社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 尾張の下剋上~武衛様御生害の事(1553年)

2023年6月6日火曜日

尾張の下剋上~武衛様御生害の事(1553年)

 前回のマンガ清須内部が疑心暗鬼状態になったと書きました😈

今回はその清須城のその後です。

※マンガの後に補足があります。


〇尾張の下剋上

斯波義統(1513~1554年)は斯波氏14代目の当主。

斯波氏は足利尊氏の先祖である頼氏の兄である家氏を最初に、その後、宗家宗氏高経義将義重義敦義郷義健義敏義廉義寛義達ー義統、と続いてきました。

斯波氏は陸奥国斯波(しわ)郡を領したことに由来しますが、

初代の家氏は1265年に尾張守に任じられており、ここからすでに尾張と縁があったことになります。

実際に尾張を治めるようになるのは1400年に斯波義重が尾張守護に任ぜられてからのことになります。

当時は守護といっても京都で仕事をしていたため尾張にいることはありませんでしたが、

応仁の乱で世の中が混乱した後、斯波義寛が1483年に尾張の守護所がある清須城に移り住んで以降、斯波氏の当主は尾張の清須城に暮らすようになりました。

その斯波義寛の孫が斯波義統なわけですが、義統が守護になったころには、

すでに守護は単なるお飾りになっていました💦

まぁ、守護代(織田彦五郎[勝秀?])もお飾りになっていて、家老の坂井大膳たちに実権を奪われていたわけですが(;^_^A アセアセ・・・

天文21年(1552年)8月16日に行われた萱津の戦いの直後、今川が9月に末盛城近くの八事に進攻していますが、

これはもしかすると坂井大膳たちが今川と手を組んでいたことによる連携かもしれません。

のちに坂井大膳は今川のもとに逃亡しているという事実もありますから、今川と通じていたことはほぼ確定と言ってもいいかもしれません💦

今川と手を組むことに対し、面白く思わないのが守護の斯波義統です。

なぜなら、斯波と今川は遠江(静岡県西部)をめぐって激しい戦いを繰り返し、義統の父の義達なんぞは捕虜にされ、剃髪までさせられた、不倶戴天の敵です。

坂井大膳たちが今川と手を組んで面白くない斯波義統は、

どうやら織田信長と手を結んで

織田勝秀や坂井大膳たちを追放しようとしていたようです。

しかしそれを知った織田勝秀の家老たち(坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位)は、斯波義統の殺害の計画を練り始めます。

そんな中、天文22年(1553年)7月12日、不用心にも、斯波義統の子の岩竜丸(のちに元服して義銀。この時13歳)が家来の若者たちすべてを連れて川漁に出てしまいます。

『信長公記』には、「内には老者の仁躰纔かに少々相残る。誰々これありと指を折り見申し、坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位談合を究め、今こそ能き折節なりと、どっと四方より押し寄せ御殿を取り巻く」とあり、

坂井大膳たちは守護所内に残っているメンバーを指を折ながら数え(ということは数名ほどしかいなかったか)、

手薄にな今が好機だと守護所を襲いました。

このとき斯波義統率の同朋衆(『信長公記』には「何あみ」とあり、正確な名前はわかっていない)が奮戦しました。

同朋衆というのは、芸能に優れたお坊さんたちのことで、

踊り念仏時宗の人が多かったようです。

この「何あみ」は謡が得意だったわけですが、戦いの才能もあったようで、

「切て出て働く事比類なし」と『信長公記』に記されています😦

他にも森刑部丞兄弟や柘植宗花(宗花は裏手口を担当)たちが斬りまくって奮戦しましたが(『清須合戦記』には、「森刑部少輔政武・同掃部助・丹羽左近・柘植宗花・同朋 善阿弥」と書かれています。『清須合戦記』が正しいとすると、「何あみ」は「善阿弥」だったということになります)、

森兄弟は柴田角内(のちにもう一度登場)という者に討ち取られるなど、次々と討ち死にしていき、

ついには守護邸を囲む四方の屋根から弓矢が射られるにいたって

斯波義統は観念し、一族数十人自害して果てます(『清須合戦記』では30余人)。

侍女たちは堀に飛び込み、堀を渡り切った者もいましたが、溺れ死んだ者もいて、

「哀れなる有様」であったようです…。

川に漁に行っていた斯波義統の息子、斯波岩竜丸は知らせを聞いてあわてて織田信長のいる那古野城に逃げこみます。

信長は岩竜丸を迎え入れ、那古野城近くの天王坊に住まわせました。

『信長公記』には斯波義銀の弟は毛利十郎が保護した、とありますが、

これが後に毛利家をついで毛利秀頼(1541~1593)になるわけです。

こうして斯波義統は坂井大膳たちに下剋上を起こされて死んでしまったわけですが、

太田牛一はその死について、「主従と申しながら、筋目なき御謀反思し食したち、仏天の加護なく、かように浅ましく無下無下と御果候…御自滅と申しながら、天道恐ろしき次第なり」(坂井大膳たちは家来であるとはいえ、力が無い中でこれを排除しようと考えたので、このように無残な最期を遂げることになった、自滅と言ってよいであろう)と手厳しいです(-_-;)

これまで織田信長は清須城に守護がいるため攻めきれなかったところもあったわけですが、

清須城に守護はいなくなりましたし、守護の息子も保護して大義名分を得ました。

織田信長にとって望み通りの形になったわけです。

(なのでこれは織田信長がそうなるように仕組んだことだとする説もあります)

清須織田家との戦いは、最終局面に入ろうとしていました…!🔥

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