社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 4月 2023

2023年4月30日日曜日

織田信秀・斎藤利政の再戦~大柿の城へ後巻の事(1548年)

 前回のマンガで述べたように、少なくない被害を出しながらも、一時的に今川軍の進攻を押しとどめた織田信秀ですが、

次は美濃(岐阜県南部)に向けて動くことになります…(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇織田信秀・斎藤利政の再戦

『信長公記』では、織田信秀が美濃に攻めこんだ理由を次のように説明しています。

…以前、大垣城を落としてそこに織田播磨守を置いていたが、9月22日の織田信秀との大合戦に勝利した斎藤道三は、「尾張の奴らは足も腰も立たなくなっただろう、大垣城を落とすなら今だ」と言って、近江(滋賀県)に援軍も頼んで、11月上旬に大垣城近くまで攻め寄せた。

その報を聞いた織田信秀は、「それならば出陣する」と言って、11月17日、援軍とともに木曽川・飛騨川を越えて、美濃に進入し、竹が鼻から茜部口に進出して各地に火を放った。斎藤道三はこれに驚いて大垣城への攻撃をゆるめ、稲葉山城に戻った。このように織田信秀が、時間をかけずにすばやく出陣して手柄を立てる様子は、言葉で言い表せないほどである。…

「先年、尾張国より濃州大柿の城へ、織田播磨守、入れ置かれ候事。去る九月廿二日、山城道三、大合戦に打ち勝つて申す様に、「尾張者はあしも腰も立つ間敷候間、大柿を取り詰め、此の時攻め干すべき」の由にて、近江のくにより加勢を憑み、霜月上旬、大柿の城近々と取り寄せ候ひき。」

「霜月上旬、「大柿の城近々と取り寄せ、斎藤山城道三攻め寄する」の由、注進切々なり。「其の儀においては、打ち立つべき」の由にて、霜月十七日、織田備後守殿、後巻として、又、憑み勢をさせられ、木曾川、飛騨川の大河、舟渡しをこさせられ、美濃国へ御乱入。竹が鼻、放火候て、あかなべ口へ御働き候て、所々に姻を揚げられ候間、道三仰天致し、虎口を甘げ、井の口居城へ引き入るなり。か様に、程なく備後守軽々と御発足、御手柄、申すぱかりなき次第なり。」

これを見ると、以前のマンガで紹介した、天文13年(1544年)9月22日の美濃での大敗の後、今が好機とばかりにその年の11月に大垣城に攻めこんだ…というように感じられますが、実際は天文13年(1544年)の11月のことではなかったようです。

なぜかというと、『信長公記』の続きに、

…11月20日、織田信秀が尾張を留守にしている間に、清須城の者たちが、織田信秀の古渡城を攻めて、町の入り口に放火、敵対を明らかにしたので、織田信秀は古渡城に戻った…

霜月廿日、此の留守に、尾州の内清洲衆、備後守殿古渡新城へ人数を出だし、町口放火候て、御敵の色を立てられ候。此の如く候間、備後守御帰陣なり。」

とあるのですが、これについて、『武家聞伝記』にある文書には、

…尾張から織田信秀が攻めてきたと以前お伝えしましたが、この春から関係を結んでいた織田大和守殿が昨日の午前8時頃に(織田信秀の持つ)那古野城に攻め寄せたため、尾張国は全てこちらに味方しているような状態となりました、また、大和守殿の行動に合わせたのか松平広忠も行動を起こしています、織田信秀のことですが、美濃の本田というところに砦を築いて、昨夜攻撃を仕掛けてきましたが、午前2時頃に敗北して、織田信秀は髪を振り乱して逃亡、夜中だったので討ち取ることができなかったのは残念です…

「尾州衆出張の趣、先書に啓達し候、よって織田大和守去る春以来申談ず筋目有りて、昨日辰の刻立ち進みて那古野及び内に至り候、然れば尾州一国一味し候、三州松平合せてか相働き候、織弾事、当国本田と申在所に要害を構え罷計、昨夜懸けられ候ところ、丑刻に敗北候、髪を捌けて山中へ罷り退き候へば、夜中の儀に候へば、これを討ち留めず候、無念に候」

と『信長公記』と同じような内容が記してあるのですが、末尾に書かれている日付には、

「8月12日」

と書かれているのです(◎_◎;)

8月ということは、9月22日の戦いと同年ということはありえなくなります💦

天文13年(1544年)の翌年以降ということになります。

では何年なのかというと、

長山寺所蔵の鷹司系図にある記事に、

…天文17年(1548年)8月、尾張の織田が美濃に乱入してきて、各地で合戦となって、織田治郎を討ち取った…

「天文十七年八月、尾の織田が当国へ乱入。所々で合戦。織田治郎討捕。」

とあるので、「天文17年(1548年)」の8月の可能性があります。

しかし、天文17年(1548年)であるとしたら、なぜ天文13年(1544年)9月22日の大勝からこんなに日にちが空いたのかが疑問になります。

天文13年(1544年)9月22日後、斎藤利政(道三)はどうしていたのかというと、

織田・朝倉連合を美濃から追い出したものの、再び土岐頼充をかついで美濃に攻めてくるかもしれず、国内もまだ動揺していたとも考えられるので、しばらく動けなかったのでしょう。

そこで、天文15年(1546年)9月、斎藤利政は土岐頼充の美濃復帰を許すという条件で朝倉と和睦することに成功します。この時、斎藤利政の娘が土岐頼充に嫁いだようです。

しかし土岐頼充と織田信秀は共に戦った間柄であったため、頼充に配慮して、まだ大垣城を攻めることはできなかったのでしょう。

しかしその頼充は天文16年(1547年)11月17日に急死します。

六角義賢の書状には、「次郎殿を聟仁取、彼早世候」(次郎[土岐頼充]に娘を嫁がせたが、その次郎が若死にすると、)とあり、若くして病死したことがわかりますが、『信長公記』には、土岐頼芸には次郎・八郎という息子がいて(実際は土岐頼武の息子)、斎藤道三は次郎に娘を嫁がせたが、これを毒殺し、…とあり、当時から毒殺の噂が出ていたことがわかります💦

跡を継いだのは弟の土岐頼香でした。

この頼香に、土岐頼充に嫁いでいた斎藤利政の娘が再び嫁いだようです。

『信長公記』には、

残った娘を、次郎の弟の八郎と無理やり結婚させ、稲葉山城下に住まわせた、…とあります。

しかし、斎藤利政は、『信長公記』によれば、

五三日に 1度ずつ参り、御縁に「 御鷹野へ出御も無用。御馬など召し侯事、これまた、もったいなく侯 」と申し詰め、籠の如くに仕り侯間」

…3日か5日に一度は八郎(土岐頼香)に会って、

「鷹狩に行ってはいけません」「馬に乗ってはいけません」などと、

籠に閉じこめたように扱った…

というように、土岐頼香の行動を制限してお飾りのように扱ったようです。

これに不満を持った土岐頼香は、

『信長公記』によれば、

「雨夜の紛れに忍び出で、御馬にて尾州を心がけ御出で侯ところ、追いかけ、御腹めさせ侯。」

八郎は雨の降る夜にひそかに館を出て馬で尾張に向かったが、道三はこれを追いかけて自害させた…

不満を感じて尾張に行こうとしたところを捕まり、自害に追い込まれてしまった、とあるのですが、

実際はどうやら挙兵して粘り強く抵抗していたようです。

『信長公記』では、織田信秀は大垣城を救援するために美濃に進入していますが、

木下聡氏は、『斎藤氏四代』で、土岐頼香の求めに応じて出兵したのではないか、としています。

斎藤利政が大垣城を攻めては、土岐頼香に加えて、織田も敵に回すことになってしまうわけですから、織田信秀が土岐頼香の求めに応じた、とする方が自然なように感じます。

しかし、織田信秀は稲葉山城に迫りながら、

その後、稲葉山城と大垣城の中間地点にある本田に砦を構えているので、

大垣城を包囲していた斎藤利政が稲葉山城に戻ろうとするのをさえぎろうとした…ととらえるべきなのかもしれません(◎_◎;)

斎藤利政としても、大垣城を攻める理由がありました。

大垣城を攻めれば、救援に来た織田信秀とともに土岐頼香が挙兵するでしょう。

そうすれば、土岐頼香を倒す口実ができるからです。

こうして織田信秀は美濃に進入し、

『信長公記』によれば、竹が鼻・茜部周辺に攻め寄せたわけですが、

「茜部」がつく地名がある地域

織田信秀が攻めこんだ「竹ガ鼻」は、現在も羽島市竹鼻町として地名を残しています。「茜部」は、以前のマンガにも登場しましたが、岐阜市には「茜町・茜部菱野・茜部新所・茜部大野・茜部辰新・茜部神清寺・茜部寺屋敷・茜部本郷・茜部中島・茜部大川・茜部野瀬」があり、大茜部地帯(大茜部連合?)を形成しています。ちなみに茜部のすぐ上の地名は「加納」。)

先に述べたように、主家にあたる守護代・清須織田家が斎藤利政と通じて、

突然織田信秀の城(『信長公記』では古渡城、『武家聞伝記』の文書では那古野城。清須城~那古野城は6.6km、清須城~古渡城は9.1㎞なので、位置的に那古野城の方が正しいか)を攻撃します。

これを見ると、信秀・頼香は斎藤利政の手のひらの上で踊らされているようにしか思えません。

利政、おそるべしです(◎_◎;)

稲葉山城と大垣城のほぼ中間地点にある本田(瑞穂市)に砦を構えていた織田信秀は驚き、斎藤利政に打撃を与えてから退却しようとしたのでしょう、斎藤勢を夜襲しますが、これは見抜かれ、再びの惨敗を喫してしまいます。

『美濃諸旧記』には、「是に依って道三再び出馬し候、終に織田播磨守を攻出し、大垣の城を受取りて竹腰を入れ置きけるなり」とあり、

それからまもなくして、大垣城は斎藤利政に奪われてしまったようです💦

(新たに城主となった「竹腰」とは竹腰重直[道鎮]のことで、竹腰重直は織田信秀に大垣城を落とされた時の城主だったそうなので、再び大垣城主に返り咲いたことになる)

同盟相手が敗れ孤立した土岐頼香ですが、簡単には敗れず、

先に紹介した長山寺所蔵の鷹司系図にある記事には、

「二十五日饗庭城合戦。味方敗軍する。八郎大輔康門・鵜飼弥八郎・筑摩弥三吉長討死。政光は今度の戦で大功あり。同十一月牧野合戦。十一月晦日より十二月四日に至る。孫八郎光政・山田又七・長瀬新兵衛・同七郎・吉田伝兵衛・佐藤新五郎・足立与次郎・牧村源七郎・横幕彦三郎・河村市郎兵衛が同時に討死。長瀬城灰尽となる。天文十七申年十二月朔日討死。」

(8月25日、斎藤方の城である饗庭城[相羽城]で戦いがあり、斎藤方が敗北した、続いて11月30日~12月4日にかけて牧野で戦いがあった、これも斎藤方の敗北に終わり、長瀬城は陥落して、12月1日には鷹司政光も戦死した)

…とあり、斎藤利政もかなり手を焼いていた様子が伝わってきます。

これらの戦いは織田信秀の攻撃を受けたもの、とする説もありますが、

織田信秀は8月11日に大敗を喫しており、清須織田家も敵に回している状況で、

美濃に攻めこむ余裕があるとは思えないので、これは土岐頼香と、反斎藤利政勢力の力によるものでしょう。

土岐氏は衰えたといっても美濃の名門、腐っても鯛、土岐氏に味方する者が少なくなかったのでしょう。

しかし、奮戦していた頼香は、近江の大名、六角義賢の書状によれば、

「事に左右をよせ、生害させ申」

(利政はあれこれと口実をつけて頼香を自害に追い込んだ)

最後は追いつめられて自害させられてしまったようです。

先にも紹介しましたが、

『信長公記』では、尾張に逃れようとしたところを捕まって自害に追いこまれる場面が出てきていますが、それはこの時の事だったのでしょう。

利政はしかし、主君筋の土岐頼香を自害させたことは外聞が悪いと考えたのか、

天文18年(1549年)の5月頃までに出家し、これ以降は「道三」を名乗ることになります。

しかし、斎藤道三はまだ止まりません。

まだ排除すべき土岐氏の人間がいたからです。

先にふれた六角義賢の書状には、

「其外兄弟衆、或ハ毒害、或ハ隠害にて、悉相果候」

(頼香の兄弟たちも毒殺・暗殺され、ことごとく死んでしまった)

…と書かれています。

そして最後に残ったのは、守護の土岐頼芸でした。

木下聡氏の『斎藤氏四代』によれば、天文19年(1550年)の冬頃に土岐頼芸は美濃から追放されたようです。

『信長公記』には、

土岐頼芸は大桑城にいたが、道三は金銭をもってその家来たちを味方につけ、

大桑城から追い出すことに成功した、

土岐頼芸は織田信秀を頼って尾張に向かった…と、

土岐頼芸追放の顛末が記されています。

しかし実際は、土岐頼芸は尾張ではなく近江の六角氏のもとに逃れていたようです。

土岐頼芸の妻は六角定頼の娘であり、尾張に行くよりもこちらに行く方が自然でしょう。

そもそも土岐頼芸はずっと信秀の敵の斎藤道三方でしたし。

天文20年(1551年)7月5日に、近衛稙家(元関白。1503~1566年)が今川義元に対し、土岐頼芸が美濃に復帰できるように織田信秀と協力したいので、信秀と和睦してほしい、詳細は六角定頼から知らせがある、という内容の書状を送っています。

これを見ても、六角定頼が中心となって、土岐頼芸の美濃復帰に動いていたことがわかります。

しかし翌年に頼みの六角定頼も亡くなったため近江を去り、その後は関東の常陸(茨城県)・上総(千葉県中部)などを流浪し、最終的に甲斐(山梨県)の武田氏のもとに落ち着きます。

その後、1582年に織田信長により武田氏が滅ぼされた際に捕らえられてしまいますが、美濃に戻ることを許され、念願がかなった土岐頼芸はこの年に亡くなりました。80歳の高齢であったといいます。長生きはするものですね…( ;∀;)

さて、美濃での再度の大敗に加え、尾張での内戦も始まった織田信秀は、大いに勢力を弱めていきます。

苦しい状況の織田信秀は、方針転換を迫られることになっていきます…💦

〇補足

マンガ中の落首(立札に世の中を皮肉った歌を載せたもの)に出てきた、

「昔はおさだ」の「おさだ」は「長田忠致(ただむね)」のことですが、

長田忠致は、主人である源義朝源頼朝の父)が平治の乱で逃げてきたのを

かくまうと言って油断したところを暗殺した人物です。

源頼朝の挙兵の際、どんな神経をしてるかわかりませんが

源頼朝の味方になります。

源頼朝は「がんばれば美濃・尾張(おわり)をくれてやる」と言ったそうで、

長田忠致ははりきりますが、戦争後、ほうびではなく死刑を言い渡されます。

美濃・尾張をくれるといったではないか」、という長田忠致に、

源頼朝は「約束通り身の終わりをくれてやる」と答えたそうです。

頼朝は憎さのあまり、爪をはがし、肉を切り、皮をはぐというやり方で長田忠致を数日かけて殺すという残忍な処刑を行いますが、

今回出てきた斎藤道三も「牛裂きの刑」という残忍な処刑を行っています。

これは、罪人の両手・両足を複数の牛の角に縄で結び、

複数の牛を逆方向に走らせて罪人の身体を引き裂くという残酷なものです。

斎藤道三は織田信長に協力的な人物で、織田信長が斎藤道三を滅ぼしたわけでもないですから、

太田牛一がわざわざ斎藤道三を悪く書く理由がありませんから、

『信長公記』に書かれた悪行はだいたいが真実であったと思われます。

それだからこそ、後のマンガで描くように、味方が少なく非業の死を遂げることになるのだと思います😰

2023年4月27日木曜日

織田・今川の本格的な武力衝突~小豆坂の戦い(1548年)

 三河松平氏・戸田氏連合は東西両方向から織田氏・今川氏の攻撃を受け、

絶体絶命の状況に陥っていました。

そのような中で、松平広忠は今川氏に従属することを決意します。

織田方につかなかった理由は、対立する松平信孝がいたのが大きかったでしょうか。

今川氏と戦っていた戸田氏は松平広忠の裏切りに怒り、

広忠が今川氏に送った人質である竹千代(のちの徳川家康)を途中で強奪し、

織田信秀のもとに送ってしまいます。

こうして、三河をめぐり、織田氏・今川氏の関係の緊張は高まっていき、

ついに両軍は衝突することになります…!(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

※マンガの2ページ目は都合により公開しません<(_ _)>

小豆坂の戦い

前回でも触れましたが、天文16年(1547年)9月28日、松平広忠は渡・筒針で松平信孝と対戦、これに「竹千代を相助けるべく」今川軍も援軍を出していました。

ここで織田ー今川の初めての衝突があったわけですが、この戦いは松平広忠の敗北に終わっています。

おそらく、今川氏もまだ本腰を入れたものではなかったのでしょう。

苦しい状況の松平広忠は、10月に奇策にうって出ます。

対立する上和田城城主の松平忠倫を暗殺するのです。

『松平記』では、竹千代の人質の話より前に出てくるのですが、

広忠は「三左衛門(忠倫)を切て参り候へ」筧三郎(重忠)に命令、これを受けて筧三郎は忠倫に偽りの降伏を申し出て近づき、忠倫の脇を二か所ついて殺害して城から脱出、忠倫の兵士たちは捕まえようとしたが追いつけなかった…とあります。

『三河物語』でも、竹千代の人質の話の前に出てきます。

広忠は筧図書(重忠)を呼んで、「忠倫を斬ったら、百貫の土地をやろう」と言った、そこで筧図書は和田の砦に忍びこみ、寝ていた忠倫を4・5回突き刺して殺した、しかし忍びこむので体力を消耗したのか腰が立たず、そこで、勇士と有名な、弟の筧助太夫が兄を背負って城から脱出した…。

また、今川義元も驚きの行動に出ています。

翌年の天文17年(1548年)1月26日、今橋城の戦いの際に今川氏に寝返った野々山政兼尾張大高城の攻撃を命じたのです。

これは、援軍としてくるはずだった松平広忠が来なかったため、野々山政兼の戦死に終わったのですが、尾張に侵入を許したことに織田信秀も驚いたことでしょう。

一方、織田信秀も黙っておらず、さまざまな行動に出ています。

天文17年(1548年)1月に、作手城主・奥平定勝の弟、定友が今川氏に謀反、吉田城を攻撃していますが、これは織田信秀とつながっていたのではないでしょうか。

さらに、織田信秀は2月~3月頃に、相模(神奈川県)の大名・北条氏康(1515~1571年)に今川氏を挟撃することを持ちかけています。

それに対し、氏康は当時、関東での山内上杉氏・里見氏などとの戦いで手一杯であり、この上、今川も敵に回すことはできない状況にあったので、

「近年一和候といえども、彼の国より疑心止むこと無く候間、迷惑に候」(今川義元と和睦したとはいえ、まだ信用されていない時に、このような話をされては迷惑である)と答えて断っています。

北条氏康を動かすことに失敗した織田信秀でしたが、尾張にも侵入されて放置するわけにもいかず、三河の岡崎城攻撃を考えますが、それに対し、今川義元も太原雪斎に命じて兵を出し、ついに織田・今川は本格的な戦闘に突入することになります💦

ここで起きた戦いを小豆坂の戦いといいますが、

小豆坂の戦いが起きた年を1542年とする書物もあるのですが、

小豆坂の戦いが天文17年(1548年)に行われたことを示す今川義元が出した文書が複数あります。

西郷弾正左衛門あての、小豆坂での側面からの攻撃を誉めたたえる、天文17年3月28日の文書

松井宗信あての、小豆坂で最前線で戦い、殿軍も務めたことを誉めたたえる、天文17年4月15日の文書

朝比奈信置あての、小豆坂で最前線で戦ったことをほめたたえる、天文17年7月1日の文書

これらの史料から、小豆坂の戦いは天文17年(1548年)に行われた戦いだと考えるべきでしょう。

では、天文17年(1548年)の小豆坂の戦いはどのような戦いであったのか。

それについて、『松平記』・『三河物語』には次のように記されています。

『松平記』

天文17年(1548年)3月19日、織田信秀は岡崎城を取るために安城城から攻め寄せてきた、そこで今川義元は太原雪斎を大将に、両朝比奈(駿河朝比奈家の朝比奈信置と遠江朝比奈家の朝比奈泰能)は矢作川を下流の方から越えて上和田に陣を構え、小豆坂に進んだ、尾張勢は織田信広を大将とし、小豆坂で両軍が接近して戦いとなった、朝比奈信置が一番槍となり、岡崎衆を率いて織田信広隊を突き崩し、三町(約300m)ほども追ったが、尾張勢は二の備えが反撃して、岡崎衆の林藤五郎・小林源之助などが戦死した、しかし岡部元信が側面から尾張勢を攻撃して再び盛り返し、駿河衆の小倉千之介が尾張勢の先手の物頭「やり三位」などを討ち取った、尾張勢は力を落として敗北し、織田信秀は岡崎城を得ることができずに古渡の城へ帰っていった、この年の内に、岡崎衆が山中城(本宿城)を攻め落とし、守っていた松平重弘は落ち延びていった…。

『三河物語』

今川義元は「織田に人質がとられたのに、それでも織田につかないとは。この上は松平に加勢しよう」と言って、太原雪斎を大将として、駿河・遠江・東三河の兵を集めて出陣、藤河に着陣した、対する織田信秀もこれを聞いて清須の城を出て上和田の砦に着陣した、馬頭之原で対決しようと、夜明け前に出発して、山道を進んだ、一方、駿河衆も上和田砦を攻撃するため夜明け前に出発、小豆坂を登ったところで、織田信広を先陣とする尾張衆と遭遇し、互いに動転したが、気を取り直して戦いが始まり、織田信広は敗れて「盗人木」まで退却、ここにいた織田信秀が押し返したが、駿河衆もこれを押し戻した、ここで両軍は引きあげたが、尾張衆は2回押されて死傷者も多かったので、駿河衆の勝ちだといわれた、織田信秀は安城城に織田信広を置いて清須城へ去っていった…。

『松平記』と『三河物語』では多くの相違点があります。

①『松平記』では、織田が攻めたので、今川が松平を助けるために出陣しているが、『三河物語』では、今川の出陣を聞いて、織田信秀が兵を出している。

→距離的な問題もあるので、『三河物語』のほうが正確か?

②『松平記』では今川軍は矢作川を越えて上和田に布陣しているが、『三河物語』では藤河に布陣している。

→上和田砦は矢作川よりも東側にあるので、『松平記』の内容は位置関係的に誤り。矢作川を越えて~は、織田軍のことか?

③『松平記』は今川方の快勝のように書いているが、『三河物語』では今川方の優勢勝ちのように書いている。

→もし快勝したのであれば、そのまま安城城を攻撃しそうなものだが、攻めていないことから考えると、両軍とも被害が大きかったと考えるべきであり、『三河物語』の方が正確か。

④『松平記』では織田信秀は古渡城に帰っているが、『三河物語』では清須城に戻っている。

→当時、織田信秀は古渡に城を築いてここに移っていたので、『松平記』のほうが正確か。

以上から考えると、『三河物語』のほうが内容的に正確と思われるのですが、

『松平記』にしかない詳細な記述もあるため、今回のマンガは両者をミックスさせて描いてみました(;^_^A

さて、次は『信長公記』で小豆坂の戦いはどのように書かれているのかを見てみましょう。

八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取出し、七段に人数を備へ候、其の折節、三川の内あん城と云ふ城、織田備後守かかへられ候き。駿河の由原先懸にて、あづき坂へ人数を出し候。則ち、備後守あん城より矢はぎへ懸出し、あづき坂にて、備後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・四郎次郎殿初めとして既に一戦に取結び相戦う。其の時よき働の衆、織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿・織田造酒丞、是れは鎗きず被られ、内藤勝介、是れは、よき武者討ちとり高名。那古野弥五郎、清洲衆にて候、討死候なり。下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、三度四度かかり合いかかり合い折しきて、各手柄と云う事限りなし。前後きびしき様体是れなり。爰にて那古野弥五郎が頸は由原討ち取るなり。是れより駿河衆人数打ち納れ候なり。」[天理本では「前後きびしき様体是れなり」の後が、「後には互いに人数引退候也、尾張八郡に歴々在りと雖も、武篇の貴ぶべきは織田備後守一人と見えたり」となっている。]

(8月上旬、今川軍は三河の正田原に進んで陣を構えた。その頃、安城城は織田信秀が守っていた。今川軍の先陣は太原雪斎で、小豆坂に進んだ。そこで、信秀は安城城を出て矢作川を渡り、小豆坂で今川軍と戦った。その時活躍したのは、信秀の弟である信康・信光・信実、織田信房は槍傷を受けた、内藤勝介は有名な武士を討ち取った、下方定清・佐々正次・佐々孫介・中野一安・赤川景弘・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口教継は、三・四度と敵に突進し、それぞれ多くの手柄を立てた。非常に厳しい戦いで、那古野弥五郎は清須織田家から加勢に来てくれた者であったが太原雪斎に討ち取られた。この後、今川軍が安城城周辺に多くやってくるようになった。)[天理本部分…互いに引き退いた、尾張国には優れた武士が多くいるけれども、勇敢な武士といえば織田信秀ただ一人であろう]

8月というのは誤りですね。

『官本三河記』など8月とする史料もあるのですが、今川義元の書状はいずれも8月以前に出ているので…(;^_^A

「駿河の由原先懸」とあり、由原なる者が今川軍も先陣であったと書かれているのですが、この由原というのは、どうやら名字が「庵原」である太原雪斎のことであるようです。しかし大将の雪斎が先陣というのは考えづらく、これも誤りでしょうか。

この戦いで活躍した一人に、織田信康が出てきますが、

織田信康は1544年の美濃攻めの大敗の際にすでに戦死しているので、これも誤りです。

この信康を除いた残りの活躍した人物を紹介すると、

織田信光守山城の城主。以前のマンガに登場。

織田信実…調べても小豆坂の戦いに参加した以外のことは伝わっておらず💦、若くして亡くなったものと思われます。。

織田信房織田という名字ですがこれは祖父が与えられたもので、血はつながっていないようです。

内藤勝介…那古屋城主となった吉法師(織田信長)の補佐につけられた家老の4番目(①林秀貞②平手政秀③青山与三右衛門)。

下方定清源氏の小笠原氏の一族。守山城から少し南にいったところにある、上野城の城主(三河の上野城とは別)。その後も何度も信長公記に出てきてかなり活躍しているのですが、「信長の野望」にはほとんど出てきません(ナゼ)(-_-;)…と思ったら、最新作「信長の野望・新生」に登場するという話が!すげぇ!😍

統率 69 武勇 84 知略 34 政務 13 ですか…

かなりの脳筋…(;^_^A アセアセ・・・

佐々政次佐々孫介どちらもあの佐々成政の兄。成政は?というと、1536年生まれと言われているので、そうなるとこの時まだ12歳頃なので、戦いには参加していなかったのでしょう。

中野一安源行家の子孫であるといいます。由緒正しいですね~😦以前のマンガで出てきた今川氏豊の娘を妻としていました😮今川氏豊の娘は尾張に残っていたんですね…。今川氏の娘と結婚とは…さすが源氏の血筋、といったところでしょうか??💦その流れで今川氏についてもよさそうなもんなんですが、織田氏にせっせと仕えてその後も活躍しています。

赤川景弘…詳しいことはよくわからない人物であるものの、佐久間信盛村井貞勝らと連名で書状を出したりしているので、けっこう地位の高い武士だったようです。

神戸市左衛門永田次郎右衛門…一切がナゾの人物。永田次郎右衛門は、天理本ではこの戦いで戦死したことになっている。

山口教継大内氏の一族であるという。愛知郡笠寺の武士で、同じ愛知郡にあり、三河との境目の近くにあった鳴海城を任されるほど信秀から信頼されていた。

…となります。

(天理本では他に、土肥孫左衛門は膝を斬られて退却した、と書かれている)

また、この戦いで活躍した人物は「小豆坂七本槍」とたたえられており、

「織田信光・織田信房・岡田重能・佐々正次・佐々孫介・中野一安・下方定清」

…の七名なのですが、この中で岡田重能のみ信長公記に出てこないのがよくわかりません…(;^_^A

岡田重能1527~1583年)は文武両道の武士で、話が上手であった…と、

友人であった小瀬甫庵「太閤記」に書いています。

「七本槍」というと、賤ヶ岳のを思い浮かべますが、

福島正則・加藤清正は、「自分たちは小豆坂のパクリですよ」と笑ってしゃべっていたという話があるので、けっこう名の知れた存在だったようです。

この七本槍と呼ばれる者たちの活躍はあったものの、

『信長公記』には、厳しい戦いであった、今川軍が周辺に現れるようになった(天理本では互いに引き退いた)とあり、

『松平記』『三河物語』と同じように織田軍の劣勢に終わったことが記されています。

いくつか誤りは見られるものの、全体的に見れば『松平記』や『三河物語』とだいたい同じ経過を示しており、ここからもやはり小豆坂の戦いは天文17年(1548年)にあったことを裏付けることができます。

さて、織田軍の劣勢に終わったものの、今川氏の攻勢をある程度とめることに成功した織田信秀は、続いて、美濃でのリベンジのために動くことになります…(◎_◎;)

2023年4月24日月曜日

三河をめぐる織田・今川の対立~人質となった徳川家康(1545~1547年)

 美濃攻略に失敗した織田信秀

勢力を弱めた織田信秀に対し、東の三河では松平広忠が立ち上がります…!(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇三河での勢力拡大と今川氏との対立

天文13年(1544年)、美濃で織田信秀は大敗しますが、

松平広忠に目立った動きはなかったようです。

前回のマンガで登場した宗牧の書いた『東国紀行』には、

11月中旬頃に、阿部定吉尾張国境まで出陣したことが記されていますが、

短期間で帰城しています。

「安部大蔵なと知人、をはりさかひまで出陣の事ありていまた不帰、…翌日大蔵も帰陣したれと、」

松平広忠が動くのは翌年の9月のことでした。

安城城周辺を回復するために出陣したのです。これを第二次安城合戦と呼びます。

この戦いで松平広忠は敗北、殿軍を務めた本多忠豊忠勝の祖父)が戦死しています。

一方で織田信秀もまだ敗戦から戦力を立て直すことができておらず、

安城城を攻め落とすことなく尾張に戻ったようです。

この年の7月から11月にかけて駿河(静岡県東部)東部で今川氏と北条氏の争い(第二次河東一乱)が起き、今川氏が勝利して戦いが終わります。

今川義元はこれによって東部の不安を無くすことに成功し、以後、三河進攻を始めていきます。

天文15年(1546年)、今川義元は家臣(軍師ともされる)太原雪斎に命じて三河東部の戸田宣成が守る今橋城を攻撃、11月15日ころにこれを陥落させました。

義元はここで今橋城を吉田城に改めたようで、以後、吉田城を拠点に三河に勢力を拡大していくことになります。

翌年の天文16年(1547年)7月頃には山中城を勢力下に置きますが、

今川氏の進出を脅威に感じた織田信秀と松平信孝は、天文15年~16年頃に大平・作岡・和田に城を築城(または修築)してこれに対抗したため、

今川家臣の松井宗信は山中城を修築して織田信秀・松平信孝に備えたようです。

そこで今川氏は南に転じて、9月、渥美半島の戸田氏の本拠である田原城を攻撃しますが、激しい抵抗に遭い、敗北してしまったようです。

一方、ほぼ時を同じくして安城城を攻撃した織田信秀はついにこれを陥落させることに成功、ついで岡崎城に迫ります。

進退窮まった松平広忠は子の竹千代(後の徳川家康)を人質に差し出して織田信秀の降伏した…と『愛知県史』・『青年家康』はしていますが、

そうなるとその直後の松平広忠の行動との整合性が取れないため、

織田信秀に降伏した、とするのは誤りでしょう。

たしかに、

①天文17年(1548年)3月11日付の北条氏康が織田信秀に送った書状

「よって三州の儀、駿州へ相談無く、去年かの国へ向かい軍を起こされ、安城の要害則時に破らるの由に候。毎度御戦功、奇特に候。ことに岡崎の城、その国より相押さえ候につき、駿州にも今橋本意に致され候」

(三河のことについて、今川氏に相談することなく、去年[1547年]進攻し、安城城をすぐに落とされたとのこと、毎度のことながら、すばらしいことです。さらに岡崎城も抑えたことによって、今川氏も今橋城を思うようにすることができた)

②9月22日付の菩提心院日覚の書状

「三河は駿河衆敗軍の様に候て、弾正忠先ずもって一国を管領候。威勢前代未聞の様にその沙汰ども候」

「岡崎は弾えかう参の分にて、からがらの命にて候。弾は三州平均平定、その翌日に京に上り候」

(三河では今川軍が敗北したこともあり、織田信秀が三河を制したとのこと、その威勢は前代未聞だそうである)

(松平広忠は織田信秀に降参したため、織田信秀は三河を平定し、その翌日に京都に上ったそうである)

…という、松平広忠が織田信秀に降伏したとする文書があるのですが、

①は信ぴょう性に疑問が持たれており、②は遠く越中国(富山県)にいる僧の聞き書きなので正確性に欠けます。

大石泰史氏の『今川氏滅亡』には、

1547年以降、織田信秀が三河で出した文書は見つかっていない…ことから、

岡崎城を攻略したというのは織田信秀のプロパガンダであろう、としています。

(また、岡崎を降伏させた翌日の上洛についてもそれを裏付ける資料はないとしています。)

また、もし松平広忠が織田に降伏したとするならば、長年敵対している松平信孝が広忠の上に立つことになるわけで、それは広忠にとって受け入れられないことでしょう。

織田信秀の圧迫を受けた松平広忠は、織田信秀に降伏した…とするよりも、

織田信秀に対抗するために、これまで敵対していた今川氏と組むことにし、

竹千代を人質として今川氏に送った…とするのが自然です。

そうなると怒り狂うのが、松平広忠と同盟し、今川氏と田原城で激しい攻防を繰り広げていた戸田氏です。

戸田氏は、そちらが今川氏に裏切るなら、こちらは織田氏に裏切ろう、と考えるでしょう。

そこで、今川氏に送られる途中の竹千代を奪い、織田氏に送り、それをもとに織田氏と結んだのではないでしょうか。

『松平記』では、尾張勢が岡崎城を攻め取ろうとしていた、今川が援軍としてきたが、人質を出すようにとの話があった、そこで広忠は竹千代を人質に送ることにしたが、途中、田原城の戸田康光の弟、戸田五郎が「しおみ坂」で竹千代を奪い、尾張に行き、古渡の城主、織田信秀に差し上げた、信秀は大変喜んで銭百貫を与えた、そして広忠に使者を出して「今川を離れ尾張につけ、そうしないと竹千代を殺すことになる」と伝えたが、広忠は、「人質の命を惜しんで今川に背くことはできない」と答えたので、信秀は「広忠は良将である」[「扨々広忠ハ良将也」]と言った、人質となった竹千代に、高野藤蔵が優しくし、小鳥などを与えたので、後に高野藤蔵は土地を与えられた…とあり、

『三河物語』では、広忠が今川に援軍を頼んだところ、今川は人質を送れと言った、そこで竹千代を送ることにし、田原経由で駿河に送ろうとしたが、戸田康光は銭千貫で竹千代を尾張に売った、広忠は「織田に差し出した人質でもないから、どうとでもなさるがいい」と信秀からの要求を断り続けた…とあり、

『徳川実紀』では、織田信秀が岡崎城を攻めようとした、広忠は多勢に無勢なので今川に援軍を頼んだ、すると義元が人質を要求したので、石川数正・平岩親吉などがついていったが、戸田康光が「船でお送りしよう」と言って、子の五郎政直と協力して尾張に船を送ってしまった、織田信秀は広忠に「わしに降参せよ、そうしなければ竹千代を殺す」と言ったが、広忠は「竹千代は今川に送ったのだ、それを戸田が婚姻の縁を忘れて織田に送ったのだ、一人の子どもへの愛情で今川との長いよしみを変えることはない」と返事した、信秀はこれに感心したのか、竹千代を殺すことなかった…とあります。

当時は戸田と今川は戦争中だったので、田原を経由することはあり得ず、そのため、『三河物語』『徳川実紀』の内容は誤りでしょう。『松平記』の内容が一番正確かと思われます。

ちなみに売られた金額については、『駿府記』に、徳川家康が家来に、わしは幼いころ、又右衛門というものに銭五百貫で売られたと言った、とあります。

銭百貫・五百貫・千貫と違いがありますが、百貫だと120万円、五百貫だと600万円、千貫だと1200万円なので、どれも相当な大金です…(◎_◎;))

9月28日に松平広忠は渡・筒針に進んで松平信孝と戦っていますが、

(『松平記』によれば、松平広忠は敗れ、松平忠次[五井松平家]・松平喜蔵鳥居忠宗鳥居元忠の兄]が戦死した。松平忠次を討ち取ったのは鳥居久兵衛だったが、この久兵衛は忠次と従兄弟どうしであったという)

これには今川氏が「竹千代を相助けるべく」援軍を出していた、と『土佐証文』にあります。

竹千代が奪われたからこそ、「助ける」という表現になっているのでしょう。

また、松平広忠は信孝と争っていますが、もし織田信秀に竹千代を差し出して降伏していたとしたら、裏切りを責められて竹千代が殺される可能性もあり、信孝と戦うこともしなかったでしょう。

ですから、私としては、松平広忠は織田信秀には降伏していなかったし、

竹千代は、今まで敵対していた今川氏に助けを求めるために人質に送られた、と考えます💦

さて、松平を通して、織田・今川の関係の緊張は高まっていました。

そしてついに、両軍は激突することになるのです…!🔥


2023年4月21日金曜日

色変えぬ竹と松~連歌師・宗牧が見た織田信秀(1544年)

無残な失敗に終わってしまった、 織田信秀にとって過去最大の作戦であった美濃攻略戦

実は、美濃攻略戦直後の織田信秀の様子を詳細に記録していた人物がいるのです。

今回は、その記録に残された織田信秀を、マンガにしてみました!😊

敗戦直後の信秀の様子はどのようなものだったのか!?

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇京都からの使者

谷宗牧(?~1545年)は連歌師です。

以前のマンガで登場した宗長に師事した人物で、

連歌師の系統としては、宗祇→宗長→宗牧、という流れになります。

この宗牧は天文13年(1544年)、東日本を旅することを思いつき、

実際に京都~近江~伊勢~尾張~三河~駿河~武蔵~陸奥~(Uターンして)下野、と旅し、京都に戻る途中の下野佐野で亡くなっているのですが、

宗牧は死ぬ一年前に尾張に立ち寄り、織田信秀と会い、その時の様子を詳細に記録しているのです。

実は宗牧はただ旅していただけでなく、一つ頼みごとをされていました。

以前のマンガで紹介したように、

織田信秀は前年の天文12年(1543年)に朝廷の内裏修理に献金をしていましたが、

朝廷は東日本に向かおうとしていた宗牧に、

どうせ東日本に行くのなら、ついでに織田信秀に礼状と礼物(古今和歌集の写し)を渡してくれないか、と頼んだのです。

宗牧は伊勢から海路で三河まで行く予定で、尾張による予定はなかったので、

断るのですが、強く頼まれたのでついにこれを受けることになり、

それで宗牧は織田信秀と会うことになったのです。

しかし、宗牧が尾張についたのは11月、美濃での大敗の一か月後というかなり悪いタイミングでした。

そこで、宗牧は友軌という者を平手政秀のもとに派遣して様子を確認させたところ、

政秀は「この度美濃において、思いもよらない敗北があって、織田信秀は一人でようやく帰ってきたところで、楽しむことはできないような時期なのですが、信秀は早く会いたいと言っています」(今度於濃州、不慮の合戦勝利をうしなひて、弾正忠一人やうやう無事に帰宅、無興散々の折ふしなから早々まかり下るへき」と答えたので、

伊勢国の桑名から舟を使って津島に行き、

翌日(11月5日)、尾張那古野に到着しました。

そこで平手政秀が宗牧を出迎えて、

「今日は寒うございますね(西暦だと11月29日にあたる)、とにかく手を温めましょう、口を温めましょう、湯風呂・岩風呂はいかがですか」と丁重にもてなします。

平手出むかひて、けふの寒ささこそなと、まつなにやらむ手をあたゝめよ、口をあたゝめよ、湯風呂・石風呂よなと念比に人をもてなす」

宗牧はそのもてなす様が、どうやら政秀の生まれながらの性分であることがわかると、遠慮せずにそれを受け入れました。

どうやら、病気になりそうそうなレベルの天候の悪さだったようです(;^_^A

発病もすへきあらしにてそ有ける」

夕食の準備は平手政秀が自ら行うという徹底ぶりで、

息子の「三郎次郎・菊千代」が宗牧の盃に酒を注いだといいます。

この「三郎次郎・菊千代」を、織田信長織田信勝織田信包とする説があるのですが、

話の流れ的に考えておそらく平手政秀の子でしょう(;^_^A

織田信長は「三郎」ですが、織田信勝は「勘十郎」であり、織田信包の幼名はわかっていませんので💦

また、信包は1543年生まれとされており、そうなるとこの時1歳、酒を注ぐのはどう考えても無理でしょう(-_-;)

平手政秀の子どもたちも名前などが判然としないのですが…。

翌日、朝食前に織田信秀の館を訪れた宗牧は、ついに織田信秀と面会を果たします。

朝廷からの礼状・礼物の古今和歌集の写しを受け取った信秀は、

「今度の戦で、不思議に命拾いをできたのは、今日のためだったのでしょう。織田家にとっての名誉、これに過ぎるものはありません」と述べ、

敗北に気を取られているようには見えなかったといいます。

今度不慮の存命もこのためにとてそ有ける、家の面目不可過之なと、敗軍無興の気色も見えす」

また、「この先、美濃のことを思い通りにできたら、もう一度内裏の修理をお任せください」とも話したことに対しては、

宗牧は信秀の武人らしい心意気に感じ入り、

朝廷から任された役目は迷惑だと思っていたが、その気持ちも失せて、老後の自分を満ち足りた気分にさせた、と記しています。

濃州之儀一度達本意事も侍らハ、重ねて御修理の儀とも仰下され候やうにないない可申上云々、武勇の心きハみえたる申されやう、御言伝めいわくも忘れて、老後満足也」

その後、宗牧は役目を終えたので帰るというと、

せっかくなので連歌会をやりましょう、と強く頼まれたのでやることになり、

信秀は、私の館では支障があるので平手の館でやりましょう、

発句(連歌会の初めに読まれる句)をお願いします、

と言うと、早くも連歌の会に参加する者に連絡した、といいます。

このテキパキぶり、織田信長を見るようです(;^_^A

血は争えない…。

そこで、呼ばれた織田丹後守(不詳)・喜多野右京亮(不詳)がやってきて、

今回は九死に一生を得た、と話したといいます。

やはりよほどの大敗北だったのでしょう。

そして連歌会が始まり、

宗牧は次の発句を詠みます。

『色かへぬ 世や雪の竹 霜の松』

この歌は中国の王安石北宋の政治家。新法と呼ばれる政治改革を行った。1021~1086年のエピソードに着想を得ていたようです。

「王荊公かむかしを思ひよせたり」

そのエピソードとは、

王安石が宰相となった際、多くの客が祝賀に訪れたが、

王安石は黙って座っているままで、しばらくすると壁に次の詩句を書いた、

『霜箔雪竹鍾山寺、投老歸歎寄此生』

(年老いたらば霜や雪に覆われた竹のある鍾山の寺で生活したい)

…というもので、王安石の清廉さ、無欲さを表したものになっています。

宗牧の、色を変えない竹と松…というのは、王安石より前の、934年に詠まれた歌、 

『いろかへぬ 松とたけとの すゑのよを  いづれひさしと 君のみぞ見む』『拾遺和歌集』

があるように、よく用いられてきたものであったようです。

松も竹も葉は紅葉せずに緑でありつづけます(常緑樹といいます)。

その松や竹のように、王安石も宰相となったからと言って変わらないけれど、

周りの人は王安石が宰相になったということで態度を変えていますね(;^_^A

また、宗牧が歌で用いた「霜」はダブルミーニングになっていて、

実は織田信秀のことも表しています。

織田信秀は弾正忠家ですが、弾正忠というのは、

都の治安維持を担当する弾正台の、上から3番目にあたる役職(上から弾正尹・弾正弼・弾正忠・弾正疏です。

(弾正忠家は自称しているだけなので、実際に都で治安維持はしていません💦)

この弾正台のもとになったのが、中国の御史台です。

この御史台は、朝廷の風紀の乱れを厳しく取り締まったため、

中国では寒さの厳しいときにできる霜に例えて、「霜台(そうたい)」と呼んだそうです。

…ということで、織田信秀は「霜台」とも呼ばれていたので、この歌は織田信秀にひっかけてあるのだな、というのは、参加者はみんな分かったと思います。

また、宗牧が王安石の歌を用いたのは、

戦いに負けて状況が悪くなっても、尊王(天皇を尊ぶ)の気持が変わらない織田信秀に感銘を受けたからだと考えられます💦

結局、その後の織田信秀は美濃で成功できなかったため、

内裏の修理に関わることなく亡くなってしまうのですが、

その尊王の気持ちは子の織田信長に受け継がれて、

上洛した信長は10年以上もかけて内裏の大規模な修理を行うことになります。

なんという親子の絆…!!( ;∀;)

2023年4月18日火曜日

織田信秀の快進撃止まる~みのゝ国へ乱入し五千討死の事

織田信秀尾張・三河に勢力を拡大させていく中で、続いて美濃(岐阜県南部)にも手を出していくのですが、その頃の美濃はどのような状態だったのか?

 『信長公記』には当時、美濃を治めていた斎藤道三について書いている箇所があります。

現在の研究とは大きく異なるところもありますが、

ほぼ同時代人であった太田牛一にはそのように伝わっていたようです。

では、今回は、織田信秀の北のライバルとなった斎藤道三との戦いを見ていこうと思います!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇真実の斎藤道三は??

『信長公記』には斎藤道三のことについて次のように書かれています。

曰く、斎藤道三は山城国西岡に住んでいた松波という者であった、

ある時長井長弘を頼って美濃に行き、使えるようになったのだが、

主人を殺し、長井新九郎と名乗るようになった、

その後長井の一族たちと戦いあうようになった、

その途中、大桑城にいた土岐頼芸に頼って力を借りて長井氏に勝利することができた、…と。

『信長公記』には、斎藤道三が1人ですべてをやってのけたように書いてありますが、

昭和40年代に発見された、1560年に六角義賢(1521~1598年)によって書かれた書状には、

一、彼斉治身上之儀 祖父新左衛門尉者、京都妙覚寺法花坊主落にて、西村与申、長井弥二郎所へ罷出、濃州錯乱之砌、心はしをも仕候て、次第ニひいて候て、長井同名ニなり、又父左近太夫 代々成惣領を討殺、諸職を奪取、彼者斉藤同名ニ成あかり、…

(斎藤義龍の祖父は京都の妙覚寺の僧で西村という者であったが、美濃に出て長井長弘に仕え、美濃の内乱の中で才覚を発揮して長井氏を名乗れるまでになった。斎藤義龍の父の斎藤道三は長井長弘の子の景弘を殺害して長井氏を乗っ取り、その後は斎藤氏を名乗るようになった、…)

…と書かれており、親子2代で出世していったことが明らかになっています。

斎藤道三父子が出世できたのは、当時の美濃が争乱状態にあったことが大きいでしょう。

当時の美濃の状態を簡単に記すと、

美濃守護・土岐政房(1467~1519年)が長男の頼武ではなく、次男の頼芸に家督を継がせようとしたのをきっかけに、

1517年、頼武・頼芸の間で抗争が起き、1525年になって頼武は敗れて頼芸が守護となった、

1535年、頼武の子の次郎(土岐頼充)は近江の六角氏・母の実家である越前朝倉氏の支援を得て美濃に復帰を図ったため頼芸と戦争になった、

(斎藤道三[この頃は長井矩秀と名乗る]は、この時頼芸方の中心人物として戦っている)

1538年、両者は和睦して、土岐頼充は美濃の大桑城に住むことを許されることになった、

(斎藤道三はこの年に斎藤を名乗るようになり、名前も利政と改めた)

1543年に斎藤道三は大桑城の土岐頼充を攻め、敗れた土岐頼充は尾張に逃走した(『別本仁岫録」に天文12年[1543年]に「大桑乱」と記されている)

…ということになります。

土岐氏の内輪もめの中で、斎藤道三は勢力を強めていったのですが、

一方で、道三に敗れて尾張に逃げこんだ土岐頼充が織田信秀に助けを求めた結果、

翌年、美濃進攻が起きることになります。

〇織田信秀の美濃進攻

「或時、九月三日、尾張国中の人数を御憑なされ、美濃国へ御乱入」

(ある年の9月3日、尾張国中に軍勢を出すことを頼み、その軍勢をもって美濃[岐阜県南部]に進攻した)

…『信長公記』には、このように織田信秀が美濃に攻めこんだ、ということが書かれているのですが、

「或時」としか書かれておらず、何年か判然としていませんでした。

これまでは天文16年(1547年)説が主流だったようですが、

最近では天文13年(1544年)とするのがほぼ定説となってきているようです。

なぜかというと、

①天文13年9月付で、稲葉山城下の立政寺に織田寛近が禁制(攻撃しないという保証書)を出している。

②『定光寺年代記』に天文13年の「九月廿二日未刻、濃州井之口に於て、尾州衆二千人打死す」とある。

③次回のマンガでも紹介するが、内裏修理のお礼の死者として朝廷から尾張に派遣された連歌師・宗牧が天文13年11月6日に織田信秀と会った際に、「今度濃州において不慮の合戦、勝利を失いて弾正忠一人ようよう無事に帰宅」と記録している。

…以上のことから、信長公記に書かれている美濃進攻は、天文13年(1544年)のことと考えて差し支えないでしょう。

しかし、織田信秀はこれ以前にも美濃に進攻していたようで、

『信長公記』には、

「先年尾張国より濃州大柿の城へ織田播磨守入置かれ候キ」

…と書かれています。

「先年」というのは何年か前の年、ということなので、

天文13年(1544年)より2~3年ほど前に大垣城を攻め取っていたのでしょう。

(しかし「先年」の対象が「或時」でアバウトなので、前の年だった可能性もある)

とあり、この戦いの前に美濃の大垣城を攻略していたことがわかります。

織田信秀は三河だけでなく、美濃にも勢力を伸ばしていたことがわかりますが、

天文13年(1544年)の美濃進攻は先に述べたように、例のない尾張を挙げた大規模な出兵でした。

しかも、昔から尾張斯波氏と犬猿の仲であった越前(福井県北部)の朝倉氏もこの戦いに参加しています。

仲の悪かった朝倉氏が参加したのには、

土岐頼充の母が朝倉貞景の娘であった、ということが関係しているでしょう。

土岐頼充が美濃守護に復帰できれば、朝倉氏は美濃に勢力を及ぼすことができます。

一方の斎藤道三も、8月に尾張との国境に城を築いたり、

土岐頼芸の妹を南近江(滋賀県)の大名六角定頼に嫁がせ、

道三の息子の斎藤利尚(のちの義龍)と北近江の大名・浅井亮政の娘を結婚させるなどして、

近江の大名と緊密な仲になったりすることで、織田・朝倉に対抗しようとしていました。

さて、1544年9月、織田氏と朝倉氏は共に1544年、斎藤利政を攻撃、

朝倉勢(大将は朝倉宗滴)は9月19日、赤坂で斎藤勢を破りました。

織田信秀も負けじと稲葉山城に籠もる斎藤利政を攻撃します。

この戦いについて、『信長公記』は次のように記しています。

「九月廿二日、斎藤山城道三が居城・稲葉山の山下村々に推し詰め、焼き払ひ、町口まで取り寄せ、既に晩日申刻に及び、御人数引き退かれ、諸手半分ばかり引取り候所へ、山城道三、瞳と南へ向かつて切りかゝり、相支へ候と雖も、多人数くづれ立の間、守備の事叶はず、備後殿御舎弟織田与次郎・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟毛利藤九郎・岩越喜三郎を初めとして、歴々五千ばかり討死なり。」

(9月22日、織田信秀は稲葉山城付近の村々を焼き払い、城下町の入り口に迫ったが、すでに午後四時頃になっていて、日暮れが近づいていたため、一度城から下がらせることにしたが、半分ほどが引き上げたところで、斎藤勢がどっと攻めかかってきたのを支えきれず尾張勢は崩れ去って、織田信康・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・毛利藤九郎・岩越喜三郎をはじめとして5千人ほどが戦死した)

織田信秀の大敗北でした。

この戦いの模様については、

斎藤道三が緒川城の水野信元にあてて書いた書状からもうかがい知ることができます。

「一昨日辰刻、次郎・朝倉大郎左衛・尾州織田衆、上下具足数二万五六千、惣手一同城下に至り、手遣し仕り候、此の方人無く候といえども、罷り出で一戦に及び、織田弾正忠手へ切り懸け数刻相戦い、数百人討ち捕り候、頸注文これを進らせ候、此の外敗北の軍兵、木曽川へ二三千溺れ候、織弾六七人召し具し退かれ候、近年の体、御国に又人もなき様に相働き候条、勝負を決し候、年来の懐此の節候、随って此の砌松三へ仰せ談じられ、御国相固められるは尤に存じ候、…」

(おとといの午前9時頃、土岐頼充・朝倉教景・尾張織田勢、合わせて2万5千~6千の兵が稲葉山城に攻め入り、こちらは人数が少なかったが、城を出て戦い、織田信秀の軍と数時間戦い、数百人討ち取った、討ち取った武将の名前を記した紙はそちらに送ります、また、逃げ去った敵兵は木曽川で2・3千人が溺れ死んだ、織田信秀は6・7人だけで尾張へ退却していった、尾張に人がいなくなるほどの大戦果であり、こちらが優勢となったのがはっきりした、ですから、織田を見限ってこちらにつき、松平広忠とともに城を固めて織田に抵抗するのが当然と言えましょう…)

〇戦死した人々

織田軍は大勢の武将が戦死しました。

1.織田信康

織田信秀の優秀な弟で、美濃に近い犬山城の城主を務めていたといいます(異説もあり)。

以前のマンガで紹介したように、小豆坂の戦いでも活躍しています(異説もあり)。

2.織田因幡守(いなばのかみ)

この人はよく分かりません(;^_^A

大垣城主であったようです?

尾張南部を支配する清洲織田家の三奉行(残りの2人は織田信秀、織田寛故)の一人。織田信友の父でしょうか??

3.織田主水正(もんどのかみ)

この人はさらによくわかりません💦

4.青山与三右衛門(よそうえもん)

織田信長の補佐につけられていた三番家老です。

1564年に稲葉山場の戦いで戦死した青山与三右衛門信昌は弟。

5.千秋紀伊守(季光)

熱田神宮の大宮司です。宮司が戦いに参加していたんですね💦

そういえば「麒麟が来る」でもそういう描写がありましたね😕

次回のマンガでも登場します(;^_^A

6.毛利十郎

この人もよく分かりません💦

桶狭間で死亡した毛利十郎敦元とは別人。

7.毛利藤九郎

家老・寺沢又八の弟です。毛利十郎と関係ありそうですね。

8.岩越喜三郎

この人もよく分かりません😓


[原文]

さて、備後殿は国中を憑み勢をなされ、一ヶ月は美濃国へ御働き、又翌月は三川の国へ御出勢。或る時、九月三日、尾張国中の人数を御憑みなされ、美濃国へ御乱入、在々所々放火候て、九月廿二日、斎藤山城道三が居城・稲葉山の山下村々に推し詰め、焼き払ひ、町口まで取り寄せ、既に晩日申刻に及び、御人数引き退かれ、諸手半分ばかり引取り候所へ、山城道三、瞳と南へ向かつて切りかゝり、相支へ候と雖も、多人数くづれ立の間、守備の事叶はず、備後殿御舎弟織田与次郎・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟毛利藤九郎・岩越喜三郎を初めとして、歴々五千ばかり討死なり。


2023年4月15日土曜日

尾張・三河に勢力伸長~松平氏の伝統芸・内輪もめ

 第一次安城合戦後、織田信秀三河(愛知県東部)進攻は停滞します。

なぜかというと、松平氏側に有能な人物が登場したために、手を出しづらくなってしまったからです。

これで松平氏は小康を得るのですが、

松平氏は伝統芸の内輪もめを起こしてしまうのでした…(-_-;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇内輪もめばかりの松平家

松平広忠岡崎城に復帰した後、松平家の中心人物となったのが松平信孝(?~1548年)です。

信孝は松平清康のすぐ下の弟であったようですから、広忠の叔父にあたります。

『松平記』では広忠が伊勢(三重県北部)に追い出されている間に岡崎城城主となり、

湯治に行っている間に広忠に城を乗っ取られてしまった…みたいに書かれていますが、

そうなるとその後松平家の中心人物になっている説明がつきません(;^_^A

『三河物語』を見ると、その部分の詳しい経緯が載っていて、

松平信孝は広忠を岡崎城に呼び戻したいと思っていたが、松平信定が注意を怠らず難しい、

そこで大久保新八(忠俊。1499~1581年)に、

「私は有馬温泉に出かける。城の者には、鍵を渡しておく。大久保新八が来たら鍵を開けるように言っておく」と伝えた。

大久保新八からそれを聞いた松平広忠は「大久保新八が来た」と偽って入城し、

岡崎城を取り戻したのだという。

つまり松平信孝は広忠の岡崎城復帰に貢献した人物であったので、

その功績によってその後の松平家の中心人物になったわけです。

信孝は外交によって松平家の危機を切り抜けようとし、

まず尾張(愛知県西部)知多郡の独立勢力、水野氏と同盟を図り、

天文10年(1541年)、水野忠政(1493~1543年)の娘、於大(1528~1602年)が松平広忠に嫁ぐことになりました。

翌年にはのちの徳川家康が生まれています。

(旧暦では天文11年12月26日、現在使われているグレゴリオ暦では1543年2月10日)

信孝は他にも駿河(静岡県東部)の今川氏にも接近を図っており、

水野・今川と手を組むことによって織田氏に対抗しようとしていたようです。

しかし、その中で事件が起こります。

『松平記』によると、

天文12年(1543年)1月、病気の広忠に代わり、松平信孝が今川氏のもとに使者として向かっていたが、その間に屋敷を乗っ取られ、岡崎城から追放される形となってしまった…というのです。

なぜこうなったのかというと、どうやら信孝は阿部定吉(清康を殺害した正豊の父。伊勢に追放された広忠につきそい復帰に貢献した。1505~?)ら松平家の家老たちに相談せずに話を決めてしまうことが多く、

それに不満を持った家老たちによって城を追い出されることになったようです。

家老たちは「信孝は岩津松平家の当主が亡くなった後にその土地を手に入れ、今また亡くなった康孝(清康の弟)の土地まで手に入れた。信孝は今は忠節を尽くしているが、今に松平信定のように主家に反抗するようになる」とその理由を説明していますが、

松平信孝は「これはなんということだ。私は忠節を尽くしているのに。これは阿部定吉の讒言によるものに違いない」と訴えましたがかなわず、

『三河物語』によれば、

「広忠殿には恨みはないが、家来の者たちは恨みに思う」と言い、

居城の三木城に籠もり織田信秀に寝返ったといいます。

これを見ると松平家の主導権争い、単なる内輪もめですね(;^_^A

しかし、松平家はこんなことをしている場合ではないと思うんですが…。

今川氏・水野氏と外交関係を結んでいた松平信孝を失っては、

松平家は織田家に加えて今川・水野も敵に回すことになります。

いったい何がしたかったんでしょう…(◎_◎;)

『松平記』にも、

上和田城松平忠倫岡城・三木城松平信孝上野城酒井忠尚が広忠に敵対することになったので、三河国中が広忠の敵になり、広忠は岡崎一城になってしまった…と書いてあります💦

しかし実際は田原城戸田氏と同盟を結んでおり、

天文14年(1545年)には戸田氏の娘と広忠は結婚しています。

戸田氏の娘と結婚?於大は?というと、

信孝追放後の7月に於大の父、水野忠政が亡くなると、

跡を継いだ水野信元(?~1576年)は松平信定の娘を妻としていることもあり、

親織田派でしたが、

水野信元は織田氏に接近し、その結果、天文13年(1544年)に於大は松平家から離縁されます。

水野氏は力関係からどうやら織田氏の従属下に入ったようで、

当時の熱田神宮の史料には「当殿様(織田信秀)愛知・知多悉く以て御手に入り候」(織田信秀は愛知郡・知多郡を手に入れなさった)と書かれています。

順調に尾張に勢力を拡大し、さらに三河の状況も有利なものになってきた織田信秀ですが、

ここで三河を攻めるのではなく、次に手を出したのは東ではなく北の美濃(岐阜県南部)でした(◎_◎;)

(『三河物語』には、信孝の寝返りを知った織田信秀が三河に兵を進め、上和田に砦を築いて松平忠倫を置いて帰った、その際に集まった三河の反松平広忠の武将たちが、岡崎は長くもたないでしょう、近いうちに攻め落として見せます、と言ってきたのに対し、主君の先が無いとみて見捨てたお前たちは人の数にも入らぬ、主君を助け岡崎に残った馬鹿者たちの方が見事だ、と言ったといいますが、これはありえないでしょう(;^_^A)

しかしこれが、順風満帆であった織田信秀のつまずきの第一歩となってしまうのです…。。

2023年4月13日木曜日

織田信秀の財力、世間を驚かす~伊勢神宮外宮仮殿建設費と内裏修理費の寄進

 愛知郡だけでなく、隣国の三河にも勢力を広げた織田信秀

その分収入も増えたわけですが、愛知郡には一大商業地である熱田があり、

これで信秀は津島だけでなく熱田も治めるようになり、

その財力は相当なものになりました。

そして、信秀はこの潤沢な財力をもって、世の中の人を驚かすことを行っていくことになるのです…!(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇伊勢神宮外宮仮殿建設費と内裏修理費の寄進

三重県にある伊勢神宮は、20年に一度、神社の本殿を新しく作り直す(遷宮)ことになっているのですが、これは飛鳥時代の690年から1300年にわたって続けられてきたことだといいます。

しかし、途中戦乱があったときには、この伝統を守ることはできませんでした。

例えば、南北朝の争乱の際には、外宮は1345年に作り直された後、1380年まで建て直されませんでしたし、内宮も1364年の次は1391年と、遷宮は延長されています。

そしてそれが極まったのが戦国時代で、

外宮は1434年、内宮は1462年に作り直された後、

外宮は1563年まで、内宮は1585年まで建て直されることはありませんでした(-_-;)

しかも外宮は1486年、戦乱に巻き込まれて炎上してしまっています💦

長い間建て直されなくなった伊勢神宮は荒廃の一途をたどり、

倒壊の恐れもあり、神職が本殿に入ることもためらわれるほどになったといいます(◎_◎;)

そのため、急場しのぎで本殿ではなく、スケールを小さくした仮殿が作られるようになったのですが、これすらもお金が集まらずに難儀する状態でした。

内宮の方は六角定頼(1495~1552年)の援助で仮殿を作ることに成功したのですが、

遷宮の順番は内宮→外宮→内宮→外宮であるのに、

内宮を先に建て直したのは良くない、と幕府・朝廷から注意が入り、

伊勢神宮は困り果ててしまいます。

その中で、援助を受け入れたのが織田信秀でした。

第一次安城合戦中の天文9年(1540年)6月6日に外宮の仮殿建立の援助を約束した織田信秀は、

黄金18枚、銭700貫文を提供したのです。

黄金18枚の価値はわからないのですが、

銭700貫文のほうはわかります。

1貫というのは、銭1000枚のことです。

銭1枚は、だいたい現在でいうと12円分の価値があったそうなので、

1貫というのは約12000円のことです。

これが700貫ですから、840万円分を提供したことになります。

この援助で外宮の仮殿は完成し、朝廷はその感謝の意味を込めて、

天文10年9月、織田信秀を三河守に任じました(しかし織田信秀は三河守を名乗らなかった)。

織田信秀は伊勢神宮の援助だけにとどまらず、さらに朝廷の内裏の再建もかって出るのです。

戦国期の朝廷は慢性的な金欠状態にありました。本来なら全国各地にある土地(御料所)から得られる税でなんとかなるはずなのですが、戦乱のため、納入が滞りがちになっていたのです。

そのため、1500年に亡くなった後土御門天皇の葬儀を43日間の間も実施することができず、次の後柏原天皇は21年間も即位式を行なえませんでした。

この2つの場合は、幕府の援助により何とかなったのですが、さらに時代が下ると、幕府の力も大きく衰え、幕府の援助も期待できなくなってしまいました。

天文9年(1540年)に後奈良天皇(1497~1557年)は内裏の修理を幕府に申し入れ、それを受けた幕府は大名たちに援助(国ごとに100貫)を要請しました。

これに対し、越前の朝倉氏は100貫、筑前(福岡県北西部)の麻生氏は300貫を出すなどしましたが、一方で、能登(石川県北部)の畠山氏・伊勢(三重県北部)の北畠氏がこれを断るなど、なかなか支援は集まりませんでした。

そんな中で起きたことを、興福寺の僧、多聞院英俊(1518~1596年)は天文12年(1543年)2月14日に次のように記録しています。

「或人びと、内裏の四面の築地の蓋を、尾張のをたの弾正と云う物、修理して進上申すべくの由申し、はや料足四千ばかり上り了る云々、事実においては不思議の大営か」

…内裏の修理を、尾張の織田弾正という者が買って出て、4000貫を提供したとのことだが、事実だとすると全く想像できないほどの大業である…

4000貫というと、現在でいうと4800万円もの大金です(◎_◎;)

英俊の記録を見ると、織田信秀の知名度は畿内においてかんばしいものではなかったことがうかがえますが、

そのような者が、4000貫もの大金をポンと出したので、よりいっそう驚きは強くなったのでしょう。

その後に駿河の今川氏もお金を提供していますが、今川氏は500貫文だったことを考えると、織田信秀の財力のすさまじさがわかります(;^_^A

『御湯殿上日記』では「10万疋進上申す由」とあり、こちらでは10万疋=1000貫、になっている。1000貫としても今川の2倍である)

内裏の修理費を渡すために上洛したのは家老の平手政秀でした。

上洛した平手には天盃と太刀が与えられたそうです。

5月17日には大坂の本願寺も訪問しているのですが、

その時の様子は『天文日記』に次のように書かれています。

「一、尾州平手中務丞織田弾正被官為礼来就禁裏御修理為名代上洛之次ニ来。仍音信也。

一、以肴一献与湯漬令対面也。如此相伴之儀、雖不可有之事候、悪党と云、於尾張走廻対門徒一段悪勢者之間、此分調請候也。一段大酒云々。

一、盃次第、初献愚盃取上テ、令会尺、平手雖不可呑之事候、祝着ニ為可令存如此、経厚、兼澄、頼尭納之。湯漬、盃者愚鳥法(鳥居小路法院カ)ヘ一礼也、経厚、兼澄、平手、又経厚、頼尭、又平手、又愚、此節太刀出之。又兼澄、又々経厚、又々愚、又々平手、此時返之太刀遣之。又頼尭納之也。」

(織田信秀の家来、平手政秀は内裏修理の件で、織田信秀の代わりに上洛し、その次に大坂の本願寺に出向いた。

その平手政秀を酒と湯漬けでもてなしたが、主人の代わりで来た者をふつうはもてなさないのだが、尾張の各所で一向宗の門徒から財産を奪っている悪党であると聞いているので、一向宗に対しての態度をやわらげさせるためにもてなすことにしたのである。また、大酒飲みであるとも聞いていたからである。

酒宴は、まず私[証如]が盃を持ち上げて会釈をしてから飲んだ。次に平手[本当は飲む立場にないのだが、関係を円満にするために飲ませることにした]、鳥居小路経厚[京都青蓮院の坊官。1479~1544年]、兼澄[不詳]、頼尭[不詳]の順で飲んだ。次に湯漬けを食べた。そして再び酒。まず私が経厚殿に一礼してから飲み、経厚、兼澄、平手、再び経厚、頼尭、再び平手、再び私の順で飲んだ。この時太刀が用意された。酒は再び兼澄、そして経厚・私・平手が3度目を飲んだ。この時平手に太刀を渡した。最後に頼尭がもう一度飲んだ。)

この内容を見ると、

「門徒に対して一段と悪勢の者」

と書かれており、

本願寺からはヤマトタケルノミコトに退治された盗賊である「悪勢(おぜ)」に

例えられているほど、

織田信秀は一向宗(浄土真宗)に対して厳しい態度を持って臨んでいたことがわかります。

前回のマンガの解説部分で紹介したように、

織田信秀は長島の興善寺と敵対関係にあったようです。

(その後、織田信長にも敵対していくことになります)

どうやらこの頃の本願寺はまだ穏健というか、

先の加賀一向一揆、後の三河一向一揆石山合戦のように一国以上の単位で織田信秀に立ち向かったわけではなかったようです。

悪党・悪勢と呼びながらも関係が悪化しないように酒でもてなしてますしね(;^_^A

本願寺も遠慮するほど、当時の織田信秀の威勢は強まっていたのでしょう。

その織田信秀に、さらに三河方面でよい情報が伝えられることになるのですが、

それは次回でお伝えしようと思います(;^_^A

2023年4月11日火曜日

ドキュメント石油危機17 1973年10月27日~ガソリンの一滴は血の一滴!?

 第一次中東戦争の影響により、日本に入るガソリンは削減されることになり、

日本は次第に慌て始めます。

そのなかで、当時の様子がよくわかるコラムがありましたので、

それを今回は紹介しようと思います(;^_^A

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇車社会(モータリゼーション)の進展とガソリン

戦前の1940年、日本の自動車の保有台数は15万台にすぎませんでした。

(アメリカは3245万台💦)

それが高度経済成長を経て、1973年には保有台数は2450万台まで爆上がりします。

たったの33年で163倍までふくれあがったわけです。

それでも自家用車を持っている人はまだ少なく、

1969年までは乗用車よりもトラックの数の方が上回っていました。

(乗用車693万台・トラック773万台)

それが1970年代には逆転(乗用車878万台・トラック828万台)し、

1973年には乗用車はトラックの1.5倍までになりました。

(乗用車1447万台・トラック981万台)

当時の人口は1億910万人なので、7.5人に1人は自家用車を持っていたことになります。

1969年には14.8人に1人だったことを考えると、すさまじい伸びです。

急速な車社会の進展で、ガソリン消費量の伸びも著しいものがあり、

1957年には351万キロリットルだったのが、

1973年には2722万キロリットルまで激増しています。約8倍です。

ガソリン価格は1965~1972年の期間は1リットル50円台と安く、

それもあって省エネなんてなんのその、ガソリンを湯水のごとく使っていたわけです。

現在(2023年4月)は1リットル160円台ですからね(;^_^A

しかし、サラリーマンの平均年収は当時146万円であり、2019年の436万円と比べると3分の1なので、今とほぼ変わらないですね…。

(ということは今もガソリンは湯水状態なのか??)

しかし、石油危機を経て、ガソリン価格は1975年に1リットル112円まで暴騰した一方、

1975年の平均年収は203万円だったので、

今でいうと1リットル=241円というイメージになります(◎_◎;)

これはしんどい!💦

今は安いですねぇ…(;'∀')


<今回のマンガに関連する新聞記事>(『福井新聞縮刷版1973年10月下・10月27日夕刊より)

〇”ガソリン欠乏時代”の到来

”ガソリンの一滴は血の一滴”などという標語は、昭和1ケタ以前の人間にしか記憶されていまい。第二次大戦中、極端に不足したガソリンの貴重さを認識するために流行させられた標語である。そんな時代に自家用車を持ち、ガソリン不足が直接日々の生活に影響したわけではないが、妙に生々しく頭のどこかにこびりついている。

それが、戦後は一変した。町中に車がはん乱し、ガソリンスタンドが林立した。少しでも多量のガソリンを使わせるために、スタンドでは車の持ち主にいろんなサービスをする。盆、暮れの粗品から無料洗車まで、まさに至れり尽くせりのスペシャルサービスである。

ガソリンには高い税金がかかっている。1リットル60円前後という価格も、決して安くは無い。だが車の持ち主は、それこそ水をたれ流すような勢いで、ずいぶん思い切ってガソリンを使っている。新車を買う場合、いかにガソリン消費量が少ないかも1つの判断材料にはなるが、それはほとんど取るに足らない材料でしかない。その証拠には、車への要求は”より速く””より美しく””より大きく”などの要素が、常に上位を占めてきている。

石油不足、原油値上げが影響して、スタンドのガソリンも1リットル100円という時代になりそうだという。むだ遣いに慣れた若い人々にバチが当たるのだ…という年寄りもいる。バチかどうかはともかく、再び30年も前の”ガソリンの一滴は血の一滴”を思い返さねばならない時代が到来したようだ。

新着記事

「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事

  京都市は言わずと知れた日本有数の観光地ですが、その中でも特に観光客が多い観光地は、 京都府ホームページ によれば、2021年・2022年ともに、 ①清水寺、②嵐山、③金閣寺…となっています。 そしてそれに次ぐのが、今回扱う「二条城」なのですね(2021年6位、2022年4位)...

人気の記事