鳴海城主の山口教継が今川氏に裏切ってしまい、
一歩、また一歩と苦しい状況に追い詰められていく織田信長。
そんな状況の中で、また事件が起こってしまいます😨
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇萱津の戦い
以前のマンガでも紹介しましたが、1548年から1549年にかけて、
尾張南部4郡の守護代である織田勝秀が家来筋である織田信秀に攻撃をしかけたことがありました。
この時は平手政秀の尽力で停戦することができました。
しかし、織田信秀の死後、再び織田勝秀が攻撃をしかけてきたのです。
織田信秀が山口教吉と戦った赤塚の戦いからわずか4か月後のことです。
以前も解説しましたが、織田勝秀はおそらくお飾り状態で、
その家老である坂井大膳・坂井甚介・河尻与一・織田三位が清洲織田家を牛耳っていました。
次回のマンガで説明しますが、今川は翌月に末盛城にほど近い八事に兵を進めています。
もしかすると坂井大膳たちは今川氏と手を結び、示し合わせて出陣したのかもしれません。
『信長公記』に「8月15日に清洲より、 坂井大膳・坂井甚介・河尻与一・織田三位申し談らい、松葉の城へ懸け入り、織田伊賀守人質に取り、同松葉の並びに、
一、深田という所に織田右衛門尉居城。是又押し並べて両城同前なり。人質を執り堅め、御敵の色を立てられ侯。」とあるように、
清須織田家は突如として那古野城の西にある松葉城・深田城を攻撃し、
松葉城にいた織田伊賀守(不詳)を降して人質を取り、
深田城は織田信次(織田信秀の末弟。つまり信長の叔父)の城でしたがこれも占領してしまいます。
この状況で織田信長は即座に動き、
翌日、叔父の織田信光(守山城)・弟の織田信勝(末盛城)から援軍を得て(織田信光は自らかけつけてくれた)、
庄内川岸の稲庭地(いなばじ)というところから軍を三手に分けて進撃します。
1つは松葉城へ。1つは深田城へ。
そして主力となる織田信長が率いる軍は、その2つの救援にやってくる敵主力をたたきに清須城方面へ。
その三軍の中で主力となる本隊は、清須城方面にある海津村(萱津のことか)に進み、ここでおそらく松葉・深田城の救援に向かっていた清須織田軍と衝突します。
まだ午前8時のことでした。
敵の大将の1人、坂井甚介は赤瀬清六(織田信光の小姓だったが、何度も戦いで活躍して出世していた)と戦い、これを討ち取りますが、
中条家忠(?~1577。早くから織田信長に仕えた)と柴田勝家(このとき織田信勝の家老。末盛城から援軍として派遣された)の攻撃を受けて討ち死にします。
清洲勢は他にも坂井彦左衛門・黒部源介・野村(名前は不詳)・海老半兵衛・乾丹後守・山口勘兵衛・堤伊与など、50騎ほどの武士を失う大敗を喫して退却していきます。
そのころ、松葉城・深田城でも激戦が行われ、
松葉方面では馬島の大門崎というところで8時から12時あたりまで戦った結果、
清須織田家側は赤林孫七・土蔵弥介・足立清六を失って敗北、
深田方面では、三本木というところで清洲織田家は防戦したものの、守りに適した場所ではなかったので、すぐに敗退、伊東弥三郎・小坂井久蔵をはじめとして30人ほどを失いました。
そこに萱津で勝った織田信長が松葉・深田城に攻めてきたので、
両城は観念して城を明け渡して清須城に去ります。
織田信長はそのまま清須城付近に攻め寄せて城周辺の田畑の作物を刈り取って引き上げました。
これで清須織田家は清須城周辺に押し込められることとなり、
織田信長は果断な攻撃によって、代替わり後まもなく起きた危機を脱することができたのです。
萱津の戦いに関連する地図 |
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