尾張織田氏をついに(ほぼ)統一した織田信長は、
永禄2年(1559年)2月、ある行動に出ます😕
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇織田信長の上洛
『信長公記』を見ると、織田信長が突然上洛を言い出したように見えますが、
実際は、永禄元年(1558年)12月3日に、
戦乱のため長く京都から離れていた将軍・足利義輝が
実力者・三好長慶(1522~1564年)と和睦して1553年8月以来5年ぶりに京都に帰還し、
(義輝は以前にも三好長慶と対立して京都から離れていた時期がある[1549~1552年])
そこで各地の大名に上洛を呼びかけた、というのが背景にあったようです。
これを受けて上洛した大名は、織田信長、斎藤高政(義龍)、上杉景虎(謙信)の3人に過ぎませんでした。
山科言継(1507~1579年)の日記、『言継卿記』によれば、
永禄2年(1559年)2月2日、織田信長は上洛し、将軍・足利義輝に謁見しました。
『総見記』には、上洛のルートについて、美濃方面は敵なので回避し、熱田から船に乗り、桑名に到着して奈良→堺と見物してから京都に入った、と書かれています。
従った者は80人、と『信長公記』にありますが、
実際は、「五百計(ばかり)と云々」と『言継卿記』にあるので、
実際は500人ほどであったそうです。
おそらく、家来が80人で、荷物運びなどの従者たちが400人ほどいたのでしょう。
また、『言継卿記』には「異形の者多し」とあり、
派手なファッションの者が多かったようです😮
『信長公記』にも、「爰を晴れなりと拵え、大のし付に車を懸けて、御伴衆皆のし付に御付けられ候」(上洛は晴れの舞台であるため、信長は刀の鞘を立派な金箔で飾り、[車を懸けて…は意味が不明であるが、かぎや散人氏は、「車輪紋」のことで、織田の木瓜紋で鞘を飾っていた、とする]供の者も皆刀を金箔で飾っていた)とあり、信長はだいぶ気合を入れていたようです(;^_^A
しかし、信長は気合を入れた割には成果は少なかったようで、
斎藤高政は斎藤から一色への改姓を認められた上に相伴衆に任じられ、上杉景虎も足利一門や管領に準ずる特権を与えられているのに関わらず、
織田信長は何かが与えられた形跡がなく、塩対応に終わってしまったようです(-_-;)
〇信長暗殺計画
美濃の斎藤高政は、織田信長の上洛を知り、暗殺計画を立てます。
尾張にいる時よりも命を狙いやすいと考えたのでしょう。
そこで、小池吉内・平美作・近松田面・宮川八右衛門・野木次左衛門の5人(「天理本」では青木加賀右衛門[青木一重の父]が加えられて6人)に「将軍の許可が出たらば、信長を鉄砲で撃ち殺す」よう命じます。
どうやら斎藤高政は将軍・足利義輝と話ができていたようで、
足利義輝は織田信長の暗殺に同意寸前だったようです。
そのため、織田信長には何も与えられなかったのではないでしょうか💦
しかし、この暗殺計画を未然に防いだ男がいました。
それが丹羽兵蔵です。
丹羽兵蔵はこの回にしか登場せず、よく分からない人物です。
名字からして、おそらく丹羽長秀の一族の一人なのでしょう。
以前に登場した那古野弥五郎の家来でありました。
丹羽兵蔵は何らかの事情があって、信長から遅れて京都に向かっていましたが、
志那の渡し(滋賀県草津市)で30人ほどの一団と同船し、
そこで彼らからどこから来たのか、と尋ねられ、
とっさに、三河から尾張を通って来ました、と答えます。
すると、彼らは、信長は不甲斐ない者であるから、尾張を通るのに気苦労したことだろう、と発言します。
丹羽兵蔵は、彼らが落ち着いていて目立たないようにしていることや、その言葉を不審に思い、
一行の童(元服前の少年)と仲良くなって話を聞いたり、
夜中に一団に紛れて話を盗み聞きするなどして、
織田信長暗殺計画があることを確信するに至ります。
驚いた丹羽兵蔵は京都に急行して暗殺団が宿に入るところを確認し、
その宿の門柱を削って(;^_^A 目印として、
現在の京都裏築地町にあった信長の宿に向かいます。
兵蔵はそこで「火急の用事に候。金盛か蜂屋に御目にかかり候わん」と言います。
「金盛」は金森可近(のちの長近)(1524~1608年)のこと、「蜂屋」は蜂屋頼隆(1534~1589年)のことです。
金森可近は美濃の土岐氏の一族にあたる人物で、
土岐氏の後継者争いに巻き込まれて近江(滋賀県)の野洲郡金森に逃れます。
そしてしばらくして1542年、18歳の時に尾張に移り織田信秀に仕官し、
信秀の死後はその子の織田信長に仕えていました。
蜂屋頼隆も土岐氏の一族の一人であり、美濃生まれで織田信長に従っていました。
つまり、丹羽兵蔵は「美濃生まれの織田信長の家来」である人物を指名したことになります。
2人は斎藤氏の家来だった過去があり、暗殺団と顔をあわせれば、最終確認になると考えたからです。
結局二人とも兵蔵のもとにやってきて、兵蔵から話を聞きます。
驚いた二人は、「宿は確認したか」と尋ね、
兵蔵は「二条たこ薬師」(円福寺蛸薬師堂)の近くにある、家の入口を削って目印としておいたので、間違いない、と答えます。
翌日早朝、暗殺団と面識がある金森可近が兵蔵と共に宿に派遣されます。
そして暗殺団と面会した可近は、
「昨日の夕方にあなた達が上洛したことを上総介殿は知っておられるので、私が派遣されて参りました。あなた方も挨拶に行かれてはどうですか」と言い、
これを聞いた暗殺団は「色をかえ仰天限りなし」で、観念した暗殺団は、翌日、小川表を見物していた織田信長と会うことにします。
ここで信長は、「汝等は上総介が討手にのぼりたるとな。若輩の奴原が進退にて、信長を躵う事、蟷螂が斧と哉覧。実しからず。去りながら爰にて仕るべく候哉」(お前たちは信長を殺しに来たそうだな。未熟な奴らがわしを暗殺しようとするなど、蟷螂の斧である。成功するわけがない。しかし、そうではあるが、どうだ、ここでわしを殺してみるか)と啖呵を切ります。
この際織田信長の言った「蟷螂の斧」というのは、中国の故事に由来します。
前550年頃、斉の荘公は馬車で移動していましたが、
その途中、一匹の虫が馬車が来るのにもかかわらず、前足をあげて立ち向かってくるのを目撃します。
家来に何という虫か問うと、家来は「これは蟷螂(かまきり)です。前にしか進めず、後ろに下がることを知りません」と答えます。
すると荘公は「この虫が人間であれば、すばらしい勇士といえるだろう」と言い、
わざわざカマキリをさけて馬車を移動させました。
このことが世に知れると、世の中の勇士たちが「荘公は勇士を大事にする人物だ」と言って、次々と荘公の家来になったといいます。
これだけ見るといい話なのですが、
「蟷螂の斧」は現在では「力のないものが強いものに立ち向かう」という意味になっています。
ですから織田信長は、「力のないお前たちが、よく力の強いわしに挑もうとしたものだ。身の程知らずめ」と言ったわけです。
こうして信長暗殺は失敗に終わったわけですが、
京都の人々は二通りの反応を示しました。
1つは、「大将の詞には似相わず」(人の上に立つ大将の言葉としてふさわしくない)という否定的な意見、
もう1つは、「若き人には似合いたる」(若い人らしい)という、肯定的な意見でした。
その後、『信長公記』には、信長は京都に3・5日間いただけで京都を離れ(『言継卿記』には2月7日に、尾張の織田上総介が昼に帰国の途に就いた…とあり、5日間滞在していたことがわかる)、近江の守山に行き、翌日は雨だったが明け方には出発して相谷から八風峠を越えて、午前4時頃(「天理本」では午前2時頃)には尾張清須に到着するという超猛スピードで帰国します。
京都を2月7日の昼に出発して2月9日の午前4時に清須に到着したとなると、だいたい40時間で帰国したことになるのですが、
こんなことは可能なのでしょうか??(◎_◎;)
グーグルマップで調べてみると、このルートを通ると、どうやら徒歩でも32時間かければ到着できるようです。寝る時間ももちろん加わることになりますが、途中船に乗る場面もあるので、早歩きで行けば40時間でも十分可能でしょう(それでもハードですが(;^_^A)。
それにしても、信長はなぜ京都滞在を短く切り上げて、猛スピードで帰国したのでしょうか?(゜-゜)
『厳助往年記』によれば、「雑説ありて俄(にわか)に罷り下ると云々」とあり、
不穏な噂が尾張から伝わってきたので、信長は帰国したようです。
おそらく、今川義元の動きが不穏になってきている、といった類の話を聞いて、信長は慌てて尾張に戻ったのでしょう。
こうして、信長の一度目の上洛はほとんど成果がなく終わってしまったのですが、
ここから、いよいよ本格的に今川義元とぶつかることになっていくのです🔥
ちなみに、「天理本」には、丹羽兵蔵の後日譚が載せられています。
兵蔵は信長に呼び出され、今回の働きはまことに奇特(特に優れている・殊勝であった)であったと声をかけられた上に土地を与えられるという、この上ない名誉を受けた。「禍福は天に在り」とはこのことである…
「禍福は天に在り」とは何でしょうか?(゜-゜)
調べると、『六韜』に「禍福は君に在り、天の時にあらず」という言葉がありました。
意味は、「不幸になるか幸福になるかは、その人の行動次第である。神が好機を与えたといっても、行動しなければ意味がない」ということだそうですが、
太田牛一はこれと同じようなことを言っているわけですね。
太田牛一は強烈な天道思想の持ち主です。天道思想とは、善い行いにはいい報いが、悪い行いには悪い報いが必ず返ってくる、というものです。
今回、丹羽兵蔵はいい行いをしたので、いい報いを受けたのだ…と太田牛一は考えるわけです。
神様はちゃんと見ておられる。幸福になるか不幸になるかは、その行動を見て神様が決めるのだから、悪いことをするのは恐ろしいことだ、と太田牛一は強く思っており、これまでにも斯波義統・斎藤道三の死の場面などでも、このような記述が何度も出てきていますし、これからも出てきます。
もちろん、桶狭間の戦いで今川義元が戦死した時にも、太田牛一はこの天道思想を持ち出すわけですが、今川義元は、どのような「悪い行い」をしたというのでしょうか?それについて、以後、見ていこうと思います(;^_^A
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