織田信秀死後、尾張では次々と問題が起こります。
鳴海城主・山口教継の離反、
清須織田家が弾正忠家に敵対…。
今川との和睦も破綻に向かっていました。
そのような状況を憂う、2人の人物がいました…。
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇尾張の情勢を心配する斎藤道三
天文21年(1552年)6月、斎藤道三は織田秀敏にあてて書状を送っています。
織田秀敏とは何者でしょうか?
まずもって生まれがはっきりしていない人物です💦
『寛永諸家系図伝』では秀敏は織田敏定の子となっています。…となると清洲織田家の人間ということになり、弾正忠家の人間ではなくなります。
『重修譜』では織田信貞の末弟で、織田信秀の叔父となっています。…となると、織田信長にとっては祖父の弟、大叔父ということになります。
『南溟和尚語録』では織田信秀の叔父の子となっています。…となると織田信秀の父・織田信貞の弟の子になります。織田信長にとっては大叔父の子ということになります。
角川文庫版『信長公記』の人名注索引では、「信定の子」と書かれています。
…となると、織田信秀の弟、織田信長にとっては叔父になります。
斎藤道三の書状を見るに、織田秀敏はどうやら織田信長の後見的立場にあったようです。
そのため、おそらく同じ弾正忠家の人間であり、『寛永諸家系図伝』のいう清洲織田家の人間…という可能性は低いでしょう。
また、織田信秀の兄弟に織田秀敏の存在は確認できないため、角川文庫『信長公記』の注はおそらく誤りでしょう。
…となると、織田秀敏は織田信長の大叔父か、大叔父の子であったことになります。
『織田信長の家臣団』などの一般書やさまざまなネット記事には、「大叔父」としているものがなぜか多いですので、「大叔父」というのが通説なのでしょう。
さて、その織田秀敏に対して、斎藤道三はどのような手紙を出したのか、内容を見てみましょう。
「御札拝覧申し候。
御家中の躰、仰せの如く外聞然るべからざる次第に候。此方において迷惑せしめ候。寄り退き候わざる間、共々捨て置かれず、仰せ談ぜらるべき事、然るべく候。何篇でも重ねて使者を以て御存分に承るべく候。
三郎の殿様御若年の儀に候、万端御苦労尤もたるべく候。
尚々、御来音を期され候。
恐惶謹言
六月二十二日 道三(花押)
織田玄蕃允殿」
(玄蕃允[秀敏]殿からのお手紙、拝読いたしました。
織田家の様子について、手紙に書いてあったように、私もよくない噂を聞いております。私も戸惑っているのですが、弾正忠家から離れるようなことはしないので、問題を放置せず、連絡を密にしていきましょう。何度でも使者を派遣されてもかまいせん。
三郎[織田信長]殿はまだ若いですから、玄蕃允[秀敏]殿が色々と苦労されるのも当然なことです。
またお会いしましょう)
当時は尾張国内で織田家が分裂して対立していた上に、
前回のマンガで述べたように、対今川の最前線を担当していた山口教継が離反して今川方につき、それに対して織田信長が攻撃を仕掛けたため、織田・今川間の和睦が破綻するという状況になっていました(◎_◎;)
一方で5月、三河で大給城主・松平親乗が反今川の兵を挙げるという事件が起こりますが、これは織田信長は山口教継の離反に対抗して親乗をそそのかしたのかもしれません。
反今川行動をとり続ける織田信長に対し、
『定光寺年代記』によると、今川義元は9月、尾張の八事に軍を進めたようです。
これに頭を痛めていたのが、今川融和派の平手政秀でした。
平手政秀にとって、国内の様子が不穏なのに、今川を刺激する織田信長の行動はもってのほかに映ったことでしょう。
崩れていく織田信長と平手政秀の関係。
それは、最悪の終わり方を迎えることになるのです…。
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