前回は明治8年(1875年)7月に末広重恭が『東京曙新聞』紙上で行った、改正新聞紙条例に対する批判を見てみましたが、今回は、他の新聞社はどうであったのかを見るために、『郵便報知新聞』の社説を3つ紹介したいと思います😆
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇『郵便報知新聞』による改正新聞紙条例批判
『郵便報知新聞』は、明治5年(1872年)、「日本近代郵便の父」と呼ばれる前島密らによって創刊された新聞です。
明治6年(1873年)には元幕臣で勘定奉行などの重職を務めた過去のある、栗本 鋤雲(1822~1897年)が主筆として招かれ、社説を書くことになります。
(栗本鋤雲について、「先生は額も広く鼻も厚く、耳や口も大きかったものですから『お化け栗本』と異名をとったくらい、並外れた容貌の持主でした」と島崎藤村は語っており、容貌魁偉な人物であったことがうかがえます)
『郵便報知新聞』の評判は高いものがあり、明治9年(1876年)3月29日付の『日本全国新聞雑誌見立評判』による番付では、最上位の東の大関に選ばれています😲
ちなみに西の大関は『朝野新聞』、東の関脇は『曙新聞』、西の関脇は『横浜毎日新聞』…となっています。『東京曙新聞』も、評価高いですね~😲
『新聞経歴談』によると、末広重恭が『東京曙新聞』に入社した明治8年(1875年)4月時点で、編集局は7・8畳ほどの広さしかなく、記者は6・7人しかおらず、売り上げも700~800に過ぎなかったといいますから、
(売り上げが少なかったのは、民選議院に関する議論が盛り上がっている頃に、『曙新聞』は時期尚早論を書いたので、読者が離れてしまったためだという)
『東京曙新聞』は改正新聞紙条例に対する批判で大きく名を挙げたのでしょうね。
さて、『郵便報知新聞』が改正新聞紙条例についてまず論じたのは7月10日です。
…我々は人間に生れ落ちて、思考できる頭脳あり、思考したことを発することができる口があり、これを文章にし、書くことができる両手がある。思うことを述べ、思うことを記すのには何の問題もない。我々新聞記者は学問を学び、文明進歩のために役に立つようにと新聞の記事を書いている。ある人は政府を批判する。政府は新聞条例を出してなんで言論の自由を制限するのかと。しかし今の政府は昔の圧制政府とは違い、世の中を解明に導こうと努めている政府なのだから、悪影響を与えるという結果を考えずに行動することなどあるわけがない。政府は「ゴッド[神]」ではないのだから、人民の心や思想に干渉することはできないし、立ち入る権利はない。我々新聞記者もまた「ゴッド」ではないのだから、間違いを書くこともある。間違いを改めるには、世の人々の意見を頼りにするしかない。我々が今の政府を信頼しているのは、道理をわきまえていて、無理な押し付けはよくないと理解してくれているからである。今回の条例も、表面は圧制の甚だしいもののようで、政府の恥のように見えるが、よくよく考えるとそうでないことが明らかになってくる。しかし外国人は我が国の事情が分からないので、新聞条例の表面だけを見て、悪口を言い、馬鹿にし、外国語の新聞などには日本政府の失策である、日本政府の恥である、と書かれていて、まるで日本政府を圧制政府かのように見なしている。このように外国語の新聞に書かれると、ぬれぎぬが太平洋を渡って、あるいはインド洋を渡って、恥となって世界中に伝えられ、外国人はますます日本人を馬鹿にし、外国と交際するうえで、大きな障害を引き起こすことになってしまう。我々はなんとかこのぬれぎぬを晴らそうと、日本は昔のような圧制政府ではない、言論の自由を制限するような暴政府ではない、文明の進歩を妨げるような愚政府ではない、と述べ立てるけれども、簡単に人の言うことを信じない外国人はなかなか受け入れてくれまい。日本政府の恥は日本人民の恥でもあり、日本国の恥である。欧米の歴史家が世界の歴史を書く際に、今出ている外国語の新聞を参考にして書いたならば、今回の新聞条例のことを、世界の人に日本の恥として伝わるように書いてしまうであろう。このぬれぎぬを晴らすためには、日本が今後、よほどの結果を残すしかないであろう。日本で作られた出版物であれば、取り消すように命令できるが、外国の物だとそうはいかない。日本人としては後悔してもどうしようもない。すべてのことは外国にも関係するということを注意しなければならない。特に国の名誉・恥辱に関わることは、一言一句にいたるまで言論を制限することは無いと宣言して、世の中の意見を求めて決めなければならない。私は、政府がすぐにこれを実践して、外国に恥が伝わらないようにすることを切に願う。
なんとも痛烈な、皮肉たっぷりの文章ですね(;^_^A
7月17日。
…世の中の人が「新聞条例が出た」というが、これは確かではない言葉遣いである。物事が起こるのには必ず原因がある。今回の条例もお化け・幽霊のように不意に飛び出してきたものではない。誰かがこれを作ったからこそ世に出たのである。では誰がこれを作ったのか。6月28日の太政官布告110号を見ると、三条太政大臣[三条実美]の名でもって公布されている。では条例の草案を書いたのは誰なのか。政府のお役人様であろう。政府とはどういうものか。神でもなく仏でもなく、人間が集まってできたものだ。では役人の数がどれくらいか。噂で聞いただけだが、11万人ほどいるという。では条例は11万人が話し合って決めたのかというとそうではなく、1万人…ではなく、1000人…でもなく、私が思うには100人もいかないのではないかと思う。おそらくは数十人によって作られた物であろう。この予想が確かならば、今回の条例は賢明な数十人で作られたことになる。法律がわずかな人数で作られる国は、決して日本だけでなく、外国でも、民撰議院が無い国では普通のことである。しかも、1人で100人・1000人分に相当する賢明で非凡な役人が作っているのだから、誤りがあることは無いだろう(私が保証することができないできないけれども)。極上の人が作った物は、もちろん極上の物であるに違いないのだけれども、私は近眼で物事を見分けることができないので、この条例がはたして日本の開化の具合に適しているのかがわからない。現在の日本には二つのグループがある。1つは、条例に怒り、条例に反対する者である。その者たちが言うには、「日本の開化を進めたのは出版の自由である。出版物の1つである新聞が果たした功績は少なくなく、お礼されるぐらいなものなのに、逆にかせをはめるというのは納得いかない」。別の者は言う、「雑誌・新聞で自由に議論しているのは、雑誌・新聞が自由だからではなく、世の中が自由であるからで、雑誌・新聞は世の中の様子を反映しているに過ぎないのだから、これを抑えようとするのは無益である」。もう1つのグループは、条例をこれ以上ないものと敬い、あがめる者である。その者たちが言うには、「世の中の議論はあまりに過激であり政治の障害になっている。そのため、条例を作ってこれを穏やかで道に外れたことが無いようにしようとしているのである。条例は本当に良い法律で、実に優れた決断である」。別の者は言う、「新聞条例、大いに結構。わがままも出来るし、品行の悪いことをしても、新聞に出ないからいいわい」。以上が現在世の中にある2つのグループの意見である。どちらが正しいのか私は判断ができないのだが、どれくらいの人が1つ目のグループに属していて、どれくらいの人が2つ目のグループに属しているのかを考えてみると、1つ目のグループに属している人は、学者や人格が優れた人で、出版物を書いている、または、これから書こうとする気持ちのある人である。2つ目のグループに属している人は、出版物を書いたことが無い人か、これからも書こうという気持ちが無い人である。この人たちはだいたい学者ではないか、書きたいことが無いわけではないけれども、仕事が忙しくて書く暇がない人たちであろう。新聞の役目というのは、世の中の意見、いわゆる「パブリック・オピニオン」を紙上に写し出すだけである。このことが正しいかどうか論じる能力が無いので、識者の意見を願うまでである。(箕浦勝人)
これまた、皮肉たっぷりです(;^_^A
本音は、少ない人数で大事な法律を作るのは何事だ!みんなの意見を聞いて決めるべきだ!ただ学識も無く品格も無い役人たちがいい思いをしたいだけじゃないか!…と言いたいのでしょう。
7月22日。
…外は酷暑で我々の眉を焦がし[危険が迫っていること]、内では脳に炎症が起きていて内臓は裂けようとしている。このような苦痛の中で、新聞記者のことについて考えてみると、心が揺さぶられ乱されて、気持ちを抑えることができなくなる。新聞記者は文明を支えるのは自分だという自負をもって、暑さをいとわずよく勉強して、自由に書き、論じ、その気力は全く衰える様子を見せず、なんとも気持ちが良かった。今、新聞記者の者たちとともに議論したいことがある。それは他でもない、新聞条例に対し、前もって準備したいと思っていることについてである。新聞条例は果たして適当なのかどうかは、すでに皆わかっていることなので問題にしない。その処罰について論ずると、賢明な政府ならば処置も賢明にすべきである(賢いものにもごくまれに間違いを犯すこともあるが)と思う。とにかく、法律として公布された以上は、日本に住む者はそれに従わなければならない。新聞記者も言論の自由を生まれながらに持つが、これから逃れることはできない。我々はこの法律に違反したことは無く、この法律が使用されている間(賢明な政府は、適当な時期をもってこの法律を取り消してくださると信じている)、決して違反することはない(人民の無事・幸福に害があると確信したときは仕方がないが法律を守ることはできないけれども)。新聞記者のみんなは、法律が正しくないと見ればこれを改めさせたいと思っている。しかし、国の法律として成立した以上は、むやみに違反するのを避けているのだと私は推測している。我々は法律に違反しないと決めているのだから、何も心配はないのだけれど、知らず知らずのうちに法律に違反してしまうかもしれないし、法律に違反していないのに、わなにはめられ、横暴で、不正を働く役人によって濡れ衣を着させられることもあるだろうし(今の賢明な政府ではこの心配は無い)、日本国民にとって一大事だと思った時はわざと違反することもあるだろう。これは自分の身を犠牲にしてでも国を救うものであって、古語に言う所の「身を殺して仁を成す」というのと同じであり、西洋でいう所では「マルチルドム[martyrdom。マータダム。殉教者のこと]と似ている。これによってお咎めを受けることがあれば、我々はどうするべきか。我々の体は社会のために捧げたものであるので、刑務所に入れられるくらい問題ではないが、貧しい身分であるので罰金はこたえる。しかし新聞社によっては裕福なところもあり、借金を頼めないほど信用が薄い者はいないだろう。しかし実際にそうなった時は不都合が生じることもあるだろうから、その時に備えて、新聞記者や投書をする者たちで、少しずつお金を出し合ってお金を積み立て、非常のときに備えることにすれば、罰金のことを心配する者はいなくなるだろう。ああ、我々の頭上には正宗のようなよく切れる刀ではなく、さびた刀があって、これが落ちてこようとしている。これを掃う事が出来なければ、避けるしかない。避けることが出来なければ、傷口を治療する手立てを講じる必要がある。皆様はどう思われるか。
これまたよく書けるな、と心配になる文章です(;^_^A
要するにみんな罰金を恐れて批判を控えているけれども、積立金の制度を作れば、怖いものなしで堂々と批判できるぞ、どうだ、やらないか!ということですよね。
積立金制度が作られたかどうかは残念ながらわかっていません。
7月26日。
…我々新聞記者が知りたいのは新聞紙条例を改正した目的である。その目的が正しくないものであれば、我々は死ぬまでこれに抵抗するだけである。その目的がこの上ない良いものであれば、その目的が達成できるように力を尽くすべきである。しかし政府の目的がわからないと、抵抗すればいいのか助ければいいのかわからない。言論の自由とは言うなれば新聞記者の食物である。食べなければ新聞は飢えて長く続かないだろう。我が政府の目的はこのあたりにあるのではないかと思うが、我が賢明な政府は文明国において欠くことのできない言論の自由を禁止するような、おろかで乱暴な政府ではないと信じているので、我々は安心して仕事ができるのである。しかし、外国人はいまだに、我が政府のことを賢明とは言わず、「バルバリアス・ジャパニース・ガブルンメント」、未開(野蛮)の日本政府、などという物もある。また、外国人は条例が公布されたのを聞いて、未開な政府がやりがちなことだと不思議にも思っていないようだ、と伝え聞くこともある。我々はこのような汚名が世界中に広まるのが心配で、先に10日の社説においてもこれについて論じた。この社説に人々はどんな反応をするかと待っていたら、最近知り合いの小幡氏から一つの文章を寄せられたのでこれを掲載しようと思う。
…わが日本政府は明治8年[1875年]6月28日に讒謗律・新聞紙条例を出して言論の自由を妨害した。これによって世の愛国志士を自称する者たちの心を失ったに違いない。我が日本の人民は、地方官議員の言うように、無知で、理性を失った騒ぎをしているので、その心を得ても政府は喜ばず、心を失っても悲しくないだろうが、この条例により、日本人にとって哀しむべき・怒るべき・憂うべき・泣くべき汚名が世界中に広まるのはどうしようもないことである。新聞記者たちは、なぜ汚名を世界中に広めるようなことをするのか、と条例に違反するような記事を新聞に載せている。我が国の新聞記者は、博識多才の者でもなく、収入を得ることを目的に書いている者もいるけれども、新聞記者というのは文明国の間で世間的に認められている職業なのである。しかし、政府は国民の保護のためにこのような法律を作った以上は、これに違反する者がいれば、文明国で認められている新聞記者を捕まえ、罰金を課したり、監獄に入れるしかない。政府がこれを実行しても、日本国内の人民は先に述べたように、無知で、騒がしく、新聞記者は、生活の為に書いている者もいるので、議論になる事は少ないだろう(これに疑問を持つ者もいるが)。しかし一度新聞に新聞記者を罰したということが載れば、すぐにヨーロッパやアジアの学識・人格が優れた人々にこのことが伝わり、これらの人々はみな口をそろえて、「日本政府は自由の仇である、日本政府は独立の恨むべき敵である、日本政府は凶暴野蛮のすみかである」と言うだろう。こうなってしまっては、汚名を雪ぐのは、ことわざに言うところの、「燈心を以て岩石を穿つ」(ろうそくの芯でもって岩に穴をあける)のように難しいであろう。なんと哀しむべき・怒るべき・憂うべき・泣くべきことではないか。ああ、日本政府は止めることができない変化する世の中の勢いの中で今回の法律を作り、新聞記者は止めることができない筆の勢いのために法律に違反し、止めることができない汚名を世界に広めてしまおうとしているが、これは止めることができない災難であるといえようか。
これまた痛烈な批判です(;^_^A
外国に恥が伝わるうんぬんの話は、7月10日にも書いていましたが、
その論ずるところの表現はより過激になり、
外国人はこんな風に反応している、と言って、政府のことを野蛮政府・自由の仇・独立の敵・凶暴野蛮のすみかだとボロクソに言っています(◎_◎;)
外国人は、と言っていますが、実のところは新聞記者たちの本音でしょう(;^_^A
以上、新聞紙条例について述べた3つの社説を見ると、
新聞紙条例について非常に手厳しく論じていることがわかりますね(;'∀')
末広重恭と比べると、
『郵便報知新聞』は、取り消さないと世界中に恥が広まるぞ、遅れた国だと思われるぞ、と言って外側から攻めるのに対し、
末広重恭は、取り消さないと動乱が起こるぞ、と内側から攻めており、そのスタンスの違いがわかります。
表現的にはどちらも手厳しいのですが、「乱が起こる」と言って人々に騒乱を起こすことをあおっているかのように見える末広重恭の論説(本人は過去の例から警告を発しているだけであると思いますが)のほうがより過激だといえるでしょう(;^_^A
また、紹介した『郵便報知新聞』の3つの社説から、
7月において、政府を批判していたのは末広重恭1人ではなかったことがわかり、
以前に紹介した『評論雑誌』が7月に書いた記事、「思いの外(ほか)」、「各種の新聞紙上反覆、これを論駁するいよいよ激切にして、隠然政府に抗するの色をあらわし、いまだ数日ならざるに、その論鋒の説、政府の権勢を以てするとも、ついに圧抑するあたわざらんとす」というのが決して誇張ではなかったことがうかがえます。
新聞紙条例に対して、新聞社が攻勢に出た7月。
それに対して、8月、政府は反撃に出ることになります…(◎_◎;)
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