社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 5月 2024

2024年5月18日土曜日

「「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事」の5ページ目を更新!

  「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

「「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事」の5ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!

2024年5月16日木曜日

軍人は政治に関わるべきではない~河合栄治郎『ファッシズム批判』

 朝ドラ『虎に翼』31話で帝大経済学部教授・落合洋三郎が登場しました。

その著書が「安寧秩序を妨害」する疑いがあると起訴された落合を、雲野六郎が弁護し、第一審を無罪判決に導く…というものでしたが、

この落合洋三郎のモデルとされる人物が、河合栄治郎なのですね(名前もかなり似ている)。

河合栄治郎は、1926年から東京帝国大学経済学部教授となっていますから、ドラマで肩書きと同じですし、起訴されるもととなった著書が6冊出てきましたが、書の書名は河合栄治郎が書いたものとほぼ同じでした。

今回は、この河合栄治郎が書き、発禁処分を受け、裁判の対象となった『ファッシズム批判』について見ていこうと思います🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

●軍人の政治参加を痛烈に批判

河合栄治郎は『ファッシズム批判』を書いた理由について、「昨年(1933年)に帰朝してから、…2箇月病床に閉じ籠められている間に、日本の将来に就いて色々のことを考えさせられた」「日本がファッショ的に転回しつつあることは…悲しむべきことだと思われた」ためだ、と冒頭に書いています。

「ファッショ」とはファシズム、また、ファシズム的な傾向を示すことです。

ファシズムとは何でしょうか?

河合栄治郎は1938年の『ファッシズム論』にて次のように言っています。

「ファッシズムの特質として、我々は次の4点をあげることが出来る。即ち、

第一、国家主義をとること。

第二、独裁主義、即ち反議会主義をとること。

第三、反資本主義をとること。

第四、その負担者が中産階級なること。」

この中の国家主義・独裁主義について説明します。

①国家主義

「国家主義とは国家という全体を以て最高の価値あるものとする主義をいう。これと対立するものが個人主義である。…個人主義は個人を以て最大の価値あるもの、即ち価値の根源となし、個人以外のもの(例えば、国家でも)は個人の為の派生的なものとするに対し、国家主義は国家を価値の根源となし、国家以外のもの(例えば個人をも)は、国家の為の派生的なものとするのである。」

また、河合栄治郎は、『ファッシズム批判』で国家主義について次のようにも説明しています。

「国家主義とは、国家を以て第一義的に終局的に価値あるものとして、他の一切のものは之に従属し、国家の手段として役立った場合にのみ、その価値を認めるに過ぎない思想を云う

②独裁主義(反議会主義)

議会主義とは『ファッシズム批判』によると、「国民の意志を問い、その多数の意志によって政治を行うこと」ですが、独裁主義は、国民の意志を問うことなく、1人(もしくは一握りのグループ)の意志によって政治を行うことになります。

なぜ議会主義を無視しようとするのかというと、河合栄治郎は『ファッシズム論』でドイツの例を挙げて次のように説明しています。

「ドイツに於ては」「戦後重大なる政務山積している時に」「1918ー1933年の間に20余の内閣が更迭した」「これが議会政治に対する失望を起した」

議会政治に対する失望が独裁主義の台頭を生むというのですね。

では、日本ではなぜ議会政治に対する失望が生まれたのでしょうか。

河合栄治郎は『ファッシズム批判』で、当時の日本に次のような社会的不安があった、と説明しています。

富は少数の大資本家に集中されて、社会は之等少数者に左右せられ、⋯中産階級は⋯下層に没落しつつあり、新階級たるべき学窓の青年は就職難に苦しみ、労働者階級はその賃銀の低額なることと、その労働時間の長いことと、衣食住の消費生活の苦しいことと、何よりも解雇失業の普段の脅威に曝されている」

日本は1914~1918年の第一次世界大戦中は大戦景気に沸いていましたが、その後は戦後恐慌(1920年)、震災恐慌(1923年)、金融恐慌(1927年)、昭和恐慌(1930年)とたてつづけに恐慌が発生し、国民は生活に苦しんでいました。

しかし「議会政治家は」「非常時状勢の根本的対策を示」すことができませんでした。

国民が議会政治家に代わる存在として期待したのが軍部でした。

軍部は閉塞的な状況を打開するために、1931年に満州事変を起こし、満州(中国北東部)を得ることに成功します。

その後、日本は「満州事変勃発以後最近1・2年間は、…社会的不安の声を減じたように見える。日満経済ブロックや軍需工業の繁栄や円為替安による輸出の増進や、多少のインフレ景気は、夫々何等かの湿(うるお)いを各階級に投じたに相違あるまい」という状況となったこともあり、軍部の台頭が進むことになりました。

しかし、当時の日本人の50%は農民でした(『ファッシズム批判』)が、好景気の恩恵は農村には及ばず、1935年10月に至っても、岩手県では欠食児童(昼食に弁当を持参できない児童)が5万人を超すか、と言われるような状況でした。

そこで、農村出身の軍人の中には、「革命独裁主義を真剣に唱えるものが出て来」るようになります。

革命独裁主義について、河合栄治郎は「少数の者が国民多数の意志如何を問わず、自己の是なりとする改革を強行せんとするもの」と説明しています。

具体的には、二・二六事件において、決起した軍人たちは「奸臣軍賊を斬除」(『決起趣意書』)…つまり、自分たちの意に沿わない大臣や軍の上層部の者などを殺害して、自分たちに都合の良い軍の人物による内閣を作ろうと考えていました。

これについて河合栄治郎は「その人の思想が何であり、その人の網領が何であるか少しも知られていない人物が、突如として現われて6千万の国民の運命を左右するかも知れない。而して国民は之に就いて一言も挿む余地ない立場に置かれている。誠に奇怪なる政治的状勢である」此の場合に於て国民の意志は唯無視され蹂躙されているのである「力を以て始まる政府は力を以て続」くことになる、つまり「強権」的で国民を「抑圧」する政治が行われることになる、と述べて国民の意志に基づかない革命主義に警鐘を鳴らします。

河合栄治郎はまた、革命主義の者たちが政権を取った場合にどのような抑圧が行われるかについて、次のように述べています。

「国内の思想を機械的に統一するために言論を圧迫し、能率を発揮するために多衆代表制度を無視する」「国家を批判することはありえず、国家の為すあらゆることは、そのまま承認し服従せざるを得なくなる」「領土の拡張や貿易の増加や軍隊の人数や軍艦の噸(トン)数のみが重要視されて、学問や芸術や宗教や之等の文化は軽視され」、「吾々各人は之が為に生き之が為に死し、之が手段として生き死ぬことによって吾々の存在価値が与えられる」ようになる…。

そしてその行きつくところは戦争だ、と河合栄治郎は言います。

「1932年ムソリニー(ムッソリーニ)は云った、「ファッシズムは平和主義の学説を排撃する…唯戦争のみが、一切の人間的精力を最高の緊張にまで引き上げ、それに突進する勇気ある人民に、高貴の印象を刻する」」。

すごい言葉ですね…💦

河合栄治郎が「国家主義は国家以上の価値を認めない。故に…国家を拘束するところの他国の利害、国際道徳、国際法等を認めないのである」と言うように、ファッシズムは自国を第一に考え「外国と対抗することを重要視」しますから、外国と対立します。外国との対立は外交で解決すればよいのですが、自国のことしか考えないので、これを戦争で解決しようとするのですね(現在のどこかの国と一緒ですね)。

そして戦争となると、「多数の生命と超巨額の財貨と夥しき生活の困苦を伴う。⋯戦時に国家は外国と交通のない卦鎖経済を甘んじねばならないから、在来の産業のあるものは倒壊し、市場は狭隘となって需要は減少し、巨額の軍事費を支弁するために税率は高められる。⋯中間階級はさらでだに抵抗能力の乏しいのに、此の負担を加えられて、其の没落が促さる。⋯物価騰貴となり、労働者の賃銀はたとえ増加したとしても、生活資料の高価によって実質的には低落する。のみならず戦時中は非常時の名の下に、彼等の労働条件改善は阻止されるだろうから、労働条件の向上は限界付けられる。」「予算の大部分は軍事費に投ぜられ.戦争と関係なき経費は延期される。」という最悪の状況をもたらすことになる…。

また、河合栄治郎は次のようにも予想しています。

日本を中心とする極東の戦争が仮定されるならば、その戦乱の広範囲なること、引続き諸国の渦中に捲き込まれる可能性の多いこと、その期間の長期に亙る危険性のあること、決定的の勝敗の困難なることに於て、我が国は歴史上空前の難関に逢着し、その惨害の著しき吾人をして疎然たらしめるものがある。

だから河合栄治郎は冒頭で述べたように、「日本がファッショ的に転回しつつあることは…悲しむべきことだと思」ったのです。

だから、河合栄治郎は日本がファシズムの国家にならないようにしなければならない、と考えます。

当時、ファシズムをめざす主体の勢力となっていたのは軍部でした。

そこで、河合栄治郎は「軍部が独自の対策を提げて自ら実行の衝に当たるとするならば、遺憾ながら反対せざるを得ない」と「軍部が政治の中心勢力となって、その政策を行なうことに反対」します。

『ファッシズム批判』にはその理由が次のように述べられています。

・軍人にとって軍事が専門であり、国民はこれを絶対に信頼している。しかし、この専門に精進すれば、社会的不安を検討しその対策を講ずる余裕はないはずである。余暇を以て為すには問題は余りに複雑だからである。もし軍部の中に社会問題の専門家があるとすれば、現在の軍部はかほどの過剰冗員を有するものと思ねばならない。

・軍人は軍事的立場に立って社会的不安を克服しようとするだろう。⋯その「解決に着手するならば、当然に生産力本位、能率本位に立つだろう。結局その被害者は弱者たる労働者階緑とならざるをえない。之こそが正に私の反対せんとする所なのである。軍的目的の為に力を総動員すれば、戦時経済、軍事経済となるが、臨時的なものであって、社会的不安の根本的解決にならない。社会不安は臨時非常に解決すべきものではなくて、永久的の解決を為さねばならない。

・軍人が政治にあたって失敗すれば、国民は軍人に不信を持つ。これは日本の国防の遺憾な結果となる。数年前軍人が不人気であったのは、軍人出身の藩閥政治家に対する反感が軍人全体に及んだもので、再び旧時の覆轍を踏まざらんことを祈る。

・私は軍部に毫も反感を持たず、祖国に対する熱情に尊教も感謝もするが、軍事の専門領域を固守されんことを切望する。

・もし軍部が欲する対策の政党がないと思うならば、自己の欲する新政党を樹立すべきである。⋯かかる新政党の出現は、世界観を持たざる既成政党と対立して、日本の政党史上に一転機を画するだろう。

・社会的不安の解決は武人ではなく、文人政治家によってなされるべきである。人々の公共へ奉仕するの路は、その各々の職分によって異ならねばなるまい。然し武人生を捨てるの覚悟を持つ時に於て、文人政治家亦一身を賭するの決意がなければならない。

…つまり、軍人は軍事に専念すべきである、軍人が政治を行なおうとすると軍人的思考に基づいて効率を重視した政治を行うことになるので、特に労働者が被害を受けることになる、政治に関わりたいならば、軍部が支持する者たちに新政党を作らせるか、軍人をやめて政治家となるべきである…というのですね。


2024年5月9日木曜日

「「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事」の3ページ目を更新!

  「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

「「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事」の3ページ目を更新しました!😆

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2024年5月7日火曜日

「帝人事件~戦前最大の疑獄事件」の2ページ目を更新!

 「歴史」「昭和時代」ところにある、

「帝人事件~戦前最大の疑獄事件」の2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!

2024年5月5日日曜日

帝人事件~戦前最大の疑獄事件

 朝ドラ「虎に翼」で主人公の父親が逮捕された共亜事件。

この元ネタとされているのが、1934年(昭和9年)に起こった帝人事件でした。

どのような事件であったのか、見ていこうと思います!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


(続きは近日中に更新します)

●帝人(帝国人造絹糸)と台湾銀行

台湾は1894~1895年の日清戦争の後、日本領となっていましたが、

この台湾でとれる樟脳(クスノキからとれ、カンフルともいう。医薬品や香料の原料)や砂糖についての利権を獲得したのが鈴木商店で、

鈴木商店はその後急速に発展、鉄鋼やビールなどにも手を伸ばしていきましたが、

手を出したもののうちの1つが人造絹糸(略して人絹。レーヨンともいう)で、これは、薬品によって綿糸を絹糸に似たものに加工した製品でした。

人々はつややかな絹糸にあこがれを持っていましたが、高価で手を出せていませんでした。しかし、人絹は絹糸に比べて安価であったので、人絹は爆発的は人気を持つに至ります。

この人絹を扱う鈴木商店の子会社の「東工業」が山形県の米沢製糸場を買収して設立したのが米沢人造絹糸製造所で、これは第一次世界大戦下でヨーロッパから人絹の輸入がストップしていた間隙をぬって発展を遂げて、1918年に株式会社となり、社名は「帝国人造絹絲(略して帝人)」となります。

このようにして帝人は誕生したわけですが、その親会社の鈴木商店は第一次世界大戦終了後に大戦景気が終息して一気に経営が悪化していきます。

この鈴木商店と強い癒着関係にあったのが台湾銀行で、台湾銀行の貸出金額7億円のうち、なんと3億5千万は鈴木商店に貸し出されていました。

台湾銀行のみならず、銀行全体が苦境に陥ったのは1923年の関東大震災で、日本に大規模な被害が出ましたが、企業も大打撃を受けます。

なぜなら、企業は銀行から金を借りて、新たな設備投資を行なっていたのですが、これが大震災で破壊されてしまったので、借金返済が難しくなってしまったからです。

このため、銀行は企業に貸し出していた金の回収のめどが立たなくなり(いわゆる「焦げ付き」)、経営状態が悪化していきます。

その中で、1927年、若槻礼次郎内閣の大蔵大臣、片岡直治が国会において、実際は破綻していなかったのにかかわらず、「東京渡辺銀行が破綻いたしました」としゃべってしまったのがきっかけとなって、人々は銀行が危ない、倒産する前にお金を引き出さないと、と続々と銀行を訪れ、取り付け騒ぎが発生します。

銀行は預金を企業に貸し出して利益を得ているのですが、その貸したお金が大震災により返ってこない状態にある訳ですから、金庫には預金分のお金はなく、預金者に変えそうにも返せないわけです。

そのため、銀行は続々と倒産していくことになります(金融恐慌)。

この中で、台湾銀行は苦しむ鈴木商店に、返ってくる見込みのない追加の貸し出しを続けていましたが(倒産されると貸し出し総額の半分が返ってこなくなるため)、遂に見切りをつけることを決断し、3月26日、鈴木商店に対する貸し出しを停止することを発表します。

これを知った人々が台湾銀行から預金の回収を進めたため、台湾銀行は破綻の危機を迎えますが、台湾銀行が破綻することの危険性を知っていた政府は、なんと6億円もの資金を投入して、台湾銀行を救済しました。

一方で、自転車操業が不可能となった鈴木商店は4月5日に倒産しています。

これに伴い、帝人は独立企業となりましたが、鈴木商店と協力関係にあった台湾銀行は帝人の株を貸し出しの担保として大量に保有(40万株中22万株)していたため、帝人と台湾銀行の関係は残っていました。

独立した帝人を待っていたのは空前の「人絹ブーム」でした。

当時、日本円は円安が進んでおり、そのために輸出(主にアジア・アフリカ・オセアニア)が好調となったこともあり、人絹は売れに売れました。

昭和9年1月21日の時事新報には、「昨年は人絹万能時代を出現した。日本・倉敷・旭を初め増資または株式払い込みをして工場の大拡張をやる。三井の東洋レーヨンは株式を公開する。金を附けても貰い手のなかった町田徳之助君の東京人絹までが三、四割も儲かるようになる。新たに宮島君の日清レーヨンや岩崎清七君の国光レーヨン、さては金光庸夫君の日本人造羊毛をはじめ雨後の筍のように続出する。で、レーヨンでなければ夜も日も明けなくなった」とその「人絹黄金時代」の様子が書かれているのですが、これにあるように、絶好調な人絹関係の企業の株式は高騰していっていました。

帝人株は鈴木商店倒産(1927年)の頃は40円台をつけることもあったのが、1932年内には157円にまで上がっており、この株価はさらなる上昇が予想されていました。

こうなってくると、人々は帝人株が喉から手が出る程に欲しくなります。

先ほどの1月21日の時事新報には、「人絹事業中の玉ともいうべき帝国人絹株が台湾銀行の金庫の中で欠伸をしているのをなんで見逃そう。大小有象無象が手を替え品を替え、台銀島田頭取の処に参詣するに至ったのである」とその熱狂ぶりが記されています。

そしてこの帝人株をめぐって帝人事件が起こる事となるのです…!😥

●帝人事件のきっかけを作った「番町会を暴く」

1934年1月17日から、『時事新報』紙面上に「番町会を暴く」と題した連載が始まりました。

第1回は次の文章で始まっています。

「何が目覚しいといって、近頃番町会の暗躍位目覚しいものはない。寧ろ凄じいと云った方が良かろう。いや凄じいでもまだ足らぬ。全く戦慄に値するものがある。実際経済会社では、最近この一派の猛烈な暗躍に、非常な戦慄を感じているものが少くない。とりわけその一派の副総理格たる中嶋君が商工大臣になってから、この一派の暗躍は悪化した。実は中嶋君の商工大臣になったことそのことが既に此の一派の暗躍の結果だというが朝にいて中嶋君が大臣の名刺を振り廻し、野に物凄い面々が腕節を誘って、上下挟撃ちで経済界を掻廻すのである堪まったものではない。」

「番町会」なるグループが、経済界を牛耳って、やりたい放題をしている、というのですね😧

この「番町会」とは、どのようなグループなのでしょうか。

「番町会は今から12年前の、大正12年2月に旗揚げしたものである。酒と女には目がないが、我利亡者の多い財界には珍しい金に恬淡で、太っ腹の郷誠之助君を取巻く、少壮実業家連が、その太っ腹と親分肌を見込んで郷君とその弟分であり、秘書格である中嶋久万吉君を中心に、会員は互に精神的にも物質的にも助け合うという誓約を交し、別に会則などは設けなかったが堅い団結を作るに至ったものである。…そして毎月十四日の夜、全会員は麹町番町の郷君の邸に集まり、郷君、中嶋君から何か修養になる話を聞くということにして来たのである。…会の名を番町会というのは、こうして御大郷君の邸が番町に在って、その月々の修養会をそこで開くところから、いつとはなしに番町会というようになったのである。…会員数は初め9人であったものが、現在は11人となっている。…さてしからば専属役者たる番町会正会員11名の顔触れは如何、次に示す如く、中には真面目な人もあるが、大部分は相当風雲を起し兼ねまじい面々であり、その関係会社を見れば、如何に一派の手が各方面に延び、その職場が広いかに驚かされる。

河合良成君 (東京商工会議所議員、福徳生命専務、帝国火災、菊池電気軌道、日本ビルディング、中央毛糸紡績各取締役帝国人絹、留萌鉄道、東京湾汽船監査役)

永野護君(東京商工会議所議員、帝国人絹、大宮瓦斯、東京湾汽船、山叶、日本レール、東洋製油、東華生命各取締役、横浜取引所、南部鉄道各監査役、日本放送協会関東支部監事)

後藤圀彦君 (成田鉄道副社長、池上電気鉄道、京成電気軌道、京成乗合自動車各専務、王子環状乗合、王子電軌、北海道鉄道、京王電軌、渡良瀬水電、日本商事、大正生命各取締役、西武鉄道、玉川電気各監査役)

中野金次郎君 (東京商工会議所副会頭、国際通運、大日本自動車保険、大北火災海上、運送相互保証、門司合同運送、東京合同運送、横浜、京都、大阪、神戸各駅合同運送、郵船運輸各社長、上毛電気、朝鮮運送各取締役、日本空中電気鉄道監査役)

伊藤忠兵衛君 (伊藤忠商事、呉羽紡績、富山紡績各社長、三光紡績取締役)

金子喜代太君 (東京商工会議所議員、大阪石綿工業会長、浅野セメント、日本セメント各専務、浅野山倉製鋼、関東運輸、日之出汽船、富士製鋼、浅野スレート、浅野造船所、日本ヒューム鋼管、小倉築港、南部鉄道、日魯漁業、伏木板紙、三岐鉄道、浅野ブロック製造、青梅電気、五日市鉄道、信越木材、内外石油各取締役、関東水力電気、浅野物産、浅野石材工業各監査役)

春田茂躬君 (中日実業、大東京鉄道各専務、東亜土木企業、礼豊洋行各取締役、東洋塩業、大正電気各監査役)

渋沢正雄君 (昭和鋼管社長、富士製鋼社長、汽車会社、実用自動車、石川嶋造船、同自動車、同飛行場、秩父鉄道、大阪乗合、フラー建築、日本建築各取締役)

岩倉具光君 (合同運送専務、タクシー自動車、桜セメント、東亜石灰各取締役、阪急電車監査役)

正力松太郎君 (読売新聞社長)」

そうそうたる顔ぶれですね…💦

あの伊藤忠商事の伊藤忠兵衛、あの読売新聞の正力松太郎、あの浅野財閥の中心企業である浅野セメントの専務である金子喜代太、そして、あの渋沢栄一の子の渋沢正雄、あの岩倉具視の孫の岩倉具光😧

さて、この番町会が、先にふれた、帝人株の取得に向けて動き出すのですね。

「番町会を暴く」によれば、まず、台湾銀行の帝人株は、愛国生命の原邦造のもとに渡る予定であったといいます。台湾銀行の島田頭取の考えとしては、原邦造は稀に見る人格者である、大量の帝人株を手にしても、帝人を自分の都合のいいようにしようとすることはしないだろう、というものであったそうです。

その後の経緯について、「番町会を暴く」に書かれていることを要約すると、次のようになります。

…しかしこれに待ったをかけたのが番町会のメンバーの河合良成で、島田に言う事を聞かせるために、台湾銀行の監督官庁である大蔵省に影響力を持つ、元大蔵大臣の三土忠造に動いてもらうことにした(河合と三土は遠縁でもあるという)。中島が三土に会った際、「台銀所有の帝人株を河合の手に渡すようにしたいが骨折ってくれないか」と言った。すると三土は「それは会えば私からも話するが正力君を頼んだが良かろう」と答えたので、話は「凄腕」の正力松太郎に回り、正力は黒田英雄大蔵次官を動かし、黒田が島田に話をするに至って、ついに台湾銀行は1933年5月にその保有する帝人株22万株のうち11万株を1株あたり125円(正しくは1円手数料を加えて126円)で手放すことになった。河合はこの11万株を根津嘉一郎(「鉄道王」と呼ばれる東武鉄道社長)、原邦造、中島久万吉と相談し、それぞれの関係筋に分割した(河合系は21500株、本人は500株にとどまる。根津系は23000株、原邦造は1万株。その他、伊藤忠兵衛が8300株など)。この帝人株は直後から急騰して、1株190円にまで至った。その差分は台湾銀行の損という事になる。台湾銀行は国家による貸し出しを受けているので、帝人株の処理はできる限り有利に処理して、返済に宛てなければならないはずであるのに、株価が暴騰すると思われていた情勢であったのにかかわらず、有利に処分できなかったのは、背任行為と言われても仕方がない。

また、時事新報の社長、武藤山治は1月18日に「本社は何故に番町会の問題を取り上げたか」で次のように言っています。

本社が此問題を捨て置き難きものと考えた主たる理由は、世間に問題にされている是等株式の売渡値段の当否にあるのではない吾々が此問題を最も重要視するのは、是等の株式は普通銀行の担保流れと違っている点である。台湾銀行は昭和2年の恐慌に際し何に依って救われたか、言うまでもなく我国民に6億円という多大の損失を負担せしむるに至った彼の特融法の御蔭である。して見れば台湾銀行の担保物は公有物とも見らるべきものである。即ち一円でも高く売上げて国庫の損失を軽めるべき義務あるは勿論、其処分方法に到っては極めて公明正大でなければならない。然るに台湾銀行の当事者は、之が処分に当って之を公売するの手段を採らず特融の監督取扱の責任者たる日本銀行の之を認可したるは如何なる理由に依るか、是れ第一に糺さねばならぬ点である。今回の如き問題の起るのも、元はと言えば台湾銀行が不透明なる売却手段を採った為めである。吾々は固より悪人を善人にする力は持たないが吾々の此問題を取上げたのは悪人に利用せらるる善人の反省を促し、斯の如き重要事件に対する世上の監視を要求する故である。今回の問題は単なる実業界に於ける通常一般の利慾問題でない。これを此儘にして置けば折角浄化されんとしつつある政界の腐敗をさえ再び誘発する危険がある。国家社会を思う正義公平の観念に富む人々は、何人と雖も我社の此挙を是なりとせらるることを信じて疑わない」

公売によらず、内々で帝人株のやり取りをしたのが問題だ、と言っているのですね。

まとめると、今回の事件の問題点は次の2つにしぼることができるでしょう。

①台湾銀行は国の貸し出しによって救われたのだから、少しでも高い価格で帝人株を売って、返済に充てるべきであったのに、そうしなかったこと。

②公有物ともいえる帝人株を公売の方法をとらず売却したこと。

まぁ、新聞を読んだ人々は、「一部の者たちが権力に物を言わせてうまい汁を吸った」ことに怒りを感じたと思うんですけどね。

さて、この「番町会を暴く」は、大きな波紋を呼び、一大騒動に発展していくことになります。


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