締まるべきではありません。


2023年9月17日日曜日

ドキュメント石油危機18 1973年10月26-29日~アラブの石油国から「非友好国」に分類された日本

中東の国々からの突き上げにより苦境に立たされた国際石油資本(メジャー)は

10月24日に日本に原油の大幅値上げを通告したのに続いて、 

10月25日までにブリティッシュ・ペトロリアム(BP)、エクソン、ガルフの3社が日本に原油の供給を削減すると通告してきていました(具体的な削減量を通告していたのはBPのみ)が、

この動きは止まることなく、さらに進行していくことになります(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


<今回のマンガに関連する新聞記事>(福井新聞縮刷版1973年10月下より)

〇日本は非友好国 産油国、輸出対策で分類OECD石油会議筋(10月28日)

経済協力開発機構(OECD)緊急石油会議筋が26日語ったところによると、アラブ石油輸出国側は石油消費国を3つのカテゴリーに分け石油の供給対策を行っているもようで、この分け方によると日本はイタリア、西ドイツとともに「要注意国」さらには「非友好国」とみなされていると言う。

同筋によると、これはアラブ諸国があくまで「輸出停止国」と「輸出継続国」に分けたうえで「輸出継続国」をさらに「友好国」と”要注意国”に分けたもので「友好国」としてはフランス、英国、スペインの三国が挙げられている。また「輸出停止国」としては米国とオランダのニ国をあげている。

〇ナフサ確保ピンチに 原油供給削減 製品高騰も必至 深刻な石油化学業界(10月28日)

国際石油資本(メジャー)の大幅値上げ、供給削減通告により、石油化学業界は「原料、ナフサの確保難と価格上昇に波及する事は必至。来年から影響が現れるだろう」と深刻な表情だ。

わが国の石油化学工業は、原油を蒸留して一定比率で得られるナフサ(粗製ガソリン)を原料としており、このナフサを安価で確保できるかどうかが、業界発展のキー・ポイント。

業界筋によると、ナフサが供給制限された場合、影響はまず輸入ナフサの安定確保難となって現れそう。現在、石油価格用ナフサは全消費量の20%前後を輸入に頼り、国内価格より2000円高いキロリットルあたり一万円前後で輸入している。国内の供給不足はいきおい海外に求めざるを得ないが海外でも需給タイトになっていることから、値がつり上げられ安定確保は不可能になる。

こうした原料不足から、エチレンセンターの操業度も落ち、…(解読不能)…品のプラスチックや合繊の品不足はいっそう深刻化しそうだ。

また原料費の大幅な値上がりも避けられない。今、石油化学の基礎製品であるエチレンのコストに占めるナフサの原料費は65%。このため、原料費の高騰はそのままエチレンなど基礎製品のコストを押し上げ、最終的にはプラスチックや合繊の価格上昇にはね返る。

ナフサ国内価格はこの10月からキロリットル当たり8000円前後。中東戦争前、石油精製会社は「来年1月から1000円ー1500円の幅で値上げしたい」と通告している。しかし、その直後の情勢変化から、この値上げ幅が再度上乗せされるのは確実で、業界では「来年1月にも”ナフサキロリットル当たり1万円台の時代”になろう」と見ている。

仮にナフサがキロリットル当たり2000円高騰するとなると、エチレン価格は現行のキログラムあたり35円見当から40円台にはね上がる見通し。

この結果価格の安さが取り柄だった石油化学工業の成長が鈍化するとともに、原料費の値上がりを製品価格に転嫁できない石油化学品は「生産を中止しなければならなくなる」という。プラスチックの”使い捨て時代”は終わり、需要構造も大きく変化するだろう、とみられている。

〇北海原油輸入で合意 75年から 年間300ー400万キロリットル 三菱石油と米会社(10月28日)

三菱石油は27日、米国の大手石油会社であるゲッティ社(本社、ロサンゼルス市)と北海油田の原油を75年から年間300万キロリットルー400万キロリットル輸入することで合意に達したことを明らかにした。北海油田は、田中首相訪欧の際、わが国の参加問題で話題になった油田で、三菱石油が輸入する原油は、同油田の中央部にあるパイパー油田の原油。北海からの輸入は、わが国業界では初めてのケースとなる。

パイパー油田は、一昨年から米国のゲッティ社、オキシデンタル、トンプソン、アライエンド・ケミカルの4社が利権を持ち、本格的に開発を進めており、75年初めに年間200万キロリットルー300万キロリットルの生産が確実で、ゲッティー社の引き取り分300万キロリットルー400万キロリットルの全数を三菱石油に販売しようというものである。(後略)

〇暖冬は期待できません 灯油も大幅アップ 品不足、強気の業者(10月29日)

日本の石油業界は原油の値上げ、供給削減というダブルパンチを受けたが、本格的な需要期を前に灯油の値上がりが全国的に目立っている。10月末現在の主要都市の灯油小売価格は軒並み昨年の3割高で、1かん(18リットル) 400円から480円の高値。業者の中には「情勢によってはまだ値上げは続きますよ」と強気な姿勢を見せている。

気象庁の長期予報では、2年続いた暖冬も今年は期待できないとあって、国民にとっては”厳しい冬”になるのは間違いなさそうだ。

北海道で最も安いと言われる札幌では1かん450円(昨年同期350円)。仙台では400円から450円(380円)が相場だが、あるガソリンスタンドでは480円というバカ値もある。

東京では、昨年並みの350円という”良心的な店”から一挙に昨年より100円アップの450円の店までまちまちだ。名古屋、大阪、広島も一部に380円の店もあったが、ほとんどが400円から460円。380円のところも11月から400円以上に値上げの予定。需要期にまだ早い福岡や高松でもほとんどが昨年より7、80円高い400円程度。

値上がりとともに目立つのが灯油の入手難。すでに需要期に入った札幌では例年9月末までには消費者と小売店が一冬の「購入契約」を済ませているが、今年はほとんどの店で長期契約を渋っているという。同市内のある燃料小売店では「原油の値上げや供給削減のため、いつ石油じゃない灯油の値段が上がるか分からないので、こわくて先の契約まではできません」といっている。

また札幌市民生活協同組合は9月末から共同購入の折衝を卸業者と始めたが、業者側はドラムかん1本(200リットル) 4400円(昨年3080円)でなければ売れないと供給を断ってきた。同生協では連日の交渉の結果、やっと4000円で話がまとまり、今年中の需要を何とか確保できたという。

通産省の調べでは、灯油の備蓄は現在輸送中の分を含めほぼ100日分。今シーズンの需要増を見込んでも来年3月末現在でまだ40日分の在庫が残る、と計算している。それなのに灯油はどうしてこんなに高くなったのだろうか。

販売業者の集まりである全国石油協同組合連合会では「原価計算をすれば決して高い値段ではありません」と強気の説明。それによると、ことし初めからの原油の値上がりに伴い、メーカーの元売り価格が1リットル4・5円上がった。

それに暖冬による…で、昨年ゼロだった…(解読不能)…の取り分が1リットルあたり少なくとも1円つくことと、小売段階での人件費増などを入れれば、昨年より1かん120円程度高くなるのは当たり前だと言う。

これに対し数年前から灯油の…(解読不能)…「中東戦争による石油不安をいいことに灯油の値上げを強行している。地域によっては業者間で価格協定を結んでいる疑いも強い」と値上がりの原因を指摘している。

〇原油供給量を34.7%削減 米のガルフが通告(10月30日)

国際石油資本の1つガルフ(米国)は29日、出光興産などわが民族系石油会社に対して、原油供給量を34.7%削減すると正式通告してきた。10月1日にさかのぼって、12月までとりあえず3カ月間実施するとしている。

ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)はすでに10%の供給削減を通告、エクソン、シェルなど他の国際石油資本も削減の意向を伝えてきているが、ガルフのような大幅削減は初めて。石油業界はBPを含む他社の近く、20%以上の削減を正式通告してくるものと予測している。

産油国の原油生産削減、対米禁輸の影響は早くもこのような大量供給削減となってわが国に波及してきたわけで、石油連盟も今週消費規制について通産省に早急な具体化を働きかける構えである。

ガルフは、同社の主要供給源であるクウェートでの原油会社KOO(BPと50%ずつ出資)がクウェート政府から34.7%の生産削減を命じられ、従来通りの原油供給が苦しくなったため、これをそのまま消費し消費国に押しつけてきた。47年度のガルフの対日供給量は1970万キロリットルで、総輸入量の8.1%を占めている。

原油確保が深刻化するに従って、石油業界の中には国際石油資本による供給が保障されていない民族系会社(出光興産、丸善石油、大贏石油など)や備蓄量の少ない会社を中心に、消費規制措置の実行を望む声が急速に高まっている。石油連盟は、一両日中に原油に関する緊急委員会を開き、鉄鋼、電力、石油化学、民生用(ガソリン、灯油を含む)など業種別消費量規制を実施する方向で、通産省に行政指導による早急な具体化を働きかける方針である。

加藤正(※1)石油連盟(※2)副会長(出光興産副社長)の話 今や価格よりも量の確保が深刻化してきた。備蓄量が79日分あると楽観視する向きもあるが、もし備蓄をゼロにしたら原油を精製し末端で販売するまで40日間必要なので、40日間石油製品が皆無の状態になってしまう。早急に消費規制を実施し、部門別に最低必要量を賄う体制を作るべきだ。通産省が業種別に規制を作り、行政主導で早急に具体化してほしい。

※1 加藤正(1913~1997年)…出光石油化学社長。子どものころから秀才で小学5年生の時に中学校に飛び級で入学した(戦前は日本にも飛び級制度があった)。1962年に石油業法が施行され石油の輸入が自由化されると、加藤正は自由競争をして消費者に奉仕するという出光興産の信念に基づき、石油の輸入自由化に反対する石油連盟から脱退、世間を騒がせた。

※2 石油連盟…1955年に発足した石油業界の団体。所属するのは出光興産・東亜石油・鹿島石油・太陽石油・富士石油・コスモ石油・コスモ石油マーケティング・ENEOS・キグナス石油・昭和四日市石油・西部石油。

2023年9月15日金曜日

「新聞紙条例による言論弾圧⑤」のマンガの2ページ目を更新!

 「歴史」「明治時代」ところにある、

新聞紙条例による言論弾圧⑤のマンガの2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

新聞紙条例・讒謗律による言論弾圧⑤~末広鉄腸、名誉の処罰第1号

 処罰されることを恐れず、改正新聞紙条例讒謗律に対して痛烈な批判を繰り返してきた末広重恭

しかし、ついにその時がやってくることになります…(-_-;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



〇改正新聞紙条例による言論弾圧第1号

 8月2日の曙新聞の社説には次のように書かれています。

…7月30日、曙新聞社長の青江秀が病気となったが、そこに扱所(裁判所・役場)から扱所に出向くようにという連絡が3度も入った。青江は病気のため出向くことができないでいたが、夕方になって、ついに警察から出頭するようにという命令が来た。31日の8時、青江が病を押して扱所に行くと、警官の高山という者が、青江の本籍・住所を聞いた後、7月10日の曙新聞に掲載された社説について覚えているか、と問われた。青江がすべての社説を覚えていない、と答えると、高山は7月10日・20日・29日の新聞を持ってきた[7月10日の曙新聞は現在残っておらず、内容が残念ながらわからない😢]。その新聞には朱線が引いてあったり、傍点が書かれていたり、二重丸がなされていたりしていた。また、細い朱の字で数十行も文章が書かれており、ほとんど余白は無いような状態であった。そして高山は、この3つの号の論説は曙新聞によるものか、投書によるものかはわからないが、掲載している以上は曙新聞のものとみなしてよいか、と尋ねてきた。青江がそうです、と答えると、高山は特別なことはしないが、あなたを町内預け[町内に監禁する]とする、と伝え、青江はそれを聞いて退出した。頭取である青江に罪は無く、論説は編集長である自分[末広重恭]が考えたもので、論説・投書に至るまで、条例に触れるものは全て自分の責任であり、禁獄・罰金は甘んじて引き受けるだけである。私は政府の命令を守り、少しも違反することはない。新聞紙条例・讒謗律は、朝・夕方に謹んで読み、執筆するときはその内容を思い出し、一言一句に至るまで、違反しないように慎重を期していた。それでも条例に引っかかったというのだから、今の世の中で新聞記者をするのは難しいものである。人の考えを制限し、議論を禁止するのは、専制の暴君・姦吏の行うことで、周の幽王・霊王、秦の始皇帝はこれを行って人民のうらみ・怒りを買い、千年の後まで悪名を残すことになった。今、賢明な政府は、欧米諸国の文明に倣おうとしているのに、なぜ論者を逮捕するようなことをするのか。賢明な大日本帝国が、千年の後まで汚名を負うことになってはならない。

これに対し、『郵便報知新聞』は8月4日の社説で次のように反応しました。

…さあさあ大変、おー怖い怖い、新聞屋が生け捕られました。一昨日の曙新聞を読み、青江氏が町内預けになったのを知って、ゾッとして魂は抜け、腰が抜けてしまった。ああ、新聞記者は前世でどんな悪い行いをしたのだろうか。三寸の舌・五寸の筆が罪を犯す機械となり、法律から逃れることができないようにしている。愚かな新聞記者。狂った新聞屋。一寸先は闇で、一歩でも踏み外せば地獄に落ちる仕事と知りながら、平然と今まで通りに仕事を続けている。ああ、新聞記者といっても木や石ではない。父母兄弟を思う心もあれば自分の身体を愛する気持ちもある。しかし、ことわざに、「乞食を三日すれば忘れられぬ」と言うように、世間の人が最も嫌い、恐怖する新聞屋も、一度始めてしまうと自分からはやめられないもので、そのため、私も危険だとはわかっているけれどもやめられないのである。以上の理由で新聞屋を続けているのだが、同業の者が捕まったと聞けば平気であるわけもなく、臆病神が出現して腰も魂も抜けてしまったのであるが、気持ちが落ち着くと恐怖は喜びに変わり、逆に政府と曙新聞に祝詞を述べたい気持ちになった。…ああ偉大なるかな日本政府。仕事を成し遂げた日本政府。一度出した法律は取り消せないので、これを無理を承知で実行した。自分の仕事をしっかり果たしたといえる。日本政府はこれまで、法律の実行は私的な利害・感情によって、ほめること・罰することは、その者に対する好き嫌いによって、左右されて、朝令暮改[一度出したものをすぐに変更すること]と批判を受けていたのだが、今日に至って、政府は恐ろしい神々も逃げるほど、無理を承知で、ためらわずに思い切って実行した。誰が朝令暮改と言ったのか。なんと堂々とした決断ぶり。政府は濡れ衣を着せられていたのだ。政府がこの決断の鮮やかさをもってすれば、文明開化は足早に進み、そうして人々が幸福になり国が平和になれば、琉球は日本と中国、両方に属することをやめるだろうし、朝鮮も中国も震えおののき、イギリス・フランス・ロシア・トルコも舌を巻いて逃げるだろう。だから私はこれを祝い、これを喜ぶのである。ありがたさのあまり涙がボロボロと湧き出てくる。続いて曙社長に対して祝詞を述べる。…ああ立派な曙社長。評判をあげた曙社長。新聞各社に対する世間の評価を曙新聞が一社で集めることになった。なんと海外にまで大きな評判を響かせるような仕事を成し遂げたことよ。…こう言うと、人々は反論するだろう。「先に述べたことと矛盾している、政府は仕事を果たしたと言ったのに、今は曙社長は評判をあげたという。正邪[正しいことと悪いこと]は両立しない。政府のしたことが邪ならば、政府が仕事を果たしたというのはおかしいし、曙社長がしたことが邪ならば、栄誉を得たというのはおかしい。矛盾が過ぎるのではないか」。まことに言うこと、もっともである。日本国内のことだけを言うならば、日本政府が法律(良し悪しに関係なく)を作り、それを無理を承知で実行した、これは仕事を果たしたと言える。曙社長は日本帝国の法律に触れて捕まえられたのだ、栄誉とは言えない。しかし、新聞というのは一国にとどまらず、世界に広まるもので、新聞紙のことは世界とからめて考えなければならない。日本に日本の法律や意見があって、外国には外国の法律や意見がある。日本で栄誉としないことでも、外国では栄誉とするものがある。我が国の新聞記者は道徳も知識もないが、外国の新聞記者は道徳や知識がしっかりしていて、地位が高く、評判が高い。遠い国外のことであっても、同業の者が自由に発言したことで捕まえられたと聞けば、これを新聞に載せこれを広く発信する。この新聞を読んだ外国の読者は、日本政府に圧制のレッテルを貼り、曙社長には自由の評価を高めたと口々に賞賛される栄誉を与えるだろう。また、このことは各国の新聞に掲載され、大日本帝国には青江氏という、自由のためにその身を犠牲にした、「マルチルドム」[殉教者]がいると評判になることであろう。このような評判は、日本人が逆立ちをしても得られないものである。だから私は、曙社長を祝うのだし、祝わざるを得ないのである。

お得意の外国の評判論です。これまた皮肉たっぷりで、青江秀が裁判所に呼び出され、町内預かりにされたにも関わらず、処罰を受けることをまったく恐れていない様子が伝わってきます。スゴイ…(◎_◎;)

8月3日には末広重恭も警察に呼び出され、同日に青江秀は裁判所で取り調べを受けることになりました。青江は7月20・29日の新聞記事について厳しく問いただされたといいます。

7月20・29日というと、三鱗・山根・中津 三氏の投書の内容が条例に触れた、ということになります。

末広重恭はこのことについて、『新聞経歴談』に、「此の2つの文章を以て罪を得べしとは予期せざるなり」「当時民間は云うまでもなく政府部内にあっても新聞紙条例を非難する者少なからず、殊に直に之を以て文字の獄を起こすことは予想せざりしに因り、此の事の曙新聞を始め各社の新聞に出るや頗る世人を驚かせり」と驚きをもって記しています。

実際、5月18日付の伊藤博文が大久保利通に宛てて書いた手紙に内務省は全体的に新聞紙条例に不服であるらしい、と書かれていたり、尾崎三良は自叙伝で、新聞紙条例が公布された際、各省の役人で新聞紙屋に同情する者が多くいた、と書いていたりするので、政府内でも、言論の自由を規制する方針には否定的であった者が多くいたことがうかがえます。

しかし出版を管轄する准刻局長になった尾崎三良が、いったん法律として公布されたものが、下の者の反対で実行されないようでは、無政府状態となり、恐ろしい結果を生んでしまう、断固として実行すべきだと伊藤博文に進言したため、改正新聞紙条例にもとづく新聞界に対する弾圧が実施されることになります(◎_◎;)

このように政府内部でもゴタゴタがあったためか、7月いっぱいは新聞記者に対する弾圧は行われませんでしたが、8月に入ってついに実行される運びになったわけです💦

8月4日には末広重恭が裁判所に呼び出されました。そして先月5日の新聞に載せた高橋矩正の投書を知っているか尋ねられ、私が載せたのに間違いありません、と答えると、今後裁判所から追って沙汰があるだろう、今は町内預かりとする、と言い渡されます。

このことについて、末広重恭は社説で次のように書きます。

…高橋氏の投書は、事実かどうかを確かめないで人の名誉を傷つけた罪に当たる、と言われたが、この投書を繰り返し読んで考えてみても、芸者屋や花街がますます繁盛することになる、と言っているだけで、文章中一つも讒謗律に違反する部分は見当たらない。この投書をもって罪に当たる、とすれば、新聞記者たちはみんな罪人になってしまうだろうし、私のように恐れず自分の意見を言う者は、罪を免れることはできない。ああ、私の人生は自由の時間は少なく、裁判所で尋問を受けている時間ばかりになってしまうだろう。私は愚かで、適切な時期を考えて記事を書くことができないが、私は日本の開化が進むことを本心から願って書いている。このために今、私は処罰を受けることになったのである。しかし、昔の人が「身を殺して仁を成す」[世のために自分の身を犠牲にする]と言ったが、私の評価は100年後に定まるだろう。別の日に日本の開化史を書く者がいたとして、その者は次のように書くだろう。「明治の時に政府は新聞条例を公布した、世の中の人々でこれに従わない者はいなかった、しかし末広という者がいて、頑固で愚かであり、法律のことを理解せず、何度も監獄に入れられた」と。私はこのように悪名が歴史に残ってしまうことを恐れるだけである。

取り調べられた直後に、新聞に「自分は何も法律違反なことはしていない」と書いているのは勇気がありますね(;^_^A

しかも「私の人生は裁判所で過ごす時間が長くなる」とか、「歴史を書く者は末広は何度も監獄に入れられた」と書くだろう、と言っているように、処罰を受けても今の態度を改めない、政府に屈する気は無い、ということを宣言しているわけですから…。

8月8日の『東京曙新聞』には裁判の続報が社説に掲載されます。

…本社の編集長、末広重恭は世の中に遠慮することなく、人と、世の中の利害について徹底的に論じる時は、怒り、悲しむあまり、涙と汗が混じって流れるほどであり、今の出来事を心配して文章を書くときは、刑罰を受けるといってもそれを避けることを知らないようであった。本社に編集長となって3か月、論説を書くこと100篇に近いが、一つとして国を思う真心があふれ出ていない物は無かった。しかし新聞条例が公布されてからは、その鋭い弁舌をおさめ、文章の細かいところまで用心深く注意するようになり、むやみやたらに文章を書くことがなくなった。末広重恭が編集長となって、天下の豪傑や優れた評判を持つものたちが投書を新聞社に送るようになり、その数は何十・何百にもなる。その中に三鱗栄二郎先生の新聞条例について論じる投書があり、末広重恭はこれを読んで心に深く感じるものがあり、これを社説に掲載した。また別の日には山根・中津両先生の投書があり、三鱗氏の投書の内容を補助するものであったので、これも社説に載せた。その論じた内容について、何も調べるところはないのだが、何の間違いか政府の怒りに触れ、昨日7日に次のように裁判所で判決を言い渡されることになった。

「公判 愛媛県士族 曙新聞社日新堂編集人長 末広重恭

其方儀本年7月20日同29日曙新聞紙第531号同39号へ住所不詳三鱗栄二郎外二人新聞条例を諭する投書を掲載する科新聞条例第14条成法を誹毀する者に依り罰金20円禁獄2か月申付る

名東県士族 右日新堂頭取 青江秀

其方儀編集人長末広重恭新聞条例に抵触する投書を掲載する故を以取糺す所其情を知らざるに依り無構

明治8年8月7日」

(罰金20円とはどれくらいなのか…。明治初期の米1升の価格=5銭[0.05円]と現在の価格[344円]と比較すると、当時の1円は今の6880円分くらいの価値があったことになります。…ということは、20円とは今でいうと約14万円?になるでしょうか)

裁判後、末広重恭はどこの監獄に入れられることになるのか、と尋ねたところ、本人の親戚に引き渡して末広重恭を監護させ、自宅で幽閉させる、との返答があった。これを聞いて新聞社中は喜ぶこと限りなかった。自宅に幽閉で済むとはなんという優待か。親戚に監護させるとはなんという慈悲深い処置か。その情けの及ぶところ、末広重恭一人にとどまらず、曙新聞社のこの上ない幸せである。…

『明治奇聞』によれば、明治の初め頃は、禁錮・禁獄であっても監獄に入れず、自宅で幽閉というのが多かったといいます。

改定律令第13条には、禁錮は一つの部屋に閉じ込め、外の人と会うことを許さず、病気になれば医者を呼び、近くの家で火事が起きた時は居場所を移すことを許す…とあります。

自宅に幽閉となると、役人が来て「どの座敷にするか」と尋ねられ、「ここにします」と答えると、「この座敷から外に出てはならんぞ」と言われ、その後時々役人が家に来て、「部屋にいるか」と尋ねられ、「はい」と答えればいいというもので、夜はこっそり出かけて芸者と遊ぶことも出来たといいますから、だいぶゆるゆるな処罰であったようです(;^_^A

明治7年(1874年)に「禁錮」が「禁獄」と改められてからは、監獄に入れられるケースも出てきたのですが、監獄に入れられるか、自宅に幽閉か、の線引きは、なんと、士族か平民か、で分けられていたようです(◎_◎;)

明治9年(1876年)1月の『評論新聞』には、曙新聞社の長谷川義孝・報知新聞社の藤田茂吉は讒謗律に引っかかり、それぞれ禁獄となったが、長谷川義孝は士族であったので自宅禁錮で済み、藤田茂吉は平民であったので監獄に入れられることになったことを報じた上で、新聞紙条例・讒謗律には士族・平民で処罰の重さが分けられていないのだから、士族・平民を同じものと扱っているはずである、それなのに士族か平民かで処罰を変えるのはおかしい、裁判所の行いが正しいのならば、そのように条例を改正すべきであり、裁判所の行いが誤りであるのならば、藤田茂吉に謝罪しなければならない、決して曖昧にしてはならない…と意見を述べています。

今回の末広重恭の場合も、末広重恭が士族であったためか、自宅禁錮で済んでいますが、当時は四民平等と言いながら、身分差別があったことがわかりますね(当時は士族の反乱[明治7年(1874年)には佐賀の乱]が起きていたので、士族に厳しくできない事情もあったのかもしれませんが)。

しかし、明治9年(1876年)2月に末広重恭は再び捕まり、禁獄8か月の判決を受けるのですが、この時は監獄に入れられているので、この頃にはもう身分に関係なく処罰を実行するようになっていたようです(-_-;)

話がそれましたが、こうして、明治8年(1875年)8月7日、末広重恭は新聞紙条例に引っかかって自宅禁錮となりました。

これは明治の言論弾圧第1号であり、末広重恭も『新聞経歴談』で「政府の忌諱に触れて罪を受るもの幾百人なるを知らざりしが、其先鋒となりて危険を試みし者は実に余にてありき」と書いています。

さて、判決が下った後、裁判所の者は末広重恭の手に縄をかけようとしましたが、裁判官は手を振るジェスチャーをして、これをやめさせたといいますから、裁判官も思うところがあったのでしょう。

末広重恭は自宅の一室に閉じ込められますが、そこは窓が低いわ、部屋は狭いわで、監獄の中にいる思いがした、しかも、子ども(おそらく長男の末広重雄[1874~1946年]。重雄は後に京都大学教授となる)は皮膚病にかかって泣きわめき、年を取った下働きの男も病気となって隣の部屋でうめいており、思わず悲しみの感情がわき上がったといいます。

しかし、自宅禁錮でゆるゆるなので、家の中の者、家の外の者とも自由に連絡を取り合うことができ、重恭は毎日社説を書いて曙新聞社に送っていたそうです(;^_^A

さて、このような経緯で、ついに改正新聞紙条例により処罰者が出ることになったのですが、

このことについて、8月9日の『郵便報知新聞』は次のように書いています。

…我々は本日の論説を書き終わり、筆をおこうとしたときに、8月8日付の曙新聞が新聞社にもたらされた。末広氏の裁判はどうなったのか心配していたところであったので、筆を投げ捨てて新聞を読むと、2か月の禁獄・20円の罰金を言い渡されたことがわかった。私はこのような「ノーブル・エンド・オノレーブル・クライム」[高潔・立派で、名誉な罪]を初めて見たので、同じ苦しみを持つ者同士、同情する気持ちがわき起こった。末広氏は本人の親戚によって監護されるということで、これは非常にめでたいことであり、さすがは賢明と言われる政府である。他の犯罪とは違うことを認めておられるからだろうか。しかし、曙の記者はどういうことで条例違反の疑いをかけられ、裁判でどのように弁解をして、このような判決に至ったのであろうか。それについて我々は知りたい。なぜなら政府がこの条例を作った理由について、これまで世の論者はいろいろな説を述べてきたものの、その真意がわかっていなかったところに今回のことがあり、そこから、条例の目的というのがわかってきたからである。裁判の様子が公開され、政府が権力でもって有罪に持って行ったのではなく、納得できるやり方でこのような判決に至ったことがわかれば、我々も安心して自由に意見を述べることができるのであるが。…

判決後、重恭はこの期待に応えて、『東京曙新聞』に裁判の様子を連載します。

…8月4日、裁判官は小倉衛門介・香川某の2人であった。

小倉氏:(7月20日の新聞を手に持ちながら)三鱗栄二郎はどのような人物か知っているのか。

末広重恭:知らない。

小倉氏:三鱗氏の住所を知っているか。

末広重恭:投書に京都村とあったので、住所は京都村だと思っているが、京都村がどこにあるかは詳しくは知らない。

小倉氏:投書を新聞に掲載した以上は、責任はあなたが負うことになるが。

末広重恭:そのことはすでに社説に書いている。

小倉氏:(7月29日の新聞を手に持ちながら20日の件とほぼ同じことを尋問する。これは略されている。続いて、)20日の社説に、「世の論者は已に蝶々~」(拙訳では「世の論者はすでに多くの事をしゃべり~」の部分)の文章は、何の意図があってのものか。

末広重恭:毎日書いている社説の内容をすべて暗記しているわけではないので、その新聞を見せていただけないと説明することはできません。

小倉氏:(しばらく黙り込んで)また取り調べることがあるから退出せよ。

第一回の取り調べはこれで終わった。

二回目の取り調べ

小倉氏は前回最後の質問と同じ事を尋ねてきたので、新聞を見せてくれるように頼んだ。今回は見せてくれたので、新聞を手に取り、一度読んでから答えた。

末広重恭:民選議院のことや、教部省達書などについて世の論者がしゃべったということです。

小倉氏:本当にそうか。

末広重恭:そうです。

香川氏:「爾来日たる猶お浅しといえども」(拙訳の「公布されてからまだ間もないが」の部分)とはどういう意味か。

末広重恭:(再び新聞を読んで)先ほどの回答は誤っていました、各新聞社が条例の出たのを不満に思って、これの誤りを攻撃したことを言います。

小倉氏:「対抗」とはどういうことか。

末広重恭:「対」は相対する[互いに向かい合う。対立する]の意味で、「抗」とは拮抗[互いに張り合う事]の「抗」です。つまり、政府によって抑圧されるのが我慢ならず、言論の自由を主張して、条例の内容の利害得失について論じたことを言います。

小倉氏:「アブソリュート・モナーキー」とは何か。

末広重恭:私は外国の言葉を理解していないのですが、社内の翻訳を担当する者に尋ねると、「専制政府」の意味だと分かりました。

小倉氏:文中に「民権党の愛国心あるものを以て昔日の勤王党の徳川氏に抗せし~」(拙訳の「民権党で愛国心のある者を、昔の徳川氏に抵抗した勤王党のように見なし~」の部分)とあるが、あなたは今の政府は末期の徳川氏といっしょだというのか。

末広重恭:そうではありません。徳川氏は言論を弾圧する際に、流刑や死刑などの残酷な処罰をしました。今の政府は罰金と禁獄に過ぎません。しかし、私が思うに、国の治安を守るためにこの法律を作り、世の中の人の思想が発達しないようにした、ということでは同じであると言えます。

小倉氏:あなたは新聞条例を論者を拘束するものとするが、政府に対し建白[意見書]を出すことが認められているのを知らないのか。

末広重恭:何で知らないことがありましょうか。しかし、論者は政府に対して言いたいことがあるが、意見が受け入れられるかは役人の心次第です。文明開化を進めるのは政府だけではうまくいかず、政府のすることを有識者がお互いに議論しあうことにより、社会の利益を増加させることができるのです。今、新聞条例が出されて、議論することにいくらか障害ができました。だから私は、言論を制限するものと言ったのです。

小倉氏:西洋の国々にも新聞条例があることはあなたも知っているだろう。気ままに発言させていては、他の人に害を与えることが起きる。

末広重恭:たしかにそうです。しかし、制限するほうが害が大きいのです。

小倉氏:(29日の新聞を手に取り)朱点が打ってあるところ(「昔者秦始皇恐人民議己云~」の部分。拙訳の「昔でいえば、秦の始皇帝が自分のことを議論することを恐れて~」の部分)を読みなさい。あなたは、今の政府がこれと同じだと言いうか。

末広重恭:そうではありません。今の世の中で、新聞記者を穴に埋めたとは聞いたことがありません。また、子どもを使って新聞記者を密かに調べさせているという話も聞いたことがありません。どうして秦の始皇帝・平清盛と今の政府を比べましょうか。昔行われたことを使って、言論を制限してはならないことを論じるというのは、文筆家の常とう手段であります。

小倉氏:あなたが言う所を聞くと、新聞紙条例を良い法律とみなしていないようであるが。

末広重恭:そうです。私が考えるに、この条例は決して善良な法律とはいえない。

小倉氏:それならばあなたはどのような目的で作る条例ならばいいと言うのか。

末広重恭:どのように法律を作るか、ということをお尋ねですか。

小倉氏:(しばらく黙って)そうではない。良い法律について、あなたの考えを聞いているのだ。

末広重恭:讒謗律第1条にある、偽って人をおとしめる、というのは取り締まればよろしい。しかし、本当かどうかを確認せずに掲載するのを許さない、というのは疑問です。4条にある、役人の仕事について~というのは、例えば裁判所で、裁判官の尋問の仕方が良くなかったときに、これを論ずることができないというのは、束縛と言わざるを得ないでしょう。

小倉氏:20日・29日の社説もだいたい意味するところは今話したことと同じか。

末広重恭:おっしゃられた通りです。

小倉氏:それならば、法律の悪口を言った、ということになるのではないか。

末広重恭:ちがいます。法律の良し悪しについて論じたにすぎません。裁判官、2つの社説をよく見てください、どこの場所に悪口の言葉がありますか。

小倉氏:(新聞を見て)「不過謂妄莫議上の一言耳」(拙訳の「この条例の意図は、むやみやたらに議論することなかれ、の一言に尽きる」の部分)はどうか。

末広重恭:投書家は、条例は政府について論じてはならない、という目的で作られたのではないか、と考えただけで、他の意味があるわけではないでしょう。

その後、小倉氏は家族の人数と家禄、そして日新堂からもらっている月給について尋ねてから、明日の午前9時にもう一度来るように言い渡した。

5日12時前、末広重恭は裁判所に出向いた。裁判官は香川氏であった。香川氏は新聞の文中で過激と思われる語句を抜粋して挙げる一方で、20日の投書で述べられている思いには触れなかったので、重恭は質問した。

末広重恭:裁判官は文章全体を見て罪の有り無しを決めるのですか、それとも一部の語句から判断するのですか。

香川氏:文章全体を見て判断している。

末広重恭:それならば、なぜ本筋ではない部分の語句を羅列して、論の中心部分について放置するのですか。文章には抑揚があり、褒貶[ほめているところと批判しているところ]があり、一部分においてこれを判断すれば、人々は処罰されるのを免れることができないでしょう。

香川氏:論の意図するところを誰がわからないことがあろうか。

末広重恭:(急に激しく怒って)裁判官は論の意図するところを誤って理解している!

香川氏:それならば、この論の意図するところは何だと言うのか。

末広重恭:「吾㑪は謂う云々」から「之を痛論するにあるのみ」の部分[拙訳の「世の人々よ、いたずらに新聞条例を恐れてはならない。新聞は、自由が回復できるように努力しなければならない。そのためには、新聞は手厳しく論じなければならない」の部分]である。この中心部分を理解してくださらなければ、私は処罰を受けることを認めることができない。

香川氏はわかったといい、三回目の取り調べは終わった。

7日午前10時、重恭は再び裁判所に呼ばれた。

小倉氏がこれまで末広重恭が述べてきたことをまとめた口書を読み上げた。これに対し末広重恭は反論した。

末広重恭:私が伝えようとしていることが書かれておらず、ただの新聞の記事の切り抜きと言うべきであり、口書とはとても言えません。

小倉氏:私はあなたが書いた記事を使ってあなたがしゃべったこととしたのだ。

末広重恭:取り調べにおいて大切なことは、犯人の事情を問いただすことにある。私が投書をもって社説とした目的は、先日述べたとおりである。文中に条例に違反する部分はないが、万が一違反する部分があったとして、裁判官は、それをもって違反したと決めつけて、条例に違反した事情について取り調べないのか。

小倉氏:裁判所は議論をする所ではない。あなたは口書に押印するのを嫌がっているが、口書の文中に食い違いのある部分があるのか。

末広重恭:試しに質問したいことがあります。甲という者が乙の顔を殴ったととして、裁判官は、それを一時的な怒りによるものか、計画的なものか、事情を調べないですぐに甲は乙を殴ったという口書を作って判決を下すのですか。

小倉氏:それは取り調べの都合による。あなたが質問することではない。

末広重恭:それならば、これまで私が話してきたことを口書に入れないというのは、裁判所の都合ということか

小倉氏:これまで話してきたことを入れなかったわけではない。これまであなたがしゃべってきたことは、新聞の社説にも書いてあったことではないのか。社説の文章はあなたの思っていることと違うのか。

末広重恭:そうではありません。

小倉氏:それならばなぜあなたは押印することを承知しないのか。

末広重恭はここで、裁判官は処罰をすでに決定しており、議論の余地はないと悟った。

末広重恭:第2回の取り調べで私が話したことは記録されているのですか。

小倉氏:(笑みを浮かべながら)記録している。

ここで末広重恭は口書に押印した。それからしばらくして禁獄2か月・罰金20円を申し渡された。…

8月13日、末広重恭は裁判を総括して、社説で次のように述べています。

…新聞条例が公布されてから、少しでも条例に触れないように気を遣っていたので、裁判官の取り調べを受けた時も、必ず本当の気持ちが伝わって無罪になると思っていた。裁判の上で大切なことは、まず、犯罪に至るまでの事情をしっかりと調べることである。部分的に条例に触れる言葉があったとしても、文章には流れがあるのだから、全体を見て考えるべきである。裁判官は犯人が思いを一つ残らず打ち明けられるようにしなければならないし、文章をよく読んで、筆者の言いたいことをつかんで、それでもって有罪か無罪かを判断しなければならない。犯人がしゃべるのを待たずに、裁判官独自の判断で決断するというのは、江戸幕府の終わりころに行われていたことであり、今の賢明な政府では見られないことである。日本で陪審法が行われていない以上は、確実な証拠があったとしても、裁判官だけで判断してはならないのである。しかし、今まで裁判の模様について記してきたが、私の思いには反して、末広重恭は文章の意図するところを説明したのに、裁判官はこれを一切受け取らず、新聞の一部分でもって有罪と判断したのはどういう事だろうか。新聞紙条例について処罰を判断するのは、他の犯罪とは違うところがある。2つの投書にははっきりとその言いたいことが書かれている。これを使わずに有罪と決めるのはおかしい。我が国の賢く、善良な裁判官は人を罪に陥れるようなことはしない。それなのになぜ、末広重恭がまだ納得していないのに判決を下すようなことをしたのか。末広重恭は判決に不服で、上級の裁判所でもう一度裁判をやり直そうとしたが、青江秀は役人が判断したことだから、もう一度裁判をしても無駄だろう、と言ってこれを止めた。今、裁判について振り返ってみると、末広重恭が有罪となったのは、重恭が言葉を慎まなかったのが問題で、政府は、少しも圧制でもって人々の言論の自由を制限したわけではない。世の中の人々は判決を見て政府の行いを疑う者がいると思ったので、裁判の様子をこれまで読者に伝えてきたのである。

最後の部分はかなり取り繕った感がありますね(;^_^A

裁判の様子からもわかるように、取り調べはおざなりで、結果ありきの出来レースのようなものでした(◎_◎;)

政府が言論の弾圧を決意した以上、この後、他の新聞社にも弾圧の手が伸びていくことになります…。

2023年9月12日火曜日

新聞紙条例による言論弾圧(1875~1876年)④改正新聞紙条例批判~『郵便報知新聞』の場合

 前回は明治8年(1875年)7月に末広重恭が『東京曙新聞』紙上で行った、改正新聞紙条例に対する批判を見てみましたが、今回は、他の新聞社はどうであったのかを見るために、『郵便報知新聞』の社説を3つ紹介したいと思います😆

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇『郵便報知新聞』による改正新聞紙条例批判

『郵便報知新聞』は、明治5年(1872年)、「日本近代郵便の父」と呼ばれる前島密らによって創刊された新聞です。

明治6年(1873年)には元幕臣で勘定奉行などの重職を務めた過去のある、栗本 鋤雲(1822~1897年)が主筆として招かれ、社説を書くことになります。

(栗本鋤雲について、「先生は額も広く鼻も厚く、耳や口も大きかったものですから『お化け栗本』と異名をとったくらい、並外れた容貌の持主でした」と島崎藤村は語っており、容貌魁偉な人物であったことがうかがえます)

『郵便報知新聞』の評判は高いものがあり、明治9年(1876年)3月29日付の『日本全国新聞雑誌見立評判』による番付では、最上位の東の大関に選ばれています😲

ちなみに西の大関は『朝野新聞』、東の関脇は『曙新聞』、西の関脇は『横浜毎日新聞』…となっています。『東京曙新聞』も、評価高いですね~😲

『新聞経歴談』によると、末広重恭が『東京曙新聞』に入社した明治8年(1875年)4月時点で、編集局は7・8畳ほどの広さしかなく、記者は6・7人しかおらず、売り上げも700~800に過ぎなかったといいますから、

(売り上げが少なかったのは、民選議院に関する議論が盛り上がっている頃に、『曙新聞』は時期尚早論を書いたので、読者が離れてしまったためだという)

『東京曙新聞』は改正新聞紙条例に対する批判で大きく名を挙げたのでしょうね。

さて、『郵便報知新聞』が改正新聞紙条例についてまず論じたのは7月10日です。

…我々は人間に生れ落ちて、思考できる頭脳あり、思考したことを発することができる口があり、これを文章にし、書くことができる両手がある。思うことを述べ、思うことを記すのには何の問題もない。我々新聞記者は学問を学び、文明進歩のために役に立つようにと新聞の記事を書いている。ある人は政府を批判する。政府は新聞条例を出してなんで言論の自由を制限するのかと。しかし今の政府は昔の圧制政府とは違い、世の中を解明に導こうと努めている政府なのだから、悪影響を与えるという結果を考えずに行動することなどあるわけがない。政府は「ゴッド[神]」ではないのだから、人民の心や思想に干渉することはできないし、立ち入る権利はない。我々新聞記者もまた「ゴッド」ではないのだから、間違いを書くこともある。間違いを改めるには、世の人々の意見を頼りにするしかない。我々が今の政府を信頼しているのは、道理をわきまえていて、無理な押し付けはよくないと理解してくれているからである。今回の条例も、表面は圧制の甚だしいもののようで、政府の恥のように見えるが、よくよく考えるとそうでないことが明らかになってくる。しかし外国人は我が国の事情が分からないので、新聞条例の表面だけを見て、悪口を言い、馬鹿にし、外国語の新聞などには日本政府の失策である、日本政府の恥である、と書かれていて、まるで日本政府を圧制政府かのように見なしている。このように外国語の新聞に書かれると、ぬれぎぬが太平洋を渡って、あるいはインド洋を渡って、恥となって世界中に伝えられ、外国人はますます日本人を馬鹿にし、外国と交際するうえで、大きな障害を引き起こすことになってしまう。我々はなんとかこのぬれぎぬを晴らそうと、日本は昔のような圧制政府ではない、言論の自由を制限するような暴政府ではない、文明の進歩を妨げるような愚政府ではない、と述べ立てるけれども、簡単に人の言うことを信じない外国人はなかなか受け入れてくれまい。日本政府の恥は日本人民の恥でもあり、日本国の恥である。欧米の歴史家が世界の歴史を書く際に、今出ている外国語の新聞を参考にして書いたならば、今回の新聞条例のことを、世界の人に日本の恥として伝わるように書いてしまうであろう。このぬれぎぬを晴らすためには、日本が今後、よほどの結果を残すしかないであろう。日本で作られた出版物であれば、取り消すように命令できるが、外国の物だとそうはいかない。日本人としては後悔してもどうしようもない。すべてのことは外国にも関係するということを注意しなければならない。特に国の名誉・恥辱に関わることは、一言一句にいたるまで言論を制限することは無いと宣言して、世の中の意見を求めて決めなければならない。私は、政府がすぐにこれを実践して、外国に恥が伝わらないようにすることを切に願う。

なんとも痛烈な、皮肉たっぷりの文章ですね(;^_^A

7月17日。

…世の中の人が「新聞条例が出た」というが、これは確かではない言葉遣いである。物事が起こるのには必ず原因がある。今回の条例もお化け・幽霊のように不意に飛び出してきたものではない。誰かがこれを作ったからこそ世に出たのである。では誰がこれを作ったのか。6月28日の太政官布告110号を見ると、三条太政大臣[三条実美]の名でもって公布されている。では条例の草案を書いたのは誰なのか。政府のお役人様であろう。政府とはどういうものか。神でもなく仏でもなく、人間が集まってできたものだ。では役人の数がどれくらいか。噂で聞いただけだが、11万人ほどいるという。では条例は11万人が話し合って決めたのかというとそうではなく、1万人…ではなく、1000人…でもなく、私が思うには100人もいかないのではないかと思う。おそらくは数十人によって作られた物であろう。この予想が確かならば、今回の条例は賢明な数十人で作られたことになる。法律がわずかな人数で作られる国は、決して日本だけでなく、外国でも、民撰議院が無い国では普通のことである。しかも、1人で100人・1000人分に相当する賢明で非凡な役人が作っているのだから、誤りがあることは無いだろう(私が保証することができないできないけれども)。極上の人が作った物は、もちろん極上の物であるに違いないのだけれども、私は近眼で物事を見分けることができないので、この条例がはたして日本の開化の具合に適しているのかがわからない。現在の日本には二つのグループがある。1つは、条例に怒り、条例に反対する者である。その者たちが言うには、「日本の開化を進めたのは出版の自由である。出版物の1つである新聞が果たした功績は少なくなく、お礼されるぐらいなものなのに、逆にかせをはめるというのは納得いかない」。別の者は言う、「雑誌・新聞で自由に議論しているのは、雑誌・新聞が自由だからではなく、世の中が自由であるからで、雑誌・新聞は世の中の様子を反映しているに過ぎないのだから、これを抑えようとするのは無益である」。もう1つのグループは、条例をこれ以上ないものと敬い、あがめる者である。その者たちが言うには、「世の中の議論はあまりに過激であり政治の障害になっている。そのため、条例を作ってこれを穏やかで道に外れたことが無いようにしようとしているのである。条例は本当に良い法律で、実に優れた決断である」。別の者は言う、「新聞条例、大いに結構。わがままも出来るし、品行の悪いことをしても、新聞に出ないからいいわい」。以上が現在世の中にある2つのグループの意見である。どちらが正しいのか私は判断ができないのだが、どれくらいの人が1つ目のグループに属していて、どれくらいの人が2つ目のグループに属しているのかを考えてみると、1つ目のグループに属している人は、学者や人格が優れた人で、出版物を書いている、または、これから書こうとする気持ちのある人である。2つ目のグループに属している人は、出版物を書いたことが無い人か、これからも書こうという気持ちが無い人である。この人たちはだいたい学者ではないか、書きたいことが無いわけではないけれども、仕事が忙しくて書く暇がない人たちであろう。新聞の役目というのは、世の中の意見、いわゆる「パブリック・オピニオン」を紙上に写し出すだけである。このことが正しいかどうか論じる能力が無いので、識者の意見を願うまでである。(箕浦勝人)

これまた、皮肉たっぷりです(;^_^A

本音は、少ない人数で大事な法律を作るのは何事だ!みんなの意見を聞いて決めるべきだ!ただ学識も無く品格も無い役人たちがいい思いをしたいだけじゃないか!…と言いたいのでしょう。

7月22日。

…外は酷暑で我々の眉を焦がし[危険が迫っていること]、内では脳に炎症が起きていて内臓は裂けようとしている。このような苦痛の中で、新聞記者のことについて考えてみると、心が揺さぶられ乱されて、気持ちを抑えることができなくなる。新聞記者は文明を支えるのは自分だという自負をもって、暑さをいとわずよく勉強して、自由に書き、論じ、その気力は全く衰える様子を見せず、なんとも気持ちが良かった。今、新聞記者の者たちとともに議論したいことがある。それは他でもない、新聞条例に対し、前もって準備したいと思っていることについてである。新聞条例は果たして適当なのかどうかは、すでに皆わかっていることなので問題にしない。その処罰について論ずると、賢明な政府ならば処置も賢明にすべきである(賢いものにもごくまれに間違いを犯すこともあるが)と思う。とにかく、法律として公布された以上は、日本に住む者はそれに従わなければならない。新聞記者も言論の自由を生まれながらに持つが、これから逃れることはできない。我々はこの法律に違反したことは無く、この法律が使用されている間(賢明な政府は、適当な時期をもってこの法律を取り消してくださると信じている)、決して違反することはない(人民の無事・幸福に害があると確信したときは仕方がないが法律を守ることはできないけれども)。新聞記者のみんなは、法律が正しくないと見ればこれを改めさせたいと思っている。しかし、国の法律として成立した以上は、むやみに違反するのを避けているのだと私は推測している。我々は法律に違反しないと決めているのだから、何も心配はないのだけれど、知らず知らずのうちに法律に違反してしまうかもしれないし、法律に違反していないのに、わなにはめられ、横暴で、不正を働く役人によって濡れ衣を着させられることもあるだろうし(今の賢明な政府ではこの心配は無い)、日本国民にとって一大事だと思った時はわざと違反することもあるだろう。これは自分の身を犠牲にしてでも国を救うものであって、古語に言う所の「身を殺して仁を成す」というのと同じであり、西洋でいう所では「マルチルドム[martyrdom。マータダム。殉教者のこと]と似ている。これによってお咎めを受けることがあれば、我々はどうするべきか。我々の体は社会のために捧げたものであるので、刑務所に入れられるくらい問題ではないが、貧しい身分であるので罰金はこたえる。しかし新聞社によっては裕福なところもあり、借金を頼めないほど信用が薄い者はいないだろう。しかし実際にそうなった時は不都合が生じることもあるだろうから、その時に備えて、新聞記者や投書をする者たちで、少しずつお金を出し合ってお金を積み立て、非常のときに備えることにすれば、罰金のことを心配する者はいなくなるだろう。ああ、我々の頭上には正宗のようなよく切れる刀ではなく、さびた刀があって、これが落ちてこようとしている。これを掃う事が出来なければ、避けるしかない。避けることが出来なければ、傷口を治療する手立てを講じる必要がある。皆様はどう思われるか。

これまたよく書けるな、と心配になる文章です(;^_^A

要するにみんな罰金を恐れて批判を控えているけれども、積立金の制度を作れば、怖いものなしで堂々と批判できるぞ、どうだ、やらないか!ということですよね。

積立金制度が作られたかどうかは残念ながらわかっていません。

7月26日。

…我々新聞記者が知りたいのは新聞紙条例を改正した目的である。その目的が正しくないものであれば、我々は死ぬまでこれに抵抗するだけである。その目的がこの上ない良いものであれば、その目的が達成できるように力を尽くすべきである。しかし政府の目的がわからないと、抵抗すればいいのか助ければいいのかわからない。言論の自由とは言うなれば新聞記者の食物である。食べなければ新聞は飢えて長く続かないだろう。我が政府の目的はこのあたりにあるのではないかと思うが、我が賢明な政府は文明国において欠くことのできない言論の自由を禁止するような、おろかで乱暴な政府ではないと信じているので、我々は安心して仕事ができるのである。しかし、外国人はいまだに、我が政府のことを賢明とは言わず、「バルバリアス・ジャパニース・ガブルンメント」、未開(野蛮)の日本政府、などという物もある。また、外国人は条例が公布されたのを聞いて、未開な政府がやりがちなことだと不思議にも思っていないようだ、と伝え聞くこともある。我々はこのような汚名が世界中に広まるのが心配で、先に10日の社説においてもこれについて論じた。この社説に人々はどんな反応をするかと待っていたら、最近知り合いの小幡氏から一つの文章を寄せられたのでこれを掲載しようと思う。

…わが日本政府は明治8年[1875年]6月28日に讒謗律・新聞紙条例を出して言論の自由を妨害した。これによって世の愛国志士を自称する者たちの心を失ったに違いない。我が日本の人民は、地方官議員の言うように、無知で、理性を失った騒ぎをしているので、その心を得ても政府は喜ばず、心を失っても悲しくないだろうが、この条例により、日本人にとって哀しむべき・怒るべき・憂うべき・泣くべき汚名が世界中に広まるのはどうしようもないことである。新聞記者たちは、なぜ汚名を世界中に広めるようなことをするのか、と条例に違反するような記事を新聞に載せている。我が国の新聞記者は、博識多才の者でもなく、収入を得ることを目的に書いている者もいるけれども、新聞記者というのは文明国の間で世間的に認められている職業なのである。しかし、政府は国民の保護のためにこのような法律を作った以上は、これに違反する者がいれば、文明国で認められている新聞記者を捕まえ、罰金を課したり、監獄に入れるしかない。政府がこれを実行しても、日本国内の人民は先に述べたように、無知で、騒がしく、新聞記者は、生活の為に書いている者もいるので、議論になる事は少ないだろう(これに疑問を持つ者もいるが)。しかし一度新聞に新聞記者を罰したということが載れば、すぐにヨーロッパやアジアの学識・人格が優れた人々にこのことが伝わり、これらの人々はみな口をそろえて、「日本政府は自由の仇である、日本政府は独立の恨むべき敵である、日本政府は凶暴野蛮のすみかである」と言うだろう。こうなってしまっては、汚名を雪ぐのは、ことわざに言うところの、「燈心を以て岩石を穿つ」(ろうそくの芯でもって岩に穴をあける)のように難しいであろう。なんと哀しむべき・怒るべき・憂うべき・泣くべきことではないか。ああ、日本政府は止めることができない変化する世の中の勢いの中で今回の法律を作り、新聞記者は止めることができない筆の勢いのために法律に違反し、止めることができない汚名を世界に広めてしまおうとしているが、これは止めることができない災難であるといえようか。

これまた痛烈な批判です(;^_^A

外国に恥が伝わるうんぬんの話は、7月10日にも書いていましたが、

その論ずるところの表現はより過激になり、

外国人はこんな風に反応している、と言って、政府のことを野蛮政府・自由の仇・独立の敵・凶暴野蛮のすみかだとボロクソに言っています(◎_◎;)

外国人は、と言っていますが、実のところは新聞記者たちの本音でしょう(;^_^A

以上、新聞紙条例について述べた3つの社説を見ると、

新聞紙条例について非常に手厳しく論じていることがわかりますね(;'∀')

末広重恭と比べると、

『郵便報知新聞』は、取り消さないと世界中に恥が広まるぞ、遅れた国だと思われるぞ、と言って外側から攻めるのに対し、

末広重恭は、取り消さないと動乱が起こるぞ、と内側から攻めており、そのスタンスの違いがわかります。

表現的にはどちらも手厳しいのですが、「乱が起こる」と言って人々に騒乱を起こすことをあおっているかのように見える末広重恭の論説(本人は過去の例から警告を発しているだけであると思いますが)のほうがより過激だといえるでしょう(;^_^A

また、紹介した『郵便報知新聞』の3つの社説から、

7月において、政府を批判していたのは末広重恭1人ではなかったことがわかり、

以前に紹介した『評論雑誌』が7月に書いた記事、「思いの外(ほか)」、「各種の新聞紙上反覆、これを論駁するいよいよ激切にして、隠然政府に抗するの色をあらわし、いまだ数日ならざるに、その論鋒の説、政府の権勢を以てするとも、ついに圧抑するあたわざらんとす」というのが決して誇張ではなかったことがうかがえます。

新聞紙条例に対して、新聞社が攻勢に出た7月。

それに対して、8月、政府は反撃に出ることになります…(◎_◎;)


2023年9月8日金曜日

「新聞紙条例による言論弾圧③」のマンガの1ページ目を更新!

  「歴史」「明治時代」ところにある、

新聞紙条例による言論弾圧③のマンガの1ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年9月7日木曜日

新聞紙条例による言論弾圧(1875~1876年)③周囲から心配されるほど政府を批判した末広鉄腸

 政府が言論を押さえつけるために出した改正新聞紙条例・讒謗律。

しかし、新聞人たちは黙ってこれを受け入れることはありませんでした…!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



〇周囲から心配されるほど政府を批判した末広鉄腸

新聞人たちは、改正新聞紙条例・讒謗律に抵抗する姿勢を見せました。

7月の『評論雑誌』には、「思いの外(ほか)」、「各種の新聞紙上反覆、これを論駁するいよいよ激切にして、隠然政府に抗するの色をあらわし、いまだ数日ならざるに、その論鋒の説、政府の権勢を以てするとも、ついに圧抑するあたわざらんとす」とあります。

特に新聞紙条例・讒謗律について手厳しく論じたのは、『東京曙新聞』の編集長、末広鉄腸でした。

まず、新聞紙条例・讒謗律の内容を載せた6月30日の『東京曙新聞』で次のように反応しました。

…新聞紙条例が改正されたが、これは新聞に大きな影響を与える。日本の文明史が書かれれば、明治8年(1875年)に新聞紙条例が改正されたことを、特に取り上げ、強調するだろう。新聞紙条例が改正されるかもしれないという噂は、既に去年の末に流れていた。その時、ある者は言論は自由であるべしと言い、ある者は厳酷の制度で言論を封じるのを憂慮していた。今、改正新聞紙条例が出たが、世の人は、言論の自由が得られていると見るか、言論の自由が制限されたものと見るか。上の者は文明の良法であると言い、下の者は圧制の制度であると言う。物事を見分ける能力のある者は、新聞紙条例の内容を読めば、どちらであるか、きっとわかるだろう。朝廷は清く明らかであり、役人は賢く善良であるので、条例を適用することは厳しくせず、国民をのびのびと活動させてくれるはずである。厳しく取り締まれば、人々はこれを恐れて、政治・社会に対しての物の見方は発達しなくなるだろう。我が政府は文明開化を進めているから、人々を抑圧することは無いにちがいない。しかし、私は条例の内容を読んでも意図がわからないところがあったので、昨日29日、政府に次の質問をした。「14条に法律を悪く言った者は100円以下の罰金とする、とありますが、法律とはどのようなものを指すのでしょうか、国民が法律に従わないようにさせる、というのはどういうことを言うのでしょうか。法律で良くないところがあればこれを指摘し、あってはならない法律があればこれを論述するのも、法律を悪く言った、ということになるのでしょうか。過去のことで言えば、去年各紙の紙上をにぎわした、民撰議院についての議論は、新聞紙条例には抵触しないと考えているのですが、どうでしょうか」私はまだその回答をいただいていないのだが、その回答によって、政府が言論の自由を禁止しようとしているのか、そうでないかがわかるだろう。

最初から戦闘モードですね(;^_^A スゴイ…。

文中に「新聞紙条例が改正されるかもしれないという噂は、既に去年の末に流れていた」というのがありますが、『東京曙新聞』でも、改正新聞紙条例が公布される前に、2度、それについて記した社説が見受けられます。

6月10日。

…6月9日に東京日々新聞が、新聞紙発行条目を政府が改正するらしい、と伝え聞いたことを紙面に載せた。私は先月の末にその噂を聞いたが、確実である証拠はなかったので、これを新聞で紹介しなかった。しかし、日々新聞によって新聞紙発行条目の改正の話が掲載されたことで、この話は、私だけでなく、世の中に広く知られているということがわかったので、どうやら根も葉もない噂ではないらしい。伝え聞いたところによれば、改正は新聞記者や世の中の議論をする者を妨害する内容であるらしい。新聞紙上において行われる議論で政府の嫌がっていることに触れるものがあり、権力があって、大事な役職に就いている者はこれを人の心を乱し、行政の妨害をするものだとして、新聞紙発行条目の内容を厳しくして世の中の議論する者を束縛し、自由に論述させなくしようとしているのだろう。これは開化の進み具合を後退させるものではないか。新聞が始まって8年になるが、ようやく新聞の議論が人々の心を動かすようになり、人々から評価を受けるようになってまだ1年も経たないのに、政府はこれを嫌がって新聞発行条目を改正しようとしている。法律は世の中から承認を受けて定められるべきものであるのに、なんで人民が口出しするのを拒むのか。改正が事実であったとして、言論の自由が妨害されるならば、新聞記者は黙って政府の言うことに従うだろうか。必ず私と心を同じくする者たちが一緒になって、政府に屈することなく自分の意見を主張するだろう。世に言論の自由が行き渡らなくなっても、私は三寸の舌・一柄の筆を使うのやめない。それで罪を得ることになっても構わない。しかし、今の世では賢明な人物が政治を行っているので、改正するという噂が事実でないことを私は信じている。

6月20日。

…これまで政府が行うとしたことは全て実施されないものは無かった。新聞も政府の鼻息をうかがうばかりで、世の中の出来事を手厳しく論じることもなかった。しかし、二・三人の論者により[民選議院設立の建白書]、状況は大きく変化し、人々は争って法律の良い点と、良くない点について議論するようになり、新聞は世間からの評価を一変させて、言論の自由を得たかのような勢いがあった。議論の中には過激なものもあって、人を悪く言い、けなすものや、秘密を暴くようなよくないものも見られるが、それも皆、今の世のことを心配し、嘆く気持ちから行われているものである。数百年抑圧されていたものが一挙に噴き出しているのだから、このような弊害が起こるのも仕方がない面もあろう。しかし政府が新聞条例を改正し、議論を制限するらしいともうわさが流れると、世の論者たちはおとなしくなり、同業の新聞記者のある者は、「政府のすることはもっともである、新聞があまりにも道に外れたことをするから、政府も条例を改革するのだろう。これからはよく考えずに行動してはならない。『戒慎』[用心深く慎むこと]の二字を意識することが大事だ」、と言い出すようになった。条例が改正されるというのは噂に過ぎず、まだ行われていないのにこのありさまでは、改正条例が公布されれば、世の出来事を論ずるものはこの世からいなくなってしまうのではないだろうか。議論することが封じられてしまって、どうやって日本の人民の気力を奮い立たせることができるのだろうか。

これを見ると改正新聞紙条例は公布される前からすでに、噂段階でも人々に大きく影響を与えていたことがわかりますね(◎_◎;)

さて、公布された改正新聞紙条例に対し、末広重恭は論ずることをやめないわけですが、

7月3日になると一気に論調は過激になっていきます(◎_◎;)

…正論を述べて抗議するか、罰せられるのを恐れて沈黙するか。学んだことと違う事をするのをどうしたらよいのだろうか。世の中の論者は、皆このように思ってため息をついている。政府が議論を制限する制度を設けた今であるが、嘆いてばかりで命を惜しんでいるのではなく、現在の実情を手厳しく論じる者はいないだろうか。今、世の中の議論する者は、政府にへつらい、妥協しようとする意気地のない態度を取っているので、暴君官吏は反省することなく、世の人々は表面では政府に従うそぶりをせざるを得なくなっている。何という世の中の有様だろうか。今生きている者はなんと不幸なのだろうか。後の世の人々は涙を流すのを禁じ得ないだろう。

読者は、私が冒頭に悲しみ怒る言葉を並べたことに対し、必ずビックリしてこう言うだろう。「曙新聞の記者は、発狂したのではないか。今の状況を理解せず、ムチャクチャな暴言を吐いている。罰金ではとても済むまい。2・3か月の禁獄となるのは間違いないだろう。」私はこう答えよう。私は粗暴ではあるが、自分の身を守ることは知っている。なんで法律を犯して獄につながれることを望むだろうか。冒頭で言ったのは、中国の漢・明時代の終わりのころや、徳川氏の世の中に暮らしていた人々が言論の自由が制限されていた状態のことについて論じたに過ぎない。君主が優れて聡明である今の世な中で、冒頭に述べたことが起きるわけがないではないか。それでは一体、お前は何が言いたいのか、と読者は思うだろう。読者の方はまた我慢して私の話を聞いてほしい。暴政を行う者は、必ず言論を制限する。世の人々が少しでも政府の嫌がっていることに触れると、政府の悪口を言ったとして、その出版物を発禁にし、世の中に出回らないようにする。それだけでなく、政府を批判した者を島流しにし、最悪の場合死刑にしてしまう。当時の君主や大臣たちは、これで逆らう者は無くなったと思ったであろうが、世の有様を嘆く者は密かにこれを批判しているものである。100年後に、当時の人々が密かに記した記録を見ると、当時の君主・大臣の様子がくっきりと見えてくる。政府を恐れていただけでは、今に当時の様子が伝わることは無かっただろう。私はため息をついて思うのには、今の人々は昔の人にまったく及ばない、という事である。今、政府が公布した新聞紙条例・讒謗律は、世の中が人の秘密をあばいたり、人の名誉を傷つけたりする風潮になっているので、政府が臨時に設けたものであって、言論を制限したり、政治・社会に対しての物の見方を発達させないようにしたりするものでは決してない。これらの法律について、議論するところは見当たらない。しかし、世の学者先生の中には、条例が公布されたのを聞いて、漢・明・徳川氏の時代のような暴政が行われるのではないか、と思い、刑罰を受けることを恐れて、意見を述べなくなっている者もいる。意見が活発に出なくなり、国の元気が失われていっている様子を見るのは、嘆かわしいことだ。昔の人々は風刺や冗談の中に批判を紛れ込ませていたものだが、それを見れば当時の状況がよく分かる。だから私も今の状況についてそのように記すのである。後の世の人々で、私の書いたこの文章を読み、当時の状況に思いをはせて、涙を流す者がいるかどうかはわからないが。

7月5日。

…新聞人として、世の中の為に論ずべき話題があればこれを論ずることによって、日本の文化の進歩に微力ながら手伝わさせていただこうと思っているのであるが、讒謗律・新聞紙条例が公布されて以来、論ずることが難しくなり、一つの言葉を書く時にも、法律・条例に違反していないか、処罰を受けるのではないか、と心配になって、ついに書けなかったことが何度もある。その中で外国人が出している横浜新聞(ヘラルド)だけが条例について論じていた。ああ、日本人3500万人は皆言葉を発することができなくなってしまったのか。私はせめてヘラルドを翻訳して曙新聞に載せたいと思うのだが、それもまた条例に触れて、責めを受けるのではないかと思ってできない。日本の法律や制度について論じることが、日本人はできずして、外国人によってなされている。嘆き悲しみ怒るのをこらえることができない…。

同日に掲載された投書。

…「おい佞奸公君、君は実に幸せ者だよ」「なに、剛正。おれがなんで幸せなんだ」「よく考えてみたまえ。君、正院第110号の布告[讒謗律]を見たろう」「見たが、あれがどうした」「その中に、事実でないことを言って人の名誉を傷つけるのを讒毀といって、ひどい罰を受けることになるそうだが、幸せというのは、他でもない、君の仲間たちが内緒ごとをしたり、女性や酒にだらしなかったりすると、僕の仲間が、新聞にそのことを書いて君たちのことを悪く言うものだから、君たちは心から楽しめないようだったが、これからは新聞紙を使ってやかましく言うことも出来なくなるので、これからは君たちは悪いことも出来るし、女性やお酒を存分に楽しめるのだから、さぞ愉快、満足だろう。それに対して僕らは、正直でうそをつかなくても、人をほめて褒美を与えるという法律が無いから、誰からもほめられないし、お金もないから君たちのようにお酒や女性に溺れることも出来ないのでつまらないことだよ」「貴様は剛正という名前なのに、女々しくねたんでくる男だな。あの法律はそういう目的のものではない。日本の人民3500万人の名誉を守ろうという趣旨のものだ。貴様のように心得違いのものはひどい目に遭うかもしれないぞ」「そう言われちゃあ返す言葉もない。人の名誉を守ってくださるありがたい御趣旨であるということだが、これまでお酒や女性にだらしがなく、恥を知らなかった人間が、これからは気づかいする必要が無い、こちらの世界になった、という気持ちになって、芸者屋や花街が繁盛すると思うと、それが心配でならない。また、あこの奥さんが浮気している、ここの娘さんが愛人を作った、と新聞紙でやかましく言ってきたから、悪いことはできない世の中だと思っている者もいる様子だったが、これからは浮気をする夫・妻や不孝者・正義に外れた行いをする者たちは怖いものなしになるだろう。我々は正直に生きているから、他人から悪口を言われても後ろめたいところは無いから怖くもないが、聖人ではないからたまには失敗もする。その時、人からそれを責められると、なるほどと思って改めることができるから、逆に誹謗した者をありがたく思ってもうらんだり憎んだりすることなどない。そうして見ると、讒謗律というのは、品行方正な人には少しも役に立たないものだなあ」…東京下谷町 高橋矩正

登場人物の名前になっている「佞奸」とは、表面はおとなしそうに見えて、腹黒い人のことを言うそうですので、名づけからして悪意がありますね(;^_^A

ちなみに「剛正」とは、意志が強く、信念を曲げないこと、だそうです。

7月16日には次の投書を掲載。

…新聞紙条例・讒謗律が公布されて、世の人々はこれを言論の自由を制限・抑圧するものと誤って受け取り、そのために世の中で議論する者は少なくなった。これまで新聞は政府や裁判所の是非について論じ、民権のことについて紹介して恐れるところが無かった。これは今であれば禁獄でなければ100円以上の罰金にあたるだろう。しかし、新聞には世の人々に正しい考えや、新しい知識を届けるという、大きな役目があるのだ。条例があるといっても、自由に意見を言う事・自由に考えることが全て制限されたわけでもない。しかし、新聞を書く者は、罰金が重いのと、禁獄の期間が長いのを恐れて臆病症を起こし、これを治療しようとしないので、政府に対する奴隷心はますます甚だしくなり、黒人と同じようになっている。嘆かわしいことだ。新聞を書く者は条例をいたずらに意識せず、自由の思想・自由の議論が発達するように努力することで、大日本帝国が独立を維持し、ヨーロッパの鳥やロシアの蛇に呑み込まれないようにしなければならない。法律は厳しく、恐れるのももっともであるが、国が危急存亡の秋にあり、国民が塗炭の苦しみに遭うかもしれない今のような時期にあたっては、法律のことを気に懸ける暇はないのではないだろうか。…愛媛県 柴田知行

7月19日。

…世の人々の心というのは、促し、導いていくものであって、束縛してはならない。抑圧の堤防がひとたび決壊すれば、その勢いは激しく、政府をおぼれさせるだろう。イギリスのマグナカルタの変・フランスの共和政治の乱は、政府圧制が長く積み重なった害悪によって起こったのである。マグナカルタの変動は、国王が強暴であったため、貴族庶民の怒りを呼び起こし、王家の衰退を招くこととなった。フランスのルイ16世は優しくて残酷な政治を行ったわけではなかったが、一度内乱が起きると国中が騒ぎ立ち、ルイ16世は殺されるところとなった。これは、ルイ16世の先祖から続く圧制により不平不満がたまっていたところに、アメリカ・イギリスの自由の様子がフランス人民に影響を与えた結果、動乱が起きてフランスだけでなく、ヨーロッパ大陸を大きく変える結果となった。ルイ16世が人心を権力で抑えつけることをやめ、人々をのびのびと活動させていれば、人々は動乱を起こすことは無かっただろう。政府は人民を抑圧して一時的によい気持になるか、全体の利益のことを考えて行動するか、どちらかを早急に選ぶ必要がある。日本は数百年にわたり抑圧を受けて来ており、そこに欧米諸国から自由の精神が伝わり、これを求める様子は抑えつけることができない勢いがある。これはフランスの兵士がアメリカの独立を助け、それからフランスに帰国した時の様子に似ている。政府が抑圧をやめ、方針を変えなければ、わずかの間で強い風が吹き、激しい波がやってくることであろう。

7月20日には社説欄に京都村に住む三鱗栄二郎の「新聞条例を論ず」という投書を掲載。

…政府が厳しい新聞紙条例を公布したのは6月28日のことであった。公布されてからまだ間もないが、世の論者はすでに多くの事をしゃべり、新聞紙条例の誤りを攻撃し、政府に対抗する姿勢を示している。新聞紙条例の改正は、政府が秘密裏に行ったものであるが、公布する数か月前には世間に噂が広まり、私はこれを聞いて眉をひそめていた。世の中の学者は公布される前に条例の改正について議論したが、無駄に終わってしまった。いったいこの条例は、どれほどの人が関係して作られたものなのだろうか。平民の私にはわかろうはずもない。今、私はこの条例に適当な名前を付けようとするならば、「新聞紙罰則」といわざるをえない。なぜかといえば、その内容は処罰する事ばかり書かれているからである。なぜ政府はこのような条例を作ったのだろうか。安政・慶應のころ、度胸のある人物は、尊王攘夷を唱えて世の人々をあおったが、幕府はこれを厳しく取り締まったために人々の心は大きく変化し、そのため幕府はついに転覆するに至った。今、政府が新聞紙条例を作ったのは、転覆するのを予防するためのものであろう。元参議であった者たちが民選議院論を唱えてから約2年がたつが、その間、新聞は自由民権についての論説を次々と載せるようになった。試しに去年の新聞紙を読んでみれば、毎日のように民権論について書かれていることがわかるだろう。政府は国民に権利は与えずして義務ばかりを課す。政府は昔の「アブソリュート・モナーキー[絶対王政・専制政治]」と何ら変わるところが無い。民権党で愛国心のある者を、昔の徳川氏に抵抗した勤王党のように見なし、新聞紙を厳しく抑圧して人々の思想が発達するのを妨げている。新聞紙条例が公布されてから、新聞社は自由に意見を述べることが難しくなり、わずかに海外で起きたことにことづけて密かに政府の批判をするくらいしかできなくなってしまった。その様でどうして独立の精神を発達させることができるだろうか。世の人々よ、いたずらに新聞条例を恐れてはならない。新聞は、自由が回復できるように努力しなければならない。そのためには、新聞は手厳しく論じなければならない。政府は私の議論に対し罰金を科すであろう、または獄舎につなげるであろう、それでも私は条例について手厳しく論じ、政府に条例の廃止を願うであろう。もし私一人の犠牲で言論の自由を回復できれば、厳罰を受けたとしても、何も恨むことは無い。

…編者は、三鱗氏のことをよく知らないのであるが、責任感の強いこと、感嘆せざるを得なかった。社説に載せたのは、私の心を打つものがあったからである。文章中の言葉について、少し手を加えたところがある。条例違反の箇所があれば、編者の私一人で責任を負う。

7月22日。

…暑さが厳しく、気温は94℃[華氏の場合。摂氏であれば34℃]にも達した。私は文章を書いていたのだが、暑さの最も厳しいときに休むことができず、なんとつらく苦しいことだ、と心中でため息をつきながら、机に向かい、左手で汗をぬぐい、右手で筆をとり、数十行を書いていたのだが、強い風が吹き、机上の原稿を窓の外に吹き飛ばしてしまった。探したのだがついに見つからなかった。これは神様が、すばらしい文章があると聞いて天上に持って行かせたのか、私が書いていた文章が新聞紙条例に触れる内容であったので、罰を受けるのを神様が憐れんで吹き飛ばしたのか(後者がおそらく正しいと私は思っている)。暑さで苦しいうえに体もつかれていて、しかも新聞人の集会もあり改めて書く暇が無く、社説に書いたことを載せることができなかった。もし原稿を見つけた方がいれば、曙新聞社まで持ってきていただけるとありがたい…。

7月27日の投書。

…私は6月28日に新聞紙条例が公布されてから、世の中の論者たちがどのような行動するか観察していたが、論者たちは少しも屈する様子を見せず(条例を恐れ方針を転換した者はこの数に含まれていない)、イギリスのマグナカルタや、ルイ16世の時のフランスの動乱を紹介して言論の自由を制限することはできないということを論じてみせた。また、たとえ話を用いたり、冗談に見せかけたりして、条例を批判した。20日の社説に載った三鱗氏の論文を読んで、私は不覚にも机をたたいてすばらしいと叫んでしまった。三鱗氏の論文を見て、愛国心を起こさない者は人ではないと思う。新聞紙条例は新聞の行き過ぎや人の名誉を傷つけることを禁止しているだけで、言論の自由を制限しているわけではない。しかし罰則がとても厳しいので、人々はこれを恐れ、自ら書く内容を制限してしまった。これは賢明な政府の意図を察していないのである。勝手な妄想でもって束縛だ、圧制だと悪口を言うのは、条例を理解していないのである。もし政府が本当に言論の自由を望まないのであれば、新聞を厳禁にしているはずである(言論の自由は制限すべきではない。必ず反動の動きが生じる)。しかし、政府が言論の自由を望んでいるのであれば、新聞紙条例は出すべきではない(悪者を捕まえたり、事実でないことを言ったりすることを取り締まる法律は別にあり、新聞紙条例を作る必要はない)。政府は言論の自由を認めているものの、少しこれを制限しようとしているように見える。なぜ少しの害を恐れて大きな不利を招こうとしているのか。政府の失策を残念に思わざるを得ない。しかし、きっとこれは私の妄想であって、賢明なる政府は下手な方法はとらないと信じている。三鱗氏の言うように、新聞は国民の思想を発達させ、民権を主張し国家の基礎をしっかりとさせるように努めるべきであり、これは政府も喜ぶところである。もし酷い役人がいて、愛国の論者を捕まえるものがいたら、非は役人の方にある。恐れることなどないのだ。…下谷町 高橋矩正

7月29日。

…20日の社説に三鱗氏の論を載せたが、世の人々は私のことを甚だしく傲慢で、罪を避けることを知らない者だと見なすようになった。同業の者からも心配され、一日、私の名前を新聞に載せなかっただけでも、安否を問う使いがやって来たこともあった。しかし私は自分の身を心配していない。条例に束縛されることなく、新聞で世の中のことを議論する者については、賢明な政府は処罰することは無いということを知っているからである。今日、山根・中津 二氏から条例について論ずる投書をいただいた。三鱗氏のものと同じく、私の心を引き付けるものがあったので、ここに掲載する。

…世の中には多くの人がいるのだから、多種多様な意見がある。昔の人はこう言っている、智者にも千慮の一失有り、愚者にも千慮の一得有り…知恵のある者でも千回に一回は失敗し、愚かな者でも千回に一回は良い考えが出ると。同じように、政府も失敗するときはあるし、人民も良いことを言う時もあるのである。だから、政府と人民が協力していくことが必要なのに、いまだ政府と人民には大きな隔たりがある。政府は6月28日に新聞紙条例を公布したが、その内容を見るに、罰金でなければ獄につなぐといったもので、厳しくないとは言えない。この条例の意図は、むやみやたらに議論することなかれ、の一言に尽きる。ああ、政府の法律の何と厳しいことか。政府のことを議論することを許されないのは、騒乱のもとである。新聞は人民の耳や目である。新聞紙条例は人民の耳や目をふさぐのと同じである。これは三鱗先生のいうところの「デスポティック・モナーキー[専制政治]」にあたる。昔でいえば、秦の始皇帝が自分のことを議論することを恐れて数万の書物を焼き、学者を地中に埋め、平清盛が都の人が自分の悪口を言うのを恐れて子供[禿(かむろ)と呼ばれるスパイ]を各所にうろつかせたが、これはどちらも人々の耳や目をふさいだものであって、その後はどちらも乱が起こっている。…和歌山県平民 山根辰治・山口県平民 中津江三郎

7月31日の投書。

…新聞条例が公布された後、言論の自由が遠い所へ飛び去ってしまったかのように思えるのは残念なことです。新聞紙条例は議論を抑制するものではありません。新聞が、条例に書いてあるところの処罰をいたずらに恐れて、自ら言論を抑制しているのです。言うなれば、木の影や物の形が臆病者には幽霊や化け物のように見えているのと一緒で、バカらしさにおかしくなってきます。その中で曙新聞は信念を曲げずに議論を続けてくじける様子が見られません。禁獄・罰金も来るなら来い、自分は自分の道を行くといった勢いで、感心させられます。現在の世の中の議論は曙新聞によって保たれています。ぜひ、少しも引き下がることなく、正々堂々と論じ続けてください。暑さにやられないように氷水でも飲んで用心してください。…新橋 宇会岩内

これらを読むと、末広重恭の新聞紙条例に対する反感の強さがひしひしと伝わってくるのですが、同時に大丈夫なのか…と心配になります(;'∀')

末広重恭は、当時の状況について、『新聞経歴談』に次のように書いています。

「或日余は最も急激なる新聞紙条例及び讒謗律を駁撃せしが、数日を経て匿名の投書あり、漢文にて認め同じく新聞紙条例を非難し圧制の為す所成と断定し、大に余の心を得たり。然れども文字の練磨を欠く所あるを以て筆を加えて添作し一層其語気を激烈ならしめて之を紙上に掲載せり。偶々同業の会あり一同皆な余の為めに危み忠告する所あり。余笑って日く、余は囹圄[れいご。牢屋]に入って天下の人心を呼起さんとするのみと」

人々の心配は当たり、新聞界に激震が走る出来事が起こることになります…(◎_◎;)

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