社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 織田家の出自と劔神社

2023年2月28日火曜日

織田家の出自と劔神社

 織田信長は一代で国を作ったわけではありません。

先祖が少しずつ力を蓄えたものがあってこそ、あそこまでの活躍が可能になったのです。

今回からは、織田信長が生まれるまでの織田氏の歴史を見ていこうと思います🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇織田家の出自

まず、江戸時代に織田家の出自はどう伝えられていたかを『日本外史』で見てみましょう。

…織田氏の先祖は平重盛平清盛の子)である。重盛の次男が資盛であり、

資盛の子は母と共に近江(滋賀県)に逃れ、津田郷の郷長にかくまわれた。

ある時、越前国(福井県北部)の織田荘の神主がやってきて郷長の家に泊まった。

そこで、「私には子がいない。あなたの子を一人養子にしたい」と言った。

そこで郷長は資盛の子を神主の養子にすることにした。

資盛の子は親真と名付けられ、その子孫が代々神主となった。

室町時代となり、越前の守護となった斯波義重は、織田の神社を訪れた時に、

神主の子が美しいのを気に入り、これを近臣にした。

当時、斯波義重には鹿草・二宮・甲斐・朝倉・増沢・細河という6人の重臣があったが、

増沢祐徳が罪を犯して流罪となったので、織田氏が増沢氏の代わりに重臣となった。

織田親真から15代後の織田敏定の時、主君の斯波氏は斯波義敏・義廉で家督をめぐって争った。

織田敏定はこれを仲介し、義廉の子、義良を義敏の養子にし、敏定が尾張(愛知県西部)の清須城で義良を補佐することになった。

尾張には8郡あったが、これを上下4郡ずつに分けて、敏定は下4郡を支配し、上4郡は一族の信安を岩倉城に置いて任せた。

敏定の子は敏信であり、敏信の子は常祐であった。

敏定の庶子の信定は弾正忠を名乗ったが、その子が織田信秀(織田信長の父)であり、備後守を名乗った。

信秀は勝幡城にいて、他の2人と共に本家の役人となり、下四郡を分けて治めた。

信秀は、武芸にいそしみ、教養のある者を厚遇したので、人々は信秀に従った。

…と。

最初の平氏の子孫であるという云々は伝説めいていますが、

実際はどうだったのでしょうか。

織田信長や同族の守護代・織田達勝などが「藤原」を名乗って署名していることから、

「藤原氏」がルーツであったことが有力なようです。

1393年、藤原信昌・将広父子が、劔神社再興に力を尽くすと書いた文書を劔神社に奉納しています。

それには、仕事が忙しくなかなか神社の修理ができなかったが、父子が心を合わせて劔神社復興に力を尽くした、劔神社の土地にはこれからも税はかけない、…といったことが書かれています。

この藤原信昌・将広父子が織田氏の祖先ともいわれているのですが、二人は、劔神社の神官になったとも、織田荘園の荘官であったともいわれています。

神社再興に力を尽くす、と言っているので、外部から来た感じもしますね。

劔神社は、福井県越前町(旧織田町)にある、越前国二の宮の神社です(一宮は気比神宮)。

以下、劔神社に伝わる劔神社の歴史を紹介します(『劔大明略縁起』)。

劔神社は14代天皇である仲哀天皇の第二皇子・忍熊王が福井周辺を無事平定できたことを感謝して織田町に神社を建てたのが始まりであり、

この時以来神職を務めたのが、忍熊王に同伴して劔神社をこの地に作ることを勧めた、忌部香椎宿祢中臣氏[のちの藤原氏]の先祖である、中臣烏賊津[雷大臣命]の子とされる)の子孫たちである、

劔神社には歌道の秘伝書が伝えられており、

平清盛はそれを見たいと言ったが、神社側はそれを断ったので、

清盛の怒りに触れて焼かれてしまった、

しかし、清盛の子の平重盛は神罰を恐れて神社を再興した、

その頃神職を務めていたのは、忌部香椎宿祢の49代の子孫、忌部親信で、

平家滅亡の際、平資盛の子どもが近江津田郷まで母に連れられ逃れてきたのを、

養子とし、信真と名付けた、

この信真の10代後の忌部常勝が斯波氏の家臣となり、

ここで初めて織田を名乗った、

その7代目が織田信定で尾張の四郡を領し、幕府の家来となった、

つまり織田家は藤原・平の二家の子孫である…

『日本外史』の内容とほぼ一致しますね。

しかし、藤原信昌・将広父子の書いた文書に「絶跡」と書いてあったように、

1393年頃の劔神社はひどくさびれていたことがうかがえますから、

平重盛復興云々は伝説の域を出ないのではないか、と思います。

平資盛の子を養子云々も、信真の年齢とズレがあり、これもまた作り話のようです。

平家の子孫というのはマユツバにしても、藤原氏の子孫であることは濃厚なようです。

先に出てきた斯波義重(1371~1418年)は、1391年に加賀守護(1393年に辞任)、1398年に越前守護、1400年には加えて尾張守護、1405年には管領・遠江守護にもなっている人物で、藤原信昌・将広父子と同時代の人です。

父の斯波義将(1350~1410年)は1380年頃までに越前守護となっていたので、

藤原将広の「将」は、斯波義将の一字を与えられたものでしょうか。

1403年以降、織田常松(?~1430年頃?)なる人物が尾張守護代となって尾張に入っているのですが(『劔大明略縁起』に出てくる忌部常勝というのは、織田常松のことであるようです[「じょうしょう」の音がいっしょ])

この織田常松は藤原将広と同一人物なのではないか、と言われているそうです。

なぜなら、2人の花押が非常に似ている、からだそうな。

しかし、美氏は、

花押の形似については主観的な問題もあり、根拠とはなりにくい。」

「藤原信昌の文書の添書には、『信昌七十八』とあり、藤原信昌は1316年生まれであることがわかる、…そうなると嫡男の将広は1393年には40代~50代であったと考えられ(つまり1334~1353年頃の生まれ)、1428年頃まで活動している常松と同一人物とは考え難い」

…と主張し、織田常松は藤原将広の子とするのが妥当だと考えています。

しかし、1350年頃の生まれとするならば、1428年まで活動するのは十分あり得るでしょう。嫡男が遅く生まれて、1360年頃(それでも父親は40歳前後です)生まれれであれば、まったく違和感はなくなります。

藤原将広=織田常松を否定するには弱い主張であると言わざるを得ません。

『日本外史』の、

「斯波義重は、織田の神社を訪れた時に、

神主の子が美しいのを気に入り、これを近臣にした。」

…という文章を信じるならば、1371年生まれの斯波義重と同世代、もしくは若いことになるので、将広のこと考えるのが自然になりますが。

まぁ、将広か、将広の子かわからないにせよ、

織田常松なる人物が織田氏を始めた人物である可能性は高いでしょう。

ちなみに「織田(おた)」の地名は、「小(お)」・「所(と)」に由来するそうで、実際、旧織田町は山に囲まれた盆地にあります。

この織田町に土地を持っていた藤原氏が、守護代(もしくは武士)になるにあたって、

領地に由来する「織田」を名乗ったのでしょう。

織田信長は自身のルーツである織田の劔神社を大事にしていたようで、

それは柴田勝家の出した次の文書からもよく分かります。

織田劔大明神寺社ならびに門前居住、先規の如く諸役高除けの由、其の意を得候条、今以て同前に候、もし兎角の族(やから)これ在るに於ては申し越さるべく候。

当社の儀は殿様の御氏神の儀に候へば、聊かも相違あるべからざるの状、件の如し。

天正3年11月5日 勝家 織田寺社中」

…劔神社の土地には以前の通りに税はかけません、あれやこれや言ってくる者がいたら私に言ってください、劔神社は殿様(織田信長)の氏神(氏族に縁の深い神様)でありますので、少しでも間違いがあってはいけないと思っております…

ここに「殿様の氏神」とあるように、織田信長の家臣たちも最大限の配慮をしていたことがわかります。


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