社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 5月 2023

2023年5月31日水曜日

戦いの中で綱引き?~三ノ山赤塚合戦の事(1552年)

 天文21年(1552年3月3日)、織田信秀が亡くなり、

ついに織田信長が跡を継いだ(おそらく弟の信勝と家督を分割相続)のですが、

前途は多難、さっそく悪い事件が起きてしまいます😓

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇赤塚の戦い

天文21年(1552年)4月17日、織田信秀が目をかけていた鳴海城主、

山口教継織田信秀が死んだとたんに今川氏に裏切ります😱

『信長公記』では天文22年、信長[数え年]19歳の年と書かれているが誤り。そもそも19歳の年ならば天文21年である)

山口教継は鳴海城に息子、20歳の教吉(天理本では23歳)を残し、

自らは笠寺に進んで砦を築き(星崎城)、ここに今川勢葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏)を引き入れます。

そして自身はさらに進んで中村に築いた砦(桜中村砦)に立てこもります。

これを知った信長はその日のうちに800の兵を率いて出陣、

山口教継が立てこもる中村を無視して中根村を抜けて鳴海城方面に向かい、三の山に布陣します。

これに対し鳴海城を任せられている息子の教吉は1500の兵を率いてうって出て、

三の山の東・鳴海城からは北にある赤塚に移ります。

その先頭に立つのは清水又十郎・柘植宗十郎・中村与八郎・萩原助十郎・成田弥六・成田助四郎・芝山甚太郎・中嶋又二郎・祖父江久介・横江孫八・荒川又蔵

三の山でこの動きを見ていた織田信長は即座に赤塚に向かい、ここで戦闘になります🔥

織田信長軍の先陣は荒川与十郎・荒川喜右衛門・蜂屋般若介・長谷川橋介・内藤勝介・青山藤六・戸田宗二郎・賀藤助丞

敵にも味方にも「荒川(『信長公記』では「あら川」)がいますが、同じ一族でしょうか(゜-゜)

ここのメンバーは家老の内藤勝介以外は新登場の人物ばかりですね。

しかしこの後出てくる人物は蜂屋般若介・長谷川橋介のみです(;^_^A

先陣の中の荒川与十郎はなかなかの人物であったようで、

腰に差していた大刀は長さ1.8mに達し、金銀で飾り付けがされていたといいます。

しかしこの与十郎は、戦いの初めに両軍10mほど離れた場所から弓矢を撃ち合った際に、眉間付近に弓矢が直撃して落馬、おそらく死亡してしまいます。

(天理本では敵陣に向かう途中で戦死している。あとの内容的にはこちらが正しいような気がする)

豪華な大刀なども持っていたからか、敵兵は落馬した与十郎のもとにかけよってきて、その脛や大刀の柄を持って自分の陣のほうへ与十郎を引きずっていこうとする。

そうはさせまいと信長側の兵も与十郎の頭と胴体を持って引っ張り返し(;^_^A

(天理本では胴体と刀を引っ張っている)

最終的に「のし付(刀)・頸(頭)・筒躰(胴体)共に引き勝つ」『信長公記』に書かれています。

戦いは午前10時から2時間ほど続き、

「みだれあいて、扣(たた)き合いては退き、又まけじおとらじとかかっては扣き合い扣き合い」という乱戦となったため、お互いに相手の首を取る暇もなかったようです。

山口側は名のある者では萩原助十郎、中嶋又二郎、祖父江久介、横江孫八、水越助十郎が戦死(水越助十郎以外は先に出て来た名前。天理本では死んだのは萩原助十郎・中嶋又蔵・水越助十郎の三人のみ)。

信長側も30人が戦死した。

信長方は荒川又蔵を生け捕りましたが、こちらも赤川平七を生け捕られてしまいます。

その後しばらく、8mほど離れて槍の扣合いになりましたが、

この戦いでは山口教吉は上槍(相手の槍を押さえつけて圧倒すること?)だったといいます。

馬を降りて戦ったので馬はみんな相手側に駆け込んでしまったが、

戦いの後は少しの間違いもなく返還しあい、

捕虜も交換し合ったというから、牧歌的というか、

お互いに知り合いだから厳しくできないというか…💦

(『信長公記』には互いに見知った関係ではあったが手を抜くことはなかったと書かれていますが)

こうして、家督を継いだ織田信長最初の戦いは引き分けに終わったのでした。

しかし山口教継が裏切ったので、尾張内部にさらに今川氏勢力の進出を許す状態となったうえに、

今川氏に寝返った山口教継と戦ったことによって、

今川氏と結んでいた和睦関係に亀裂が入ってしまい、

(山口教継を寝返らせた今川がもちろん悪いのですが)

織田信長をめぐる状況は織田信秀死後すぐに悪化することになってしまいました。

どうする、織田信長!!😥

〇まぎらわしすぎる地名

今回の話では「中村」・「三の山」・「赤塚」という地名が出てくるのですが、

どれもまぎらわしい地名です(;^_^A

なぜかというと、

「中村」は名古屋市に「中村区」がありますが、

今回の話に出てくる「中村」は名古屋市南区にある中村のほうであり、

「三の山」は愛知県知多郡に「三ノ山」という地名がありますが、

今回の話に出てくる「三の山」は名古屋市緑区にある「三王山(さんのうやま)」のことであり、

「赤塚」は名古屋市東区赤塚町のことではなく、

名古屋市緑区にある赤塚のことなのです。

なんてまぎらわしいんだ!!(;^_^A アセアセ・・・

赤塚の戦いに関係する場所。
なお、当時は地図の左半分のほとんどは海であった。

2023年5月30日火曜日

尾張の情勢を心配する斎藤道三(1552年)

 織田信秀死後、尾張では次々と問題が起こります。

鳴海城主・山口教継の離反、

清須織田家が弾正忠家に敵対…。

今川との和睦も破綻に向かっていました。

そのような状況を憂う、2人の人物がいました…。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇尾張の情勢を心配する斎藤道三

天文21年(1552年)6月、斎藤道三は織田秀敏にあてて書状を送っています。

織田秀敏とは何者でしょうか?

まずもって生まれがはっきりしていない人物です💦

『寛永諸家系図伝』では秀敏は織田敏定の子となっています。…となると清洲織田家の人間ということになり、弾正忠家の人間ではなくなります。

『重修譜』では織田信貞の末弟で、織田信秀の叔父となっています。…となると、織田信長にとっては祖父の弟、大叔父ということになります。

『南溟和尚語録』では織田信秀の叔父の子となっています。…となると織田信秀の父・織田信貞の弟の子になります。織田信長にとっては大叔父の子ということになります。

角川文庫版『信長公記』の人名注索引では、「信定の子」と書かれています。

…となると、織田信秀の弟、織田信長にとっては叔父になります。

斎藤道三の書状を見るに、織田秀敏はどうやら織田信長の後見的立場にあったようです。

そのため、おそらく同じ弾正忠家の人間であり、『寛永諸家系図伝』のいう清洲織田家の人間…という可能性は低いでしょう。

また、織田信秀の兄弟に織田秀敏の存在は確認できないため、角川文庫『信長公記』の注はおそらく誤りでしょう。

…となると、織田秀敏は織田信長の大叔父か、大叔父の子であったことになります。

『織田信長の家臣団』などの一般書やさまざまなネット記事には、「大叔父」としているものがなぜか多いですので、「大叔父」というのが通説なのでしょう。

さて、その織田秀敏に対して、斎藤道三はどのような手紙を出したのか、内容を見てみましょう。

「御札拝覧申し候。

御家中の躰、仰せの如く外聞然るべからざる次第に候。此方において迷惑せしめ候。寄り退き候わざる間、共々捨て置かれず、仰せ談ぜらるべき事、然るべく候。何篇でも重ねて使者を以て御存分に承るべく候。

三郎の殿様御若年の儀に候、万端御苦労尤もたるべく候。

尚々、御来音を期され候。

恐惶謹言

六月二十二日   道三(花押)

織田玄蕃允殿」

(玄蕃允[秀敏]殿からのお手紙、拝読いたしました。

織田家の様子について、手紙に書いてあったように、私もよくない噂を聞いております。私も戸惑っているのですが、弾正忠家から離れるようなことはしないので、問題を放置せず、連絡を密にしていきましょう。何度でも使者を派遣されてもかまいせん。

三郎[織田信長]殿はまだ若いですから、玄蕃允[秀敏]殿が色々と苦労されるのも当然なことです。

またお会いしましょう)

当時は尾張国内で織田家が分裂して対立していた上に、

前回のマンガで述べたように、対今川の最前線を担当していた山口教継が離反して今川方につき、それに対して織田信長が攻撃を仕掛けたため、織田・今川間の和睦が破綻するという状況になっていました(◎_◎;)

一方で5月、三河で大給城主・松平親乗が反今川の兵を挙げるという事件が起こりますが、これは織田信長は山口教継の離反に対抗して親乗をそそのかしたのかもしれません。

反今川行動をとり続ける織田信長に対し、

『定光寺年代記』によると、今川義元は9月、尾張の八事に軍を進めたようです。

これに頭を痛めていたのが、今川融和派の平手政秀でした。

平手政秀にとって、国内の様子が不穏なのに、今川を刺激する織田信長の行動はもってのほかに映ったことでしょう。

崩れていく織田信長と平手政秀の関係。

それは、最悪の終わり方を迎えることになるのです…。

2023年5月28日日曜日

[マンガで読む!『信長公記』]の 「万松寺の葬儀」の 2ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

「万松寺の葬儀」2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年5月27日土曜日

万松寺の葬儀

  前回のマンガで述べたように、天文18年(1549年)説~天文21年(1552年)説と幅はありますが、

この期間中に織田信秀は亡くなりまりました(伝染病説や、脳梗塞説など死因も様々)。

そしてその死は、色々なところに影響を与えていくことになります。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇万松寺の葬儀

万松寺と言えば、名古屋市の商店街のアーケード内にある、

超ゴージャスな納骨堂で、商業主義すぎるお寺として有名ですね(;^_^A

ホームページを見るといろいろな「プラン」が紹介されています。

一部を紹介すると、

①慈穏閣(60万円~)

7段納骨堂(7分の1サイズ)の場合は60万円。

3段は180万円、2段は260万円、1段まるまるは520万円¥💰

②白龍館 彩蓮(35万円~)

普通のお墓といった感じの納骨堂。

一番安いのは35万円で、安いと思ったら7回忌プランとある。

たぶん7年間だけ骨を預かるから安いのかな。

ふつうのプランは60万円+年間管理費1万2千円のもの。

一番ゴージャスなのは1500万円(!)+年間管理費3万6千円のプラン😱

ホームページには「贅を尽くした個室。螺鈿細工と絵巻をあしらった優美な空間で永代に亘り供養いたします。」と書かれている😅

③「水晶の輝きに浄化される幻想的な場所」 水晶殿(52万円~)

インスタ映えしそうな、キラキラした空間。

骨だけを入れる水晶でキラキラした引き出しがたくさんある。

これだけふりきっているとすがすがしい😅

この万松寺は由緒正しく、

天文9年(1540年)に織田信秀により2年がかりで作られた、曹洞宗のお寺です(2016年に曹洞宗から離れ、どこにも属さない寺となっている)。

その時の敷地は5万5千坪もありました。

東京ドームが1万5千坪ですからその約4倍もの面積があったわけです(◎_◎;)

ちなみにディズニーランドは15万坪あります(;^_^A

慶長15年(1610年)の名古屋城下町建設の際に創建の場所から移転、

その時に敷地は2万2千坪に縮小します。

その後1945年の名古屋大空襲で焼失、

戦後に復興されて現在に至ります。

つまり、現在の万松寺は3代目と言うことになるのですが、

この万松寺の初代であったときに行われたのが織田信秀の葬儀でした。

『信長公記』には、

去て一院御建立、万松寺と号す。当寺の東堂桃巌と名付けて銭施行(※僧や貧しいものに銭の施しをすること)をひかせられ、国中の僧衆集りて、生便敷(おびただしき)御弔いなり。折節、関東上下の会下僧たち余多(あまた)これあり、僧衆三百人ばかりこれあり。」

…とあり、国中の僧侶だけでなく、旅の修行僧もかき集めた盛大なものであったようです(僧侶合計300人!)。

織田氏の財力がわかりますね(;^_^A

そしてこの葬儀の中心人物となったのは、織田信秀の正妻土田御前の2人の息子、

織田信長織田信勝でした。

織田信長に付き従ったのは、林秀貞平手政秀青山信昌加納口の戦いで戦死した青山与三右衛門の弟)・内藤勝介の4家老たちであり、

信長の弟、信勝には、柴田勝家佐久間盛重佐久間信盛(『信長公記』には「佐久間次右衛門」とあり、佐久間信盛は右衛門なので一致しないが、「佐久間次衛門」なる人物が確認できないため、佐久間右衛門の誤記ともいわれている)という豪華メンバーに加え、長谷川・山田(名前は載っていないが、天理本では長谷川宗兵衛山田弥右衛門と書かれている。長谷川宗兵衛は信長の側近となる長谷川秀一の父とされる。山田弥右衛門はのち丹羽長秀に仕え、野木庄兵衛と名乗った)が付き従う。

厳かに葬儀が行われているところに織田信長が焼香をしに現れるのですが、その時の服装がすさまじく、

『信長公記』には、

「長柄の大刀、脇差を三五縄にて巻かせられ、髪は茶筅に巻き立て、袴も召し侯はで」

織田信長は葬儀にいつもの傾奇ファッションで現れたのですが、

今回はいつもより過激に、

なんと袴を身につけていませんでした(◎_◎;)

一方の弟の信勝は「御舎弟勘十郎は折目高なる肩衣・袴めし侯て、あるべきごとくの御沙汰なり」…きちんと肩衣・袴を身に着けていました(当たり前の服装なのですが)。

そして信長は、焼香の際に、あの有名な事件を起こすわけですね(;^_^A

『信長公記』には、次のように書かれています。

仏前へ御出であって、抹香をくわっと御つかみ侯て、仏前へ投げ懸け御帰り」

焼香に使う抹香(マッコウクジラはおなかの模様が抹香に似ているからそう名付けられたのだとか)を仏前に投げつけるというすさまじいことをしてその場を去っていった。

一同あ然となり、「例の大うつけよ」(やはり大うつけだ)となったのですが、

筑紫(福岡県北部)から来た旅の僧だけは、「あれこそ国は持つ人よ」(あのお方は国をまとめる力がある)と評価したといいます(なんという慧眼!)。

葬儀後、

「末盛の城 勘十郎公へまいり、柴田権六・佐久間次右衛門 、此の他歴々相添え御譲りなり」と『信長公記』に記されているように、

織田信秀が居城としていた末盛城は、織田信勝が受け継ぐことになり、その信勝には先に述べた柴田勝家・佐久間盛重などの面々が家臣として従うことになりました。

ここで1つ不思議なことが起きたことがわかります(◎_◎;)

末盛城は、織田信秀が居城としていたことから、その後継者が受け継ぐべき城でした。

それなのに、織田信長ではなく、織田信勝が得ている。

それに加え、『信長公記』に「三郎信長公は「上総介信長」と自官に任ぜられ侯なり」とあるように、

弾正忠家の当主が代々名乗ってきた「弾正忠」ではなく、「上総介」を名乗っています(史料上で最初に見えるのは天文23年[1554年]11月16日の書状)。

一方で、織田信勝は天文24年(1555年)5月上旬に「織田霜台御史」と呼ばれており、

「霜台御史」とは弾正忠のことですから、弾正忠と名乗っていたことがわかります(◎_◎;)

人々は「うつけ」の信長を認めず、信勝の家督を認めたという事なのでしょうか?

この後、信長は自由に行動していることから考えると、

信勝単独の家督相続であったとは考えづらく、

信長と信勝で家督が分割して相続された、と考えるべきでしょうか。

しかし、横山住雄氏によれば、信勝の支配範囲は、末盛城を中心とした愛知郡東部と、海東郡の一部にとどまっていたようで、そうなると信長の支配地域の5分の1程度ということになり、信長は「末盛城」と「弾正忠」を譲る代わりに多くの土地を得る…名より実を取ったのでしょうか(゜-゜)

しかし、信長としては単独相続ができなかったわけで、それは本人のうつけ的行為のためなのですが、信長としては面白くなく、その怒りが抹香投げにつながったのかもしれません。

尾張国内で清洲織田家などが弾正忠家と敵対し、今川氏の圧力も強まる中、信長と信勝との関係も不穏なものになっていく…尾張の情勢が混迷を深める中、信長は積極的に行動していくことになります🔥

2023年5月24日水曜日

世にも奇妙な物語~景清あざ丸刀の事(1548年)

 前回のマンガで紹介したように、

天文17年(1548年)8月、斎藤利政織田信秀によって、おそらく天文13年(1544年)の戦いの際に奪われていた大垣城を包囲しますが、

この戦いのときに、世にも奇妙なできごとが起こるのです😱

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



名刀「あざ丸」(痣丸)

『信長公記』には次のような怪異譚が載せられている。

「爰に希異の事あり。去る九月廿二日の大合戦の時、千秋紀伊守、景清所持のあざ丸を最後にさされたり。此の刀、陰山下掃部助求め、さし候て、西美濃大柿の並び、うしやの寺内とてこれあり、成敗に参陣候て、床木に腰をかけ居陣のところ、さんさんの悪き弓にて、木ぼうをもって城中より虚空に人数備への中へくり懸け候えば、陰山掃部助左のまなこにあたる。其の矢を抜き候えば、又二の矢に右の眼を射つぶす。

其の後、此のあざ丸、惟住五郎左衛門所へ廻り来たり、五郎左衛門眼病頻に相煩う。「此の刀所持の人は必ず目を煩うの由風聞候。熱田へまいらせられ然るべし」と、皆人毎に異見候。これに依て熱田大明神へ進納候てより即時に目もよくまかりなり候なり。」

…この戦いのとき不思議なことがあった、天文13年(1544年)9月22日の美濃での戦いの時に、千秋季光は、平景清が持っていたという刀、「あざ丸」を身に着けたまま戦死したが、この刀を、陰山一景が手に入れ、これを腰に差して大垣城の隣の牛屋山大日寺の中に陣を構えて床几に座っていたところ、非常に強い勢いで木鋒の弓矢(先がとがっておらず、丸くなっている弓矢)が大垣城中から飛んできて、陰山一景の左目に当たった、一景がその矢を抜くと、今度は右の目に命中した。

その後、この「あざ丸」を丹羽長秀が手に入れたが、長秀は眼病に悩まされるようになった、「この刀を持っているものは必ず目のことで苦しむという噂を聞きます、熱田神宮に奉納なさってはいかがでしょうか」と、どの人も皆勧めるので、熱田神宮に奉納したところ、たちまち眼病が治ったという…。

今回の主役である「あざ丸」は、長さ約55センチほどの刀(脇差)です。

女子高生が使う「ありがとうございます。」の略の

「あざます。」の略の

「あざ。」(あざまる)ではありません(;^_^A

「あざまる水産」とも関係ありません。

なぜ「あざ丸」というのかというと、

刀のつば元に黒いあざのような部分があるのですが、

これには、藤原景清源平の戦いの際に平家方に立って戦った武将。「悪七兵衛」と呼ばれる猛将で、屋島の戦いの際に戦った相手の兜の錣[しころ]を引きちぎったという)が刀を見たときに景清の顔のあざが映って、

それが刀に移動してできたものだ、という言い伝えがあります。

さて、このあざ丸を持っていた陰山一景が天文17年(1548年)の大垣城攻めの際に、なんと両目に矢がささり、

それを受け継いだ丹羽長秀も眼病で苦しんだ…

というのですが、盲目であった藤原景清の怨念の故でしょうか。

藤原景清が盲目であったというのは伝承なのですが、

「日本伝承大鑑」内の記事によれば、

景清が盲目になったのは源氏の世を見たくないので自らえぐり取ったのだといいます(◎_◎;)

大垣攻めの際に両目を失った陰山一景はこの場面しか登場せず、その後どうなったのかも不明なのですが、

『美濃国諸旧記』にはこの場面について、次のように少し詳しく書かれています。

「大垣の近所、牛谷の寺内を焼払いて、敵に働かんとす。其時即ち牀几に腰をかけて諸卒を下知して居ると、流れ矢一筋、寺内より飛び来って、蔭山の左の眼へ二寸許り射込みたり。其矢を抜きて捨てければ、又矢一つ飛び来りて、右の眼を射潰されたり。一度に両眼を盲いたる事、是れ只事にあらずと風説しける。」

『信長公記』の内容にプラスされているのは、

①陰山一景は大日寺(もしくは大日寺の寺内町のことか?)を焼き払おうとしていた

②左目に刺さった矢は二寸(約6㎝)ほど刺さった

③人々は両目を一度で失ったことはただ事ではないと噂しあった

…の3点です。

その後あざ丸は丹羽長秀によって熱田神宮に奉納された、と『信長公記』にあるのですが、

あざ丸は現在も熱田神宮にあり、定期的に公開されています。

ちなみに、「あざ丸」とネットで検索すると、

女性キャラクターの画像がいっぱい出てくる。

これは、「天華百剣」という、刀を女性キャラクター化したゲーム・アニメのものらしい。

うーん、大丈夫なんだろうか(◎_◎;)

2023年5月22日月曜日

若いころの織田信長~上総介殿形儀の事(1549年頃)

 斎藤利政(道三)に大敗北した後、

美濃(岐阜県南部)でも三河(愛知県東部)でも後退をつづけ、

さらに地元の尾張(愛知県西部)でも主人筋の清須織田家との戦いが始まってしまい、

非常に苦しい状況となった織田信秀😰

そこで信秀は方針を転換し、なんと弟・信康などの仇でもあり、長年戦ってきた相手の斎藤利政と同盟を結ぶことにするのです…!💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇織田信長の結婚

斎藤利政と和睦する方法は、斎藤利政の娘と織田信秀の息子の織田信長の結婚でした。

斎藤利政の娘は「濃姫」もしくは「帰蝶」と呼ばれていますが、

「濃姫」は江戸時代中期に作られた『絵本太閤記』によるもの、

「帰蝶」は江戸時代前期に作られた『美濃国諸旧記』に由来する名前であり、

どちらも戦国時代当時の史料ではなく、正確な本名は不明と言わざるを得ません。

さて、結婚についてですが、

『信長公記』には、

「平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟(むこ)に取り結び、 道三 が息女、尾州へ呼び取り侯き。然る間、何方も静謐なり」

(平手政秀の働きにより、織田信長と斎藤利政の娘が結婚することになり、利政の娘は尾張へ迎えられた。そのために、どの方面も平穏になった)

と非常に簡潔に記されているのみで、その年月すら記されていません(;^_^A

『美濃国諸旧記』では、

天文18年(1549年)の春、織田信秀は病が重く、生きているうちに斎藤利政と和睦がしたいということで、結婚を急ぎ、2月24日、利政の娘は古渡城にやってきて織田信長と結婚した、利政の正室の娘はこの娘一人だけだった、結婚を見届けた信秀はこの年の3月3日に(数え年)42歳で亡くなった、この時信長は16歳、利政の娘は15歳であった…。

と書かれており、戦国時代ではなく江戸時代前期に作られたもの・織田信秀の死を3年早くしている…という信ぴょう性に疑問がある点もありますが、

これを信頼すれば、天文18年(1549年)2月24日に織田信長は結婚した、ということになります。

しかし、そうなると疑問を感じるのは、『信長公記』の「何方も静謐なり」という部分です。

天文18ねん(1549年)2月頃というのは、尾張内部で清須織田家と争い、東では今川氏の圧力が高まっている時期にあたります。とても「静謐」とは思えません(;^_^A

ですから、「何方も」というのはどこも…ということでなく。斎藤氏(美濃)とは平穏になった、ということなのでしょうか。実際、この後弘治2年(1556年)に斎藤道三が死ぬまで長きにわたって織田・斎藤間は平和が続きました。

また、もう一つの疑問は、なぜ斎藤利政は織田と和睦してくれたのか、ということです。

織田信秀は危機の状態にあり、これを攻撃すれば尾張を乗っ取ることも不可能ではない状況でした。

しかも、尾張では斎藤氏と結んだ清須織田家が兵を挙げていますので、織田信秀との和睦は、清須織田家にとって裏切りと感じられるでしょう。

斎藤利政が織田信秀と和睦した理由と考えられるのは、

①織田信秀を攻撃すると、これに乗じて勢力を拡大した今川氏と領土を接して戦うことになるため、織田信秀を今川との緩衝地帯にしておきたい。

②美濃の内部も戦い続きで足元が全然固まっていなかった。

…ということが挙げられますが、

以前にも紹介した『信長公記 天理本』にある、

8月上旬に西美濃の氏家・安藤・不破・稲葉と示し合わせ、土岐頼芸と共に美濃を攻撃、これに苦しんだ斎藤利政が和睦を受け入れた、という記述を信じるならば、斎藤利政が織田信秀と和睦したのが合点がいきます。

頼山陽の『日本外史』も、

「8月、信長往いて秀竜を討ち、火を多藝口に縦つ。秀竜、和を請う。信秀、比年、兵興り、上下疲弊するを以て、遂にこれを許す。秀竜乃ち頼芸を復し、女を以て信秀の子信長に妻(めあ)わす」

と、天理本と同様の記述をしています。

ふつう和睦は、負けた方が娘を差し出すものなので、こちらの方が自然な流れのようにも思えます(゜-゜)

織田信秀としても、内部に清洲織田家を抱え、東は今川と対峙するという状況の中にあり、この和睦を受け入れたのでしょう。

〇若いころの織田信長

『信長公記』には、若いころの信長について、

信長、16・7・8 までは、別の御遊びは御座なく、馬を朝夕御稽古、又、3月より9月までは川に入り、水練の御達者なり。其の折節、竹槍にて扣(たたき)合い御覧じ、「兎角、槍は短く候ては悪しく候はん 」と仰せられ候て、三間柄・三間中柄などにさせられ、其の比の御形儀、明衣(ゆかたびら)の袖をはずし、半袴、ひうち袋、色々余多付けさせられ、御髪はちゃせんに、くれない糸・もえぎ糸にて巻立てゆわせられ、大刀朱ざやをささせられ、悉く朱武者に仰せ付けられ、市川大介めしよせられ御弓御稽古、橋本一巴師匠として鉄砲御稽古、平田三位不断召し寄せられ兵法御稽古、御鷹野等なり。爰に見悪(にく)き事あり。町を御通りの時、人目をも御憚りなく、くり・柿申すに及ばず、瓜をかぶりくいになされ、町中にて立ちながら餅をまいり、人により懸かり人の肩につらさがりてより外は、御ありきなく侯。其の比は世間公道なる折節にて候間、大うつけとより外に申さず候」

…と詳細な記述があります。

15~17歳まで(つまり信秀が死ぬまで)、信長は、

朝も夕方も馬に乗り、3~9月まで川に入って泳ぎの練習をした、

また、市川大介に弓を、橋本一巴に鉄砲を、平田三位に兵法を習い、鷹狩もした、

ある時、竹槍どうしでたたき合いをする訓練の様子を見て、

「槍は短くては具合が悪い」と言って、

槍の長さを5.4mもしくは6.3mの長さに変更させた(当時の槍は二間半[4.5m]が標準的な長さであった)、

…というように、特に遊びもせず、

(『信長公記』には後の場面で、趣味は舞と小唄で、舞は『敦盛』の「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」ばかりやり、小唄は「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりおこすよの」というものを好んで唄った、と記されている)

勉強や運動に明け暮れていた様子が書かれています。

これだけ見ると、「ははぁ、織田信長の家来が書いた本だから美化してるのかな😏」と疑いますが、

『信長公記』を書いた太田牛一のスゴイところは、

「爰に見悪き事あり」(見苦しいこともされていた)…と、信長にとってマイナスイメージとなる点もしっかりと書いていることです😓

どんなことかというと、

町を歩いているとき、人目も気にせずに、栗・柿・瓜をかじり、立ちながら餅を食べ、人に寄りかかり肩にぶらさがっていた…というのです(◎_◎;)

しかもその時の格好は湯帷子(ゆかたびら)の袖を外し、火打ち袋など腰回りにたくさん身に着けて、茶せん髷(まげ)を紅色・萌黄色の糸で結い、朱色の大きな刀を差していたというのですから、非常に派手で目立つ格好です💦

最初描いていた片肌脱ぎバージョンの織田信長(;^_^A 

(※織田信長の格好ですが、昔見たマンガのイメージで最初片肌脱ぎで描いていたんですが、袖を外した湯帷子が正しいんですね(;^_^A)

当時は「傾奇(かぶき)者」と呼ばれる、変わった(派手な)格好をして、

常識破りなふるまいをする人々が現れていました。

常識破りな行動をする人は、それが常識になるまでは

白い目で見られます。

『信長公記』にも、

「其の比は世間公道なる折節にて候」

(その頃の世の中は礼儀がきちんとしていることが良いとされている時期であった)

と書かれており、この頃は下剋上の戦国時代ながらも礼儀は守られていたようです(ビックリ)。

おそらく16世紀後半頃から、17世紀の日本はマナーなんてあってなきが如しの状態になったのではないでしょうか(農民・下級武士クラスが大名になるケースが急増したため?)。

17世紀後半に出された生類憐みの令も、人々に思いやりの心を持たせるのが目的であったようですし…(;^_^A

…ということで、時代の一歩先を行っていた織田信長は、「大うつけ」(大馬鹿者)と呼ばれたわけです。

「うつけ」とは「空け」「虚け」と書きます。

どちらも「空っぽ」という意味。中身がない…つまり、「おバカ」という意味です。

戦国時代に「傾奇者」がいたように、

南北朝時代にも「バサラ」と呼ばれる、常識破りな行動をする人たちがいました。

世の中が乱れているときはそういう人たちが出てくるんでしょーか。

しかし、世の中が大変なときは、そういう常識破りな人が斬新な発想でもって世の中を変えていくことになるんでしょうね💦

先に述べたように、『信長公記』に信長が槍を長いものに変更した、

というのも斬新な発想ですし、

大名の息子自ら鉄砲を学ぶというのも斬新です。

これからそんな信長が戦国時代を切り開いていくことになります。

2023年5月21日日曜日

織田信秀、死す~備後守病死の事(1552年)

 後退を続ける弾正忠家に、追い打ちをかけるような出来事が起こります。

数年にわたって病に苦しんできた弾正忠家当主・織田信秀が亡くなったのです…。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇織田信秀の死

織田信秀の死について、

『信長公記』は、

…織田信秀殿は流行病に悩まされ、様々な祈祷や治療が試みられたが効果なく、ついに3月3日、(数え年)42歳で亡くなった。人生ははかなく、無常なものではあるが、悲しいことである。これは、さっと風が吹いて多くの草についていた露を散らし、長い雲が満月を隠したようであった。…

「備後守殿疫癘に御悩みなされ、様々御祈祷・御療治候と雖も御平愈なく、終に三月三日、御年四十二と申すに御遷化。生死無常の世の習ひ、悲しいかな、颯々たる風来ては万草の露を散らし、漫々たる雲色は満月の光を陰す。」

と記し、何年の3月3日かは明らかにしていません。

そのため、信秀の亡くなった年について、

①天文18年(1549年)説

『織田系図』小瀬甫庵『信長記』(江戸時代初期成立)などに天文18年(1549年)3月3日とある。

『武功夜話』には天文18年(1549年)に信秀は亡くなったが、3年その死を隠した、とある。

天文20年(1551年)説

『織田家雑録』(江戸時代初期成立)『箕水漫録』(江戸時代後期成立)に天文20年(1551年)とある。

(ゲーム『信長の野望』は、常に1551年説をとっている。生まれた年は天道までは1510年、創造以降は1511年と変化)

③天文21年(1552年)説

・葬儀が行われた万松寺の過去帳に「天文21年」(1552年)とある。

『定光寺年代記』では天文21年のところに信秀の死が記録されている。

…とさまざまな説があります。

しかし、以前に紹介したように、天文18年(1549年)の11月28日と、天文19年(1550年)の11月1日に信秀は書状を出していますし、これが死を隠した代筆であったとしても、3年死を隠すなど難しいので、天文18年説はおそらく誤りでしょう。

残るは天文20年説と21年説なのですが、

資料の信ぴょう性としては同時代の記録である天文21年説の方が明らかに高いです。

また、天文20年(1551年)9月20日の書状には「備後守」とあるのに、

天文21年(1552年)10月21日の書状には「桃岩」と法名で書かれていることも天文21年説の正しさを裏付けます。

諸説はありますが、亡くなった年として一番可能性が高いのは天文21年(1552年)なのでしょう。

一方で、『定光寺年代記』には、(天文21年)「三月九日に織田備後殿死去」とあり、

3月3日とする『信長公記』と日付に違いが見られます。しかし、他の説でも年は違えども日にちは3月3日で一致しているため、おそらく3月3日が正しいでしょう。

…ということで、天文21年(1552年)3月3日に織田信秀が亡くなったということで話を進めますが、

その後行われた、織田信秀の葬儀の導師を勤めた大雲禅師(『亀山志 下巻』に、織田信秀の伯父とあり、二人は会わない日が無いほど親密であったという。1482年~1562年)の「下火(あこ)語」(遺体に転嫁する儀式の際に話した言葉)が残っており、

それには、

…亡くなった桃巌(織田信秀)殿は、手柄を立てることが他よりもとびぬけて優れ、心は思いやりがあって情け深く、神の功徳を敬い得難い供物をささげ、先祖を慕い金銭を寄付し、優れた人物を招く際に最も良い礼物を差し出し、礼儀正しく丁寧に高僧を訪ねた、ただ孫武と呉起の兵法を身につけるだけでなく、張良や陳平のように相手の謀略を見破った、そのため戦えば必ず勝ち、進めばすばやく敵を追った、これによって尾張国は豊かになり、他国はその権威を恐れた、…

「…其れ惟れば、新物故桃巌道見大禅定門、功名傑出、志気仁慈、神德を仰げば則ち金玉幣帛を奉献し、祖風を慕えば則ち浄財貨貲を捨至し、璧を加えて諸彦を引き恭しく明師を礼訪す、啻だ孫呉兵術のみに慣らわず、況や之れ良平が謀諮を挫く、是の故に戦必ず勝つ、進んでは速やかに追う、此れに依て闔国其の豪奢に誇る、他邦其の権威を憚る」

と、その人となりについて紹介され、

頼山陽『日本外史』には、おそらくこれを要約した部分があり、

「信秀、武を嗜み士を喜ぶ。士多くこれに帰す」と記されている)

その後に、

…しかしある日突然流行病にかかり、急激に雄々しい立派な姿を失った。…

「俄然として一朝災疫に罹る、忽爾として壮年の雄姿を損す、…」

とあり、ある日突然に体調が悪化したことがわかります。

1563~1597年に日本に滞在したルイス・フロイス『日本史』で、

…織田信長の父が尾張で瀕死になった際、祈祷させるために集めた僧たちに病気から回復するか尋ねたところ、僧たちは回復することを保証した。しかし父は数日後に亡くなった。そこで信長は僧たちをある寺院に閉じ込め、貴様らはウソを言った、自分の命が助かるよう祈るがよい、と言い、(逃げようとした?)僧を何人か射殺した…と述べています。

また、『日本史』には、「織田信長は、尾張の国の3分の2の主君であった殿の第二子であった」と書かれていますが(第二子ではなく第三子の可能性が高い)、

弾正忠家を隆盛に導き、尾張のほぼ全域を勢力下におさめ、美濃大垣城三河安城城をも攻め取った織田信秀も、

後半は失敗が続き、大垣城・安城城を失い、今川に尾張国内にまで攻めこまれ、清須織田家や犬山織田家など他の織田家が敵対し、

その勢力範囲は海東郡・中島郡・愛知郡の西部・春日井郡の中部にまで後退していました。

織田信長は、このすさまじい逆境の中で父の死を迎えたわけです(◎_◎;)

どうなる、信長…!💦

2023年5月20日土曜日

斜陽の弾正忠家~試練の天文19年(1550・1551年)

前回のマンガで、犬山織田家が弾正忠家と対立したことを描きましたが、

犬山織田家が兵を挙げたことで幕を開けた天文19年(1550年)は、弾正忠家(尾張)にとって次々と苦難がやってくる試練の年でありました。

弾正忠家はこの年をどのようにして切り抜けたのでしょうか…!?(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇斜陽の弾正忠家

織田信秀が病気で倒れた後、今川軍は尾張にすさまじい攻勢を仕掛けます。

越中(富山県)の僧、日覚の天文19年(1550年)閏5月16日の聞き書きには、

「尾張も以外大乱にて候」(尾張は思いもよらないほど大きく乱れているらしい)、

また、10月19日には、

「駿河・遠江・三河已上6万計にて弾正忠に向寄来候え共、国堺に相支候て、于今那古野近辺迄も人数は不見之由候」今川義元駿河・遠江・三河の兵6万を尾張に差し向けたが、織田信秀は国境で防いでいるため、今まで那古野周辺に今川勢を見かけたことはないそうだ[国境で防ぐために出払っているため、尾張の兵を那古野付近でも見かけない、と読む説もある])

『定光寺年代記』には、

「尾州錯乱8月駿州義元五万騎にて智多郡へ出陣…8月2日大雨洪水」とあり、

天文19年(1550年)の尾張が戦乱に天災に大変な状況にあったことがうかがえます(◎_◎;)

今川軍はこの年の6月までに尾張の国境近くにある三河の福谷城を攻略して尾張に迫ると、

9月17日には三河との国境付近にある雲興寺(瀬戸市赤津町)に制札(自分の軍の兵士に略奪や放火の禁止を知らせるもの)を出し、

12月までには愛知郡沓懸・高大根・部田・大脇・知多郡横根を勢力下に置くまでになります。

その中で、織田方はおそらく朝廷・幕府に今川方との和睦仲介を要請、朝廷・幕府は昔の禁裏修理のよしみもあったため、天文19年(1550年)、大納言の四辻季遠が和睦を仲介、

その結果、『定光寺年代記』に「同雪月帰陣」とあるように、天文20年[1550年]12月に今川軍は帰陣しました。

この際、今川義元はおそらく前の年に手に入れていた刈谷城を水野氏に返還、

(後年の永禄3年[1560年]12月2日の今川氏真書状には、今川方が刈谷城を攻略した後、尾張勢は刈谷城を封鎖しようと出撃、今川方の松井宗信は度々これと戦った、と記されているので、刈谷城をめぐってその後何度か戦いがあったようである)

その交換条件として織田方に今川方を攻撃しないことを、織田方の鳴海城主・山口教継を通じて約束させています(12月5日の今川義元書状「織備懇望の子細候間、苅谷赦免せしめ候、此方味方筋の無事、異議無く山左申調候様、両人異見見せすむべく候」)。

鳴海城主・山口教継は今川に相対する最前線の地域を守っていた人物であり、そのため今川方との和平に骨を折ったのでしょう。

しかし、翌年の天文20年(1551年)には岩崎城主の丹羽氏識が、織田方の藤島城主・丹羽氏秀の城を奪い、織田勢が氏秀を助けて平針で戦ったものの敗れるという事件が発生しており、

ここからは、①織田・今川間はまだ不穏であったこと、②日進市のあたりまで今川の勢力下に入っていたことがわかります。

そのため、天文20年(1551年)の2月13日・6月28日・7月5日・7月6日に、

関白近衛稙家が和睦の継続を今川義元に要請する事態になりました。

それが実ったのか、この年は織田・今川間は比較的平穏でしたが、

12月には三河青野城主・松平甚二郎が今川に背き、弟の松平忠茂に追放されるという事件が発生しました。

12月11日の今川義元の書状には、「甚二郎」「逆心」(主君に背く心を抱いて)して「敵」「返忠」(裏切り)をした、と書かれていて、この「敵」が誰かは判然としないのですが、おそらく織田方でしょう。

天文20年(1551年)には織田信秀の書状が見られなくなるため、

この頃織田信秀の病状は相当重いものになっていたと考えられます。

ですから、この松平甚二郎騒動に関与していたのは、おそらく織田信長でしょう。

この後も織田信長は積極的に三河の武士を調略して、反今川の兵を挙げさせていくことになりますが、織田信長は対今川強硬派だったのでしょう(◎_◎;)

この様子を見て、今川との和睦に苦労した山口教継は、どう思ったでしょうか…。

2023年5月17日水曜日

信長の元服と初陣~吉良大浜の戦い(1546・1547年)

 織田信長、いよいよ元服&初陣です!😝

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇織田信長、最初の戦い

織田信長の元服と初陣の様子について、『信長公記』は次のように記しています。

…吉法師殿は(数え年で)13歳のとき、林秀貞・平手政秀・青山与三右衛門・内藤勝介がお供して、古渡城で元服し、織田三郎信長と名乗ることになった。その際の祝いの儀式や酒宴の様子は、並み一通りのものではなかった。翌年、織田信長は初陣するが、その時の準備は平手政秀が執り行った。信長は紅の筋が入った頭巾をかぶり、羽織を身に着け、馬にも鎧がつけられた。今川方の兵が送られているところの中で、吉良大浜に出陣、各地に火をつけ、その日は野営し、次の日に那古野城に帰った…。

「吉法師殿十三の御歳、林佐渡守・平手中務・青山与三右衛門・内藤勝介御伴申し、古渡の御城にて御元服、織田三郎信長と進められ、御酒宴・御祝儀、斜めならず。翌年、織田三郎信長、御武者始めとして、平手中務丞、其の時の仕立、くれない筋のずきん、はおり、馬よろい出立にて、駿河より人数入れ置き候三州の内、吉良大浜へ御手遣、所々放火候て、其の日は野陣を懸けさせられ、次の日那古野に至て御帰陣。」

数え年というのは、生まれた時を0歳とせず、1歳とする年の数え方のことです。

さらに、年齢は1月1日をもって1歳プラスされます。

つまり、12月末に生まれた子どもは、生まれた翌日に2歳になるということです(;^_^A

織田信長は天文3年(1534年)生まれなので、数え年13歳の時というのは天文15年(1546年)のことになります。

天文15年(1546年)というと、天文13年(1544年)の美濃での大敗のあと、外征はせず、勢力回復に努めていた時期になります。

美濃の大敗といえば、

信長が古渡城で元服する際に、いっしょに那古野城からついていった家老たちの中に、青山与三右衛門がいるのですが、

この青山与三右衛門は美濃での大敗の際に戦死しているので、『信長公記』の記述は誤りということになります💦

青山与三右衛門には、青山三衛門という名前が非常によく似た弟がおり、与三左衛門と間違えたのかもしれません(;^_^A

さて、織田信長、幼名吉法師は、元服して通称が三郎、諱が信長となるのですが、

「三郎」については、三男だったこともあるのですが、祖父の信貞が「三郎」、父の信秀も「三郎」だったことから、三郎=弾正忠家の当主、という意味合いがあったと考えられます(父の信秀は長男なのに「三郎」だったことからも、「三郎」=弾正忠家の当主、というのは明らかです)。

ちなみに信長は後継者の信忠には「勘九郎」の名を与えており、この伝統には従っていません(;^_^A

そして信長は翌年…つまり天文16年(1547年)、13歳の時に初陣を果たします。

他の戦国武将でいうと、徳川家康が15歳、武田信玄が15歳、上杉謙信が14歳のときに初陣しているので、少し早いほうだったと言えるでしょう。

『信長公記』には初陣の際の信長の格好についても記されていますが、

紅筋の頭巾・陣羽織・馬にも鎧と、ハデハデしい格好でした(;^_^A

「くれない筋のづきん(紅筋の頭巾)」とは、

『日本国語大辞典』によれば、「紅の横筋文様を織り出した織物の一種」なんだそうです。

信長はこの格好で初陣することになるのですが、その攻める場所に選ばれたのは吉良大浜でした。

初陣の日付はわからないのですが、

『信長公記』には今川軍の兵士が送られていたところを攻めた、と書かれており、

今川と織田は天文16年(1547年)の途中の9月頃までは敵対関係にはなかったので、天文16年(1547年)の9月~12月のことだったと考えられます。

信長が攻めた大浜の領主は長田重元(1504~1593年)でした。

この長田重元は松平広忠の家臣であったようなので、

織田信長は松平に属する大浜城を攻撃しに行ったことになります。

そして、この頃、松平と結んでいた今川軍の兵がいくらか大浜城に送られていたのでしょう。

初陣は基本、幸先の良いスタートが切れるように、難しい相手は選ばないものです。

今回、大浜が選ばれた理由は、『碧南の民話』によれば、

大浜城主の長田重元が岡崎城に出かけていて留守だと織田氏に内通した者から聞いていたため、

城主がいない場所を攻めるのは楽だと考えられたからでした。

『信長公記』には、大浜に行って各地に火をつけて翌日帰った、とだけ書かれていますが、

『碧南の民話』によれば、

長田重元は内通した者がいると知り、あわてて夜のうちに帰ってきて信長軍を待ち構え、信長軍に戦いを挑みました(現在の碧南市天王町付近)

不意を突かれた形で戦闘になった織田信長は多くの兵士を失って敗れ、付近の民家や極楽寺に火をつけて体裁は繕って退却していった、死んだ織田軍の兵を弔って作られた塚が13個あったので、人々は十三塚(じゅうさづか・とみづか)と呼んだ、と現地では伝えられているそうです。

現在、碧南市に「十三塚」という地名は残っていませんが、

碧南市向陽町には、昔「十三塚(とみづか)」と呼ばれた地域があったそうですので、ここが戦いの地であったのでしょう。

『信長公記』には書かれていませんが、現地の伝承を信じるならば、

織田信長はホロ苦?デビューだったことになりますね💦

(ちなみに戦った相手の長田重元は大浜一筋な人で、その後大浜に作られた城を任され、1593年大浜で亡くなっています)

2023年5月15日月曜日

「織田・今川の本格的な武力衝突~小豆坂の戦い」の2ページ目を更新!

  「歴史」「戦国・安土桃山時代」のところにある、

2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年5月13日土曜日

武衛騒動(斯波義敏・義廉の対立)と尾張

 前回のマンガでは、織田郷広・織田久広の兄弟争いについてふれました。

この争いは結局、おそらく郷広と久広の妥協で、郷広は守護代職をあきらめるが、久広の次は郷広の子の敏広とする、ということで終わったようです。

これで一件落着かと思いきや、また次なる火種が表れ、織田氏はそれに巻きこまれることになっていくのです…💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇斯波氏の内訌

織田氏の内部抗争があった頃、主君の斯波氏も混乱状態にありました(◎_◎;)

なぜかというと、

1405~1409年に管領を務めた斯波義重(1371~1418年。斯波義将の子)が1418年に47歳で亡くなると、

その子の斯波義淳(1397~1434年。1409~1410,1429~1432年に管領)は1434年に37歳で死亡、

その子の義豊(1415~1432年)は父に先立って17歳で死亡していたため、

義淳の後を継いだ義郷(義淳の弟。14101436年)も落馬して26歳で死亡、

『看聞御記』には、「馬陸梁落馬、絶入打頭云々」とある)

その子の斯波義健(1435~1452年)がわずか1歳で跡を継ぎますが、

これもまた1452年に子が無いまま17歳で死亡し、斯波氏の嫡流は断絶してしまいました。

こうも当主が連続して死ねば、混乱状態にならないわけがありません。

斯波氏の跡を継いだのは、一族の有力者・斯波持種(斯波義将の弟の孫。14131475年)の子、

斯波義敏14351508年)でした。

この頃、幼少の斯波義健の後見を務めた甲斐将久(?~1459年。出家して常治。越前・遠江守護代)が斯波氏を上回る勢いで勢力を伸ばしており、これを面白く思わない斯波持種・義敏と対立します。

当時幕府は有力守護の力をそぐために、守護代と手を結ぶ傾向にあったのも、これに拍車をかけました。

1456年には、斯波義敏は甲斐の横暴を幕府に訴えますが、甲斐有利な裁定を出されてしまいます。

これは、政所執事伊勢貞親の側室が甲斐常治の妹だった、という理由もあったようです(ひどい…)

怒った斯波義敏は、長禄元年1457)、京都東山の東光寺に引きこもってしまう、という事件を起こします。

また、甲斐氏の圧迫に苦しめられていた越前・尾張・遠江の国衆たちもこの裁定に怒り、

11月に起きた徳政一揆(この時の一揆は相当激しかったようで、『経覚私要鈔』には、「下として上を計らうの条、下剋上の至り、狼藉所行、未曾有のもの哉」と記されている)に乗じて、幕府に対する腹いせに京都で乱暴を働きました。(もはやヤクザの世界…)

幕府は甲斐常治・織田敏広・朝倉孝景山名教豊山名宗全の子)にこれの鎮圧を命じ、

国衆たちは越前の有力国衆である堀江利真の子・兄弟2人など36人を失うなど敗北します。

国衆たちの怒りはさらに燃え上がり、本格的な抗争に発展しそうになったので、

長禄2年(1458年)2月、幕府は斯波義敏の家来たちの所領を安堵することを条件にして、斯波義敏の引きこもりをやめさせます。

『碧山日録』によれば、幕府では、重臣会議で「斯波氏は足利氏の一族である。斯波氏で乱が拡大すると、その禍は足利氏に及ぶだろう」と話し合いがあり、斯波義敏を復帰させることにしたのだといいます。

また、斯波氏の戦力を、関東で幕府に逆らう足利成氏1438?~1497年)征伐に利用したかった、という思惑もありました。

しかし、9月17日に足利成氏討伐を命じられた斯波義敏は「以ての外の迷惑」『大乗院寺社雑事記』)と感じて受け入れず、甲斐常治も免除を願い出るありさまでした。

なぜかというと、実は両者間で7月からすでに越前で戦いが始まっていた長禄合戦)ため、それどころではなかったのです。

斯波方・甲斐方は越前で激しく争い、その様子は、『経覚私要鈔』に「主従合戦未曾有次第也」と書かれるほどでした。

幕府は12月に再度、斯波義敏に関東の古河公方征伐を命じ、義敏はついに重い腰を上げますが、

斯波義敏は近江(滋賀県)の小野まで進んだところで行軍を停止します(◎_◎;)

それどころか、劣勢になった味方を救うため、古河公方征伐軍を率いて越前に攻めこんでいます💦

幕府は命令に従わない斯波氏に怒り、周辺の守護大名に甲斐氏を支援するように命じます。

長禄3年(1459年)8月、敗れた斯波義敏は周防(山口県)の大内氏を頼って逃亡したため、

斯波氏の家督は義敏の子の松王丸(のちの斯波義良[1457~1513年])が継ぐことになりましたが、

甲斐敏光(8月12日に亡くなった甲斐常治の子)と越前の豪族・朝倉孝景によって寛正2年(1461年)、松王丸は出家させられ、

斯波氏の親族の渋川氏から義廉(1446?~?)が斯波氏に入って当主となりました。

ここに完全に斯波氏は甲斐氏に牛耳られる形となってしまったわけですが、

寛正4年(1463年)、なんと周防に逃れていた斯波義敏が赦免されるという出来事が起こります。

あれだけ幕府に逆らった斯波義敏の赦免に、『大乗院寺社雑事記』は「誠に以て天下の珍事たるべきか」と驚きが記されています。

赦免された理由としては、

『大乗院寺社雑事記』は、将軍・足利義政の母・日野重子が亡くなって百日目にあたり、母が極楽に行けるように恨みを持っていそうな者たちを赦した…とし、

『経覚私要鈔』「伊勢守申沙汰」と記して、伊勢貞親が赦免するように足利義政を誘導した…とします。

『応仁記』によれば、伊勢貞親の側室と斯波義敏の側室は姉妹関係にあったそうで、

その縁で斯波義敏は許されたと思われます(伊勢貞親、公私混同すぎる…💦)。

赦免された義敏は次いで寛正6年(1465年)に上洛が許され、

翌文正元年(1466年)8月に義敏は義廉に代わってついに守護に復帰します。

これに『大乗院寺社雑事記』は「一天大儀出来、珍事云々」と反応しています。

同じく斯波義廉もあまりのことに驚き反発し、伊勢貞親のやり方に反発を覚える山名氏・細川氏などの有力大名も反対に回ります。

(斯波義廉の母は山名氏の娘であり、この年の8月に義廉が山名宗全の娘[養女とも]と結婚したという関係性もあった)

『文正記』にはこの時の京都の騒動が尾張にも及んでいたことが、次のように記されています。

「風(ほのか)にきく、文正元年丙戊七月中旬の比(ころ)従り、洛中躁動、天地覆す、諸国之軍兵,おびただしく馳上り、辺土に至るまで、雲の如く霞の如く充満す、其員幾千万と云うことを知らず、然る間、尾州守護代纖田兵庫助敏広、遠州陣を払い、しばらく汗馬を休め、気を甘け在国仕り、此の雑説をきいて上洛之支度有りと雖も、諸一族之僉議に依りて、京都の一注進を待つ処に、国中強人と同浪人与して、四方に蜂起し、剰え下津を襲わんと欲す、然らば大路小路城門城門櫓櫓に、役人を置きて、警固にすえ、乱株・逆木・雉堞(ししがき)等を構え、日夜に用心す、その威におののき、彀(やごろ)間近く攻め寄せず、駆け出して薙ぎ倒さんと欲すも、城の中は無勢なり、封疆広く、もしくは御方に野心の輩有て、強人・浪人に入れ替わられざらんやと、かけひき思案最中なり、彼の妖けつ姦賊屯すと雖も、京の静謐を聴いて、敗北逃走して、行方知れず、是故に泰山の安きに国を措く、同名次郎左衛門敏貞、七月十八日、時刻を移さず、小臣の身と雖も、最前に一騎馳せ上る事、当千と謂うべし、寔(まこと)に是三軍も帥を奪うべきとも、匹夫も志をば奪うべからず、其れ斯くの謂か、同参河守広成、八月四日に猛勢を引率して、洛中に入り、貴殿に対面し、艮(うしとら)の櫓を警固す、然らば敏広、其の身は国の固め為りと雖も、猶々京都の雑説は櫛の歯を引くが如く、夜を日に継ぎて、飛脚羽書刻々到来す、之に因り、八月下旬、国中の勢を分けて、家弟与十郎広近に指し副え、相従輩は、同名従父兄弟三郎広久・同名九郎三郎広泰、其の余の兵卒、あげて記すに耐えず、率いて上洛せしむ、…」

(文正元年[1466年]7月中旬頃、京都におびただしい数の諸国の兵士がやってきて、雲霞の如く充満した、その数は幾千なのか幾万なのかもわからないほどであった。そのため、尾張守護代・纖田敏広は、遠江に出陣していたが陣を払い、尾張に戻った。上洛の準備はできていたが、一族の話し合いで、京都からの報告を待つことになった。そこに、尾張の有力者と土地を失った浪人たちが協力して蜂起し、守護所のある下津を襲おうとした。そうであるからには、道・城門・櫓に、兵士を置いて固く守らせ、乱株・逆木・雉堞等を構え、昼も夜も用心した。敵方はその威を恐れ、突破しようと思っても、弓の射程範囲内に攻め寄せることができない。下津城の中は広いが、兵の数は少ないので、内応者が出て反乱勢を引き入れてくれないだろうかと考えて、その場にとどまっていたが、京都の様子が落ち着いているというのを聴いて、勝ち目が無くなったと判断した反乱勢はちりぢりになって逃走したので、ようやく一息つくことができた。織田敏貞[敏定とは別人]は、7月18日、反乱勢が去ってからすぐに、身分の低い家臣であったが、一騎で上洛して斯波義廉のもとに駆けつけた。勇者と言うべきである。「大軍であってもまとまっていなければ敗れることはあるが、身分の低い者であっても、意志が固ければ、その気持ちを変えることができない」というのは、このことをいうのだろう。織田広成は8月4日に軍勢とともに京都に入って斯波義廉に対面し、館の北東にあった櫓を守った。織田敏広は尾張に残っていたが、京都からはひっきりなしに窮状を伝える手紙が届いたので、8月下旬、尾張に残っていた兵士を分けて、弟の広近に与え、従兄弟の広久・広泰とともに上洛させた…)

尾張の内部も不穏になってきたので、守護代・織田敏広は上洛せずに留守番をしていたわけですが、

一方で、『応仁記』には、

「義廉は尾張の守護代織田兵庫助、其の弟与十郎に軍副被召上、越前・遠江の勢も召上らる、京都には甲斐・朝倉・由宇・二宮の被官共、多勢と申すに計なし、…」

(斯波義廉は織田敏広とその弟・広近に軍とともに上洛させただけでなく、越前・遠江の軍勢も上洛させた。京都には甲斐・朝倉・由宇・二宮らの軍勢もいたので、その軍勢は数え切れないほどになった)

…と書かれており、こちらでは織田敏広も上洛しています。よくわかりません(;^_^A

9月6日、集まった軍勢を背景にして、ついにクーデター(文正の政変)が起こり、伊勢貞親・斯波義敏などは没落することになりました(-_-;)

しかしこれで一件落着とはならず、次は細川・山名間で主導権争いが起こっていくことになり、これに斯波氏や畠山氏の内輪もめも絡んで、応仁の乱に発展していくことになるのです…(-_-;)

2023年5月10日水曜日

ロシア・対独戦勝記念日のプーチン大統領の演説(5月9日)

 2023年5月9日、ロシアで対独戦勝記念日の式典が行われ、

そこでプーチン大統領が演説をしました。

その演説の全文がUHB 北海道文化放送のネット記事で紹介されていたので、

(↑ネット記事へとリンクしています。写真なども豊富に載っていますので、ぜひ一度ご覧ください🥺)

それを引用させていただきます。

「尊敬するロシア国民よ!

 親愛なる退役軍人の皆さま!

 ロシアの兵士、水兵、軍曹、下士官、中尉、准尉! 将校、将軍、提督!

 特別軍事作戦の参加する兵士、指揮官!

 戦勝記念日、おめでとう。

 この日は、祖国を守りながら、その名をはせ、不滅の存在となった我々の父、祖父、曽祖父をたたえる日だ。

 彼らは、計り知れない勇気と多大な犠牲を払い、人類をナチズムから救った。

 今日、文明は再び重要な転換点を迎えている。祖国に対して再び真の戦争を仕掛けられたが、我々は国際テロを撃退し、ドンバスの住民を守り、安全を確保した。

 我々にとって、ロシアにとって、西にも東にも非友好的で敵対的な民族は存在しない。この地球上の大多数の人々と同様に、我々も平和で、自由で、安定した未来を望んでいる。

 我々は、自国が他国よりも優れているイデオロギーは反感を買い、嫌悪すべき犯罪的なもので危険だと確信している。

 欧米は世界を征服しようとしたナチスの狂気が何をもたらしたかを忘れているようだ。この怪物的な完全悪を打ち破ったのは誰か、祖国のために立ち上がり、ヨーロッパの人々の解放のために命を惜しまなかったのは誰かを、彼らは忘れてしまったのだ。

 我々は、多くの国でソ連兵や偉大な指揮官の記念碑が無慈悲かつ無惨にも破壊され、ナチスとその協力者が再びあがめられている。

 本物の英雄たちの記憶が消し去られ、ゆがめられている様子を目の当たりにしている。

 勝利という偉業を果たした世代の犠牲者を冒涜(ぼうとく)することは犯罪以外の何ものでもない。

世界中からネオナチ崩れのゴロつきを集め、ロシアに対する新たな敵対キャンペーンを皮肉的かつ公然と準備すること、これは彼らのあからさまな仕返しだ。

 彼らの国的に、新しいものはない。我が国を崩壊・消滅させ、第二次世界大戦の結果を覆すことで、国際的な安全保障とシステムを決定的に破壊し、各国の主権を絞めつけることだ。

 彼らの過剰な野心、傲慢(ごうまん)さ、手段を選ばないやり方は、必然的に悲劇を招く。これこそが、ウクライナ国民が現在直面している悲劇の理由だ。

 ウクライナ国民は、欧米という支配者、犯罪政権によるクーデターとの人質となり、残酷で利己的な計画を実行するための交渉材料にもさせられている。

 我々ロシア人にとって、祖国を守った人々の記憶は神聖なものであり、我々は、その記憶を心に刻んでいる。我々はナチズムと勇敢に戦った権力への抵抗(レジスタンス)した兵士たち、アメリカ、イギリス、その他の国の連合軍の兵士に敬意を表する。

 また、我々は日本の軍国主義との戦いにおける中国の戦士たちの武勲にも敬意を表する。

 私は共通の脅威との戦いにおいて、連帯とパートナーシップを築いた経験は、我々のかけがえのない財産であると確信している。

 信頼と決して損なわれてはならない安全保障、すべての国、民族が独創的に、かつ、自由に発展する平等な権利という大原則に基づき、より公正な多極化世界へ向けた不可逆的な動きが勢いを増している今、それは確固たる支柱となる。

 今日、独立国家共同体の首脳が、ここモスクワに集まったことは、非常に重要なことだ。私は、我々の祖先の武勲に対する感謝の表れだと考えている。

 ソ連の民族はともに戦い、ともに勝利した。ソ連のすべての国民が、共通の勝利に貢献した。

 我々は、このことを決して忘れてはならない。戦争によって命を奪われた、すべての人々、息子、娘、父親、母親、祖父、夫、妻、兄弟、姉妹、親族、友人をしのび、我々はこうべを垂れます。

ここで1分間の黙祷。

 (1分間の黙祷)

 尊敬するロシア国民よ!

 祖国の運命を左右する戦いは、常に国家的、民族的、神聖なものになった。我々は祖先の教訓に従い、その軍事的、労働的、道徳的業績の高みにふさわしいとはどういうことなのか、深く、はっきりと理解している。

 我々は、特別軍事作戦に参加した人、最前線で戦っている人、銃撃の中で前線を守っている人、負傷者を救っている人、すべてを誇りに思う。戦闘における皆さんの任務ほど、重要な大義はない。

 我が国の安全、国家・国民の未来は、あなた方にかかっている。

 あなた方は名誉ある軍務を果たし、ロシアのために戦っている。

 あなた方の家族、子どもたち、友人たちは、あなたの後ろについている。彼らはあなたを待っている。

 あなた方は、彼らの限りない愛情を感じていると確信している。

 ロシア全体が我々の英雄を支援するため、一つに団結している。誰もがあなたのために祈り、協力する準備ができている。

 同志よ! 友よ!  親愛なる退役軍人の皆さま!

 今日、ロシアのすべての家族が大祖国戦争の退役軍人をたたえ、親族や英雄をしのび、戦勝記念碑に花を手向ける。

 今、我々が立っている赤の広場は、英雄ユーリ・ドルゴルーキーとドミトリー・ドンスコイ、ミーニンとポジャルスキー、ピョートル大帝やクトゥーゾフ将軍の兵士、1941年と1945年のパレードにちなんだ場所だ。

 今日、特別軍事作戦の参加者は、軍隊の幹部、部分動員で軍隊に加わった人、ルハンスクとドネツクの人民共和国軍の兵士、多くの義勇兵、ロシア国家親衛隊、内務省、ロシア連邦保安庁、非常事態省、その他の特殊サービスや機関の職員だ。

 友人諸君に告ぐ!

 戦場でロシアのために戦っている、今、この瞬間も任務に就いているすべての人々に敬意を表する。

 大祖国戦争の間、我々の英雄的な祖先は、我々の団結ほど強く、強力で信頼できるものはないことを証明した。

 祖国への愛ほど強いものはこの世に存在しない。

 母国ロシアのために!

 勇敢なる我が軍のために!

 勝利のために!

 ウラー!(万歳!)」


…演説の内容を見て、どのように思われたでしょうか?


きれいごとかもしれませんが、

力で物事が解決する時代であってほしくない、と思います。

きれいごとかもしれませんが、

正義が報われるような世界であってほしい、と思います。

2023年5月9日火曜日

混迷を深める尾張~犬山謀反企てらるるの事(1549・1550年)

以前のマンガでふれたように、

天文17年( 1548年)8月、織田信秀美濃に再び攻めこみましたが、

清洲織田家斎藤利政(道三)と結んで尾張那古野城を攻撃したために、

美濃から退却せざるを得なくなりました。

その後、斎藤道三とは縁組を通じて和睦することに成功しますが、

清須織田家との対立は続いたままでした。

その頃、三河では前回のマンガで述べたように、今川の攻勢が続いていましたが、清須織田家が気になるために織田信秀はなかなか救援に向かうことができないでいました。

そこで美濃に続いて再び平手政秀が活躍することになるのですが、

織田信秀の求心力の低下は止まらず、尾張はさらに混迷を深めていくことになります😰

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


「尾州錯乱」

強力な織田信秀の下、尾張は一つにまとまっていました。

しかし、主人にあたる尾張守護代、清須織田家は家来の織田信秀がどんどん力を増していくことが面白くないわけです。

尾張守護代家の当主はこれまで何度か登場している織田達勝で、

織田信秀とは過去に争ったこともありましたがそれ以降は長く協調関係にありました。

しかし達勝が出す書状は天文12年(1543年)を最後に見られなくなり、

その後天文22年(1553年)に出された文書には「織田大和守勝秀」とあるので、

この間に織田達勝が亡くなって、織田勝秀が跡を継いでいたと考えられます。

『信長公記』にはこの後、「清洲の城守護代織田彦五郎」という人物が出てくるのですが、

織田彦五郎は、江戸時代以後の書物では「信友」という名前を与えられています。

しかし、同時代の史料には「信友」の名前は見られないので、「勝秀」が正しい名前だと考えられます。

この勝秀は先代の達勝とは違い、織田信秀と協調関係を取らず、斎藤利政と結んで織田信秀と戦うことになるのですが、

勝秀が織田信秀と戦うことを決めたのではなく、

勝秀には力がなく、家老たちの言いなりになっていたという説もあります(◎_◎;)

当時、清須織田家の家老を務めていたのが、

今回のマンガにも出てきた坂井大膳坂井甚介河尻与一の3人です。

坂井大膳と甚介は名前から何となく予想がつくように兄弟です。

坂井大膳は、河尻与一の父の娘と結婚しており、与一とは義兄弟の関係にありました。

その家老たちと停戦の交渉をしたのが平手政秀(1492~1553)です。

政秀は清須織田家との停戦交渉に乗り出すのですが、

『信長公記』に、

「此の衆へ無事の異見数通候へども、平手扱ひ、相調はず。」

…坂井大膳・坂井甚介・河尻与一に何度も停戦を呼びかけたがうまくいかなかった…とあるように、

この三家老は主戦派で織田信秀と争うのをなかなかやめようとしなかったようです。

しかし、今川氏が攻勢を続ける中で仲間割れを続けていては共倒れになると考えたのか、

天文18年(1549年)の秋の末…安城城の戦いの頃に互いに譲歩しあって(「互に屈睦して」、とある)ようやく和睦を受け入れます。

この時の「譲歩」というのは、『信長公記』に、「備後殿、古渡の城破却なされ、末盛と云う所山城こしらえ御居城なり」…織田信秀は古渡城を壊して末森(末盛)に城を作ってここを居城とした…とあるように、古渡城を廃城にすることであったと思われます。

末森城は古渡城より東に約6㎞ほど離れており、三河により近い場所にあるため、今川氏に備える位置に城を築城したのでしょう。

和睦を達成できたことを平手政秀は喜び、三家老に宛てた手紙の冒頭に紀貫之の和歌『袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ』を添えています。

紀貫之といえば古今和歌集を編集した人として有名ですね😄

そして「袖ひちて~」の歌も「古今和歌集」に入っています。

なんでこの歌を手紙に載せたかというと、

「夏にすくった水が、冬に凍り、春に溶けた」という歌を、

「去年の夏に敵対したが、今年の秋になって和解した」

という事実と重ね合わせているわけです。

平手政秀は戦いが終わって喜んでいますが、

信秀としては悪い状況にあることに変わりはなく、

美濃方面で大垣城を、三河方面で安城城を失い、

尾張内部でも、清須織田家との火種を抱えている状態😨

ヤバヤバのヤバです😱

そこにさらに衝撃の事件が起こります💦

天文19年(1550年)1月に、織田信秀の弟の信康の子(つまり信長のいとこ)である織田信清が織田信秀との戦いを起こしたのです(◎_◎;)

信清の父である織田信康は美濃にかなり近い(つまり斎藤利政に対する前線基地)

犬山城の城主をつとめていましたが、

天文13年(1544年)の美濃での大敗北の際に戦死します。

その子の織田信清が突然敵対したのですが、

その理由はいったい何なのでしょうか?

斎藤利政にそそのかされた織田勝秀と同じように、今回は今川氏にそそのかされたのかもしれませんが、

このタイミングで敵対したのは、どうやら織田信秀が病気で倒れたのが原因であるようなのです😱

検討の余地がある文書ではあるものの、天文18年(1549年)11月5日に出された織田寛近の書状には、「備後守病中ゆえ」とあります。

また、同じ11月には、織田信長の名前で初めて書状が出されるようになっていますが

これは織田信秀が病気になってしまったからではないか、という説があるのです。

10月末から11月初めに行われた安城城の戦いで織田信秀が水から出陣した形跡がないのも、病気説を後押ししています。

また、『織田系図』などの史料に織田信秀が天文18年(1549年)3月3日に亡くなった、と書かれていることから、この時すでに亡くなっていたとする説もあります(◎_◎;)

しかし、織田信秀はこの年の11月28日と、翌年の11月1日に書状を出しているので、これは誤りだと思われます。

武田信玄のように3年間生きていることにしていた可能性もありますが、

(信ぴょう性に疑問があるが『武功夜話』には葬儀はせず、3年間その死を隠そうとした、とある)

信玄の場合もまもなく周りに知られており、死をひた隠す事は無理でしょう。

もし死がわかったら今川なども猛烈に攻めてきそうなものです。

そのため、私はこの時は病気で倒れただけだと考えます。

織田信秀が病気で倒れたと聞いてこれを好機だと感じたのが犬山城の織田信清でした。

なぜ敵対しようとしたのか、理由はよく分かっていませんが、

信ぴょう性に疑問があるものの、『武功夜話』には、

寅年(1542年)・未年(1547年)の2度にわたって美濃に攻めこんだ際、先陣をつとめた織田信康が討ち死にするなど犬山衆は奮戦したにもかかわらず特に恩賞をもらうことができなかった、だから不満があり、信秀が死んだことを好機として柏井・篠木を攻め取ろうと立ち上がったのだ…とあります。

美濃攻めの年代に誤りが見られるものの、なんとなく理解できる動機となっています。

そして織田信清は立ち上がったのですが、

蜂起した時期について、天文18年(1549年)1月説と天文19年(1550年)1月説がありました。

信ぴょう性に疑問はあるものの、『武功夜話』には清洲織田家と示し合わせて兵を挙げた、とあります。

…となると、この場合では織田信秀と清洲織田家は天文18年(1549年)の秋の末に和睦しているので、天文19年(1550年)1月説はあり得ないことになります。

しかし、織田信秀が死んだのは3月3日なので、1月に兵を起こすとまだ死んでいない時なので矛盾します。

では天文19年(1550年)1月説の証拠とは何なのかというと

横山住雄氏が『織田信長の系譜』で挙げる、

犬山方の武将・梶原左近が天文19年(1550年)1月19日に森(守)山口で討ち死にした…という史料です。

これは『信長公記』の記述を裏付けるような内容(『信長公記』は年を記さず、1月17日のこととしているが)であり、天文19年(1550年)1月説が正しいものと思われます(;^_^A

この後の戦いについて、『信長公記』には次のように書かれています。

犬山城・楽田城から出た兵は春日井原を抜けて柏井口に攻め寄せて放火した、

それに対して信秀方はすぐに末森城から出撃して犬山方を数十人も討ち取り、追い払った

その後、誰がしたのかはわからないが、

「やりなはを 引ずりながら ひろき野を 遠ぼえしてぞ にぐる犬山」

(犬が遠吠えをしながら、犬につける縄である遣り縄を引きずって犬山へ逃げていった)

と書かれた木の板があちこちに立てられていたという…。

この歌には、「遣り縄」の「遣り」を「槍」とかけて、

「槍を引きずりながら逃げていった犬山の奴らはなんと情けない」

という意味がこめられています。犬山衆をディスってるんですな(;^_^A

『信長公記』にはこの後、突然、

「備後殿御舎弟織田孫三郎殿一段武篇者なり」(織田信秀の弟、織田信光は特に武勇に優れ勇敢な者であった)

…という記述が出てくるのですが、

おそらくこの戦いで小豆坂の戦いでも大活躍した「小豆坂七本槍」の一人、守山城主の織田信光(信秀の弟、つまり信長の叔父)が大活躍したのでしょう。

ちなみに織田信光は、

「信長の野望 創造」では「統率:53 武勇:66」、

次の「大志」では、「統率:52 武勇:64」です💦

最新作の「新生」でも「統率:56 武勇:62」…(だんだん落ちていく武勇)。

もっと強くてもいいんじゃないかなぁ(;^_^A アセアセ・・・

尾張にも敵を抱え、じわじわ勢力を広げてくる今川氏もいて、

はたしてどうなる織田信長!?

今回のマンガに関係する場所

<原文>「大柿の城へ後巻の事」

 霜月上旬、「大柿の城近々と取り寄せ、斎藤山城道三攻め寄する」の由、注進切々なり。「其の儀においては、打ち立つべき」の由にて、霜月十七日、織田備後守殿、後巻として、又、憑み勢をさせられ、木曾川、飛騨川の大河、舟渡しをこさせられ、美濃国へ御乱入。竹が鼻、放火候て、あかなべ口へ御働き候て、所々に姻を揚げられ候間、道三仰天致し、虎口を甘げ、井の口居城へ引き入るなり。か様に、程なく備後守軽々と御発足、御手柄、申すぱかりなき次第なり。

 霜月廿日、此の留守に、尾州の内清洲衆、備後守殿古渡新城へ人数を出だし、町口放火候て、御敵の色を立てられ候。此の如く候間、備後守御帰陣なり。是れより鉾楯に及び候へき。平手中務丞、清洲のおとな衆・坂井大膳、坂井甚助、河尻与一とてこれあり。此の衆へ無事の異見数通候へども、平手扱ひ、相調はず。

 翌年秋の末、互に屈睦して無事なり。其の時、平手、大膳、甚介、河尻かたへ和睦珍重の由候て、書札を遣はし、其の端書に古歌一首これあり。

袖ひちて結びし水のこほれるを 春立つけふの風や解くらん

と候へつるを覚え候。か様に、平手中務は、借染にも、物毎に花奢たる仁にて候ひし。

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