あっという間に近江(滋賀県)を(ほぼ)平定し、観音寺城に入城した織田信長は、いよいよ京都に向けて進むことになります…!🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇勝竜寺城の戦い~山城平定戦
今回は、信長が上洛を果たし、山城を平定するまでを見ていこうと思うのですが、その様子を、日ごとに追ってみたいと思います。
しかし問題があり、何が問題なのかというと、諸書によって、進軍の日取りが異なっているのですね(;'∀')
例えば信長が琵琶湖を渡ったのは、『足利義昭入洛記』では24日なのに、『信長公記』は2日遅れの26日、勝竜寺城で戦ったのは『言継卿記』『足利義昭入洛記』『細川両家記』では26日なのに、『信長公記』では2日遅れの28日になっています。
一番信ぴょう性が高いのは京都にいた山科言継が書いていた日記、『言継卿記』で、それに次ぐのは上洛直後に書かれた『足利義昭入洛記』でしょう。
この2つを正しいと考えると、『信長公記』の日程は凄まじいまでに間違っていることがわかります(◎_◎;)心配になるレベルですね…(;'∀')
以前にも書きましたが、金子拓氏によれば、『信長公記』は「巻八(1575年)以後はきわめて正確」であるそうなので、言い換えるとそれ以前は信ぴょう性に乏しいということになります(-_-;)
しかし、先に述べたように、『信長公記』の記述は常に「2日遅れ」になっている、というのがポイントですね(◎_◎;)
つまり、『信長公記』の日にちを、2日前にずらせば、ほぼ正確になるのではないでしょうか(;'∀')
そこでこれから記す『信長公記』の日にちは、2日前にずらしていこうと思います💦
9月12日
・箕作城の戦い。
・六角父子、観音寺城から退去。
9月13日
・織田信長、観音寺城に入る。
9月14日
・織田信長は、以前約束した通りに足利義昭のもとに迎えの使者を派遣。
これについて、『信長公記』は、「公方様へ御堅約の御迎えとして、不破河内、14日に濃州西庄立正寺へ差し遣わされ」(足利義昭に堅く約束していた通りに、迎えとして不破光治を9月14日に美濃の立政寺に派遣した)…と記します。
『足利季世記』『信長記』『総見記』は、不破光治が立政寺に着いた日を「15日」と記しているので、派遣したのは14日で、着いたのは15日だった、という事なのでしょうね(゜-゜)
・正親町天皇、信長に宛てて、次の内容の綸旨を出す。
…上洛するという話は、私の耳にも届いている。それについて、京都で軍勢が乱妨(略奪行為)をすることが無いように命令をすべきである。また、御所を警固するための武士を送るように。
近江が瞬く間に平定されて、信長の上洛が一気に現実味を帯びると、京都は大騒動になったようで、『言継卿記』9月14日条には、
…京中は大騒動である、私は内侍所に物を避難させた。暮れに参内すると、報告が入り、尾張衆は明日の明け方には京に入ることが確実であるという。夜中の間もずっと京中は騒動になっている。なんとひどい有様であろうか。
…と、その模様が記されています(◎_◎;)
なぜ京の人々はパニックを起こしたのでしょうか。
それには2つの理由が考えられると思います。
『信長記』には、
…京の人々は、信長がこれまで多くの強敵を倒し、国を手に入れてきたことを伝え聞いていたので、鬼神よりも恐ろしく思っていた。その信長が京都に入ると聞いて、これはどんなつらい目に逢うのだろう、と恐れおののくこと限りがなかった。子どもたちが、外国から鬼が来て、人を小石のように軽々と投げ、人を餌として食べるという、などと言って鬼を恐れるよりも、京の人々は信長の事を恐れていた。ある者は丹波・若狭などの隣国に逃れ、ある者は淀川の舟に乗って遠くに向かい、ある者は、妻子・家財を遠くに遣り、自身は信長の上洛を祝うために京に残る、と言ったが、どうなるのだろうと、自分の身を案じていたという。
…という記述があり、また、京の人々は昔の源平合戦の頃、木曽義仲が上洛してきて京でかなり暴れたことを思い出してそれを心配した、とも書かれているのですが、
ここからは、京の人々が織田信長は野蛮な人物なのではないか、と考えていたことがわかります。
なぜ信長は野蛮な人物だと思われていたのでしょうか。
1つは、織田が急成長した新興の勢力であり、京都の人々にとって聞きなじみがなかった、ということが挙げられます。人は知らない、よくわからないと不安になります。
もう1つは、信長の戦術です。
『勢州軍記』には、信長は攻めると必ず放火した、これは敵を混乱させるためである、…という記述があります。
たしかに、これまでの信長の動きを見ていてもかなり頻繁に火を放っています(◎_◎;)
(例えば、六角氏と戦った際も、愛知川近辺に火を放っているし、一色[斎藤]氏の稲葉山城を攻撃する際も、城下町に火を放っています🔥)
『言継卿記』9月14日条には、近江はことごとく燃やされたという。…と(噂ですが)書かれており、やはりこの信長の戦術が京都の人々の不安感をあおったのだと考えられます。
そのため、天皇も心配になって、信長に京都の治安維持と、御所の警護を命じたのだと思います(-_-;)(のちに信長は返書を送っていますが、そこには、天皇から台と唐墨[中国で作られた墨]が贈られていたことが記されています)
同じ日に、大納言の万里小路惟房も、
…上洛するとのこと、めでたく思う。綸旨で、御所の警護を配下の者に堅く命令せよ。と書いてあったと思うが、それを実行すれば、喜ばしく思う、と御上(天皇)は仰せである。
…という書状を信長に送っています。念には念を入れて…だいぶ心配していたようですね…(-_-;)
9月15日
・不破光治、足利義昭と対面。
『足利季世記』は、不破光治と足利義昭の対面の様子を次のように記しています。
…公方様の御迎えのために派遣された不破光治は、15日に美濃の立政寺に着いてこのことを報告した。公方様はこれを聞いて、「信長が時間をかけずに近江一国を平定したことは、古今稀に見る武勇である」と言い、喜びの余り使者の光治に対して太刀(『信長記』は「国久の太刀」と詳しく記す)を与えた。
よほどうれしかったのでしょうね(;^_^A
9月19日
・義昭は立政寺を出発し、この日は近江・美濃国境の近江柏原成菩提院に泊まる(「21日、既に御馬を進められ、柏原上菩提院御着座」『信長公記』)。
9月20日
・義昭、桑実寺に入る(「22日、桑実寺へ御成。」『信長公記』)。
桑実寺は、観音寺山にある天台宗の寺で、観音寺城から目と鼻の先にある寺です(たったの400m)。
1532年には、12代将軍足利義晴が京都から逃れた際、桑実寺に仮幕府を置いたことがあります。
『足利季世記』『信長記』『総見記』は、この先に行った守山で23日に信長と義昭が対面した、と記していますが、おそらく対面したのはここでしょう(;^_^A
対面の様子を、『足利季世記』は次のように記します。
…23日に守山に着いた。信長はここで公方様と会い、公方様は「信長の武勇智略はまことに無双である」と親しく言葉をかけた。
(かけた言葉について、『信長記』は「信長が時間をかけずに大国を平定したことは前代未聞のことである。これを為すことができたのは、ただただ信長の武勇智略が傑出していたからである」、『総見記』は「信長の忠勤は古今未曾有のことである。信長は武勇智謀天下無双の良将である」と記し、少しずつ表現が異なる)
・『言継卿記』9月20日条。
…織田の上洛について、毎日京の中も外も騒いでいる。一両日中には京に入るらしいと聞いて、今朝も騒いでいた。織田が明日の朝には京に入るのは確実であると聞いて、明け方まで騒動が続いた。
9月21日
・『言継卿記』9月21日条。
…入京は延期になったという。24日には必ず来るという。
9月22日
・信長、守山に着く(「24日、信長守山まで御働き」『信長公記』)。
・織田軍の先陣が勢田を越える(『足利義昭入洛記』)。
・朝廷、山科郷・上賀茂郷・下賀茂郷の民に御所警固を命令(『御湯殿上日記』)。
自衛に余念がありません(;^_^A
9月23日
・信長、志那の渡しから琵琶湖を渡ろうとするが、舟の都合がつかず、停滞を余儀なくされる(「翌日、志那・勢田の舟差し合い、御逗留」『信長公記』)。
・織田軍の先鋒、山科に布陣。
『言継卿記』には、
…織田弾正忠は三井寺に入ったという。先鋒は山科に布陣したという。
…とあり、『多聞院日記』には、「今日 京辺土へ、細川兵部大輔・甲賀和多伊賀守大将にて、江州裏帰衆召具、1万余にて上洛了」(細川藤孝・和田惟政が大将となって、近江で信長に味方となった者たちを中心に、1万余りの兵を引き連れて上洛した)とあります。
おそらく、『言継卿記』に信長が三井寺に入ったというのは誤り、『多聞院日記』に先鋒が上洛した、とあるのは誤りでしょう。
・中山孝親(前大納言)・山科言継・勧修寺晴右(中納言)・源中納言・五辻為仲、加茂衆とともに御所警備の担当を命じられる(『言継卿記』)。
・足利義昭の側近である飯尾貞遙・諏訪晴長、加茂郡の地侍に対し、上洛の際に忠節を尽くすことを求める書状を送る。
9月24日
・信長、琵琶湖を渡り、三井寺極楽院に入る。織田の軍勢は大津・馬場・松本に展開する(「26日、御渡海なされ、三井寺極楽院に御陣懸けられ、諸勢、大津・馬場・松本陣取り。」『信長公記』)。
『足利義昭入洛記』には、24日に信長が勢田を越えた、とあります(琵琶湖を綿っとは書いていない)。
そして、上洛軍の兵士は大津・松本・馬場・粟津・志賀・坂本に充満していた、と記しています。こちらの方がより詳細ですね(;^_^A
織田軍が志賀・坂本にも展開しているのを見ると、織田軍は琵琶湖を渡った部隊と、瀬田を渡る部隊に分かれて進軍していたことがわかりますね(゜-゜)
9月25日
・義昭、琵琶湖を渡り、三井寺光浄院に着く(「27日、公方様御渡海候て、同三井寺光浄院御陣宿」『信長公記』)。
『足利義昭入洛記』にも、公方様(足利義昭)は25日に三井寺光浄院に移った、とあります。
『多聞院日記』には、上意(足利義昭)は大津に着き、上総(織田信長)は清水寺に着いた。京都の辺りは騒然としている…とあります。
三井寺は大津にありますから、これは正しいのですが、京都に入る前なので、織田信長が清水寺に入った、というのは誤りでしょう(;^_^A
・『言継卿記』9月25日条。
…尾張の足軽2・3人が近くまで来て、禁裏御所周辺は厳しく取り締まるように命令されたと話したという。
織田軍は京都に入る前に、足軽数人を御所に派遣して、御所の警備にあたらせていたようですね(゜-゜)
9月26日
・織田信長・足利義昭、京に接近する(「28日、信長、東福寺へ御陣移され…公方様同日に清水御動座。」『信長公記』)。
『言継卿記』には、次のように書かれています。
…北白川から兵が入京し、細川兵部大輔(藤孝)と明院(良政。信長の右筆[書記官])などが御所の北門(朔平門のこと)まで来た。武家(足利義昭)は清水寺に入り、織田弾正忠信長は東寺まで進んだという。
入京したのは一部の兵だけで、義昭と信長は京都に入ってはいません。清水寺も東福寺・東寺も、今は京都内ですが、当時の京都である上京・下京には含まれていませんでした。上京・下京は、だいたい今の上京区・中京区・下京区の、さらに一部で、北は相国寺、南は平等寺(因幡堂)までの、3.5㎞ほどの範囲の事を指していました。
入京した細川藤孝と明印良政について、『御湯殿上日記』には「三淵兵部大輔(細川藤孝。藤孝は三淵晴員の次男で細川家の養子に入っていた)・明院参られて、織田上総仰せつけられ、御警固かたく申しつけられそうろう」とあり、内裏の警固のためにやって来ていたことがわかります(゜-゜)
・織田軍、勝竜寺城を攻撃する。
『越州軍記』に、三好三人衆は、川際で合戦すると言っていたのに、どうしたことか、戦うことなく、摂津・和泉国へと退いた。このため、信長は障害なく京都に入ることができた。…と書かれていますが、
実際、石成友通は六角支援のために9月10日、近江の坂本に進んでいましたが、翌日には京都へ引き返していますし(『言継卿記』)、松永久秀に備えるために9月13日に三好宗渭・香西元成が木津平城に入っていましたが、3日後の16日の晩には西京へ引き返しています(『多聞院日記』)。
『総見記』には、三好三人衆方が後退した理由について、次のように書いています。
…三好三人衆は、阿波の御所(足利義栄)に、「信長は琵琶湖を渡ってくるので、上陸地点でこれを襲いましょう」と言い、合戦の準備をしていたが、近江の18城が1・2日の内に陥落したことで、信長の威勢には天魔鬼神であってもかなわないであろう、という噂がしきりであったことと、阿波の御所も腫物を患っていて苦しそうにしていたこともあり、三好三人衆・三好康長・篠原長房たちは湖の際で防ぎ戦おうとしなかった。三人衆たちは、はやばやと京都にある屋敷から立ち去って、摂津のあたりに退いた。
やはり近江が驚くほど短期間で平定されたのが効いていたのでしょうか(◎_◎;)
三好三人衆方が戦うことなく後退していったために、信長は支障なく京都に入ることができました。
その中で、山城国(京都府南部)において唯一の戦いが起こります。
三好三人衆方の有力武将の1人、石成友通が勝竜寺城に籠もっていたので、これと戦うことになったわけです。
なぜ他の者たちと同じように摂津方面に逃げなかったのかというと、勝竜寺城が石成友通の居城であり、勝竜寺城周辺が石成友通の領地であったからですね。
『信長公記』には、戦いの様子が次のように書かれています。
「柴田日向守・蜂屋兵庫頭・森三左衛門・坂井右近、この4人に先陣を仰せ付けられ、則、桂川打ち越し、御敵城岩成主税頭楯籠もる正立寺表手遣。御敵も足軽を出し侯。右4人の衆見合せ、馬を乗り込み、頸50余討ち捕り、東福寺にて信長へ御目に懸けらる。…29日、青竜寺表へ御馬を寄せられ、寺戸舜照御陣取。これに依って岩成主税頭降参仕る」
(柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚に先陣を命じた。この4人はすぐに桂川を渡り、石成友通が籠もる勝竜寺城に攻め寄せた。勝竜寺方は足軽を出してきたが、織田の四将は馬を駆け入れ、50余りを討ち取り、首を東福寺にいる信長にいる信長のもとに送った。…29日、勝竜寺付近に進み、寂照院に陣を構えた。これを知って、石成友通も降参した)
諸書にはどう書いてあるかも見てみましょう。
『足利義昭入洛記』…先陣は淀・鳥羽・竹田・伏見・塔森に至った。敵方の勝竜寺の城には、細川玄蕃頭と石成友通が籠もっていたが、先鋒が桂川を渡った際に、勝竜寺から5・600の足軽を出してきた。味方は1000ほどであったが、縦横無尽に敵陣を馬で駆け入り、名有の武士を50人ほど討ち取った。勝鬨を挙げて、勝竜寺城に攻め寄せたところ、降参すると言ってきたので、このことを信長に布告すると、それでよい、と返答があった。こうして山城国は平定された。
『細川両家記』…三好三人衆方の石成友通は山城国西岡の勝竜寺城に籠もっていたが、26日、織田軍の猛攻を受けて降参し、石成友通は城から落ち延びていった。
『足利季世記』…28日、信長は東福寺に着いて、石成友通が立て籠もる西岡の勝竜寺城の攻撃を命じた。柴田勝家と石成友通は晩まで合戦し、石成友通は敗北して50余人を討ち取られ、勝つ望みがないと思ったのか、降参を申し出て来た。石成友通は命は助けられ、城は明け渡された。石成友通は信長の配下に加わった。
『信長記』…28日、柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚の軍勢1万が、石成友通の籠もる勝竜寺城の近くに攻め寄せ、城下のものをことごとく焼き払ったところ、城内から足軽が出て来たので、織田軍の血気に逸る者たちは大声で叫びながら馬を駆け入れ、四方八方に追い散らし、すぐに53の首を取り、東福寺にいる信長に送った。29日、信長は勝竜寺城を攻撃するために寺戸寂照院に本陣を置いた。雲霞のような大軍を前にして、さすがの剛の者である石成友通も観念して、謝罪して降参し、信長軍の先鋒となる事を申し出た。
『総見記』…28日、信長は東福寺にいながら、柴田勝家・森可成・坂井政尚・蜂屋頼隆たちに1万の兵を与えて石成友通が籠もる西岡勝竜寺の城を攻めさせた。柴田たちは日が暮れるまで戦い、遂に敵の首を50余り取って、東福寺に戻って信長に見せた。翌日、信長は自ら出陣し、5万余りの兵を率いて勝竜寺城を包囲した。停戦を呼び掛けたところ、石成友通は昨日の戦いに負け、そして今、大軍を見て恐れをなし、開城して降参した。
違いを確認すると、
①戦いは1日間か2日間か。
『足利義昭入洛記』『細川両家記』『足利季世記』…1日間。『足利季世記』は晩まで戦った、とする。
『信長公記』『信長記』『総見記』…2日間。2日目に信長が大軍を率いて来たところ降参した、とする。
②勝竜寺城に籠もっていたのは誰か
『足利義昭入洛記』のみ、石成友通に加えて、細川玄蕃頭という人物についても記している。
③勝竜寺城に攻めこんだのは誰か
『足利季世記』は柴田勝家のみを記すが、『信長公記』『信長記』『総見記』は、柴田勝家・蜂屋頼隆・森可成・坂井政尚の4名とする。
④降参後の石成友通
『細川両家記』のみ城から落ち延びたと記し、『足利季世記』『信長記』は織田軍の配下に加わったと記す。
…ということになります。
『言継卿記』『多聞院日記』にはどのように書かれているのか、見てみましょう。
『言継卿記』…(26日)早朝から尾張衆は行動を始め、山科から南方に向かった。…久我において合戦があったという。双方に多くの死者が出ているという。石成友通は勝竜寺の城に籠もって合戦をしているという。(27日)勝竜寺城は固く守っているが、和睦したという噂もある。
『多聞院日記』…(27日)京都西岡勝竜寺に石成友通を大将として500人余りが立てこもっていたが、ことごとく討ち死にしたという。本当かどうかはわからないが、おそらく嘘ではないか。
これを見ると、2日間戦っているようにも思えますね(;^_^A
晩まで戦っていたので、伝わらなかったのかもしれませんが…。晩に降参し、次の日に城を受け取ったのかもしれませんね。
石成友通のその後ですが、翌年には信長と戦っているので、落ち延びた、という可能性の方が高いといえるでしょう(゜-゜)
(※今回の話の解説の続きは都合により公開いたしません m(__)m)
#勝竜寺城の戦い #勝竜寺城
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