大河ドラマ「べらぼう」第8回「逆襲の『金々先生』」にて、
日本史の教科書にも登場する『金々先生栄花夢』が登場しましたね!
しかし内容は?と聞かれると、答えられないのではないのでしょうか(自分もこのマンガを描くために調べるまでは知りませんでした💦)
「べらぼう」に登場する、普段本を読まない次郎兵衛でも「これがおもしれえのなんのって」と読んだその本の内容とは!?
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
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恋川春町はペンネームで、本名は倉橋寿平(諱は格[いたる])です。
1744年、紀伊国田辺藩の家臣の子として生まれ、1763年、駿河小島藩士である伯父の倉橋勝正の養子となり、小島藩に仕えるようになります。
武士出身だったんですねぇ。というか、紀伊国出身でなんで伯父が駿河国の武士なのかが気になります💦
駿河藩士なのになんで江戸で本を書いているのかと思ったら、江戸詰(江戸の藩邸で働く)の藩士であったからだったようです。
住んでいる場所は小石川春日町だったので、ここから「恋川春町」というペンネームにしたようです。
はじめ浮世絵師を志していましたが、1773年に洒落本『当世通俗通』で文・挿絵ともに書いてデビューします。
『金々先生栄花夢』は1775年の作です。
大本になったのは唐の時代に書かれた『枕中記』です。
…盧生という若者が立身出世を目指して邯鄲に向かっていた。その途中の宿屋に泊まる。宿屋の主人は、黄梁(きび)を蒸していた。同じく宿に来ていた呂翁に対し、盧生は自らの不遇を嘆き、「男子たるもの、将軍や宰相となって、一族を栄えさせ、富裕にさせるべきである」と語った。その後、盧生は眠たくなった。呂翁は、枕を貸し、これで寝れば、思い通りの夢が見られますよ、と言った。その枕で、盧生はうたた寝をした。しばらくして体を起こした盧生は、数か月後、名族の娘を妻にする。科挙に受かり、出世し、都の長官になり、異民族との戦いにも功を立て、さらに出世する。一時左遷された時期もあったが復活し、宰相にまで昇った。しかし讒言に遭ってベトナムにまで流されるが、再び復活する。燕国公に封じられ、子どもたちも皆高官となり、全てを達して老衰で亡くなった。そこで盧生は目を覚ます。盧生は宿屋にいて、黄梁はまだ蒸しあがっていなかった。盧生は「なんと、夢だったのか」と驚く。呂翁は、「人の幸福とはこのようなものである」と言った。盧生は、呂翁に対し、「すべてを悟りました。このようになさったのは、私の欲望を抑えるためであったのでしょう。この上は、あなたの教えを受けていきたいと思います」と言った。…
これをもとに、日本で『邯鄲』という能の演目が作られました。
…盧生はどう生きるべきかわからず、日々を散漫に過ごしていた。そこで、身の振り方を教えてくれる師匠を求めて旅に出て、途中邯鄲の宿に着く。宿屋の女主人は、粟のご飯を焚いていた。眠くなった盧生は、女主人から仙術使いからもらったという、「生きるべき道を悟ることができる」枕を借りて寝る。しばらくして目を覚ますと、楚の国の皇帝の使者が来ていて、使者から、なんと皇帝が盧生に位を譲る、と言っていることを聞く。皇帝となった盧生は、思うがままの生活を50年間過ごす。即位50年を祝う宴会が開かれ、盧生は献上された寿命が1千歳まで伸びるという仙人の酒を飲む。舞人が舞を始めると、盧生もこれに乗って舞い始める。すると、周囲は四季と、朝昼夜がさまざまに変化する神仙の世界となった。しかし、次第に周りのものが消え失せ、真っ暗になっていく。そこで、盧生は女主人から粟のご飯が炊けたと言われ目を覚ます。盧生は夢だったのかと驚く。50年の栄華も、粟のご飯が炊けるまでの一炊の夢にすぎないのだと知り、何事も一睡の夢のことであるという世の儚さを悟って、「師匠はこの枕であったのだ」と言って、盧生は満足そうに故郷へ帰っていった。…
けっこう内容が違っていますね💦
まぁ、どちらも「世の中は儚いものだ」という悟りを得る、というのは同じですね。
さて、本題の『金々先生栄花夢』の内容について見ていこうと思います。
…田舎に金村屋金兵衛という者がいた。この世の中を楽しみつくそうと思っていたが、貧しいのでそれもままならなかった。そこで、「江戸へ出て、店の番頭になり、「しこたま山」もうけて、ぜいたくを極めたい」と言って、江戸へ出て奉公しようと思い立ち、江戸に向かったが、夕方になり、腹も減って来たので目黒の粟餅屋に入って、粟餅を注文した。餅ができるのを待っている間、座敷でうたた寝をした。そこに、和泉屋清三の家来という者たちがやって来て、「主人は老いたが未だに子どもがいない。そこで、剃髪し、名前も「文ずい」と改めて、跡継ぎを探すことにした。すると、万八幡大菩薩のお告げがあり、それに従ってあなたを跡継ぎとして迎えに来た」と言った。金兵衛は不思議と思ったが、これも「あいた口へ餅」だと思って受け入れることにした。和泉屋について見ると、とても立派な店であった。主人の「文ずい」は、「不思議な縁でござる。これからはあなたを随分と大事にしましょう」と言って喜んで金兵衛を迎えた。金兵衛は家督を継ぐと、だんだん調子に乗り、日夜酒宴ばかりするようになった。髪型は鬢のあたりまで剃り上げて、ネズミのしっぽくらいにしたのを本多髷にした。着物は黒羽二重、帯はビロードか博多織、舶来の「風通もうる」を着て、現代のあらゆるお洒落を尽くした。人々は「金村屋金兵衛」から字を取って「金々先生」と呼んでこれをもてはやした。手代の源四郎は、「店でばかり楽しんでいてもさえません。明日は、北国(吉原の事)へ「いき山」と出かけましょう」と金兵衛をそそのかした。金兵衛は吉原で「かけの」という女郎に入れ込み、何度も吉原に足を運んだ。金々先生のいでたちは、八丈八端(八丈島産の絹織物)の羽織、縞縮緬の小袖、役者染の下着、亀屋頭巾の目だけを出し、忍び歩いた。太鼓持ちの万八は、「旦那の御姿、どうも言えませぬ。すごい、ひゅうひゅう」(原文ママ)とほめそやした。年越しの夜には、源四郎の勧めで豆ではなく、金銀を升に入れて節分の祝儀をした。取り巻きの1人の座頭(盲人で、芸事や按摩、針などを職とした)の五市は「これは「ありがた山のとんびがらす。これで検校(盲人がなれる最高職)になろう」と言った。吉原が飽きると、次は深川の遊里に行き、ここでも散財をしたので、人々は「金々先生」ともてはやした。先生は「おまづ」にはまったが、「おまづ」は実際は源四郎と恋仲になっていた。ある時、唐言(当時はやった言葉遊びで、カキクケコを文字の間に挟んでしゃべった)で次のように源四郎に伝えさせた。「げコンカシコロウサコンケガ、キコナカサカイコト」。源四郎は次のように伝えさせた。「イキマカニイケクコカクラ、マコチケナコトイキツケテクコンケナ」。先生はこれを不審に思い、「おまづ」と大きな喧嘩をして、疎遠になってしまった。先生はその後各所ではめられて、財産が少なくなっていくと、これまでは這い、かがんでいた取り巻きたちも知らぬふりをして寄り付かなくなった。それでも先生は一人で品川の遊里に通っていた。「文ずい」は源四郎の密告から財産の状況を知ると、大いに怒り、金兵衛の衣類をはいで追い出してしまった。源四郎は金兵衛に内緒で金銀をくすねていた。よって、物を盗むことを「源四郎」というのである。源四郎「ああよいざまだ」。先生は追い出され、頼る所もなく、途方に暮れていたところ、粟餅の杵の音が聞こえてきて驚いて起き上がったところ、そこは餅屋の座敷で、粟餅はまだ作っている最中であった。金兵衛はこれに感じ入り、「自分は「文ずい」の子になって30年、栄花を極めたが、これも粟餅を作る間の事でしかなかったのか。人間の一生の楽しみというのも、これと同じ(く儚いもの)なのだろうなあ」と悟り、故郷へ帰ってしまった。…
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