今日の「鎌倉殿の13人」も面白かったですね!
阿野全成に死亡フラグがすごいたっていますけど…💦
今回、三浦義村の父、三浦義澄が亡くなりましたが😥
(梶原景時が死んでから3日後に病死)、
その義澄が出てくる漫画を描きました。どうぞ!😛
※マンガの後に補足・解説の文章を載せています。
〇苦戦する源範頼
1184年2月、一の谷の戦いで平氏を破った源氏は、
そのまま逃げる平氏を追って中国地方や四国地方に進んでいく。
1184年8月8日、
源範頼(頼朝の弟)は平家追討使となって、中国地方に向かうために鎌倉を出発した。
8月27日、京都に到着し、9月1日、京都を出発した。
10月12日、範頼は安芸(広島県)で戦いに活躍した地元の武士、山方為綱に特に多くのほうびを与えている。
しかしそこから範頼はほとんど進めなくなる。
鎌倉から遠い中国地方に来て食料が不足したことに加えて、
前回のマンガで出てきた平行盛が児島(岡山県)から源氏の食料の輸送隊を
おそったりして、食料の不足が深刻さを増していたからだった。
腹が減っては戦はできぬ!😱
範頼は11月14日に、頼朝にあてた手紙に、
『食料が足りないので、武士たちの半分以上が鎌倉に帰りたいと思っている』
と書いている。
頼朝はそれに対して、
『佐々木盛綱が児島のことは片づけた。
食料を多く持って出発したわけではないから食料不足にもなるだろう。
送ることにする。
しかし、武士たちが自分勝手にしてるのはけしからん。
武士たちがあーだこーだ言ってきても気にする必要はない。
わかったわかった、というふりをするだけでよい。
それから、千葉常胤は名高いものであるから、大事にしなさい
また、小山氏の者たちも、大事にしなさい』
と返事した。
1185年1月12日、
範頼はなんとか長門(山口県)の赤間関(下関)に到着して、九州に渡ろうとしたが、
兵糧もなく、船もないので、またストップした😓
和田義盛ですら鎌倉に帰ろうと思っていたという。
そこに、豊後(大分県)の臼杵兄弟が源氏に味方する、
との情報が入ったので、範頼は周防に戻って臼杵兄弟を待った。
1月26日、臼杵兄弟は82(!)もの船をもって参上した。
また、周防の武士、宇佐那木遠隆が食料を持ってきた。
食料と船がそろったので、範頼はついに九州にわたることにする。
〇海を渡った武士たち
源範頼とともに海を渡ったのは、
①北条義時 ※「13人」の1人
説明いらないですね😅
②足利義兼(1154?~1199)
父は新田義重の弟、足利義康(1127~1157)。
子孫にあの足利尊氏がいる。
③小山朝政(1155?~1238)
平将門を討伐した藤原秀郷の子孫という。
下野(栃木県)に大きな勢力を持つ武士。
④小山宗政(1162~1241)
長沼宗政とも。朝政の弟。皆川氏の祖先。
⑤小山朝光(1168~1254)
朝政の弟。結城朝光とも。
早くから頼朝に従い、その際に頼朝が烏帽子親となって元服した。
1181年、頼朝の寝るところを守る11人に選ばれるなど、
頼朝からは非常に信頼されていた。
⑥武田有義(?~1200?)
武田信義の子。平重盛に仕えていた。
頼朝に味方した際に、京都にいた妻や子どもは殺害されてしまう。
⑦中原親能(1143~1209)※「13人」の1人
京都の下っ端貴族。頼朝と仲が良く、頼朝が挙兵した際は
館を平氏に襲われるが、すでに逃走した後だった。
その後、頼朝の側近として政治関係に大活躍し、
1184年には源範頼の参謀となって活躍している。
⑧千葉常胤(1118~1201)
下総(千葉県など)の大豪族。
1156年の保元の乱の際に源義朝(頼朝の父)と共に戦う。
頼朝に鎌倉を本拠地にするように勧めた。
⑨千葉常秀
千葉常胤の孫。のちに上総(千葉県南部)にも領地を広げた。
⑩下河辺行平
吾妻鏡マンガ4「意外な物を欲しがった男」下河辺行平 にも登場。
小山氏の一族。下総のでっぱり部分にある下河辺荘の領主。
小山氏と共に早くから頼朝に従う。
結城朝光と共に頼朝の寝るところを守る11人に選ばれるなど信頼が厚かった。
⑪下河辺政能
行平の弟。
頼朝の鹿狩りや江の島遊覧にも付き従うなど側近として信頼され、
1184年に常陸(茨城県)の南部を領地として与えられた。
子孫に「鬼平」長谷川平蔵がいる。
⑫浅沼広綱
足利有綱の4男。阿曽沼広綱とも。
足利有綱はあの足利氏とは違い、藤原秀郷を祖先に持つ足利氏(ややこしい😓)。
兄の足利俊綱は頼朝に反抗したが敗れ、藤原氏系足利氏は滅亡した。
足利有綱は頼朝に味方して兄を倒している。
足利有綱は下野(栃木県)にある東大寺の土地、戸矢子(へやこ)保を管理していたので、
戸矢子有綱を名乗った。
浅沼(阿曽沼)広綱は下野にある阿曽沼郷を領地としていた。
後に頼朝の奥州藤原氏征伐に参加して活躍し、閉伊郡遠野(岩手県)を与えられた。
⑬三浦義澄(1127~1200)※「13人」の1人
相模(神奈川県)にある三浦半島の豪族。
1159年の平治の乱では「悪源太」源義平(頼朝の兄)に従って戦うが敗北。
頼朝の挙兵時から従い、活躍をつづけ、13人の合議制の1人となった。
梶原景時追放に参加し、景時が死んだ3日後に病死した。
⑭三浦義村(1168?~1239)
義澄の子。
源範頼に従って中国地方に向かったのが初陣といわれる。
後にいろいろと暗躍する。
⑮八田知家(1142~1218)※「13人」の1人
下野(栃木県)の豪族、宇都宮宗綱の4男。
常陸(茨城県)に小田城を築き、小田氏の祖先となった。
1156年の保元の乱で源義朝について戦った。
頼朝の挙兵にも早くから従っている。
⑯八田知重(1164~1219)
知家の子。小田知重とも。
源実朝暗殺に巻き込まれて死亡した。
⑰葛西清重(1161?~1238?)
下総の葛西御厨を領地とする。
佐竹討伐の後、帰る途中の頼朝を館でもてなし、
なんと自らの妻や娘を提供した😱
これに頼朝は感激し、武蔵(埼玉県)に土地を与えたうえに、
頼朝の寝るところを守る11人のメンバーの1人までにした。
後に奥州藤原氏征伐で大活躍をし、
東北地方に多くの土地(伊沢・磐井・牡鹿郡など)を与えられた上に奥州総奉行とされ、
(※文治5年[1189年]9月22日、『陸奥國の御家人の事、葛西三郎淸重 之を奉行可し。參仕之輩者、淸重に属し子細を啓す可し』…陸奥の御家人は葛西清重がとりまとめよ。陸奥の御家人はすべて清重を通して事情を話すようにせよ、とある)
陸奥(青森。岩手・宮城・福島県)の管理を任せられた。
(なんという信頼の厚さ!!😱)
⑱渋谷重国
秩父氏の一族。現在の渋谷周辺を領地とする。
当初は平家方につき石橋山の戦いで頼朝を破るが、後に頼朝に従った。
⑲渋谷高重(?~1213)
重国の2男。
頼朝から忠誠心と人柄を評価されて年貢を免除された。
源義仲との戦いでその家来、今井兼平の兄、樋口兼光を斬る。
戦いで負傷していたため片手で斬ったという。
後に和田合戦で和田氏について死亡した。
⑳比企朝宗
比企氏の一族。
北陸を管理する北陸道勧農使となり、北陸各地に土地を得る。
娘は北条義時と結婚した。
比企氏滅亡の前に病死か。
㉑比企能員(?~1203)※「13人」の1人
頼朝の乳母を母がつとめた関係で、頼朝から厚く信頼を得る。
奥州合戦の際は北陸道大将軍となった。
娘が頼家と結婚し男子(一幡)を産み、外戚として権力を高める。
北条氏と権力争いを繰り広げ、1203年、北条氏により殺される。
㉒和田義盛(1147~1213)※「13人」の1人
三浦義澄の父、三浦義明の孫として生まれる。
早くから頼朝に従い、
1180年11月、武士を取りまとめる侍所の初代別当(長官)となった。
㉓和田宗実
義盛の弟。途中の兄に以前のマンガで登場した和田義茂がいる。
戦いで活躍し、越後(新潟県)の奥山荘の地頭となった。
㉔和田義胤
義盛兄弟は、義盛→義茂→義胤→義長→宗実、の順番。
しかし義盛は小太郎、義茂は次郎だが、義胤は三郎ではなく四郎。
三郎は宗実。う~ん?一人だけ「義」が入ってないし、
庶子なのか、何か事情があるのか。
㉕大多和義成
三浦義明の孫。義澄の甥。
神奈川県三浦半島に太田和(横須賀市)という地名があるが、
そこを領地としていた。
和田合戦では一族の和田義盛に味方せず、
宝治合戦では一族の三浦泰村に味方せず生き延びた。
㉖安西景益
安房(千葉県最南部)の武士。
源頼朝の幼なじみで、石橋山の戦いで敗れた頼朝を安房で迎え入れて助けた。
㉗安西明景
景益の弟。秋景とも。
㉘大河戸広行
武蔵(埼玉県)の大河戸御厨を領地とする武士。
父の重行は平家方についたので伊豆に流され、大河戸御厨も没収された。
広行は三浦氏に助けてもらい、御家人となり、
奥州合戦で活躍し陸奥の宮城郡山村の地頭となった。
㉙大河戸行元
広行の弟。
㉚中条家長(1165~1236)
小野妹子・小野道風などを出した小野氏の出身。
八田知家の養子になって態度がでかくなって事件を起こす。
のちに評定衆の1人となり、御成敗式目づくりにも加わった。
㉛加藤景廉(1156~1221)
もともとは伊勢(三重県)の武士。
平氏との抗争に敗れ、伊豆に移る。
1170年の伊豆諸島の源為朝征伐に加わり、自害した為朝の首を斬った。
源頼朝の挙兵に従い、山木兼隆を討ち取った。
『源平盛衰記』では、「殊更きりもなき剛の者、そばひらみずの猪武者」と書かれている。
一方で病気がちであったようで、今回のマンガでも病気に苦しみながらも
九州にわたっている。
㉜工藤祐経(1147?~1193)
はじめ平重盛に仕えた。歌舞音曲に通じ、「工藤一臈」と呼ばれた。
※「一臈(いちろう)」とは、 舞楽で、舞人の前列に立つ第一の人。
(のちに平重衡(重盛の弟)が鎌倉に連れてこられた際は今様を歌い、
静御前が舞を舞った際は鼓を打っている。
一方で武の方面の才能はなかったようで、
一条忠頼暗殺の際は暗殺役を任せられたが顔色を悪くして果たせなかった。)
しかし京都にいる間に後見人であった義理の叔父、
伊藤祐親に伊豆の領地だけでなく、妻までも奪われて妻は別の人と結婚させられてしまう。
深く恨んだ祐経は、1176年、伊藤祐親を襲ったが、取り逃がした。
しかしこの時、伊藤祐親の長男、祐泰が殺された。
祐泰の妻は子ども2人を連れて曽我祐信と再婚する。
1193年、富士の巻狩りの際に、祐泰の子ども2人(曽我兄弟)に襲われて殺された。
曽我兄弟の兄(祐成)はこの際に討ち死にしたが、弟(時致)は捕らえられて生き残った。
頼朝は弟の命は助けようとしたが、
工藤祐経の子どもが泣いて訴えたためあきらめた。
この子どもは伊東氏をついで伊東祐時となり、子孫は日向(宮崎県)の戦国大名伊東氏となった。
㉝工藤祐茂
祐経の弟。伊豆の宇佐美荘を受け継ぎ、宇佐美祐茂と名乗る。
上杉謙信に仕えた宇佐美定満は子孫。
㉞天野遠景
工藤氏の一族。
伊豆に流罪となったやってきた源頼朝と早くから交流があり、
狩りや相撲などで親交を深めた。
1184年の一条忠頼暗殺では、天野遠景が暗殺を実行した。
その際、一条忠頼の家来の山村小太郎が主人の仇と襲ってきたが、
遠景は小太郎をまな板(!)でたたき、
小太郎は縁の下に転落、そこを遠景の家来が首をとった。
平家滅亡後は、九州をまとめる九州惣追捕使に任じられる。
頼朝が死んだときに出家しているが、
頼朝の信頼をもとに出世した人物であったためか、頼朝死後は不遇であった。
㉟一品坊(いっぽんぼう)昌寛(しょうかん)
事務方として頼朝を支える。
娘が源頼家と結婚し、3男栄実・4男禅暁(どちらも悲劇的な死を遂げた)を産んでいる。
㊱土佐坊昌俊
血気盛んな興福寺の僧兵(ヤンキー・不良・ヤクザ・暴力団お坊さん)で、
大和(奈良県)の荘園の代官を殺したため、
たまたま京都にいた土肥実平にあずけられ、
土肥実平が関東に帰るのと一緒に関東に出向き、頼朝に仕える。
1185年、源義経を襲うが返り討ちにあい、捕らえられて殺された。
㊲小野寺道綱(?~1221)
下野(栃木県)小野寺邑の武士。
奥州合戦で出羽の雄勝郡の地頭となる。
1221年、承久の乱の宇治川の戦いで戦死した。
子孫は出羽の戦国大名小野寺氏。
〇九州上陸
源範頼は豊後(大分県)に上陸する。
先頭になって上陸したのは、
北条義時・下河辺行平・渋谷重国・品川清実たちであった。
…品川清実…?( ^ω^)
さっきの豊後に渡ったメンバー表にいなかったんですが…?😱コワイ!
品川清実は品川郷や品川湊を持つ武蔵の武士。
渋谷はあの渋谷で品川もあの品川。
豊後の武士を味方につけた範頼は福岡に向けて北上する。
そして2月1日、葦屋浦(福岡県芦屋町)で源氏と平氏は激突する。
平家方の原田種直(1140~1213)・駕摩種益親子が
戦いを挑んできたが、渋谷重国・下河辺行平たちが奮戦してこれを撃退し、
下河辺行平は原田種直の弟、美気敦種を討ち取った。
原田種直は平家滅亡後、領地を没収されたが、
1190年に許され、筑後(福岡県)の怡土(いと)庄の地頭になった。
子孫は原田氏・秋月氏・高橋氏などに分かれ、戦国時代に活躍した。
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