社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 織田信広と松平竹千代の人質交換~安城城の戦い(1549年)

2023年5月7日日曜日

織田信広と松平竹千代の人質交換~安城城の戦い(1549年)

 美濃で2度目の大敗を喫した織田信秀

1度目の時はなんとか現状維持でしのぎましたが、

今回は建て直すことができず、すさまじい勢いで勢力を弱めていくことになります…💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇松平信孝と松平広忠の死

これは美濃での大敗の前の話になるのですが、

天文17年(1548年)4月15日、なんと三河の盟友・松平信孝が戦死してしまったのです。

何があったのかというと、『松平記』には次のように書かれています。

天文17年(1548年)3月19日、小豆坂の戦いが信秀の劣勢で終わった後、

松平信孝は自分だけでも岡崎城を落とそうと、4月15日、岡崎にほど近い明大寺に進出した、

そこで岡崎勢と戦闘になったが、信孝の左脇に矢が刺さり、信孝は落馬して死んでしまった…。

『三河物語』も同様な内容を載せていますが、こちらは小豆坂の戦いの前の話になっています。

こうして、織田信秀が頼みにしていた松平信孝はあっけなく死んでしまい、三河での織田信秀方の劣勢は否めない状態になっていきます。

翌年の天文18年(1549年)の3月頃までには、今川軍はしぶとく抵抗を続けていた渥美半島の田原城の攻略に成功しています。

これで東三河は完全に今川の勢力下にはいったことになります。

しかしここで、人々が驚くことが起こります。

なんと、3月6日に、松平広忠が突然死んでしまったのです。23歳の若さでした。

死んだ理由については、

①病死説 と、②暗殺説 があります。

『三河物語』には、23歳で病死なさった、と簡潔に記されています。

『松平記』には、春ごろから病気になり、3月6日、24歳で亡くなった、とあります。

一方で、『徳川実紀』では、天文14年(1545年)3月頃に、松平広忠が隣国から頼まれたという岩松八弥に股を刺されるという事件があったと記されています。

そのケガが原因か、翌年の天文15年(1546年)に広忠は病気で苦しんでいた、と書かれています。

そして、天文18年(1549年)、襲われて以来、体調が日増しに悪化していた松平広忠が、3月6日に24歳で亡くなった、とあります。

『徳川実紀』は江戸幕府によって作られた歴史書ですので、

つまり、江戸幕府の公式の見解はケガが回復せずに亡くなった、というものです。

『松平記』では、天文15年(1546年)に、片目八弥という者が広忠を村正の脇差で襲ったが失敗し、逃げようとしたところを松平信孝によって殺された、とあります。

松平信孝は1543年に松平広忠に敵対しているので、松平信孝云々は正しくないと思われますが、それ以外は『徳川実紀』と似ています。しかし、『松平記』は「つきそこない」とあり、ケガをさせることすらできなかったように書かれています。

『松平記』ではその後も松平広忠は元気に活動しているので、『松平記』ではこの事件と死亡には関連性がないことになっています。

現代の研究では、

『岡崎市史』は松平清康・松平広忠と2代続けて暗殺だと外聞が良くないので、事実を改変したとし、岩松八弥は西広瀬城主・佐久間全孝が送りこんだ刺客だとしています。

これを裏付ける史料として、佐久間全孝に重傷を負わせた天野孫七郎に恩賞を与えた天文18年(1549年)10月27日付の書状が挙げられています。

(『三河物語』では松平広忠が佐久間全孝の暗殺を命じたことになっていますが、史料と時期的に合わないので誤りでしょう)

『静岡県史』は「松平広忠暗殺後…」と暗殺されたことだけを記し、

大石泰史氏の『今川氏滅亡』では「死因ははっきりしない」とし、

有光友学氏の『今川義元』は「織田方の刺客によって暗殺された」とし、

柴裕之氏の『青年家康』は両論の併記にとどまり、

平野昭夫氏の『三河松平一族』は『岡崎市史』の内容を挙げて暗殺説に傾いています。

以上を総合して考えてみますと、「松平広忠が刺された」ことは間違いないが、それで直接死亡したかどうかは不明…ということになるでしょうか(;^_^A

『岡崎市史』は佐久間全孝が送りこんだ刺客、としていますが、

証拠に挙げている史料には松平広忠と関連する内容はなにも載っておらず、証拠とするには弱いでしょう💦

また、『岡崎市史』は佐久間全孝は織田方として三河に進出していたのだろう、としていますが、佐久間氏は15世紀から三河に土着していたようなので、尾張の佐久間氏が進出したわけではありません。

そもそも、もし織田方による暗殺だとして、松平広忠を暗殺して、織田に得はあったのでしょうか?

松平広忠暗殺後まもなく、主がいなくなった岡崎城には今川軍が入城して支配下に置いています。

これを見ても、一番得をしたのは今川氏です。

暗殺を命じるとするならば今川氏でしょうが、今川氏が味方である松平広忠を殺害しなければならない理由もありません。

(佐久間全孝を負傷させた天野孫七郎に、今川義元が約束を守った忠節をほめて、恩賞を与えた書状も残っているので、佐久間全孝は今川方ではなく、織田方である)

『徳川実紀』や『松平記』は、天文14年(1545年)か天文15年(1546年)に松平広忠が襲われたが命は失わなかった、としていますが、

今川がまだ三河にあまり介入しておらず、織田と松平が争っていたこの時期ならば、織田方が松平広忠を暗殺しようとする理由はまだわかります。

以上から、自分としては、

・天文14年(1545年)頃に松平広忠は岩松八弥の襲撃を受け、おそらく負傷した(佐久間全孝との関係性は薄い)。そのケガがもとになったかはわからないが、天文18年(1549年)に松平広忠は「病死」した。

…とするのが自然ではないか、と考えますが、どうでしょうか…(;^_^A

〇安城城の戦い

先述したように、松平広忠の死によって岡崎城を支配下におさめた今川軍は、

同時期の天文18年(1549年)の3月頃までに、長く戦い続けてきた渥美半島の田原城の攻略にも成功します。

ここで今川軍の次の攻略目標となったのは、

織田信広がこもる安城城と、西条吉良家の拠点・西尾城でした。

天文18年(1549年)9月5日に太原雪斎が西条吉良家に宛てて書いたとされる書状がありますが、それには、

「先年、今川軍が竹千代を助けるために渡・筒針に出陣した際に、吉良氏は織田氏の安城城に援軍を派遣した、さらに、中島城を攻めた時も、織田方を助けるために途中まで出陣した、このように今川を討とうとするのはなぜなのか」

…といった内容が書かれており、

天文16年(1547年)9月28日に行われた渡・筒針の戦いの時にはすでに西条吉良家は織田方に味方していたことがわかります。

今川軍に攻められた西条吉良義安は、9月20日に戦っていることを示す書状もあるので、しばらく抵抗したようですが、間もなく屈服したようで、織田信秀にとって状況はますます悪いものになりつつありました。

安城城の戦いについて、

『松平記』は、

今川義元は「三河を平定する」と言って、太原雪斎を大将にして安城城を攻めさせた、その先陣は大久保忠俊・阿部定吉・本多忠高が率いる岡崎城の兵300であった、尾張から安城城への援軍の兵が来たので、太原雪斎は、安城城は駿河・遠江の兵が攻めるので、三河の兵は織田の援軍を攻めよ、と命令した、岡崎衆は織田の援軍を夜襲して追い払い、そのまま安城城を攻めて、二の丸・三の丸まで突入したが、この時までに、榊原藤兵衛・本多忠高が戦死した、安城城は本丸を残すのみになったが、ここで尾張から援軍として来ていた平手政秀が、織田信広を生きて返してくれれば、こちらは竹千代を返す、と提案してきたので、雪斎はこれを受け入れて竹千代殿は岡崎に帰ることができた…と記し、

『三河物語』には、

今川義元は太原雪斎を大将にして駿河・遠江・三河の兵を出陣させ、安城城を攻撃した、鉦(かね)・太鼓を鳴らしながら矢倉を建てて矢や鉄砲を放ち、竹束を並べ鬨の声をあげて昼も夜も休むことなく四方から城を攻撃した結果、城は本丸を残すのみになった、ここで降伏した織田信広を二の丸にとじこめた、そして太原雪斎は織田信秀に、竹千代と交換をしよう、受け入れなければ信広に自害させることになる、と伝えた結果、人質交換がなされ、竹千代様は駿河に送られることになった…とあり、

『三河記』には、

安城城の正面の大手を岡崎衆を先頭に朝比奈泰能・太原雪斎、搦手を鵜殿長持・岡部元信、南面を三浦義就・葛山綱春、西ノ手北口を飯尾乗連がそれぞれ担当した、正面の先陣が岡崎衆になれたのは地勢に詳しいので案内者となる、と申し出たからだ…と書かれています。

先陣が岡崎衆だったのは間違いないようなのですが、『松平記』では織田軍の援軍の攻撃に回されています。

それなのに二の丸・三の丸まで突入しているのはよくわからないところです(;^_^A

本当は翌日攻める予定だったのを、岡崎衆がフライングして夜襲、援軍を撃破して安城城に突入した…ということなのでしょうか(゜-゜)

また、人質交換について、『松平記』では平手政秀が、『三河物語』では太原雪斎が提案したことになっています。どちらが正しいかはよくわかりません(-_-;)

また、現在残っている書状では、

・9月18日、吉良氏を攻撃しているときに、安城・桜井にも攻撃を仕掛けた際、「馬を入れ粉骨比類無い」活躍をした幡鎌平四郎を今川義元がほめたたえているもの。

・安城城攻防で「度々高名比類無き」活躍をした御宿藤七郎をほめたたえるもの。藤七郎は10月23日に夜間ひそかに城に取りつき、塀を引き倒した。11月8日には、8時頃から18時頃まで約10時間にわたって弩・石が飛び交う中で走り回り、門を焼き崩したため、織田軍は小口(虎口。城の入り口のこと)を捨て、翌日に城は落城した…と詳細に書かれている。

・安城城の戦いで度々うまく矢を射て、11月8日に大手の一木戸を(火矢で?)焼き崩した弓気多(ゆげた)七郎次郎をほめたたえるもの。

…があり、10月下旬から2週間ほどにわたって激しい攻防が繰り広げられたことが読み取れます。

こうして安城城を失った尾張方ですが、さらに11月23日には三河上野城も攻略されており、三河における力を全く失ってしまうことになりました。

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