阿坂城を攻略した信長は、続いて北畠氏の本丸である大河内城に迫ります。
岐阜を出陣してからわずか8日間という凄まじい進撃ぶりでした。
しかし信長は、ここで約40日間にわたる苦しい攻城戦を強いられることになるのです…!
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●大河内城について
阿坂城を攻略することに成功した信長は、その後、
…他の城には目もくれず、国司父子(北畠具教・具房)が籠もる大河内城に攻め寄せた。
…と、『信長公記』に書かれています。
『伊勢国司記略』には、「阿坂より西の山際を通られ、勾(まがり)の辺をすぎて」大河内に向かったのだろう、とあって、この推測が正しければ、現在の三重県松阪市曲町のあたりを通っていった、ということになります。
曲町は船江城まで1.8㎞(徒歩で20分ほど)と、かなり近い場所にあり、船江城の者たちは織田軍が目の前を通過するのを黙って見ていられなかったようで、『勢州軍記』によると、次の出来事があったといいます。
…26日の夜に信長が先手を呼び戻した際に、船江の城兵は打って出て、小金塚で信長勢を追い散らし、首を少々得たという。これにより船江の者たちは名を挙げたという。27日夜、信長勢が大河内城に向けて進んでいたときに、船江勢は昨日の夜のように、小金塚でこれを遮ろうとした。信長の先手の兵は用心してこれを待ち受けていたので、船江勢は敗北した。不意を衝く時は利を得ることができるが、もう一度同じように不意を衝くことは難しい。この夜の出撃は不覚(油断して失敗すること)であった。山辺次郎右衛門尉が出撃を思いとどまらせようとしていたが、公門六郎衛門尉が昨日夜討ちの際に敵兵に出会えなかったことを後悔して強く夜討ちを提言したので、夜討ちをすることに決まったのだという。
「小金塚」というのは、現在の「黄金塚稲荷神社」周辺の事で、曲町からは1.7㎞ほど北西にあります。
アクティブすぎる船江勢ですが、『勢州軍記』によると、
…信長勢の東海船手衆が上陸しようとしたところを、船江の本田勢・曽原の天花寺勢が黒部においてこれを夜討ちしたという。
…とあり、別方面でも戦闘を繰り広げていたようです😅
ここで出てくる「東海船手衆」は、志摩国の九鬼水軍であると考えられます。
九鬼氏について、『勢州軍記』には、
…九鬼家は志摩の武士である。志摩の武士はほとんど北畠氏の支配下にあった。先祖の九鬼隆義は熊野から来て波切城を守った。法名は珍持(『寛政譜』では「椿寺」)と名乗った。その後は珍山(『寛政譜』では「椿山」)、大和守、山城守、宮内少輔と続いた。
…とその由緒が書かれています。拠点は志摩半島南部、英虞郡の波切にあったのですが、『寛政譜』によると、『勢州軍記』に「大和守」とある隆次が志摩半島北部の答志郡に進出して堅神村を支配下に置き、続いて『勢州軍記』に「山城守」と書かれている泰隆が同じく答志郡にある加茂郷(豊田祥三氏『九鬼義隆と九鬼水軍』に加茂「郡」とあるのは誤り)岩倉に進出して田城城を築いてここを居城としたそうなので、これが事実であるとすると波切城は支城になったわけですね😕
泰隆はまた、北畠氏の山田との戦いに協力したそうです。
『勢州軍記』は続いて、
…少輔の子の宮内大輔が早くして死ぬと、その子の弥五郎は幼少であったので、伯父の右馬允が波切・片田の城を守り、弥五郎を後見した。英虞郡の七人衆と呼ばれたのは、相(大)差・国府の三浦・甲賀の武田・波切の九鬼・和具の青山・越賀の佐治・浜島であったが、右馬允は七人衆の掟に背いたので孤立し、残る6人の攻撃を受けて波切城は陥落、船に乗って安濃津に逃れた。
…と記していますが、ここで出てくる「右馬允」があの九鬼嘉隆(1542~1600年)です。
『勢州軍記』には「英虞郡の七人衆」とありますが、豊田祥三氏は『九鬼義隆と九鬼水軍』で、これは志摩の七人衆の事で、また、七人衆のメンバーは浦氏で、九鬼氏は含まれていなかったとしています。
確かに、「英虞郡の七人衆」と言いながらも、相差(大差)は答志郡にありますからね(;^_^A
七人衆に九鬼氏が入っていない、というのは意外ですが、途中からやってきた新興勢力だったからでしょうか?一方で『志摩軍記』には志摩の国に地頭11人有り、と記されており、その中に九鬼氏が入っていますので、七人衆に準じる勢力ではあったようです。
『勢州軍記』には「右馬允は七人衆の掟に背いたので孤立し、残る6人の攻撃を受け」た、とありますが、『寛政譜』には、嘉隆の兄で九鬼6代目当主の浄隆(『勢州軍記』にいう「宮内大輔」)の時に既に七人衆の攻撃を受けていたとあります。
九鬼氏が七人衆の攻撃を受けたというのは、九鬼氏が英虞・答志の2郡に勢力を拡大しており、その威勢に七人衆が危機感を抱いたためでしょう。
『寛政譜』には七人衆は北畠氏に援兵を借りた、とありますが、永禄6年(1563年)に志摩に進攻したことが確認できる書状が残っているので、このことかもしれません。
兄の浄隆が死んだ後、幼少の兄の子、澄隆を支えることになったのが波切城主の九鬼嘉隆でしたが、七人衆に加え北畠氏まで敵に回した九鬼氏は衆寡敵せず敗北して没落しました。『勢州軍記』には嘉隆は安濃津に逃れた、とありますが、『寛政譜』では澄隆は伊勢神宮に近い朝熊山に逃れた、とあります。
その後の嘉隆について、『勢州軍記』には、
…安濃津にしばらく引き籠った後、尾張に渡り、滝川一益を頼って信長の家臣となった。永禄12年秋、信長が大河内城を攻めた際、「船手」(水軍)の大将となって志摩国に進んだ。
…とあります。織田家臣となった時期について、『寛政譜』には「織田右府京師に出張(『日葡辞書』によれば「戦争に出発すること」)のとき見参し、麾下に属す」とあり、これは「信長が京都に出陣した際にその配下となった」という意味であるので、『寛政譜』の記述が正しければ、家臣となったのは永禄11年(1568年)の上洛戦の時であった、ということになります。
家臣となった嘉隆は、その後織田氏の支援を得て、志摩国に復帰を果たし、志摩征圧に向けて活動していくことになります🔥
さて、織田軍が向かった大河内城ですが、この読み方は「おおこうち」ではないのですね。正しくは「おかわち」と読みます。自分はずっと「おおこうち」だと思っていました…😅
『多聞院日記』9月7日条には、
…本所(16世紀に入って興福寺東門院院主は北畠氏出身者が務めるようになっていた。当時は北畠具教の弟、具親が興福寺東門院院主であった。ここでいう「本所」のことは北畠具教のことであろう)は「オカツツチ」の城にいる。
…とあり、大河内を「オカツツチ」と書いていますが、これは誤りですね😓
聞き馴染みが無い城だったので、誤って伝え聞いた「オカツツチ」と書くしかなく、漢字を当てることもできなかったのでしょう。
この大河内城は、大河内村神社由緒調査書によると、応永10年(1403年)に北畠満雅が築かせたのに始まるそうです。
その後、「永禄年中(1558~1570年)、八代の国司具教卿は大いに修築を施し、国司家の居城と」しました(『大河内村史蹟名勝誌』[昭和16])。
この城はどのような城だったのでしょうか。
『勢州軍記』には、
…大河内城は七尾七谷にあり、南は大河内と言い、北は野津(現在は「矢」津)と言う。大木が茂り、大きな竹が生えている。追手(大手)門は北の広坂にある。搦手門は南の龍蔵庵坂にある。…東には大河内川があった。
…と書かれています。
「七尾七谷」というのは、尾根(山の一番高い部分の連なり)が7、谷が7ある…つまり、とても起伏が激しい場所にある、ということなのですが、大西源一氏は『古蹟』で、「七尾七谷ありて極めて険要の地の如く思はるれども其の実、要害は遥かに多気城に及ばず。七尾七谷といふも只丘陵のウネリに過ぎざるなり。而して伊勢名勝志の記するが如き懸崖躋(のぼ)り難きが如き所は多からざるが如し」とあり、そんなに険しい地形であるわけではない、と書かれていて、「所謂平山城に類する形状」であるとされています。
たしかに大河内城はもっとも高い所で約110mです。そこまで低くは無いようにも感じますが、山から降りた平坦地でも約60~70mあり、その差で考えると40~50mほどの山でしかありません。
信長が尾張に築いた小牧山城は86mですが、麓との差は約65mあり、小牧山城の方が高い城であると言えます。
先に紹介した『勢州軍記』に「東に大河内川があった」とありますが、これは現在の阪内川(坂内川)の事で、『伊勢名勝誌』には「坂内川南麓を巡り矢津川西北を流れ共に会してーとなり自ら濠塹(城の堀)の形をなす」とあります。
これを見ると堅固なように見えますが、本居宣長は『玉勝間』で「川水すくなく潮もささねば舟かよはず」と記し、『大河内村史蹟名勝誌』には「水量は豊ではない。此の川を一名笹川とも称する。「往年此の河畔は籔林の地にして川中に水少なき為年中笹の川の如くなるより名づく」(飯南郡史)」とあり、渡るのはさほど難しくない川であったようです(川の内側と外側では標高差が3mほどあるので、空堀のように利用していたのかもしれないが)。
ならば何が織田軍を阻んだのかと言えば、その1つは『勢州軍記』にも書かれている、「大木」「大竹」で、これは大西源一氏が「されど大竹、大木生ひ茂れるは事実」と言っているように、実際に大木・大竹が茂っており、そのため、『木造記』の言う「道見えず」、『伊勢兵乱記』の言う「人馬の駈引自由ならず」という悪路になったようです。
(1894年の地形図には、大河内城の北東部[大手広坂口と搦手龍藏庵口の間]に竹林の地図記号が書かれていた。現在の地形図では、大河内城北東部には広葉樹林の地図記号が書かれている。1982年の地形図ですでにそうなっている)
他に織田軍を阻んだのは、標高は高くないけれども、
西側は本丸方面に向かうのに、約40mほどの距離で標高が約25m上昇(傾斜角度は約32度)するという急傾斜があり、
南側は崎谷という谷になっており、両側が本丸と出丸に挟撃される場所で、
北西側は魔虫谷という谷になっており、両側が本丸と西の丸に挟撃される場所で、
北東側の大手にあたる広坂も谷の形状で、両側を櫓に挟まれる場所になっており、
『伊勢国司記略』には、攻めることができる場所が「一方のみ外郭へ通じ」ている、「無双の要害といふべき」城で、「織田殿七万の大軍にて五十日の間攻められたれど落城せざるも理り」である、と書かれています(この唯一攻めることのできる東側の搦手門も、上がろうとするとその側面に出丸があり、攻撃を受ける仕組みになっていた)。
以上のような、挟撃の容易な谷の多い地形が、織田軍を苦しめた最大の要因と言えます。
大西源一氏は『古蹟』で、「地の険ならざる割合には要害に富めり」と記していますが、これが大河内城についての的確な表現であると言えるでしょう。
さて、続いて城内の様子を見てみることにします。
『伊勢国司記略』の著者、斎藤拙堂(1797~1865年)は、実際に大河内城跡を登って、次のように書いています。
…城墟に登るに大河内川を渡り龍蔵菴阪を上れば、右の方に広く平なる所あり、今は畑と成れり。二の丸の跡なるべし。…
龍藏庵坂は『勢州軍記』に搦手門があったと書かれている場所ですね。
『大河内村史蹟名勝誌』は「昔、坂の中腹に龍蔵庵があったので名づくと云う」と記し、大西源一氏は「もと此の地に龍蔵庵なる一大伽監ありしによりて坂名に負はせたりとぞ。今大河内の村社に接して薬師堂あり。これ当年龍蔵庵の奥の院なりと云へり」と述べています。
二の丸周辺について、『大河内村史蹟名勝誌』は次のように詳述しています。
…本丸の南方に二の丸があり、今、表忠碑を建つ。本丸と二の丸の間の凹地をお納戸といふ。西の丸、本丸、お納戸の西側を北方から入り込む溪谷を崎谷と云ひ、城地を截然(せつぜん。はっきりと区別していること)と断つて要害を保つている。崎谷に断たれた城地は二の丸から南方の出丸、秋葉山の丘陵に連亘してゐる。ニの丸の南方に搦手あり龍蔵庵坂といひ、その直下に蔵屋敷あり糧秣倉庫の跡といふ。二の丸から本丸の東及北に続く平地を馬場といふ。…馬場の東北に伸びる溪谷を廣阪と称し城の大手であり、市場の宿と相対してゐる。…
少しわかりづらいので、まとめると次のようになります。
・二の丸の西側、本丸との間のへこんでいるところを「お納戸」という(大西源一氏は「ヲナンドと字する地」は「国司の居れる所にして其の地、四方何れよりするも矢至らざる所と伝ふ」と書いていて、普段は国司が暮らす場所であったと書いている。「納戸」というのは本来物置部屋の事だが…)。
・二の丸の南側に「崎谷」があり、その向こう側に出丸がある。
・二の丸の東側の降りたところに「蔵屋敷」がある(大西源一氏は「クラヤシキなる地あり。往時城倉のありし所なるべし」と書いている)。糧秣倉庫の跡とありますが、城の外側にあるので、戦時に使用されていたのではないのでしょう。
・二の丸の東北に続く平地を「馬場」という。
また、『日本城郭大系』には、「二の丸とよばれる30m×35mの台状地がある」「一段と低い平坦地が広がり、馬場跡に比定されている」とあります。
さて、斎藤拙堂は二の丸に登った後のことについて次のように記しています。
「本丸はその左の端よりめぐりめぐりて阪を登ること二町許(ばかり)にて到れり」
本丸までの距離については、大西源一氏も「城址は坂内川の西岸にあり。和歌山街道より坂内川を渡ればやがて其の下に達す。之より路、坂にかゝり稻荷祠を過ぎ行くこと総て二・三町にして其の頂きに達す」と述べています。
1町は約109mなので、だいたい100mと考えればいいでしょう。
斎藤拙堂は二の丸から本丸までの距離、大西源一氏は龍蔵庵坂から本丸までの距離と違いはありますが、計測してみると、龍藏庵坂から本丸まではだいたい300m、二の丸から本丸は約100mになるので、斎藤拙堂は少し長く書いてしまったかな、と思います。
斎藤拙堂は続いて、本丸について次のように記します。
「山の巓(いただき。頂上)広さ一町四方ほどあり。東北は海を望みて眼界広し。西南は堀阪諸山折廻して立列なりて塞がりたり。土人八幡祠を草創して城墟に勧請す。祠の背は魔虫谷にて險組なること甚し」
本丸の広さについては、『大河内村史蹟名勝誌』は「約八畝步の平坦地」と書いています。
斎藤拙堂は100m×100m=10000㎡ほどだと言い、『大河内村史蹟名勝誌』は約800㎡だというのですね。かなりの違いがありますね😅
実際のところは、『日本城郭大系』によれば、60m×30m、1800㎡だそうで、両者ともに間違っています。
斎藤拙堂の記す「八幡祠」について、『大河内村史蹟名勝誌』は「北畠具教卿並に大河内家代々を祀る八幡社が在る」、大西源一氏は「頂上に一祠あり、北畠八幡と稱し、大河内城當時の創立にかゝれり。蓋(けだし)北畠氏が祖光の霊を祀る所なり。思ふに此の地本丸の遺跡なるべし」と書き、大河内城廃城跡に地元民が作ったとする斎藤拙堂・『大河内村史蹟名勝誌』と、北畠氏が作ったとする大西源一氏とで食い違いが見られます。
斎藤拙堂は最後に、「谷を隔て手の届くばかりの所に一ツの岡あり。これも七尾の一つなるべし。これを聞けば西ノ丸といへり。その昔は橋を掛て本丸へ通ひしならん」と、本丸から離れたところに西の丸があったと記しています。
方角については、『大河内村史蹟名勝誌』が「本丸の西方に西の丸が聳(そび)える」と書いています。
斎藤拙堂は本丸と西の丸の間に谷があった、と記していますがこれは誤りで、実際は『大河内村史蹟名勝誌』が「人工濠は本丸西の丸間に一つ…ある」と記すように堀切です。地形図を見ても谷はそこまで続いていません。現在はここに小さな橋が架かって渡れるようになっています。
●織田軍、大河内城を包囲す
さて、織田軍と北畠氏の戦いに話を戻しましょう。
『勢州軍記』には、…西に養徳寺があったがこれは火矢で自ら焼いた。
…とあり、北畠氏は戦いの前に養徳寺を自ら焼いたようです。
大西源一氏は養徳寺について、「今矢津村に養徳寺あり。而も矢津は城北にして共の南といへるに合はず。矢津の養徳寺は大河内城当時のそれと位置を異にせるか。はた全く別物にして其の名の偶然一致せるものか。はた亦北畠物語の誤れるにや」と記していますが、養徳寺は城の北西にあたる松阪市矢津町にあり、別に誤ってはいません。
ただ、位置が以前と異なるというのは確かなようで、「大河内村 歴史探訪」には、「元は、矢津町の崎谷に応永10年[1403年]北畠満雅が建立したもので、北畠由緒のお寺であったが永禄12年[1569年]織田軍の大河内城攻めの時、敵兵の足場にされるのを恐れ、北畠具教自ら火を放って焼いたと伝えられる」とあり、元は崎谷に存在していたようです。
また、松阪市文化財センターが出している「はにわ通信H30 6月号(No.279)」には、
…「大河内城跡西側の谷部から丘陵部にかけて」「嵜谷遺跡」が存在し、「とくに、丘陵部に「養徳寺」という寺院があったとの伝承が地元に残っており、…昭和 61 年から 62 年にかけて」行われた「発掘調査により、これらの伝承や記述を裏付けるような遺物」が見つかった、それは、「法華経が書かれた「杮経」や「銅製花瓶」、「五輪塔」など」で、「五輪塔の中には、永正・永禄の年号を刻むものがあり、このことは大河内城とこの遺跡が同時期に存在していたことを示している」。「さらに、養徳寺という名称を想起させる遺物として「『養』と朱書きされた茶碗の一部」も見つかって」いる。
…と書かれています。
その後、大河内城付近に到着した織田信長は、『信長公記』によると、次の行動をとりました。
…「信長懸廻し御覧じ」(信長は乗馬して走り回り、現地の状況を確認し)、東の山に(陣を置くことが適当だと判断して)陣を置いた。
自ら乗馬して現地の状況を確認した、というのは、六角攻めの時といっしょですね。
『信長公記』はこの「東の山」が何という山なのか書いてくれていないのですが、
『勢州軍記』には、「本陣は東方の桂瀬山にあった」とあります。
しかし、この「桂瀬山」は松阪市桂瀬町に広がる丘陵全体を指すものであり、具体的な場所を指すわけではないのですね😔
それでは信長は「桂瀬山」の中のどこに本陣を置いていたのでしょうか??
『伊勢名勝誌』には、
「織田信長本陣址 桂瀬村字勝負谷・船後・山神谷ノ辺を云ふ森林相巡り 大河内城址卜相対す里人伝へ云ふ文(「永」の誤り)禄中大河内城の役 織田信長此に陣すと 又丹生寺村・立野村に陣址と称するものあり」
…と書かれていますが、勝負谷・船後・山神谷というのは「桂瀬山」周辺のことであり、これではよくわかりません。しかも、丹生寺・立野にも本陣跡と言われる場所がある、と書いていて、さらにややこしくなっています。
一方で『大河内村史蹟名勝誌』の「茶臼山」の項には次のように書かれています。
「桂瀬山の最高峯にして、標高122・9米(㍍)、丘陵の北方に著しく隆起して桂瀬と松尾村丹生寺、立野三大字の境界点にある。茶臼山と称するは即ち、頂上に築造された堤塁を指す。長方形にして南北約四十米基底部の幅約十米、高さ約6米の大なるものと、その東北部に此の約半分程の塁相並んで形跡歴然と存してゐる。大塁に登れば西南方遙かに桂瀬、寺井を隔てて大河内城の情勢を審かに望見し得べく、脚下に阪内川流れて八幡沖の平地を俯瞰する。眼を東方に転ずれば櫛田、雲出の沖積伊勢平原を展望し、伊勢海の白帆も指呼の裡にある。大河内谷の咽喉を扼し、内外の情勢を観望すべき屈強の要地である。諸書に見る信長本陣地桂瀬山と称するは即ち此の茶白山である。此の山の西方直下に入り込む渓谷を勝負谷といふ」
茶臼山が本陣跡であると断定しているのですね😲
(文中には桂瀬山の最高峰122.9mとあるが、現在は採石場となって削られてしまい、消失してしまった。現在は茶臼山があった場所とは別の所にある、約118mが桂瀬山の最高地点)
その根拠は「信長腰掛石」があるからでしょうか。
「信長腰掛石」の項には次のようにあります。
「茶臼山の南方五百米、桂瀬山脊梁線に在る。即ち桂瀬から立野高田に越す細径の南方嶺上に当る。径一米半程の巨石があり、その下は堀穿ちて岩窟の如く見えている。此の石が信長が腰を掛けたと伝へるもので、明治以前迄は里人決して、注連縄を張って尊崇すといふ。信長が果して腰を掛けたか否か不明であるが、蓋し、古代立野氏族の古墳かと思われる。此の近辺の山に原型の認め得られる古墳は西方斜面に二三存在するから、或は是も其の石郭の露出したものでないかと思はれる。但し詳細は後考を待つ」
ちなみに茶臼山から大河内城まで約2.7㎞あり、けっこう遠い位置にあります。
この位置に本陣を布くかな?とも思いますが、
『勢州軍記』には、後でも紹介しますが、「丹生寺」に氏家卜全の陣があったと書かれています。
丹生寺は茶臼山のすぐ北西に存在する地名(『飯南郡史』によれば、地名のもとになった丹生寺は北畠氏の菩提寺であったが、永禄年間に兵火によって焼失したという)なので、茶臼山周辺に信長軍が存在していたことは(『勢州軍記』の記述が正しければ)確かです。
大河内城から少し離れた茶臼山に布陣したのは、おそらく、船江城などからの援軍を遮る形をとりたかったからでしょう。茶臼山・丹生寺に布陣すれば、大河内城に至るルートに栓をすることができます。
さて、とりあえず本陣跡はこの茶臼山であったとすることにしましょう。
(本陣跡と考えられる「標高122・9米」地点は、残念ながら現在は採石場となって半分近く崩されてしまっている)
『信長公記』には、本陣を定めた後の信長の行動について次のように記しています。
…この夜は城下の町を焼き払い、28日に城の周囲の状況を確認し、
南の山に★織田上野守(織田信包。伊勢長野氏の養子となり、上野城に置かれて南伊勢の押さえとなっていた)・滝川左近(伊勢の奉行に任じられていた)・★津田掃部 (織田忠寛。伊勢安濃城に置かれて南伊勢の押さえとなっていた)・★稲葉伊予(のちの一鉄)・★池田勝三郎(恒興)・★和田新介(もと織田信清の家老。信長との戦いの際に信長に寝返った)・★中島豊後(和田新助と同じく織田信清の家老であったが信長に寝返った)・★進藤山城(賢盛。六角氏の重臣であったが信長に寝返った)・★後藤喜三郎(高治。進藤と同じく六角氏の重臣であったが信長に寝返った)・★蒲生右兵衛大輔 (賢秀。氏郷の父。元六角家臣)・永原筑前(重康。正しくは越前守か。元六角家臣)・永田刑部少輔(景弘。元六角家臣)・青地駿河(茂綱。名字は「あおぢ」。蒲生賢秀の弟)・★山岡美作 (景隆。元六角家臣)・★山岡玉林 (景猶。斎号[法名とは別に付ける名前]玉林斎。景隆の弟)・★丹羽五郎左衛門(長秀)を、
(★が付いていない武将は、『信長記』の大河内城攻めの布陣の記述に載っていない武将。滝川左近は確かに、阿坂城にいるはずであるから、これは『信長記』が正しそうである)
(池田恒興は『勢州軍記』ではまず北の大手の広坂口を攻撃しているのだが…)
西側に★木下藤吉郎・★氏家卜全・★伊賀伊賀守(安藤守就)・★飯沼勘平(長継。元斎藤家臣。小瀬甫庵によれば氏家卜全の与力)・★佐久間右衛門(信盛)・★市橋九郎右衛門 (長利。元斎藤家臣)・★塚本小大膳(史料によって出身が尾張、美濃に分かれる。同じく西側に布陣していた諸将が美濃衆なので、彼も美濃出身だったのではあるまいか)、
(これは『信長公記』『信長記』ともに布陣メンバーは同じ[書かれている順番は佐久間右衛門尉・木下藤吉郎・氏家左京亮・飯沼勘平・市橋九郎右衛門 ・塚本小大膳・伊賀伊賀守と異なる。また、『信長記』には飯沼勘平以下は「与力」であると書かれている)
(氏家卜全は『勢州軍記』によれば北東の丹生寺にいたはずだが…)
北側には、★斎藤新五(利治。道三の子)・★坂井右近(政尚)・★蜂屋伯耆(頼隆)・★築田弥次右衛門(以前に登場)・★中条将監(家忠。信長の馬廻)・★磯野丹波(員昌。浅井家臣)・中条又兵衛(家忠の一条か) 、
東側に、★柴田修理(勝家)・★森三左衛門(可成)・★山田三左衛門(勝盛。信長の馬廻)・★長谷川与次(信長の馬廻)・★佐々内蔵介(成政)・佐々隼人(成政の兄、隼人正の子か)・★梶原平次郎(景久。尾張羽黒城主という)・★不破河内(光治。元斎藤家臣)・★丸毛兵庫頭(長照。光兼とも。元斎藤家臣) ・★丹羽源六(尾張岩崎城主)・★不破彦三(直光。光治の子)・★丸毛三郎兵衛(兼利。長照の子)を配置した。
(『総見記』には「東」と書かず、「寄手先陣」と書かれている。確かに、東側は比較的攻撃しやすい搦手門がある方向である)
そして城の周囲を鹿垣で二重三重に取り囲み、内部への通路を遮断した。
また、柵際の見回り役として、★菅屋九右衛門 (長頼)・塙九郎左衛門 (直政)・前田又左衛門(利家)・ 福富平左衛門 (秀勝。名字は「ふくずみ」。信長の馬廻。赤母衣衆の1人)・★中川八郎右衛門(重政)・★木下雅楽介(中川重政の弟。信長の馬廻。赤母衣衆の1人)・★松岡九郎二郎(信長の馬廻。黒母衣衆の1人)・★生駒平左衛門(信長の馬廻)・★河尻与兵衛(秀隆)・ ★湯淺甚介(直宗。信長の馬廻)・★村井新四郎(信長の馬廻。貞勝の一族か)・★中川金右衛門(信長の馬廻)・★佐久間弥太郎(信盛の伯父?信長の馬廻)・★毛利新介(あの今川義元を討ち取った男ですな)・★毛利河内(長秀。斯波義統の子という)・★生駒勝介(親正の従兄弟。『信長記』では「庄」介)・★神戸賀介(信長の馬廻。『信長記』では「加之」介)・★荒川新八(柴田勝家の福谷城攻めの時に共に戦っている)・★猪子賀介(小瀬甫庵によれば犬山織田家の家臣であった。こちらも『信長記』では「加之」介)・ ★野々村主水(美濃出身の武士)・★山田弥太郎(信長の馬廻)・★滝川彦右衛門(信長の近習)・山田左衛門尉(信長の馬廻)・佐脇藤八(前田利家の弟)が任じられた。
信長本陣の警固は、馬廻・小姓・弓衆・鉄砲衆が命じられた。…
信長軍は大河内城の四方を囲んだわけですが、具体的にどのあたりに布陣していたのかはわかりません。
南側だけ「南の山」と記しているので、南以外は平坦部に布陣していたものでしょうか。
それにしても気になるのが、『勢州軍記』の記述との齟齬です。
『勢州軍記』では氏家卜全は北東にいるのに、『信長公記』では西側、
『勢州軍記』では池田恒興は北の広坂口を攻撃しているのに、『信長公記』では南側に布陣しています。
位置が正反対なんですよね…もしかすると『信長公記』は位置を逆に書いてしまっているのでしょうか…??
さて、こうして、戦いの準備は整い、後は両軍の激突を待つのみとなりました…!
●大河内城の戦い
『信長公記』では、28日に城の周囲の状況を確認し、城の四方に兵を配置した、そして城の周囲を鹿垣で二重三重に取り囲み、内部への通路を遮断した、と記した後、次の場面はいきなり9月8日となっていて、その間の10日間の様子が書かれていません。
そのため、この間のことについては、他の史料によって補うしかありません。
『勢州軍記』には、
…この夜、池田勝三郎信輝(恒興。諸書によく「信輝」と出てくるが、「信輝」と署名したものは見つかっていない)が広坂口市場の宿を攻撃した。日置大膳亮がこれを防ぎ、他の者たちがこれに加勢した。池田の先陣は土蔵四郎兵衛尉・八木篠右衛門尉で、鬨の声を挙げて攻めかかった。家木主水佑が防衛戦において抜群の槍働きを示して名を挙げた。戦うこと数度に及んで、日置たちは城内に引き退いた。
…とあり、28日の夜にさっそく戦闘が行われた事がわかります。
この戦闘の行われた「広坂口市場」というのはどこのことなのでしょう。
『大河内村史蹟名勝誌』には、
「市場 大手口の東北で現今大字笹川、寺井の一集落である。蓋し市場の名は大河内城下の物資集散地として繁昌した取引地、即ち市場に起る。此所は古戦場であると共に、付近に比類少ない室町時代商巷の遺跡でもある」と貴重な情報が載せられています。
「大字笹川、寺井」というのは、現在の笹川町のことです。これだとまだ範囲が広いのですが、「いいなん.net」には、「年配の方々は、九蓮寺から南の範囲を「市場」…と当時の名称で呼んでいる」とあり、これでかなり範囲を絞り込むことができます。なぜなら、笹川町であり、かつ、九蓮寺の南である場所は、わずかな部分しかないからです。どこかというと、笹川町小字浦屋敷の、九蓮寺より南の部分になります。
この場所で織田軍と北畠氏の戦いが繰り広げられた、ということになりますが、北畠氏側はすぐに退いています。これは、「市場」が坂内川よりも外側にあり、維持することが困難だと考えたからだと思われます。
前哨戦に勝利した織田軍は、いよいよ大河内城攻撃に移ります。
『勢州軍記』には、
…29日、明け方に信長勢は大河内城を四方より攻撃した。敵味方の弓鉄炮は疾風雷雨のようであった。その日から数日激しく争ったが、城が落ちることは無かった。信長卿は柵際に廻番を置いて夜討ちに用心させたという。
…とその様子が書かれています。
この戦いについては、小瀬甫庵の『信長記』にも、
…29日の明け方、四方から五万余の軍勢が、楯や箙(えびら)を叩いて攻め寄せた。鬨の声、矢鉄砲の音、肝がつぶれ、魂が消えるようなすさまじさであった。城内の兵はこれを聞いてここが運命の分かれ目だと覚悟を決めて必死に防戦したので、なかなか落城するようには見えなかった。
…と、ほぼ同じ内容が書かれています。
『信長記』が1622年に刊行、『勢州軍記』は1638年に成立した、と言われていますので、『勢州軍記』が『信長記』をもとにして書いたものでしょうか。
他にも、『朝倉始末記』には、
…信長はこの城に攻めかかり、昼夜を問わず厳しく攻め立てて、城内からしきりに鉄砲が放たれたが、新手を次々に繰り出して戦った。
…とあり、『足利季世記』には、
…信長衆は28日(29日の誤りか?)から、兵を入れ替え入れ替え攻め立てた。
…と書かれています。
信長は必死に防戦する北畠勢に苦戦を強いられたわけですが、このことは『多聞院日記』9月7日条の次の記述からも裏付けが取れます。
…昨日6日、松永右衛門佐(久通)と竹下(竹内秀勝)が同道して、伊勢を訪問しようとしたが、伊勢の合戦の状況が思わしくなく、織田軍に多くの損害が出ている上に、甲賀・伊賀で一揆が起こりそうな不穏な情勢になっているため、10日まで出発を延期したという。
また、『勢州軍記』によれば、この頃に次の出来事も起こっていたようです。
…国司は遠方の諸城に信長勢を夜討ちするように命じていたが、信長勢が大軍なので、これを恐れて声を挙げるものが無かった。ただ船江城の「溢者共」(ならず者たち)はこれに応えて9月上旬(『勢州四家記』には「9月初」とある。1か月の最初の頃、ということであるが、『総見記』は何をもとにしたかはわからないが9月「2日」と断定して書いている)に丹生(にゅう)寺を夜襲した。ここは市場・寺井の北方にあり、美濃国大垣城主氏家常陸入道卜全の陣所であった。夜更けに不意を突いてこれを襲い、火を放ちながら鬨の声を挙げて攻めかかった。大垣衆は追い立てられたが、蜂屋般若助などが名乗りをあげて戦いを挑んだが、高島椋右衛門に討ち取られてしまった。大垣衆は36人が討ち死にした。船江衆は首を持ち、勝鬨を挙げて引き返していったという。…
丹生寺に布陣していた氏家卜全が、船江勢の夜襲を受けてかなりの損害を受けた、というのですね。船江勢、ちょっと前に小金塚で敗れているのに凄まじい敢闘精神です💦
丹生寺は「川口保のブログ」によれば、「松阪市丹生寺町本里の集落の北方に広がる標高40mの丘陵地」にあった寺院で、『飯南郡史』によれば永禄年間に兵火によって焼失した、とあるので、この時に炎上したか、織田勢がやってくる前に北畠氏が燃やしたのでしょう。
この戦いで死亡した蜂屋般若助(『信長公記』では「介」)は、以前に赤塚の戦いでも登場した人物ですね。
苦戦が続く攻城戦の中で、信長は『勢州軍記』によれば攻め方を変えて、9月8日に新たに城を攻撃させますが、これも散々な結果に終わってしまいます。この戦いについては、『信長公記』にも次のように記されています。
…9月8日、稲葉伊予・池田勝三郎・丹羽五郎左衛門の3人に対し、西(東の誤り)の搦め手を夜襲するように命じた。その夜、3方向から西搦手に攻め寄せた。雨が降っていたので、味方の鉄砲は役に立たなかった。池田勝三郎配下の朝日孫八郎・波多野弥三郎が討ち死に、丹羽五郎左衛門配下では、近松豊前・神戸伯耆・神戸市介・山田大兵衛・寺澤弥九郎・溝口富介・斎藤五八・古川久介・河野三吉・金松久左衛門・鈴村主馬らの屈強の士20余人が戦死した。
ここで戦死した朝日孫八郎については、『武家事紀』に「尾州人也、信長の馬廻につかえて度々勇名を顕、伊勢大河内の戦に討死、此者死去の後、信長馬廻の武士、勇功のかせぎ軽くなれる(手柄を立てる量が少なくなった)といわれたるほどの勇士也」と書かれており、かなりの勇士であったようです(『武家事紀』が何をもとにしてこれを書いたかは不明)。
『勢州軍記』にはこの戦いについてより詳しく、次のように書かれています。
…9月下旬、信長卿は攻め方を変えて、南方から城を攻撃させることにした。池田勝三郎信輝・丹羽五郎左衛門尉長秀・稲葉伊予入道一鉄(出家したのは1574年の事)等に命じて、搦手を攻撃させた。三大将は、闇夜に紛れ、ひそかに龍蔵庵口に入り、朝日孫八郎が先頭になって二の丸に忍び込んで鬨の声を挙げた。鬨の声を挙げたのは攻め手側の不覚であった。本丸に入ってから鬨の声を挙げるべきであった。国司勢は鬨の声を聞いて本丸から松明を投げ入れ、弓鉄炮をさんざんに放った。攻め手側はことごとく倒れ伏した。死者は山のようであった。その後門を開き、日置大膳亮・安保大蔵少輔・家木主水佑・長野左京亮(『勢州四家記』では「左京進」)などが槍を引っ提げ、太刀を振るって打って出て、合戦となった。黒煙が立ち込める中、敵味方が入り乱れる乱戦となり、しばらく戦った後に両軍は引きあげた。信長勢は侍大将朝日孫八郎以下13人が討ち死にし、その他屈強の武士が多数討ち死にした。城内の空円入道は智謀の士で、門を開いて打って出る際に、「老兵は足が遅いので、若武者は先に出て早めに退くように」と指示し、時刻を計ってこれを引かせた。門の中に戻る際には、敵味方を見分けるために合言葉に応じて起ったり座ったりするようにした。国司はこれに感じ入ったという。…
斎藤拙堂は二の丸跡を訪ねた時のことを、『伊勢国司記略』に「池田信輝、丹羽長秀等が軍勢龍藏菴阪より忍び入て本丸と思ひ鬨をあげて城兵に破られしといふは此処ならん」と書き記していますが、これは『勢州軍記』や同様の内容を記す『北畠物語』などの記述を受けてのものなのでしょう。
ちなみに、『勢州軍記』のもとになった『勢州四家記』には、この戦いについて、池田・丹羽・稲葉が搦手から夜討ちした、日置・安保・家「来」・長野が戦って功名を立てた、信長方は朝日以下侍大将13人が討ち死にした、と簡潔に記されているのみで、空円入道云々は脚色かもしれません。
『勢州軍記』の記述で気になるのは、攻め方を変えて南方から城を攻撃させた、という部分です。
なぜかというと、『勢州軍記』は先に、これより前の攻撃について四方から攻撃、と書いており、すでに南方からも城を攻めているので、つじつまが合わないからです。
攻め方を変えた、というのは、夜襲に切り替えた、ということなのではないでしょうか。
他にも気になるのはこの戦いの日にちです。『信長公記』は9月「8日」としているのに対し、『勢州軍記』はそれよりだいぶ後の9月「下旬」としています(『勢州四家記』も同じ。「いいなん.net」によれば『大河内御所記』には「28日」、『多芸録』には「29日」とある)。他にも、『総見記』は9月「3日」としています。
果たしてこの戦いは9月上旬であったのか?下旬であったのか?
後述しますが、『多聞院日記』など当時の信頼できる一次史料と照らし合わせると、『勢州軍記』が20日近く日にちを間違えていることがわかります。
ですので、この場合も、『信長公記』の記述が正しいと考えるべきであり、『勢州軍記』の日にちは書かれているものから20日ほど引くことが必要なのだと思います。
…となると、次の『勢州軍記』の話はどうなるでしょうか。
…滝川左近将監一益は、10月上旬に信長のもとに馳せ参じ、「この城を長い期間落とせないでいるのを無念に思います、それがしが一度戦ってみようと思います」と言い、伊勢衆を率いて西方の魔虫谷から攻め入った。城内から隙間なく弓鉄炮が放たれ、滝川勢は多くが死に、人馬によって谷が埋まった。しかし一益はこれを物ともせず、ひたすらに攻め登り、塀に至ってこれを乗り越えたが、城内から数万もの、竹槍…尖らせた先端に油を塗り、火であぶったもの…をくりだし、塀の外に突き落とした。それでも滝川勢は立ち上がって攻め登ろうとしたが、再び竹槍によって突き落とされた。一益はついにこらえかねて、兵を引き上げた。…
10月上旬とあるので、20日ほど引いて、9月中旬頃のことかな、と考えることができるのですが、そうなると、『信長公記』と話が合わなくなってしまうのですね😟
なぜかというと、後述しますが、『信長公記』には9月9日頃から信長は力攻めによる攻撃をあきらめているからです。
ならばこの魔虫谷の戦いはいったい…?創作…?
そこで、『勢州軍記』の元ネタの『勢州四家記』にあたってみると、この戦いについて、「魔虫谷にて攻る方の侍多死と也」とだけ記されていて、いつ行われたかも書かれていないのですが、その記述は、池田恒興の広坂口の戦い→織田軍、四方から大河内城を攻撃→魔虫谷で織田軍多く死傷→9月初、船江勢が丹生寺の氏家勢を夜襲…という順で書かれているのですね😯
つまり、『勢州軍記』が9月初の船江勢夜襲の後に魔虫谷の戦いを書いているのはおそらく誤りなのです。
魔虫谷の戦いの実際のところは、大河内城を、8月29日から9月8日頃までの数日間にわたり四方から攻撃した戦いの一部だった、ということなのでしょう(滝川一益が戦ったのかも不明)。
ちなみに、魔虫谷を訪れた斎藤拙堂は、『伊勢国司記略』で次のように書いています。
「(八幡)祠の背は魔虫谷にて険阻なること甚し。瀧川一益ここより攻め登らんとしたれども、城兵に打すくめられて死傷多く、引退きしもむべなりけり。…敵此谷より攻上らんとすとも、本丸、西丸、両方より夾(はさ)みうたば寄りつくべき様なかるべし。此所屈強の矢懸りなり」
魔虫谷の守りはかなり堅固であったことがわかりますね😵
斎藤拙堂は魔虫谷を攻め登ろうとしても、本丸・西の丸から挟撃を受けて先に進むこともできない、と記していますが、先にも述べたように、「七尾七谷」と呼ばれる、大河内城のある山(城山)の挟撃を容易なものとする特殊な形状が織田軍を苦しめました。
『勢州四家記』も、「大河内は七尾谷あり。信長公四方を厳しく囲と雖も落城せず」と記しています。
また、『大河内村史蹟名勝誌』には、「信長は一拳に大河内城を屠る心算であつたが、各所に接戦の結果は、案外に大河内の要害が堅固であり、城兵又意外に勇猛であつた。南山以来傳統の忠烈の血は躍る伊勢武士である。まして國司家浮沈の際に立つての決戦である。城兵の決意結束は牢固たるものがあった」とあり、北畠勢の結束が強く、勇猛であったこともその一因として挙げられています。
織田軍が伊勢に進攻したのは8月20日で、日乗は10日以内に伊勢一国を平定できる、と書状に書いていましたが、平定できるはずの30日になっても戦いは終わらず、攻防は20日が経とうとしていました。
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