社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 6月 2023

2023年6月29日木曜日

「あまが池」の水全部抜く!?~蛇がえの事

今回はエピソードになります😊

ホラーな話?ミステリアスな話?と思いきや、

最後には信長のピンチだった!!…という話で、

なかなか興味深いお話です(;^_^A

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

※2ページ目は都合により公開いたしません💦

〇「あまが池」の大蛇

『信長公記』では「爰に奇異の事あり」と始まります。

「奇異」とは不思議なこと、という意味ですから、不思議なことがあった…ということです。

では、不思議なことはどんなことだったのか。

『信長公記』には、次のように書かれています。

…尾張清須の東にある、佐々成政が治める比良城のそのまた東に、南北に長い堤があったが、その西側にあまが池という池があったが、恐ろしい大蛇がいる池として知られていた。1月中旬、安食村福徳郷の又左衛門という者が、雨の降る中で堤を通っていると、太さは一抱えほどもある黒い物体がいた。胴体は堤にあり、首はあまが池に届こうかという長さであった。人の音を聞いて首を又左衛門の方に向けたが、その顔は鹿のよう、眼は星の如く光り、舌は紅の如く、手のひらを開いたかのよう(「天理本」では扇を半分開いたよう)。眼と舌が光っている様子を見て、又左衛門は身の毛がよだち、あまりの恐ろしさに走って逃げた。大野木まで行って、そこの宿の者に体験したことを話したが、それが話題となり、織田信長の耳まで届いた。1月下旬、信長は又左衛門を呼び出して、直接話を聞き、翌日、「蛇(じゃ)がえ」(池の水を抜いて蛇を見つけること)を行うことにした。比良・大野木・高田・安食・味鏡の農民たちに水汲み桶・鋤・鍬を持って集まれと命令し(「天理本」では水汲み桶のみ)、4時間ほど四方からあまが池の水を汲み取らせたが、池の水が7割になったところで、それ以上はどうしても減らなかった。そこで、信長は水中に入って蛇を見る、と言い出し、脇差を口にくわえて池に飛び込んだ。しばらくたって出て来たが、なかなか蛇を見つけることはできなかった。鵜左衛門という泳ぎの達者な者がいて、その者にも潜らせてみたが、やはり見つからなかった。そこで信長は清須に帰った…

いやあUMA(未確認動物)ですよね(;^_^A

ネッシーみたいなもんでしょうか?(゜-゜)

続いて『信長公記』はこう記します。

「去る程に、身のひえたる危うき事あり」

実は身が冷えるような危険なことがあった、というのです(◎_◎;)

それは何だったのか。『信長公記』には次のように書かれています。

…その頃、佐々成政が謀反をするという噂があり、成政は病気だと言って出仕していなかった。成政は「比良城は小城にしてはいい城だと聞き知っているだろうから、これを取り上げるために、信長は蛇がえのついでに城に立ち寄って、私に腹を切れというのではないか」と思い悩んでいた。そこで成政の家来の井口太郎左衛門という者が次のように提案した、「私にお任せください、信長を殺して見せましょう、信長は城を見るために私に城を案内するように命じるでしょう、その時私は舟に乗って城の様子を見られてはどうかと勧めます、そこで信長が承知して舟に乗りこみましたら、そこで機会を見て信長を隠し持っていた小脇差で刺し殺し、共に池に飛び込みます」しかし信長は運の強い人であったので、蛇がえをした後、城に立ち寄ることなくまっすぐ清須に帰ったので、命を失うことはなかった。大将というものは、何事にも気をつけて、油断してはならないということである…

なんと信長は暗殺されかかっていたというのです!(◎_◎;)

いったいどういうことなのか、考えてみたいと思います。

まずこの事件はいつ起きたのか。

佐々成政が比良城の城主になっていますが、成政の父・成宗は1555年に亡くなり、後を継いだ次男の孫介(長男の政次井関城主)も翌1556年の稲生の戦いで戦死していますので、1557年以後、ということになります。

また、謀反が疑われるような状況であったのは、1557年か1558年頃。岩倉織田家と戦っていたころで、織田信成(信勝)とも微妙な関係だった時期です。

比良城は岩倉城まで5.4kmとほど近い位置にあり、信成が狙う篠木まで8.6㎞と、なかなか絶妙な位置にありました。

どちらからも勧誘される理由はあったわけですね(゜-゜)

信ぴょう性は低いですが、『武功夜話』には、次のような話が載っています。

…弘治2年(1556年)春、織田達成が挙兵する前に、佐々成政を味方に引き入れた。織田信長は成政が謀反するという噂を聞いて、成政のことを疑っていたところに、前野宗吉(長康の兄)たちが清須城にやってきたが、成政は来なかったので、やはり謀反か、なにか知っていることはないか、と信長が前野たちに尋ねた、それに対し前野たちは、成政が来なかったのは謀反を企んでいるからではなく、真実は腹の病でここ数日伏せっているからです、決して言い訳などではありません、と答えた。その後織田達成が謀反したが、成政は腹の病のため参加できなかった、これを知った信長は、8月12日、前野宗吉に宛てて、成政のことについてはそなたらの言う通りであった、迷惑をかけた、という書状を送った…

『武功夜話』では佐々成政の謀反の噂は弘治2年(1556年)8月24日に起きた稲生の戦いの前であったことになっていますね~💦

そうなると、佐々成政はまだ城主となっていなかった段階で謀反を考えていた、ということになってしまいますね(◎_◎;)

ここに矛盾が生まれてしまいますが、『武功夜話』では孫介は成政の弟とされているのでつじつまは合うようです。

また、稲生の戦いではこの孫介が信長方として参戦して戦死していますので、佐々家は織田信長方につき、達成(信勝)方につかなかったことは確かなので、その点でも合っているのですよね(゜-゜)(また、出典は不明であるが、和田裕弘氏の『織田信長の家臣団』では織田方について戦死した山田治部左衛門は笹成政の義兄弟であったとしており、佐々成政が達成方につかなかったことがここからもわかる)

稲生の戦いに佐々成政が参戦していたかどうかはわからないのですが、

描写が無いのは腹の病のためか、様子見か、一度謀反を誓った達成への義理立てか、参戦を見送ったからかもしれません。

しかし『武功夜話』は信ぴょう性に疑問がある書物であり、

佐々成政の登場が佐々孫介より遅れていること・1548年の小豆坂の戦いで佐々政次・孫介は出陣しているのに佐々成政は参戦していないことから、成政は孫介の弟とするのが正しいと考えられることから、

やはり謀反の噂のタイミングとしては、岩倉織田家との決戦である浮野の戦いが起きた弘治3年(1557年)7月12日の前の1月、というのが現状一番自然なのかな、と思います(;^_^A

「いつ起きたのか」は一応弘治3年(1557年)の1月、ということにしておいて、

次は「なぜ謀反を考えたのか」ということですが、

これはまったくわかっていません(◎_◎;)

佐々孫介が死んだ後なので、恩賞の件でもめたのかもしれませんが、よくわかりません💦

次は信長暗殺計画の内容に触れていこうと思います。

実際に謀反を企んでいたかどうかはよく分からないところですが、

謀反を疑われた佐々成政は重臣の井口太郎左衛門と謀って信長暗殺を計画します。

ここで蛇がえの話が出てきますが、蛇がえのために信長が比良城の近くまで来ることになった→不安になった成政が信長暗殺を計画、という流れではなく、もしかすると、大蛇云々の話は成政方が作らせたもので、好奇心旺盛な信長を誘うための作戦であったかもしれません(◎_◎;)

それにしても、太田牛一は佐々成政による信長暗殺計画があったことをどのようにして知ったのでしょうね??(;^_^A

成政の関係者からその情報を知ったとして、なぜ佐々家のマイナスになるようなことを書いたのでしょう?

『信長公記』が書かれたのは佐々成政の没落後であり、忖度する必要性がなくなったからでしょうか?

ちなみに「天理本」では佐々成政云々の話は丸々カットされています。

〇現存する「あまが池」

「あまが池」は大きさは数分の1サイズにまで小さくなっているようですが、現在も蛇池神社(住所は名古屋市西区山田町大字比良)内に残っています。

蛇池神社にある立て札には、信長が帰った後も「10日ほど乾かし続けたが(大蛇は)ついに見付からなかった。その後この池を蛇池と呼ぶようになったという」という後日談が書かれています。

また、現存していませんが、当時は「あまが池」以外にも池や沼が点在していたようです。

このような変化は、蛇池周辺の地形にも見られます。

大きく変わったのは川です。

マンガに地図を描く際に大変困りました。今と全然違うんですもん(;^_^A

まず今の地図を参考に描いていたら、近くにあった川の名前が気になりました。

「新川」…?

もしかして新たに作られた川で、当時は無かったのでは…?と思い調べてみると、

江戸時代の頃、合瀬川と大山川は庄内川に流れ込んでおり、

大雨の際しばしば庄内川を氾濫させたので、

その対策として1784年~1787年に新川を新たに作り、合瀬川・大山川が庄内川ではなくこちらに流れ込むようにした…というのですね。

つまり戦国時代に新川はなかったわけです。

また、どうやら合瀬川も戦国時代には無かったようですね(◎_◎;)

江戸時代に農業用水として人工的に作られた川のようです💦

そしてもう一つ。『信長公記』にも出てくる「堤」です。

この堤は『愛知県内に築かれた室町時代の河川堤防の考察』によれば、

なんと斯波義重(1371~1418年)の時に大山川などに沿って作られたもので、「武衛堤」と呼ばれていたのだとか。

これは比良~大野木周辺に一部残存しているようです。


2023年6月26日月曜日

弟、信勝を暗殺~勘十郎殿謀反の事(1558年)

 以前のマンガでも描いたように、実の兄の織田信長に対し反乱を起こした織田達成(信勝)

この際は稲生の戦いで大敗し、信長に謝罪して服従することになりました。

しかし、織田信勝はまだあきらめておらず、

1558年、美濃斎藤高政(のちの義龍)と結んで、

再び謀反をたくらむのです。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


織田信勝(1536?~1558年)

母は織田信長と同じく土田御前(ほかに秀孝、信包、市を産む

『信長公記』には名前は「勘十郎」としか書かれていない。

諱(いみな)は長らく「信行」とされていたが、正しくは「信勝」。

しかし「信勝」と名乗っていたのは一時期だけで、

1554~1555年頃は「霜台御史(弾正忠)達成」、1557年頃は「武蔵守信成」(フィギュアスケーターではない)と名乗っています。

桐野作人『織田信長』では、「達成」の「達」は尾張の守護代、尾張大和守家の通字(代々名前に使用する字)であり、大和守家滅亡後に「達成」を名乗ることで、守護代家を継ぐ意思を表したのではないか、と書かれています。

また、織田信勝の官名は「武蔵守」ですが、

信勝は信長と対立しているときは「弾正忠」を名乗っています。

これは、信勝・信長の曽祖父の良信から代々「弾正忠」を名乗ってきた官名を受け継いだものです(織田信長は上総介を名乗っていた)。

つまり織田信勝は、「達成」と名乗り、「弾正忠」を名乗ることで、

信長に対する自身の正当性をアピールしようとしたのです。

稲生の戦いで敗れた織田達成(信勝)は、信長に服従した際に、

おそらく「信成」と改名し、「弾正忠」を「武蔵守」に戻しました。

敵対心の無いことを名前と官名で表したのでしょう。

しかしあきらめない信成(信勝)は、

ひそかに美濃の斎藤高政(義龍)や岩倉城の織田信賢と結び、信長への再度の謀反をたくらみます。

いつの年かははっきりしていませんが、おそらく弘治3年(1557年)の4月19日に、

斎藤高政は次のような内容の書状を織田信成(フィギュアスケーターではない)に送っています。

…最近は連絡できずすみません、お変わりないですか。「御意を承りたく候」(お考えを拝聴したい)。詳しいことについては使者を派遣しますのでそちらから聞いてください…

これは何とも怪しい書状です。明らかに織田信成に対し、謀反を勧めている書状でしょう(◎_◎;)

この謀反の勧めに乗った信成は、まず、謀反の下準備の1つとして、永禄元年(1558年)3月18日に龍泉寺※に砦の建設を開始します(『定光寺年代記』)

※龍泉寺は800年ごろに最澄によってつくられたという、由緒ある天台宗の寺です。

この後、1584年の小牧・長久手の戦いの際に池田恒興によって燃やされ、

その後再建されますが1906年に放火にあい、再び灰となりますが、

なんと焼け跡から慶長小判100枚が発見され、これをもとにして再建が行われることになったそうです(スゴイ(;'∀'))

同じ頃、織田信長が品野城の攻撃を試みて失敗し、逆に山崎城を奪われる、という出来事がありましたが、

信成の言い分としては今川方に備えるため、というものであったかもしれませんが、

実際は「篠木三郷」を狙うためのものでした。

以前も奪ったことがあるので、相当豊かな土地だったのでしょう。

しかし、ケチがついたのは側近で男色の相手の津々木蔵人のあまりにも増長した態度でした。

信成は、配下の中で優秀な武士を皆、津々木のもとにつけるという厚遇ぶりで示していました。

これによって増長し傲慢になった津々木蔵人は、なんと信成(信勝)派の軍事部門を担当する柴田勝家をないがしろにするような態度をとるのです。

『中古日本治乱記』には、正月の宴会の際、勝家だけが呼ばれず、勝家は呼び忘れたのだろうと思って会場に行ったが、座席も与えられず言葉もかけられないというひどい仕打ちを受けた、とあります。

これに怒った柴田勝家は、織田信長に寝返り、織田信成が謀反を企んでいる、と報告します。

柴田勝家はこれまでも何度か信長と共に戦ったこともあり、

信成よりも信長の方が有望だとさとっていたのでしょう。

勝家から事情を聞いた信長は、仮病作戦に出ます(『中古日本治乱記』によれば勝家が提案した作戦)。これは斎藤高政のとった作戦と同じです。きっと参考にしたのではないかと思います。

『中古日本治乱記』には、村井春長(貞勝のこと。春長は1581年に出家した後名乗ったもの)が使者として末盛城に向かい、信長はこの頃調子が思わしくなく、「心神悩乱し吐血する事夥し」い状態であり、このままであれば近いうちに亡くなるだろう、「今生の名残なれば」信行(信成のこと)と対面したい、と信長が言っている、と信行に伝えた、母の土田御前が信長のようすを見に行ったところ、信長は事前に3日間断食していたので顔色が悪く(その上部屋をわざと暗くしていた)、また、口に蘇枋(黒みを帯びた紅色の染料を含み、何度もそれを吐いて見せ、苦しげな声で死ぬ前に信行に会って遺言を伝え、家督を譲りたい、と伝えたので、土田御前は急いで信行にこのことを伝えにいった…とあります。

母の土田御前や柴田勝家が見舞いを勧めた結果、永禄元年(1558年)11月12日、信成はまったく警戒することなく清須城に見舞いに向かいます。

以前の謀反も母の土田御前の懇願によって許されていたため、

殺されることはないと高をくくっていたのでしょうか。

しかしそんな甘々では戦国時代を渡っていけるわけもありませんでした。

甘々は、稲生の戦いのときもそうです。自ら先頭を切って戦う織田信長に対し、

信成はこの時出陣すらしていませんでした(母に止められたのかもしれませんが)。

そしてのこのこと清須城にやってきた信勝は織田信長の命令を受けた河尻秀隆※と青貝某によって殺害されます(「天理本」では「古志津」という刀によって殺された、とある。『中古日本治乱記』は刺客となったのは山口弘孝・長谷川秀詮・河尻・青貝であったと記し、信長秘蔵の太刀「小志津」を授けられた青貝は他の者に手柄を取られまいと気がはやるあまりに一太刀で殺すことができず、信成は母のもとに逃げ込もうとしたが、廊下にいた池田恒興によって捕らえられ殺された、とある)。

※河尻秀隆(1527~1582年)は、清洲織田家の家老・河尻与一(左馬丞)の一族であったとされ、

秀隆は清洲織田家ではなく、織田信秀に仕え、その死後は信長の家来となっていた人物です。信長に信頼され、その後順調に出世して、最後は甲斐(山梨県)一国を与えられています。

こうして信長は、自身の対抗馬となる信成を滅ぼすことに成功し、

(この時点では)尾張国内に敵対する織田家はいなくなりました。

『信長公記』には、柴田勝家はこの時の功績で後に大国の越前(福井県北部)を与えられたのだ、と書かれています。

織田信長、尾張北部を平定~浮野合戦の事(1557・1558年)

 稲生の戦いで弟・織田達成(信勝)を破り、

残る同族の敵は岩倉城織田信安だけとした織田信長

その時、岩倉城で内乱が起きます。

そしてそれを、織田信長は見逃すわけがありませんでした😖

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



浮野の戦いはいつ起きたのか??

浮野の戦いは通説では1558年に起きたことになっています。

しかしこれは小瀬甫庵『信長記』の記述を基にしているもので確たる証拠があるわけではありません。

一方で、岩倉織田家の家老であった山内盛豊山内一豊の父)と、山内一豊の兄の墓が一宮市に残っており、そこには、「弘治三丁巳 七月十二日 但馬守 盛豊」「弘治三丁巳 七月十二日 但馬守 子 十郎」とあり、

弘治3年(1557年)7月12日に死んだ、と書かれているのですが、

浮野の戦いは「7月12日」に起きたと『信長公記』に書いてあるのです(何年に起きたかは書かれていない)!(◎_◎;)

これは、2人の死からちょうど1年後に浮野の戦いが起きた、というよりも、

浮野の戦いで織田信長が大勝し、その余勢をかって2人がいた黒田城も攻め落とした、と見るのが明らかに自然でしょう。

父の盛豊が死んだのは翌年とする説もあり、この墓石が作られたのは江戸時代中期と遅いということで信ぴょう性に疑問が残る点もあるのですが、この墓を管理している法蓮寺の過去帳にも弘治3年に死亡したと書かれており、墓石はこれをもとにしていると考えられるので、典拠が不明な甫庵の『信長記』よりは信頼性があります。

ですから、浮野の戦いは1557年に起きたと私は考えます。

〇岩倉織田家との決戦

岩倉織田家は最盛期は尾張の北半分を支配していましたが、

織田信秀のころにはだいぶ勢力範囲は狭まっていました。

 
後期の岩倉織田家の
勢力範囲
織田信長との決戦時には、支配地はほぼ
岩倉城・黒田城・楽田城周辺に限られていたようです💦

そのような状態の中で、弘治3年(1557年)、岩倉城で事件が起こります。

岩倉織田家当主の織田信安が、二男の信家を跡継ぎにしようとして、

長男の信賢に追放されるという事件が起こるのです。

ちなみに織田信安はその後斎藤氏に仕えて、織田信長に抵抗し続けますが、

斎藤氏も滅びると京都に逃れます。

その後織田信長に許され、美濃(岐阜県南部)に土地を与えられ、

最後は寺の住職となって1591年に亡くなります。

なかなかハードな人生を送った方でした(;^_^A アセアセ・・・

さて、岩倉織田家の内紛を見た織田信長はさっそく動きます。

その前に岩倉城~黒田城の間を邪魔するように浮野に砦を建設しています。

この砦が目障りな岩倉織田家と一度戦いになっていますが、この時は小競り合いで終わっています。

『武徳編年集成』には、永禄元年[1558年]5月28日、信長は岩倉城を攻め、うって出て来た城兵と浮野で戦った、信長は軍を二つに分けて、敵兵1000が攻めてきたところに側面から別動隊に攻撃させて敵を破り270余りの首を得た、この時信長に帰参していた柴田勝家は奮戦し、以前信長に反抗したという非を償うことができた、…とある。しかしこの時柴田勝家はまだ織田信成[信勝]の家臣であったはずである)

そして信長は岩倉織田家を倒すため、姉(名前は不明)を、

犬山城主・織田信清に嫁がせて同盟を結びます。

そして、織田信長・織田信清軍が連合して岩倉城へ攻撃に向かいます。

『信長公記』では信長軍はわずか1000しかいないのですが、

『総見記』では信長軍2000、信清軍1000、合計3000となっています。

清須から岩倉城への最短ルートは「節所」(通行困難な難所。田んぼが広がっていたのか湿地帯であったのか)であったので、

信長は「足場の能き方」である北の方へ迂回して、岩倉城と黒田城を遮断する位置にある浮野に到着し陣を構えます。

それを見た織田信賢は、黒田城への道を確保せんと、決戦を挑むことを決意します。

『信長公記』には、「三千ばかりうきうきと罷出で相支え候」と書かれています。

また「うきうき」!Σ(・□・;)

「うきうき」は以前も説明しましたが、「落ち着かない」という意味です(;^_^A

ですから、「慌てて出てきた」、という感じになるでしょうか(゜-゜)

それにしても気になるのは「3000」という兵数です。

『信長公記』を信じるなら信長軍の3倍、

『総見記』を信じるならば信長軍と同等です😲

織田達成に勝って領土を広げた織田信長に比べれば、岩倉織田家の勢力範囲は小さいはずなのに、なぜこれほどの兵を動員できるのでしょうか??

信ぴょう性は低いですが、『武功夜話』には、美濃方の兵が加わっていた、とあります。

同盟を組んでいる相手に、斎藤高政が何もしないとは考えられないので、あり得る話です(゜-゜)

『信長公記』には、戦いの様子が次のように書かれています。

…7月12日の午後12時頃、信長軍は南東方向に向かって突撃、数時間戦って敵を追い崩した。敵に浅野村の林弥七郎という弓の達人がいて、退こうとしていたところに、信長軍の鉄砲の名人・橋本一巴(信長の鉄砲の指南役でもあった)と遭遇した。2人は旧知の間柄であったので、林弥七郎は一巴に「たすけまじき」(助けてはやれないぞ)と言い、一巴は「心得候」(わかっている)と答えた。弥七郎は約12㎝もの矢尻がある弓矢を放ち、それは一巴の脇へ深々とつきささった。一方で一巴もほぼ同時に「二つ玉」(2つの弾を紙や糸でくくったもの。一度で2発放つことができる)を入れた鉄砲を放っており、弥七郎に命中して弥七郎も倒れた。そこに信長の小姓である佐脇良之前田利家の弟。以前に登場した佐脇藤右衛門の養子となっていた)が駆け寄って、弥七郎の首を取ろうとしたが、弥七郎はたおれながらも、太刀で佐脇良之の左ひじを籠手もろとも斬った。しかし佐脇良之はかまわずに弥七郎の首を取った。弥七郎の弓・太刀両方での活躍は見事であった。信長はその日中に清須に戻り、翌日、首実検をしたところ、首の数は1250余りもあった(「天理本」では1100余り)…

林弥七郎と橋本一巴の戦いは詳しく書いてあるのですが、肝心の浮野の戦いの様子については詳しく書かれていません(;^_^A

一方で、『総見記』には次のように戦いの経緯が詳しく書かれています。

…岩倉方が陣形を乱したところに、森可成・中条家忠突撃、岩倉方は敗れて岩倉城に逃げ込んだので、信長軍は勝鬨をあげ、織田信長は南の清須城へ、織田信清は北の犬山城に向けて移動した。それを見た織田信賢は信清軍に攻撃を開始した。これに対して信清方は高木左吉・生駒勝助・土倉四郎兵衛・和田新助・中島主水・金松牛之助・角田小市・猪子二左衛門・猪子加助・猪子才蔵などが、引き返して迎撃する。その時は11時40分頃、浮野川で一進一退の攻防が繰り広げられた。前田利玄(としふさ。前田利家の兄)は以前織田信清の家来で、今は岩倉織田家のもとで武者奉行をしていたが、犬山勢と戦うことになり、朝から戦い通しで疲れていたこともあり、土倉四郎兵衛に首を取られた。織田信長は犬山勢の苦戦を聞いてすばやく駆けつけて側面から岩倉勢を攻撃したので、岩倉勢は8・900の兵を失い大敗して何とか岩倉城に逃げこんだ。(ここで『信長公記』と同じく林弥七郎と橋本一巴の話が載る)岩倉勢はもう城を出る力は残っておらず、そこで信長軍はその日の晩に退却した…

『総見記』とほぼ同時期に成立したとされる『中古日本治乱記』には、『総見記』よりも詳しく書かれている箇所があり、例えば、

・森可成・中条家忠は「敵は早くも引き始めたぞ、進めや進めや」と叫んでから突撃した。

・討ち取った首は900余り。

・岩倉織田家の兵は城中に初め3500余りいたが、戦後は300足らずとなった。

・岩倉城を一気に攻め落とさなかったのは、一日に二度も戦っていて疲れていたのと、城中の兵がこれほど少ないとは考えもしなかったため。

・信賢は戦後再び兵を集め、城中の兵は1000ばかりになった。

岩倉方の死者について、『総見記』は8・900、『中古日本治乱記』は900、「天理本」は1100、『信長公記』は1250とバラツキがありますが、

『信長公記』を信じるならば、岩倉方は42%も戦死したことになります(◎_◎;)

また、『信長公記』も『総見記』も戦いの後、清須に戻った、と記していますが、

実際は先に述べたように岩倉支配下の黒田城をこの日の夜に攻撃してこれを落としています。

この時、岩倉方の家老であった山内盛豊は戦死したとも、負傷しながら岩倉城へ逃れたとも言われていますが、子の十郎(一豊の兄)は戦死します。

そして翌年(永禄元年[1558年])の春、織田信長は岩倉城に再び攻め寄せて

城下町に火を放ち、さらに周囲に柵を二重三重にめぐらして完全に包囲します。

そしてその間何度も火矢や鉄砲を撃ちこみました。

頼みとしていた斎藤高政も援軍にこず、

さらに楽田城も織田信清により攻略されたため、

万事休した織田信賢は2~3か月の籠城の末、ついに降伏を決意します。

織田信賢は尾張から追放され、流浪して武田氏のもとに落ち着き、武田氏滅亡の際に捕らえられますが、助命されています。

その後は関係のある山内一豊が土佐(高知県)の大名となった際に招かれたともいわれています。

また、落城の際に山内盛豊は自害(もしくは戦死)したと言われています。

それから山内一豊は各地を流浪することになるのです。

こうして、織田信長は同族の争いを制して、尾張北部をほぼ平定することに成功したのです。

そして次なる敵は、いよいよあの、今川義元となるのです!🔥


2023年6月24日土曜日

不思議すぎる会見~武衛様と吉良殿と御参会の事(1557年)

弘治2年(1556年)4月より、織田信長と岩倉織田家の信安は度々争っていましたが、

その中で、三河の名門吉良氏と尾張守護の斯波氏が会見する、という出来事が起きます。その目的とは、いったい何だったのでしょうか…?

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇吉良氏とは何か

吉良氏も斯波氏も、どちらも足利氏の一門です。

吉良氏は三河の南西部にある吉良荘を根拠地として足利義氏(1189~1255。母は北条時政の娘、妻は北条泰時の娘。三河守護、陸奥守、武蔵守などを歴任)の庶子(正妻の子ではない子ども)から出た家、

斯波氏は足利義氏の子、足利泰氏(1216~1270。丹後守)の庶子(庶子といっても始めは正室の子。最初は北条分家の娘を妻としていたが、のちに本家[得宗家]の娘が妻となったため、こちらが正室になった)から出た家ですから、

吉良氏のほうが歴史が古いのですね。

吉良氏の始まりは、1221年、足利義氏が三河守護(~1252年)になったことに始まります。

足利義氏は三河国内の地頭に足利氏の者を多く起用します。

そこで吉良荘の地頭となったのが義氏の庶子の長氏でした。

長氏は二男の国氏今川荘(現今川町付近)を与えます。

吉良荘を分割して相続させたのでしょう。

その後長氏の弟(泰氏)の子、公深(妻は今川国氏の娘)が吉良荘一色郷の地頭(吉良荘地頭という記述もあるが、それは吉良氏なので、一色郷の地頭の間違いでは??)となり、

一色氏を起こしています。

つまり三河国吉良荘付近で、足利の名門、吉良氏・今川氏・一色氏が生まれたことがわかります(◎_◎;)

さて、その吉良氏は、

『今川記』に「室町殿の御子孫たえなば吉良につかせ、吉良もたえば今川につかせよ」足利氏が絶えれば吉良がつぎ、吉良も絶えれば今川が継ぐと記されているほど、

(実際は吉良氏の地位は「足利氏御一家」であったのに対し、今川氏は「外様衆」にとどまっており、御一家>三管領家>相伴衆>御供衆>(御部屋衆)>申次衆>外様衆>奉公衆となっている室町幕府の家格のランクでは下から2番目でしかなかった。確かに思えば中央で活躍した今川氏の人物はいない…)

家の格は三管領(斯波・細川・畠山)をしのぐほど高いものであったようです。

しかし吉良氏は鎌倉時代はけっこう力を持っていたようですが、

(鎌倉時代には吉良氏は名乗らず、ずっと足利氏を名乗り続けていた)

室町以降は家の格が高いだけで実際の力はそれほどありませんでした。

なぜかというと、

室町時代の初めに足利尊氏と弟の直義が争った観応の擾乱(1350~1352)がありましたが、

吉良氏は吉良満義・満貞親子そろって直義側についたのです。

これに反発した吉良氏の家来の一部は満貞の弟の尊義を擁立して対抗します。

後に吉良満義・満貞は足利尊氏に降伏しますが、

その後は吉良氏は西条家(満貞系。嫡流。上吉良とも。「吉良殿」と呼ばれる)と東条家(尊義系。庶流。下吉良とも。「東条殿」と呼ばれる。「御一家」には入らない[ので、中央で活動はしていない])に分裂してしまいます。

その後、時代は下って戦国時代になると、

東条吉良義藤(尊義の玄孫[ひ孫の子]にあたる)が京都にいる西条吉良義真(満貞の孫[もしくはひ孫])の領地に攻めこむという事件が起きていますが、まもなく和睦したようです。

西条吉良義真の子、義信は主に京都にいて、1487・1491年の二度の六角征伐に加わるなど、積極的な活動ぶりを見せ、そのために三河守護に任じられたとも言われています。

義信の後を継いだのは、孫の義堯でした。

義堯も京都で活動しますが、将軍・足利義稙が1513年に京都を出奔したことに伴って、義稙派であった義堯も京都を去って本領の三河吉良に戻ったようです。

義堯は遠江にあった吉良氏の領地をめぐって今川氏親と対立しますが、

のちに氏親の娘を妻に迎えて和睦します。

そして生まれたのが義郷・義安・義昭の三兄弟でした。

吉良義郷は吉良にいながらも、たびたび京都に赴いて幕府に出仕していましたが、

天文7年(1538年)を最後に西条吉良家は幕府に姿を見せなくなります。

なぜかというと、尾張の織田信秀が(河東一乱のために今川氏が三河に手を出せないのを見越して)三河に勢力を拡大し、西条吉良家の西尾城を襲ってきたからです(◎_◎;)

『養寿寺本吉良氏系図』によれば、吉良義郷は家老の冨永伴五郎とともにこれを数回撃退したものの、天文8年(1539年)に伴五郎が戦死すると劣勢を覆すのが難しくなり、天文9年(1540年)4月23日には義郷は西尾城で戦死してしまいます。

義郷死後、西条吉良家を継いだのは弟の義安でしたが、この家督継承は単純なものではありませんでした💦

なぜなら、東条吉良家の吉良持広(?~1539年。吉良義藤の孫。以前に紹介したように、松平広忠の岡崎城復帰を支援するなど松平側に与して活動した)が、西条吉良家の義安を養子に迎え、これに家督を譲っていたからです。

(これによって長く分かれていた吉良家は西条吉良系に統一されることになった。持広には義次という息子がいたが、持広死亡時に9歳と幼かったので義安が養子として迎えられたと言われているが、その辺りの事情はよく分からない)

そのため、普通に考えれば、西条吉良家を継ぐのは残った義昭になりそうなものですが、義安としては弟に家格の高い西条吉良家を継がれるのはおもしろくなかったでしょう。

吉良義安の妻は斯波氏の娘と言われていますが、これは斯波氏・織田氏を味方につけることで、西条吉良家を継ぐことを狙ったものでしょう。

おそらく斯波氏・織田氏の引き立てによって義郷は西条吉良家も継ぐことになります。ここに両吉良家は統一されることになったのです。

『今川記』には「今川殿御計いにて。義安又西條も御相続也。両吉良共に御相続也」とあり、今川氏もどうやらこれを認めていたようです。

その後河東一乱が片付き、三河に目を向けることができるようになった今川義元は三河に進出、織田信秀と衝突することになります(◎_◎;)

吉良義安はもちろん織田派で、天文16年の渡・筒針の戦いでは織田方を支援して安城城に軍勢を入れ、今川氏が中島城を奪った時も吉良から中島城の途中の地点まで兵を進めています。

これに怒った今川氏は天文18年(1549年)9月頃に吉良領を襲い、9月20日には今川方の大村弥三郎という者が西尾城の外曲輪で名のある武将を討ち取って賞されていることからもわかるように、間もなく吉良義安は追いつめられ、降伏しました。

今川義元は義安の外戚の後藤平太夫を「悪徒」(『駿遠軍中衆矢文写』)として処分を要求、これを除くことに成功します。

義安については、まだ13歳と年少であり、吉良氏は家格が高く、三河をまとめる存在としても有用であったので粗略にせず、義安をそのまま西尾城にとどめます。

恩を受けたはずの義安ですが、弘治元年(1555年)10月頃、大河内・富永与十郎の勧めもあり、再び今川氏に敵対、弟の義昭を水野氏へ人質に送り、援軍を得ます。

義安が今川氏に敵対した理由について、小林輝久彦氏は、

松平氏は、清康は東条吉良持清が烏帽子親となり「清」の字をもらい、

広忠は東条吉良持広が烏帽子親となって「広」の字をもらっていたのに、

松平元信(のちの徳川家康)は今川義元が烏帽子親となって「元」の字をもらったので、

「三河国主」の面子をつぶされたと感じ敵対した、としています。

それに加えて、①織田信長からの誘い②下に見ていた今川氏に敗れた不満③三河が騒乱状態(のちに触れる「三河忩劇」)にあり、今川は手を焼いている状態…の3つの要因があったことから挙兵を決意したのでしょう。

しかしこの挙兵には吉良の家臣の荒川・幡豆・糟塚・形原は従わなかったようで、吉良氏も一枚岩ではありませんでした(;^_^A

再びの反抗に怒った今川氏は閏10月4日頃、吉良庄内をことごとく放火、200余人を討ち取りますが、

一方で今川軍敗北、撤退する中で松井宗信がとって返して奮戦したのを賞する史料も見受けられるので、今回は前回と違って今川氏は苦戦したようです(◎_◎;)

その中で弘治2年(1556年)3月、織田信長が吉良庄内荒川に進んで野寺原で今川方と合戦しています(この時吉良義安は織田と連携して上野城を攻撃している)。吉良を援護するために出陣したものでしょうが、

織田信秀が安城城を失った天文18年(1549年)後、織田家は久しぶりに国外に進出するまでに勢いを取り戻していたことがわかります。

しかしいいことは長く続かないもので(;^_^A

翌月に織田信長の同盟相手である美濃の斎藤道三が長良川の戦いで死ぬと、

美濃だけでなく岩倉織田家が敵対、弟の織田信勝も敵に回るなど、

急速に織田信長をめぐる状況は悪化していきました(◎_◎;)

織田信長の援護を受けることが難しくなった吉良義安はそれでも、

『言継卿記』で弘治2年9月に山科言継が吉良領内を避けて通行していることからわかるように、

挙兵してから約1年間にわたって抵抗を続けることができていました。

しかしその後しばらくして吉良氏は今川軍に敗北、

敗れた義安はおそらく尾張に逃亡しました。

西尾城を手に入れた今川氏はここに今川方の城代を置いて直轄地にしますが、

一方で東条城には人質から戻ってきていた(今川氏が強く求めた結果か?)吉良義昭が入れて城主としました。

そして今川義元は新たに吉良の当主となった義昭を使って織田信長と和睦することを思いつきます。

今川氏は三河国内での争乱鎮圧に苦慮し、織田は岩倉織田家との戦いを控えている状況であり、両方ともひとまず戦いを止めておきたい状況でした。

両者の思惑が一致した結果、

弘治3年(1557年)4月上旬、

尾張を代表して斯波義銀、三河を代表して吉良義昭が、三河の上野原で会見し、和睦することになりました。

両軍は上野原に到着すると、約160メートル離れて、斯波・吉良が床几に座りました。

すると双方は立ち上がって10歩ほど前に出ると、何もせずに元の席に戻り、両者とも引き上げる…という謎の行動をとりました(◎_◎;)

この謎行動の原因としては、両家の家格差があったと考えられます。

ふつうに和睦の儀式を進行すれば、吉良に比べ家格が低い斯波が下風に立つような形で和睦が結ばれることになってしまう…おそらくそう考えた織田信長は、斯波義銀に吉良と同じように動くように行動させることにしたのでしょう💦

今川氏と織田氏の和睦は永禄2年(1559年)途中まで、約2年にわたって続き、その間両者は直接対決を控えることになります。

〇薮田に幽閉された吉良義安?

吉良義安の墓が静岡県藤枝市にあります。

吉良義安の墓が三河を含む愛知県ではなくなぜここにあるのかというと、

吉良義安は藤枝市にある薮田に幽閉されていたからだ、とされます。

吉良義安が薮田に幽閉された時期については、今川に対する一度目の敵対時(1549年)とする説、今川に対する二度目の敵対時(1555~1557年?)とする説が有力であるようですが、

この2つの説だと、後にマンガで触れますが、『信長公記』に、(おそらく桶狭間後に)「吉良・石橋・武衛」が尾張で信長に対し謀反を企んだので、3人とも国外に追放された、とする記述と矛盾するのです(◎_◎;)

この「吉良」にあたるのは吉良義安か義昭なのですが、

吉良義昭は桶狭間前後はずっと東条城にいるのでありえず、

そうなるとこの「吉良」は義安ということになります。

薮田に幽閉されていたとしたら尾張から追放されるわけがありません(◎_◎;)

この時期の吉良家について、『松平記』『三河物語』は次のように記述をしています。

『松平記』は、

弘治2年4月頃、駿河の薮田にいた吉良義安の弟の義昭が西尾城で今川氏に敵対した、自身は東条城に移り、西尾城には牛久保城の牧野成定を入れた…と記し、

『三河物語』は、

桶狭間後、松平元康[徳川家康]と戦うことになった吉良殿は、長男の吉良義藤(吉良義安の誤り)は松平清康の妹婿であったので駿河の薮田に移した、西尾城にいた弟の義昭を東条城に移し、西尾城には牧野成定を置いた…と記します。

どちらも同じような内容なのですが、

『松平記』は桶狭間前の今川氏に対する敵対時、『三河物語』は桶狭間後の松平元康との敵対時という違いがあります。

おそらくこの2つの事件が混ざってしまったのでしょう(;^_^A

前者が正しいとすると1555年の時にはすでに義安は薮田におり、一度目の敵対後に幽閉されていることになります。先に述べたように、これでは後の尾張謀反事件とのつじつまが合いません。

そうなると、後者の1561年の時に薮田にいた、という方を信じるべきです。

この場合だと幽閉、という形ではなく、

尾張から追放されて、弟を頼ろうとしたが、松平と縁があるので断られ、仕方なく今川氏を頼って駿河の薮田に移り住んだ…というのが真相ではないでしょうか(゜-゜)

2023年6月20日火曜日

いつもよりも「うきうき」?~三郎五郎殿御謀反の事(1557年?)

 織田信長は最大の対抗勢力、織田達成方を破り、一息つくことに成功しました。

しかし、このタイミングで、新たな裏切りが発生してしまいます。

※マンガの後に、補足・解説を載せています♪


織田信広の謀反

織田信広を主人公とした『織田家の長男に生まれました ~戦国時代に転生したけど、死にたくないので改革を起こします~』という漫画が10月6日(2022年)に発売されたそうです💦

「斎藤義龍に生まれ変わったので、織田信長に国譲りして長生きするのを目指します! 」も同日発売されている(;^_^A)

流行りの転生ものですな(;^_^A アセアセ・・・

ちなみに、弓矢で撃たれて殺された、織田秀孝を主人公とした『信長公弟記 ~転生したら織田さんちの八男になりました~』の漫画もある😓

織田信広の漫画のは安祥城をめぐる攻防が1巻で描かれるようなのですが、

織田信広は安祥城の城主を務めていた男でした。

織田信広は織田信秀の側室の子として生まれたため、

長男でありながらも跡継ぎではありませんでした。

1548年3月に起きた小豆坂の戦いでは先鋒として戦うも織田軍は敗北してしまう。

その後は対今川の最前線である安祥城の守りを任されているので、

父・信秀からは信頼されていたようです。

1549年、太源雪斎率いる今川の大軍が攻め寄せると、

一度は敵の先鋒、本多忠高(あの本多忠勝の父)を討ち取って撃退に成功するが、

再び攻め寄せてきた今川軍に抗しきれず敗北、生け捕りにされてしまう。

そして尾張で人質になっていた徳川家康と交換で尾張に帰還するが、

この後はしばらく記録から姿を消してしまう。

安祥城を失い、捕虜にもなったことで、織田信広は織田家中での力をだいぶ失ってしまったのでしょう(しかし小豆坂でも安祥城でも最終的に敗北しているがそれなりに奮戦しており、決して凡庸な男ではなかった。「信長の野望 創造」では統率:60 武勇:59しかないが…。最新作の「新生」では統率が62と微増)。

信広の代わりに表に出るのは同じ母から生まれた弟の織田秀俊でしたが、

この秀俊は守山城主になるも、以前のマンガで描いたように、策謀に巻き込まれて?殺されてしまう。

この秀俊は信長派であったので、信広も信長に大人しく従っていたのでしょうが、

秀俊が死ぬと、弟の信長の家来扱いになっている状態に心が揺らぎ、そこを斎藤高政のちの義龍。以前は利尚・范可と名乗っていたが、長良川の戦い後に高政と改名)に「あなたは長男ではないか」などと吹きこまれ、謀反を決意するようになったのでしょう。

謀反のタイミングについては、『信長公記』には日付が載っていません(;^_^A

しかし、斎藤高政が織田信広に対して出した書状が残っており、ここからある程度推量することはできます💦

その書状の内容は信広が太刀・鉄砲・雁を送ってくれたことに対し、高政がそのお礼に太刀1つと鱈(たら)5つを送った、というもの。

この日付は年は書かれていないですが、正月15日と書かれています。

斎藤「高政」と名乗っていた時期は弘治2年(1556年)4月頃~永禄2年(1559年)8月頃なので、

「高政」と名乗っていたときに迎えた正月は弘治3年(1557年)・永禄元年(1558年)・永禄2年(1559年)になります。

『信長公記』には、「三郎五郎殿御敵の色を立てさせられ、御取合い半ばに候。御迷惑なる時見次ぐ者は稀なり。かように攻め一仁に御成り候えども、究竟の度々の覚えの侍衆7・800、甍を並べ御座候の間、御合戦に及び一度も不覚これ無し」(信広が謀反した頃、信長が苦しんでいるのを助けるものは稀であった、しかし、このように一人で戦わなくてはいけなくなっても、武功を度々立てた、優れた家来たち7・800人がいたので、戦いになっても不覚を取ることはなかった)とあり、

織田信広が謀反をしたとき、信長は味方が無く苦しい状況にあった、とあるので、

織田信長は尾張北部の平定を完了した永禄2年(1559年)は

『信長公記』の記述と矛盾しているため、謀反のタイミングの候補からは外れるでしょう。

永禄元年(1558年)には織田信長は犬山織田家を味方につけており、

戦いの際に一緒に戦うようになっているので、この年も外れるとすると、

最も可能性が高いのは弘治3年(1557年)になるかな、と思います(;^_^A

しかしそれにしても謀反のタイミングが気になります。織田達成が立ち上がったときに一緒に謀反を起こせばよかったのでは?と思うのですが、

そうなると結局弟にあたる織田達成の家来扱いになるので、織田達成と一緒に挙兵することは耐えられなかったのでしょうか。

そして織田達成が敗れたところで、織田信広は斎藤家と組んで立ち上がることを決意したのでしょう。

織田信広はいつも戦いが起こると一人で真っ先に駆け出していく織田信長の戦闘的なスタイルをいつも見ていたので、

斎藤高政に、「何時も御敵罷り出で侯えば、軽々と信長懸向わせられ侯。左様に侯時、かの三郎五郎殿御出陣侯えば、清洲町通りを御通りなされ侯。必ず城に留守に置かれ侯佐脇藤右衛門罷り出で、馳走申し侯。定めていつもの如く罷り出ずべく侯。其の時、佐脇を生害させ、付入に城を乗っ取り、相図の煙を揚ぐべく侯。則ち、美濃衆川をこし近々と懸け向うべく侯。三郎五郎殿も人数出だされ、御身方の様にして合戦に及び侯わば、後切りなさるべし」(信長はいつも敵が攻め寄せればすぐ清須城を出ていく。私が信長に従って出陣する際、必ず清須城の町中を通る、そうすると必ず留守役の佐脇藤右衛門がやってきて私をもてなすのですが、高政殿が攻め寄せれば今回も必ず佐脇はそうします、その時に私は佐脇を殺して清須城を乗っ取り、成功した合図として狼煙を上げます。そうしたら高政殿は川を渡って信長に攻め寄せなさるがよいでしょう。私が信長の味方のふりをして合戦に加われば、信長は前後に攻撃を受けて敗れるでしょう)と話を持ちかけたのです。

しかしこの作戦はばれてしまう。

なぜバレてしまったかというと、斎藤軍が「うきうき」していたからです(;^_^A

これは冗談ではなくて、『信長公記』に、「美濃衆、何々(いついつ)よりうきうきと、渡りいたり(角川版『信長公記』の校注には「いたり」は「辺り」の方言か、と書かれている。これならば渡し場付近、ということにあるが、「天理本」には「わたりわたり」とある)へ人数を詰め候」と書かれているのである!

この「うきうき」は、「現代語訳 信長公記」では「いつもよりも気合を抜いて」と書かれているのだが、

「うきうき」を調べてもそのような意味はない。

goo辞書では、「楽しさで心がはずむさま。うれしさのあまり落ち着いていられないさま」と書かれている。

しかしこれでも違和感があるので(軍隊がうれしさのあまり…ってなるかな??)、

明治24年(1891年)に作られた辞書、『言海』で「うきうき」を引いてみると、

「心浮かるる状にて」と書かれている。

「浮かるる」とは?引いてみると、

「うかるの訛」とある。

「うかる」を調べると、

「①自ら浮く。②心、落ち居ず。寄辺なく、心定まらず。③心を楽に奪わる」とある。

今回の「うきうき」で当てはまりそうなのは②だろう。

「落ち居ず」は「落ち居(い)る」の否定形である。

「落ち居る」は「心が落ち着く。心が静まる」という意味だそうなので、

今回の場合は、「斎藤軍はいつもと比べて落ち着かない様子です」というのが最も正しい解釈になるだろう。

これを聞いた織田信長は、「去ては、家中に謀叛これあり」(落ち着かない様子なのは、織田家の中で謀反が起こるのを待っているからではないか)と考えます。

織田信長すごっ!と思いますが、

おそらく織田信広あたりが怪しいというのはつかんでいたのではないでしょうか。

この察知能力が本能寺でも発揮されていれば…。それだけ明智光秀がすごかったのか、気が緩んでいたのか…。

織田信長は、佐脇には清須城を決して出るな、町人たちには町の惣構えの入り口を堅く閉じて、信長が帰ってくるまで誰も入れてはいけない、と厳命して出陣します。

そこに信広がやってきますが、中に入れず、「謀反聞え候か」(謀反が知られてしまったか)と思い、

慌てて退却します。これを知った斎藤軍も退却します。

織田信広はその後しばらく抵抗したようですが、『信長公記』には書かれてませんが最終的に降伏したようです。

その後は信長は以下の武将として各地で戦うことになります。

織田信長としては、反抗したけれど、兄だし、無能というわけではないので、

殺さなかった、というところなのでしょうか。

織田信長には有能な一族武将が全然いなかったこともあったでしょうね。

兄弟で有能な人ほとんどいませんから…(;^_^A アセアセ・・・

さて、信長は少しずつ尾張国内の敵を片付けていったわけですが、

その中で、駿河(静岡県東部)の今川義元と関わる出来事が起きることになります(◎_◎;)

2023年6月19日月曜日

稲生の戦い~勘十郎殿・林・柴田御敵の事(1556年)

 尾張の北半分にあたる、上四郡の守護代を務めていた岩倉織田家の織田信安に敵対された織田信長

苦しい状況の信長に追い打ちをかけるように、

ある人物が敵対を明らかにします。

それは織田信長にとって今までで最大の危機となるものでした😰

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



※3ページ目は都合により公開いたしません🙇

〇織田信長包囲網の前にすでにあった信長包囲網

佐渡守秀貞(1513~1580)は、以前のマンガでも紹介したように、

信長に最初につけられた一番家老でした。

しかし織田信長との関係はそれほど良いものではなく、

村木砦の戦いの際には独断で別行動をとっています。

林秀貞はおそらく慎重で保守的な人物であり、

それが故に、新しいもの(武器や戦法、家臣もそう)をどんどん取り入れて、

1人で飛び出していくような軽率な行動をとる織田信長に尾張を任せていては国が持たないと考えたのでしょう。

弟である林美作守(1516~1556。名前は『信長公記』には書かれていないが、通具[みちとも]とする説も)とともに、

織田達成(信長の同母弟)の家老、柴田勝家と示し合わせて信長に敵対することを決めます。

しかし、弘治2年(1556年)5月26日、

そんな不穏な時に、織田信長が新しく守山城主となった織田信時(織田信長の弟とも兄ともいわれる。信長の兄である織田信広の同母弟であったらしい)を連れて、

なんと2人だけで林秀貞が城代を務める那古野城にやってきます😱

織田信長は林秀貞を試したのでしょうか?

それとも、林秀貞を信じていたのでしょうか?

おそらく、秀貞に反抗されるとまずいので、

2人だけで那古野城を訪れることで秀貞を信頼していることをアピールし、

林秀貞に反抗されないようにするための行動だったのでしょう💦

(村岡幹生氏は、『今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝』で、「信長が那古野城で林兄弟に対して、彼らが到底受け入れることのできない何らかの屈辱的要求を突きつけたがために、彼らが信勝派に走ったというのが真相であろう。守山城主安房殿を伴ったというから、その要求には、彼が絡んでいたのであろう。大胆な推定を述べるなら、林兄弟に対し信長は、軍事的緊張が高まった岩倉守護代への備えとして、彼らがその前線に立つことを要求し、そのために那古野からの移転を迫ったのではあるまいか。守山城主がそれに絡むとすれば、具体的には、守山・那古野の城主入れ替わりの要求である」としている)

そこで秀貞の弟で兄と違い武闘派の林美作守が、

兄に「能き仕合せにて候間、御腹めさせ候はん」(千載一遇の機会であるから追いつめて切腹させましょう)とけしかけます。

しかし、林秀貞は慎重で保守的な人物であるので、

「三代相恩の主君を、おめおめと爰にて手に懸け討ち申すべき事、天道おそろしく候。とても御迷惑に及ばるべきの間、今は御腹めさせまじき」(3代にわたって恩を受けた主君を殺すなどという恥知らずな行動をしては、天罰がおそろしい。どうせ困らせるようなことをこれからするのだから、今切腹させるようなことをしなくてもいいではないか)と言って、

ここでも信長を殺すことをためらって信長を生きたまま帰してしまいます。

(※秀貞は今回のマンガでも触れたように、3代にわたって織田家に仕えてきた家柄でした。

祖父は林通村美濃(岐阜県南部)の稲葉氏の出身であったという。

清須城岩倉城の中間地点にある、沖村(北名古屋市)に所領を得て、

以後代々受け継いだ。

父は林通安?~1553年]で、3代目が秀貞になる。)

秀貞としては織田信長の信頼アピールの行動もあり、織田信長を手にかけるのは忍びない状態になっていたのではないでしょうか。

信長の信頼アピールも功を奏さず、

林秀貞はそれから2日とたたないうちに、信長に対する敵対を明らかにします。

林秀貞の与力(有力武将に配属された武士で、家臣の家臣という扱いにはならない)である荒子城前田与十郎は林方(織田信勝方)につき、

同じく秀貞の影響下にあった米野城大脇城も同じ行動をとります。

さらに悪いことは続き、織田信長派であった守山城主の織田信時が、なんと家老の角田新五に殺されるという事件が起きてしまいます(◎_◎;)

織田信時は『信長公記』に「利口なる人」と書かれるほどの人物でしたが、

家老の坂井喜左衛門の子、孫平次と男色関係になり(当時は全く珍しくなかった)、孫平次ばかりを重用し、角田新五を軽んじるようになったため、

不満に思った角田新五は「城の塀が壊れたので直します」と言って、

城の塀のところにいき、その壊れたところから兵を引き入れて織田信時を切腹に追い込みます(◎_◎;)

孫平次はどうなったのか記述がありませんが、その後出番がないので、おそらく殺されたのでしょう。

城を乗っ取った角田新五はその後、岩崎城丹羽氏勝(1523~1597。丹羽長秀との血縁関係は無い、別の丹羽氏)といっしょに織田達成方についていることから、

おそらく織田達成方からの誘いを受けて、

織田信長派の織田信時を死に追い込んだものでしょう。

その後しばらく織田信長方と織田達成方で衝突は起こらず、

「奇妙な戦争」状態となっていましたが、

先に行動したのは織田達成方でした。

織田信長の領地である篠木を無理やり奪い取ったのです。

それに対して織田信長は、このまま庄内川の東側を奪われていくわけにはいかないので、8月22日、佐久間盛重に命じて、庄内川を渡ったところにある名塚に前線基地となる砦を築かせ始めます。

佐久間盛重はもともとは織田達成の家臣(家老?)であった者でしたが、

織田達成にはつかずに織田信長の方につきました。

同族である佐久間信盛は、先の守山城騒動の際に信長のために解決策を提案しており、だいぶ早い段階で佐久間氏は織田信長方になっていたようです(゜-゜)

織田達成としては、砦が築かれていくのを黙ってみているわけにはいきません。

いよいよ、兄弟決戦の時が近づいてきていました🔥

稲生の戦い

弘治2年(1556年)8月23日、雨で庄内川が増水したのを見て、

(『総見記』では8月に雨が降り続いていた、と書かれている)

これで織田信長は川を越えて名塚砦に救援に行くのは難しいだろう、

と考えた柴田勝家・林美作守は名塚砦へ出陣します。

『総見記』によれば、名塚砦はまだ一重の塀と、堀一つができただけの状態で、

攻められたらひとたまりもない状態でした💦

しかも、助けに行こうにも庄内川は増水して、『総見記』によれば鳥ではないと渡りづらいような状況…(◎_◎;)信長、大ピンチです💦

しかし、村木砦の戦いで荒れる海をものともせず押し渡った織田信長には、

増水した川くらいへっちゃらでした。

『総見記』によれば、名塚砦で泳ぎが上手なものが庄内川を泳いで清須城に到着、敵が攻めて来たと報告を受けた信長は、「今日某、後詰せずんば一定此の城落つべきなり、後悔何の益あらん、速やかに打ち立つべし」(今助けに行かなければ必ず砦は落ちるだろう、後悔しても何も得は無い、今すぐ出陣する)と言って700に満たない兵を率いて出陣、川を押し渡ります。

一方、織田達成方は、柴田勝家が1000の兵を率いて東側から、林美作守は700の兵を率いて南側から、名塚砦に向かって進んでいました。

織田信長はまず柴田勝家隊と戦うことに決め、8月24日正午ごろ、名塚砦の東にある稲生で柴田勝家隊と激突します。

柴田勝家隊は1000、対する織田信長は連れてきた700に満たない兵のうち過半数(南から進んでくる林美作守に対応するため、兵を分けた)であったので、

兵力の差は否めず、信長軍は押されていきます。

しかも相手はあの柴田勝家ですからね💦

柴田勝家は山田治部左衛門を負傷しながらも自ら討ち取ります。

他にも織田信長軍は「小豆坂七本槍」の1人、佐々孫介(佐々成政の兄)が戦死、

前線の兵は負けて織田信長の所へ逃げてきます。

織田信長の周囲には、織田勝左衛門(織田氏の一族?)・織田信房(「小豆坂七本槍」の1人)・森可成など40人がいました。

この40人が突撃し、柴田勢の大原という者を織田信房・森可成が討ち取ります。

そして、ここで織田信長が動きます。

『大音声を上げ、お怒りなされ候を見申し、さすがに御内の者共に候間、御威光に恐れ立ちとどまり、終に逃崩れ候キ』。

信長の大音量の怒声を聞いて、(織田信長のことをよく知っていることもあって)柴田勢の者たちは震えあがり、慌てて逃亡してしまった、というのです。

これはおそらく、織田信長と何度も行動を共にし、織田信長の才能を理解していた柴田勝家が織田信長は倒すべきではないと、兵を引いたというのが実際の所だったのかもしれません😕

逃げる柴田勢に対し、織田信房は追撃戦に入ります。

家来の禅門という者は、河辺平四郎という者を倒し、織田信房に首を取るように勧めましたが、織田信房は「首を取る暇はない。倒した者はそのままにして、先へ進んで追撃せよ!」と叱られています😓

柴田勢の追撃を織田信房に任せた織田信長は、

続いて南から攻め寄せる林美作守勢の攻撃に移ります。

間もなく、黒田半平という者が美作守に挑みかかります。

しかし、美作守は兄と違い武闘派だけあって、

長く戦った末に、半平の左手を切り落とす奮戦を見せます。

しかし、そこに織田信長がやってきて、大将自ら勝負を挑みます。

『信長公記』には、「其時、織田勝左衛門御小人のぐちう杉若、働きよく候」

書かれていますので、林美作守に負けそうになった信長を、

横から救って槍ででも刺したのかもしれません。

信長はたいへん杉若をほめて、「杉左衛門尉」という名前を与えたそうです。

信長は杉若の助けもあり、林美作守を討ち取ります。

『信長公記』には「御無念を散じられ」(悔しい気持ちをお晴らしになった)とあるので、

信長が子どものころからずっと仕えてきた林美作守が裏切ったことが相当悔しかったのだと思います。

織田信長勢は逃げる敵を斬りに斬り、翌日首実検をしましたが、

「天理本」によればこの時、「林美作頸をば御足にてけさせられ候也」とあり、

信長はなんと林美作守の首を蹴り飛ばしています(◎_◎;)

信ぴょう性は乏しいですが、江戸時代中期に罹れた『常山紀談』には、1582年、武田氏を滅ぼした際に、武田勝頼の首を蹴飛ばした、という話が載っていますが、元ネタはこれでしょうか…(゜-゜)

それはさておき、戦いの後の首実検ですが、そこで並べられた首はなんと450以上もあったといいます。

織田達成軍は1700人ほどいましたから、4分の1が命を失ったことになります。

裏切ったものを許さない、信長の苛烈さがここに見えます。

一方で、この戦いでは守山城の織田信時を殺した角田新五も討ち死にしているのですが、

信長はおそらくこのタイミングで以前織田秀孝を誤って?殺した織田信次(以前のマンガ参照を守山城主に戻しています。

感激した信次は織田信長に必死に仕え(『総見記』に「信長公の御厚恩忝く存ぜられ」とある)、のちに長島の戦いで戦死しています。

優しい一面も見せているわけですね(゜-゜)

さて、敗れた織田達成は勢力下に置いていた多くの城を失い、末盛城・那古野城に閉じこもらざるを得なくなります。

信長は2つの城を何度も攻撃し、町を焼き払っています。

信長の母、土田御前は末盛城にいました。

土田御前は見知った清須城にいる村井貞勝・島田秀満を末盛城に呼び寄せ、

謝罪の言葉を信長に伝言させました。

信長はこれを聞いて信勝を許し、

信勝は土田御前・柴田勝家・津々木蔵人(信勝の側近)を連れて、織田信長にお礼の言葉を言いに清須城に行っています。

信長は林美作守だけでなく、その兄で、一番家老でありながら裏切った林秀貞にもブチギレていましたが、

林秀貞は、信長が信時と2人だけで那古野城に来た時、美作守が殺すように言ってきたのを止めたのです、と信長に伝えます。

すると、信長はその時のことを思い出して殺すのを止めたということです。

ここで許すのがすごいですね💦素直というか、純真というか…。

林秀貞は文官としての能力がある人ですから、殺すのが惜しいとも思ったのかもしれませんが。

ともかく、織田信長は最大のピンチを乗り切りました。

この後、信長は尾張統一に邁進することになります🔥

2023年6月17日土曜日

織田信安の敵対~信長大良より御帰陣の事(1556年)

 長良川の戦い織田信長

頼れる同盟相手、斎藤道三を失います。

これは美濃(岐阜県南部)がすべて敵に回ることを意味していました。

ここから織田信長の再びの苦難が始まります💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


岩倉織田家の敵対

織田信長は斎藤道三の苦境を黙ってみているはずもなく、

長良川の決戦に臨む道三に合わせて、木曽川・飛騨川を渡り、茜部方面に進む途中で大良(羽島市大浦?)に陣を敷きました。

そしてこの場所でめったにない、不思議なことが起こりました😦

陣を作るために屋敷の堀や垣根のあるところを掘っていると、

「銭亀爰もかしこも銭を布きたるごとくなり」

…次々と銭の入った甕がたくさん出土し、あたり一面に銭を敷いたかのようになったというのです(◎_◎;)

しかしこれは別の解釈もあって、「銭亀(ニホンイシガメの子ども)」が大量に地中から出てきて、堀や垣根のところに出て来たので、あたり一面に銭を敷いたかのようになった…というものです。

『太閤さま軍記のうち』では「ぜにがめ」とあり、

『信長公記』では「銭亀」とあります。

一方で、江戸中期の『太田牛一雑記』には「銭をつながせ御覧候」という言葉が追加されています。

銭亀だとつなげることは無理なんですが、江戸時代途中から、銭亀が銭の入った甕だと理解が変化していった、ということなのでしょうか…??

驚きの具合が強いのは亀の方ですよね。

『太閤さま軍記のうち』には、

堀だけでなく、生垣にも多数の「ぜにがめ」が地中から出て来た…と記述がありますが、

銭の甕だと、生垣から出るっていうのは不自然だと思うんですよね(;^_^A

…ということは「銭亀」、亀が正しいのではないかと(゜-゜)

さらに、なぜこの話を記録する必要があったのか、というと、

どうやら銭亀が湧くというのは、当時は悪いことが起きる前触れだと思われていたようなんですね。

(銭亀が湧くのが凶兆というのは調べても「戦国女士blog」さんにしか載っておらず、出典も明記されていなかったので、本当かどうかはわかりませんが💦)

つまり、銭亀登場=道三救援失敗、をつなげている、ということなんでしょうね…。

さて、長良川の戦いで道三に勝利した斎藤范可(のちの義龍)は、続いて織田信長を攻撃するために大良方面に軍を進めます。

一方の織田信長も大良から北に30町(3.3㎞。『太閤さま軍記のうち』では20町になっている)ほど軍を動かしており、

及河原(笠松町北及・南及周辺)で織田・斎藤両軍は激突しました🔥

この戦いで織田軍は、

山口取手介・土方彦三郎が討ち死に(「天理本」では下方弥太郎も討ち死に)、森可成千石又一に膝のあたりを斬られ退くなど、

苦戦を強いられます。

そこに道三が敗死したという報が入ったため、織田信長は大良に築いた陣まで戻りますが、

清須城に戻るには大河を越す必要があり、退却中に美濃勢に襲われ大きな被害を受ける可能性がありました(◎_◎;)

ここで信長は、川を渡る一番最後は自分が引き受けたといい、信長が乗る舟一艘だけを残させて、全軍を撤退させました。

そこに斎藤軍が追撃を仕掛けてきたのですが、

これに織田信長は鉄砲を撃たせて反撃したので、危険に思った斎藤軍は近くまで寄ってこず、その間に信長は舟で退却に成功しました。

(「天理本」では「御一人御残り候」とあり、織田信長が一人だけ最後まで残って戦っている。『太閤さま軍記のうち』では織田信房も残っている)

何とか危機を乗り切った織田信長ですが、そこに次なる危機を知らせる報告が入ります。

岩倉織田家(伊勢守家)織田信安が、斎藤范可と示し合わせて信長に敵対し、

清須城近くの下之郷にまで攻め込んで火を放った、というのです。

悔しく思った織田信長は、ただちに岩倉城方面に兵を出し、岩倉城付近を焼き払いました。

こうして織田信長は、美濃だけではなく、岩倉織田家も敵に回すことになってしまったわけです(◎_◎;)信長、大ピンチ…。

岩倉織田家の信安が敵に回った理由は定かではないのですが、

信ぴょう性の低い『武功夜話』には、

於久地(小口)は代々岩倉織田家の土地であったが、信安が岩倉織田家を継いだ際、まだ幼かったので後見役の織田信康(信秀の弟)が於久地を代理で管理するようになったが、信康が美濃での戦いで戦死した後、信康の跡を継いだ信清が於久地を岩倉織田家に返還しようとしなかったので、腹を立てた織田信安が斎藤范可に通じて織田信長に敵対するようになった…とあります。

これを信じれば犬山織田家の信清はこの頃すでに織田信長と友好関係にあったことになりますね(゜-゜)

こうして織田信長と織田信安は戦争状態に入ったのですが、

その後本格的に激突したのは、日付は明らかでないのですが、場所は下津の正眼寺というところでした。

正眼寺は守りが容易なところであったので、ここを岩倉織田家が砦に改造しようとしている、という話を聞いた織田信長は、清須の町人たちを使い、正眼寺の藪を切り払わせて防衛機能を低下させようとします。

正眼寺に向かった信長軍は83騎しかいませんでしたが、

そこに岩倉織田家がなんと3000の兵を繰り出してきて、「たん原野」というところで両軍は激突することになりました(◎_◎;)

信長大ピンチですが、信長は機転を利かせて町人たちに槍を持たせ、軍勢の後ろに並ばせて人数を多く見せかけました。

これを見た岩倉織田家は少し戦っただけで退いていき(「天理本」では川も挟んでいたので、とある)、織田信長は危機を脱することができました(-_-;)

〇資料によって異なる経緯

『信長公記』では、

①及河原の戦い

②道三討ち死にの報告

③信長、殿となって撤退

④岩倉織田家の敵対

…の順番になっているのですが、

「天理本」では、

①及河原の戦い

②岩倉織田家の敵対

③信長、殿となって撤退

…となり、岩倉織田家の敵対を聞いて、無念であるものの退却を決めています。

『太閤さま軍記のうち』では、

①岩倉織田家の敵対

②及河原の戦い

③信長、殿となって撤退

…となっており、岩倉織田家の敵対を聞いて退却を決め、兵が川を渡りかけたところに、美濃勢がせまってきたのを知り、及河原で迎撃したものの、次第に美濃勢の数が増えてきたので信長が殿となって退却した、という経緯になっています。

大きな疑問の1つになっているのは、

「なぜ信長は長良川の戦いに間に合わなかったのか?」

というものです。信長はいつも行軍速度も速いのに…。

それが、『太閤さま軍記のうち』にある記述で、岩倉織田家が敵対したために退却せざるを得なかったためだと理解することができます。

『信長公記』で経緯が異なるのは、斎藤道三を見捨てた、ということを隠すためでしょうか?(゜-゜)

斎藤范可は信長が援軍に来れないように、岩倉織田家と秘密裏に同盟したうえで、

おそらく「信長が川を渡ったところで清洲城周辺を攻撃してほしい」と要請したのではないでしょうか。

自分的には、『太閤さま軍記のうち』の記述が一番しっくりくるのですが、どうでしょうか…(;^_^A

〇岩倉織田家の信安

岩倉織田家は織田氏の祖とも言われ、尾張守護代となった織田常松から代々尾張守護代をつとめる、織田家の正統でした。

しかし応仁の乱以後の織田敏定との戦いの中で力を落としていき、

1505年以降は史料上で岩倉織田家は確認できなくなっていきます(◎_◎;)

その中で岩倉織田家を継いだのが織田信安でしたが、

信安の父は誰なのか、まったくわかっていません💦

織田一族について網羅してある谷口克広氏の『尾張・織田一族』でも、織田信安の出身について全く触れられていません(-_-;)

織田信安は織田敏定の兄弟である織田敏信の子ではないか?と言われており、

そうなると清須織田家の出身ということになります(◎_◎;)

岩倉織田家が男子がいなかったために清須織田家から養子を迎えたという事なのでしょうか??

もしこれが真実であるならば、久しく分かれていた織田家は、清須織田系で統一されたということになります💦

しかし一次史料で確認するすべがないので真相は闇の中です…(;'∀')


2023年6月15日木曜日

長良川の戦い~山城道三討死の事(1555~1556年)

 織田信長の妻の父として、

織田信長にとって頼りになる存在であった斎藤道三

その道三に、運命の時が訪れようとしていました…😰

※マンガの後に補足・解説を載せています💦


※マンガの2ページ目は都合により公開が遅れます(-_-;)

〇斎藤道三の子どもたち

『信長公記』には「山城子息、1男 新九郎・2男 孫四郎・3男 喜平次、兄弟 3人これあり」とありますが、

実際は斎藤道三は7人ほど息子がいたそうです。

・1人目…利尚(のちに高政・義龍)(1529~1561)。

・2人目…孫四郎(秀盛?龍重?)。

・3人目…喜平次(秀茂?龍定?)

・4人目…利堯(1537?~?)

母は稲葉氏で、妻は稲葉一鉄の娘。

おそらく斎藤道三死後に織田信長に仕え、本能寺の変後は岐阜城をとりまとめて中立を維持した。

その後は織田信孝の重臣となり、森長可が攻めてきたときはこれを撃退した。

しかし情勢は織田信孝に不利となっていき、

利堯は稲葉一鉄の言葉を受け入れて信孝から離反し、

まもなく亡くなったという。

『信長公記』には登場しない(;^_^A

・5人目…新五郎利治1552?~1582)。

利堯同様、おそらく斎藤道三死後に織田信長に仕えた。

織田信長は斎藤(一色)義龍と戦う際に利治をたてて対抗した。

利治は美濃攻略戦や上洛戦、伊勢の戦い、姉川の戦い石山合戦など多くの戦いに出陣して活躍した。

(『信長公記』では伊勢の大河内城の戦い[1569年]が初出。)

織田信長から厚遇を受け、

織田信忠の重臣となった際は織田信忠から信頼され、

本能寺の変の際は織田信忠と運命を共にした。

『南北山城軍記』には「天下に輝かせ、忠志を全うし、二条城中において潔く忠死して、恩君泉下に報じ、武名を天下に輝かせり」と書かれている。

子の義興池田輝政の家臣となって、その家は明治維新まで続いている。

…あとの2人、日暁・日覚は僧侶となっていて、これで計7人になります。

今回の話の中心となるのは上から3人の、利尚・孫四郎・喜平次です。

『信長公記』には、「道三は智慧の鏡も曇り、新九郎は耄者とばかり心得て、弟2人を利口の者哉と崇敬して、三男喜平次を一色右兵衛太輔に成し、居ながら官を進められ、かように侯間、弟ども、勝ちに乗って著り、蔑如に持ち扱い侯。」(斎藤道三は正しい判断ができなくなり、長男新九郎[利尚]は愚か者で、次男・三男は利口だと思い、三男の喜平次の姓を名家の一色とし、官位を右兵衛大夫に進めた結果、弟2人は、兄の利尚を侮るようになった)とあり、

斎藤道三が長男利尚より次男・三男を大切にしたことで、兄弟仲がおかしくなった、ということが書かれています。

『美濃雑事記』には、弟たちだけでなく、弟の家臣たちまでもが利尚の家臣たちを侮るようになった、とも書かれています。

(※ちなみに『信長公記』には、三男の喜平次を「一色」にした、とあるのですが、斎藤利尚はのちに一色姓を名乗っており、こちらと混同した誤りでしょうか…?(゜-゜)

桑田忠親氏は、斎藤利尚が後に一色と改姓したのは、父と弟を弔うために、父が最も愛した喜平次が名乗った一色氏を名乗ることになったのだろう、としていますが、

木下聡氏は『斎藤氏四代』で、「弟が一色氏を称した事実」は「作為的に創作された可能性があ」り、「仮に道三が一色氏を名乗らせたとしても、菩提を弔う目的で苗字をそれに改める必要性はない」としており、

喜平次が一色氏を名乗った、とする『信長公記』の記述は誤りである可能性が高いでしょう(-_-;))

斎藤利尚は父の仕打ちに堪えることができなくなり、弟2人を殺害することを計画します。

そして天文24年(1555年)10月13日より病であると偽って稲葉山城の一室に閉じこもること約1か月、11月22日に斎藤道三が稲葉山のふもとにある館に降りたところを見計らって、

(※『信長公記』には斎藤父子4人とも稲葉山城に住んでいた、とあるが、実際には斎藤道三はこの頃稲葉山城には住んでおらず、天文23年[1554年]に利尚に家督を譲った後は近くの鷺山城に移り住んでいたようである。また、『総見記』には、道三が鷹狩に出かけた留守を狙って、とある)

伯父(父または母の兄)である長井隼人正(道三の弟という説や、道三の子[利尚の庶兄]という説もある)を使者として、

「利尚は重病であり、明日をも知れない状態になっている。利尚は死ぬ前に一言伝えたいことがあるので来てほしい、と言っている」と弟2人に伝えさせます。

これを聞いてすぐにやってきた弟2人は、長井隼人正が次の間で刀を置いたのを見てその部屋で刀を置き、次の部屋に進むと豪華な食事のもてなしを受けました。

完全に気が緩んだ2人の前に日根野弘就が現れると、弘就は名刀・作手棒兼常(さくてぼうかねつね)を抜くや孫四郎、次いで喜平次を斬り殺しました(◎_◎;)

弟2人を殺した後、利尚はすぐにふもとにいる斎藤道三にこれを知らせました。

すると道三は「仰天を致し、肝を消すこと限りなし」と慌てふためきますが、

その後は法螺貝を吹かせて兵を集め、城下町の端の方から火をかけて城下町を焼き、追いかけてこられないようにしたところで長良川を超えて山県郡の山の中に逃走する(鷲見忠直が北野城に迎え入れたといわれている)、というさすがの臨機応変さを見せています。

斎藤道三は春になるまで山県郡の山中にいたのですが、春になるまでの間、互いに美濃の武士に味方につくように誘い合っていたのでしょう。

実際、12月に斎藤利尚は桑原右近右衛門に土地を与えたうえで、山県にいる斎藤道三を倒したらさらなる恩賞を与えると約束しています。

また、この12月には利尚は名を范可(はんか)」と変えています。

『信長公記』では戦後にこの名前に変えた、と書かれていますが、

実際は弘治元年(1555年。天文は10月23日に弘治と改元された)12月には「范可」の署名がある書状があるので、

戦争前から「斎藤范可」と名乗っていたようです(◎_◎;)

「范可」とは、『信長公記』によれば、昔の中国で范可という者が親の首を切ったけれども、それが孝(親を大切にする)となった、といいます。

おそらく、父と戦うことになって、

父を斬ることになっても、それは親不孝ではない、という決意をこめて名前を変えたのだと思われます(◎_◎;)

翌弘治2年(1556年)4月18日、斎藤道三は決戦を覚悟し、稲葉山城の北に4㎞地点にある鶴山に移りました。

4月20日午前8時頃、北西の方角に斎藤范可軍が出撃すると、道三も山を下りて長良川岸に進み、両軍は長良川にて激突します🔥

まず攻撃を仕掛けたのは范可側で、大垣城主・竹腰道鎮(重直)が600の兵で突撃を仕掛けますが、乱戦の中で道鎮は戦死します(『総見記』では道三自ら討ち取った、とある)。

床几に腰かけていた道三はこれを聞いて満足そうにしていましたが、

続いて范可が本隊を率いて一気に長良川を渡ると、形勢は一気に范可側に傾きます(◎_◎;)

そもそも集まった軍勢の数が大きく違っていたようで、『美濃国諸旧記』には道三側に集まった兵は范可側の10分の1もいなかったと記し、『翁草』は范可側は1万、道三側は2千だったと記しています。

戦う前からほぼ勝負は決まってしまっていたのです(◎_◎;)

しかし尾張からは援軍として織田信長が急行しており、信長が間に合っていればまた違った結果になっていたかもしれません…。

道三も信長が来るまで待てなかったのでしょうか…??

道三側が最後に輝きを見せたのは、長屋甚右衛門がまず一騎で突撃してきたのを、

柴田角内が迎え撃ってこれを押し倒し、討ち取ったときでした。

柴田角内は、以前にも紹介しましたが、坂井大膳たちが尾張守護斯波義統を殺害した際に、

守護方で奮戦した森刑部丞兄弟を討ち取った人物です。

清須織田家が滅んだ際に、浪人となって、斎藤道三に拾われていたのでしょうか💦

乱戦の中で次第に道三軍は押されていきます。

『信長公記』には書かれていませんが、『信長公記』の作者・太田牛一が書いた『太閤さま軍記のうち』には、

道三は「勢の使い様、武者配り、人数の立て様、残るところ無き働き也。さすが道三が子にて候。美濃の国治むべき者也。とかく、我々誤りたるよ」(新九郎[范可]の軍勢の動かし方、軍勢の配置、兵士の配分、残すところが無いほどすばらしい。さすがわしの子だ。美濃の国を治めるだけの器量がある。わしは誤ってしまったなぁ)と言った、それを聞いた周りの者たちは涙を流さぬ者はいなかった…と記されています。

ついに長井忠左衛門(長井隼人正の子。なので、道三の兄弟の子、もしくは孫)という者が道三のもとにたどり着き、組みついて生け捕りにしようとしました。

しかしそこに荒武者である小牧源太が横から割って入って道三のすねを薙ぎ払い、

道三が倒れると、その首を取ってしまいました。

悔しいのは手柄を横取りされた長井忠左衛門ですが、忠左衛門は、自分が最初に道三と戦った、という証拠として道三の鼻をそいで持って行ってしまいます(◎_◎;)

このことについて、太田牛一は『太閤さま軍記のうち』で、

「道三は、名人のように申候へ共、慈悲心無く、五常を背き、無道盛んなる故に、諸天の冥加に背き、子に故郷を追い出だされ、子に鼻を削がれ、子に首を斬られ、前代未聞の事共也。天道、恐ろしき事」

(斎藤道三は評判が高い人のように言われるけれども、慈悲の心が無く、人が守るべき道徳に背き、道理に外れること甚だしかったために、仏教の神々の御加護を受けられなくなり、子に稲葉山城から追い出され、鼻をそがれ、首を斬られるという前代未聞のことになった。悪い行いをすると運命が変わって悲惨な最期を必ず迎えることになる。恐ろしいことである)

…と書いていますが、太田牛一、斎藤道三に何か恨みでもあるのか?という書きっぷりですね…(◎_◎;)

しかし斎藤道三は織田信長の最大の援助者で、頼りになる存在でした。

その斎藤道三を失い、美濃まで敵に回すことになり、

織田信長はますます苦しい状況へと追い込まれていくことになります…(◎_◎;)

〇斎藤義龍の名前

斎藤義龍は名前を何回か変えていて、

最初の名前は「利尚(としひさ)」でした。

その後天文24年(1555年)に父との戦いを覚悟して「范可」と改め、

翌弘治2年(1556年)、長良川の戦いで勝利を収めると名前を「高政(たかまさ)」に改めています。

「麒麟がくる」ではなぜかずっと「高政」と呼ばれていましたが、

「高政」になったのは道三が死んだ後なのです😓

(なぜ高政だったんだろう…??)

名前が「義龍」になったのは永禄2年(1559年)8月頃のことで、

この時、幕府から姓を斎藤から一色に改めることを認められるので、

そのタイミングで名前も一緒に変えたのでしょう。

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