社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 12月 2023

2023年12月28日木曜日

大和平定戦~五畿内退治所々の合戦御仕置の事④

芥川城で松永久秀と対面し、九十九髪茄子を受け取った織田信長。

この会見では、大和国(奈良県)に関する重要な話し合いが行われていたようで…?

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇大和平定戦

松永久秀以外にも、多くの公家や有力武将が芥川城を訪れていました。

『細川両家記』には、…三好左京大夫殿(義継)・霜台(松永久秀)が御所様(足利義昭)・信長にあいさつをするために芥川城に赴いた、とあり、『足利季世記』にも同様の記述があるのですが、

より信ぴょう性の高い『言継卿記』10月4日条を見ると、竹内三位入道(季治)・両畠山(高政・秋高兄弟か)・松永弾正忠・池田筑後守(勝正)・高槻の入江氏などが芥川城を訪れた、とあります。

信長はこの際に今回の上洛戦で手に入れた国々の配分を伝えています。

『細川両家記』によれば、領地配分は次のようになっていました。

…左京大夫殿(三好義継)は河内国の半分を与えられ、残り半分は畠山殿(秋高)に与えられた。霜台には、大和国は切り取り次第(勝って手に入れた土地を自分の物にしてもよい)と伝えた。摂津国は和田(惟政)・伊丹(親興)・池田(勝正)に与えられたという噂である。

三好義継が河内国の半分を与えられたことについて、『総見記』はその理由を、…これは、義継が公方家(足利義昭)の妹婿であり、光源院殿(足利義輝)にも敵対することなく、上洛の際に味方になったからである。…と記していますが、この時点ではまだ義継は足利義昭の妹婿ではなく、また、足利義輝に敵対していないどころか足利義輝殺害の中心人物でしたから、『総見記』のこの記述は上洛の際に味方になった、という以外はすべて誤りです(;^_^A

三好義継・畠山秋高などと違い、松永久秀だけは切り取り次第…となっているのはなぜなのかというと、『総見記』に、…大和はまだ平定されていなかったので、…とあるように、まだ大和には筒井順慶などの敵対勢力が残っていたからです。

実は、この敵対勢力たちも同日に芥川城を訪れているのですが、

『多聞院日記』の10月5日条に、…(4日に)井戸・窪庄・豊田・筒井も挨拶に行ったが、尾州は快く思わず、彼らは空しく帰ったという。…とあるように、信長は筒井たちの降参を認めなかったのですね(◎_◎;)

上洛に味方するように呼びかけながら、これに応じず、畿内が平定されるまで敵対を続けた彼らを赦したくなかった気持ちもあったでしょうが、

これはおそらく松永久秀に対する配慮によるものでしょう。松永久秀としては、長く自分に敵対してきた筒井たちが領地を安堵される、というのは到底受け入れられないことでした。

松永久秀と筒井氏をはじめとする大和衆との抗争の始まりは、永禄2年(1559年)にまでさかのぼります。

永禄2年(1559年)8月6日に松永久秀は大和に進入、筒井城を攻め落とし、

翌永禄3年(1560年)8月28日には井戸城、11月13日に万歳(まんざい)城、24日に沢城・檜牧城を奪い、大和に地歩を固めることに成功しました。

永禄4年(1561年)には大和支配の拠点として多聞山城を築いています。

永禄6年(1563年)は1月27日に松永方が多武峰(とうのみね)で敗北するも、5月24日に奪われていた信貴山城を奪還、7月中旬に高取城を奪うなど、優勢ながらも一進一退の状態が続きます。

そして永禄8年(1565年)、松永久秀が三好三人衆と対立すると、大和衆は三好三人衆方につき、松永久秀は劣勢を強いられるようになっていった…というのは、以前に紹介しましたね。

このように長きにわたって抗争を続けていた手前、いまさら仲良くするということはできなかったのです(◎_◎;)

信長は松永久秀に援軍を送ることも約束、松永方はこれを受けて、早速筒井順慶方の攻撃に取りかかります。

『多聞院日記』10月6日条には「松永久通の兵が筒井に攻め寄せ、平城の近くまでを焼いた。郡山衆が裏切ったためである。…筒井順慶は固く城を守っているが、長くは持たないであろう」とあり、10月9日条には「昨日(8日)の夕方に筒井の平城が落城し、今朝松永久通が入城した」と書かれているように、松永久秀の子・久通は織田の援軍が来る前に筒井城を攻略することに成功します。

織田の援軍がやって来たのは10月10日の事で、『多聞院日記』には「京から細川兵部大輔・和田伊賀守[公方方の両大将]・佐久間[織田尾張守方大将]、2万ほどの軍勢を率いて(唐)招提寺まで攻め寄せた」とあります。

足利義昭も細川藤孝・和田惟政を送っていることがわかるのですが、主力はやはり、佐久間信盛率いる織田軍だったでしょう。

その後の様子を、『多聞院日記』に拠って見ていこうと思います。

10月10日 「援軍が到着したが、今日はどこも攻めなかった。窪城は降参したが、井戸・柳本・豊田・森屋・十市・布施・楢原・万歳の城は今のところ城を堅く守っている。…尾張衆が興福寺に参詣した。尾張の兵は厳しく命令されており、奈良は平穏無事である。珍重珍重

10月11日 「森屋・窪城に続き、軍勢は井戸に攻め寄せ、停戦したという」

10月12日 「柳本に先鋒が攻め寄せた。堅固に守っているという。」

10月14日 「柿森・結崎のあたりが焼かれたという。国中、敵味方関係なくだいたい焼かれたという。」

10月15日 「豊田城が落城した。各地で苅田(田の作物を勝手に刈り取る事)が行われている。やめてほしい、やめてほしい。」

10月19日 「軍勢は布施に向かったという。」

10月20日 「布施に攻め入り、ことごとくを焼いたという。」

以上のように、松永方は各地で攻勢に出ていましたが、10月21日になると、『多聞院日記』に、…軍勢は京に戻り、佐久間が残ったという、とあるように、援軍の織田軍のほとんどは早くも奈良から去ってしまいます(◎_◎;)

その理由を説明しているのが『細川両家記』で、

…松永久秀の援軍として、尾張衆約2万が大和に攻め入った。そこで筒井平城は城を明け渡して退散した。また、井出城(井戸城の誤り)を攻めたが、城内の兵は攻め手を近づけさせておいてから、城内から打って出て、多くを討ち取り、負傷させた人数は数が知れないという。そこで、年内はもう日がないと言い、大和から京都に引き上げ、尾張に戻ったという。

…と書かれています。

『足利季世記』には『細川両家記』を参考にしたと思われる次の文章が載っています。

…松永久秀は尾張衆の力添えを受けて、大和を平定するために出陣し、筒井の平ガ城を攻めた。城兵はしばらく抵抗したが、かなわないと思い城を明け渡した。続いて井土(戸)城を攻めた。井土(戸)若狭守は城の近くまで引き付けてから城内から打って出て、松永衆を散々に破り、多くを討ち取った。攻め手はかなわないと思ったのか、年内にもう日がない、京都に引いて年を越そう、と言って加勢の尾張衆は京都に引き上げてしまった。松永久秀はなおも多武峰を攻めるために大和にとどまった。

両書とも、井戸良弘の奮戦が、織田軍の退却につながった、と書いているのですが、この出来事は実際にはあったか疑問です💦

なぜなら、これだけの大事件があったならば、『多聞院日記』にその事実が記されているはずだからです。

しかし、実際には、井戸城での戦いについての記述は、停戦したという、としか書かれていません。

また、この後、永禄13年(1570年)2月20日に、井戸良弘が松永方の多聞山城を攻撃、これに対して久秀が井戸氏の娘を串刺しにする、と言う事件が起きているのですが、ここからは、永禄11年(1568年)の井戸城の戦いで和睦した際に、松永久秀に人質として娘を送っていた、ということが読み取れます。

『細川両家記』は、摂津・丹波以外の情報は概して信ぴょう性が落ちるそうなので、井戸良弘の奮戦のため退却したと言うのはおそらく誤りで、

織田信長は10月26日に京都から岐阜に帰っているので、これに合わせて兵を戻した、というのが実際の所であったと思われます(;^_^A

織田軍の援軍は去りましたが、この後も松永久秀は単独で大和衆と戦いを続けていきます。

永禄12年(1569年)4月16日に片岡城、11月には貝吹山城を、永禄13年(1570年)3月27日に井戸城を攻略するなど、松永久秀は優勢に戦いを進めていました。反対に、大和衆たちの命運は風前の灯火となっていたのですが、その後、両者の立ち位置は逆転していくことになるのです…(◎_◎;)


2023年12月27日水曜日

九十九髪茄子を得る~五畿内退治所々の合戦御仕置の事③

 またたくまに畿内を平定した織田信長。

勢いのある人・組織・国などには人・物が集まるもので…。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇「我朝無双のつくもかみ」

山城・摂津・河内などを平定した織田信長は10月2日に芥川城に入っていましたが、

『信長公記』に「異国本朝の珍物を捧げ、信長へ御礼申し上ぐべきと、芥川14日御逗留の間、門前に市をなす事なり」とあるように、

信長が芥川城に滞在していた14日の間に、各地から多くの者があいさつのために芥川城に殺到し、信長に気に入られるために、外国や日本の珍しいものを献上してくることになります。

堺の今井宗久(堺を治める会合衆の1人。千利休・津田宗久と並び、三代宗匠と呼ばれる。1520~1593年)は松島の葉茶壷と、紹鴎茄子を信長に献上しました(「今井宗久 是又隠れなき名物松島の壺、并に紹鴎茄子進献。」『信長公記』)。

松島の葉茶壷は、『茶人 織田信長]によれば、中国南部の広東省あたりで作られたのを輸入したもので、高さは40~50㎝程度で、葉茶が7斤(4.2㎏)ほど入るのだそうです。もともとは8代将軍・足利義政が所持していたこともある由緒正しい壺です。

紹鴎茄子は現存しており、湯木美術館に保管されています。その名は、茶人の武野紹鴎(1502~1555年)が所持していたことに由来します。

現在、紹鴎茄子は3つ残っており、区別するためにそれぞれ松本茄子・細口茄子・澪標茄子と呼ばれ、信長が受け取ったのはこの中の松本茄子にあたります。

今井宗久は武野紹鴎の弟子で、娘婿となり、紹鴎の死後はその財産を継承したといいますから、紹鴎茄子もその時に手に入れたものなのでしょう。

津田宗及は松本茄子を見て、肩の部分が撫で肩なのが好ましい所である、と感想を記しています。

信長は紹鴎茄子(松本茄子)を受け取りましたが、『宗二記』によれば、10年後に返還しています。

ちなみに、『信長記』では、献上したのは紹鴎茄子ではなく、紹鴎の菓子の絵、と記されています(;^_^A

今井宗久は機を見るに敏な人物で、1543年に伝来した鉄砲に目をつけ、火薬の原料である硝石を大量に買い集め、1552年には鉄砲の生産を開始しています。

先を見通す力がある宗久は、次は信長の時代だ、三好三人衆が勢力を取り戻すことは無い、と判断して堺の商人の中でいち早く信長に取り入るのですが、そのためにこの後さまざまな特権を認められていくことになります。

太田牛一は松島の壺・紹鴎茄子以外の珍品を持ってきた者について、次のように書き記しています。

「往昔、判官殿、一谷鉄皆が碊(がけ)めされし時の御鐙(あぶみ)進上申す者もこれあり。」

源平合戦の折、源義経が一ノ谷の鉄拐山の崖を下った時に使用されていた鐙(足を乗せる馬具)です、と言って持ってきた者がいた、というのですね(本当なんでしょうか…(;^_^A)

鉄拐山の崖を下った…というのは、「鵯越の逆落とし」として有名な逸話ですね。

一ノ谷に陣を構える平家を、鵯越と呼ばれる背後の急峻な崖から駆け下って撃破した…というものですが、実際は、鵯越と呼ばれる場所は一ノ谷から遠く離れており、一の谷の背後の山は鉄拐山なので、こちらが正しいと言われております(つまり『信長公記』が書かれた時にはすでに判明していた)。

(源義経が逆落としをした、と言うのも近年は怪しいと考えられているようで、信ぴょう性の高い史料『玉葉』には、「多田行綱 山方より寄せ、最前に山の手を落さると云々」とあり、どうやら逆落としを行なったのは多田行綱が正しいらしい)

以上のように、多くの人が珍品を持って信長のもとを訪れたのですが、特に優れた逸品を持ってきたのは、あの松永久秀でした(◎_◎;)

芥川城にやって来た松永久秀について、これは降参したのだ、とする説もありますが、

実際は、これまでにも述べてきたように、松永久秀は足利義昭方の武将として長く三好三人衆方と戦ってきたのであって、敵であったわけではありませんでしたから、降参する必要がないのですね(;^_^A

松永久秀は織田軍が上洛してくると、9月28日に娘を人質として京都に送っています(『多聞院日記』)。

そして松永久秀本人も、足利義昭や織田信長にあいさつするために、10月2日に出発、10月4日に松永久秀は芥川城に赴きます。

そこで松永久秀が信長におそらく上洛して窮地を救ってくれたお礼として贈った物…それは、「我朝無双のつくもかみ」(『信長公記』)…九十九髪茄子(付藻茄子)でした。

九十九髪茄子は、茄子型の茶入れで、松本茄子・富士茄子と共に「天下三茄子」と呼ばれた茶器の逸品でした。

もともとは室町幕府3代将軍・足利義満のもので、その後、足利義政や村田珠光(珠光が命名したと言われる)と伝わっていきました。

戦国朝倉氏の名将・朝倉宗滴は、500貫を出して九十九髪茄子を手に入れています。

1貫が現在の12万円くらいの価値なので、500貫は6000万円にもなりますね(◎_◎;)

フロイスは、日本では茶器が高い値で売買されていることを驚きをもって次のように記しています。

「4千~5千クルサードの道具で驚いてはいけない。都のソータイの持つククムガミの茶入は2万5千ないし3万クルサードの値打ちがあるといい、ソータイがその気になれば、いつでも10万クルサードで買い取る大名がいる」

クルサードは16~19世紀にポルトガルが使用していた貨幣の名前です。

1クルサードは300文(=0.3貫)ほどの価値があったそうです。

つまり4千~5千クルサードというのは1200貫~1500貫ということになります。

今で言うと1億4400万円~1億8千万円というスゴイ金額になります(◎_◎;)

そんな茶器の中ですさまじく価値が高かったのは、「ソータイ」の持つ「ククムガミ」です。

「ソータイ」というのは霜台、弾正忠であった松永久秀の事で、「ククムガミ」は九十九髪のことです。

こちらは2万5千~3万クルサードの価値があるというのですから。7500貫~9000貫、つまり現在で言うと9億円~10.8億円という超高額になり、

10万クルサードで買いたい大名がいた、というのは、3万貫、現在で言うと36億円にもなりますΣ( ̄□ ̄|||)

この超逸品の九十九髪茄子は、紆余曲折あって松永久秀の手に入れるところになっていたのですが、久秀はこれを信長に贈ったというわけなのですね。

実はこの九十九髪茄子は現存しており、静嘉堂文庫美術館に保管されているのですが、本能寺の変や大阪の陣で被災し、何度も修復が行われており、信長が所持していたころとは姿が異なるようなのですね(;'∀')

当時の姿について、津田宗及が貴重な記録を残してくれています。

津田宗及は永禄11年(1568年)12月10日の茶会で、信長が所持していた九十九髪茄子を初めて目にし、その姿かたちに着いて、次のように書き記しました。

「つくものかまなすび 始て拝見申候 此壺なり(形)ひらめニ見え申候 ころ(比)大がた也 土あまりこまやかにはなく候 藥色あかぐろく候 右此つぼおもひのほかにくすみたるつぼ也 おもてのなだれハ なだれなどのやうには見え申さず候 くすり(薬)にじみたるやうニ見え申候也 盆つきにて薬とまり候 なだれの左右ニくすりらん(乱)じたるところあり 石間ハ面のつぼの右方ニあり わきよりハすこしうしろのかたニあり 色くすりは少かす(少なからず?)はけたるやうニ見え申し候 くすりうすきやうなり 土しゅ(朱)したたかにいたしたる也 但なだれの右方ニあり…此石間はひま(火間)とも むかしより申伝候 又有説には山な殿 くそく(具足)のそて(袖)につけられて きず(傷)がつきたるなどとも申伝候 兎角 さようには見え申さず候 つぼの むまれつき(生まれつき)にて御座候」(『天王寺屋会記』)

壺の形は比較的平たい、大きさはひょうたん大だ。土の粒の大きさはあまり細かくはない。色は赤黒い。思ったよりも色が暗い。なだれ(釉薬が垂れ下がったもの)は、なだれのようには見えず、釉薬がにじんでいるように見える。茶入れの底でなだれは止まっている。なだれの左右に釉薬が乱れているところがある。釉薬がかかっていないところが表の右の方にある。側面より少し後ろの方にある。釉薬は少し剥げかかっているように見える。釉薬は薄いようである。土の朱色の具合は強い。釉薬がかかっていないところはなだれの右の方にある。…石間は火間とも言う。また、ある説には、山名殿の具足の袖が当たって色が剥げたのだと言うが、そのようには見えない。この壺の生まれつきであろう。

…このような訳となるでしょうか??(;^_^A 

また、宗及は九十九髪茄子の評価を次のように書いています。

「此御つぼの上にても土などはおもハしくもなく候歟 石間などもねがハくはよくもなし…惣別此つぼ すこしも いやしきやうにはなし あまりにあまりにくらいありすぎたるやうには見え不申候」

この壺の土は好ましくない。だから石間が良いとは思えない。この壺は下品とは思えないが、世の中で非常にありがたがられるようには見えない。

…と辛らつな評価を下しております(;'∀')

ちなみに、松永久秀が贈った物について、『足利季世記』『信長記』は、九十九髪茄子ではなく、「吉光の脇差」だと記すのですね(◎_◎;)

『足利季世記』…公方様(足利義昭)にお礼のあいさつをするために芥川城に赴いた。松永久秀は吉光1振を献上した。

『信長記』…松永久秀は天下に並ぶものがない吉光の脇差を献上した。

これはどういうことなんでしょうね…『足利季世記』は足利義昭との対面について書いていますから、足利義昭には吉光の脇差を贈り、信長には九十九髪茄子を贈った、ということなのでしょうか(゜-゜)


2023年12月24日日曜日

池田城の戦い~五畿内退治所々の合戦御仕置の事②

 山城国(京都府南部)を平定した織田信長は、休むことなく、続けざまに摂津国(大阪府北西部・兵庫県南東部)・河内国(大阪府東部)の攻撃に移ります🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇池田城の戦い

上洛戦の後半を今回は見ていこうと思いますが、

前半もそうでしたが、後半はもっとひどい!

何が、かというと、諸書によって出来事の日時がかなり異なっているのです(◎_◎;)

かなり難儀なのですが、『信長公記』の記述を基にして、おそらくこうだったのではないか、と上洛戦の日取りを再構成してみようと思います(;^_^A

9月27日

・浅井勢(「江州北郡衆・高島衆」)約8千、神楽岡(京都市左京区)に着き、その後、南方に移動(『言継卿記』)。

『東浅井郡志』には、「滋賀越」をして神楽岡に着いたと思われる、と書いてあります。「滋賀越」は「志賀越え(山中越え)」のことです。また、『東浅井郡志』には、勝竜寺城攻めには加わらず、直接、摂津に向かったのだろう、とも書かれています。

・織田軍の先陣、山崎に至る(『言継卿記』)。山崎の敵軍、退却(『足利義昭入洛記』)山崎で激しい略奪が行われる(『言継卿記』)。

『足利義昭入洛記』には、次のように書かれています。

27日に三人衆方の五畿内・淡路・阿波・讃岐の兵が山崎に控えているという噂を聞き、軍勢を差し向けたところ、山崎から退散した。

その後、山崎ではかなり激しい略奪が行われたらしいことが、『言継卿記』には記されています(◎_◎;)『細川両家記』にも、…織田軍が摂津に入る際、山崎で軍勢が家々に押し入り、乱妨(略奪行為)を行なった…とあります。見せしめ的な行為なのか、京都でできなかった分のうっ憤をここで晴らさせたのかはわかりません💦

9月28日

・信長、山崎着陣。(「晦日、山崎御着陣」『信長公記』)。

先陣は摂津国の天神の馬場(大阪府高槻市上宮天満宮の参道と西国街道が交わる辺り)に至り(「先陣は天神の馬場陣取」『信長公記』)、芥川の市場を放火する(『言継卿記』)。

9月29日

・足利義昭、天神の馬場まで出陣(『言継卿記』)。

『足利季世記』には、…新公方様(足利義昭)は南方の敵を討つために出陣し、藤の森の堤にしばらく陣を構えた。そこで八幡宮(藤森神社)に参拝したところ、男山の方から山鳩が多く飛んできて、陣の上を飛び回った。これは神の啓示である、と心に深く刻み込むばかりであった…という話が載っています(『総見記』では、…新公方は出陣して藤の森にしばらく陣を構え、八幡宮に参拝した。その際、男山から山鳩が多く飛んできて、旗の上を飛びまわった。これはめでたいことが起きる前触れだと、人々は感じた…とあり、微妙に表現が異なる)。天神の馬場は上宮天満宮前あたりですが、ここから藤森神社は約10㎞ほど南西にあります。

・伊丹親興、足利義昭に味方して摂津国武庫郡・川辺郡に放火する(『細川両家記』)。

『細川両家記』には次のように書かれています。

摂津国の伊丹親興は、一乗院殿(足利義昭)が越前国にいる時から、(義昭のために)あれこれと働いていた。…この時は阿波公方方に味方していたが、阿波公方方に敵対の意思を示し、9月29日、摂津の川辺・武庫両郡を放火した。

摂津伊丹(有岡)城主の伊丹親興は実際に、三好三人衆方と松永方が対立して争った際に、足利義昭方でもあった松永方についています。しかし、篠原長房が四国から大軍を率いてやってくると、永禄9年(1566年)9月に(やむを得ず?)三人衆方に降伏していました。

そして今回、上洛軍がやってくると、これに呼応して川辺・武庫郡に火を放ち、三人衆方に敵対の姿勢を見せたわけです。

ちなみに伊丹城は川辺郡にあり、篠原長房の拠点・越水城は武庫郡にあります。伊丹親興の裏切りに篠原長房は動揺したことでしょう。

・河内国の飯盛城・高屋城、退散(『足利義昭入洛記』『細川両家記』)。

『足利季世記』や『総見記』には伊丹親興が寝返ったのを聞いて退散した、というように書かれていますが、伊丹城と河内国は離れているため、因果関係はあまりなかったと思います(;^_^A

それよりも、『言継卿記』に、河内の各地にも火を放った、とありますが、こちらの方が影響は大きかったと思います(゜-゜)

『足利義昭入洛記』には、次のように書かれています。

…河内国の飯盛城・高屋城はしばらく抵抗したが、これも夜に入って淡路へ落ち延びていったという。

『総見記』には、次の記述があります。

…親興の行動に動揺した河内国の高屋城・飯盛城は城を明け渡して去っていった。飯盛城は三好長慶・義継と二代にわたって受け継がれてきていたが、先年に義継が城を出て以降は三人衆の三好宗渭の居城となっていた。高屋城は畠山高政の居城であったが、三人衆方に敗れて城を明け渡して流浪の身になり、その後は三好笑岩(康長。永禄10年[1567年]頃出家)が城主となっていた。三好宗渭も三好笑岩もかなわないと思い、四国へ落ち延びていった。

・芥川城の細川六郎(のちに昭元。管領・細川晴元の子)・三好長逸、夜のうちに芥川城から退散(「芥川に細川六郎殿・三好日向守楯籠もり、夜に入り退散」『信長公記』)。

『言継卿記』には、芥川城の城下を放火した、とあります。三好三人衆の1人・三好長逸はかなわぬと見て、夜の明けぬうちに芥川城から落ち延びていきました(『言継卿記』は退散したのを夕方、『信長記』は三好長逸が退散した時間を「亥の刻(午後10時頃)」としています)。

『信長記』は、芥川陥落の際のエピソードを次のように記しています。

…細川六郎が退散したのを、人々は次の狂歌を書いて笑った。「落ち去りて いずくに塵を芥川 さらに浮名を 流すほそかわ」。

9月30日

・織田信長・足利義昭、芥川城に移る(「芥川の城、信長供奉なされ、公方様御座移さる」『信長公記』)。

郡山道場・富田寺外を破壊(『言継卿記』)。

郡山道場は浄土真宗の寺です。富田寺は阿波御所・足利義栄がいた寺ですね。どちらも摂津にあります。

富田寺については足利義栄を目標とした攻撃であったと思われますね(゜-゜)

『細川両家記』には、郡山はあちらこちらで破壊が行われた、と書かれ、『多聞院日記』には、摂津はことごとく焼かれた、とあります。

・池田城を攻める(『言継卿記』)。

池田城の戦いの日にちについては、『足利義昭入洛記』は29日に攻撃→その日に降参、『言継卿記』は30日に攻撃→10月2日に降参、『細川両家記』『足利季世記』『総見記』は30日に攻撃→その日に降参、『信長公記』『信長記』は10月2日に攻撃→その日に降参、とバラバラです(◎_◎;)

今回は『言継卿記』の9月30日~10月2日の3日間にわたって戦った、というのを採用したいと思います。やはりもっとも信ぴょう性が高いので…(;^_^A

『越州軍記』には、…4・5日間、兵を入れ替え入れ替え攻め続けた、という記述もありますね(゜-゜)

・高槻(入江)城・茨木城、降参。

どちらも摂津にある城です。『細川両家記』『足利季世記』『総見記』はどれも、池田城陥落と共に降参、と書いているのですが、『足利義昭入洛記』には、摂津では池田城だけがまだ抵抗していた、という記述があるので、池田城が降参する前に9月30日か、もしくは10月1日にすでに降参していたと考えられます。

10月1日

越水・瀧山城、退散(「篠原右京亮居城越水・滝山、是又退城。」『信長公記』)。

どちらも篠原長房の勢力下にある城で、篠原長房自体は越水城にいたようです。

篠原長房の退散については、諸書によって記述が異なります。

『細川両家記』…10月1日、阿波公方(足利義栄)様、讃岐の細川掃部様、三好彦十郎(長治)殿は篠原長房と共に阿波に逃れた。

『足利季世記』…越水城の篠原長房もこの月(9月)、足利義栄が腫物を患って死んだこともあり、越水城・布引瀧山城を明け渡し、10月1日、富田普門寺にいた三好彦二郎と共に阿波国に落ち延びていった。

『信長記』…篠原長房が立て籠もっていた小清水(越水)・瀧山城も、2日に城を明け渡した。

『総見記』…三好方は防ぎきれないと思い、ここは落ち延びて、本領四国の兵を引き連れて、巻き返しを図りましょう、と篠原長房が申し上げて、10月1日、阿波の御所足利義栄は富田の普門寺から四国へ落ち延びていった。細川掃部助・三好彦二郎もこれに御供して阿波へ下って行った。しかし、程なくして義栄は腫物を患い、回復することなく、10月末に阿波国で亡くなった。

篠原長房が、足利義栄と共に四国に去ったかどうか、というのが大きな違いとなります。

『細川両家記』や『総見記』は、足利義栄と共に四国に去った、とあるのですが、『足利季世記』は9月にすでに死んでいた、と記しています。

1868年までの公卿(太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議)のメンバーを毎年書き継いでいった『公卿補任』には、「9月 日征夷大将軍薨給。(腫物)。」と書かれているので、どうやら9月中に足利義栄は死去していたようです(◎_◎;)

そのため、『足利季世記』の記述が正確と言えるでしょう。

10月2日

・池田城、降参。摂津を平定する(『信長公記』)。

池田城主・池田勝正はなぜ単独で抵抗を続けたのでしょうか?(゜-゜)

池田勝正はもともと三好長慶に仕え、長慶の死後は、三人衆に味方していましたが、『多聞院日記』5月2日条に、石成友通と共に大和の東大寺に兵を進めた、と書かれているなど、三人衆方の主力の1つとなって活動していたようです。

三好三人衆や篠原長房などは、四国という逃げる場所がありました。

しかし、池田は摂津が本領なので、逃げることもできないし、降参しようにも認められないだろうと思って抵抗を続けていたのではないでしょうか(゜-゜)

池田城の戦いは、後がない池田勢が必死に抵抗したため、かなり激しい戦いとなったようで、その模様は『信長公記』にかなり詳しく記述されています。

10月2日に池田の城、筑後居城へ御取りかけ、信長は北の山に御人数備えられ、御覧侯。水野金吾内に、隠れなき勇士 (つわもの)梶川平左衛門とてこれあり。并に御馬廻の内、魚住隼人・山田半兵衛、是も隠れなき武篇者なり。両人先を争い、外構え乗り込み、爰にて、押しつ押されつ暫くの闘いに、梶川平左衛門、骼(こしぼね)を突かれて罷り退き討ち死なり。魚住隼人も爰にて手を負い、罷り退かる。かようにきびしく侯の間、互いに討ち死数多これあり。終に火をかけ町を放火侯なり。今度、御動座の御伴衆末代の高名と、諸家これを存じ、「士力日々にあらたにして、戦うこと風の発するが如く、攻むること河の決(さく)るが如し」とは、夫れ是を言うか池田筑後守降参致し、人質進上の間、御本陣芥川の城へ御人数打ち納れられ、五畿内隣国皆以て御下知に任せらる

10月2日、池田勝正の籠もる池田城を攻め、信長は北の山から戦いの様子を見た。水野忠分の配下に、世に知られた勇士の梶川高秀がいて、馬廻の中には、魚住隼人・山田半兵衛という、これまた名の知られた勇敢な武士がいた。この者たちは先を争って城を攻撃したが、梶川高秀は腰骨を槍で突かれて退いた後に死亡し、魚住隼人も負傷して退いた。このように厳しい戦いの中、双方に多数の死者が出た。最後には城に火をかけ、町に火を放った。上洛軍は後世に残る手柄をたてようと戦った。『三略』にいうところの、「士気は日に日に高まり、戦えば風が吹き出すように、攻めれば河の堰を切ったようであった」とはこのことである。池田勝正はついに降参し、人質を差し出したので、信長・義昭は芥川城に兵を返した。こうして、五畿内と隣国は足利義昭の命令に従うようになった

抵抗を続ける池田城に対し、信長は自ら池田城の北の山(五月山)に進み、池田城の総攻撃を命じます。池田城は標高50mの丘に作られているのに対し、五月山は200m以上あり、城の内部の様子は手に取るようにわかったでしょう。五月山に城を築くべきだったのではないか?と素朴に思うのですが、どうやら、五月山には城の跡は認められていないそうなので、どうもわざわざこちらを選んで築城したようです(◎_◎;)

池田城は西側が崖、北側は川に守られ、東・南方向には大規模な堀が作られ、堅固なつくりになっていたようで、このため織田軍も苦戦を強いられることになります。

また、ルイス・フロイスが「池田家は天下に高名であり、…五畿内においてもっとも卓越し、もっとも装備が整った1万の軍兵をいつでも戦場に送り出す事ができた」と書いているように、軍備が充実していたことも、織田軍が苦戦する要因の1つとなりました。

織田軍は池田城に猛烈な攻撃を仕掛けますが、梶川高秀が戦死・魚住隼人が負傷するなど、大勢の死傷者を出しました。

梶川高秀も魚住隼人も、桶狭間の戦いの際に登場したことのある人物です。

梶川高秀は、中島砦の守将であり、魚住隼人は、前田利家と共に織田信長に首を見せに来ています

織田軍の被害について、諸書は次のように記しています。

『細川両家記』…織田信長は5万ほどの兵で池田城を取り囲み、厳しく攻め立てたところ、城兵は城を出て突撃し、14人を討ち取り、数百人を負傷させた。

『越州軍記』…池田城兵は100人ほど討ち死にし、攻め手側も3・400人が討ち死にし、負傷した者は数え切れないほどであった。

『信長記』…先鋒の軍勢が池田城に押し寄せたところ、城内から兵が出てきて、ここが死に場所と必死に防戦した。敵味方入り乱れる激しい戦いとなった。

『総見記』…信長は5万余騎で池田城を攻撃した。まず城外に火を放ったところ、城主の池田勝正は城外に打って出てきたので、数時間にわたって戦いとなった。攻め手側は梶川高秀をはじめ14人が戦死し、100人余りが負傷した。しかし池田は小勢であったので、城内に戻った。

こうして見ると、『信長公記』と違い、城内から兵が出てきた、と書いてある史料が多いことがわかりますね(゜-゜)

思わぬ反撃にあって多くの負傷者を出した、と書くのは不名誉だったからでしょうか?💦

また、『信長公記』『信長記』は、多くの死傷者を出しながらもそれでも攻め続けたので、池田勝正が降参した、というように書いていますが、

『細川両家記』…2万石を与えるという条件で和睦

『足利季世記』…2千貫(4千石)を与える代わりに人質を差し出すという条件で和睦

『越州軍記』…降伏したら恩賞を与えるという条件で和睦

…と諸書には書かれているのですね💦

池田勝正は戦後、和田惟政・伊丹親興と共に摂津国の支配を任されたり、足利義昭が将軍に就任する際、道中の警固役を任されたりするなど(『足利季世記』)、破格の待遇を受けていますから(他の2人は上洛戦で信長に味方して功績のあった人物なのでなおさら)、恩賞を与えるという条件で和睦した…というのが正しいのではないでしょうか。

信長としては、大軍を率いていて戦いを長引かせたくなかったでしょうし、実際に戦ってその力を認め、三好三人衆方に対する押さえとして利用したいと考えたのでしょう。

こうして信長は摂津を平定することに成功したのですが、河内国は先に飯盛・高屋城の退散で攻略しており、和泉国は松浦光(孫八郎)が足利義昭に味方していたため、畿内で平定されていないのは、筒井順慶が抵抗を続ける大和国だけとなっていました。

信長は、畿内平定のため、続いて大和国に兵を向けることになります🔥

2023年12月20日水曜日

「勝竜寺城の戦い~五畿内退治所々の合戦御仕置の事①」の2ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

「勝竜寺城の戦い~五畿内退治所々の合戦御仕置の事①」の2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年12月18日月曜日

勝竜寺城の戦い~五畿内退治所々の合戦御仕置の事①

 あっという間に近江(滋賀県)を(ほぼ)平定し、観音寺城に入城した織田信長は、いよいよ京都に向けて進むことになります…!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

(※マンガの3ページ目は都合により公開いたしません<(_ _)>)

〇勝竜寺城の戦い~山城平定戦

今回は、信長が上洛を果たし、山城を平定するまでを見ていこうと思うのですが、その様子を、日ごとに追ってみたいと思います。

しかし問題があり、何が問題なのかというと、諸書によって、進軍の日取りが異なっているのですね(;'∀')

例えば信長が琵琶湖を渡ったのは、『足利義昭入洛記』では24日なのに、『信長公記』は2日遅れの26日、勝竜寺城で戦ったのは『言継卿記』『足利義昭入洛記』『細川両家記』では26日なのに、『信長公記』では2日遅れの28日になっています。

一番信ぴょう性が高いのは京都にいた山科言継が書いていた日記、『言継卿記』で、それに次ぐのは上洛直後に書かれた『足利義昭入洛記』でしょう。

この2つを正しいと考えると、『信長公記』の日程は凄まじいまでに間違っていることがわかります(◎_◎;)心配になるレベルですね…(;'∀')

以前にも書きましたが、金子拓氏によれば、『信長公記』は「巻八(1575年)以後はきわめて正確」であるそうなので、言い換えるとそれ以前は信ぴょう性に乏しいということになります(-_-;)

しかし、先に述べたように、『信長公記』の記述は常に「2日遅れ」になっている、というのがポイントですね(◎_◎;)

つまり、『信長公記』の日にちを、2日前にずらせば、ほぼ正確になるのではないでしょうか(;'∀')

そこでこれから記す『信長公記』の日にちは、2日前にずらしていこうと思います💦

9月12日

・箕作城の戦い。

・六角父子、観音寺城から退去。

9月13日

・織田信長、観音寺城に入る。

9月14日

・織田信長は、以前約束した通りに足利義昭のもとに迎えの使者を派遣。

これについて、『信長公記』は、「公方様へ御堅約の御迎えとして、不破河内、14日に濃州西庄立正寺へ差し遣わされ」(足利義昭に堅く約束していた通りに、迎えとして不破光治を9月14日に美濃の立政寺に派遣した)…と記します。

『足利季世記』『信長記』『総見記』は、不破光治が立政寺に着いた日を「15日」と記しているので、派遣したのは14日で、着いたのは15日だった、という事なのでしょうね(゜-゜)

・正親町天皇、信長に宛てて、次の内容の綸旨を出す。

…上洛するという話は、私の耳にも届いている。それについて、京都で軍勢が乱妨(略奪行為)をすることが無いように命令をすべきである。また、御所を警固するための武士を送るように。

近江が瞬く間に平定されて、信長の上洛が一気に現実味を帯びると、京都は大騒動になったようで、『言継卿記』9月14日条には、

…京中は大騒動である、私は内侍所に物を避難させた。暮れに参内すると、報告が入り、尾張衆は明日の明け方には京に入ることが確実であるという。夜中の間もずっと京中は騒動になっている。なんとひどい有様であろうか。

…と、その模様が記されています(◎_◎;)

なぜ京の人々はパニックを起こしたのでしょうか。

それには2つの理由が考えられると思います。

『信長記』には、

…京の人々は、信長がこれまで多くの強敵を倒し、国を手に入れてきたことを伝え聞いていたので、鬼神よりも恐ろしく思っていた。その信長が京都に入ると聞いて、これはどんなつらい目に逢うのだろう、と恐れおののくこと限りがなかった。子どもたちが、外国から鬼が来て、人を小石のように軽々と投げ、人を餌として食べるという、などと言って鬼を恐れるよりも、京の人々は信長の事を恐れていた。ある者は丹波・若狭などの隣国に逃れ、ある者は淀川の舟に乗って遠くに向かい、ある者は、妻子・家財を遠くに遣り、自身は信長の上洛を祝うために京に残る、と言ったが、どうなるのだろうと、自分の身を案じていたという。

…という記述があり、また、京の人々は昔の源平合戦の頃、木曽義仲が上洛してきて京でかなり暴れたことを思い出してそれを心配した、とも書かれているのですが、

ここからは、京の人々が織田信長は野蛮な人物なのではないか、と考えていたことがわかります。

なぜ信長は野蛮な人物だと思われていたのでしょうか。

1つは、織田が急成長した新興の勢力であり、京都の人々にとって聞きなじみがなかった、ということが挙げられます。人は知らない、よくわからないと不安になります。

もう1つは、信長の戦術です。

『勢州軍記』には、信長は攻めると必ず放火した、これは敵を混乱させるためである、…という記述があります。

たしかに、これまでの信長の動きを見ていてもかなり頻繁に火を放っています(◎_◎;)

(例えば、六角氏と戦った際も、愛知川近辺に火を放っているし、一色[斎藤]氏の稲葉山城を攻撃する際も、城下町に火を放っています🔥)

『言継卿記』9月14日条には、近江はことごとく燃やされたという。…と(噂ですが)書かれており、やはりこの信長の戦術が京都の人々の不安感をあおったのだと考えられます。

そのため、天皇も心配になって、信長に京都の治安維持と、御所の警護を命じたのだと思います(-_-;)(のちに信長は返書を送っていますが、そこには、天皇から台と唐墨[中国で作られた墨]が贈られていたことが記されています)

同じ日に、大納言の万里小路惟房も、

…上洛するとのこと、めでたく思う。綸旨で、御所の警護を配下の者に堅く命令せよ。と書いてあったと思うが、それを実行すれば、喜ばしく思う、と御上(天皇)は仰せである。

…という書状を信長に送っています。念には念を入れて…だいぶ心配していたようですね…(-_-;)

9月15日

・不破光治、足利義昭と対面。

『足利季世記』は、不破光治と足利義昭の対面の様子を次のように記しています。

公方様の御迎えのために派遣された不破光治は、15日に美濃の立政寺に着いてこのことを報告した。公方様はこれを聞いて、「信長が時間をかけずに近江一国を平定したことは、古今稀に見る武勇である」と言い、喜びの余り使者の光治に対して太刀(『信長記』は「国久の太刀」と詳しく記す)を与えた。

よほどうれしかったのでしょうね(;^_^A

9月19日

義昭は立政寺を出発し、この日は近江・美濃国境の近江柏原成菩提院に泊まる(「21日、既に御馬を進められ、柏原上菩提院御着座」『信長公記』)。

9月20日

・義昭、桑実寺に入る(「22日、桑実寺へ御成。『信長公記』)。

桑実寺は、観音寺山にある天台宗の寺で、観音寺城から目と鼻の先にある寺です(たったの400m)。

1532年には、12代将軍足利義晴が京都から逃れた際、桑実寺に仮幕府を置いたことがあります。

『足利季世記』『信長記』『総見記』は、この先に行った守山で23日に信長と義昭が対面した、と記していますが、おそらく対面したのはここでしょう(;^_^A

対面の様子を、『足利季世記』は次のように記します。

23日に守山に着いた。信長はここで公方様と会い、公方様は「信長の武勇智略はまことに無双である」と親しく言葉をかけた。

(かけた言葉について、『信長記』は「信長が時間をかけずに大国を平定したことは前代未聞のことである。これを為すことができたのは、ただただ信長の武勇智略が傑出していたからである」、『総見記』は「信長の忠勤は古今未曾有のことである。信長は武勇智謀天下無双の良将である」と記し、少しずつ表現が異なる)

・『言継卿記』9月20日条。

…織田の上洛について、毎日京の中も外も騒いでいる。一両日中には京に入るらしいと聞いて、今朝も騒いでいた。織田が明日の朝には京に入るのは確実であると聞いて、明け方まで騒動が続いた。

9月21日

・『言継卿記』9月21日条。

…入京は延期になったという。24日には必ず来るという。

9月22日

・信長、守山に着く(「24日、信長守山まで御働き」『信長公記』)。

・織田軍の先陣が勢田を越える(『足利義昭入洛記』)。

・朝廷、山科郷・上賀茂郷・下賀茂郷の民に御所警固を命令(『御湯殿上日記』)。

自衛に余念がありません(;^_^A

9月23日

・信長、志那の渡しから琵琶湖を渡ろうとするが、舟の都合がつかず、停滞を余儀なくされる(「翌日、志那・勢田の舟差し合い、御逗留」『信長公記』)。

織田軍の先鋒、山科に布陣。

『言継卿記』には、

…織田弾正忠は三井寺に入ったという。先鋒は山科に布陣したという。

…とあり、『多聞院日記』には、「今日 京辺土へ、細川兵部大輔・甲賀和多伊賀守大将にて、江州裏帰衆召具、1万余にて上洛了」(細川藤孝・和田惟政が大将となって、近江で信長に味方となった者たちを中心に、1万余りの兵を引き連れて上洛した)とあります。

おそらく、『言継卿記』に信長が三井寺に入ったというのは誤り、『多聞院日記』に先鋒が上洛した、とあるのは誤りでしょう。

・中山孝親(前大納言)・山科言継・勧修寺晴右(中納言)・源中納言・五辻為仲、加茂衆とともに御所警備の担当を命じられる(『言継卿記』)。

・足利義昭の側近である飯尾貞遙・諏訪晴長、加茂郡の地侍に対し、上洛の際に忠節を尽くすことを求める書状を送る。

9月24日

・信長、琵琶湖を渡り、三井寺極楽院に入る。織田の軍勢は大津・馬場・松本に展開する(「26日、御渡海なされ、三井寺極楽院に御陣懸けられ、諸勢、大津・馬場・松本陣取り。」『信長公記』)。

『足利義昭入洛記』には、24日に信長が勢田を越えた、とあります(琵琶湖を綿っとは書いていない)。

そして、上洛軍の兵士は大津・松本・馬場・粟津・志賀・坂本に充満していた、と記しています。こちらの方がより詳細ですね(;^_^A

織田軍が志賀・坂本にも展開しているのを見ると、織田軍は琵琶湖を渡った部隊と、瀬田を渡る部隊に分かれて進軍していたことがわかりますね(゜-゜)

9月25日

・義昭、琵琶湖を渡り、三井寺光浄院に着く(「27日、公方様御渡海候て、同三井寺光浄院御陣宿」『信長公記』)。

『足利義昭入洛記』にも、公方様(足利義昭)は25日に三井寺光浄院に移った、とあります。

『多聞院日記』には、上意(足利義昭)は大津に着き、上総(織田信長)は清水寺に着いた。京都の辺りは騒然としている…とあります。

三井寺は大津にありますから、これは正しいのですが、京都に入る前なので、織田信長が清水寺に入った、というのは誤りでしょう(;^_^A

・『言継卿記』9月25日条。

…尾張の足軽2・3人が近くまで来て、禁裏御所周辺は厳しく取り締まるように命令されたと話したという。

織田軍は京都に入る前に、足軽数人を御所に派遣して、御所の警備にあたらせていたようですね(゜-゜)

9月26日

・織田信長・足利義昭、京に接近する(「28日、信長、東福寺へ御陣移され…公方様同日に清水御動座。」『信長公記』)。

『言継卿記』には、次のように書かれています。

北白川から兵が入京し、細川兵部大輔(藤孝)と明院(良政。信長の右筆[書記官])などが御所の北門(朔平門のこと)まで来た。武家(足利義昭)は清水寺に入り、織田弾正忠信長は東寺まで進んだという。

入京したのは一部の兵だけで、義昭と信長は京都に入ってはいません。清水寺も東福寺・東寺も、今は京都内ですが、当時の京都である上京・下京には含まれていませんでした。上京・下京は、だいたい今の上京区・中京区・下京区の、さらに一部で、北は相国寺、南は平等寺(因幡堂)までの、3.5㎞ほどの範囲の事を指していました。

入京した細川藤孝と明印良政について、『御湯殿上日記』には「三淵兵部大輔(細川藤孝。藤孝は三淵晴員の次男で細川家の養子に入っていた)・明院参られて、織田上総仰せつけられ、御警固かたく申しつけられそうろう」とあり、内裏の警固のためにやって来ていたことがわかります(゜-゜)

・織田軍、勝竜寺城を攻撃する。

『越州軍記』に、三好三人衆は、川際で合戦すると言っていたのに、どうしたことか、戦うことなく、摂津・和泉国へと退いた。このため、信長は障害なく京都に入ることができた。…と書かれていますが、

実際、石成友通は六角支援のために9月10日、近江の坂本に進んでいましたが、翌日には京都へ引き返していますし(『言継卿記』)、松永久秀に備えるために9月13日に三好宗渭・香西元成が木津平城に入っていましたが、3日後の16日の晩には西京へ引き返しています(『多聞院日記』)。

『総見記』には、三好三人衆方が後退した理由について、次のように書いています。

三好三人衆は、阿波の御所(足利義栄)に、「信長は琵琶湖を渡ってくるので、上陸地点でこれを襲いましょう」と言い、合戦の準備をしていたが、近江の18城が1・2日の内に陥落したことで、信長の威勢には天魔鬼神であってもかなわないであろう、という噂がしきりであったことと、阿波の御所も腫物を患っていて苦しそうにしていたこともあり、三好三人衆・三好康長・篠原長房たちは湖の際で防ぎ戦おうとしなかった。三人衆たちは、はやばやと京都にある屋敷から立ち去って、摂津のあたりに退いた。

やはり近江が驚くほど短期間で平定されたのが効いていたのでしょうか(◎_◎;)

三好三人衆方が戦うことなく後退していったために、信長は支障なく京都に入ることができました。

その中で、山城国(京都府南部)において唯一の戦いが起こります。

三好三人衆方の有力武将の1人、石成友通が勝竜寺城に籠もっていたので、これと戦うことになったわけです。

なぜ他の者たちと同じように摂津方面に逃げなかったのかというと、勝竜寺城が石成友通の居城であり、勝竜寺城周辺が石成友通の領地であったからですね。

『信長公記』には、戦いの様子が次のように書かれています。

柴田日向守・蜂屋兵庫頭・森三左衛門・坂井右近、この4人に先陣を仰せ付けられ、則、桂川打ち越し、御敵城岩成主税頭楯籠もる正立寺表手遣。御敵も足軽を出し侯。右4人の衆見合せ、馬を乗り込み、頸50余討ち捕り、東福寺にて信長へ御目に懸けらる。…29日、青竜寺表へ御馬を寄せられ、寺戸舜照御陣取。これに依って岩成主税頭降参仕る

柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚に先陣を命じた。この4人はすぐに桂川を渡り、石成友通が籠もる勝竜寺城に攻め寄せた。勝竜寺方は足軽を出してきたが、織田の四将は馬を駆け入れ、50余りを討ち取り、首を東福寺にいる信長にいる信長のもとに送った。…29日、勝竜寺付近に進み、寂照院に陣を構えた。これを知って、石成友通も降参した

諸書にはどう書いてあるかも見てみましょう。

『足利義昭入洛記』…先陣は淀・鳥羽・竹田・伏見・塔森に至った。敵方の勝竜寺の城には、細川玄蕃頭と石成友通が籠もっていたが、先鋒が桂川を渡った際に、勝竜寺から5・600の足軽を出してきた。味方は1000ほどであったが、縦横無尽に敵陣を馬で駆け入り、名有の武士を50人ほど討ち取った。勝鬨を挙げて、勝竜寺城に攻め寄せたところ、降参すると言ってきたので、このことを信長に布告すると、それでよい、と返答があった。こうして山城国は平定された。

『細川両家記』…三好三人衆方の石成友通は山城国西岡の勝竜寺城に籠もっていたが、26日、織田軍の猛攻を受けて降参し、石成友通は城から落ち延びていった。

『足利季世記』…28日、信長は東福寺に着いて、石成友通が立て籠もる西岡の勝竜寺城の攻撃を命じた。柴田勝家と石成友通は晩まで合戦し、石成友通は敗北して50余人を討ち取られ、勝つ望みがないと思ったのか、降参を申し出て来た。石成友通は命は助けられ、城は明け渡された。石成友通は信長の配下に加わった。

『信長記』…28日、柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚の軍勢1万が、石成友通の籠もる勝竜寺城の近くに攻め寄せ、城下のものをことごとく焼き払ったところ、城内から足軽が出て来たので、織田軍の血気に逸る者たちは大声で叫びながら馬を駆け入れ、四方八方に追い散らし、すぐに53の首を取り、東福寺にいる信長に送った。29日、信長は勝竜寺城を攻撃するために寺戸寂照院に本陣を置いた。雲霞のような大軍を前にして、さすがの剛の者である石成友通も観念して、謝罪して降参し、信長軍の先鋒となる事を申し出た。

『総見記』…28日、信長は東福寺にいながら、柴田勝家・森可成・坂井政尚・蜂屋頼隆たちに1万の兵を与えて石成友通が籠もる西岡勝竜寺の城を攻めさせた。柴田たちは日が暮れるまで戦い、遂に敵の首を50余り取って、東福寺に戻って信長に見せた。翌日、信長は自ら出陣し、5万余りの兵を率いて勝竜寺城を包囲した。停戦を呼び掛けたところ、石成友通は昨日の戦いに負け、そして今、大軍を見て恐れをなし、開城して降参した。

違いを確認すると、

①戦いは1日間か2日間か。

『足利義昭入洛記』『細川両家記』『足利季世記』…1日間。『足利季世記』は晩まで戦った、とする。

『信長公記』『信長記』『総見記』…2日間。2日目に信長が大軍を率いて来たところ降参した、とする。

②勝竜寺城に籠もっていたのは誰か

『足利義昭入洛記』のみ、石成友通に加えて、細川玄蕃頭という人物についても記している。

③勝竜寺城に攻めこんだのは誰か

『足利季世記』は柴田勝家のみを記すが、『信長公記』『信長記』『総見記』は、柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚の4名とする。

④降参後の石成友通

『細川両家記』のみ城から落ち延びたと記し、『足利季世記』『信長記』は織田軍の配下に加わったと記す。

…ということになります。

『言継卿記』『多聞院日記』にはどのように書かれているのか、見てみましょう。

『言継卿記』…(26日)早朝から尾張衆は行動を始め、山科から南方に向かった。…久我において合戦があったという。双方に多くの死者が出ているという。石成友通は勝竜寺の城に籠もって合戦をしているという。(27日)勝竜寺城は固く守っているが、和睦したという噂もある。

『多聞院日記』…(27日)京都西岡勝竜寺に石成友通を大将として500人余りが立てこもっていたが、ことごとく討ち死にしたという。本当かどうかはわからないが、おそらく嘘ではないか。

これを見ると、2日間戦っているようにも思えますね(;^_^A

晩まで戦っていたので、伝わらなかったのかもしれませんが…。晩に降参し、次の日に城を受け取ったのかもしれませんね。

石成友通のその後ですが、翌年には信長と戦っているので、落ち延びた、という可能性の方が高いといえるでしょう(゜-゜)

(※今回の話の解説の続きは都合により公開いたしません m(__)m)


#勝竜寺城の戦い #勝竜寺城


2023年12月14日木曜日

「箕作城の戦い~江州所々合戦の事」の2ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

「箕作城の戦い~江州所々合戦の事」の2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年12月12日火曜日

箕作城の戦い~江州所々合戦の事

 上洛の軍を起こした織田信長は、六角氏の本拠・観音寺城に迫ります。

戦いの火ぶたは、今まさに切られようとしていました…!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

(※マンガの3ページ目は都合により公開致しません<(_ _)>)

〇愛知川の戦い~坂井政尚・久蔵父子の活躍

『足利季世記』には、次のような記述があります。

…11日には愛知川の近くの村々を焼き払い、12日には…六角の足軽衆が攻撃を仕掛けてきたが、尾張の逸り雄(はやりお。血気にはやる者)たち500人ほどが一斉に反撃し、敵の足軽大将7人を討ち取った。坂井右近父子(政尚・久蔵)は手柄を立て、後に公方(足利義昭)から感状を賜った。

11日に愛知川近辺を放火した信長は、12日に六角方の足軽衆と小競り合いをし、坂井政尚父子が手柄を挙げた、というのですが、この前哨戦について、諸書は次のように記しています。

『信長記』…11日、愛知川の辺りに放火し、その夜は野営した。12日、六角承禎の居城、観音寺城と箕作山の城に押し寄せるにあたり、軍勢の配置を決めるために、その朝、信長は森三左衛門尉・坂井右近将監・その他小姓・馬廻500騎に箕作山周辺の偵察を命じた。敵も足軽を少しばかり出してきたが、森・坂井はこれを東西南北に駆け破り、追い散らして、80余を討ち取った。…(その後再び)敵が足軽を出してきたが、反撃してこれを城の堀際まで追い詰めた際に、坂井右近の嫡男・坂井久蔵(13歳[数え年])が首をとり、信長にこれを見せたところ、信長は大いに感じ入った様子であった。この戦いの様子を義昭公に報告すると、義昭公も久蔵の活躍を比べるものがないものだとお思いになり、感状をお与えになった。(13歳で)馬に乗るのも危ういほどの身体でありながら、将軍から感状をいただくなど、古い記録を見ても、めったにないことだ、と久蔵をほめない者はいなかった。信長は「首途(門出)は良し、森・坂井は愛知川面に戻り、観音寺に向けて鶴翼の陣を取れ」と柴田勝家に命じた。

『総見記』…11日には愛知川近辺を放火した。…信長は11日夜、愛知川に野営し、翌12日、和田山城には美濃西方三人衆の稲葉伊予守・安藤伊賀守・氏家常陸入道を押さえとして置いて後回しにして、その他の小城には目もくれず、箕作・観音寺城を攻めた。12日未明、信長は自ら、小姓・馬廻・森可成・坂井政尚を連れて、城の周辺の様子を見るために出発した。そこに箕作城から足軽が出てきて、小競り合いとなった。森・坂井は手勢を率いて馬を駆け入れ、7・8人をなぎ倒し、城の側まで追い込んだ。この時、政尚の子の久蔵、13歳(数え年)で、いまだ馬も乗りこなせないほどの若武者が、敵を堀際まで追いかけ、槍で突き伏せ、首を取って帰り、信長にこれを見せた。信長は大いに感じ入り、その日の活躍について記したものを新公方(義昭)のもとに送った結果、新公方から感状が久蔵に与えられることになった。若くして武功を挙げたのを、珍しいことだと人々は話し合った。この小競り合いで、7・80を討ち取ったが、信長は「物のはじめ良し」と喜んだ。

違いを確認すると、

①戦いのタイミングについて、『信長記』は朝、『総見記』は「未明」と記す。

②偵察に出向いたのは、『信長記』では森・坂井たちだが、『総見記』はそれに加えて信長本人も出ている。

③討ち取った数について、『足利季世記』は「足軽大将7人」と名のある者だけを記し、『信長記』は80余、『総見記』は7・80余とする。

④坂井久蔵の活躍について、『信長記』は2度目の小競り合いの時とする。

⑤『足利季世記』では坂井父子に感状が与えられているが、『信長記』『総見記』は子の坂井久蔵のみ。

…となります。基本、『総見記』は『信長記』の記述を踏襲していますね(゜-゜)

一方で、『信長公記』はこの前哨戦について、

「信長駆け回し御覧じ」(信長は馬に乗って走り回り、御覧になられた)と記すのみです(;^_^A

でも、ここからは、信長自身が戦場の偵察に赴いた、ということがわかりますね。

また、『言継卿記』は9月11日条で、

「近江で合戦があったという。双方に死者が出たという。上総介が国に帰ったというが、どうだろうか。申の刻(午後4時頃)に石成主税助(友通)が帰ってきた」

…と(伝聞ですが)記しているのですが、ここからは、11日になかなかに激しい戦闘があった事がわかります。

『足利季世記』『信長記』『総見記』はどれも、11日は放火しただけで、12日に小競り合いがあった、としていますが、『言継卿記』の記述を見ると、小競り合いが起きたのは、11日のことなのかもしれませんね(;^_^A

ちなみにこの戦いで活躍した坂井政尚について、『武家事紀』は「本濃州斎藤家の士也。後信長につかえて軍功を働く」と記しており、もとは美濃の斎藤氏の家来であったことがわかります。外様だったわけですね(◎_◎;)

しかしこの戦いで森可成と同等に扱われていること、また、後で述べますが、近江平定後に森などと共に奉行に任じられていることから、早い段階で斎藤氏を離れ、信長の家来となっていたのだと考えられます(『総見記』では1560年の美濃攻めの際に、すでに織田方で戦っています)。斎藤道三派であったのかもしれません(゜-゜)

この偵察で敵情を把握した信長は、続いて軍議を開きます。

『信長公記』には次のようにあります。

「わきわき数ヶ所の御敵城へは御手遣いもなく、佐々木父子3人楯籠もられ侯観音寺並箕作山へ、同12日に駆け上させられ、佐久間右衛門・木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門・浅井新八仰せ付けられ、箕作山の城攻めさせられ、」(そばにある数城には構うことなく、六角父子3人[六角義賢・義治・義定]が立て籠もる観音寺山・箕作山に12日に駆け上り、佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀・浅井政澄に命じて、箕作山城を攻撃させた)

偵察で和田山城を攻撃すると時間がかかると考えたのでしょうね(゜-゜)

『日本外史』には、六角氏は「我が軍のこれを攻むるを待って、首尾相い救わんと欲す」(信長が和田山に攻撃を仕掛けたら、観音寺・箕作から兵を送って、攻囲中の織田軍を破る計略であった)と書かれていますが、どうでしょうか(;^_^A

そこで信長は、和田山は放置して、その奥にある箕作山城に照準を合わせ、佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀・浅井政澄の四将に攻撃を担当させることにしたのです。

ここでついに!…木下秀吉(豊臣秀吉)が『信長公記』に登場致します!(◎_◎;)

文書の上では、永禄8年(1565年)11月2日付の、坪内利定に対して土地を与えている書状に「木下藤吉郎秀吉」と書かれているのが初出となります。

それ以外のことについては、よくわからないというのが実情なのですが、

『太閤素生記』には、織田信秀の足軽の子であった、ということや、

信長の雑用を使える小者頭にガンマク(おそらく顔幕)・一若という者がいて、一若は同郷の中々村の出身であったので、これを頼って信長の草履取になり、短い期間で小物頭となった、という話が載っています。

その後について、信ぴょう性は低いですが、『武功夜話』には美濃攻めで活躍した、と書かれています。

まぁ美濃攻めで功績を挙げていなければ出世はできないでしょうから、『武功夜話』の話を全て信じることはできないにしても、美濃攻めで優れた活躍を示していたのでしょうね。

そして箕作攻めでは佐久間信盛や丹羽長秀と並んで一方の大将を任されるまでになったわけですが、秀吉と共にもう1人大将となっているのが、「浅井新八」という人物です。

この浅井新八(政澄・信広とも)は、浅井長政の父・久政の弟の子であった、とする史料もありますが、尾張に住む浅井氏の出身で、浅井久政・長政と直接な血のつながりはなかったようです(;^_^A

この4人が軍議で箕作攻めを任せられたわけですが、軍議について、他の諸書は次のように書いています。

『足利季世記』…12日には観音寺城・箕作城を攻めるための軍議を開いた。浅井長政は近江の地理に通じたものであったので、観音寺城と箕作城の間に置き、箕作城を攻めた際、承禎が観音寺城から加勢に来た時の押さえにしようとしたが、浅井衆はその通りにしたくないと言ったので、その方法を取ることはできなかった。

『信長記』…信長は軍議を開き、箕作城を攻めようと思っているのだが、策がある者は申し出よ、と伝えた。すると坂井右近将監が進み出て言った、「箕作と観音寺の間の距離は少ししかありません。六角父子は、眼前で箕作城が攻められているのを見捨てることはしないでしょう。観音寺城に対し押さえを置くことが必要です」。信長は、浅井長政は近江の者で地理にも明るいだろうと、観音寺と箕作の間に割って入り、観音寺の押さえとなるように使者を派遣して伝えさせた。そこで佐々内蔵助・福富平左衛門尉が浅井の陣に向かい、信長の話したことを伝えたところ、浅井は家老たちが集まって軍議をしたが、返事をするのに悩んでいる様子であったので、佐々・福富は織田の陣に戻り、浅井の様子を伝えた。信長も不快に思ったことだろうけれども、浅井と初めて対面し、仲もまだ慣れていないところであったので、口を開けて笑い、「それならば我が軍が両城の間に入り、承禎父子の押さえとなろう。備前守は箕作攻めに加われば良い。どちらがよいか選ばせよ」と再び佐々・福富を浅井の陣に派遣したが、その際に、「彼は『大ぬる者』(ぐずぐずしていて、判断が遅い)だから、どちらを選べばいいか迷う事だろう。どちらを選ぶか急ぎ決断するように、と督促せよ」と言った。浅井は後者を選んだが、今度は昼に攻めるか、夜に攻めるかで議論しあい、とうとう夜に攻めることに決めた。佐々・福富は陣に戻ると、浅井の決めたことを信長に報告することなく、「美濃・尾張の者の他に勇猛な者はおりません」と怒るだけであった。信長は、「そうなると思ってこちらでは軍の出発の準備をもう整えておいた。安心せよ」と答えた。…信長は、和田山には浅井長政を押さえとして置き、和田山の奥にある箕作城を攻めさせたので、六角は予想外の事に動揺しているように見えた。佐久間右衛門尉・木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門尉・浅井新八が箕作城に攻め寄せた。

『総見記』…信長は柴田勝家に命じて箕作攻めの準備を行わせた。そこに坂井政尚が次のように進言した。「箕作城を攻められるには、観音寺城に押さえを置いておく必要があります。六角承禎ほどの者、目の前で箕作城が攻められて助けに行かないわけがありません」。信長はこの進言をもっともだとして、「幸いに備州(浅井長政)は近江の地理に明るい。備州に頼むこととしよう」と言って、浅井方に使者を派遣して、次のように伝えさせた。「今日箕作城を攻めようと思っているのですが、あなたの軍勢は、箕作・観音寺の間に割って入り、観音寺に対する押さえを務めてほしい」。浅井長政は何を思ったのか、この提案を承知しなかった。そこで使者の福富平左衛門・佐々内蔵助は戻ってこのことを信長に伝えた。信長は機嫌を悪くしたと考えられるが、顔色には出さず、「それならば、わが軍勢でもって両城の間に入ろう。浅井勢は箕作城を攻めればよろしい」と言ったが、諸将が「備前守殿はそれも承知しないでしょう」というので、信長は「それならば、我が軍だけで箕作城を攻める、早く準備せよ」と命令し、12日の申の刻(午後4時頃)に箕作城に攻めかかった。…箕作攻めの先陣を務めたのは佐久間信盛・丹羽長秀・木下秀吉・浅井新八郎などであった。

『氏郷記』…信長はこれを知って、まず箕作城を攻めるべしと、和田山城に対しては西美濃三人衆の氏家卜全・安藤伊賀守・稲葉一轍を置き、観音寺城に対しては柴田勝家・池田信輝・森三左衛門尉・坂井右近将監等を置いてそれぞれ押さえとし、箕作城攻めは佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀・浅井新八等が担当して、城を激しく攻め立てた。

『佐久間軍記』…信長は、六角の居城である観音寺城に対しては柴田勝家を押さえとし、和田山城には美濃三人衆を押さえとした上で、箕作城を攻撃した。佐久間信盛が先陣であった。

以上の諸書を見ると、『信長公記』に書かれていないことの1つは、浅井長政との交渉のことです。

そもそも『信長公記』は長政が後に裏切った人物だからか、裏切る場面まで長政を一切登場させていません(;'∀')

諸書に一致するところは、長政が近江の地理に明るいので、観音寺城に対する押さえにしようとしたが、長政はこれを断った、というものです。

『信長記』『総見記』は、さらに一歩進んで、決断が遅い優柔不断な人物のように書かれていますが、『東浅井郡志』は、「果して拠る所あるや否やを知らず」と手厳しいです(;^_^A

『浅井三代記』には、

…9日、佐和山城に入った。信長は長政と兵の配置について話し合ったが、長政は自国の事なので、委細洩らさず、大切なことや注意点について話をした。信長は「長政には観音寺城の押さえを任せたい」と言い、長政は「現地の事情はよく知っているので、攻め手の1つを任せていただきたい」と答えたが、信長は、「観音寺の押さえは大事なので任せようと思ったのだが、そのように言うのなら、箕作攻めを任せよう」と言った。長政が箕作攻めを任せられようとした理由は、1つには、信長の縁者であるために危険な役目を避けられた、と思われるが嫌だったということで、もう1つには、戦いが終わった後、和睦を取り計らおうとしたからであって、何度も承禎とは戦ってきたけれども、同じ国の者であるので、哀れむ気持ちがあったからである。

…と書かれていて、箕作攻めを希望した理由まで書かれていますが、実際は、自分の国の事であり、相手も何度も戦ってきた六角氏なので、箕作攻めから外されるのが嫌だった、というところだったのではないでしょうか(;^_^A

長政が断った観音寺城への押さえの役は、『氏郷記』によれば、柴田勝家・池田恒興・森可成・坂井政尚が務め(『佐久間軍記』では柴田勝家のみ)、和田山砦の押さえは、『信長記』では浅井長政が、『佐久間軍記』『氏郷記』『総見記』では美濃三人衆が、それぞれ務めることになったようですね。

とにかく、六角氏との戦いにおける浅井長政の動きは不明瞭です…(-_-;)

〇箕作城の戦い

いよいよ信長は箕作城を攻撃することになるのですが、

『信長公記』には、この戦いについて、

箕作山の城攻めさせられ、申剋より夜に入り、攻め落し訖」(箕作山の城を申の刻[午後4時頃]から夜にかけて攻撃し、攻め落とした)

…と非常に簡潔にしか書かれていません(;^_^A

他の史料によってその内容を補うことが必要になるわけですが、諸書には戦いの模様について、次のように書かれています。

『足利義昭入洛記』…箕作山の城は高さが麓から20町(約2200m…というが実際は2町の誤りか。高さは325m、麓は115mなので、その差は約200m)ほどあり、並ぶように神明ヶ嶽という険しい山があるが、この山に対し、12日午の刻(12時頃)にまず1万の兵が駆け上り、敵の反撃もものともせず攻め落とし、4・50を討ち取った。その日の申の刻(午後4時頃)に信長は神明ヶ嶽に移り、続いて箕作山の攻撃を命じた。時刻は酉の刻(午後6時頃)になろうとしていたが、信長は新たに1万の兵を四方から鬨の声を挙げさせてながら、入れ替え入れ替え攻撃させた。しかし、高山に作られた城であったので、負傷する者は数が知れず、時間ばかりが過ぎていった。信長は怒って、また兵を入れ替えて攻めさせたところ、城の兵は耐えることができず、翌日の丑の刻(午前2時頃)に城から落ち延びていった。

『足利季世記』…信長は和田山城には押さえの兵を置き、和田山城の奥にある箕作城を攻めた。箕作城には吉田出雲守・同新助・建部源八・同采女正・柏修理亮が籠もっていたが、さんざんに攻められて城兵200余人が討ち死に、寄せ手も100人ばかりが討ち死にした。

『越州軍記』…9月8日、まず箕作山の采女城を攻撃した。攻め寄せる軍勢は合計8万、3日3晩にわたって、入れ替え入れ替え攻撃した。城兵が鉄砲をしきりに撃って来たため、攻撃する兵の使者は数え切れないほどであった。命を塵芥のように軽んじ、忠義を金石のように堅く守って攻める者たちは、塀に取り付いて乗り越えようとしたが、腕を打ち落とされた。負傷した者は200余りいたと後に報告があった。このように厳しく戦う中で、翌日早朝に、「将軍様は、降参すれば、望み通りに恩賞をやろう、と仰られている」と呼び掛けたところ、城内の者は降参した。箕作城が陥落した結果、日野城の蒲生掃部・後藤などが織田方に心変わりした、という噂が流れたので、六角承禎は大勢に囲まれては勝ち目がない、と考えて、9月12日の夜に伊賀・甲賀へと落ち延びていった。信長は「短い期間に大きな利益を得たのは、これはひとえに仏神の加護によるものである」と言って喜び、降参した者たちに恩賞の土地を与えた。古語に言うところの「重賞の下には勇夫あり」(手厚い褒美のもとでは、勇士が集まってくる。『三略』にある言葉)とはこのことである。

『信長記』…佐久間右衛門尉・木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門尉・浅井新八が箕作城に攻め寄せた。城内の吉田某・建部源八などは、山下に軍勢を出して防ごうとしたものの、息も継がせぬ攻撃を受けて城内に退いた。この際に織田軍は200ばかりを討ち取った。4人の大将は、「この勢いをぬかすな。懸かれや者ども」と命令し、織田軍の兵士は少しも気を緩めず、堀際にたどり着き、旗指物などを投げ入れ、城内に突入しようとしたところ、敵はこらえきれないと思ったのか、笠を出して、攻めてきたのは誰か、と尋ねて来たので、「佐久間勢は佐久間久六・原田与助、木下勢は竹中半兵衛尉・蜂須賀彦右衛門尉・木村隼人正、丹羽勢は林志島などである」と答えた。すると城内の者は、「これまで持ちこたえてきたが、命を助けてくれるならば、降参しよう」と言ってきた。これに対し、佐久間信盛は進み出て、「城内の者の命を助け、城を受け取るべきだと思いますが、いかがでしょうか」と信長に伝えたところ、信長は「その通りにせよ」と答えた。こうして箕作城は落ち、織田軍は勝鬨をどっと挙げた。

『佐久間軍記』…箕作城を攻撃した。佐久間信盛が先陣であった。城主の建部・吉田は防戦したが、蜂須賀彦右衛門長政・佐久間盛次などが先頭に立ってこれを攻め落とした。この時、佐久間盛政が初陣し、父の盛次は武功を挙げた。

『松平記』…佐久間信盛から松平勘四郎(信一)に先陣を任せたい、と告げられ、「かしこまりました」と答えた。三河衆が先陣となって、建部源八が籠もる箕作城を攻めた。しかし城はなかなか落ちず、小城に時間をかけても無益だと思い、信長は勘四郎を箕作城の押さえに置き、京都に向かって進軍した。三河勢だけで急いで城を攻めたところ、建部はかなわないと見て城から落ち延びていった。この勢いを見て、六角承禎もかなわないと思い、観音寺城から落ち延びていったので、8月11日に近江は平定された。

『総見記』…12日の申の刻(午後4時頃)に箕作城に攻めかかった。箕作城には吉田出雲守・同新助・建部源八郎をはじめとする精鋭の兵が多く置かれており、城も堅固に作られていたので、織田軍の猛勢に対しても命を惜しまずに防戦した。箕作攻めの先陣を務めたのは佐久間信盛・丹羽長秀・木下秀吉・浅井新八郎などであった。南側の尾崎(小脇か?)からは三河勢が攻め上り、早くも門の側まで迫っていたが、そこに城兵が門を開き、建部源八郎がまっしぐらに攻めかかってきたので、三河勢は山下に追い崩された。三河勢の侍大将、松平勘四郎は大剛の者で、槍を取ってただ一騎で引き返し、「者共、引き返して討ち死にせよ」と言って敵中に突撃した。これを見て、遠江の小笠原は、「討たしてはならない」と言って引き返し、これを見て他の者たちも我も我もと引き返し、討つ、討たれるの激しい戦いを繰り広げた末に、遂に門際まで押し戻した。建部源八郎は防戦をあきらめて城の中に入った。これを見た他の攻め手は勇み立ち、大声をあげて叫び、負けていられないと攻めたので、箕作城は200余人が討ち死にした。佐久間など織田方の4将は、勢いを抜かす(弱める)な、と言って息も継がせず、揉みに揉んで攻め立てたので、軍勢はみな堀際まで到達し、塀の中に旗指物を投げ入れてまさに城内に突入しようとした。城内の兵は笠を出して、攻め寄せる者たちは誰かと尋ねて来たので、「佐久間勢は佐久間源六・原田与助、木下勢は竹中半兵衛・蜂須賀彦右衛門・木村隼人、丹羽勢は林志島などである」と答えた。すると城内の者は、「ずいぶん持ちこたえてきたが、命を助けてくれるならば、降参しよう」と言ってきた。信長は佐久間の陣にいたが、佐久間がこのことを伝えると、信長はそのようにせよと許可を与えたので、箕作城から城兵を追い払い、勝鬨を挙げた。

『氏郷記』…箕作城攻めは佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀・浅井新八等が担当して、城を激しく攻め立てた。この箕作城は観音寺城にほど近いところにある城で、蒲生賢秀は当時観音寺城にいたが、賢秀は進み出て義賢に言った、「このままだと箕作城は落ちるでしょう、私に兵を与えてくだされれば、観音寺城の押さえを切り崩して、箕作城に援軍として入ってみせます」。これに対し、義賢は「私に任せておけ。和田山・箕作の両城には屈強の兵が大勢いる。簡単には落ちない」と言ってこの意見に従わなかった。賢秀は六角には先が無いと感じ、こうなったら自分の城に立てこもり、信長と最後の合戦をし、腹を切るまでだと考えて、手勢を連れて日野城に入った。

『武徳編年集成』…12日、六角方の和田山城に押さえを置き、吉田重高・新助・建部秀明が籠もる箕作城を包囲した。六角氏は精鋭の兵を選んで箕作城に置いていたので、信長の先鋒である佐久間・丹羽・木下等は攻め入ることが難しかった。その時、南の尾崎から三河勢が攻め登り、門の近くまで迫ったが、相手の斉射を受けて多くが死傷した。そこを建部秀明が攻撃して寄せ手を山下まで追い崩したが、松平信一が大きな声を挙げて崩れかかっている見方を鼓舞し、先頭に立って登り始めたので、三河の兵は信一を討たせてはならないと競って登った。たちまち城兵の矢・鉄砲を受けて20余人が討ち死にしたが、兵士たちはまったくひるまずに槍先をそろえて突撃し、敵兵17・8人を討ち取り、門の側まで迫り、ついに旗を塀の中に投げ入れた。「箕作の一番乗り松平勘四郎」という声は雷霆(激しい雷)のごとく響き渡った。信長の四将はこの声に励まされ、負けてはならんと城内に攻めこもうとしたところ、城内の兵が先頭の姓名を尋ねてきたので、「徳川隊は松平勘四郎、佐久間隊は佐久間安次・原田与助、丹羽隊は林・志島、木下隊は竹中重治・木村重茲」と答えると、城兵は「これまでよく防いだが、寄せ手が勇敢で抵抗する術を失った。城から出るので命は助けてほしい」と頼んできた。信長は佐久間の陣にて戦いの様子を見ていたが、城兵の言うことを聞き入れ、城を受け取り、城兵をすべて外に出させてから勝鬨を挙げさせた。…13日、信長は松平信一を招き、その戦功の抜群であることを褒め称え、「汝が肝に毛生たりと謂うべし」と言って、着ていた桐の紋付の皮の胴服(陣羽織)を授けると共に、三宅康貞など首級を挙げた者たちの功を賞した。信一は代々、家紋に葵を用いてきたが、徳川家康と同じであることをはばかって、これ以降は桐を家紋とした。

『徳川実紀』…松平信一は近江の箕作の城攻めに抜群の働きをして、敵味方の耳目を驚かせたので、信長も、「信一は小男ながら肝に毛の生えたる男かな」と賞賛し、着ていた道服(陣羽織)を脱いで、これを褒美として与えた。

箕作山は5つのピーク(峰)がある山で箕作山城はその中でも2番目に低い清水山(325m)にある城です(そのため別名清水山城という)。また、残りの4つのピークとはほぼ独立している場所にあります。

信ぴょう性の高い『足利入洛記』によれば、申の刻(午後4時頃)以前に、箕作山と並んでいる山である神明ヶ嶽(おそらく岩戸神明と呼ばれている岩戸山[290m]?)を昼の12時に攻撃して占領しているのですね。岩戸山の近くには箕作山[372m]・小脇山[373m]と、箕作山よりも高い山があるので、これを攻略すると、箕作城の内部の様子も見えたのではないでしょうか(゜-゜)

そして、申の刻(午後4時頃)に、いよいよ本題の箕作城攻撃に移ることになるのですが、

箕作城は堅固に作られているうえに精鋭の兵が籠もっていたため、織田軍はかなりの苦戦を強いられたようです(◎_◎;)

『総見記』によると申の刻(午後4時頃)から戌の刻(午後8時)まで4時間、『足利義昭入洛記』によると申の刻(午後4時頃)から丑の刻(午前2時頃)まで10時間かかっていますからね💦

『足利義昭入洛記』には「信長いかりをなして」とあるので、信長は相当いらだっていたようです(;^_^A

その中で活躍したのが、『総見記』『武徳編年集成』『徳川実紀』によれば、徳川家康からの援軍を率いていた松平信一であったといいます。

三河勢は一度、城将の建部源八に追い崩されたものの、松平信一は一人取って返して敵中に突撃、配下の者たちは信一を死なせてはならないと慌てて信一を追って敵に攻撃を仕掛けた結果、建部源八を再び城中に押し込めることに成功しました。

『武徳編年集成』には箕作城へ一番乗りを果たしたのは松平信一であった、と書かれていますが、『武徳編年集成』は徳川方の史書であり、また、徳川氏の公式の歴史書である『徳川実紀』にはその事実は採録されていないため、おそらく事実を盛ったものなのでしょう(;^_^A

しかし苦戦していた箕作攻めの流れを変える活躍だったのはおそらく間違いないようです。信ぴょう性のある『松平記』にも、戦後に信長が身につけていた脇差・陣羽織を与えたことが記されています(信ぴょう性はある書物ではあるが、今回の箕作城攻めの話は、日にちが明らかに間違っていたり、単独で箕作城を落とした、としていたり、なんだかハチャメチャである)。

松平信一に奮戦に負けじと織田軍の兵士が奮闘した結果、箕作城はようやく落城しますが、『越州軍記』には「将軍様が降参したら恩賞を与えると言っている」と伝えたところ、城兵は降参した、という他と違う記述が載せられています(◎_◎;)

こうして信長は苦戦しながらも箕作城を攻略することに成功したのですが、『信長公記』は、その頃のエピソードを次のように載せています。

「去る程に、去年、美濃国大国をめしおかれ侯間、定めて今度は美濃衆を手先へ夫兵に差し遣わさるべしと、みの衆存知の処に、一円御構いなく、御馬廻にて箕作攻めさせられ、美濃三人衆稲葉伊予・氏家卜全・安藤伊賀、案の外なる御行(てだて)哉と、奇特の思いをなす由なり」(去年、美濃を平定したので、今度の戦いでは美濃衆が先鋒に使われるだろう、と美濃衆が覚悟していたところ、信長はまったく気にすることなく、直轄軍の者たちだけで箕作城を攻撃したので、美濃三人衆の稲葉良通・氏家卜全・伊賀道足[安藤守就。永禄12年(1569年)に信長が書いた書状には、「伊賀」とある]は、意外なやり方をなされるものだと不思議に思ったという)

また、『信長記』には次のように書かれています。

…氏家卜全・稲葉伊予守・伊賀伊賀守の3人は、以前斎藤龍興の家臣で、最近信長に従ったので、城攻めの際は先陣を命じられるだろう、と思っていたのに、信長は直轄軍に攻めさせたので意外に思い、今度は先陣を申し出て、他より目立った活躍をしなければならない、と励むようになった。大将たるものは、親しいかどうか、出身の国が違うかどうかに関係なく、平等に情け深くすることが重要である。このような君主であれば、家臣たちは自分の命を顧みずに忠功を働くものである。近江国中の城が将棋倒しするようにはらはらと(次々と)落城することになったのは、信長の智謀によるもので、和田山城から攻めかかっていれば、多くの兵を失うことになり、このようになってはいなかっただろうが、信長は敵のはかりごとを事前に把握していたため、このようになったのである。謀略のなんと重要な事よ。

戦国時代は、新たに配下になった者たちは、次の戦いで忠誠心を試すために、先鋒で使われるという風習がありました。しかし、信長はその方法を取らなかったのですね(◎_◎;)

この理由について、『日本外史』は次のように説明しています。

「美濃の三将をして、和田山に備えしめ、而して観音寺に向かうと宣言して、因って兵を引いて箕作を襲う」

まず和田山を攻略し、それから観音寺城攻略に向かうと言い広めてから、箕作城を急襲した…というのですね。

つまり、美濃三人衆は六角氏の意識を箕作からそらさせるために使われたのですね💦六角氏も、美濃三人衆が和田山にいるとなると、そちらから攻めるのかと考えるでしょうしね(゜-゜)

この策略が当たり、信長は上手く箕作と観音寺を分断することに成功したのでしょう。

さて、箕作城を攻略した後の信長の動きを見てみましょう。

『信長公記』は、次のように記します。

「其の夜は、信長、みつくり山に御陣を居えさせられ、翌日、佐々木承禎が館(たち)観音寺山へ攻め上らるべき御存分の処に」

戦いが終わった時はすでに夜であったので、信長は箕作山に陣を構えて夜を過ごし、夜が明けてから六角氏の本拠である観音寺山を攻撃しようと考えていたのですね。

一方、六角氏の様子はどのようであったのでしょうか。

『足利季世記』には、箕作城が陥落した後、「観音寺に籠る勢も是を聞大半落ければ」と、観音寺城兵が勝ち目がないと見て大半が逃げ去ってしまった、と書かれており、観音寺場内が騒動になっていたことがうかがえます(◎_◎;)

この中で、六角承禎は『足利季世記』に「佐々木父子も打死すべしと有りける」とあるように、城を枕に討ち死にすることを考えますが、三雲成持・三郎左衛門兄弟の進言(『信長記』には、「観音寺城では防ぐのは難しい。ここは城を出て命を保ち、後に会稽の恥をすすぐのがよろしいでしょう。私の居城にお退きになってください」とあり、『総見記』には、「明日の合戦は多勢に無勢でとても戦うことができません。ここは城を出て、三好三人衆と示し合わせて城を取り戻すようにされるべきです」、とある)を受け入れて、夜が明けないうちに城から落ち延びることに決めます。

この時の様子について、『信長記』『総見記』には、

『信長記』…六角の者たちは慌てて城を出て、女子供は悲しみのあまり声を挙げて泣いた。昔、平家が都落ちした時もこのようであったのだろう、哀れである。

『総見記』…四方に分かれて、男女・僧俗関係なく城を出たが、年寄りと幼い者は泣きわめいて、向かう方向を見失い、取り乱して、逃げさまよう様は、目も当てられなかった

…と書かれています。

六角父子が落ち延びた先について、『足利季世記』『越州軍記』は伊賀(甲賀)、『佐久間軍記』は鯰江城、『信長記』『氏郷記』は三雲城、『総見記』『武徳編年集成』は石部城としています。

これについては、9月17日付の六角義治の書状が残っており、そこには、「織田のより郡内が物騒になったので、伊賀に移っている」と書かれているので、伊賀・甲賀方面に逃げ去ったのが正しいと考えられます。

まぁ、鯰江城・三雲城・石部城はいずれも、信長に味方せず六角氏に残った城であるので、これらの城を渡りながら伊賀・甲賀方面に移動したのかもしれませんね(;^_^A

こうして、六角氏は、佐々木源氏の六角氏頼(1326~1370年)が1354年に近江守護となって以来、1370~1377年に京極氏が近江守護を務めた一時期を除いて、長く近江守護を務めて、南近江を中心に威を振るってきたものの、今回の織田信長の攻撃により、約200年にわたった近江支配は終焉を迎えることとなったのです。

(※今回の話の解説の残り部分は都合により公開致しません<(_ _)>)

2023年12月10日日曜日

上洛の軍を起こす~信長義兵を揚げて攻め上らる事

 ついに織田信長は宿願の上洛に移ります。

京都に攻め上る道中で最初に立ちはだかる敵は、近江南部の大名、六角氏でした…!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇上洛軍、出陣

『信長公記』を軸に、信長と六角氏の戦いについて見ていこうと思います(゜-゜)

「9月7日に公方様へ御暇を申され、江州一篇に討ち果たし、御迎えを進上すべきの旨仰せ上げられ、尾・濃・勢・三、4ヶ国の軍兵を引卒し、9月7日に打ち立ち、平尾村御陣取。」(9月7日、足利義昭に別れを告げ、近江を平定し、迎えを差し上げると伝え、尾張・美濃・伊勢・三河4カ国の兵を引き連れ、その日中に出陣し、この日は平尾村に陣を構えた)

日本の諸書で、信長が率いた軍勢の数を伝えるものは『越州軍記』の「8万余」、『勢州軍記』の「5万余」、『氏郷記』の「数万」しかありません(『細川両家記』には、上洛達成直後のことになりますが、9月30日に、「5万人計(ばかり)」で池田城を包囲した、という記述があります)。一方で、ルイス・フロイスは1568年10月4日(永禄11年9月14日)付の書簡で、「5・6日前、尾張の国主が殺された公方様の兄弟を武力によって都の領主につかせるため、突如、6万の兵を率いて都に到来した」と記しています。しかし、ルイス・フロイスは後に書いた『日本史』で、「彼は5万人以上を率いて来たので」と書いています(;^_^A 『勢州軍記』とも一致しますし、こちらの方が正確なんでしょうかね(゜-゜)しかし5万とはすさまじい人数です💦

また、人数は記していませんが、『信長記』『総見記』は、「先陣は早くも近江の平尾に着いたが、後陣はまだ美濃の垂井・赤坂の辺りにいた」という表現で大軍である事を示しています。ここで「近江」の平尾と書いてあるのは誤りで、「美濃」の平尾のことです(;'∀')近江の平尾は岐阜城から80㎞離れており、歩いていくと18時間もかかります(◎_◎;)しかも近江の平尾は京都へ向かうのにだいぶ遠回りになってしまいます(;'∀')

信ぴょう性の高い『足利義昭入洛記』は「7日に岐阜より平尾に陣取、惣勢は垂井・赤坂・不破・関山に着畢」と記しています。

これは先陣は関山(おそらく不破の関に近い松尾山?)にいて、それから不破→垂井→平尾、後陣は赤坂に布陣した、ということです。信長の市は後ろから2番目であったということですね(゜-゜)後陣が赤坂、となると、信ぴょう性に疑問が持たれている『信長記』の記述にも、正確な部分がある事がわかりますね(;^_^A

関山(松尾山?)と赤坂の距離ですが、約14㎞ほどです。14㎞を5万人で割ると、1列だと1人当たり28㎝のスペースしかないことになりますから、おそらく2~3列(前との間隔:56㎝~84㎝)ほどで行軍したのでしょうね。人間の幅は約30㎝なので最低3列はないとぎゅうぎゅうでしんどそうです…(;^_^A

ちなみに、『浅井三代記』には「8日に岐阜城を出発、先陣は近江醒ヶ井柏原についたものの、後陣はまだ美濃を出ていなかった」という異説が載っています。出発日が8日というのも他と違いますね(『越州軍記』『信長記』も8日出陣とする)。醒井・柏原は近江・美濃の国境付近で、松尾山にほど近い場所にあるので、こちらが正しい可能性も無くはありません(゜-゜)

また、信長の上洛に加わった国々についても、諸書によって違いが見られます。

『信長公記』…尾張・美濃・伊勢・三河

『足利季世記』…美濃・尾張

『越州軍記』…三河・尾張・美濃

『伊勢軍記』『勢州軍記』…美濃・尾張・伊勢(滝川勢・関一党)

『浅井三代記』…美濃・尾張・三河

『氏郷記』…美濃・尾張・伊勢・三河・遠江

『武徳編年集成』…美濃・尾張と伊勢の数郡+徳川勢

ここは『信長公記』の記述がやはり信頼できると思います。『氏郷記』は「美濃・尾張・伊勢・三河・遠江」、『総見記』も(おそらく遠江を加えて)「5か国」と記しており、『信長公記』の4カ国に遠江を加えていますが、当時、徳川家康はまだ遠江に進出していませんでした(遠江進攻は12月に入ってから)。

また、信長上洛直後に筆写された『足利義昭入洛記』は、非情に信ぴょう性が高い史料なのですが、これには「伊勢・尾張・参川(三河)・美濃四ヶ国」と書かれており、『信長公記』の正確性を裏付けています。

徳川から駆けつけた援軍については、

『松平記』…諸家中から10人優れたものを選び、松平勘四郎(信一)を大将として派遣

『浅井三代記』…小笠原与八郎(信興)の2000

『総見記』…三河勢の侍大将の松平信一、遠江の小笠原

『武徳編年集成』…松平信一を大将、三宅康貞を監軍として、2000の兵

『徳川実紀』…松平信一

…と、諸書で違いがいられますが、遠江高天神城主・小笠原信興が徳川の味方についたのは12月なので、『浅井三代記』『総見記』の記述は誤りです(;^_^A

参戦したのは松平信一、というのはだいたい正しいと思われます。

松平信一(1539~1624年)は藤井松平家の出身で、徳川家康の祖父、清康の従兄弟にあたる人物です。

さて、平尾村に到着した織田信長のその後の足取りを、『信長公記』で見てみましょう。

「同8日に、江州高宮御着陣。両日御逗留なされ、人馬の息を休め、11日、愛智川近辺に野陣をかけさせられ、」(9月8日に近江の高宮に着き、ここで2日滞在し、人馬を休め、11日、愛知川付近で野営した)

信長はついに近江に入ったわけですが、高宮というのは、現在の彦根市高宮町、場所は佐和山城を通り過ぎ、多賀大社にほど近い所です。

ちなみに信長は上洛に先立って、8月に多賀大社に対して、織田軍の乱妨・狼藉・陣取・放火などを禁止する、という内容の禁制を出しています。

多賀大社は信長の上洛が近いのを感じ取って、信長に禁制を要請していたのでしょう(゜-゜)

『足利義昭入洛記』には、「8日に近江高宮に陣をすえ、先陣は愛知川を境、後陣は摺針峠小野の宿に控えたり」とあります。2日目にして、先陣は最前線の愛知川まで至っていたようです(◎_◎;)

『浅井三代記』には次の異説が載っています。

…浅井長政は信長から上洛の日時を伝えられていたので。9月6日に軍勢を率いて佐和山城に入り、信長の到着を待った。その間、江南の六角方の城主で、長政を通して信長の味方につく、と申し出たものが数多くいた。その頃江南の諸将は、承禎の子、義弼が後藤父子を討った事件の事で、六角氏を嫌うようになっていたので、このように味方につく者が数え切れないほど多く現れたのである。しかし家老たちは義を守るためか、三好に通じていたためか、降参する様子がなかった。信長は8日に岐阜城を出発、…急いで進んだため、その夜には浅井領常菩提院に到着、翌日、佐和山城に入った。

常菩提院というのは成菩提院(円乗寺)のことで、美濃との国境にほど近い柏原にあります。『浅井三代記』は出発した日は平尾に泊まったのではなく、成菩提院に泊まったというのですね(゜-゜)

そして、浅井長政の軍勢と佐和山城にて合流しています。浅井氏と合流した場所・日にちについて述べているのは、確認できる限り、『浅井三代記』だけですね(;'∀')

ちなみに徳勝寺碑銘・過去帳には、浅井長政はこの時、祖母の忌中であったが参陣した、と書かれているようです。

信長は『信長公記』によれば高宮に2日間滞在しているのですが(『信長記』は8日出発のため1日間)、

2日間もとどまった理由について、『足利義昭入洛記』は、「佐々木四郎道をふせぎ、逆木を山にゆい、人馬のかよいたやすからぬによって、2・3日をおくり了」と記すのですが、高宮から観音寺山まで平地が続いているんですけどね…(;^_^A

それよりも川を渡りにくくしていた、と考える方が適当のような気もします(;'∀')

この頃の状況を知ることができる一次史料に『言継卿記』がありますが、9月10日条には、「尾張より織田上総介が近江中部に進んだという。そのため今朝、石成主税助が坂本に下っていった」と記されています。

この信長の動きに対し、六角氏はどうしていたのでしょうか。

『足利季世記』…六角承禎・義弼父子は和田山城が最初に攻められる城だと考えて、田中治部大夫をはじめとして屈強の兵を置いていた。

『信長記』…承禎父子は家老を集め、信長が近江の国に攻め寄せてくれば、街道沿いの城を攻撃してくるだろう、そのため和田山に城を築いておいた、この城には南都(奈良)でも戦った経験のある選りすぐりの者を配置してある、と話をしていた。

『総見記』…六角承禎は軍議を開き、「信長が上洛してくるのを防ぎ、三好三人衆の援軍を待つ」と言って、和田山に城を築き、一族の山中山城守・田中治部太夫を大将とし、選りすぐりの兵を入れ、自身は観音寺城に籠もり、その他、箕作・日野をはじめとする18の城で、やってくる織田軍を待ち構えることにした。

『氏郷記』…義賢(承禎)は最初に和田山城が攻められるだろうと考えて、和田山城に屈強な兵を置き、次に箕作城にも大勢の兵を入れておいた。

こうしてみると、最初に攻められるであろう和田山城の防衛体制を強化し、時間を稼ぐ中で三好三人衆の援軍を待つ、という作戦を立てていたことがわかります。

…ということは、逆に考えると、信長は六角攻めで時間をかけるわけにはいかないわけです。

信長はどういう作戦を取ることにしたのでしょうか!

次回に続きますm(__)m

2023年12月4日月曜日

近江浅井氏・六角氏に対する外交~信長御憑み御請けの事②

7月25(27or29)日に足利義昭に対し早期の上洛を宣言した織田信長。

しかし、信長が上洛の軍を起こすのは9月7日までずれこんでいます(◎_◎;)

その間、約1か月。信長はいったい何をしていたのでしょうか?

それは、上洛がうまくいくようにするための最終調整…京都への通り道になる、近江の大名・浅井氏・六角氏に対する外交活動でした。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪ 

(マンガの2ページ目は都合により公開いたしません<(_ _)>)

〇浅井氏との外交

信長が展開した近江に対する外交について見ていくことにしたいのですが、

基本史料となる『信長公記』の記述を軸にして、適宜、内容を諸書で補っていこうと思います。

「8月7日、江州佐和山へ信長御出でなされ、」(『信長公記』)

永禄11年[1568年]8月7日、信長は近江の佐和山城に出向きます。

まずこの日にちについて。

他に『足利季世記』『総見記』も8月7日にしているのですが、

『信長記』『当代記』『浅井三代記』は8月「8日」にしているのですね(◎_◎;)

『信長記』には、

8月5日、信長は岐阜に兵を集め、先陣が翌日に出発、信長は8日に出発して佐和山城に着き、

…とあり、8日に到着したと書いてあるわけではないのですが、

岐阜城から佐和山城までは60㎞、歩いて14時間ほどで着く距離なので、朝に出ればその日中に到着は可能かなと(;^_^A

2日かけたかもしれませんが…💦

『当代記』『浅井三代記』は8日に会ったと明記しています。

また、『信長記』で気になるのは、8月5日から兵を集め、その後3日かけて全軍が出陣している、ということですね(゜-゜)

3日かけて出陣が完了するというのは、よほどの大軍であったということです。

しかし、信長はこの出陣で、どこの城も攻撃していませんので、そんな大軍を連れていく必要性はないのですね(;^_^A 示威行為だったのかもしれませんが。

しかし、この8月上旬というのは、現在使われている太陽暦(グレゴリオ暦)でいうと、9月の上旬辺りになるのですね。

何が言いたいのかというと、収穫の時期なわけです。

こんな時期に兵士とか人夫とかで動員されたら農民としてはたまったものではありません(◎_◎;)

信長のこれまでの戦歴を見ても、8月上旬に戦っていることはめったにないのですね。

そう考えると、『浅井三代記』『総見記』にある、御供の数は240~50であった、というのが正しいのではないか、と考えられます。

敵地の近江佐和山城にそんな小勢で⁉と驚くかもしれませんが、

『信長公記』には一切触れられてないものの、当時、佐和山城は信長の同盟相手、浅井氏の持ち城であり、そこまでの近江の道中も、浅井の領土でした。そのため、兵を多く連れていく心配は無かったわけです。

『信長公記』には六角氏との外交しか触れられていないのですが、

信長が佐和山城に行った理由のもう1つは、浅井氏と外交を行う事にありました。

『細川両家記』には、「8月、織田上総介は近江北郡に行き、浅井方と仲間になり、話し合ったという」とあります。

浅井氏との具体的な外交の内容を記すのは『浅井三代記』と『総見記』です。

2つの内容は似通っているのですが、

『浅井三代記』の成立は寛文年間(1661~1672年)とされ、

『総見記』は貞享2年(1685年)頃成立しているので、

おそらく『総見記』は『浅井三代記』を参考にして記述したのでしょう(゜-゜)

『浅井三代記』には、浅井氏との外交の様子が次のように書かれています。

…永禄11年(1568年)7月28日、信長は浅井長政に使者を送って言った、「貴殿は数年にわたって我らと対面したいと申されていたが、道中の心配もあり、先延ばしにしていた。しかし、相談したいことがあるので、8月の8日に佐和山城で対面したい」。佐和山城は磯野員昌の城であったので、員昌に掃除など迎えの準備をするように伝えた。長政は一門・家老を連れて佐和山に向かい、対面の日には摺針峠(彦根市)まで行って出迎えた。信長は小姓・馬廻240~50人を連れてやって来た。長政がこれまで迎えに出向くことは無かったので、それを知った信長はひどく満足そうであった。佐和山城に着くと、信長は長政には一文字宗吉の太刀・槍100本・しじらの反物100端・具足1領・馬1疋を贈り、父の久政には黄金50枚・太刀1振を贈った。浅井の家老・一門があいさつをすると、それぞれにも贈り物をし、特に磯野員昌には銀子30枚・祐光の太刀1振・馬を贈った。三田村・大野木・浅井玄蕃には太刀・馬が贈られた。長政はとても喜び、丁重に信長をもてなした。翌日、信長が小谷の方(お市)に長く会っていないので会いたいと言うので、小谷から呼び寄せ、2人は睦まじく話をした。その夜、信長が言った、「長政殿は義理堅い方なので、返礼に岐阜城に来られると思っているのだが、今は上洛を間近に控えていて、あちらこちらに移動するわけにもいかないので、明朝はこの城で返礼を受けたい」。長政は辞退したが、信長が強く求めるので、受けることにした。その後、2人は夜通し密談したが、後で聞いたところによると、箕作城攻めの事・三好討伐の事・義昭公の上洛の事などについて話し合ったのだという。翌朝、信長は佐和山城にて長政・久政父子をもてなした。長政は家宝の備前兼光の太刀(名は「石わり」)・近江綿200把・布100疋・月毛の馬1匹・藤原定家が藤川に来た時に近江の名所について詠んだ歌書2冊を贈った。久政や家老・一門もそれぞれ贈り物をした。また、長政は信長の御供の者たちに新品の太刀・脇差を贈った。この時に長政が贈った備前兼光の太刀は久政が秘蔵していたものであった。備前守が備前兼光を信長に贈ったのは、備前守長政が信長に滅ぼされるということの前兆であったのだと、後で思い知ることになるのである。信長は浅井の家老たちに次のように言っていた、「長政はこのように私の「子分」になったからには、日本国は全て織田と浅井によって治められることになるだろう。一生懸命努めれば、その者を大名に取り立てよう」。翌日11日には佐和山浦で大網を使い漁をして、鯉・鮒など多くの魚を得た。信長は「美濃ではこのような楽しいことは無い。魚は近江国の名物であるから、岐阜に持ち帰ろう」と言った。

だいぶ詳細ですね(;^_^A 一方の『総見記』は、

…8月5日、上洛の兵を岐阜城に集めた。浅井氏に使者を送り、近江を平定するための相談のため、佐和山城に向かうので、長政も出向かれるように、と伝えた。長政は佐和山城主の磯野員昌に、もてなしの準備を念入りにするように伝えた。7日、信長はわずか240・50の兵を連れて佐和山城に入った。長政は摺針峠で信長を出迎えたが、これが初の対面であった。このことについて、京都の人々は「婿入り前の舅入りとはこのことだ」と言ったという。佐和山城に入った信長を、長政は山海の珍物でもてなした。浅井氏の一門・家老が残らずあいさつに来た際に、喜んだ信長は、「浅井備前守(長政)殿と縁者となり、備前守殿が上洛の御供をするとなれば、今年中に日本国を残らず従えてしまえるだろう。そうなったら、そなたらを高い地位につけるから、待っているがよい」と言って笑わせた。その後、信長は長政と密かに、義昭の上洛・近江平定の事について話し合った。

…と簡潔で、『浅井三代記』とちがって、お市の話・備前兼光の話・漁の話はありません。

また、『浅井三代記』には、「長政が信長の子分になった」という衝撃的な内容が書かれているのですが、この場合の「子分」というのは、「手下・配下」という意味ではなく、「義理の子」という意味でしょう(『言海』で「子分」を引くと、「仮に子とすること。義子・仮子。」とある)。『浅井三代記』では信長は妹のお市を養女としたうえで長政に嫁がせていますから、形の上では長政は信長の子の夫、ということになるので、「義理の子」ということになるわけです。『浅井三代記』には、あとで信長が長政の事を親子のように思っている、という描写も出てきます。

(今回の話の残り部分は都合により公開いたしません<(_ _)>)

新着記事

「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事

  京都市は言わずと知れた日本有数の観光地ですが、その中でも特に観光客が多い観光地は、 京都府ホームページ によれば、2021年・2022年ともに、 ①清水寺、②嵐山、③金閣寺…となっています。 そしてそれに次ぐのが、今回扱う「二条城」なのですね(2021年6位、2022年4位)...

人気の記事