社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 11月 2022

2022年11月27日日曜日

「ホトトギスの初音が聞きたかった男」源実朝

 今回の「鎌倉殿の13人」も面白かったですね💦

源実朝、死ななければどうなっていたんだろう…。

北条義時は、北条ではなく、関東を第一には考えていると思うのですが、

やり方が黒すぎますね…。

もっとハッピーなやり方もあったのではないのだろうか…。うーん…。

今回は、源実朝に関するエピソードをマンガにしてみました!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇右大臣実朝

源実朝(1192~1219年)は源頼朝と北条政子の間に生まれた2番目の男子で、

1203年に征夷大将軍となった。

承元2年(1208年)2月、疱瘡にかかり、顔に痘痕(あばた)の跡が残った。

今回の話は建暦元年(1211年)4月29日のエピソードで、

永福寺にホトトギスの初音を聞きに行ったが失敗に終わったというものです💦

永福寺は源頼朝が奥州合戦の後、奥州藤原氏の怨霊を鎮めるために、

建久3年(1192年)11月25日(実朝が生まれた2か月後)に作ったもので、

応永12年(1405年)、火災により焼失しています。

ホトトギスの初音が聞けるのは5月ごろだそうです。

(ホトトギスは渡り鳥であり、5月ごろに日本にやってくるため)

建暦元年(1211年)4月29日は、西暦でいうと1211年6月11日にあたるのですが、

そうなると相当遅いですね(;^_^A(鎌倉時代は寒冷期であったことが影響??夏の始まりが遅れていたため?)

ちなみにホトトギスの鳴き声は「キョッ、キョ、キョキョキョ」だそうな。

知らんかった…。

というか、「ホー、ホケキョ」だと思ってましたよ(恥)😫

それはウグイスですね…(ノД`)・゜・。

ちなみに、ホトトギスの鳴き方を、「テッペンカケタカ」と当てることもあるようです。

漢字にすると「天辺翔けたか」…になるでしょうか(゜-゜)

次に源実朝と共に永福寺に向かったメンバーの紹介をします😆

藤原範高…なんとあの熱田神宮の大宮司。

調べているとイロイロと面白い事実が分かったので、後日マンガにしようと思います💦

内藤知親藤原定家の弟子。源実朝の側近となる。

元久2年(1205年)9月2日、内藤知親が筆写した『新古今和歌集』が源実朝に献上された。

承元3年(1209年)8月13日には、京都から戻ってきて、藤原定家の添削を受けた源実朝の和歌を実朝に渡している。

二階堂行村(1155~1238年)…「鎌倉殿の13人」の1人である二階堂行政の子。実朝暗殺後に出家。1225年、評定衆のメンバーとなった。

(とう)重胤(1155~1228年)…千葉常胤の孫。父の胤頼は千葉常胤に、源頼朝に味方することと、下総の目代を殺害することを進言した人物。

東重胤は源実朝のかなりのお気に入り(『吾妻鏡』には「無双の近仕」とある)であったが、

建永元年(1206年)になぜか下総国に帰国して数か月も鎌倉に戻ってこず、

実朝は和歌(こむとしも たのめぬうはの 空にたに 秋かせふけば 雁はきにけり」…あなたが帰ってこないと心が落ち着かない。早く帰ってきてほしい。「いま来むと たのめし人は 見えなくに 秋かせ寒み 雁はきにけり」…あなたが帰ってくるのを今か今かと待っているのに、あなたは帰ってこない。)を送って鎌倉に戻ることを促したが、

それでも戻ってこなかったので激怒されて謹慎となった。

12月23日、北条義時のアドバイスを受けて和歌を詠み、

その和歌を義時が実朝に伝えたところ、実朝の怒りは解けた。

重胤は喜んで、北条義時に「代々北条氏に従います」と述べたという。

三善(町野)康俊(1167~1238年)…「鎌倉殿の13人」の1人である三善康信の子。父の跡を継いで問注所執事となった。1225年には評定衆のメンバーにもなった。

2022年11月25日金曜日

旧国名が市町村名!~石川県編~

 市町村合併などを機に、新市町村名に旧国名をつけるパターンが

ほぼ全国的に見られます。

前回は福井県編をやりましたが、

今回は、北部の能登国・南部の加賀国が合体してできた石川県編です!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇能登町

2005年、能都町(※1)・柳田村・内浦町(※2)が合併して誕生。

能「登」町になる際には、能登「まち」ではなく、能登「ちょう」が採用された。

理由は、「まち」だと「発音が能都町(まち)とほぼ変わらない」、と他の合併町村が反発したため。

※1 能「都」町は、宇出津町・三波村・神野村の一部・小木町が

   一九五五年に合併して成立した町で、

   町名には「能登の都」へという願望がこめられていた。

※2 内浦町は、1958年に改称するまでは「松波町」であった。

   1474年に築城された松波城があったところで、

   松波城は畠山氏が奥能登一帯を統治する拠点となったところ。

   由緒正しい地名なのに、残念ながら「松波」の町名は消えてしまった。 

中能登町

2005年、鳥屋町・鹿島町(※1)・鹿西町(※2)が合併して成立。

「中能登」は、

①能登半島のほぼ中央に位置する

②「能登」という地名の由来となった古墳時代の豪族、能登臣馬身龍が拠点を置いていた

ことに由来している。

※1 現在の七尾市・中能登町地域は昔まとめて鹿島郡といった。現在は中能登町地域のみが鹿島郡(郡は町村をひとくくりにしたもので、大正期までは郡役所があった。今は有名無実。地域的な連帯感はある。市になると郡から外れる)。

※2 弥生時代の遺跡「杉谷チャノバタケ遺跡」から「日本最古のおにぎり」の化石が発掘されている。

加賀市

マンガでも触れたが市名が新しくなる際にいろいろと問題があった市。

旧加賀市は1958年にできたが、この際には、

「山代温泉」が有名な山代町・「片山津温泉」が有名な片山津町、

そして鎌倉時代に作られ、南北朝時や戦国時代に朝倉氏・加賀一向一揆・上杉氏・織田氏などにより、

長く攻防の舞台となった大聖寺城(城自体は1615年に廃城となり、その後大聖寺班藩ができた時は藩庁となる陣屋が置かれた)のあった、

大聖寺町が消えてしまった( ;∀;)

そして、「知名度があり、市の将来の発展が期待できる」として、

「加賀市」を新市名にしてしまった!💦

福井の「越前市」はわかります。越前の国府があったところだから。

加賀の国府があったところは特定できていませんが、小松市にあったと言われています(金沢市の北部・内灘町・津幡町・かほく市が属していた加賀郡にあったともされる)。

ここで暗雲がたちこみますが(;^_^A

さらに、加賀郡でもないという始末(加賀市は江沼郡)。

「加賀市」を名乗る正当性があるのは、

①小松市or加賀郡の市町村②能美市(小松市と同じ能美郡にある)③残る加賀国であった白山市・加賀市

…の順でしょう。3番目になる加賀市が「加賀市」を先に独り占めするのはとても違和感があります(-_-;)

加賀市は川北町・能美市・小松市とともに加南(南加賀)地方と呼ばれるので、

「加南市」や「南加賀市」なら、まだわかるのですが…😓

そしてさらに、

2005年に山中町と合併して(「加賀市合併要覧」には、「1958 年の旧加賀市が合併する際、山中町も含めた合併の協議が行われたが、山中町では地元の激しい反対運動があり、ついには総理大臣勧告を受け入れず山中町は単独町政をとった。」とある。独立維持派の山中町が折れたのは、財政が厳しくなってきたため[財政力指数【1を超えると地方交付税交付金不交付団体となり、平均は0.51】は加賀市が0.63、山中町は0.39であった]) 、

改めて「加賀市」と名乗りますが、

この際は、

・「山中温泉」が有名な山中町が消えてしまった、

・合併の際、「対等」としながらも、新市名は公募せずに「加賀市」に決定となり、市役所も旧加賀市役所に決定した

…という問題がありました💦

自分としては、いろいろな歴史的地名が消える「加賀市」とするよりは、

この地域一帯を治めていた大聖寺藩(7万石)というおあつらえ向きの存在があったのだから(市役所も旧大聖寺町にある)、

「大聖寺市」とすべきではなかったかな、と思います…(-_-;)

他の町が反対するのかな。

であれば、先ほど言ったように「加南市」か「南加賀市」にするべきだったと思います(;^_^A アセアセ・・・

2022年11月24日木曜日

福井で起きた米騒動④~乱打された善福寺の鐘

 1918年8月13日、福井市での米騒動をもくろむ若者たちが、

福井商業会議所により7月14日から、九十九橋~幸橋まで納涼電灯が点灯され、

芝居小屋や夜店が出て毎夜納涼客でにぎわっていた九十九河原(『大阪朝日新聞』大7・7・16)に乗りこみ、

納涼客を仲間に引きこんでいざ米騒動!と考えていたのですが、

にぎやかすぎて誰も演説を聞いてくれない始末…(;^_^A

そこで米騒動をもくろむ若者たちが考えた作戦は近くの寺の鐘を打ちまくって、

人々の気持ちをこちらに向けさせるというものでした!💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇善福寺の鐘を乱打

当時の資料(『福井市米騒動予審終結決定書』)には、次のようにあります。

「13日午后8時頃被告等38名は、前記九十九磧(かわら)に参集したる既に多数の市民集り居りたるより被告岩崎与三郎は数百名の群衆に対し近時米価暴騰するは一に我が福井県知事の施政其当を得ざる為なれば今より諸君と共に基調節を知事に強要するの必要ありと呼号したるに偶々群衆中より10数名の壮漢疾駆して其附近なる同市足羽上町善福寺(足羽学校附近)に到り梵鐘を乱打したる」

現代語訳してみると、

岩崎与三郎が「最近米価が暴騰しているのは福井県知事の政治がよくないからだ、今からみんなで知事に米価の調節を強要しに行こう」、と呼び掛けたところ、群衆中の10数名が福井市足羽上町善福寺の鐘を乱打した。

…ということになるでしょう。

この予審終結決定書では、岩崎与三郎が演説をしたところ、群衆中から10数人が鐘を突きに飛び出していったことになっていますが、

本人たちへのインタビューによれば、

鐘を突く前に演説をしたのは宮本政次郎であり、

飛び出していったのは6名(岩崎与三郎は6名と言い、宮崎房吉は5・6名と言っている)でした。

また、群衆中から飛び出したのではなく、首謀者のメンバーの中の6名です。

6名全員の名前はわかりませんが、わかっているのは、

岩崎与三郎の弟と、高木豊(印刷職:21歳)・水野清治(鍛冶職:21歳)がその中にいた、ということです。

また、岩崎与三郎の証言によれば、

「それで6人が鐘つきに行った。そして、弟と高木が交渉に行って、

「鐘を1つつかしてくれ」と、そしたところが、

「何じゃな!誰が鳴らすんにゃ」と言ったから、

「今晩、米騒動をやるんや、ほでとにかく叩かしてくれ」、

ほしたらお寺さんの曰くには、

「うらが、おけえ!と呼ばったらおいてくれ」と、

「そうじゃないと近所に悪いさけ」とくたくたになっちゃったんやね。

そいで、弟と高木が鐘の下にいて張り番をしたんやね、誰もこんか。

ほいで四ったり(西岡多四郎のことか?)がジャーン、ジャンと早鐘を打ったんや。

ほしたらして、

「お前らなんじゃー!鐘打つの!」とお寺さん出て来たところが、

張り番していた高木と弟がなぐってもたんや、かん立ってるやさけ。」

一部始終は以上のようだったそうです。

でも途中、鐘の下で弟と高木が見張り番をしていたのはなぜなのか、

しぶしぶ鐘を突くのを認めていたお寺さんが「お前らなんで鐘打っとんじゃ!」的にやってくるのがナゾです(◎_◎;)

見張り番は警察に対するものだったのかもしれませんし、

お寺さんには「お前らなんじゃー!なんで(そんなに)鐘打つの!(1つ[少し]じゃなかったんか!)」という言葉が省略されていたのかもしれません。

このナゾを解く一つの手がかりとなる証言があります。

宮崎房吉が鐘乱打事件の補完となるような証言をしているのです。

「そのとき撞木(しゅもく)の縄がはぐいてあったんかね、

それをなんかあこの家へ入って、

米のはずし縄をとって来て、

あの撞木にくくって30も50も打った。

ほいでガンガンてやったもんや」

どうやら鐘を突こうとしたはいいものの、

撞木を前後に動かすための縄が取り外されていたので(そういうお寺は多い)、

近くの家から縄をとってきたのをくくりつけて鐘を打ったようです。

貼り番をしていた弟と高木は、もしかすると、お寺さんが縄を持ってくるのを待っていたのかもしれません。

しかし、いつまでたっても誰も来ない。

そこでしびれを切らして、近くの家に侵入して縄を手に入れて、それで鐘を打った。

縄がないから自分が縄をもっていくまでは鐘は打てないだろう、

と思っていたお寺さんは、鐘が鳴りだしたから、

「なんでお前ら勝手に鐘を打ってるんや!」と驚いたのだと思います。

たぶんに怒りもあったでしょう。

しかし、お寺さんは血気盛んな若者によって第一の犠牲者(死んでませんが、たぶん気絶?させられたのかと💦)となってしまいます。

鐘が乱打され、納涼を楽しんでいた人々は騒然となります。

いよいよ賽(さい)は投げられたのです…!(◎_◎;)

2022年11月23日水曜日

「歴史」信長公記マンガ 「丸根・鷲津砦の陥落~桶狭間の戦い④」の2ページ目を更新!

 「歴史」の「戦国・安土桃山時代」にある、

信長公記マンガ丸根・鷲津砦の陥落~桶狭間の戦い④

2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2022年11月21日月曜日

後悔臍(ほぞ)を噛(か)む~太宰治『鉄面皮』

 新潮文庫『ろまん燈籠』(太宰治)を読んでいると、

その中の『鉄面皮』の中の一節が目にとまりました。

あぁ、自分の事だ…そっくり自分の事だ…と思いました(-_-;)

その部分を今回はマンガで紹介したいと思います💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇太宰治『鉄面皮』

『鉄面皮』は昭和18年(1943年)4月に発表されたもので、

太宰治(1909~1948年)が34歳の時の作品にあたります。

「鉄面皮」とは恥知らずで厚かましい様子…厚顔無恥な人のことをさします。

が、太宰治は「鉄面皮」とはほど遠い性格をしています。

「この頃私は、誰にでも底知れぬほど軽蔑されて至当だと思っている。芸術家というものは、それくらいで結構なんだ。人間としての偉さなんて、私には微塵(みじん)もない。偉い人間は、咄嗟(とっさ)にきっぱりと意志表示ができて、決して負けず、しくじらぬものらしい。私はいつでも口ごもり、ひどく誤解されて、たいてい負けて、そして深夜ひとり寝床の中で、ああ、あの時にはこう言いかえしてやればよかった、しまった、あの時、颯(さ)っと帰ってこればよかった、しまった、と後悔ほぞを噛(か)む[※1]の思いに眠れず輾(てんてん)[※2]している有様なのだから、偉いどころか、最劣敗者とでもいうようなところだ。」

※1 後悔ほぞを噛む…自分の臍(へそ)を噛もうとしても届かないように、どうにもならないことを悔やむこと。

「春秋左氏伝」の「荘公六年」の「鄧国ヲ亡ボス者ハ、必ズ此ノ人ナラン。若シ早ク図ズンバ、後ニ君、斉(ほぞ)ヲ噬(か)マン。其レ之ヲ図ルニ及バンカ。之ヲ図ラントセバ、此レヲ時ト為ス、ト。」(鄧国を滅ぼすのは文王です。今のうちに手を打たねば、後でへそを噛むことになりますぞ(どうにもならなくなりますぞ)。手を打つなら、今この時です)に由来する故事成語。

※2 輾…正しくは輾転。寝返りをうつ、という意味。

この文章、とても共感します。

自分は誰かに何かを聞かれて、(自信のある社会のこと以外で)うまく答えられた記憶がほどんどありません。

いつもあとで、「ああ言えばよかったのに」と思います。

うまく答えられないので、「あの人は頭が悪い」「にぶい」と思われているんだろうな…と思います。

なんだかバカにされてるようなものの言い方をされるときもあります。

理不尽なことを言われた時も、

うまく言い返すことができず、ストレスがたまります。

何年たっても、思い出すのです。

そのたびに、「あの時ああすれば」と思います。

後悔臍を噛む、なんですが。

2022年11月18日金曜日

でっかいアラスカ州のビックリ!な事実

 「北海道はでっかいどう!」と言いますが、

アメリカ合衆国アラスカ州は、その北海道約18倍の面積(!)があります💦

しかしそのアラスカ州には驚きの事実があったのでした…!(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇「巨大な冷蔵庫」

アラスカ州は面積が大きいのに、人口は北海道の7分の1程度しかありません。

なぜかというと、次の言葉でよくわかります・・・、「巨大な冷蔵庫」

この言葉は、1867年、アメリカの国務長官だったウィリアム・スワード(1801~1872年)

当時ロシア領だったアラスカを720万ドル(当時の1ドルは現在の2万円ほどの価値があったので、今でいうと1440億円ほど)で買った時に、

アメリカの人々が「巨大な冷蔵庫を買った男」とからかったことから来ています。

アラスカは北極圏にあり非常に寒いため人が暮らすのに不向きな土地であり、

アラスカは他にも「ホッキョクグマ庭園」などとも揶揄されていました(;^_^A

(※ウィリアム・スワードは1865年、リンカーン暗殺と同じ時間帯に屋敷に侵入したてきた別の暗殺犯に襲われ、スワードと家族など合計7人がケガを負った。スワードは顔や首を刺されたが命はとりとめた。妻と娘は1年以内に亡くなっている)

しかしその後アラスカで金が発見されてゴールドラッシュが起こったり、

石油や天然ガスが眠っていたりすることもわかると、

人々は手のひら返しをします。

(※1968年にブルドーベイ油田が発見された。1980年には早くも産出量が減少し始めたが、それでも現在でも石油の産出量はアメリカの1割にも及ぶ)

アラスカ州の主要産業はエネルギー産業で、平均世帯年収は829万円で、これはなんとアメリカ合衆国50州の中で6位にあたります(!)。

しかし近年、天然資源の生産量は減少傾向にあり、国立公園や自然保護区の開発を訴える人たちが出てきているそうな(◎_◎;)

環境をとるか、生活をとるか…難しい問題ですね💦

2022年11月16日水曜日

世界の人口が80億人を突破!!(◎_◎;)

(2022年)11月15日、国連は世界の人口が80億人を突破したと発表しました(推計)(◎_◎;)

RADWIMPSは、「ジェニファー山田さん」(2006年リリース)という曲の中で

「60億個のほんのちょっとの愛と平和の…」と歌い、

また、「最後の晩餐」という曲でも

「60億個の当たり前の中で…」(2013年リリース)と歌っていましたが、

これは世界の人口が60億人であることを指しているものだったので、

世界の人口の増加っぷりはスゴイものがあります💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇歌詞は正しいのか?

気になったことがあります。

RADWIMPSは、2006年に出した歌でも、2013年に出した歌でも、

世界人口は「60億」と変わっていないのです(!)Σ(・□・;)

実際は、2006年の世界人口は66億、2013年の世界人口は71~72億ですから、

どちらもずれており、最後の晩餐なんて、10億人以上のズレがあったことがわかります💦

テストで、選択問題があったときに、生徒が、あ、あの歌で60億って言ってた…60億だ!って答えてたら大問題です(;'∀')

どちらも「70億」にしてたらズレは小さくて済んだんですが…。

では、マンガに出てきた他の曲はどうでしょうか??(゜-゜)

              (実際)

伊倉一恵 1992年 50億 → 55億

九州男 2008年 60億 → 68億

amazarashi 2011年 68億 → 70億

平井大 2020年 75億 → 78億

うーん、けっこうズレてますね(;^_^A アセアセ・・・

いちばんズレが小さいのはamazarashiでしょうか。

一番詐欺ってるのは最後の晩餐です(-_-;)(好きな歌なんですが…💦)

※ちなみにブルゾンちえみは「35億」と言っていましたが、

このネタは2017年1月1日のおもしろ荘でやってブレイクしたので、

少し前の2015年の人口で見ると、男性は37億人います(;^_^A ありゃりゃ…)

〇1960年の世界人口ランキング

1位 中国 6億6707万

2位 インド 4億5055万

3位 アメリカ 1億8067万

4位 ロシア 1億1989万

5位 日本 9250万

6位 インドネシア 8775万

7位 ドイツ 7281万

8位 ブラジル 7218万

9位 イギリス 5240万

10位 イタリア 5020万

ヨーロッパ勢はロシアを除いてTOP10から去ってしまっていますが、

そのなかで健闘しているのがイギリスです。

なんと1961~2021年で、増加のピークだったのは2015年!!(◎_◎;)

1970年代はマイナスにまで落ち込んでいたのですが、V字回復を果たしました。

これはおそらく、移民を積極的に受け入れるようになったためだと考えられます。

1990年までに受け入れた移民は365万人もおり、2020年にはそれが936万まで拡大しました。

イギリスの人口に占める移民の割合は、2020年で13.8%にまで達しています(日本は2.2%)。

フランスも順調に人口が増加している国で、同じく移民を積極的に受け入れている国です。

1990年は590万人だったのが、2020年には852万になっています。

30年で福井県3個分もの移民を受け入れたことになります💦

フランスの人口に占める移民の割合は13.1%に達しています。

イギリスもフランスも、世界陸上に出る選手、アフリカ系の方ばかりですもんね…。

〇2050年の世界人口ランキングはこうなる!?

1位 インド 16億6800万

2位 中国 13億1700万

3位 アメリカ 3億7500万

4位 ナイジェリア 3億7470万

5位 パキスタン 3億3801万※

6位 インドネシア 3億3090万※

7位 ブラジル 2億2898万

8位 コンゴ民主共和国 2億1500万

9位 エチオピア 2億1310万

10位 バングラデシュ 1億9257万※

(※は2019年時の予測)

特に成長著しいのがナイジェリア・パキスタン・コンゴ民主共和国・エチオピアですね。

このうち3カ国がアフリカの国ですが、

2050年にはアフリカの人口は現在の13.4億人から24.9億人となり

世界人口の24%を占めるようになり、

2100年には42.8億人まで拡大し、

世界の人口の37%を占めるようになるといわれています。

2010~2020年の人口増加率は、

パキスタンが127、ナイジェリアが130でしたが、

コンゴ民主共和国は139、エチオピアは131とそれを上回ります。

アジアの人口は2050年頃をピークに頭打ちになると言われていますが、

アフリカはその後も伸び続けます。

今はアジアの時代と言われていますが、21世紀後半はアフリカの時代になるのかもしれませんね(◎_◎;)

2022年11月13日日曜日

「知勇兼「美」の女性」 板額御前(中編)+藤沢清親

 今回の「鎌倉殿の13人」も面白かったですね💦

もうあと5話なんですね。5話で終われるんでしょうか…。

承久の乱、3話くらいやってほしいんですが…(;^_^A

今回は、前回のマンガに引き続き、巴御前と並び称された、

「板額御前」のマンガの続編を書いてみました!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


藤沢四郎清親

信濃国伊那郡藤沢
諏訪大社の神官を務める諏訪氏の一族で、信濃国伊那郡藤沢を本拠地とする武士です。

1156年の保元の乱にも出陣していることから、建仁の乱時には60歳以上の高齢だったと考えられます(◎_◎;)

文治5年(1189年)の奥州合戦の際には、8月9日の阿津賀志山の戦い三浦義村・葛西清重など6人と共に先陣を飾り、工藤行光の助けを得て敵の首を取り、行光に感謝するあまり、その場で行光の息子を自分の婿にする約束を交わしたといいます。

弓矢の名手であったようで、幕府の弓矢始めの行事の射手として何度も『吾妻鏡』に登場しています。

(※諏訪氏は弓の名手が多く、例えば諏訪盛澄は藤原秀郷流弓術を継承する人物であった。平家方につき捕らえられたが、流鏑馬で暴れ馬を渡されながら、8つの的をすべて射抜き、さらにその的の櫛の部分も再びすべて射抜いたことから源頼朝に除名されたほどの弓の使い手であった)

また、文治三年(1187)8月20日、土佐国(高知県)から200張の弓が献じられ、その弓は分け与えられたが、弓を多くもらった射手7人のうちの一人であったと記され(他のメンバーは下河辺行平・和田義盛・佐野基綱・三浦義連・稲毛重成・榛谷重朝)、

建久4年(1193)3月21日には、「将軍源頼朝が狩を行うにあたって、乗馬・弓に巧みな22人を選んだ」中に藤沢清親も入っており(他のメンバーには北条義時や小山朝光・下河辺行平・三浦義連・和田義盛・榛谷重朝・佐々木盛綱・葛西清重・梶原景季・仁田忠常などがいた。そうそうたるメンバーである)、

そして3月25日に武蔵国入間野で行われた狩では、藤沢清親は百発百中の腕を見せ(百発百中之芸』とある)、雉を五羽、鶬(まなづる)を二十五羽も捕って名をあげ、感じ入った源頼朝から、頼朝が乗っていた一郎という馬を与えられています。

そしていよいよ今回のマンガの話。

建仁元年(1201年)5月には、信濃・越後・佐渡の武士が動員された鳥坂城の戦いに参加します🔥

『吾妻鏡』には、信濃國 住人 藤澤四郎清親、城の後山に廻り、高所自り之を能く見て矢を發す。其の矢、件の女の左右の股を射通す。即ち倒れる之處、清親の郎等が生虜る。」(信濃国の武士・藤沢清親が鳥坂城の背後の山の高所から放った矢は、板額御前の両股を射とおし、板額御前が倒れたところを清親の家来たちが生け捕りにした」とあり、

鳥坂城の戦いでも弓矢の名手ぶりを見せつけ、大功を挙げてています。

謎なのは、この戦いまでは藤沢「次郎」清親だったのに、この戦いでは藤沢「四郎」清親になっていることです(◎_◎;)

『吾妻鏡』の最後の登場は承久三年(1221)5月21日で、

「武州今夜門出し、藤澤左衛門尉淸親の稻瀬河の宅于宿す」北条泰時は京都に向けて出陣し、その日は鎌倉の稲瀬川にある藤沢清親の館に宿泊した)とあり、

北条氏からの信頼が厚かったことがわかります。

この時はもう80は超えていたはずで、この後まもなく亡くなったと考えられますが、

『藤沢村史』では、仁治元年(1240)ごろ死去したらしい、とあり、

これだと100歳近くまで長生きしたことになります(;^_^A アセアセ・・・

〇「敢(あえ)て對揚(たいよう)を耻(はじ)る不可之粧也(べからざるのよそおいなり)

捕らえられた後の板額御前について、『吾妻鏡』には次のように記されています。

藤澤次郎淸親 囚人資盛の姨母〔坂額女房と号す〕を相具し參上す。

(藤沢清親は捕虜とした、城資盛の母親の姉妹(板額女房と名乗る)を連れて鎌倉に参上した。)

其の疵未だ平減に及ばずと雖も相構へ扶け參ずと云々。

(股に受けた傷は治りきっていなかったが、よく注意して助けつつ連れてきた。)

左金吾其の體を覽る可し由仰せ被る。仍て淸親相具し御所へ參る。左金吾簾中自り之を覽る。

(左衛門督[唐名:左金吾]である源頼家[征夷大将軍となったのは1年後の1202年]が板額御前の姿を見てみたいと言ったので、清親は板額御前を連れて御所に参上した。源頼家は御簾の中から板額御前を見ることにした。)

御家人等群參し市を成す。重忠、朝政、義盛、能員、義村巳下 侍所 に候う。

(御家人たちが一目見ようと集まってきて人だかりができた。

畠山重忠・小山朝政和田義盛比企能員三浦義村などが侍所に控えた。)

其の座の中央を通り簾下于進み居る。此の間、聊かも諛いの氣無し。

(板額御前は両脇に御家人たちが並ぶ、その中央を進んで御簾の前に進んで座った。その間、まったく媚びへつらう[相手の機嫌を取るような]様子はなかった。

凡そ勇力之丈夫を比べると雖も、敢て對揚を耻る不可之粧也。

(世の中の力の強い男と比べても、恥ずかしくないような様子であった。)

但し、顏色に於ては殆んど陵薗の妾に配す可しと云々。」

(しかし、顔立ちは「陵薗の妾」[中国の皇帝が死んだ後に、その墓に閉じ込められる女性のことで、美女に限られていた]のように美人であった)

以前に別のマンガで紹介した城長茂のように、恐れる様子はなく、非常に堂々とした姿であったようです。

その後板額御前がどうなったか、それについても『吾妻鏡』は触れていますので、

次回はそれについて書きたいと思います!😆

2022年11月12日土曜日

チュルク(テュルク)諸国機構!?

 新聞を見ていたら、ビックリしました😲

2022年11月11日、トルコ系の国々5か国から成る

「チュルク諸国機構」の初の首脳会議があったとのこと。

いつのまにそんな地域連合が!?と驚きました(恥ずかしい…💦)。

今回はその「チュルク諸国機構」についてまとめてみました!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇チュルク(テュルク)諸国機構

チュルク諸国機構には前身があり、

それを「チュルク(テュルク)評議会」といいます。

チュルク(テュルク)諸語を公用語とする国により、2009年に結成された国際組織です。

このチュルク評議会はカザフスタンの元大統領ヌルスルタン・ナザルバエフ(1940~)が提案してできたものでしたが、

今回のチュルク諸国機構はトルコエルドアン大統領(1954~)が提案したものです。

エルドアン大統領は「世界規模の問題の解決に向け、主導的な役割を果たす」機構にしていきたい、と抱負を語っている。

機構の内容としては、「緊密な政治面の団結、経済協力を追求し、ビジネスや文化での交流を深める」こと、だそうです。

今回の首脳会議では、エルドアン大統領は

「機構の存在が国際社会の中で見えるようになることが重要だ」と語っていますが、

知名度が無いのが問題のようです(自分も知らなかったもんねぇ…(;^_^A)。

オブザーバー国とは、投票する権利は持たないが会議に参加できる国の事です。

今回の会議では、トルコの近くに、トルコだけが認めている北キプロス共和国がオブザーバー国として加わることも発表されました。

こういう経緯を見ると、チュルク諸国機構はトルコ主体の組織で、

トルコがロシアなどに対抗して存在感を示すために結成したのかな、と思えます。

これからどうなっていくか注目ですね😐

2022年11月10日木曜日

「軽く」と読めると批判された元号:「嘉禄」(1225~1228年)

 1225年5月28日から1228年1月18日にかけて、

日本で使用されていた元号(年号)が「嘉禄」です。

承久の乱がおきた「承久」の3つ後の元号になります。

その時の天皇は後堀河天皇(在位1221~1232年)で、

鎌倉幕府執権北条泰時(在職1224~1242年)でした。

北条泰時の叔母であり、「鎌倉殿の13人」にも出た北条政子は嘉禄と元号が変わって約3か月後の嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)に亡くなっています。

さて、「嘉禄」ですが、この「嘉禄」が元号と決定する際にはひと悶着ありました💦

今回はその様子をマンガにしてみました😆

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇「嘉禄」騒動

現在、改元がなされるタイミングは天皇が変わる時ですが、

明治以前はそれ以外の理由でも改元が頻繁に行われていました。

例えば承久の次は「貞応」(1222~1224年)ですが、これは前年の後堀河天皇即位によるものです。

「貞応」の次は「元仁」(1224~1225年)であり、これは「天変」…自然災害(今回の場合は旱[日照り])が起きたために、それを鎮めるための改元でした。

「元仁」の次が「嘉禄」になるわけですが、これは建前は「伝染病流行」のためとなっていますが、

実は鎌倉幕府の圧力があったようです(;^_^A

なぜかというと、「元仁」に改元する際に、幕府に事前連絡がなかったために、

幕府が朝廷に「不快」(『明月記』)の念を感じていたからです。

そのため、「元仁」はわずか5か月で変更されることになりました。

承久の乱後、幕府の権力が朝廷を上回ったことが明確となった事件でした。

朝廷の者たちは、朝廷が軽く見られている、と感じたでしょう。

だからこそ、なおさら「軽く」と読めてしまう「嘉禄」に反対したのだと思われます。

しかしこの「嘉禄」を擁護した人物がいます。

その人物とは、大納言の源(土御門)定通(1188~1247年)でした。

源定通は姉(源存子[1171~1257年])が後鳥羽天皇の妃となり、

後鳥羽天皇の次の天皇となる土御門天皇(1195?~1231年)を産んだため、

その縁で出世を重ねました。

しかしその土御門天皇(上皇)は、承久の乱の際に、承久の乱にかかわっていないのにもかかわらず、

父(後鳥羽上皇)が流罪となったのに自分に何もないのは忍びないと、

自ら幕府に願って流罪となってしまったため、

出世のルートから外れてしまいます。

しかし、源定通自身は承久の乱以前から幕府と親密にしていて協力的であったため、もちろん承久の乱で処罰を受けるようなことはありませんでした。

その源定通が「嘉禄」を擁護したのは、

おそらく幕府が「嘉禄」を推していたため、幕府の意向通りに「嘉禄」にすることで、

幕府を後ろ盾にして朝廷における影響力を維持したいと考えたからではないでしょうか。

藤原定家は『明月記』で、「誰がこの案を提出したのか」と怒りをあらわにしていましたが、

案を提出したのは菅原在高(1159~1232年)です。

在高が提案した「嘉禄」の由来は3世紀の中国で作られた「博物志」「陛下は先帝の光耀を摛顕(ちけん)し、もって皇天の嘉禄を奉ず」から来ています。

意味は、「皇帝陛下(成王)は、前の皇帝(周公旦)のすばらしさ(栄光)を広く伝えることで、上帝から喜ばれ、(成王が)幸いを受けられるようにした」、

ということになりますが、

当時は後堀河天皇の父である後高倉院が貞応2年(1223年)に亡くなっていたため、「博物志」のこの内容と状況は似通っていたわけです。

ですから、後堀河天皇としても、異存のない、心にかなった改元であったと思われます。

うがった見方をすると、執権北条泰時の父の北条義時も元仁元年(1224年)に亡くなっていましたから、その関係で幕府は「嘉禄」を推したのかもしれません💦

ちなみに、「嘉禄」以外の候補としては、

「仁治」「貞正」「治万」「久保」「文承」「恒久」「正応」「応久」「養万」「弘徳」「慶延」「応暦」がありました。

仁治(にんじ)はこの後、1240年に、正応(しょうおう)は1288年に、それぞれ元号として採用されています。


ドキュメント石油危機12 1973年10月19ー22日~石油消費国に向けて繰り出された新たなパンチ

 ドキュメント石油危機10で、サウジアラビアが、アメリカに対し、

これ以上イスラエルに軍事支援を続けるならば石油停止もあり得ると

警告したことを紹介しましたが、

アメリカは軍事支援を止めなかったため、

アラブの産油国はついに動くことになります💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇石油 リビアが対米禁輸 カタールは生産削減 イラクも値上げ

イスラエル及びその支援国に”石油の武器”を発動するアラブ産油国の動きは19日も続き、この日はリビアとカタールが生産削減や対米禁輸の措置をとった。またリビアとイラクは大幅な石油価格引き上げを発表した。

これらの措置はいずれも、主として米国にイスラエル支援をやめさせる目的でとられたものだが、実際には西欧や日本が大きな影響を受けそうであり、経済協力開発機構(OECD)は25日緊急石油委員会を開くことになった。

カタールはこの日、クウェートのアラブ石油輸出国機構(OAPC)(※1)会議決議に従い、石油生産量の10%削減を決め、直ちに実施すると発表した。この措置は前日のサウジアラビアの措置にならったものだが、政府声明は「米国その他イスラエル支援国に対する供給停止のための第一歩にすぎない」と、さらに厳しい措置がとられることを示唆している。

この後まもなく、リビアも年間生産量の5%削減を発表、同時に1日20万バレルに上る対米輸出の停止を明らかにした。対米禁輸は前日のアブダビ(※2)に続く動きである。リビアの石油は硫黄分が少ないため米国では重視されている。

しかし、リビアの措置で国際的に衝撃を与えたのは、公示価格をバレルあたり4.604ドルから8.925ドルに引き上げたことだ。公示価格は石油会社の利権料や税金の支払いの基礎となる価格である。

リビアの値上げはペルシャ湾岸諸国が16日バーレル当たり3ドル強に引き上げられたのに追随したものである。イラク政府もこの日、公示価格を2.97 7ドルから5.061ドルに引き上げた。

※1 OAPC…OAPECの誤りか。

※2 アブダビ…アラブ首長国連邦を形成する首長国の1つだが、アラブ首長国連邦の面積の80%を有し、首都もアブダビ内のアブダビ市にあり、影響力が強い。当時はアブダビがOPECに加盟しており、後にアラブ首長国連邦名義になった。

〇電力も早まる? 東電会長が微妙な発言

木川田一隆(※3)東京電力会長は19日、経済同友会幹事会後の記者会見で、東電の電力料金問題について「産油国の原油大幅値上げが現状のまま続けば、がまんできない状態になる。原油引き上げがどの程度になり、コストにどうはね返るかを調べた上で、値上げ時期、額などを検討することになろう」と語った。さらに「今後の料金問題も考えると、10年という長い期間据え置くと言うのは困難でもう少し短い期間で考え直さなければならない」と述べ、原油の大幅値上げにより、同社の料金値上げが早まることを示唆した。

※3 木川田一隆(きがわだ かずたか)(1899~1977)

1971~1976年にかけて東京電力会長。実業家だが日中国交回復にも力を尽くし、訪中もしたが、反対派からは自宅前に爆発物を置かれるという妨害を受けた。「勲章を欲しがるのは老害の証拠」といい、生涯勲章を受け取らなかったという。

〇トイレットペーパー 不足と値上がりでピンチに 節約を強力に呼びかけ 学校や事業所 買いだめに奔走

紙不足と紙類の値上がりは、このところますます深刻。中でも日常生活に欠かすことのできないトイレットペーパーの不足と値上がりが厳しい。トイレットペーパーの原材料である古紙不足が最大の原因らしいが、何しろ”毎日の問題”だけに一般家庭はもちろん、官公庁、学校など大口の需要どころは、節約と買いだめ作戦に懸命だ。

福井市内の上小売店の話では、トイレットペーパー一巻き(55メートル)は8月ごろまで小売り値が23ー5円だったと言う。それが9月ごろから33円に、10月には45円にはね上がった。また紙質の良い家庭用チリ紙(約2000枚)も今春、350円売りだったのが、今では550円と値上がりが厳しい。

このため文具店や紙店には、普段見慣れない男の客がマイカーで現れ「いくつでも分けて欲しい」と買いだめ作戦する姿も目立つ。

特にこたえているのは職員や従業員、生徒を多くかかえている会社、学校、県庁など。「むだ使いはせぬように」とチリ紙類を大事にするPRに懸命。藤島高では、年間でトイレットペーパー1200個ぐらい使用するので最近「一年分を買いだめした」と言う。明道中は各学期ごとに買っているが、1学期は一巻き30円だったのが2学期36円。値上がりの話を聞いて、3学期分も追加注文したところ「一巻き46円なら何とか世話できそう」とのこと。予算の狂いもあって、経費ねん出に苦しいという。

福井市教委では、市内の小、中学校合わせて年間約120万円のチリ紙代予算化しているが「来年は倍になりそう」と頭を痛めている。また、県管財課も年間、本庁職員用としてトイレットペーパー7300巻き(約14万円)を購入しているが「今度の入札では3ー4割高くなる覚悟をしています」と言う。大和紡など若い人が多く使用歴の高い一般企業も「むだ使いはしないように徹底させている」と話している。

紙類がこうも不足、値上がりしている理由については、製紙業者は紙全体にいえることは、紙の原料となる原木(外材)の輸入が現場労働組合のストなどでストップしている▷国内の製紙工場の排水が公害問題でやり玉に上がり、生産が思うように任せない▷チリ紙類は、材料の古紙が非常に少なく高値を招いているーという。

(記事は『福井新聞縮刷版1973年10月中』 10月21-23日より。)


2022年11月7日月曜日

福井で起きた米騒動③~つまずいた出だし

 米価が暴騰を続ける苦しい状況で、全国的に米騒動が起こる中、

福井市でも米騒動が行われようとしていました。

しかし、最初はなかなかうまくいかなかったようで…(;^_^A

※マンガの後に、補足・解説を載せています。


〇米騒動までの経緯

「福井市米騒動予審終結決定書」には、

『大正7年(1918年)8月11・12日夜 大野金松方又はは山口庸三方において、そのころ毎夜多数の市民が納涼のため九十九磧(つくもがわら)に集合するを奇貨(めったにない機会)とし名を米価調節のために開催すと称する市民大会に籍(よ)り多数の市民を煽動して市内各所において米穀商その他に対し暴行もしくは脅迫を為し以て米の廉売(安売り)を為さしめんことを謀議しその謀議に基き被告等は各自同日頃市内青物市場その他において右大会開催の旨を吹聴』した、とあり、

米騒動の打ち合わせを何度か行っていたことがわかります。

宮崎房吉の証言によれば、

ハゲ政(宮本政次郎)の言うには、「(大野)金松ちゃんはこう言うてるさけ、うちら20人か30人で集まってやね、そいで知事官舎へ嘆願に行ってみようと思う」」

これが1週間前の話で、

その後、「お前8月の13日に河原へ来いや、米が高いのでみんなして知事官舎へ行くんにゃでこいや」と言われ、

当日には、

「いよいよお前今日やるんにゃ、今日お前、河原へ寄るにゃで、でてこいや」と誘われたといいます。

その後河原に行ってみると、ハゲ政が演説を試みていたが、

「そこんどこで寄ってごたごた言っていても、誰も寄らんわい。あっちもこっちもにぎやかなんだから」

という状態でした…(;^_^A アセアセ・・・

そのため人々を注目させる何かをしなければならなくなったのですが、

米騒動チームが考え出したのは、寺の鐘を火事の時のように打ち鳴らす、というものでした!💦


2022年11月6日日曜日

「知勇兼「美」の女性」 板額御前(前編)

 今日の「鎌倉殿の13人」もおもしろかったですね💦

今回は、巴御前「巴板額」と並び称される女傑、

板額御前(はんがくごぜん)について書いてみました!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇板額御前

板額御前は、
越後城氏以前のマンガを参照)の一族出身です。

(※ただし、城資盛「姨母」と『吾妻鏡』に書かれている。「姨母」とは母親の姉妹のことなので、そうなると城氏と血は繋がっていないことになる)

『吾妻鏡』では「坂」額御前とありますが、

城氏の本拠地、奥山荘(現在の新潟県胎内市)付近には、「飯角(いいずみ)という地名がありますので、

本来は「飯角」と書いて「いいずみ」御前と読むのが正しいのでしょう。

『吾妻鏡』には、鳥坂城の戦いでの板額御前の奮戦のようすについて、

次のように書き記しています。

『女姓之身を爲すと雖も、百發百中之藝、殆んど父兄を越える也。

人擧げて竒特と謂う。此の合戰之日殊に兵略を施す。

童形の如く、髪を上令め、腹巻を著け、矢倉の上に居て、射襲い致す之輩の中で死不者莫し。

西念が郎從又、多く以て之の爲に誅被る』

(女性でありながら、百発百中の弓矢の腕前は父や兄を超えていた。

人々は珍しいことだと思った。板額御前は幕府軍との戦いの作戦を考えた。

子どものように髪を上げ、腹巻(鎧)をつけてやぐらの上から弓矢を放ち、

当たったもので死なない者はいなかった。

佐々木盛綱(西念)の家来は板額御前によって多く殺された

前回のマンガで登場し、先陣争いを繰り広げた佐々木盛季海野幸氏も負傷していますが、もしかすると板額御前に射られたのかもしれません)

一騎当千なだけではなく、防衛作戦も立て、知勇兼備の武将だったことがわかります。

また、それだけでなく、『吾妻鏡』には、

『顏色に於ては殆んど陵薗の妾に配す可し』と書かれています。

「陵薗の妾」とは中国の皇帝が死んだ後に、その墓に閉じ込められる女性のことで、

美女に限られていたそうですから、知勇兼備だけではなく、

顔の美しさまで兼ね備えていたことになります(◎_◎;)すごすぎる…💦

次回は、鳥坂城の戦いがどのように決着したかを書こうと思います!🔥

2022年11月3日木曜日

旧国名が市町村名!~福井県編~

 明治時代になるまでの日本は、47都道府県ではなく、

68の「国」という単位にわかれていました。

「国」というからややこしいのですが💦

独立国ではありません(;^_^A

明治時代に、東北地方の陸奥・出羽はでかすぎるので分割されて、

陸奥は磐城・岩城・陸前・陸中・陸奥(りくおう)に、

出羽は羽前・羽後に分割され、

新たに日本に加わった蝦夷もでかすぎるので、

渡島・後志・胆振・日高・石狩・天塩・北見・十勝・釧路・根室・千島の11カ国に分割されます。

つまり、明治時代には「国」の数は84まで増えていました。

これが廃藩置県により整理され、1888年に現在の47都道府県の形に落ち着くことになります。

しかし、地域の人々にとって、旧国名は慣れ親しんだものでもあり名前が消えるのはさみしいものがあり、

市町村合併などを機に、新市町村名に旧国名をつけるパターンが多くあらわれるようになっていきます。

今回は、北部の越前国・南部の若狭国が合体してできた福井県編です!

どんだけ越前好きやねん!(;^_^A💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇片思いの越前市(武生市)

紫式部公園の金箔でコーティングされた紫式部のブロンズ像が完成したのは1986年のこと。

その後、劣化しやすい金箔が傷みに傷んだため、

2016年、800万円かけて金箔をはりなおしています。

鹿苑寺金閣(金閣寺)も1955年に再建、1987年に金箔の貼り直しが行われていますね。

さて、そんなふうに地元民に愛されている紫式部ですが、

実は紫式部には嫌われていました💦

京都から父の赴任に従って越前に来たものの、

すぐにホームシック(京都シック?)になってしまい、

元気のない紫式部に対し、

侍女たちが雪を集めて山のようにし、

「外に出て、見てみて下さい」と言ったところ・・・。

ふる里に帰るの山の それならば心や行(ゆく)とゆきも見てまし

…と、紫式部は歌を詠みます。

意味は、

京都に戻る途中の雪山ならば心が晴れ晴れすると思って見に行きますが。

…というもの。

かわいそうな越前市(武生市)!( ;∀;)ぶわあっ

それでも1年弱ほど住んでいたそうですから、けっこう紫式部がんばったんじゃないでしょうか…(ほんとは4年いるところを、結婚のため途中で帰ってますが…)。

2022年11月2日水曜日

福井で起きた米騒動②~全国の状況

 今回はいったん話を止めて、

福井の米騒動が起こる8月13日前の日本の状況を、

福井の新聞である『福井日報』福井新聞とは別系統の新聞で、現在は廃刊)から

探っていこうと思います!💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇食糧暴動 (『福井日報』 大正7年[1918年]8月15日)

米価は土用(※1)以来の天候良好にして本年の豊穣を予想し得らるるにも拘わらず、また在米の豊富なることを確かめ得らるるにも拘わらず、底抜的に奔騰して一升(※2)の価格50銭台を突破するが如き、とにかくその原因は問題外として前代未聞の高値と言わざるべからず、1日も米なくしては生命を支うること能わざる我々日本人に取りて、しかも中産階級以下の者に取りては斯くの如き法外なる米価の暴騰は、その生活上一大苦痛たるべきは言うまでも無き也、

幾多細民(※3)が日夜営々孜々(※4)として得るところの生活費は、以て一家数口を糊する(※5)能わざるまでの米価騰貴にあたりては、米を与えよ否らざれば死を与えよとの叫びは期せずして下層社会に充溢し、いよいよ忍ぶべからざる結果として今や名古屋・大阪・神戸・京都の大都市を始め、其他の各地に暴動蜂起して米商及び強欲非道の富豪を襲い、竹槍席旗(※6)死を賭して器具を破壊し家屋を火にするなど乱暴狼藉至らざるなく、官憲またこれを鎮撫する能わざるして軍隊の出動を余儀なくさるるもの実に聖代(※7)の恨事と言わざるべからず、

我が福井市は羽二重(※8)の主産地として殊に欧戦(※9)以来機業の好調に伴い、下級民は比較的生計に余裕を存し米価の騰貴に影響を受くもの少なしとまで伝えらるる状態にあるに関せず、一作夕(※10)勃発せる暴動は実に意外とする処にして且つ近来になき一大椿事(※11)たるべし、これをもって察するも米価騰貴に苦しめらるるもの多きを証するに足らん、…(後略)

※1 土用…1918年の場合は7月29日。

※2 一升…1.8ℓ、1.5㎏。当時の家庭では1日3升を食べたという。

   一升の40倍が一俵(60㎏)。

※3 細民…下層の人々。貧民。

※4 営々孜々…せっせと精を出して事に励む様子。

※5 口を糊する…まずしいながらもなんとか暮らしていくこと。

※6 竹槍席旗(ちくそうせっき)…百姓一揆で用いた、竹槍と、むしろを竹竿に結びつけて作った旗の事。

※7 聖代…優れた君主(大正天皇)が治める世の中。

※8 羽二重(はぶたえ)…通常は経糸を1本入れるところに、細い糸を2本入れていることから来ている。こうすると、「軽くしなやかで丈夫、つるつるとした滑らかな風合い、艶のある美しい光沢が特徴の生地」(株式会社東野東吉織物のホームページより。わかりやすい図も載っています♪)となる。

福井は1903年に絹織物生産量が京都・群馬を抜いて全国1位に、

最盛期(大正時代前半)には、日本の絹織物輸出量の60%を占めていました。

※9 欧戦…1914年7月~1918年11月にかけてヨーロッパで起こった第一次世界大戦のこと。

※10 8月13日のこと。

※11 椿事…思いがけない大事件。

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