今回の「鎌倉殿の13人」も面白かったですね💦
「和田合戦」で和田氏は滅亡してしまいますが、
一族が全員死んでしまったわけではなく、
子孫の中には戦国時代に活躍した人物もいます(「信長の野望」に出てきていますね♪)。
今回のマンガは、越後系和田氏とも関わりのある、
建仁の乱について書いてみました!
(前回からの続きにもなっています😄)
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇鳥坂(とっさか)城
新潟県にはまぎらわしい城がある。
それは鳥坂(とりさか)城である。
鳥坂(とっさか)城は胎内市(下越)にあるのだが、
鳥坂(とりさか)城は妙高市(上越)にある。
前回のマンガでは当初、まちがえて上越にあると描いてしまっていた💦
変だな…本拠地は下越なのになんで上越の城に立てこもるんだ…?と違和感は感じていたんですが(-_-;)
妙高市の鳥坂(とりさか)城は戦国時代に作られたもので、
信濃方面から春日山城に攻めてくる敵を防ぐための城として作られたようで、
桃井氏が城を任されていたそうである。
今回のマンガで登場した鳥坂(とっさか)城は平安末期~鎌倉時代に城氏によって、
白鳥山(しらとりやま。標高298m)に築かれたものです。
戦国時代のような立派な城ではなく、
周囲に逆茂木などのバリケードを置き、やぐらが設置されているくらいの簡素なものでした。
しかし城氏の士気は旺盛で🔥
佐々木盛綱が来る前に越後・佐渡の軍勢を撃退しており、
盛綱到着後もさんざんに苦しめることになります。
戦後は和田義盛の弟の子孫の土地となり、
中条氏の本拠地となりました。
南北朝の動乱の時に中条茂資が立てこもり、
1450年以降、中条房資が拡大、強化した。
すぐ近くに同族の黒川氏が治める黒川城がある🏰
〇海野幸氏(1172~?)
父の海野幸親(1142~1184年)は信濃国の武士で、
保元の乱では源義朝に従って戦った。
源平の戦いでは木曽義仲のもとで戦い、1184年、粟津の戦いで一条忠頼に敗れ、
木曽義仲と共に戦死した。
海野幸氏は1183年、木曽義仲の子、義高(『吾妻鏡』には義高と幸氏は同年齢だったと書かれている)が源頼朝の人質となった際に一緒についていったが、
義高からは片時も離れずにそばに仕えていたという。
1184年、義高が鎌倉からの脱出を試みた際には、義高をひそかに逃がした後は
監視場所に残って義高の身代わりとなり、
服をかぶって双六をし、義高と二人でいるように見せかけた。
監視役はいつも義高と幸氏で双六をしているのを見ていたので、
夜になるまで気づかなかったという。
義高は見つかって殺されてしまったものの、
幸氏は忠義を認められて御家人に取り立てられた。
弓の名人であったようで、『吾妻鏡』には、源頼朝の時代には弓の名人のベスト8(「八人の射手之内爲」。他の7人は下河辺行平・工藤景光・和田義盛・望月重隆・藤沢清親・諏方盛澄・愛甲季隆か。)に入っていたと書かれており、
正治3年1月12日の御的始の儀式などでその技を披露している。
建仁の乱では、越後・佐渡・信濃の御家人が動員されたため出陣し、
佐々木盛綱の息子である盛季と先陣を争ったが、
盛季の従者に乗馬のくつわをつかまれて妨害され、先陣は果たせなかった。
その後戦いの中で負傷している。
嘉禎三年(1237年)7月19日、北条時頼が流鏑馬の練習を初めてしたが、
北条泰時は弓の名人の海野幸氏に感想を聞いた。
海野幸氏は「才能があります」とほめるが、
泰時は「悪いところを言ってくれ」としつこいので、
幸氏は「矢をつがえる時に、弓を水平に持っていますが、
昔、(前述の弓の名人たちと)弓矢の談義をしていたときに、
西行が『弓はこぶしから垂直に引くように持つのです。
水平に持つ時より、すぐに射ることができます』と言った際に、
弓の名人たちは感心して、誰も反対の意見を言いませんでした。
ですから、そのように直すべきでしょう」と助言している。
北条泰時はさっそくそれを採用し、三浦義村はわざわざ子どもたちを呼び寄せて、
幸氏に流鏑馬の極意などを聞かせたという。
仁治2年(1241年)には将軍九条頼経にも弓矢の指南をしているなど、
弓矢についてレジェンドとなっていた様子がうかがえる。
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