社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 7月 2022

2022年7月31日日曜日

「一番乗りになりたい男」 下河辺行平・三浦義澄

 今日の「鎌倉殿の13人」も面白かったですね!

阿野全成に死亡フラグがすごいたっていますけど…💦

今回、三浦義村の父、三浦義澄が亡くなりましたが😥

(梶原景時が死んでから3日後に病死)、

その義澄が出てくる漫画を描きました。どうぞ!😛

※マンガの後に補足・解説の文章を載せています。



〇苦戦する源範頼

1184年2月、一の谷の戦いで平氏を破った源氏は、

そのまま逃げる平氏を追って中国地方や四国地方に進んでいく。

1184年8月8日、

源範頼(頼朝の弟)は平家追討使となって、中国地方に向かうために鎌倉を出発した。

8月27日、京都に到着し、9月1日、京都を出発した。

10月12日、範頼は安芸(広島県)で戦いに活躍した地元の武士、山方為綱に特に多くのほうびを与えている。

しかしそこから範頼はほとんど進めなくなる。

鎌倉から遠い中国地方に来て食料が不足したことに加えて、

前回のマンガで出てきた平行盛児島(岡山県)から源氏の食料の輸送隊を

おそったりして、食料の不足が深刻さを増していたからだった。

腹が減っては戦はできぬ!😱

範頼は11月14日に、頼朝にあてた手紙に、

『食料が足りないので、武士たちの半分以上が鎌倉に帰りたいと思っている』

と書いている。

頼朝はそれに対して、

佐々木盛綱が児島のことは片づけた。

食料を多く持って出発したわけではないから食料不足にもなるだろう。

送ることにする。

しかし、武士たちが自分勝手にしてるのはけしからん。

武士たちがあーだこーだ言ってきても気にする必要はない。

わかったわかった、というふりをするだけでよい。

それから、千葉常胤は名高いものであるから、大事にしなさい

また、小山氏の者たちも、大事にしなさい』

と返事した。

1185年1月12日、

範頼はなんとか長門(山口県)の赤間関(下関)に到着して、九州に渡ろうとしたが、

兵糧もなく、船もないので、またストップした😓

和田義盛ですら鎌倉に帰ろうと思っていたという。

そこに、豊後(大分県)の臼杵兄弟が源氏に味方する、

との情報が入ったので、範頼は周防に戻って臼杵兄弟を待った。

1月26日、臼杵兄弟は82(!)もの船をもって参上した。

また、周防の武士、宇佐那木遠隆が食料を持ってきた。

食料と船がそろったので、範頼はついに九州にわたることにする。


〇海を渡った武士たち

源範頼とともに海を渡ったのは、

北条義時 ※「13人」の1人

説明いらないですね😅

足利義兼(1154?~1199)

父は新田義重の弟、足利義康(1127~1157)。

子孫にあの足利尊氏がいる。

小山朝政(1155?~1238)

平将門を討伐した藤原秀郷の子孫という。

下野(栃木県)に大きな勢力を持つ武士。

小山宗政(1162~1241)

長沼宗政とも。朝政の弟。皆川氏の祖先。

小山朝光(1168~1254)

朝政の弟。結城朝光とも。

早くから頼朝に従い、その際に頼朝が烏帽子親となって元服した。

1181年、頼朝の寝るところを守る11人に選ばれるなど、

頼朝からは非常に信頼されていた。

武田有義(?~1200?)

武田信義の子。平重盛に仕えていた。

頼朝に味方した際に、京都にいた妻や子どもは殺害されてしまう。

中原親能(1143~1209)※「13人」の1人

京都の下っ端貴族。頼朝と仲が良く、頼朝が挙兵した際は

館を平氏に襲われるが、すでに逃走した後だった。

その後、頼朝の側近として政治関係に大活躍し、

1184年には源範頼の参謀となって活躍している。

千葉常胤(1118~1201)

下総(千葉県など)の大豪族。

1156年の保元の乱の際に源義朝(頼朝の父)と共に戦う。

頼朝に鎌倉を本拠地にするように勧めた。

千葉常秀

千葉常胤の孫。のちに上総(千葉県南部)にも領地を広げた。

下河辺行平

吾妻鏡マンガ4「意外な物を欲しがった男」下河辺行平 にも登場。

小山氏の一族。下総のでっぱり部分にある下河辺荘の領主。

小山氏と共に早くから頼朝に従う。

結城朝光と共に頼朝の寝るところを守る11人に選ばれるなど信頼が厚かった。

下河辺政能

行平の弟。

頼朝の鹿狩りや江の島遊覧にも付き従うなど側近として信頼され、

1184年に常陸(茨城県)の南部を領地として与えられた。

子孫に「鬼平」長谷川平蔵がいる。

浅沼広綱

足利有綱の4男。阿曽沼広綱とも。

足利有綱はあの足利氏とは違い、藤原秀郷を祖先に持つ足利氏(ややこしい😓)。

兄の足利俊綱は頼朝に反抗したが敗れ、藤原氏系足利氏は滅亡した。

足利有綱は頼朝に味方して兄を倒している。

足利有綱は下野(栃木県)にある東大寺の土地、戸矢子(へやこ)保を管理していたので、

戸矢子有綱を名乗った。

浅沼(阿曽沼)広綱は下野にある阿曽沼郷を領地としていた。

後に頼朝の奥州藤原氏征伐に参加して活躍し、閉伊郡遠野(岩手県)を与えられた。

三浦義澄(1127~1200)※「13人」の1人

相模(神奈川県)にある三浦半島の豪族。

1159年の平治の乱では「悪源太」源義平(頼朝の兄)に従って戦うが敗北。

頼朝の挙兵時から従い、活躍をつづけ、13人の合議制の1人となった。

梶原景時追放に参加し、景時が死んだ3日後に病死した。

三浦義村(1168?~1239)

義澄の子。

源範頼に従って中国地方に向かったのが初陣といわれる。

後にいろいろと暗躍する。

八田知家(1142~1218)※「13人」の1人

下野(栃木県)の豪族、宇都宮宗綱の4男。

常陸(茨城県)に小田城を築き、小田氏の祖先となった。

1156年の保元の乱源義朝について戦った。

頼朝の挙兵にも早くから従っている。

八田知重(1164~1219)

知家の子。小田知重とも。

源実朝暗殺に巻き込まれて死亡した。

葛西清重(1161?~1238?)

下総の葛西御厨を領地とする。

佐竹討伐の後、帰る途中の頼朝を館でもてなし、

なんと自らの妻や娘を提供した😱

これに頼朝は感激し、武蔵(埼玉県)に土地を与えたうえに、

頼朝の寝るところを守る11人のメンバーの1人までにした。

後に奥州藤原氏征伐で大活躍をし、

東北地方に多くの土地(伊沢・磐井・牡鹿郡など)を与えられた上に奥州総奉行とされ、

(※文治5年[1189年]9月22日、『陸奥國の御家人の事、葛西三郎淸重 之を奉行可し。參仕之輩者、淸重に属し子細を啓す可し』…陸奥の御家人は葛西清重がとりまとめよ。陸奥の御家人はすべて清重を通して事情を話すようにせよ、とある)

陸奥(青森。岩手・宮城・福島県)の管理を任せられた。

(なんという信頼の厚さ!!😱)

渋谷重国

秩父氏の一族。現在の渋谷周辺を領地とする。

当初は平家方につき石橋山の戦いで頼朝を破るが、後に頼朝に従った。

渋谷高重(?~1213)

重国の2男。

頼朝から忠誠心と人柄を評価されて年貢を免除された。

源義仲との戦いでその家来、今井兼平の兄、樋口兼光を斬る。

戦いで負傷していたため片手で斬ったという。

後に和田合戦で和田氏について死亡した。

比企朝宗

比企氏の一族。

北陸を管理する北陸道勧農使となり、北陸各地に土地を得る。

娘は北条義時と結婚した。

比企氏滅亡の前に病死か。

比企能員(?~1203)※「13人」の1人

頼朝の乳母を母がつとめた関係で、頼朝から厚く信頼を得る。

奥州合戦の際は北陸道大将軍となった。

娘が頼家と結婚し男子(一幡)を産み、外戚として権力を高める。

北条氏と権力争いを繰り広げ、1203年、北条氏により殺される。

和田義盛(1147~1213)※「13人」の1人

三浦義澄の父、三浦義明の孫として生まれる。

早くから頼朝に従い、

1180年11月、武士を取りまとめる侍所の初代別当(長官)となった。

和田宗実

義盛の弟。途中の兄に以前のマンガで登場した和田義茂がいる。

戦いで活躍し、越後(新潟県)の奥山荘地頭となった。

和田義胤

義盛兄弟は、義盛→義茂→義胤→義長→宗実、の順番。

しかし義盛は小太郎、義茂は次郎だが、義胤は三郎ではなく四郎。

三郎は宗実。う~ん?一人だけ「義」が入ってないし、

庶子なのか、何か事情があるのか。

大多和義成

三浦義明の孫。義澄の甥。

神奈川県三浦半島に太田和(横須賀市)という地名があるが、

そこを領地としていた。

和田合戦では一族の和田義盛に味方せず、

宝治合戦では一族の三浦泰村に味方せず生き延びた。

安西景益

安房(千葉県最南部)の武士。

源頼朝の幼なじみで、石橋山の戦いで敗れた頼朝を安房で迎え入れて助けた。

安西明景

景益の弟。秋景とも。

大河戸広行

武蔵(埼玉県)の大河戸御厨を領地とする武士。

父の重行は平家方についたので伊豆に流され、大河戸御厨も没収された。

広行は三浦氏に助けてもらい、御家人となり、

奥州合戦で活躍し陸奥の宮城郡山村の地頭となった。

大河戸行元

広行の弟。

中条家長(1165~1236)

小野妹子小野道風などを出した小野氏の出身。

八田知家の養子になって態度がでかくなって事件を起こす。

のちに評定衆の1人となり、御成敗式目づくりにも加わった。

加藤景廉(1156~1221)

以前のマンガにも登場

もともとは伊勢(三重県)の武士。

平氏との抗争に敗れ、伊豆に移る。

1170年の伊豆諸島の源為朝征伐に加わり、自害した為朝の首を斬った。

源頼朝の挙兵に従い、山木兼隆を討ち取った。

『源平盛衰記』では、「殊更きりもなき剛の者、そばひらみずの猪武者」と書かれている。

一方で病気がちであったようで、今回のマンガでも病気に苦しみながらも

九州にわたっている。

工藤祐経(1147?~1193)

はじめ平重盛に仕えた。歌舞音曲に通じ、「工藤一臈」と呼ばれた。

※「一臈(いちろう)」とは、 舞楽で、舞人の前列に立つ第一の人。

(のちに平重衡(重盛の弟)が鎌倉に連れてこられた際は今様を歌い、

静御前が舞を舞った際は鼓を打っている。

一方で武の方面の才能はなかったようで、

一条忠頼暗殺の際は暗殺役を任せられたが顔色を悪くして果たせなかった。)

しかし京都にいる間に後見人であった義理の叔父、

伊藤祐親伊豆の領地だけでなく、妻までも奪われて妻は別の人と結婚させられてしまう。

深く恨んだ祐経は、1176年、伊藤祐親を襲ったが、取り逃がした。

しかしこの時、伊藤祐親の長男、祐泰が殺された。

祐泰の妻は子ども2人を連れて曽我祐信と再婚する。

1193年、富士の巻狩りの際に、祐泰の子ども2人(曽我兄弟)に襲われて殺された。

曽我兄弟の兄(祐成)はこの際に討ち死にしたが、弟(時致)は捕らえられて生き残った。

頼朝は弟の命は助けようとしたが、

工藤祐経の子どもが泣いて訴えたためあきらめた。

この子どもは伊東氏をついで伊東祐時となり、子孫は日向(宮崎県)の戦国大名伊東氏となった。

工藤祐茂

祐経の弟。伊豆宇佐美荘を受け継ぎ、宇佐美祐茂と名乗る。

上杉謙信に仕えた宇佐美定満は子孫。

天野遠景

工藤氏の一族。

伊豆に流罪となったやってきた源頼朝と早くから交流があり、

狩りや相撲などで親交を深めた。

1184年の一条忠頼暗殺では、天野遠景が暗殺を実行した。

その際、一条忠頼の家来の山村小太郎が主人の仇と襲ってきたが、

遠景は小太郎をまな板(!)でたたき、

小太郎は縁の下に転落、そこを遠景の家来が首をとった。

平家滅亡後は、九州をまとめる九州惣追捕使に任じられる。

頼朝が死んだときに出家しているが、

頼朝の信頼をもとに出世した人物であったためか、頼朝死後は不遇であった。

一品坊(いっぽんぼう)昌寛(しょうかん)

事務方として頼朝を支える。

娘が源頼家と結婚し、3男栄実・4男禅暁(どちらも悲劇的な死を遂げた)を産んでいる。

土佐坊昌俊

血気盛んな興福寺の僧兵(ヤンキー・不良・ヤクザ・暴力団お坊さん)で、

大和(奈良県)の荘園の代官を殺したため、

たまたま京都にいた土肥実平にあずけられ、

土肥実平が関東に帰るのと一緒に関東に出向き、頼朝に仕える。

1185年、源義経を襲うが返り討ちにあい、捕らえられて殺された。

小野寺道綱(?~1221)

下野(栃木県)小野寺邑の武士。

奥州合戦で出羽の雄勝郡の地頭となる。

1221年、承久の乱宇治川の戦いで戦死した。

子孫は出羽の戦国大名小野寺氏。


〇九州上陸

源範頼豊後(大分県)に上陸する。

先頭になって上陸したのは、

北条義時下河辺行平渋谷重国品川清実たちであった。

品川清実…?( ^ω^)

さっきの豊後に渡ったメンバー表にいなかったんですが…?😱コワイ!

品川清実は品川郷や品川湊を持つ武蔵の武士。

渋谷はあの渋谷で品川もあの品川。

豊後の武士を味方につけた範頼は福岡に向けて北上する。

そして2月1日、葦屋浦(福岡県芦屋町)で源氏と平氏は激突する。

平家方の原田種直(1140~1213)・駕摩種益親子が

戦いを挑んできたが、渋谷重国下河辺行平たちが奮戦してこれを撃退し、

下河辺行平は原田種直の弟、美気敦種を討ち取った。

原田種直は平家滅亡後、領地を没収されたが、

1190年に許され、筑後(福岡県)の怡土(いと)庄の地頭になった。

子孫は原田氏・秋月氏・高橋氏などに分かれ、戦国時代に活躍した。


2022年7月29日金曜日

思いやりの深い原敬(2)

 「ふだん着の原敬」2回目です😊

2つ目は、私が「ふだん着の原敬」を読んでいてグッときた😭エピソードを紹介しようと思います。

※マンガの後に補足・解説の文章を載せています💦



〇船成金・内田信也

名前の読みは「のぶや」ですが、実際は「のぶなり」です。

前の福井県知事の西川一誠(いっせい)さんが、本当は「かずみ」なのと似たようなものですかね(;^_^A

内田信也は、1914年に船の会社を設立、

同じ年に始まった第一次世界大戦で日本の輸出が激増し(大戦景気)

船不足になって船賃が急激に上昇し、

内田信也は短期間で大富豪になります(これを成金という)。

内田信也の賢いところは、第一次世界大戦が終わったとみるや、

すぐに船を売り払い、会社もゆずり渡したことです。

大戦景気が終了し、一気に仕事は減り、

いろんな会社が広げすぎた仕事が負担となってつぶれていきましたが、

内田信也は戦後不況を切り抜けることができました。

(※内田信也や、成金のことについては面白いエピソードがたくさんあるので、

また別の機会にマンガで紹介しようと思います😝)

そのあと、内田信也は政治家になることを志します。

そこで、豊富な資金を使って、政治家に対し接待大作戦に出ます。

またある時は原敬の立憲政友会と対立する憲政会という政党の党首、加藤高明に、

選挙費用として使ってくださいと5万円を渡します(あれ?)

なんだよ5万円かよ少ねぇな、ではなく、

当時(大正時代)の1円は今の4000円の価値があったので、

5万円というのは、今の2億円(!)です😱

これに対し加藤高明はお礼状を送りますが、

このお礼状の内容を内田信也はバラしてしまいます(あわわ)。

その中に、5万円のことを「珍品5個」と書いていたので、

当時、「珍品5個問題」と大問題になったそうです(;^_^A

これは加藤高明のイメージを悪くするためにおこなった内田信也の作戦であったようです💦

その後内田信也は1924年に衆議院議員に当選、

1934年には岡田啓介のもとで鉄道大臣宮城県知事をはさんで、

1944年に東条英機のもとで農商務大臣戦後は公職追放にあったものの、

解除後は再び衆議院議員に当選、

1953年、吉田茂のもとで農林大臣も務めています。

そして1971年、90歳の高齢でなくなります。

2022年7月27日水曜日

思いやりの深い原敬(1)

日本で初の本格的な政党内閣を作った男、原敬(1856~1921)。

教科書で学んだだけでは、そのイメージしか持てないと思います。

しかし、実際はとてもすごい人で、

日本の優れた大政治家と評価されている人物なのです😖

優れた大政治家と言えば、大久保利通・伊藤博文・桂太郎・吉田茂が思い浮かびますが、

私も原敬は十分にその中に入る偉大な人物であると思います。

原敬は27歳の時、13歳年下の(つまり14歳の)貞子(1869~1919)と結婚します。

しかしこの貞子は大変な女性であったそうで、

一切家事はせず、勝手に温泉旅行に出かけ、しまいには別の男と不倫をして、出産までしてしまったそうです😰

原敬はこのことを知り、堪忍袋の緒が切れ、貞子と離婚します(1905年)。

が、原敬は妻が不倫相手の間に産んだ子ども(女の子だった。貞子の弟が引き取る)に、金銭的な援助をし続けたそうです。

原敬はその後、(1871~1923年)と再婚します(1908年)。

原敬は姪の子である(1902~1983、奎一郎はペンネーム)が生まれたときに引き取って育てていたが、

原敬は貞子との間にも、浅との間にも子どもが生まれなかったので、

貢が小学校3年生になったとき、正式に養子とした。

原貢は、後に原敬との思い出を一冊の本にまとめた。

「ふだん着の原敬」がそれです📗

これから何回か、この本を読んで印象に残ったエピソードをマンガにして紹介したいと思いますm(__)m

2022年7月26日火曜日

ヤバすぎる武士、源光国

 基本的に武士はヤバです。

武士はヤンキーで、不良で、ヤクザで、武士団は暴力団だと思います😓

武士が暴れたエピソードは数え切れません。

その中で特にヤバい一人、土岐氏の祖先である源光国の紹介です!

※マンガの後に補足・解説の文章を載せました😆



〇ダンキラ!?

「源光国」と検索すると、

なんかイケメンの画像が出てきます。

「何…?😥」と思ったら、

2019~2020年にKONAMIにより配信されたモバイルゲーム、

ダンキラ !!!-Boys, be DANCING!」に「源光国」という人物が登場するんですね😲

ピクシブ百科事典によれば、

どこまでもアツい!熱血大和ダンサー

絶対に諦めない熱血根性を持つ大和男子。

実家は源覚心流武術の道場で自らも師範代を務めるほどの実力。

おぼろとゆかりとは同門で毎日共に稽古に励んでいる。

底なしの体力とキレのある身のこなしを武器に力強く舞い踊る。』

…という人物だそうです😌

名前が源光国と一緒ですが、なにかあるんでしょうかね😕


不良の父、息子

源光国の父親、源国房(?~1119)もなかなかやばい人物であります(;^_^A

国房はあの源頼光の長男、源頼国の6男にあたりますからすごい人です。

頼国は美濃守ですから、頼国の一族は美濃(岐阜県)が勢力範囲の1つだったのでしょう(本拠地は摂津(大阪府・兵庫県))。

(源頼光も美濃守、その父の満仲も美濃守の経験あり)

頼国の長男、頼弘はパッとせずに出家。

2男の頼資(よりすけ)は国司の館を焼いて佐渡に流罪となったヤンチャな兄。

3男の頼実(よりざね)は歌を詠むことにはまり、30歳で若くして亡くなる。

4男の実国(さねくに)(1020~?)はがんばったほうで、摂津に新たな荘園(生島庄)を開発した。子孫には天台座主(天台宗で一番えらい役職)となった人物も存在する。

5男の頼綱(1025~1097)は5男でありながらも頼光→頼国と受け継がれてきた本拠地の摂津にある多田荘を受け継いだ

娘を天皇や藤原氏と結婚させることも積極的に行っている。

頼綱の二男の息子が、あの源頼政(1104~1180)😖

6男が光国の父の国房で、兄の頼綱の養子?にもなっているようです。

頼綱が摂津を受け継いで、弟の国房は美濃のほうを受け継いだのでしょう。

国房が自分のものとしていたのが美濃の鶉郷(うずらごう)です。

国房は東大寺から、鶉郷の近くにある茜部荘の管理も任されますが、

鶉郷と接するあたりの茜部荘の土地を鶉郷にこっそり横取りしていたことがばれ、

怒った東大寺から茜部の管理を任されなくなります。

お父ちゃんなかなかやりますな(;^_^A アセアセ・・・

そしてその子どもが源光国(1063~1148)ですが、

父の国房はけっこう長生きしたようで、光国が56歳の時まで生きています😧

父が美濃でがんばって?いるときに光国は検非違使となって京都にいました。

1094年、38歳の時に京都で火災が起き、

マンガで描いたように元天台座主の人の館を家来が襲っています💦

1110年、47歳の時に出羽寒河江荘で乱暴を行い、勝手に美濃に帰るという事件を起こしています(;^_^A アセアセ・・・

なんかあったんでしょうか??

オモシロ半分でやっていたならマジでヤバい人ですが…(;^_^A 

その後1117年・1124年と2度にわたって鶉郷の住人たちが茜部荘の土地や税を奪い取る事件が起きました💦

光国は訴えられますが、

「鶉郷の住人が茜部荘に侵入したことはないし、そもそも俺は京都にいるから美濃のことは知らん!」と開き直ります😓

まぁたぶん乱暴は事実で、こうやって少しずつなし崩し的に勢力範囲を広げていったのでしょう。

光国は1148年、85歳まで長生きをしてなくなりました。

2022年7月24日日曜日

「馬で海を渡った男」佐々木盛綱

 7月24日の「鎌倉殿の13人」もおもしろかったですね💦

梶原景時を失って、どんどんカオスになっていきそうな感じですね…😰


さて、今回は佐々木四兄弟の3番目、以前にマンガでも登場した

佐々木三郎盛綱(1151~?)のお話です!

※マンガの後に補足・解説の文章を載せています。



藤戸の戦い

1184年12月、一の谷の戦いで平氏を破った源氏は、

九州・四国に残る平氏と戦っていた🔥

佐々木盛綱佐々木四兄弟の3番目。早くから頼朝に仕えて信頼も厚かった)源頼朝からもらった葦毛の馬に乗って九州に向かう途中、

備前の国(岡山)の児島平行盛(平清盛の二男の長男)が城を築き、

源氏方の食糧の補給路を攻撃してきていることを知りこれと戦うことに決める。

マンガでも書いたが、児島は当時は本当に島だった。

日本神話でも、イザナギイザナミ

淡路島ー四国ー隠岐の島ー九州ー壱岐の島ー対馬ー佐渡島ー本州

…をまず大八島(おおやしま)として産み、

次に児島ー小豆島(香川)ー屋代島(山口)ー姫島(大分)ー五島列島(長崎)ー男女群島(長崎にある無人島)

…の島々を産んだとされているが、ここに児島が入っている。

児島の干拓は奈良時代から少しずつ進められており、

1618年の岡山藩の夜干拓によって陸続きになったのだという😲


にもなった藤戸の戦い

マンガで出てきた、かわいそうな道を教えた男(漁師)であるが、

この話は「吾妻鏡」には出てこない。

「平家物語」に出てくる。また、地元に伝わっていて地名に残っている。

「吾妻鏡」だけを見ていると「海をわたったの!?すげぇ😱」

となるのだが、「平家物語」などに出てくる話のほうが信ぴょう性がある。

干拓もされるくらいだから、馬で通れるような浅瀬もあったのだろうし。

藤戸の戦いは「能」でも演じられており、

そのあらすじは、

『児島の領主となって戻ってきた佐々木盛綱。

そこに殺された男の母親が、わが子を殺したとつめよってくる。

最初は否定していた盛綱だが、ついに殺害を告白する。

それを聞いた母親は半狂乱となり、自分も殺せ、わが子を返せ、と暴れる。

困った盛綱は供養をするから、と言って帰らせる。

供養を行った盛綱の前に、男の亡霊が現れる。

亡霊は、水神となって刀で刺し殺されたうらみを晴らそうと思ったのだが、

意外にも盛綱が供養をしてくれたことに対して、感謝の言葉を述べ、成仏する』

…というもの。

殺された男の人、優しすぎでしょう😢

母親も嘆き悲しんでいるのに…💦

藤戸の戦いに関連する地名

乗り出し岩

乗り出し岩…この場所から盛綱が海に乗り出したとされる。少し離れたところに「乗り出し橋」がある。

先陣庵」…盛綱が島に上陸した場所とされる。ヤフー地図を使って「乗り出し岩」~「先陣庵」の距離を計測してみると、約2kmある。約300メートルどころじゃないよ!?😱

盛綱橋

少し離れたところに「先陣橋」がある。

藤戸寺」…行基が建てたとされる。

盛綱が戦乱で荒れ果てていた藤戸寺を修復したという。近くに「盛綱橋」がある。


笹無山

笹無山」…現在は母親の恨みも晴れたのか、笹が生えているそうです。


2022年7月22日金曜日

土岐康行の乱(1388~1390年)

 突然ですが、室町時代美濃(岐阜県南部)って、カオスすぎると思います😅

斎藤道三がらみで土岐氏を調べてたら強くそれを感じました(;^_^A アセアセ・・・

マジデヤバイマジデヤバイ…😫

では、その始まりをいちおう、土岐康行の乱に設定して、

「カオスすぎる室町時代の美濃」第1回のマンガにいってみようと思います😓

※マンガの後に補足・解説の文章を載せました💦

土岐氏とは

土岐氏は源頼光の子孫で、源氏の出身という立派すぎる家柄の一族です!

源頼光(948年~1021年)といえば酒呑童子や土蜘蛛退治

家来の頼光四天王(渡辺綱・坂田金時[あの金太郎!]・碓井貞光・卜部季武)

めちゃくちゃ有名ですよね🌟

しかも頼光は源氏の長男で、当時の源氏の本拠地だった摂津(兵庫・大阪)を

父から受け継いでいる、源氏のメイン中のメインなんです!!

しかし、その後活躍したのは、三男の頼信(968~1048年)の家系でした💦

頼信は名前だけで朝廷が手を焼いていた平忠常を降伏させた男、

その子の頼義(988~1075年)前九年の役を治めた男、

その子の義家(1039~1106年)は説明不要の八幡太郎

その子義親の子(為義)の子義朝の子が、あの源頼朝です!

…どうしてこんなに差がついたのか…(;^_^A アセアセ・・・

源頼光の子の頼国(?~1058?)は武士的な活躍はほとんどなく、

戦争で華々しく活躍する頼信の一族に比べ影が薄くなっていきます。

その子の国房は美濃の土地をめぐって源義家と合戦するなど、荒々しさを取り戻します。

その子の光国(1063~1148年)はかなりのヤンキー(不良)で、

検非違使(京都の警察)となったとき京都で火事が発生し、

そこで家来が強盗を行いました😱

のちに東北の出羽(秋田・山形)を担当する出羽守となり、

出羽に行きますが、藤原氏の荘園に乱暴を働いた上に勝手に美濃に帰るというトンデモ事件を起こしています(◎_◎;)

さらに美濃に帰った後も東大寺美濃にある荘園を荒らしまくっていました。

なんという不良。なんというヤンキー。なんという暴力団。

…というか武士って、基本不良でヤンキーで暴力団でヤクザなんですよねぇ。。😓

その子の光信(1093?~1145年)もなかなかで源為義と合戦を起こしたり、

死んだはずの源義親を名乗る男が光信の家の前で別の義親を名乗る男と合戦をするというカオスが発生し、

ブチギレた光信は関白の藤原忠実の屋敷に逃げこんだ義親を名乗る男を追って

藤原忠実の屋敷に突入、義親を名乗る男とその家来十数人を殺害します。

やりすぎた光信はあわれ?土佐(高知)へ流罪となりました。

その後京都に戻れたものの、暴れん坊の父より先に亡くなります。

その子の光長(?~1184年)は兄弟の中で美濃の土岐郡(地図中の赤い部分。多治見市の一部・土岐市・瑞浪市の大部分)を受け継ぎ、

はじめて土岐氏を名乗ります。

光長は以仁王の乱の際は平家に従って以仁王の逮捕に向かいますが、

その後美濃で平家に対する反乱を起こし、敗北して城を失います。

それから木曽義仲がやってくると味方して平家を破り京都に入って伯耆守になりますが、

やがて義仲を裏切り後白河天皇側についたので、

怒った義仲に攻められて殺されてしまいます😰

その後、土岐氏は光衡(1159~1206年)、光行(?~1249年)、光定(?~1281年)、頼貞(1271~1339年)と受け継がれていきます。

頼貞の時、後醍醐天皇が幕府を倒すための動きを見せ、

これに頼貞の十男の頼兼を含む土岐氏が多く加わりますが、

土岐一族の頼員が計画をもらしてしまっため、

六波羅探題の攻撃を受けて頼兼や土岐一族の多治見国長など多くが戦死するということになりました。

「太平記」ではこの時、頼貞も戦死したことになっているのですが、

実際は死んでおらず、その後も足利尊氏に味方して活躍し、

美濃守護に任命されています。

頼貞の後はバサラ大名として有名な土岐頼遠が跡を継ぐのですが、

頼遠はあの有名なDQNな行動をとり、処刑されてしまいます。

その後は頼貞の孫の頼康(1318~1388年)が美濃守護となります。

頼康は対立する土岐氏一族や斎藤氏などの豪族をおさえて美濃を一つにまとめ、

まとまった軍隊で各地で活躍し続け、

1351年に美濃に加えて尾張の守護に任命されます。

1360年にはさらに伊勢守護にも任命され、土岐氏の最盛期を築き上げます。

1379年には対立していた管領細川頼之を、斯波義将・佐々木高秀たちと協力して追放することにも成功するなど、

土岐氏の力はかなりのものになっていました。

これが足利義満に警戒されることにつながるんですね😓

そして1388年の頼康の死が、土岐康行の乱へとつながり、

土岐氏の弱体化、

そして長く、互いに争いあう美濃のカオス状態を生み出していくことになるのです…😱

2022年7月20日水曜日

世界の国々のビックリ!(◎_◎;)な正式名称①

 ふだん聞きなれている国名

でもその正式名称を知ると「え!」ってビックリします(◎_◎;)

今回からは何回か、「世界の国々のビックリな正式名称」について

やっていこうと思います!😄

※マンガの後に補足の文章を載せました💦




「大日本帝国憲法」…は、「だいにっぽんていこくけんぽう」とフリガナがある本が多く、

「日本国憲法」…は、「にほんこくけんぽう」とフリガナがある本が多いですね。

wikipediaでは「だいにほんていこくけんぽう・だいにっぽんていこくけんぽう」、

「にほんこくけんぽう」・「にっぽんこくけんぽう」と併記されているんですが(;^_^A アセアセ・・・

広辞苑では「だいにっぽんていこくけんぽう」で「にほんこくけんぽう」ですね。

https://style.nikkei.com/article/DGXBZO37629750Y1A221C1000000/ では、

内閣法制局へ質問をし、

「よく聞かれるのですが、読み方については特に規定していません。ニッポンでもニホンでも構わない、というのが実情です」

と回答を得ておられます💦

でもまぁ「日本海」「日本海流」「日本海溝」とかが

「にほん」なので、

「二ホン」読みが優勢勝ちなのではないかと(;^_^A 

「日本書紀」も「にほんしょき」って読みますもんねぇ…。

(※上記のサイトでは『「二ホン」を第一とし、「ニッポン」を第二とするもの』

として、「日本銀行」を挙げておられるが、

日本銀行の公式サイトhttps://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/j02.htm/の「教えて!にちぎん」のコーナーで、

「日本銀行」の読み方については、法律などで「○○と読む」と決められている訳ではなく、また、日本の国名を「ニッポン」と読むか、あるいは「ニホン」と読むのかという問題に似て、二者択一的に決めるのは難しいところです。ただ、お札の裏に「NIPPON GINKO」と印刷してあることもあって、日本銀行では「ニッポンギンコウ」と呼ぶようにしております。

と回答があるので、「にっぽんぎんこう」が正しいのではないだろうか??

でも、広辞苑や旺文社の国語辞典などでは「にほんぎんこう」で出てくる…💦

明鏡国語辞典では「にっぽんぎんこう」。うーむ。

まぁ、日本銀行の方が言ってるんだし…😓)


2022年7月19日火曜日

<6>1973年10月9・10日~値上げラッシュ

 お待たせしました!😅

「50年前の物価上昇~ドキュメント石油危機」6回目です!

2022年6月の物価上昇率は2.1%(2021年6月~2022年6月の1年間で物価は2.1%上昇したということ)(前月との比較だと0.1%の上昇)(生鮮食品除く、東京都区部。)

でしたが、マンガで現在紹介している1973年10月は、12.5%(❕)(前月との比較+1.2%)の上昇でした!

つまり1年間で12.5%も上がっていたんですね💦

ハンパないって!😱

※マンガの下に新聞記事の補足を載せました💦

[サッポロビール🍺門脇社長の話]

最近、諸物価の高騰で人件費、麦芽など原材料、運送費などが大幅に上昇、また、卸売、小売業者からのマージン増加要求も強く、やむを得ず値上げした。ビールは国民飲料であり、できるだけ消費者に負担をかけないで合理化に努力してきたが、それも限界にきた。

(福井新聞縮刷版1973年10月上 10月9日)


2022年7月17日日曜日

吾妻鏡マンガ⑧「正義感の強い男」栄光

 7月17日、今日の鎌倉殿の13人から新章が始まりましたね~💦

仁田忠常も13人のうちの1人かと思ってました(不勉強でごめんなさい)😓

「佐々木のじいさんはどうだ?」「もう死んでます」で出てきた

「佐々木のじいさん」こと佐々木秀義(1112~1184年)は、

(今回の話の16年前にはすでに死んでいる…💦

平氏と戦い、奮戦して討ち死に)

今回のマンガに出てくる佐々木盛綱の父親ですね。

佐々木盛綱は、1166年の時から源頼朝に仕えているので

側近中の側近ですね😕

加藤景廉とは仲が良かったのか、

山木兼隆の館に2人して攻め入り、その首をとっています。

以前のマンガで紹介しましたが、

加藤景廉が酔いつぶれた時も介抱をしています😅

その後平氏との戦いに活躍した後、

城資盛の反乱(建仁の乱)でも大きな手柄をあげています。

2022年7月16日土曜日

「四国の水がめ」早明浦ダムの貯水率と降水量の推移(2022年6月1日~7月15日)

 
中国山地四国山地にはさまれた瀬戸内地方は、夏も冬も季節風がさえぎられ、雨が少なくなるので、水不足になりやすい

[過去の吉野川の渇水状況]取水制限は香川用水

1977年→8月10日~9月7日 15%未満の取水制限

1982年→7月3日~7月23日 25~35%の取水制限

1983年→8月5日~9月28日 25~45%の取水制限

1984年→10月30日~3月11日 15%未満~35%の取水制限

1986年→8月22日~8月29日 25~35%の取水制限

1988年→2月27日~4月8日 15%~25%の取水制限

     8月12日~8月27日 25~35%の取水制限

     11月20日~2月19日 15%未満~35%の取水制限

1990年→8月3日~8月24日 25~65%の取水制限

1992年→7月30日~8月7日 15%未満~35%の取水制限

1994年→6月29日~9月14日 25%~75%以上の取水制限

1995年→3月13日~4月28日 15%未満の取水制限

     8月28日~10月23日 15%未満~55%の取水制限 

     12月8日~5月21日 15%未満~35%の取水制限

1996年→9月30日~12月5日 15~25%の取水制限

1998年→8月30日~9月21日 15%未満~55%の取水制限

1999年→2月7日~4月12日 15~25%の取水制限

2000年→7月24日~7月31日 15~25%の取水制限

2001年→6月17日~9月11日 15~45%の取水制限

2002年→6月21日~7月7日 15~25%の取水制限

2005年→6月15日~9月6日 15%~75%以上の取水制限

2007年→5月24日~7月14日 5%~75%以上の取水制限

2008年→7月25日~11月25日 5%~75%以上の取水制限

2009年→6月3日~8月10日 5%~75%以上の取水制限

     9月12日~11月18日 5%~75%以上の取水制限

2012年→6月15日~6月19日 5%~75%以上の取水制限

2013年→8月2日~9月4日 5%~75%以上の取水制限

2014年→7月6日~7月10日 15~25%の取水制限

2016年→8月9日~9月21日 5%~75%以上の取水制限

2017年→6月17日~9月18日 5%~75%以上の取水制限

2018年→8月12日~8月20日 5%~75%以上の取水制限

2019年→4月25日~6月28日 5%~75%以上の取水制限

今年に入っても、

2月5日 68.4% 9時~自主節水開始(徳島工業用水4.0m3/s削減)

2月17日 61.0% 14時:吉野川本部渇水対策本部の設置

2月18日 60.4%

9時~第一次取水制限 (徳島・香川新規用水20%削減[徳島

全体17.4%・香川20%])

3月19日 42.6% 9時~第一次取水制限の一時的解除

3月20日 43.2% 17時~第一次取水制限の再開

3月27日 47.6% 13時~第一次取水制限の一時的解除

3月29日 49.1% 17時~第一次取水制限の再開

5月13日 49.0% 14時~第一次取水制限の一時的解除

5月14日 51.2% 17時~第一次取水制限の再開

6月5日 48.4%

9時~第二次取水制限 (徳島・香川新規用水35%削減[徳島全体17.4%・香川35%])

7月2日 31.0%

9時~第三次取水制限 (徳島・香川新規用水50%削減[徳島全体18.2%・香川50%])

7月5日 35.1% 9時~第三次取水制限の一時的解除

7月7日 49.9% 17時~第二次取水制限の再開 

以上のように水不足に強く悩まされている。

1994年には早明浦ダムは貯水率が0%になったことがあり、

それと比べればまだいいほうではあるのだが、

取水制限を毎年のように強いられる暮らしというのは大変だ。

<早明浦ダムの位置>


2022年7月15日金曜日

地価が不思議なところ(4)~茨城県守谷市、神奈川県川崎市、山梨県上野原市の場合~

 「不思議な地価」シリーズの4回目です!

めっちゃ久しぶりになりました💦

みつるの描き方を忘れかけていました(;^_^A アセアセ・・・

ていうか、みつるの大事なパーツの「むなげ」を描き忘れるという大失態…😱(後で書き加えました…)

さて、今回は茨城県守谷市神奈川県川崎市山梨県上野原市

不思議な地価についての問題!!

1ページ目に問題2ページ目の上半分に大ヒント

2ページ目の下半分に答えがありますが、

ヒント無しで答えにたどり着けるとすばらしいですね!😄

では、どうぞ!☆




2022年7月14日木曜日

犬の値段を爆上げさせた!?~東京をパニックに陥れた「説教強盗」事件~

 戦争が起こる前の昭和時代に、大きな強盗事件がいくつか起こっている。

拳銃を使って銀行強盗を行い、自動車を使って逃走した

「赤色ギャング事件」(1932年)は

アメリカの強盗事件そっくりだと世の中をびっくりさせたが、😨

同じように世の中をビックリさせたのが「説教強盗」事件。

なんと5000円札にもなった新渡戸稲造も説教強盗の被害にあったらしい😰

(下のマンガの後に事件についての話を載せています)



やり方をまねた模倣犯も多数登場し、東京はパニックになった。

防犯のため犬を飼う家が急増し、犬の値段が高騰したという💦

当時の望月圭介という大臣は、国会で「かの強盗は…」としゃべったとき、

「強盗」を「きょうとう」と読んで笑われたという😓

犯人は現場に残した指紋から捕まり、1948年まで刑務所に入れられた(1947年に模範囚として表彰を受けている)。

刑務所から出た後は、各地で防犯についての講演会を行ったという。

1989年に、88歳で亡くなっている。

1975年に行われた雑誌の対談では、

三億円事件はオレの仕事だといったやつがいる(笑)。

とんでもない。わたしみたいなプロには、あんな仕事はできない。

ヤバクて、やらないよ。

(犯人はたぶん)シロウトの単独犯行。

わたしは、あの3億円は、前の晩にとられていたと思うね。

(銀行の)かなり上のものがやったんじゃないかという気がする。」

(「週刊ポスト」昭和50年4月11日号)

と三億円事件にも触れている。

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