社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 2月 2024

2024年2月26日月曜日

古代の汚職事件~職制律

 いつの世も止まらない政治家の汚職…。政治家は世の中のためではなく、自分のため、金のために政治家になったのかと暗い気持ちになりますが、

古代ではどうだったのか。

今回は、律令で、役人の汚職に対する罰について書かれている部分を見ていこうと思います。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



〇汚職に対する罰

◆名例律

32条 贓(財物を受けて法律を曲げる、管理していた財物を自分の物にする、など不当に財物を得ること)・犯禁(私有禁止の物を所有する。私有禁止の兵器・書物[天文に関する図書など]・公印など)は、没収する。権力を盾に得た財物は、元の持ち主に返せ。

◆雑律

逸文 不当に財物を得た者は、布一尺分で笞罪10。一端を増すごとに一等を加える。12端は徒刑1年。この後、12端を増すごとに一等を加える。最高刑は徒刑3年とする。与えた側は5等罪を軽く扱う。

◆職制律

44条 役人は、顕著な功績も無いのに、他人に良い行いをしたと報告させた場合は、杖罪100。贓による場合は、杖罪100を超えるものはそちらの罰で扱う。役人から指示を受けた側は、罪を一等軽く扱う。

45条 裁判官に法を曲げることを求めた裁判官は、笞罪50。裁判官がそれを受け入れた場合は、同罪とする。受け入れなかった場合は、両者とも罪に問わない。法を曲げることを実行してしまった場合は、杖罪100。ことさらに罪を軽くしたり、重くしたりすることが杖罪100を超える場合は、軽くした場合は、与えられるはずだった罪と同じ罰を、重くした場合は、重くした罪と同じ罰を与える。裁判官以外が法を曲げることを求めた場合は、3等罪を軽く扱う。罪人が自ら法を曲げることを求めた場合は、罪を一等重く扱う。役人が法を曲げることを求めた場合は、杖罪100。死罪にあたる場合は、罪を一等軽く扱う。

46条 他人から財物を受けて法を曲げることを求めた場合は、不当に財物を得た罪に二等加える。財物を与えた側は、3等軽く扱う。

47条 裁判官に財物を贈って法を曲げることを求めた場合、法が曲げられた際は不当に財物を得た罪と同じく扱う。法が曲げられなかった場合でも、二等軽くした罰を与える。

50条 監督官が、管轄する地域から財物を得た場合は、1尺分で笞罪20。一端ごとに一等加える。10端で徒刑1年。その後10端ごとに1等加える。70端で近流。与えた側は、5等軽く扱う。監督官が要求して得た場合は、一等加える。無理矢理要求した場合は、1尺分で杖罪70。2端ごとに一等加え、30端で絞刑とする。

52条 監督官が、管轄する地域で財物を借りた場合は、不当に財物を得た罪と同罪とする。100日にわたって返さなかった場合は、50条と同様に扱う。金を借りた場合は、50日で50条と同様に扱う。無理矢理借りた場合は、二等罪を加える。強制的に買い上げた場合は、笞罪50。

55条 監督官が、管轄する地域から財物を集め、人に贈った場合は、自分の物としなくても、50条をもって扱う。

〇実際の汚職の様子

『日本書紀』によると、律令が作られる50年以上前の大化元年(645年)8月5日、孝徳天皇は東国に国司を派遣するにあたって、次の内容の詔を出しました。

「国司は賄賂を受け取ってはならない。法に背いた者は介(次官)以上の場合は冠位を降格させる。それ以下の場合は、賄賂として受け取った分の2倍を罰として徴収する」

その後、大化2年(646年)3月2日、孝徳天皇は次の内容の詔を出しました。

「以前に東国の8カ国に国司を派遣したが、そのうち2人は法に違反した。民を治めるためには、まず自分を正しくしなければならない。慎まなければならない。お前たちが正しければ民は正しくなるのだ」

また、朝集使(役人を審査し、中央に報告する任務を与えられた者)たちに東国の役人たちの様子を確認すると、次の不正の数々が明るみになりました。

穂積臣咋は、民から物を求めてこれを奪った。

・巨勢徳禰臣もまた、民から物を求めてこれを自分の物にした上に、馬も奪った。次官の2人も、私腹を肥やし、馬を奪った。台直須弥は初めは上官を諫めていたものの、途中から自分も汚職に手を染めるようになった。

・紀麻利耆拕臣は、朝倉君(地方の豪族)から弓や布を取った。

・阿曇連は、官物を私用し、馬も勝手に使用した。次官は国の牧草を自分の物にした。また、国造(地方豪族)の馬を奪い、他の馬とこれをすり替えた。

では、これらの者たちにはどんな罰が下されたのかというと、

なんと、大嘗祭の年にあたっているので大赦(罪を許す)し、国司たちには注意だけを与えたというのですね(;'∀')

うーん、甘い…。

律令後においても、次の事例が見られます。

養老6年(722年)、前周防(山口県東部)国司であった山田御方は官物を盗んだ罪に問われたが、本来は役人をやめさせるところだが、恩赦によって罪を許された、しかし弁償はさせようとしたが、家に一尺の布も無いので、学問に優れた人物であることも考慮して、弁償することも免除することにした…。

これまた甘いですね…。名例律32条がまったく使われていません。

基本的に寛大で、厳罰に処さないことが多いんですよね…。

これは現在も一緒ですが、そうだからこそ罪の意識が低くなって、汚職が跡を絶たないんですよね(-_-;)

ちなみに、現在の刑法では、汚職・横領に関する罰は、次のようになっています(公務員・議員が不当にお金を得た場合は汚職、それ以外の人が不当にお金を得た場合は横領となります)。

197条 公務員が、わいろを受け取ったり、要求したり、賄賂を受け取る約束をしたりした場合は、5年以下の懲役。わいろをもらって依頼を受けた場合は、7年以下の懲役。

198条 わいろを贈った者は、3年以下の懲役・または250万円以下の罰金。

252条 所持していた他人の物を横領した者は、5年以下の懲役。

253条 業務上、所持していた他人の物を横領した者は、10年以下の懲役。

汚職より業務上横領のほうが罰が重いんですね…(-_-;)

戦後最大の汚職事件と呼ばれたリクルート事件では、藤波孝生元官房長官・池田克也元衆議院議員が懲役3年・執行猶予4年、他に事務次官2人と労働省課長が逮捕。

民間側では、リクルート元会長が懲役3年執行猶予5年の判決を受けるなどしました。

が、重要職にあった政治家たちはみな逮捕されず。竹下登総理大臣は内閣総辞職に追い込まれたが、竹下登の秘書は自殺しています。

最近あったキックバック事件もそうですが、大物政治家は罪に問われないんですよね…それでいいのか…。

2024年2月19日月曜日

「律令」(養老律令)⑥律令と戸籍からわかる、驚きの古代の夫婦関係!~戸令・戸籍

 今回は古代の家族の様子はどのようであったのか、律令と戸籍を使って探っていこうと思います!😆

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇婚姻関係に関するきまり

まずは結婚と離婚について、律令ではどのように定められていたのかを見ていこうと思います!😆

戸令 [24条] 男は15歳、女は13歳以上で結婚を許す。

この年齢は数え年です。

数え年というのは、生まれた時を0歳とせず、1歳とする年の数え方のことです。

さらに、年齢は1月1日をもって1歳プラスされます。

つまり、12月末に生まれた子どもは、生まれた翌日に2歳になるということです(;^_^A

現在の年齢で言うと、男は14歳、女は12歳以上で結婚を許す…ということになります。

結婚するにあたって、次のやってはいけないことがありました。

[27条]男女の関係となった後に結婚するのは認められない。

[25条]結婚する際には、祖父母・父母・伯叔父姑・兄弟・外祖父母に、次に舅従母(母の兄弟姉妹)・従父兄弟(いとこ)に知らせる事。

[30条]結婚や離婚するにあたっては、25条の親族に知らせなかった場合、結婚や離婚は認められない。親族が結婚や離婚を知ってから、3か月の間、結婚や離婚が不当だと親族が訴えなければ結婚は認められる。

30条に離婚の話も出ていますが、戸令には離婚の条件も載っています。

[28条]妻と離婚するには、七つの条件のどれかを満たす必要がある。①子がいない(令義解には女の子がいても、男の子が生まれていなければ離婚の条件を満たす、とある。戸婚律には、妻が50歳以上になっても子がいない場合、とある)②性欲が強すぎる(令義解には、「淫は、蕩なり。泆は、過なり。その姧訖(お)えるを須(もと)める」とあり、蕩は淫行にふけること、過は過剰なことなので、夫が中断を求めるほど、過剰に淫行にふけろうとすること)③舅・姑(夫の父母)に尽くさない④おしゃべり(令義解は、『詩経』の「婦に長舌あるは維れ厲の階」[女子の口数が多いのは禍の元である]を紹介して、この事をいうのである、と書いている)⑤物を盗む⑥嫉妬心が強い⑦治りにくい病気にかかっている。夫は離婚の理由を書いて妻を離縁するようにせよ。夫妻の親族はこれに署名せよ。字が書けない場合は、自分の指の形を書き写せ。しかし、次の3つの場合は、離婚できない。①妻が夫の父母の喪をつとめ終えた時。②結婚した時は身分が低かったが、その後身分が高くなった時。③妻の帰る場所が無いとき。ただし、義絶・性欲が強すぎる・治りにくい病気にかかっている場合は、この限りではない。

義絶については、次のように書いてあります。

[31条]夫が妻の父母・祖父母を殴ったり、妻の外祖父母・伯叔父姑・兄弟姉妹を殺したり、自分と妻の祖父母・父母・外祖父母・伯叔父姑・兄弟姉妹を共に殺したりした場合、妻が夫の祖父母・父母をののしったり、殴ったり、夫の外祖父母・伯叔父姑・兄弟姉妹を殺傷したり、夫を害しようと(罪に陥れようとしたり、身体を傷つけようとしたりすること)したりした場合は、夫婦の縁を切ることができる。

妻の方がハードルが低いですね(◎_◎;)夫が妻を害しようとしても縁を切る理由にならないとは…。

総じて律令は妻の立場が低いです(-_-;)

一方で妻も義絶以外にも、婚姻関係を解消できる場合がありました。

[26条]結婚が決まったのに、3か月間結婚式が行われない、夫が逃亡して一か月間帰ってこない、外国の捕虜となって1年間帰ってこない、徒罪以上の罪を犯した場合は、妻は婚姻関係を解消できる。

かなり場面が限定的ですね…(;'∀')

 〇半布里戸籍を読む

半布里戸籍は美濃国(岐阜県南部)半布(はにゅう)の里(現在の富加町羽生。「道の駅 半布里の郷・とみか」があるの大宝2年(702年)11月に作られた戸籍です(『岐阜県史 史料編 古代・中世4』584~615Pを参考にさせていただきました)。

それでは、戸籍の載せられている各家族の様子を見ていきます。

石部三田

戸主の三田は50歳、妻は45歳(数え年)。子は8人、上は女子24歳、下は男子2歳。43歳で出産しているのがすごい。

寄人(よりゅうど。従兄弟より遠い親族)の安倍は46歳、妻は32歳。子は13・3・2歳。

県主族嶋手

戸主の嶋手は45歳、妻は46歳。子は6人。上は19歳、下は2歳。こちらも44歳の高齢出産。

戸主弟小嶋は44歳、妻は35歳。子は6人。子の上は16歳、下は2歳。

戸主弟多都は37歳、妻は42歳。子は7人。子の上は18歳、下は1歳。

戸主にはさらに寺という弟(32歳。兵士とある)がいて、1歳の男の子と4歳の女の子がいるが、妻は記されていない。

最高齢は戸主の母で64歳。

県主族都野

戸主の都野は59歳、妻は52歳。子は5人。上は29歳、下は1歳。51歳の超高齢出産になってしまうが、47歳の妾がいると書かれているので、こちらの子か?それでも46歳の出産だが…。

寄人の牧夫(21歳。兵士)には22歳の妻がいる。

最高齢は戸主の姑で82歳。

県主族安麻呂

戸主の安麻呂は60歳、妻は57歳。子は10人で、上は33歳、下は3歳。38歳と24歳の妾がいるので、その子か?

嫡子の石椅は28歳、妻は24歳。子は6歳。

他の子の大石は25歳、妻は22歳。子は1歳。

他の子の龍麻呂(かっこいい名前)は23歳、妻は17歳。子は2歳。14歳頃に結婚?

娘に33歳の玉がいて、夫は書かれていない。子は11歳。

県主族牛麻呂

戸主の牛麻呂は53歳。妻は49歳。子は7人で、上は26歳、下は2歳。47歳の高齢出産!

嫡子の已乃弥は26歳。一目盲、残疾とある。2歳の子がいるが、妻は書かれていない。

戸主の兄、安閉は70歳、妻は67歳。33歳の嫡子(1歳の子がいる。妻は載っていない)がいて一番下には21歳。他に、亡くなった妻がいた。25歳の子には、久漏(重度の痔瘻)、残疾とある。

戸主のもう1人の兄、安都は54歳。一枝廃(手足の一本が動かない)、廃疾とある。妻(安「津」の妻とあるが、誤りか?)は49歳、子は上は27歳、下は9歳。

最高齢は73歳で、戸主の妻の母。

県主族安麻呂(先の安麻呂とは別人)

戸主の安麻呂は53歳、妻は42歳。子は6人で、上は22歳、下は2歳。嫡子の安倍は22歳で兵士。

戸主の弟犬麻呂は41歳、妻は42歳。子は上は13歳。下は2歳。

県主族津麻利(正8位上とある。「たからづかデジタルミュージアム 農民の階層」には、次の記述がある。「(摂津国の富農である)日下部宿禰浄方(くさかべのすくねきよかた)は銭100万と杉材1000枚を献上して、天平神護二年(766)九月に従六位上から外従五位下に昇叙され、神人為奈麻呂(みわひとのいなまろ)は職務に忠実、そして農民の生活に配慮をおこなったということで、延暦四年(785)一月に外正六位上から外従五位下に昇叙されているのである。」

戸主の津麻利は60歳、妻は50歳。子は12人もいて、上は35歳、下は5歳。

2番目の子の嶋は30歳、妻は載っていないが子は上は10歳、下は2歳がいる。

3番目の子の佐留は27歳、妻は載っていないが2歳の子がいる。

県造吉事

戸主の吉事は28歳、妻は29歳。子は上は6歳、下は1歳。

戸主の妹の名前は多知波奈。「たちばな」と読むのか。

戸主の同党(親族)である加比は54歳、妻は52歳。子は上は33歳、下は15歳。

加比の嫡子の知依は28歳。兵士、歩桙取(矛や槍を持つ兵士)とある。妻は載っていないが、3歳の子がいる。

寄人の石上部加多弥には妹が2人いるのだが、2番目の妹の名前は奈見。現代でもいそう。

また、この家には奴が8人(1~26歳)、婢が5人(2~55歳)がいる。このうち、婢の宮は50歳、33歳と26歳の娘がいて、2人とも婢。33歳の娘の由伎(「ゆき」と読むのだろうか?)には2歳の都という娘がいて、こちらも婢。

県造荒嶋

戸主の荒嶋は26歳、妻は25歳。6歳の子がいる。

この家には25歳の奴がいる。

県主万得

戸主の万得は42歳、妻は52歳。子は6人で、上は20歳、下は7歳。嫡子の安麻呂は14歳で、二目盲(両目が見えない)とある。

戸主の弟の古万は40歳(兵士)で、妻は37歳。子は13・11・4歳。

寄人の石上部根猪は35歳、妻は59歳!25歳の娘がいる。そうなると根猪が10歳の時の子という事になるが…⁉おそらく連れ子ではないか??

戸主に18歳の奴が1人、戸主の弟の古万に19歳の奴が1人。

神人辛人

戸主の辛人は43歳、妻は42歳。20歳の子(兵士)がいる。

戸主の母は67歳、47歳の娘(戸主の姉)がいて、その娘に麻呂という名前の娘!がいる。

寄人の牟下津部麻呂(戸主の妻も牟下津部なので妻の一族か?)は33歳、妻は22歳。子は7・3・2歳。14歳くらいで結婚?

県主族比都自

戸主の比都自は66歳、妻は67歳。50歳の妾がいる。子は8人いて、上は40歳、下は19歳。

寄人の古麻呂は51歳(一手折、残疾とある)、妻は52歳。子は9人いて、上は28歳、下は2歳。

他の寄人の都野は44歳(兵士)、妻は載っていないが子は3歳。都野の母は93歳!

県主族安麻呂

戸主の安麻呂は44歳、妻は48歳。子は上は25歳、下は17歳。

県主族与津

戸主の与津は39歳、妻は36歳。上は13・12・2・2歳(双子?)。すべて娘。

(戸主の弟と書いていないがおそらく弟である)弟都は39歳(戸主と双子?)で、妻は36歳。15歳の女子がいる。

さらに弟の麻佐利は29歳(兵士)、妻は載っていないが、8・4・1歳の息子がいる。

寄人の根麻呂は55歳、妻は49歳。子は10人もいて、上は27歳、下は8歳。

最高齢は戸主の母の72歳。

守部加佐布

戸主の加佐布は63歳、妻は47歳。子は上は19・16・10歳。

戸主の弟の阿手は47歳、妻は42歳。子は5人いて、上は20歳、下は2歳。すべて娘。

寄人の安閉は29歳(兵士)で、妻は載っていないが5歳と3歳の男子がいる。

秦人弥蘇

戸主の弥蘇は52歳、妻(名前は加奈という。「かな」…今でも通用する名前)は47歳。子は5人いて、上は24歳、下は3歳。

戸主の弟の目里は47歳、妻は42歳。子は5人いて、上は16歳、下は5歳。27歳の妾がいる。

目里の弟(なぜか戸主の弟と書かれていない)の小目里は43歳(兵士)で、妻は載っていないが、上は11歳、下は2歳の子がいる、

小目里の弟の麻佐利は37歳、一枝廃、廃疾とある。

最高齢は戸主の母で73歳。

秦人小玉

戸主の小玉は73歳、妻は59歳。子は7人いて、上は37歳、下は14歳。

戸主の同党の知西は33歳(兵士)は、妻は載っていないが3歳の子がいる。

知西の弟の八嶋は23歳で、17歳の妻がいる。

秦人部身津

戸主の身津は71歳、妻は57歳。子は5人いて、上は30歳、下は6歳の子がいる。

嫡子の止也麻呂は30歳、妻は載っていないが、子が3人(9・4・2歳)いる。

戸主の弟の加太は57歳、妻は42歳。子は9人いて、上は29歳、下は1歳。

29歳の嫡子、加良尓は兵士。25歳の妻がいて、4歳の男子と2歳の女子がいる。

秦人古都

戸主の古都は86歳(!)。妻は68歳。子は上は50・26・19歳。67歳の時の子ども…!(◎_◎;)

嫡子の金弓は50歳、妻は42歳。上は25歳の娘と23歳の子がいる。25歳の娘(名前は刀自)には1歳の子がいる。

秦人身麻呂

戸主の身麻呂は32歳(兵士)、妻は28歳。子は5人で、上は11歳、下は1歳。

戸主の弟、古麻呂は22歳、妻は23歳。

県主族安多

戸主の安多は65歳(一枝廃、廃疾)、妻は62歳。子は6人で、上は41歳、下は28歳。

3番目の男子である身麻呂(33歳)は兵士。

28歳の娘(名は猪奈)には7歳の娘がいる。

穂積部安倍

戸主の安倍は34歳、妻は載っていないが、25歳の子(二目盲、廃疾)がいる。

寄人の秦人比都自は48歳(兵士)、妻は37歳、子は6人で、上は22歳、下は5歳。妻は14歳頃に結婚したという事になる。

比都自の弟、目知は42歳、妻は20歳。子は上は7歳、下は3歳。妻は12歳頃に結婚したという事になる。

神人牧夫

戸主の牧夫は63歳、妻は61歳。子は上は35歳、下は16歳。

嫡子の忍勝は25歳(兵士)。31歳の兄がいるのに嫡子なのは、兄が両目盲で篤疾であるため。

戸主の弟の小牧は61歳、妻は57歳。子は7人で、上は39歳、下は3歳!

小牧には亡くなった妾がいた。39歳の嫡子以外の男子は、15・14・6歳と年齢差が大きいため、嫡子以外は妾が産んだ子なのだろう。

小牧の嫡子、布奈手(39歳)は妻は載っていないが、3歳の娘がいる。

神人波手

戸主の波手は56歳(一枝廃、廃疾)、妻は51歳。子は5人で、上は30歳、下は18歳。

戸主の同党、都留伎は40歳、妻も40歳。子は14・8・6歳。

生部津野麻呂

戸主の津野麻呂は68歳、妻は47歳。子は7人で、上は37歳、下は13歳。10歳で出産したわけではなく、24歳で亡くなった妻がいるので、その子だろう。

嫡子の知麻呂は37歳(兵士)、妻は載っていないが、4歳の子がいる。

この家には5歳の婢がいる。

秦人多都

戸主の多都は60歳、妻は44歳。30歳の嫡子がいる。妻は13歳頃に結婚したという事になる。

嫡子の小依は30歳(兵士、歩桙取)、妻は載っていないが、11・9・7歳の子がいる。

戸主の兄の多比は73歳、妻は62歳。子は4人で、上は22歳、下は14歳。

多比の嫡子の稲寸は22歳、妻は25歳。2歳の息子がいる。

多比の2番目の子、久麻止理(別の箇所には久麻「鳥」とある)は19歳、妻は20歳。

戸主の甥の麻佐理は37歳、妻は34歳、子は9・6・2歳。

この家には14歳の婢がいる。

秦人部都弥

戸主の都弥は85歳(!)、妻は載っていない。子は58歳と50歳の息子。

嫡子の馬手は58歳、妻は47歳。子はいない。

戸主の2番目の子の小己里は50歳(二耳、残疾)。妻は載っていないが、上は25歳、下は8歳の子がいる。

小己里の25歳の娘(名は知怒)には2歳の娘がいる。

秦人多麻

戸主の多麻は80歳(!)、妻は73歳。子は4人で、上は45歳、下は37歳。

嫡子の小須は45歳、妻は37歳。子は5人で、上は17歳、下は3歳。

戸主の2番目の子の乃伎は41歳、妻は34歳。子は4人で、上は11歳、下は1歳。

3番目の子の小乃伎は38歳(一目盲、残疾)、妻は載っていないが、1歳の息子がいる。

4番目の子の阿麻留は37歳(兵士、弓中)、妻は33歳。子は5人で、上は11歳、下は1歳。

この家には奴が1人、婢が3人いる。12歳の婢の名前は佐己、「さな」と読むのだろうか?

秦人久比

戸主の久比は30歳、妻は載っていないが、1歳の息子がいる。

戸主の同党の椋人は37歳、妻は34歳。子は4人で、上は12歳、下は2歳。

県主族母呂

戸主の母呂は73歳、妻は65歳。子は5人で、上は37歳、下は15歳。50歳の高齢出産である(もしくは妾がいたが亡くなったのか?)。

嫡子の粳手は37歳(兵士)、妻は36歳。14・10・8・1歳の娘がいる。

戸主の甥の佐加志は58歳(一目盲、残疾)、妻は52歳。42歳の妾もいる。子は10人もいて、上は28歳、下は10歳。

佐加志の嫡男、安麻呂は28歳、妻は18歳。3歳の娘がいる。

県主族安倍

戸主の安倍は52歳、妻は42歳。亡くなった妻もいた。子は14人もいて、上は33歳、下は3歳。

現在の妻はおそらく以前は妾だったのだろう。2人はほぼ同時期に子どもを産んでいる。

嫡子の小止は25歳(兵士)、妻は26歳。子はいない。

戸主の2番目の子の宮知は23歳、妻は載っていないが、1歳の息子がいる。

戸主の3番目の子の己波は22歳で、こちらも兵士。

戸主の5番目の子の名前は奈々。女の子みたい。

戸主の甥の大人は37歳、妻は33歳。子は5人いて、上は13歳、下は1歳。

神人小人

戸主の小人は46歳、妻は載っていないが、子は7人で、上は22歳、下は2歳。

戸籍には移和の妻が出てくるのだが、移和と言う名前の者はどこにもいない。おそらく戸主の弟、弱のことか。「いわ」と読むのかな(゜-゜)戸主の弟、弱は35歳。妻は33歳。14・11・7・7歳の娘がいる(双子?)。

県主族長安

戸主の長安は53歳、妻は52歳。子は5人で、上は33歳、下は14歳。

嫡子の馬手は33歳(兵士)、妻も33歳。子は12・10・4歳。

戸主の同党の多都麻呂は47歳、妻は48歳。子は5人で、上は19歳、下は12歳。

秦人都弥

戸主の都弥は54歳、妻は52歳。子は8人で、上は22歳、下は9歳。

嫡子の安麻呂は22歳で兵士。

戸主の同党の久比は30歳、妻は24歳、3歳の娘がいる。

秦人石寸

戸主の石寸は40歳、妻は載っていない。子は5人で、上は20歳、下は2歳。

戸主の兄の麻呂は45歳、妻は37歳。20(兵士)・14・2歳の子がいる。

戸主の弟、伎佐見は36歳、妻は27歳。子は4人で、上は10歳、下は1歳。

秦人甲

戸主の甲は50歳、妻は42歳。子は7人で、上は23歳、下は1歳。

嫡子の速梂は23歳(兵士)、妻は17歳。子はいない。

戸主の弟の小麻呂は42歳、妻は37歳。子は7人で、上は19歳、下は3歳。

もう1人の弟、余は27歳、妻は20歳。2歳の娘がいる。

この家には19歳の婢がいる。

秦人止也比

戸主の止也比は42歳、妻は36歳。子は5人で、上は20歳、下は5歳。

戸主の甥の加尼麻呂は24歳で兵士。

秦人山

戸主の山は73歳、妻は47歳!しかも27歳の妾まで。子は上は14・11・2歳。だいぶ遅咲きだったのか。71歳で子ども…。

戸主の弟の林(兄は山で弟は林…)は59歳、妻は42歳。子は7人で、上は30歳、下は3歳。前妻や妾がいたとは載っていないが、この通りだとすると、妻は12歳(数え年)で子どもを産んでいる。

林の嫡子の衣手は30歳、妻は19歳。8歳の息子がいる!この通りだと、年齢制限以前の11歳で子どもを産んでいることになるのだが…⁉(大宝律令ができる前なので、問題はないのか。でも、今の年齢だと10歳で子供産んでいることになるのだが(◎_◎;))今津勝起氏は、『戸籍が語る古代の家族』で、おそらく前妻の子だろう、としている。

秦人小咋

戸主の小咋は60歳、妻は45歳。子は4人で、上は20歳、下は9歳。

戸主の同党の佐目は36歳、妻は34歳。

秦人都々弥

戸主の都々弥は68歳、妻は45歳。上は43歳、下は9歳。亡くなった妻がいたとは書かれていないが、2歳で子どもが産めるわけが無いので、おそらく嫡子は前妻の子だろう。43歳の嫡子以外の子どもは、13・11・9歳なので、こちらが現在の妻の子だろう。

嫡子は加良比(とあるが、戸籍ではその後ずっと辛人、と書かれている(;^_^A)、43歳(兵士)。妻は35歳(名前は麻理。今でも十分いそう)。8歳の男子、2歳の女子がいる。

戸主の弟の也呂は61歳、妻は50歳。子は4人で、上は25歳、下は16歳。

不破勝族金麻呂

戸主の金麻呂は62歳、妻は60歳。子は5人で、上は30歳、下は17歳。

戸主の弟の阿手良は53歳、妻は42歳。亡くなった妻がいた。子は8人で、上は25歳(兵士)、下は2歳。亡くなった妻が産んだ1番目の娘の名前は多知波奈。「たちばな」と読むのか。3番目の娘の名前は真衣。今でも十分通用する名前。

この家には23歳の奴がいる。

秦人安麻呂

戸主の安麻呂は38歳。妻は34歳。子は7人で、上は15歳、下は1歳。

戸主の同党の所波は45歳、妻は42歳。子は7人で、上は20歳、下は3歳。

寄人小広は65歳、妻は57歳。子は4人で、上は30歳、下は15歳。

小広の嫡子の阿手良は30歳、妻は載っていないが、5歳の女子と2歳の男子がいる。

秦人知尓

戸主の知尓は58歳、妻も58歳。子は上は27・23・17歳。

嫡子の音速(名前がかっこいい[当て字だけど])は23歳。

寄人の古馬は26歳で兵士。

県主族身津

戸主の身津は77歳、妻は67歳。妾も67歳。しかし子はいない。

戸主の甥の大麻呂は35歳、妻(名前は麻理)も35歳。子は上は13・8・3歳。

もう1人の甥の目々手は38歳、妻も38歳。15・13・10歳の男子がいる。

寄人勝猪手は52歳、妻は41歳。子は9人もいて、上は24歳、下は1歳。嫡子の身麻呂は兵士。

県主族稲寸

戸主の稲寸は55歳、妻は34歳。亡くなった妻がいた。子は6人で、上は33歳、下は1歳。男子の年齢が33・22・3・1歳となっているので、3・1歳の子が後妻の子だろう。

嫡子の大麻呂は33歳、妻は32歳。子は5人で、上は11歳、下は2歳。

最高齢は戸主の母の82歳!

県造紫

戸主の紫は30歳、妻は22歳。子はまだいない。

戸主の弟の功志は18歳、妻は20歳。6歳の息子がいる(!)。現在だと11歳と13歳くらいで結婚したことになる…。

戸主の弟の味当は16歳、妻は15歳。

寄人の田原部小山は42歳、妻は44歳。この妻の下の段には、亡夫の娘(13・9歳)が書かれている。

この家には戸主に25歳の奴、弟の大鳥に7歳の婢、戸主の妻に17歳の婢がいる。

県主古麻呂

戸主の古麻呂は48歳、妻は42歳。子は10人もいる。子は上は25歳、下は3歳。嫡子の名前は音速、弟は小速である。

戸主の同党の荒海は59歳(久漏、残疾)、妻は44歳。子は4人、上は25歳、下は1歳。嫡子の黒麻呂は25歳で兵士。

秦人桑手

戸主の桑手は47歳、妻は42歳。子は5人。上は20歳、下は7歳。

嫡子の波加西は20歳、妻は16歳。妻の名前は「加穂」。

戸主の弟の諸弟は42歳、妻は34歳。子は3人。10・3・2歳。

戸主の弟の根猪は37歳、妻は33歳。子は4人。上は8歳、下は3歳。

戸主の弟の己乃弥は28歳で兵士。妻は載っていないが、7歳の娘がいる。

秦人阿波

戸主の阿波は69歳、妻は載っていない。子は6人、33・13・11・8・5・2歳と大きく違うので、亡き前妻の子と亡き後妻の子か?

戸主の甥の小人は57歳、妻は54歳。子は5人。上は30歳、下は17歳。

戸主の甥の志比は49歳、妻は22歳。子は8人。上は22歳、下は3歳。0歳で産めるわけがないので明らかな後妻。年齢も大きく離れているし。嫡子の牛麻呂は22歳で兵士。20歳の妻がいる。

不破勝族吉麻呂(従7位下)

戸主の吉麻呂は58歳、妻は52歳。子は11人もいる。上は35歳、下は11歳。

嫡子の豊麻呂は31歳、妻は35歳。子はいない。

☆戸籍を見て驚く点

①高齢出産

厚生労働省によると、2018年、日本で40代女性の出産数は100人につき6人なのに対し、30代女性の場合は100人につき76人もあります。

出産数の全体に占める割合を見ても、40歳以上の女性は約5.8%と、意外とけっこうあります(◎_◎;)が、30代の場合は全体の59%を占めていますので、大きな違いがあります。

40代での出産はなぜ少ないかというと、

①流産率が高まる(約4倍)、②妊婦が死亡するリスクが高まる(約5倍)、③難産になりやすい、といったことが挙げられます(40代の出産は高リスク?高齢出産における5大リスクとその対処法)。

40歳は100人に2人が出産している(!)というかなりの高い割合なのですが、45歳になると1千人に1人に、49歳になると1万人に1人と割合が低下していきます(それでも49歳で1万人に1人というのは多い!)。

2018年のデータでは、45~49歳の女性が産んだ子供の数は1659人もいます(全体の約0.2%)。

一方で、1925年では、40代女性は100人につき43人を産んでいます(これはマラウイ・リベリア・サモアなどの国々の2008~2011年の記録とほぼ同じだそうです)(ちなみに1925年の20代女性は100人で243人、30代女性は100人で198人を産んでいます)。

細かく見てみると、40歳は100人で12人を出産、45歳は100人に2人、49歳は100人に1.7人が出産しています(!)。

50歳以上のデータは載っていませんが、このペースで行くと50代での出産もけっこうあったのではないでしょうか💦

45~49歳が産んだ子供の数は、19338人にもなります(全体の0.9%)。

1925年の45~49歳女性は、10万人につき6354人を産んでいるので、10万人につき180人である2018年の45~49歳女性よりも、出産する可能性が35倍も高かったということになります(しかし、40代女性が産んだ子どもの全体に占める割合は、全体の約6.6%と、現在の約5.8%と比べて、微増にとどまっており、40代以上で産む割合は今より35倍も高かったといっても、やはり40代で出産することが主流であったわけではありません)。

さて、では古代ではどうだったのでしょうか。

戸籍を見ると、50歳以上の女性が62人いるのですが、なんと、そのうち25人が40代で出産しているのですね(◎_◎;)

また、このうち9人が40代後半で出産しています。

最も高齢で出産しているのは県主族安麻呂の妻、県主族古と、秦人部身津の妻、秦人大津で、2人はなんと51歳(現在の50歳)で出産しています(◎_◎;)

今津勝紀氏は「末子出産時51、誤記か再婚か」と記しているのですが、日本人女性の兵系の平均年齢は50.5歳とのことで、十分にあり得るのではないかな、と思います(゜-゜)

(秦人大津の場合は、2人子どもを産んでいるのだが、1人目が27歳の時に産んだ子で、もう1人は51歳の時なので、出産間隔が離れすぎており、誤記の可能性はある)

ちなみに歴史上の有名人物の妻で高齢出産している例をいくつか挙げると、

・福沢諭吉の妻は38歳で9人目の子を産んでいる。

・マリア・テレジアは39歳で16人目の子を産んでいる。

・バッハの妻は41歳で13人目の子を産んでいる。

与謝野晶子は41歳の時12人目の子を産んでいる。

・伊達政宗の妻は41歳の時に末子を産んでいる。

藤原道長の妻、倫子は43歳で最後の出産をしている。

渋沢栄一の妻、兼子は44歳で最後の出産をしている。

・戦国武将・中川秀成の妻・佐久間虎姫は46歳の時、出産がもとで亡くなっている。

…ということになります。

また、高齢出産(正常分娩)のギネス記録は、57歳のアメリカ女性だそうです。

②若年出産

2020年の日本で、15歳での出産は0.02%、1万人に2人は出産しているという計算になります。意外とありますね(◎_◎;)

戦前はどうだったかというと、1925年は0.6%、つまり1千人に6人(1万人に60人)は出産していました(!)。これは今の19歳・36歳の割合とほぼ同じです。

半布里の場合は、49人が10代での出産を経験しています。

これは多いのか少ないのかというと、半布里で出産の経験がある女性が166人なので、約30%は10代で出産しているという事になり、2022年のデータでは、10代で初産の経験がある女性は1.1%となっているので、現在と比べてすさまじく高いことがわかります(◎_◎;)

さらにすごいのは、10代で出産を経験している49人のうち15人は、15歳未満で出産しているという事です💦

その中でも最も低い年齢で出産しているのは、衣手の妻の秦人太志で、なんと11歳(現在だと10歳)で出産しています(!)。

10歳で出産は可能なのでしょうか??

調べてみると、女性が初潮を迎えるのは、10~15歳とあるので、不可能ではないようですね…💦

他にも、半布里では、奈尓毛・林の妻、秦人和良比・荒海の妻、秦人波伎自の3人が12歳(現在の11歳)で出産しています。

ちなみに大河ドラマの主人公にもなった前田利家の妻、まつは12歳(11歳11か月)で第一子を出産しています。

これを見ても10歳出産は十分あり得たのではないか、と思いますね(゜-゜)

2021年にはイギリスで11歳が、2022年にはブラジルで同じく11歳が出産した、ということがニュースにもなっていました。

また、ギネスブックには、5歳7か月で出産した女の子がいたと記されています(!)。

③夫婦の年齢差

最も年齢差が大きい夫婦は、秦人阿波の甥の志比・49歳とその妻・22歳で、年齢差は27歳になります。

秦人山は、73歳で、妻は47歳ですので、年齢差が26歳あるのですが、山は妾も持っており、その年齢が27歳なので、なんと年齢差は46歳もあった事になります💦山は2歳の子がいますので、つまり71歳で子を成したことになります(◎_◎;)

徳川家康は64歳で(側室は35歳差)、渋沢栄一は68歳で最後の子を成しているので、この2人を上回っていることになりますね💦

近年の有名人では、歌舞伎俳優の中村富十郎(1929~2011年)さんが74歳の時に長女が生まれているそうです。

インドでは2012年に96歳の男性に子が生まれています(妻は52歳。これもすごい)。

また、基本、夫の方が年上の場合が多いのですが、その中で際立っているのが、県主万徳の寄人・石上部根猪で、根猪は35歳なのですが、妻はなんと59歳!なのですね💦

④一夫多妻

古代は妾(正妻以外の妻)を持っていても良かったのですが、半布里において、妾を持っているのはわずか7例しかありません。

120組の夫婦があるので、割合にするとわずか5.8%しかありません。

妾を持つ、という事は相当に特殊な例であったようですね(゜-゜)

だいたいは妻は1人で、妻が亡くなった後に再婚する、という場合が多いですね。

そんな中で目立つのは、県主族安麻呂で、妾が2人もいます(それ以外はすべて1人)。安麻呂は60歳で、妻は57歳、妾は38歳と24歳です。一番下に3歳の息子がいるのですが、これは年齢差から見て妻の子と見るのは難しく、おそらく妾のどちらかの子でしょうね(;^_^A

ちなみに、律令において妾についての規定は戸婚律逸文に1条あるのみで、そこには、

「妻を妾に変更してはならない。また、婢を妻としてはならない。これに違反した者は徒刑1年。妾や官戸の女性を妻としたり、婢を妾とした場合は、徒刑1年半。婢に子があり、この子が自由にされて良民となった後ならば、妾にすることを許す」

…とありますので、妻と妾の立場ははっきり分けられていたようです(が、妻と妾の産んだ男子は、区別されなかったようです)。

⑤高齢化率

2023年の日本の65歳以上の割合は、29.1%でした。

では、1300年前の半布里の場合はどうだったのでしょうか?

半布里の人口は1119人なのですが、そのうち65歳以上は31人(男:13人、女:18人)です。

割合にすると約2.8%、ということになりますね(◎_◎;)

ちなみに100年前の1920年の日本では、高齢化率は5.3%だったそうです。

つまり、高齢化率は1200年かけて約2倍になり、そこから100年で6倍となったわけですね。すさまじい高齢化…。

半布里の高齢者の中身を詳しく見てみると、

65~69歳は男:5人、女:8人の計13人、

70~74歳は男:5人、女:6人の計11人、

75~79歳は男:1人、女:0人の計1人、

80~84歳は男:1人、女:3人の計4人、

85~89歳は男:1人、女:0人の計1人、

90~94歳は男:0人、女:1人の計1人…ということになります。

75歳以上になると途端に人口が減少しますね…。

男で最高齢は秦人古都の86歳(現在の85歳)です。戸籍を見ると19歳の娘がいるので、67歳で子を成していることがわかります。

女で最高齢は県主族都野の母、若帯部母里の93歳(現在の92歳)です。都野を産んだのは49歳です。

⑥最も多い名前は??

戸籍を見ていると、同じ名前が何度も登場することに気づきます。

それを集計すると、以下のようになります。

男:1位…安麻呂 17人 2位…古麻呂 14人 3位…大麻呂・小人 9人 

女:1位…古 21人 2位…刀自 15人 3位…都 12人 4位…古刀自 9人

「安麻呂」といえば、同時期に活躍した、古事記の編者である太安麻呂(安万侶)(?~723年)や歌人の大伴安麻呂(?~714年)がいますね。当時のトレンドだったのでしょう。

2位の古麻呂は、同じ「こまろ」という読み方をする「小麻呂」の人数も加えると、14+5人で19人となり、1位に躍り出ます。

当時は農民たちも漢字を考えて名づけていたわけではないでしょうから、「古麻呂」も「小麻呂」も一緒に扱ってもいいのかな、と思います(゜-゜)

農民たちも「麻呂」がつく名前を付けていたのにはびっくりですね(◎_◎;)

女性1位の「古」は、男性2位の「古麻呂」の女性版でしょうね。

他にも大古・小古といった派生パターンもあります。

2位の「刀自」は当時、全国的に多く見られた名前だったようです。後に、「刀自」は年配の女性や、主婦を指すようにもなったそうです。

2024年2月13日火曜日

「律令」(養老律令)⑤驚きのきまりの数々~賊盗律

 殺人・強盗などの諸犯罪について取り扱う賊盗律。

中には、やけに細かかったり、やけに厳しかったり、ビックリするような条文も見られます💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


賊盗律~こんなことが罪になっていました~

14条 物を人の耳・鼻などの穴に入れた者は杖罪60。物を取り去って人を死傷させた(例えば、寒い月に衣服を取り去る。高い所に登っているときに梯子を取り去る。馬に乗ろうとしたときに馬のくつわを取り去る。飢えたり、のどが渇いていたりする者から、飲食物を取り去る)者は、闘殺傷の罪として扱う(人の穴に物を詰め込んで殺傷した場合も同様)。また、人を脅して、恐れさせて、死傷させた(例えば水際に追い詰め、そこから追い落とす)者は、闘戯殺傷の罪として扱う。

※闘訟律 逸文 (戯殺傷人条) 危険な勝負によって人を殺傷した者は、闘殺傷の罪より二等軽く扱う。刀を使ったり、高い所に登ったり、水中に入ったりして、競争する中で相手を死傷させた場合は、罪を一等軽く扱う。

16条 毒物を使用したり、人に売った者は、絞刑。まだ使用していなかった場合は近流。食中毒を起こした魚は、すぐに焼いて処分せよ。しなかった場合は、杖罪90。わざと人に与えたり、混ぜて売ったりした場合は、徒刑1年。故意に死なせた場合は、絞刑。

19条 死体を損壊したり、水中に棄てたりした者は、徒刑1年半。死体の髪を切ったり、死体を傷つけたりした者は、杖罪100。

20条 地面を掘って、死体を見つけた時に、再び埋めなおさなかったり、キツネやタヌキを燻し出すために棺を焼いたりした者は、杖罪100。死体を焼いた者は、徒刑1年。

21条 人々を惑わせる書物(妖書)を書いたり、しゃべったり(妖言)した者は、遠流。妖書・妖言を別の者に伝達した者も同様の罪とする。害が発生しなかった場合は、杖罪60。妖書を所有していたものの、他人に伝えようとしなかった場合は杖罪80。

22条 夜間に勝手に人の家に入った者は、笞罪30。家の主人が勝手に入ったものを殺しても無罪とする。勝手に入ったわけでもないのに(例えば、誤って入ったり、酔っぱらって入ったり、認知症の老人が入ったり、女性だったりした場合)殺した場合は徒刑3年。侵入した者を取り押さえたのに、殺したり傷つけたりした場合は闘殺傷の罪と同様に扱う。傷つけた者が後に死亡した場合は、遠流。

(現行の刑法では、不法侵入は3年以下の懲役・または10万以下の罰金)

28条 所有が禁じられている武器を盗んだ者は、徒刑1年半。弩・馬の鎧を盗んだ者は徒刑2年。それ以外の武器や軍の旗などを盗んだ者は通常の窃盗罪(35条)に一等加える。宮殿を守るのに使う武器を盗んだ者は、それぞれにさらに一等加える。

29条 仏像を盗んだり、壊したりした者は、徒刑3年。僧の場合は、中流。菩薩の像の場合は罪を一等軽く扱う。盗んだものを死人の供養に使用していた場合は、杖罪80。

30条 塚を壊した者は、徒刑3年。棺を開いた者は、遠流。塚をあばいたものの、棺のところまで到達しなかった場合は、徒刑2年。穴が掘ってあるが、まだ死人が入っていない棺を盗んだ者は徒刑1年半。死体の衣服を盗んだ者は一等軽く扱う(つまり徒刑1年)。

(現行の刑法では墳墓をあばいた者は2年以下の懲役。墳墓をあばいたうえで、死体や棺の中の物を損壊したり、自分の物にしたりした者は、3か月以上5年以下の懲役)

32条 馬・牛を盗んで殺した者は、徒刑2年半。

34条 強盗(酔わせて物を奪う場合も同じ)未遂は徒刑2年。布1尺(約30㎝。幅は約72㎝)(布1尺分の価値の物を盗んだ、という事か)を盗んだものは徒刑3年。2端(8丈4尺。1丈は10尺なので84尺、つまり約25m)を増すごとに罪を一等ずつ加える(2端1尺で近流)。15端を盗んだ者や、強盗したうえ人を傷つけた者は、絞刑。強盗殺人の場合は、斬刑。武器を持っていた場合は、未遂であっても遠流。10端で絞刑。傷つけた場合は斬刑。

(現行の刑法では強盗は5年以上の懲役。強盗致傷は無期懲役または6年以上の懲役。強盗殺人は死刑、または無期懲役)

35条 物を盗んだものは笞罪50。布1尺を盗んだものは杖罪60。1端(4丈2尺。1丈は10尺なので42尺、つまり約12.5m)を増すごとに罪を一等ずつ加える(1端1尺で杖罪70)。そのため、5端を盗めば徒刑1年となる。これ以降は、5端を増すごとに罪一等を加える。50端を盗めば加役流(3年の流刑)。

(現行の刑法では窃盗罪は10年以下の懲役)

37条 家屋や集積物を焼き、物を盗んだ者は、焼かれた物の損害額に、盗品の家格を加えて、強盗の罪を以て扱う。

38条 恐喝して物を奪い取った者は、窃盗の罪に一等加える。物を奪えなかった場合も、杖罪60。

(現行の刑法では10年以下の懲役)

39条 人を殴った後、盗むつもりはなかったが物を奪った者は、強盗の罪と同じ。後に死亡した場合は、加役流。物を盗んだ者は、窃盗の罪に一等加える。

40条 別居している五等の親族(妻妾の父母・姑の子・舅の子・姨の子など)から盗んだ者は、一等罪を軽く扱う。四等、三等となるにしたがって、一等ずつ罪を軽く扱う。盗む際に殺傷した場合は、殺傷の罪と同じく扱う。

(現行の刑法では、配偶者・直系血族[祖父母・父母・子・孫]・同居の親族から盗んだ場合は罪に問わない(◎_◎;))

42条 物を盗む際に誤って人を殺傷した場合は、殺傷の罪と同じように扱う。後に死亡した場合は、加役流。

45条 人を誘拐して、売って奴婢としたら遠流。家人としたら徒刑3年。妻妾や子孫としたら徒刑2年半。未遂は四等軽く扱う。相手が合意していたら一等軽く扱う。合意の上売って奴婢とした場合は、売った方も売られた方も徒刑3年とする。売れなかった場合は一等軽く扱う。他家の家人を誘拐した場合は、それぞれ一等罪を軽く扱う。

(現行の刑法では、人を誘拐した場合、1年以上10年以下の懲役。売った場合も同様)

46条 奴婢を誘拐した場合は、強盗として扱う。合意の上であれば窃盗として扱う。最高刑は中流とする。

47条 二等の目下の親族(弟妹・兄弟の子)、兄弟の孫、外孫(娘の子)を売って奴婢とした場合は、徒刑2年半。子孫の場合は徒刑1年。合意の上で売った場合は罪を一等軽く扱う。それ以外の親族を売った場合は徒刑3年。

48条 誘拐されたものと知りながら購入して奴婢とした者にも、売った者の一等軽い罰を与える。

(現行の刑法では人を買った者は3か月以上5年以下の懲役。営利目的などの目的で人を買った場合は1年以上10年以下の懲役)

52条 盗みを繰り返して、3度徒刑を受けた者は、近流。3回流刑となった者は、絞刑。親族に対しての場合は、このきまりを適用しない。

54条 自分の管轄するところで盗みが起きた場合は、里長(郷長)は笞罪40。3人で一等加える(つまり窃盗する者が4人出れば笞罪50)。郡司は笞罪20。4人で一等加える。国司は管理する郡の多少に応じて罪を与える。最高刑は徒刑2年半。強盗の場合は、それぞれに一等加える。30日以内に捕まえた場合は無罪とする。30日を過ぎて捕まえた場合は、3等罪を軽く扱う。


2024年2月10日土曜日

最善の国家を作るためにはどうすればよいか~アリストテレス『政治学』

 今回は「人間は社会的動物(存在)である」の名言で有名なアリストテレスの「政治学」を紹介していきたいと思います!😆

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇「人間は社会的動物である」

アリストテレス(前384~322年)は古代ギリシャの哲学者で、様々分野に精通しており、そのため、「万学の祖」とも呼ばれる偉大な人物です。

そのアリストテレスが晩年の紀元前330年頃に執筆したのがこの『政治学』です。

今回の漫画では取り上げませんでしたが、有名な名言の「人間は社会的動物(存在

)である」と述べた部分について紹介しましょう。

…相手無しで生きられない者は自然に結びつく。男と女は結びつかなければ子どもをなせない。そして子孫が増えてくると、分家して家が増え、村ができる。より善く生きたいと思うのは自然なことである。足りないものを補い合うために、自足するために村々が結びついて国家を作るのはそのためである。こうして見ると、国家ができるのは自然であり、人間は生まれながらに国家を作ろうとする(必要とする)政治(ポリス)的な動物なのだと言える

下線部が有名な部分なのですが、原文では「ἄνθρωπος φύσει πολιτικὸν ζῷον」(人間はもともと[生まれながらに]政治(ポリス)的な動物である)と書かれています。

人間は国家なしでは生きられない存在だというのですね。

アリストテレスは続いて、「国家を必要としない人間は、悪人か、人間を超えた存在のどちらかで、ホメロスはこれを「無法者」と非難したが、好戦的(喧嘩好き)で、孤立する人間である」と述べています。

つまり、アウトローですな。でも、アウトローでもサバイバル生活をするわけではないでしょうし、社会の中だからこそ生きられると思うんですけどね(゜-゜)

さて、国家の発生について述べた後、アリストテレスは、最善の国家の体制について考えをめぐらしていくことになります。

〇最善の国家を作るために

アリストテレスの『政治学』は8巻にもなる大著で、(今回特にお世話になった)光文社古典新訳文庫版でも、上下巻、約1000ページもあります。

しかし、重要なポイントはほぼ3巻部分に詰まっています。

今回は、その3巻部分を中心に紹介していきたいと思います。

アリストテレスは国制(国の政治体制)を次のように分類します。

王制…単独者による支配

貴族制…少数者による支配

共和制…多数者による支配

この3つに共通しているのは、どれも全体のためになること(公共善。共通の利益)を実現するために活動する、という事です。

しかし実際は全体のために活動する、というのは難しく、どうしても一部のための政治が行われるように変質してしまいます。

王制は、単独者のために政治を行う独裁制に、

貴族制は、少数者(富裕者)のために政治を行う寡頭制に、

共和制は、多数者(貧困者)のために政治を行う民主制に(民主制では多数者の意見が決定権を持つ[多数者に多くが配分される]というのが正義である、と第6巻第2章で述べられている)。

アリストテレスは、この3つの中では民主制が最善だと言います(第4巻第2章)。

民主制は多数者のために政治を行うのですから、最も多くの人のために活動しますからね。

それでも、全体のために活動する王制・貴族制・共和制には劣るので、「悪くない」だけだとアリストテレスは言います(;^_^A

しかし、ある人は貴族制こそが最も正しい、と言うでしょう。

「政治の恩恵を一番多く受けなければいけないのは、多くの税を納めている富裕者であるべきだ。格差があるのは当然だ」と。

確かに道理ですが、富裕者ばかりを優遇するのでは、その国制(寡頭制)を保つことは難しいでしょう。

アリストテレスが内乱は貧困者が富の不平等を不満に思い、平等を求めて起こされることがほとんどである、と言っている(第5巻第1章)ように、内乱が発生して寡頭制の政府は倒れることになるからです。

そうなると、今度は貧困者たちは貧困者中心の、富裕者をなおざりにした政治を行う(民主制)を行うことになるのですが、これでいいのでしょうか?

アリストテレスは、国家というのは一部のために存在するのではなく、全体が幸福で、善く生きられるように知るために存在するのであって、一部のために政治を行うのでは、それは一つのまとまった共同体とは言えなくなる、と言います(第3巻第9章)。

だから、富裕者が貧困者を収奪することはもちろん、貧困者が富裕者の財産を没収して分配しようとすることも、どちらも良くないことだ、とアリストテレスは言うのですね。

実際、「平等」を求めて富裕者の財産を没収して分配したソ連は崩壊しましたし…

平等の行きつく先は努力しても報われない、無気力な世界になっていくのですよね…。

アリストテレスは、国家には財産が必要だ、だから財産の所有者である(財産を生み出す力がある)富裕者の存在も国家に必要だ、と言っています(第3巻第12章)。

富裕者・貧困者、両者の協力が必要になってくるのですが、アリストテレスは、富裕者は「富」も「徳」(品性。善行を実行する能力)もあるが、貧困者は「富」もなければ「徳」もない、と貧困者に厳しい評価を下しています(;^_^A

そうなると富裕者だけに政治を任せた方が良いのですが、

アリストテレスは、貧困者は政治に参加できないと不満を持ち、国が不安定になるからそれは良くない、と言います。

かと言って貧困者(大衆)は善行を実行できる「徳」が無いので、重要な職を任せられない。

ならばどうするか。

アリストテレスは、民会(国会)での審議や裁判など、判断が必要になることを任せるのが良い、といいます。

なぜかというと、貧困者(大衆)は個人的な能力は乏しいけれども、集まることで能力を発揮するようになるからだ、と言うのです(◎_◎;)

判断が必要になる事は、多人数で判断したほうが、個人によってそれぞれ注目する点が異なってくるため、多面的に物事を見ることができます。

だから、アリストテレスは多くの者が集まった方が、より優れた判断ができるようになる、と言います。

しかし心配になるのは、大衆は専門的な知識が無いので正しい判断を下せるのか、という事です。

アリストテレスは2つのことから、これは大丈夫、と言っています。

①大衆は専門的なことは知らなくても、身を持って体験してきているので、優れた判断者になり得る。

②専門的なことは、民会の前に審議会でわかりやすく整理したものを、民会に参加する大衆に説明する。

この審議会のメンバーは、「公職」にあたります。

アリストテレスは、「公職」とは「命令する」権限を持つ職務の事だ、と言います。行政官(役人)や司法官(裁判官)ですね。

アリストテレスは、この公職につく者がなんでも思い通りにできないようにしなければならない、言います(第6巻第4章)。

なぜなら、「命令する」権限というのは強力で、なんでも自分勝手にできる状態になると、人はどうしても悪をおさえきれなくなってしまうからです。

ですから、公職者の暴走を抑えるために、大衆には、公職者を選ぶ権限と、公職者を審査する権限(大衆から選ばれた裁判員に与えられる権限)が必要になる、とアリストテレスは言います。

また、アリストテレスは、公職者は同一人物が何度も就けないようにすること、任期も短くすることも必要だとし、その上で、民会(で成立した正しい[国家全体のためになる]法律)に最高の権限が与えられるようにしなければならない、と言います(第6巻第2章)。

民会は判断して許可を出すところで、民会が許可しなければ公職者はなにも実行できませんから、民会に最高の権限がある事になります。

この強力な民会のメンバー(審議員)はどのようなものが成るのか、という事について、

アリストテレスは、

①市民が順番に審議員となる。重要なことを決める時は市民全員で決める。

②重要なものは市民全員で決めるが、それ以外は公職の者に委ねる。

③すべての事を全市民が集まって決める。

④ある一定の適度な額の財産を持っている者全員が審議員となる。

⑤一定の財産を持っている人の中から選ばれた人が審議員となる。

⑥あるものごとは選ばれた審議員が、あるものごとはくじ引きで選ばれた審議員が審議する。

⑦選ばれた審議員とくじ引きで選ばれた審議員が共同で審議する。

…の7つのやり方がある、と言っています(第4巻第14章)。

今の国会議員の惨状を見ると、国会議員はくじ引きで選んだ方がいいんじゃないかな…とも思いますね(;^_^A

それにしても、すでに紀元前の時代に、民主主義の要点がまとめられていたとは驚きです(◎_◎;)

ここから啓蒙時代(17世紀後半~18世紀)になるまで約2000年間も進歩しなかった、ということになりますが…(-_-;)

2024年2月7日水曜日

「律令」(養老律令)③寛大すぎる⁉天皇に対する罪~衛禁律・職制律

 律(衛禁律・職制律)には事細かに、天皇に対してこういうことをしたらこういう罰が下されるよ、ということが書かれています。

さぞ重い罰が与えられるんだろうな…と思いきや、実はそうでもないようで…⁉

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇律に載せられている不敬罪の数々

◆衛禁律逸文

・伊勢神宮の門に䦨入(乱入。無理矢理押し入る事か)した者は、徒刑1年。中社(格式が2番目の神社。住吉大社[摂津国の一宮]や上賀茂神社・下鴨神社[京都]など)・小社に門から乱入した者は、それぞれ三等ずつ罪を軽く扱う。

・山陵(天皇・皇后の墓。御陵)の門に乱入した者は笞罪50。垣根を越えて乱入した者は杖罪100。陵戸が気づかなかった場合は二等罪を軽く扱う。

・宮城門・宮門(内裏の外部の門)に乱入した者は徒刑1年。殿門は徒刑1年半。閤門(内裏の内部の門)の場合は徒刑3年。兵器を持っていた場合は罪を二等重く扱う。御在所(内裏の中)に乱入した者は絞刑。兵器を持っていた場合は斬刑。迷って間違えて入った場合は天皇が判断する。御膳所(内裏の台所。内膳司か)に乱入した者は徒刑2年

・宮門に乱入しようとして止められたものは杖罪60。殿門については罪を一等加える。閤垣(閤門の周囲の垣根)を乗り越えた者は絞刑。殿垣は遠流。宮垣は近流。宮城垣は徒刑3年。京城垣(平常京を取り囲む垣根)は徒刑1年

・宿衛の者が別の者を勝手に宿衛にして、宮城(宮門)の内部に入れた場合は、流刑3千里。宮殿(内裏)内の場合は絞刑。担当する役人がわからなかった場合は罪を二等軽く扱う。

・高い所に登って禁中(宮門の内部)をのぞく者は、杖罪100。御在所(内裏)の中をのぞいた者は徒刑1年半

・弓矢を宮垣(内裏の外部の垣根)に当てたものは徒刑1年。殿垣(大極殿を取り囲め垣根)に当てた者は罪を一等加える。閤門内部に弓矢を射た者は徒刑3年。御在所(内裏内)に射た者は絞刑。瓦や石を投げた場合は罪を二等軽く扱う。弓や石などで人が殺傷された場合は、殺傷の罪で取り扱う。

17条 天皇が移動しているときに、衛士の警固の隊列に突入した者は杖罪100。(より天皇に近い)兵衛や内舎人の隊列に突入した者は徒刑1年。誤って入った場合は二等罪を軽く扱う。家畜が宮門内に入ってしまった場合は杖罪70とする。兵衛・内舎人の隊列に突っ込んだ場合は笞罪50

18条 宿衛の者が出勤しなければならない時に出勤しなかったり、休暇を得た期間を過ぎても出勤しなかったりした場合は笞罪20。3日につき一等罪を重く扱う。杖罪100に至った時は、その後は5日につき一等罪を重く扱う。徒刑2年を最高刑とする。

19条 宿衛が武器を身につけていなかったら笞罪50。持ち場を離れた者は一等罪を重く扱う。別の場所を担当していたらさらに一等罪を重く扱う。担当する役人はそれぞれに罪二等を加える。

◆職制律

7条 天皇の移動に随行するときに遅れたり、先に帰ったりした者は、笞罪30。

16条 天皇の衣服を担当する者が、衣服を自分で使用したり、人に貸したり、また、それを借りた者は、徒刑2年。天皇が身につけないもの(帷帳[室内に垂れ下げる布]やひじ掛けや杖など)の場合は、杖罪100。役所内で使っただけの場合は、罪を一等軽く扱う。

22条 詔書通りに実行しなかったら徒刑2年。

◆賊盗律

31条 天皇の墓に生えている木を盗んだ者は杖罪100。草は3等軽く扱う。他人の墓の木を盗んだ者は杖罪70。


ちなみに明治時代の刑法では、天皇に関する条文は意外と少なく、わずか2つのみです(◎_◎;)

旧刑法(明治13年[1880年])

116条

天皇…に対し危害󠄂を加え又は加えんとしたる者󠄁は死𠛬に処す

117条

天皇…に対し不敬の所󠄁為ある者󠄁は3月󠄁以上5年以下の重禁錮に処し20円以上200円以下の罰金を附加す

刑法 (明治40年[1907年]。1947年に削除)

73条 天皇…に対し危害を加え又は加えんとしたる者は死刑に処す

74条 天皇…に対し不敬の行為ありたる者は3月以上5年以下の懲役に処す

    神宮又は皇陵に対し不敬の行為ありたる者亦同じ

ムム…こちらも意外にかなり軽いですねΣ( ̄□ ̄|||)

戦前はもっと厳しいと思っていたのですが、不敬罪でも最高5年の懲役なんですねぇ💦ビックリです。


2024年2月5日月曜日

[律令(養老律令)]「②八虐」の3ページ目を更新!

 「歴史」「奈良時代」のところにある、

[律令(養老律令)]「②八虐」の3ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2024年2月4日日曜日

[律令(養老律令)]「②八虐」の2ページ目を更新!

 「歴史」「奈良時代」のところにある、

[律令(養老律令)]「②八虐」の2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2024年2月2日金曜日

「律令」(養老律令)②八虐

 現在では、犯罪に対する罰の重さは、悪質性・重大性・動機によって決められているそうですが、

古代においては、特に「秩序を乱すものかどうか」が罪の重さを決める大きな基準となっていました。

主君や、主人、親、夫には逆らうことなく尽くすべきである、それが秩序ある世の中を作るのである、というものですね💦

現代の刑法においても、尊属殺重罰規定(父母・祖父母を殺害した場合は死刑か無期懲役とする)というのがありましたが、これは1995年に削除されています。

さて、古代では、具体的に誰に対する、どのような罪が重い罰を受けることになっていたのか、見てみましょう。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇八虐

律には「八虐」という、特に重く罰せられることになる、秩序を破壊するような8つの罪について述べている部分があります。

①謀反([ムヘン]。『日本書紀』の古訓には「ミカドヲカタムケントハカル」とある)→天皇に危害を加えようとすること。

②大逆→天皇の墓や内裏に損害を与えようとすること。

③謀叛(ムホン)→国を裏切って、反乱を企てたり、反乱者や敵国に味方しようとすること。

④悪逆→祖父母・父母を殴ったり蹴ったり、また、殺そうとすること。また、おじ(叔父・伯父)・姑・兄姉・外祖父母(母方の祖父母)・夫・夫の父母を殺すこと。

⑤不道→ある一家を三人以上殺したり、人を切断したり、呪術に使う物を製造したり、人を呪ったりすること。または、おじ(叔父・伯父)・姑・兄姉・外祖父母・夫・夫の父母を殴ったり蹴ったり、訴えたり告発したり、殺そうとしたり、目上の親族や妻を殺そうとしたりすること。

⑥大不敬→伊勢神社を損壊し、大幣(神官が儀式のときに持っているアレ)や神物、天皇家の衣服、神器、御璽を盗んだり、偽造したり、天皇家の薬を正しく作らなかったり、薬の説明書きを間違えたり、食い合わせの物を料理に出したり、天皇の乗る船を堅固に作らなかったり、天皇の悪口を言ったり、天皇の使者に対して礼を欠いたりすること。

⑦不孝→祖父母・父母を訴えたり告発したり、呪ったりののしったり、祖父母・父母が生きている間に財産を分け合ったり、父母の喪中に結婚したり、音楽を鳴らしたり、喪服を脱いだり、祖父母・父母の死を聞いても哭泣の礼(死を告げに来た使者に泣き叫ぶ動作を行い、理由を問われればただ「哀しいため」と答える)をとらなかったり、祖父母・父母が死んだと嘘をついたり、父・祖父の妾を自分の物にしたりすること。

⑧不義→主人・国司・先生を殺したり、下級役人が所属している役所の上司の五位以上の者(つまり貴族[公卿])を殺したり、夫の死を聞いても、哭泣の礼をとらなかったり、その喪中に音楽を鳴らしたり、喪服を脱いだり、別の家に嫁いだりすること。

では、この八虐にあたる罪を犯した場合、どのような罰を受けることになるのか、見てみましょう。

[謀反・大逆・謀叛の罪に対する罰]

賊盗律1条 天皇に危害を加えたり、天皇の墓を暴いたり、内裏に損害を与えたりした者は、首謀者であるにかかわらず斬刑とする。また、その父子・家人・財産・田畑や邸は、官戸とされる。80歳以上と篤疾の者は連座の罪に問わない。祖父母や孫は遠流とする。天皇に危害を加えるために立ち上がったものの、人がついてこなかった場合でも斬刑とする。この場合は父子を遠流とし、財産は没収しない。大逆をはかったが未遂に終わった者は絞刑とする。

2条 謀反・大逆をした者の親族であっても、同居でなければ、財産・田畑・邸宅は没収しない。同居していても、親族でない者、兄弟の子などは罪に問わない。他家の養子になっている者、出家している者も罪に問わない。

3条 実行する気がないのに、謀反の事について述べた者は、徒刑3年とする。

賊盗律4条 反乱を企てたり、反乱者や敵国に味方しようとした者は、絞刑とする。実際に実行した者は、斬刑とする。子は中流とする。10人以上を率いていた場合は、父子は遠流とする。10人以上でなくても、害があった場合は10人以上の時と同様とする。逃亡して、国の呼び出しに応じない者は、謀叛扱いとし、追討を受けて抵抗した場合は、反乱を実行したものとして扱う。

闘訟律逸文 謀反・大逆を知りながら、報告しなかった場合は、絞刑。謀大逆・謀叛の場合は、流刑2千里。天皇の悪口や、妖言(人々を惑わせる予言)の場合は、五等軽く扱う。役人が報告を聞いて、逮捕を半日放置した場合、報告しなかった者と同じ罰を与える。

[悪逆・不道の罪に対する罰]

賊盗律6条 祖父母・父母・外祖父母・夫・夫の祖父母や父母を殺そうとした者は、斬刑とする。正妻・継母・おじ(叔父・伯父)・姑・兄姉を殺そうとした者は遠流。傷つけた場合は、絞刑。目上の親族を殺そうとした場合は、徒刑3年。傷つけた場合は、中流。殺した場合はどちらも斬刑。目上の親族が目下の親族を殺そうとした場合は、罪を四等軽く扱う(つまり徒刑1年)。傷つけた場合は、罪を二等軽く扱う(つまり徒刑3年)。

12条 ある一家の者を3人殺したり、人を切断した者は、斬刑とし、その子を徒刑3年とする。

15条 蟲毒(蛇・ムカデ・カエルなどを同じ容器に入れて共食いをさせて、生き残ったものを呪いの道具に使ったり、その毒を使用する)を製造したり、作ることを勧めたりした者は、絞刑。同居の者は知らなかったと言っても、遠流とする。里長(郷長。50の家をまとめる、村長のような者)は知っていて止めようとしなければ、徒刑3年。同居の者に蟲毒を使用した場合、蟲毒を作っていたことを知らなかった場合、同居の者は無罪とする。

17条 人を憎み、人形や呪文を書いた符書を用いて人を呪い、殺そうとした場合、人を殺そうとしたときの罪より二等軽く扱う(つまり徒刑1年)。目上の親族・外祖父母・夫・夫の祖父母に対してこれを行った場合は、減刑しない。呪うことで死に至らしめた時は、殺人の罪と同じ扱いとする(つまり斬刑)。呪うことで人を病気にし、苦しめた時は、殺人の罪より四等軽く扱う(つまり徒刑2年)。子孫が父母・祖父母に対して行ったっ場合、家人・奴婢が主人に対して行った場合は、減刑しない。祖父母・父母・主人に愛して(かまって)ほしいために行った場合は、徒刑2年。天皇を呪った場合は、首謀者に関わらず、全員絞刑とする。

闘訟律逸文 夫が妻を殴り傷つけた場合は、通常より二等減ずる(つまり杖罪40)。死なせた場合は通常と同じく扱う。妾に対しては妻の時より二等減ずる。妻が妾を殴り、傷つけ、殺した時は、夫の妻に対する場合と同じく扱う。誤って殺した時は無罪。

逸文 妻が夫を殴った時は、杖罪100。重傷を負わせた場合は、これに三等を加える(つまり徒刑2年)。死なせたときは斬刑。妾が行った場合はそれぞれに一等を加える。不注意で殺傷した場合は、二等を減ずる。夫をののしった者は、杖罪80。妾が妻を罵った場合も同様とする。

逸文 兄・姉を殴った者は、徒刑1年半。傷つけた者は徒刑2年。骨折させた者は近流。刃物で手足を切断したり、1つの目を失明させた場合は絞刑。死なせたらば斬刑。ののしった者は杖罪80。叔父・伯父・姑・外祖父母にした場合は、罪を一等重く扱う。不注意で殺傷した者は、罪を二等軽く扱う。弟・妹・兄弟の子孫・外孫(娘や分家の息子にできた子ども)を殴り殺した場合は、徒刑3年。刃物を持って故意に殺した場合は、流刑2千里。

逸文 祖父母・父母を罵った者は徒刑3年。祖父母・父母を殴った者は斬刑。不注意で殺してしまった場合は流刑3千里。祖父母・父母が命令に違反した子孫を殴って殺した時は、徒刑1年半。刃物を持って殺した時は、徒刑2年。故意に殺した時は、罪に一等を加える。養父母の場合は、それぞれに罪一等を加える。

逸文 妻・妾が夫の祖父母・父母をののしった場合、徒刑3年。殴った場合は絞刑。傷つけた場合は斬刑。誤って殺してしまった場合は徒刑3年。誤って傷つけた場合は徒刑2年半。子孫の妻を殴って廃疾にした場合は杖罪100。篤疾にした場合はこれに一等を加える(つまり徒刑1年)。死なせたときは徒刑3年。故意に殺した時は流刑2千里。子孫の妾にした場合はそれぞれ二等を減ずる。誤って殺した時は無罪。

逸文 伯父・叔父・兄・姉・外祖父母・夫・夫の祖父母を訴えた者は、徒刑1年。訴えた内容が重罪にあたる場合は、罪を一等減ずる(つまり杖罪100)。重罪であると虚偽の内容を訴えた場合は、誣罪に三等を加える。年上の三等の親族(従兄・従姉など)の場合は、一等減ずる。年上の四等以上の親族(兄の妻・従兄弟の子・母の兄弟姉妹など)の場合は、二等減ずる。重罪であると虚偽の内容を訴えた場合は、誣罪に一等を加える。謀反・大逆・謀叛を訴えた場合は、罪に問わない。

[大不敬の罪に対する罰]

賊盗律 1条 …伊勢神宮に損害を与えようとはかったが、未遂に終わった者は徒刑1年、実際に損害を与えたものは遠流とする。

23条 大嘗祭などで使用する大幣を盗んだものは中流。伊勢神宮の宝物を盗んだものも同様とする。供え終わった飲食・幣物を盗めば徒刑2年。まだ供え終わっていない物を盗めば徒刑1年半。釜・甑・刀・匕などを盗んだものは、通常の窃盗罪で扱う。

24条 神器を盗んだ者は絞刑。関所の割符(関所の通行証)、御璽、駅鈴(駅馬使用許可証)を盗んだ者は、遠流。天皇の衣服・食事・調度品を盗んだ者は、中流。天皇に渡される前の衣服・調度品、もしくは使用済みとなった衣服・調度品、または、天皇に差し出される前の食事の場合は、徒刑2年。食事を担当する係の喪に渡される前の食物や、帷帳・几杖などを盗んだ者は、徒刑1年半。

詐偽律 逸文 神器を偽造した者は斬刑、御璽を偽造した者は絞刑。

職制律 12条 天皇家の薬を調合するときに、分量や方法を間違えるなどして正しく作らなかったり、薬の説明書きを間違えたりした場合、薬を調合した者は徒刑3年。薬の原料を煎ったり削ったり洗ったり潰したり、悪い部分を取り除いたりするのを、雑に行った場合は、杖罪60。天皇に渡していない薬の場合は、罪を一等軽く扱う。薬を担当した役人(中務少輔・内薬正など)は、薬を調合した者から一等減じた罰を与える。

13条 天皇の料理を作る者が、食い合わせのものを用意した場合、徒刑3年。穢悪のもの(動物の肉か?)が含まれていた場合、杖罪100。材料を雑に選んだ場合は、杖罪80。味見をしないのは、杖罪60。

14条 天皇の乗る船を堅固に作らなかった場合、その原因を作った者を徒刑3年とする。船を飾らなかったり、船に備わっていなければならないもの(棹など)が用意されていなかった場合、徒刑1年。

15条 天皇の衣服をきれいに保っていない場合、笞罪50。天皇の乗る馬を調教していなかったり、車や馬の備品が頑丈でなかったりした場合、徒刑1年。まだ天皇が使用していなかった場合は、三等軽く扱う。天皇が移動する際、必要なものが足りない場合、杖罪60。

17条 天皇の料理を用意する御膳所に薬物を持ち込んだ者は、徒刑3年。

32条 天皇を激しく批判した者は、斬刑とする。激しくない場合は、徒刑2年。天皇の使者に対し礼を欠いた行動をとった場合は、絞刑。

[大不孝の罪に対する罰]

闘訟律 逸文 連座の対象となる謀叛以上の罪でないのに、祖父母・父母を訴えた者は絞刑。

逸文 祖父母・父母を罵った者は徒刑3年。祖父母・父母を殴った者は斬刑。不注意で殺してしまった場合は流刑3千里。祖父母・父母が命令に違反した子孫を殴って殺した時は、徒刑1年半。刃物を持って殺した時は、徒刑2年。故意に殺した時は、罪に一等を加える。養父母の場合は、それぞれに罪一等を加える。

逸文 妻・妾が夫の祖父母・父母をののしった場合、徒刑3年。殴った場合は絞刑。傷つけた場合は斬刑。誤って殺してしまった場合は徒刑3年。誤って傷つけた場合は徒刑2年半。子孫の妻を殴って廃疾にした場合は杖罪100。篤疾にした場合はこれに一等を加える(つまり徒刑1年)。死なせたときは徒刑3年。故意に殺した時は流刑2千里。子孫の妾にした場合はそれぞれ二等を減ずる。誤って殺した時は無罪。

戸婚律 逸文 祖父母・父母がまだ生きているのに、財産を分割しようとした者は、徒刑2年。祖父母・父母が子孫に勝手に財産を移そうとした場合は、徒刑1年(子孫は罪には問わない)。

逸文 父母・夫の喪中であるのに、結婚した者は徒刑2年。妾を持った場合は罪を二等軽く扱う。喪中と知っていながら結婚した相手の父は五等罪を軽く扱う。知らなかった者は罪に問わない。父母・夫以外の喪中に結婚した者は、杖罪100。年下の親族の喪中の場合は、罪を二等軽く扱う。妾は罪に問わない。

職制律 30条 父母や夫の死を聞いても哭泣の礼を取らなかった場合、徒刑2年。喪中に喪服を脱いだり、音楽を鳴らしたりした場合は、徒刑1年半。双六・囲碁などの遊びをした場合は、杖罪80。音楽の演奏しているのにたまたま遭遇してこれに聴き入ったり、宴会をしているのに遭遇してこれに参加したりした場合は、杖罪60。祖父母・外祖父母の死を聞いても哭泣の礼を取らなかった場合、徒刑1年。喪中に喪服を脱いだ場合は、杖罪100。兄・姉の場合は、ここからそれぞれ二等軽く扱う。弟・妹の場合は、さらに一等軽く扱う。

31条 祖父母・父母が80歳以上だったり、篤疾となっていて、本人以外に頼る者がいないのに任地に赴いた場合、杖罪100。祖父母・父母・夫が死罪の罪を犯して捕まった時、音楽を鳴らした場合、徒刑1年。

詐偽律 逸文 父母が死んだ際には(喪に服するために)官職をやめなければならないのに、親戚の喪であると嘘をついて官職をやめようとしない者は、徒刑2年。祖父母・父母・夫が死んだと嘘をついて休暇を得ようとした者は徒刑1年半。伯父・叔父・伯母・叔母・兄・姉が死んだと嘘をついた場合は、徒刑1年。他の親族の場合は一等を減らす(つまり杖罪100)。すでに死んでいるのに、遅れて今死んだと言ったり、病気だと偽ったりした者は、三等軽く扱う。

雑律 逸文 父・祖父の妻と通じた者は、徒刑3年。妾の場合は一等軽く扱う。

[不義の罪に対する罰]

5条 詔使(天皇の使者)・親王・国司を殺そうとしたり、下級役人が所属している役所の五位以上の者を殺そうとしたりした場合は、徒刑3年とする。傷つけた場合は遠流、殺害した場合は斬刑とする。

雑律 逸文 結婚前に他人と通じた者は、徒刑1年。夫がいるのに他人と通じた者は、徒刑2年。無理矢理に通じた者は、罪一等を加える。官戸・陵戸・家人が良民と通じた場合は、罪一等を加える。官奴婢・私奴婢と通じた者は、杖罪60。家人・官戸・陵戸と通じた者は、杖罪70。無理矢理に通じた者は、罪一等を加える。無理矢理に通じた際に骨折させたり、傷つけたりした場合は、ケンカで骨折・ケガさせた罪に一等加えて扱う。


〇五色の賤

古代では、一般の人を良民と呼び、その下に置かれ、差別された身分を賤民と呼びました。

「改訂新版 世界大百科事典」によると、賤民となった人々は、(1)重罪犯(2)貧困による人身売買(3)戦争における捕虜(4)手工業者(5)王族・豪族・寺社に奉仕する人々…であったようです。

そして、この賤民は5つに分類されていました。これを「五色の賤」といいます。

戸令35条には、次の5つが書かれています。

陵戸・官戸・家人・公奴婢(官奴婢)・私奴婢

この5つはどのような違いがあり、どのような差別を受けたのでしょうか(゜-゜)

①賤民は同じ種類の賤民としか結婚してはならない(戸令35条)

戸令に「公私奴婢」と一括りにされているように、官奴婢と私奴婢は結婚できていたようです。

(しかし、42条には、相手が賤民と知らずに結婚した場合、その間に生まれた子どもは良民とする、という規定もありました。賤民だとわかった時点で離婚しなければならない、とも書かれていましたが…。43条には、家人・奴婢が主人・主人の親族との間に子をなした時、その子どもは賤民とする、とあります。正式な結婚でないとダメなんですね)

②家人の子もまたその家の家人とする(戸令40条)

③相続の際の財産の対象として扱われる(戸令23条)

親が亡くなったとき、その財産は分割されますが、家人・奴婢もまたその分割の対象とされていました。

③売買の対象となる(関市令16条)

奴婢を市で売る時は、役人の許可を得て、値段をつけるようにせよ、と書いてあります(◎_◎;)一方で、戸令40条には、家人は売買してはならない、とあり、区別されていました。

④被害を受けても、一般の人より軽く扱われる(闘訟律逸文)

闘訟律逸文には、良民が他家の家人を傷つけたり、殺したりした場合は通常より罪を一等軽くする、奴婢の場合はさらに一等軽くする(家人が良民を傷つけた時はその逆で一等重くなり、奴婢の場合はさらに一等重くなる)とあります。

⑤過失がある時、主人は許可を得れば奴婢・家人を殺すことができる(闘訟律逸文)

闘訟律逸文には、奴婢に罪があった場合、許可を得ずに殺したら、杖罪80とあります。罪が無い者を殺した場合は杖罪100です。家人の場合はこれに一等ずつ追加されます。

主人が官戸を殺した場合は徒刑1年、とも書かれており、違いがはっきりしています。

⑥貸し与えられる口分田が良民より少ない(田令27条)

家人・奴婢の口分田の広さは良民の3分の1とされていました。一方で、官戸・官奴婢(記述がないが陵戸も)は良民と同じだけもらうことができ、違いがはっきりしていました。

しかし、賤民は税金を納めなくてもいいという特典もありました(まぁ、小作人のように主人のために働かされるんでしょうけど)。

さて、こうしてみると、五色の賤は朝廷に属する陵戸ー官戸・官奴婢と、貴族などが私有する家人・私奴婢に分かれ、陵戸・官戸・家人は奴婢より上の立場であるが、家人・私奴婢よりも朝廷に属する官奴婢のほうが優遇を受けていた、ということがわかりますね(゜-゜)

また、律では賤民から良民になれる方法についても述べられています😲

①年齢が76歳になった時

戸令38条には、官奴婢が66歳以上になったり、廃疾となった時は、官戸とする、官戸の者は、76歳以上になったら、良民とする、とあります。長生きした御褒美でしょうか。

②主人が良民となることを許した場合

戸令39条には、主人は家人を良民に、奴婢を家人にすることができる、とあります。

③外国の捕虜となったが、脱出して戻ってきた場合(戸令41条)

決して固定されていたわけではなかったことがわかりますね(゜-゜)

また、この賤民が後のえた・ひにんにつながっていた、という説があるのですが、

一方で両者は連続していない、という説もあって、はっきりしていません。

〇障碍者の保護

戸令7条では、身体の障碍などにより、保護を受けるのが適当な人々をその重さに応じて3段階に分けています。

(1)残疾…1つの目が見えない者、両耳が聞こえない者、手に2つ指が無い者、足に3つ指が無い者、手足に親指が無い者、瘡[できもの]のために髪が無い者、体から膿が出るのが止まらない者、睾丸が肥大して歩行困難な者、首や足に大きなできものがある者

(2)廃疾…重度の知的障害のある者、声を出すのが困難な者、背丈がとても低い者、背中が曲がったもの、手足のうち1つが不自由になっている者

(3)篤疾…ハンセン病の者、精神に障害のある者、手足のうち2つが不自由になっている者、両目が見えない者

律には次のように保護の内容が書かれています。

①廃疾・篤疾は税を免除する(戸令5条)

②残疾は次丁扱いとする(戸令8条)

健常者においても、61歳以上は「老」と呼ばれ、こちらも次丁扱いを受けました(次丁は調・庸の負担が正丁[21~60歳]の2分の1)。

③残疾は庸・徭役(歳役・雑徭の総称。労働によって払う税)を免除する(賦役令19条)

④廃疾は流罪以下について、銅を納めることで罪を免除することが許される(名例律30条)

11~16歳、70~79歳についても同様であった。

⑤篤疾が謀反・大逆、殺人の罪を犯しても、死罪とするには天皇の許可が必要となる。また、強盗・親族の傷害で死刑となった時は、銅を納めることで罪を免除することが許される。

80歳以上、10歳以下も同様である。

⑥廃疾・篤疾は取り調べの際に拷問を受けない(断獄律逸文)

⑦廃疾は死罪となって獄に入れられても、刑具をつけることを免除された(獄令39)

⑧篤疾には介護の者(侍)を1人つける(戸令11条)

ただし、篤疾が10歳以下で、親族がいる場合には介護の者を当てない、としています。

健常者においても、80歳以上の者にも1人、90歳以上には2人、100歳以上には5人の介護の者がつけられました。介護の者は子孫がいるならばまず子孫を当て、子孫がいなければ親族を当て、親族もいなければ、21~60歳の者を当てる。20歳以下の者を希望するならば、それを許せ、とあります。また、役人は適宜その様子を見て回るように、とも書かれています。


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