社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 尾張国外への勢力拡大~第一次安城合戦

2023年4月10日月曜日

尾張国外への勢力拡大~第一次安城合戦

 前回のマンガで述べたように、

織田信秀は謀略によって那古野城を奪取した、とされています。

森山崩れ(守山崩れ)により当面の強敵がいなくなっている状態の織田信秀は、

その後も次々と勢力を拡大していくことになります🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇愛知郡への進出

『天文日記』によれば、松平清康が死んだ1535年の森山崩れ以後、

尾張は織田信秀の弾正忠家と藤左衛門家が争う状態になったといいます。

おそらく、清康と藤左衛門家が手を組んで織田信秀を圧迫していたのに対し、

反撃に出たものでしょう。

1536年1月、守護代織田達勝は大坂本願寺証如(1516~1554年)に、藤左衛門が海東郡にある興善寺に力を貸しているのは「迷惑」だ、と述べており、3月には弾正忠家の平手政秀も書状を証如に送っています。

興善寺は蓮如の孫を迎え、70もの寺を管轄していたほどの大きな浄土真宗の寺でした。

守護代家ー弾正忠家と、興善寺ー藤左衛門家という対立関係があったのでしょうか。

2月には、美濃尾張の僧が国の混乱のために大坂に長く滞在することができない(「国乱劇之事候条、久敷者逗留いたし候ましく候」)、

5月には国の混乱のために大坂に行くことができない(「依国物忩難成候」、と証如に伝えているので、

1536年の途中頃から、弾正忠家と藤左衛門家は戦闘状態に入ったようです。

8月6日に藤左衛門派と見られる石橋忠義・藤左衛門の子の虎寿が証如に手紙を送る一方、

天文7年(1538年)3月6日には弾正忠家派の織田達順が、証如に対し、興善寺が弾正忠家に味方するよう命じてほしいと依頼するなど、

弾正忠家・藤左衛門家共に、浄土真宗(一向宗)の力を借りようと躍起になっていたようです。

7月9日には、守護代織田達勝が、証如に尾張国鹿野郷の年貢が入ってこないので何とかしてほしい、と依頼をし、証如はそれを受け入れているので、この頃には浄土真宗は守護代ー弾正忠家の味方をしたのかもしれません。

この頃には織田信秀は前回のマンガで述べたように、那古野城を謀略で攻略していますが、

落ち着いていないと連歌のやり取りなどとてもできないので、那古野城攻略前には藤左衛門家を屈服させていたと考えられます。

那古野城を手に入れた織田信秀は、

『信長公記』「或時、備後守、国中那古野へこさせられ、丈夫に御要害仰付けられ」…とあるように、那古野城の修築に入りました。

10月9日には、織田達勝が性海寺に那古野城の普請の手伝いを免除する文書を出しており、『信長公記』の記述を裏付けています。

また、『塩尻』には、那古野城攻略の際に火災で焼けたと考えられる天王坊が「天文7年再興」され、「8年8月21日入仏開眼供養」とあり、復活を遂げているのですが、

これについては織田信秀の天王坊に対する文書も残っており、

織田信秀の支援による復興であったようです。

織田信秀は天文8年(1539年)3月20日には熱田の加藤延隆に商売上の特権を認めていますが、ここからは藤左衛門家の勢力範囲であった愛知郡に進出し、勢力を拡大させていっていることがわかります。

〇織田信秀は安城城をいつ攻略したのか??

一方、三河(愛知県東部)でも変化が起こっていました。

森山崩れの後、岡崎城から追い出された松平広忠(徳川家康の父。1526~1549年)が三河に戻ってきたのです。

『松平記』によれば、

岡崎城を追い出された後の松平広忠の動向は次のようになります。

13歳の時に伊勢(三重県北部)に逃れ、そこで年を越し、(伊勢神戸にも所領を持っていた)吉良(東条家)持広が烏帽子親となって元服して「広忠」を名乗った(持「広」から一字をもらった)、

持広は駿河(静岡県東部)の今川義元に何度も松平広忠への援助を訴えたが、亡くなってしまった、

吉良の西条家は織田氏の味方であった、

広忠は15歳の時に駿河に行って今川義元に助けを求めた、

義元は兵を出して西条家の吉良義郷を討ち取った、ここで吉良は東西とも今川に従属した、

広忠は秋に三河の室城に進出していたが、

大久保新八という者が岡崎城主の松平信孝を温泉に行ってはと勧め、

不在の所に広忠を引き入れたので、

17歳となった天文6年(1537年)6月に岡崎城に帰還することができた、

松平信定は6月8日に広忠と和睦して岡崎城に出仕するようになり、

松平信定に従っていたものたちは岡崎城では末席に座るようになった…。

以上が岡崎城復帰までの経緯ですが、実際と異なるところもあるようです。

・天文6年(1537年)10月23日の書状に、「松平千松丸」とあり、まだ元服していない。また、この書状は三河入国に際し活躍した者に恩賞を与える内容で、三河に入るまで元服はしていなかったことがわかる。

『参州本間氏覚書』によれば、元服したのはこの年の12月9日である。

・吉良持広は1539年まで生きており、広忠が三河入国の際拠点とした室城は持広の家臣の持っていた城であった。

・吉良義郷は天文9年(1540年)4月23日に、織田信秀と戦って戦死している。吉良義郷の妻は今川義元の姉とされるため、今川義元の攻撃を受ける理由が見つからない。その上に、今川氏は天文6年~8年(1537年~1539年)にかけて北条と争っており(第一次河東一乱)、天文10年(1541年)頃までは遠江(静岡県西部)も落ち着かない状況にあったので、三河に兵を出す余裕はなかったと思われる。

・柴裕之氏の『青年家康』によれば、伊勢に逃れたのは天文4年(1535年)で9歳(数え年10歳)の時、三河に入ったのが天文6年(1537年)で11歳の時、岡崎復帰を果たしたのが天文8年(1539年)で13歳の時である。

・松平信定は復帰した松平広忠に出仕するようになった、とあるが、信定は天文7年(1538年)11月27日にはすでに死亡している(1539年とする史料もある)。広忠が岡崎城に入れたのは、信定が死亡したために信定派の勢力が弱まったから、と考えるのが自然ではないだろうか。

さて、岡崎城に4年ぶりに復帰できた松平広忠ですが、また苦難に遭うことになります。

親信秀派の信定が死に、反信秀派の松平広忠が岡崎城主となったことを重く見た織田信秀が天文9年(1540年)に三河の安城城に進攻してきたのです。

6月6日に行われた戦いでは安城城城主(「城」ばっかりだ(;^_^A)の松平長家・広忠の兄の信康など大勢の武将が戦死するという、松平勢の大敗となりました。

しかしこれで安城城が陥落したわけではなく、

この年の12月28日付の文書には、「安城乱中に就き…」と書かれており、その半年後に至ってもまだ戦いが続いていたことがわかります。

天文9年に織田信秀が安城城を攻略した、というのが通説となっていますが、12月28日になっても落とせていないので、天文9年に攻略、というのは正しいとは言えないのではないでしょうか💦

安城城陥落のタイミングとしては、他にも1544年説、1547年説があるそうなのですが、

1544年説だと1542年の小豆坂の戦いと整合性が取れず、

1547年説だと1545年に松平広忠が安城城奪還のために起こした清田畷の戦いとの整合性が取れないようです。

自分としては、タイミングとして1547年説は遅すぎるのではないかな、と思っています。

『松平記』は松平広忠が岡崎に復帰したときにはすでに安城城は織田信秀の手に落ちていた、とありますが、1540年に安城城城主の松平長家らが戦死する戦いが起きているので、おそらく誤りといえます(この話の周辺も誤りが多々見られますし)。

『三河物語』は正確性に欠けますが、

安城城を織田信秀が攻め取った→松平信孝と松平広忠の抗争(後のマンガで触れます)が起こる…という流れになっており、

松平信孝と広忠の抗争が起こったのは1543年とされているので、

『三河物語』の内容を真実とするならば、

1543年よりも前…1540年より後…小豆坂の戦い(第一次)も実際にあった戦いとするならば、1541年に安城城は織田信秀の物となった、と考えるのが一番自然なのではないでしょうか。

『天文日記』の天文10年(1541年)7月27日の記事には、

「尾張斯波より、書状を以て、越前入国の事、相催すべきの間、加州門徒相働き候様に申し付くべきの由に候」

(尾張国の斯波[義統]から、[過去に朝倉氏に奪われた斯波氏の領国の]越前に攻め入ろうと思っているので、加賀国[石川県南部]の一向宗[浄土真宗]の者たちに協力を呼びかけてほしい、と要請する書状が届いた)

…とあり、半世紀以上前に失った越前を取り戻そうという、すさまじい計画を斯波義統が本願寺証如に提案していることに驚きますが、

(前年の天文9年[1540年]には朝倉孝景と弟の景高の間で対立が起き、景高が謀反を企てたが追放されるという事件が起きており、全く勝算の見込みがなかったわけではなかった)

このような計画をぶち上げたのには、織田信秀の作戦がうまくいき、尾張の力が高まっていたから、と考えるのが自然で、

そう考えると、この計画をぶち上げる前に、安城城を攻略し、三河国に尾張の勢力を伸ばすことができていた、…ということになります。

一方で、『徳川実紀』には、

松平信孝が織田信秀に内応してきたのに対し、織田信秀が「いまならば三河を容易に攻略できる」といって三河に攻めこんで安城城を攻略した…とあり、

これまた自然な流れではあります(;^_^A

ちなみに『徳川実紀』はこれを1547年としていますが、

天文12年(1543年)6月・8月に、松平広忠が松平信孝から寝返ったものに褒美を与えている文書があるので、明らかな誤りです。

しかし、天文17年(1548年)3月11日、北条氏康が織田信秀にあてた書状には、

「よって三州の儀、駿州へ相談なく、去年かの国へ向かい軍を起こされ、安城の要害則時に破らるの由に候。毎度御戦功、奇特に候。ことに岡崎の城、その国より相押さえ候につき、駿州にも今橋本意に致され候」

…とあり、天文16年(1547年)に織田信秀が安城城を攻略した、と書かれているので、わからなくなってきます(◎_◎;)

柴裕之氏は、『青年家康』で、

1540年ころの安城城の戦いは痛み分けに終わり、城を落とすことはできなかったが、その周辺は織田の勢力範囲となった、

1545年に安城城周辺地域の奪還を目指して織田と松平が争った、

1547年に3度目の対決でついに織田信秀は安城城を攻略した…という説を述べています。

たしかにこれだとうまく説明できます。

1つの問題は1542年に起きたとされる第一次小豆坂の戦いとの整合性が取れないということですが、

今川氏は1542年の頃は北条氏と対立関係にあり、遠江も収まっていないので、三河に目を向ける余裕はなく、『信長公記』にも「8月下旬」とあるだけで何年の記事かは書かれていないので、小豆坂の戦いは1548年の一度と見るのが正確なのでしょう(;^_^A

…ということで、今回のマンガは柴裕之氏の説に従って描き進めてみました。

このあたりはすごく複雑で錯綜しており何が正解かはよく分からないのですが、

少しでもより真実に近い内容になるように描いていこうと思います💦


0 件のコメント:

コメントを投稿

新着記事

フロイスの岐阜探訪~「信長の極楽」⁉[岐阜城編]

  ※マンガの後に補足・解説を載せています♪ ● フロイスは岐阜城訪問について、書簡に次のように書いています。 …翌朝、私たちの宿は遠かったので(エヴォラ版ではこれに加えて「雨がさかんに降っていたので」とある)、ナカガウア[通称]・ファチロザエモン[本名](中川八郎左衛門重政) ...

人気の記事