以前のマンガでふれたように、
天文17年( 1548年)8月、織田信秀は美濃に再び攻めこみましたが、
清洲織田家が斎藤利政(道三)と結んで尾張の那古野城を攻撃したために、
美濃から退却せざるを得なくなりました。
その後、斎藤道三とは縁組を通じて和睦することに成功しますが、
清須織田家との対立は続いたままでした。
その頃、三河では前回のマンガで述べたように、今川の攻勢が続いていましたが、清須織田家が気になるために織田信秀はなかなか救援に向かうことができないでいました。
そこで美濃に続いて再び平手政秀が活躍することになるのですが、
織田信秀の求心力の低下は止まらず、尾張はさらに混迷を深めていくことになります😰
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇「尾州錯乱」
強力な織田信秀の下、尾張は一つにまとまっていました。
しかし、主人にあたる尾張守護代、清須織田家は家来の織田信秀がどんどん力を増していくことが面白くないわけです。
尾張守護代家の当主はこれまで何度か登場している織田達勝で、
織田信秀とは過去に争ったこともありましたがそれ以降は長く協調関係にありました。
しかし達勝が出す書状は天文12年(1543年)を最後に見られなくなり、
その後天文22年(1553年)に出された文書には「織田大和守勝秀」とあるので、
この間に織田達勝が亡くなって、織田勝秀が跡を継いでいたと考えられます。
『信長公記』にはこの後、「清洲の城守護代織田彦五郎」という人物が出てくるのですが、
織田彦五郎は、江戸時代以後の書物では「信友」という名前を与えられています。
しかし、同時代の史料には「信友」の名前は見られないので、「勝秀」が正しい名前だと考えられます。
この勝秀は先代の達勝とは違い、織田信秀と協調関係を取らず、斎藤利政と結んで織田信秀と戦うことになるのですが、
勝秀が織田信秀と戦うことを決めたのではなく、
勝秀には力がなく、家老たちの言いなりになっていたという説もあります(◎_◎;)
当時、清須織田家の家老を務めていたのが、
今回のマンガにも出てきた坂井大膳・坂井甚介・河尻与一の3人です。
坂井大膳と甚介は名前から何となく予想がつくように兄弟です。
坂井大膳は、河尻与一の父の娘と結婚しており、与一とは義兄弟の関係にありました。
その家老たちと停戦の交渉をしたのが平手政秀(1492~1553)です。
政秀は清須織田家との停戦交渉に乗り出すのですが、
『信長公記』に、
「此の衆へ無事の異見数通候へども、平手扱ひ、相調はず。」
…坂井大膳・坂井甚介・河尻与一に何度も停戦を呼びかけたがうまくいかなかった…とあるように、
この三家老は主戦派で織田信秀と争うのをなかなかやめようとしなかったようです。
しかし、今川氏が攻勢を続ける中で仲間割れを続けていては共倒れになると考えたのか、
天文18年(1549年)の秋の末…安城城の戦いの頃に互いに譲歩しあって(「互に屈睦して」、とある)ようやく和睦を受け入れます。
この時の「譲歩」というのは、『信長公記』に、「備後殿、古渡の城破却なされ、末盛と云う所山城こしらえ御居城なり」…織田信秀は古渡城を壊して末森(末盛)に城を作ってここを居城とした…とあるように、古渡城を廃城にすることであったと思われます。
末森城は古渡城より東に約6㎞ほど離れており、三河により近い場所にあるため、今川氏に備える位置に城を築城したのでしょう。
和睦を達成できたことを平手政秀は喜び、三家老に宛てた手紙の冒頭に紀貫之の和歌『袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ』を添えています。
紀貫之といえば古今和歌集を編集した人として有名ですね😄
そして「袖ひちて~」の歌も「古今和歌集」に入っています。
なんでこの歌を手紙に載せたかというと、
「夏にすくった水が、冬に凍り、春に溶けた」という歌を、
「去年の夏に敵対したが、今年の秋になって和解した」
という事実と重ね合わせているわけです。
平手政秀は戦いが終わって喜んでいますが、
信秀としては悪い状況にあることに変わりはなく、
美濃方面で大垣城を、三河方面で安城城を失い、
尾張内部でも、清須織田家との火種を抱えている状態😨
ヤバヤバのヤバです😱
そこにさらに衝撃の事件が起こります💦
天文19年(1550年)1月に、織田信秀の弟の信康の子(つまり信長のいとこ)である織田信清が織田信秀との戦いを起こしたのです(◎_◎;)
信清の父である織田信康は美濃にかなり近い(つまり斎藤利政に対する前線基地)
犬山城の城主をつとめていましたが、
天文13年(1544年)の美濃での大敗北の際に戦死します。
その子の織田信清が突然敵対したのですが、
その理由はいったい何なのでしょうか?
斎藤利政にそそのかされた織田勝秀と同じように、今回は今川氏にそそのかされたのかもしれませんが、
このタイミングで敵対したのは、どうやら織田信秀が病気で倒れたのが原因であるようなのです😱
検討の余地がある文書ではあるものの、天文18年(1549年)11月5日に出された織田寛近の書状には、「備後守病中ゆえ」とあります。
また、同じ11月には、織田信長の名前で初めて書状が出されるようになっていますが、
これは織田信秀が病気になってしまったからではないか、という説があるのです。
10月末から11月初めに行われた安城城の戦いで織田信秀が水から出陣した形跡がないのも、病気説を後押ししています。
また、『織田系図』などの史料に織田信秀が天文18年(1549年)3月3日に亡くなった、と書かれていることから、この時すでに亡くなっていたとする説もあります(◎_◎;)
しかし、織田信秀はこの年の11月28日と、翌年の11月1日に書状を出しているので、これは誤りだと思われます。
武田信玄のように3年間生きていることにしていた可能性もありますが、
(信ぴょう性に疑問があるが『武功夜話』には葬儀はせず、3年間その死を隠そうとした、とある)
信玄の場合もまもなく周りに知られており、死をひた隠す事は無理でしょう。
もし死がわかったら今川なども猛烈に攻めてきそうなものです。
そのため、私はこの時は病気で倒れただけだと考えます。
織田信秀が病気で倒れたと聞いてこれを好機だと感じたのが犬山城の織田信清でした。
なぜ敵対しようとしたのか、理由はよく分かっていませんが、
信ぴょう性に疑問があるものの、『武功夜話』には、
寅年(1542年)・未年(1547年)の2度にわたって美濃に攻めこんだ際、先陣をつとめた織田信康が討ち死にするなど犬山衆は奮戦したにもかかわらず特に恩賞をもらうことができなかった、だから不満があり、信秀が死んだことを好機として柏井・篠木を攻め取ろうと立ち上がったのだ…とあります。
美濃攻めの年代に誤りが見られるものの、なんとなく理解できる動機となっています。
そして織田信清は立ち上がったのですが、
蜂起した時期について、天文18年(1549年)1月説と天文19年(1550年)1月説がありました。
信ぴょう性に疑問はあるものの、『武功夜話』には清洲織田家と示し合わせて兵を挙げた、とあります。
…となると、この場合では織田信秀と清洲織田家は天文18年(1549年)の秋の末に和睦しているので、天文19年(1550年)1月説はあり得ないことになります。
しかし、織田信秀が死んだのは3月3日なので、1月に兵を起こすとまだ死んでいない時なので矛盾します。
では天文19年(1550年)1月説の証拠とは何なのかというと、
横山住雄氏が『織田信長の系譜』で挙げる、
犬山方の武将・梶原左近が天文19年(1550年)1月19日に森(守)山口で討ち死にした…という史料です。
これは『信長公記』の記述を裏付けるような内容(『信長公記』は年を記さず、1月17日のこととしているが)であり、天文19年(1550年)1月説が正しいものと思われます(;^_^A
この後の戦いについて、『信長公記』には次のように書かれています。
犬山城・楽田城から出た兵は春日井原を抜けて柏井口に攻め寄せて放火した、
それに対して信秀方はすぐに末森城から出撃して犬山方を数十人も討ち取り、追い払った、
その後、誰がしたのかはわからないが、
「やりなはを 引ずりながら ひろき野を 遠ぼえしてぞ にぐる犬山」
(犬が遠吠えをしながら、犬につける縄である遣り縄を引きずって犬山へ逃げていった)
と書かれた木の板があちこちに立てられていたという…。
この歌には、「遣り縄」の「遣り」を「槍」とかけて、
「槍を引きずりながら逃げていった犬山の奴らはなんと情けない」、
という意味がこめられています。犬山衆をディスってるんですな(;^_^A
『信長公記』にはこの後、突然、
「備後殿御舎弟織田孫三郎殿一段武篇者なり」(織田信秀の弟、織田信光は特に武勇に優れ勇敢な者であった)
…という記述が出てくるのですが、
おそらくこの戦いで小豆坂の戦いでも大活躍した「小豆坂七本槍」の一人、守山城主の織田信光(信秀の弟、つまり信長の叔父)が大活躍したのでしょう。
ちなみに織田信光は、
「信長の野望 創造」では「統率:53 武勇:66」、
次の「大志」では、「統率:52 武勇:64」です💦
最新作の「新生」でも「統率:56 武勇:62」…(だんだん落ちていく武勇)。
もっと強くてもいいんじゃないかなぁ(;^_^A アセアセ・・・
尾張にも敵を抱え、じわじわ勢力を広げてくる今川氏もいて、
はたしてどうなる織田信長!?
今回のマンガに関係する場所 |
<原文>「大柿の城へ後巻の事」
霜月上旬、「大柿の城近々と取り寄せ、斎藤山城道三攻め寄する」の由、注進切々なり。「其の儀においては、打ち立つべき」の由にて、霜月十七日、織田備後守殿、後巻として、又、憑み勢をさせられ、木曾川、飛騨川の大河、舟渡しをこさせられ、美濃国へ御乱入。竹が鼻、放火候て、あかなべ口へ御働き候て、所々に姻を揚げられ候間、道三仰天致し、虎口を甘げ、井の口居城へ引き入るなり。か様に、程なく備後守軽々と御発足、御手柄、申すぱかりなき次第なり。
霜月廿日、此の留守に、尾州の内清洲衆、備後守殿古渡新城へ人数を出だし、町口放火候て、御敵の色を立てられ候。此の如く候間、備後守御帰陣なり。是れより鉾楯に及び候へき。平手中務丞、清洲のおとな衆・坂井大膳、坂井甚助、河尻与一とてこれあり。此の衆へ無事の異見数通候へども、平手扱ひ、相調はず。
翌年秋の末、互に屈睦して無事なり。其の時、平手、大膳、甚介、河尻かたへ和睦珍重の由候て、書札を遣はし、其の端書に古歌一首これあり。
袖ひちて結びし水のこほれるを 春立つけふの風や解くらん
と候へつるを覚え候。か様に、平手中務は、借染にも、物毎に花奢たる仁にて候ひし。
0 件のコメント:
コメントを投稿