※マンガの後に補足・解説を載せています♪
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信長は永禄12年(1569年)4月ごろに名物狩りを実施しましたが、永禄13年(1570年)の上洛中にその第二弾を行ないました。
『信長公記』には次のように書かれています。
名物 召し置かるるの事
去る程に天下に隠れ無き名物、堺にこれある道具の事
天王寺屋宗及 (津田宗及) 一、菓子の絵
薬師院 一、小松島
油屋常祐 一、柑子口
松永弾正(久秀) 一、鐘の絵
何れも覚えの一種共に候。 召し置かれたきの趣、友閑・丹羽五郎左衛門御使にて仰せ出ださる。違背申すべきに非ず侯の間、違議なく進上。則ち、代物金銀をもって仰せ付けられ候キ。
(堺衆の持っていた名物四点について信長がそばに置きたいと思っているということを、松井友閑・丹羽長秀が堺に赴いて伝えたところ、「ご命令に背くなど滅相もないことでございます」ということで、異議なく進上した。そこで、金銀をもってこれを買い上げた)
今回の名物狩りがいつ行われたか、ということについて『信長公記』には書かれていないのですが、今井宗久の書き残した茶会記(『今井宗久茶湯書抜』)には「四月朔日」とあります。日にちについては『甫庵信長記』にも「四月朔日」とあります。どこからこの情報を仕入れたんでしょうか。『甫庵信長記』は信憑性が低いと言われていますが、こういうのを見ると、正確な部分も多いのではないか?と考えさせられます。
名物狩りについて、その『甫庵信長記』は次のように記します。
「同四月朔日、和泉国堺浦にて富める者共が求蓄たる名物の道具共御覧有べしとて、友閑法印、丹羽五郎左衛門尉長秀に被仰付けり、両人承て、堺の南北触しかば、所持の者共、此度奉らではとて持参る程に、いくらともなく集けり、信長卿一々御覧有て、勝れたるを留置れしは、先天王寺屋の宗及が菓子の絵、薬師院の小松島、油屋の常祐が柑子ロなり、則応じたる貨(あたい)より遥に過分に玉わりしかば、三人の者共は、頓に徳付たるようにぞ見えたりける、松永弾正少弼も鐘の絵を進上申しけり」
『甫庵信長記』は、『信長公記』と異なり、松井友閑・丹羽長秀は名物狩りを触れ回っただけで、集まった名物は信長が直接一つ一つ確認し、特に優れた物を選びとったことになっています。
※この後の部分は公開したしません<(_ _)>

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