社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 11月 2023

2023年11月30日木曜日

織田信長と足利義昭の対面~信長御憑み御請けの事①

 上杉・朝倉による上洛支援の望みを失った足利義昭は、織田信長を頼みの綱と考えるようになります。

斎藤(一色)氏を滅ぼし、美濃を平定して上洛に対する障害を取り除いた織田信長は、上洛支援を決意し、越前から足利義昭を迎えるとともに、京都に向けて軍を起こすことになるのですが、

京都に向かう途中には南近江の六角氏がおり、六角氏をどうするか、ということについて、対策を講じていくことになります(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇信長と義昭の対面

足利義昭が越前を離れ美濃に移った日にちについて、『足利季世記』と『信長公記』は、

『足利季世記』…永禄11年(1568年)7月25日、信長が迎えの者を送ってきたので、美濃国西庄立政寺に移った。朝倉は国境まで見送った。

『信長公記』…「永禄11年(1568年) 7月25日、越前へ御迎えとして、和田伊賀守・不破河内守・村井民部・島田所之助進上なされ、濃州西庄立正寺に至りて、公方様御成り」(7月25日、和田惟政・不破光治・村井貞勝・島田秀満を越前に派遣して公方様を迎え、美濃西の庄[現在の岐阜県岐阜市西荘]にある立政寺にお移しした)

…と、両方が「7月25日」としており、1日で越前から美濃に移動したかのような印象を与えますが、

実際は7月25日よりも早くに出発していたようです(;^_^A

25日以前に出発した、とする記録に『越州軍記』『朝倉始末記』があり、『越州軍記』には「7月16日」に越前一乗谷を出発し、美濃の織田信長方に移った、とあり、『朝倉始末記』には「7月下旬」に出発し7月25日に美濃に到着した、とあります。

『越州軍記』『朝倉始末記』は天正5年(1577年)頃に作られたとされており(『越州軍記』は1592年以降という説も)、比較的信ぴょう性が高いのですが、

それよりも信ぴょう性の高い記録があるのですね(;^_^A

『多聞院日記』です。毎日つけていた記録ですから、9年後に書かれた『朝倉始末記』よりも情報の鮮度が良いのですね。

『多聞院日記』7月27日の条には、「公方様は去る16日に越前から近江の浅井館に移り、22日にさらに美濃に移った。『尾張上総守御入洛御伴申すべきの由云々』尾張上総守(介)が上洛のお供をすると言ったという」とあり、

16日に越前を離れ、22日に美濃に到着した、というのがどうも正しいようです。

(そもそも福井市から立政寺まで歩いて1日と少しかかります)

16日出発については、それを裏付ける書状(義景の側近が上杉輝虎に送った7月8日付の書状)が残されており、そこには、

…(足利義昭が)織田信長の美濃に移られることになったのは、上洛をすぐに行うということを、書状で何度も送ってきたからである。義景も納得の上で、7月16日に美濃に移られることが決まっている。

…と書かれているのですね(◎_◎;)

こうしてみると、16日に越前を出発した、ということは確実でしょうね(゜-゜)

出発からの流れを『足利季世記』『朝倉始末記』『信長公記』『多聞院日記』を用いてまとめてみると、

①16日に越前一乗谷を出発(『多聞院日記』)。義景は御供しようと思ったが、息子の死から立ち直れていないところであったので、朝倉景恒・前波景定に近江富乃の国境まで見送らせることにした。両名は晴れ舞台と勇んで、4000の兵と共に出立した(『朝倉始末記』。『越州軍記』では2000余)。

余呉の庄(滋賀県長浜市)まで信長の使者と浅井備前守(長政)の2000が迎えに来ていたので、景恒・景定はここで暇をもらって帰国した(『朝倉始末記』)。信長の使者は和田惟政・不破光治・村井貞勝・島田秀満であった(『信長公記)(『朝倉始末記』は不破光治のみ記す)。

③近江小谷の浅井館に到着(『多聞院日記』)。

④22日、美濃に到着(『多聞院日記』)。

⑤25日、美濃の立政寺に入る(『足利季世記』『信長公記』)。

…ということになります。

(ちなみに『浅井三代記』には、越前一乗谷を出発してその夜は今庄に泊まり、翌日に近江に入り、木之本地蔵院[滋賀県長浜市]に参詣して三条定近の太刀1振・鳥目[銭の事]を奉納し、地蔵院を出発するところに浅井長政が小谷城から迎えに来た、それから小谷城に移って城下の救外寺に入った。浅井長政は義昭に貞宗の太刀1振・銀子50枚・鹿毛の馬1疋を贈った。浅井長政は藤川まで義昭を見送った。ここで信長からの迎えである菅谷九右衛門尉[長頼]・内藤庄助・柴田修理亮[勝家]が多くの兵士を連れてやってきた。ここで浅井長政は小谷に戻った…とあり、やけに詳しく書かれています[後の『新書太閤記』になるとさらに詳しい旅程が書かれている(;^_^A]。一方、『総見記』は『浅井三代記』と愛用が非常に似ているもの、違う点が見られます。例えば、①一乗谷を出発した日を「16日」と書いている、②義昭が地蔵院に奉納したのは「100貫文と太刀」、③「救外寺」の表記が「休懐寺」になっている、④長政は義昭に贈り物を贈っておらず、浅井久政があいさつに訪れて、「様々な珍物」を献上している、⑤義昭は地蔵院に「3日」とどまった後、美濃に向かっている、⑥織田から迎えに来たのが「不破河内守・内藤勝助・菅谷九右衛門」になっている、⑦「27日」に美濃国西の庄立政寺に到着した、…というもので、「16日」に一乗谷を出発した、というのは『多聞院日記』の内容と同じであり、『浅井三代記』と比べ、一定の信ぴょう性はある物と考えられますね。ちなみに、「救外寺[休懐寺]について、『東浅井郡志』は、「三代記の著者が、空中楼閣的に築きたる者にして、実在の寺に非ず」と全否定しています(◎_◎;))

美濃に入った後の義昭の動きについて、残念なことに『多聞院日記』は記していないので( ;∀;)

それ以外の記録に頼るしかないのですが、

①『足利季世記』…永禄11年(1568年)7月25日、信長が迎えの者を送ってきたので、美濃国西庄立政寺に移った。信長はあまり日数が経たないうちに出仕した。

②『朝倉始末記』…永禄11年(1568年)7月25日、織田信長は美濃に到着した義昭公を立政寺に入れ、兵士に命じて昼夜を問わず警固させた。7月27日、信長が岐阜からやって来て、義昭公に謁見した。

③『信長公記』…永禄11年(1568年)7月25日、和田惟政・不破光治・村井貞勝・島田秀満を越前に派遣して公方様を迎え、美濃西の庄(現在の岐阜県岐阜市西荘)にある立政寺にお移しした。

この3つの史料は立政寺に移った日を共通して25日、としているので、

足利義昭が立政寺に入ったのは7月25日と見て間違いないようです(゜-゜)

問題はその後で、信長と義昭が対面した日について、

『信長公記』はその日のうちのような書き方をし、

『足利季世記』は数日後としていて、

『朝倉始末記』は「7月27日」としており、

こちらは統一されていないのですね(◎_◎;)

しかし、『信長公記』は25日に会った、と明言しているわけではないので、

「数日後」という条件にも合う、『朝倉始末記』の7月27日説をいちおう採用することとします(;^_^A

さて、いよいよ信長と義昭の歴史的な対面の場面と相成るのですが、これについて、諸書はどう記しているのか。

①『足利季世記』…信長は太刀・馬・青銅千貫を献上した。

②『朝倉始末記』…信長は国綱の太刀1振・葦毛の馬1疋・鎧2両・沈香(香木の1つ)1折・縮100端(反。1反は布1巻きの事。1反は12mほど)・鳥目(銭のこと)千貫(今で言うと1200万円)を献上し、御供の方々にも贈り物を渡した。それから、様々なことについて話し合った後、信長は岐阜城に帰った。

③『信長公記』…「末席に鳥目千貫積ませられ、御太刀・御鎧・武具・御馬、色々進上申され、その他、諸侯の御衆、これまた御馳走斜ならず。此の上は、片時も御入洛御急ぎあるべきと、思し食さる」(下座に銭千貫を積み、太刀・鎧・武具・馬などを献上した。お供の方々に対するもてなしもまた、並み一通りのものではなかった。信長は、「こうなったからには、少しでも早く上洛しなければならない」と考えた。

信ぴょう性は落ちますが小瀬甫庵『信長記』と『総見記』には会見の様子が詳しく書かれているので、これを紹介します。

・『信長記』…7月25日、義昭公は越前から美濃の立政寺に移り、27日に信長が出仕して、信長は国綱の太刀1振・葦毛の馬1疋・鎧2両・沈香1折・縮100端・鳥目千貫を献上し、御供の方々にも贈り物を渡した。信長の礼儀は正しく、その様子は堂々として威厳があった。義昭公は次のように言った、「三好の叛逆によって義輝・鹿苑院(義昭の弟の周暠)が討たれ、私は孤独の身となった。将軍家を断絶させてはならぬと、私は密かに奈良を抜け出し近江・越前に至って、計略を廻らしたものの、帰洛の宿願を叶えることはできなかった。そこで信長を頼ったところ、了承の返答があったのはめでたいことであったが、その後、距離が遠いのにかかわらず数人の使者を派遣して迎えに来させ、今また、礼儀正しく振舞っている。これらのことにすでに忠義の心が現れている。長年の心配はここに無くなった。謀反人を誅戮し、近くは義輝・鹿苑院を弔い、遠くは大祖(足利尊氏)から長く続いてきた将軍家を再興することはもう決まったようなものだ。礼を言ってもしきれない。しかし、そうであればこそ、事を急に進めて身を危うくするようなことがあってはならない。はかりごとを廻らせ、必ず勝てる手段を得られれば、大きな仕事を成し遂げることができる。そうであるならば、将軍家再興の守護神とも言うべきである」。信長はこれに答えて言った、「私も命に危険の恐れのある事はわかっていますが、巨悪を討たないことには天道も命を救おうとしますまい。自分の命は天道に任せるのみです」。義昭公は深く感じ入り、頼もしく思った。そして酒宴となり、杯を重ねる中で、上の者も下の者も、みな万々歳と声を挙げて、非情に浮かれている様子であった。その中で信長は退出を願い出て、岐阜城に戻った。

・『総見記』…29日に信長は立政寺に出仕した。この際、国綱の太刀1腰・葦毛の馬1匹・紫糸の鎧・沈香1斤・縮100端・青銅千貫を献上した、と聞いている。公方は三好三人衆などの討伐を頼み、信長は「私は愚かな者ですが、すぐにでも兵を挙げて攻め上り、御敵を討伐いたします、将軍家再興の事、ご安心なさってくださいませ、当国に居場所を移されたことは、恐れ多いことで、仮御所を作るべきところですが、仮御所ができるまで美濃に留まることはありません。それほど時間がかからないうちに、京都にお連れできることでしょう。それまでしばらくの間、この寺でくつろいでいて下さい」と述べた。これを聞いた公方は、「信長の言うことは、どれも私の望んでいたことばかりだ」と非常に喜んだ。しばらくして酒宴が始まり、盃を賜り、祝詞が読み上げられた後、岐阜城に帰された。

『総見記』が会見の日を「29日」とするのは独自性がありますね(゜-゜)情報源はいったいどこから…?(;^_^A

また、『総見記』はすぐに上洛を達成するので仮御所は作らなかった、としていますが、『越州軍記』には、新御所を作り、昼夜を問わず守護し、大切に養い守った、と正反対の記述があります(◎_◎;)

どちらが正しいかはわかりませんが、『越州軍記』の方が成立は早いので、新御所を作った、というのが正しいようにも思えます(゜-゜)

しかし、『信長公記』には、後に信長が近江を平定した際に、「立政寺」に迎えの使者を送った、という記述があるので、これを考えると、立政寺を改装したかもしれませんが、新たに御所を作った、とは思えないのですよね…(;^_^A

立政寺にある碑文にも、「義昭公御座所」「永禄11年紀元1568年織田信長足利義昭公を越前州より当山に招き高居と為す」とあるだけで、御所を新たに作ったとは書かれていないのですよね…(゜-゜)

マンガでは『総見記』の記述を採用させていただきました(;^_^A


2023年11月27日月曜日

「足利義昭、信長を頼り美濃に移る~一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事」の2ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

「足利義昭、信長を頼り美濃に移る~一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事」の2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年11月26日日曜日

上洛を目指し奔走する足利義昭~一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 上洛の準備を着々と進める織田信長

一方、その頃足利義秋(義昭)は何をしていたのでしょうか…?(゜-゜)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇永禄10年における松永久秀と三好三人衆の攻防

永禄10年(1567年)4月18日には三好三人衆が大和に出陣、そこから断続的に大和で戦いが繰り返されることになるのですが、

『言継卿記』の7月27日の条に、

…丹波より柳本・波多野・赤井等(松永久秀方)、4千ばかりにて西岡に出陣し、各所を焼き、西岡衆と合戦となり、双方に4・5人ほど死者が出た。・・・

とあるように、丹波勢が松永久秀方で活動を再開し、

8月頃には、『足利季世記』に、

松山彦十郎・松浦孫五郎(松浦氏の一族で、蛇谷山城主)は松永方で多門城にいたが、伊丹親興の勧めに乗って三人衆方に内通したものの、(彦十郎と同族である)松山安芸守は三好方で、飯盛山城にいたが、「彦十郎が内通するならば私に話を通すべきであったのに、そうしなかったのはどういうことだ」、と言い、なんと松永方に内通してしまった。謀反の気配を察した三人衆は兵を送って安芸守の家を囲ませた。安芸守はたまらず降参したが、許されて所領も没収されることは無かった。安芸守は10月15日に城を去って堺に退いた。…

とあるように、三人衆・篠原方・松永方双方から寝返る者が出るカオスな状況となっていきます(◎_◎;)

なお、松永方に寝返った松山安芸守について、『多聞院日記』には、

8月25日「飯盛城の松山与兵衛が松少に寝返り、城の内部で争いになったという」

9月6日「三人衆・篠原が飯盛城に攻め寄せ、和議が成って城は彼らに明け渡された」

10月21日「飯盛城にいた松山安芸守・山口は城を去って堺に行き、城は篠原・三好日向守が受け取った」

…と書かれており、『足利季世記』の内容がかなり正確であることがわかります。

その後も、『多聞院日記』9月15日の条に、「一昨日(13日)、河内の烏帽子形城に根来衆が攻め寄せたが撃退され、首4・50も取られたという」と書かれているように、松永方と三人衆方で戦いは続けられていましたが、

三好氏の内紛の1つのハイライトとなったのが東大寺の戦いでした(◎_◎;)

東大寺の戦いについて、『足利季世記』には、

…三人衆は東大寺の大仏殿に陣を構えた。松永久秀は多聞城より打って出て何度もこれと戦った。10月10日、松永久秀は大仏殿にいる三人衆を夜襲した。三人衆は慌てふためき敗走し、中村新兵衛をはじめとして名のある武士7人、雑兵300余人が戦死した。しかし池田勝政の陣は用心していたので夜襲に対しても落ち着いており、三人衆は池田勝政の陣に逃れた。この戦いの途中に三人衆方の陣から出火、混乱の中だったので消す暇もなく、火は燃え広がってついに大仏殿は焼失した。大仏殿は平家によって一度焼失したのを、後白河院(後白河上皇)の要望にこたえて源頼朝公が再興されたものであったが、200余年後、また兵火により焼失してしまった。世はいつまでも治まらず乱れに乱れ、再興を志す人も現れないだろうと、人々は皆嘆いたという。

…とあり、

『多聞院日記』には、

…今夜子の刻の始点(午後11時)に、大仏殿へ多聞山勢が攻撃を仕掛け、合戦に及ぶこと数度、戦いの中で起きた火災の消え残った物によって穀物の倉から法花堂に火が移り、それから大仏殿の回廊に次第に火が近づいて、丑の刻(午前1~3時)に大仏殿はすっかり火に包まれてしまった。激しく燃える火が空いっぱいに広がり、さながら雷電の如く、わずかな時間ですべてを焼き尽くしてしまった。大仏も湯になってしまわれた。言語道断、浅猿浅猿。昔、聖武天皇の発願により、天平16年に良弁によって建てられ、治承4年12月に炎上したが、その間437年であった。その後源頼朝が建久6年に再建し、今年まで373年になる。治承の炎上の時は15年で再建できたが、今は100年かかっても、なかなか再建はできないであろう。生きているうちにこのようなことに出会うとは、嘆中の嘆である。罪業のほど、悲しむべし悲しむべし。…大仏殿に陣取っていた者たちはことごとく敗北した。やり中村討ち死に、その他2・300人も切り死に、焼死したという。念仏堂・唐禅院・四聖坊・安楽坊・深井坊は同じ日に焼けた。

…とあるように、奇襲を受けた三人衆方の大敗に終わったのですが、この時、乱戦の中で起きた火事が元になって、大仏殿が全焼するという事態になってしまいます(◎_◎;)

足利義輝殺害と並び、戦国を象徴する事件ですね…。

〇足利義昭の焦り

松永方と三好三人衆・篠原方が激しく争いあっている頃、足利義秋はどうしていたのでしょうか(゜-゜)

『足利季世記』には、次のように書かれています。

…一条院覚慶様は永禄8年(1565年)8月、近江(滋賀県)の矢島に移った後、諸国に三好討伐の兵を挙げるよう呼び掛けている間、集まってきた者は大舘宗貞・晴忠、三淵藤英、細川藤孝、武田義統、沼田清延、京極高成、仁木義広、一色藤長、沼田統兼、上野秀政・信忠、和田惟政・雅樂助、飯河信堅、二階堂孝宗、牧島孫六、能勢丹波守、曽我祐乗、中坊龍雲院、公家では飛鳥井左中将などがいたが、三好を倒そうとする大名がいなかったので、美濃の長井(一色[斎藤]龍興のことか??)を頼みにしようとしたが父子の間で秩序が乱れること(??)があって叶わず、佐々木(六角)義賢を頼ろうとしたが家中で混乱が起きていてはっきりした返事をもらえなかったので、妹婿である武田義統の領地である若狭(福井県南部)に向かった。しかし若狭国は狭く、武田義統も上洛に必要な名案を何も出そうとしなかったので、これでは幕府を再興できないとして、続いて越前(福井県北部)の朝倉義景のもとに向かった。…

足利義秋が近江の矢島から若狭に移り、さらに越前に移ったのは永禄9年(1566年)9月8日のことでした。

越前に移った足利義秋が期待したのは、越後(新潟県)の上杉景虎と、越前の朝倉義景でした。

しかし、両者とも、心配な敵がいて上洛に集中できない状態にありました。

上杉は北条・武田、朝倉は加賀の一向一揆(本願寺)勢力です。

交渉の様子を箇条書きにまとめてみると、

・9月13日 上杉景虎へ使者を派遣して、北条氏との和睦を促す

・10月20日 本願寺顕如、朝倉義景との和睦を命令されたもののこれを断る

永禄10年(1567年)

・2月24日 上杉景虎に書状を送り、武田・北条との停戦を促す。足利義秋が越後に直接向かう可能性がある事も伝える

・3月 (毛利氏に対し、尼子氏に勝ったことを祝う書状を送り、上洛の支援を要請する)

・7月 上杉景虎に、兵糧を用意することと、上洛することを命令

・8月25日 北条氏政、細川藤孝に上杉との和睦を受け入れることを伝える

・11月 朝倉義景に加賀一向一揆と和睦するように命令

・12月12日 朝倉氏と加賀一向一揆の和睦の話し合いが進み、朝倉義景の娘が本願寺顕如の息子、教如に嫁ぐことが決まる

永禄11年(1568年)

・1月17日 朝倉氏と加賀一向一揆の和睦が成立する(「加越和議」)

(『多聞院日記』に加賀と越前の和談が成った、とある)

・3月6日 上杉景虎に対し、上洛支援を促す

・3月16日 上杉景虎、越中(富山県)の守山城を攻撃するも、3月25日、越後国内で本庄繁長が謀反したため、越後に帰国する

…というようになりますが、これを見ると、上杉景虎との交渉はうまくいかなかったものの、朝倉に対しては、現地にいたこともあってか、だいぶうまくいっていることがわかります。

足利義秋は朝倉と加賀一向一揆の和睦についてはだいぶ関与していたようで、

『朝倉始末記』には、朝倉義景が加賀一向一揆と和睦した際に、義秋は、

「両国和睦の其上は何の隔が有べきぞ壘寨の有ればこそ種々の違変も出来ぬれ急ぎ是を焼き払え」(和睦した以上、両国を隔てるものがあってはいけない、国境に城や砦があるからこそ、(疑心暗鬼になって)約束を破ることが出てくるのだ、早くこれを焼き払ってしまえ)

と言い、義景はこれを受け入れて、両国の国境に近い加賀(石川県南部)にあった城を焼き払うこととし、義景は黒谷・檜ノ屋・大聖寺の三城を、一向一揆側は柏野・杉山の二城を破壊、これにより、北陸道の移動は障害が無くなった、…とあります。

そして義秋は4月15日には、朝倉氏の本拠、一乗谷で元服します。

それについて、『足利季世記』は次のように記しています。

…義景は覚慶様をもてなし、一乗谷で元服の儀を執り行った。元服の義で加冠をするのは本来三職(三管領。細川・畠山・斯波氏のこと)の役目であったのだが、光源院殿(足利義輝)様が坂本で元服したときも近くに細川・畠山がいなかったので、佐々木(六角定頼)が管領の代わりを務めた、という例にならい、朝倉義景が管領の代わりを務めて加冠を行った。義景の父、教景の時に幕府の相伴衆となったが、名ばかりで、将軍の側で働くことは無かったが、その朝倉が加冠の大役を任されたのは、朝倉にとって名誉なことであると人々はうらやましがった。覚慶様は諱を義秋と名乗り、後に義昭と改めた。…

元服した時に「義秋」から「義昭」に改名しているので、元服して「覚慶」から「義秋」になった、というのは誤りですね(゜-゜)

朝倉にとって誉れの場面であると思うのですが、なぜか『朝倉始末記』には元服の場面は出てきません💦

朝倉と加賀一向一揆を和睦に導き、元服も果たし、いよいよ上洛…というところでしたが、ここで思わぬ事件が起こります(◎_◎;)

『朝倉始末記』によれば、6月25日に朝倉義景の愛息、阿君(くまぎみ)の乳母が毒によって死亡したのですが、その乳を飲んでいたためか、阿君もまた死んでしまったのです。

阿君はこの時6歳なので、乳を飲んでいたことは無いと思われるため、乳母経由で毒が回った、ということは無いと思いますが、周囲から怪しまれる死であったことは確かなようです💦

朝倉義景はひどく力を落とし、この様子を見た足利義昭は、「義景力にての御上洛は叶まじ」(『朝倉始末記』)と思い、密かに織田信長と連絡を取り、美濃に移ることを検討し始めるのですが、この頃、実は足利義昭には上洛を急がなければならない事情がありました。

その事情というのは、

①永禄11年(1568年)2月8日、ライバルの足利義栄が先に征夷大将軍に任じられてしまった。

②永禄10年(1567年)年10月に松永久秀が東大寺で大勝したものの、三人衆方は永禄11年(1568年)3月11日に十市遠勝を三人衆方に寝返らせ、5月19日には1月1日に松永方に寝返っていた河内の津田城を攻め落とし、6月29日には信貴山城を陥落させるなど、大和で攻勢に出ており、松永久秀は危うい状態にあった。『多聞院日記』8月21日条には、松永方の富野城が落城した、松永方が相果てる日も近い(「松弾方弥[いよいよ]相果つる者也」)、とまで書かれている。

(『足利季世記』には、…2月8日、三好の推挙によって、左馬頭足利義栄は征夷大将軍に任じられた。また、信貴山城には細川氏綱の弟・藤賢が三好義継方として籠城していたが、高屋城の三好康長が信貴山城に攻め寄せてこれを包囲した。細川藤賢がこれに苦しんでいたところ、石山本願寺の顕如上人が和睦を仲介し、信貴山城は三好康長が取り、藤賢は石山の城に送られた。…とあります)

…というものでした。

このままなす術なく時間がたてば、足利義栄の立場は盤石なものとなり、松永久秀が大和を失って、畿内における拠点を失うことになる…足利義昭はそれを恐れていたのです(◎_◎;)

永禄11年(1568年)6月13日に、松永久秀は「織尾出勢の儀、火急たるべきの由候条、大慶に存じ候」(織田尾張守[信長]の出陣が非常に差し迫っていると聞きました、非情にめでたく思います)という書状を多羅尾光俊(近江甲賀郡の国人)に出していますが、久秀が信長の出陣に大きな喜びを示しているのは、それだけ久秀の状況が切迫していたからでしょう。

 足利義昭が織田信長のもとに移る経緯について、『足利季世記』は次のように記しています。

…尾張国武衛(斯波氏)の家来に織田上総介平信長この時は弾正忠という者がいた。今は美濃国にいるが、亡くなった光源院(足利義輝)様の時より、使者を派遣して、上洛し忠節を尽くしたい、と伝えていた。また、現在の公方様(足利義昭)が甲賀にいる時、和田伊賀守が使者を送って三好討伐の支援を頼んだ。(義昭が)越前にいる時には、信長は、上洛に御供して、御敵討伐の「荒切」(先陣となって敵に突っ込むこと)を務めます、どうということはありません。今は天下が安全になるか、危険になるかの瀬戸際、状況は非常に切迫しております、と再三にわたって伝えてきた。朝倉は諸国に御教書を送り、東国・北国が一度に攻め上るようになるまで待つべきです、私は公方様がこの国におられる間、いつまでもおもてなしをするつもりです、と言った。しかし、信長の言う事の方が公方様の心にかない、上洛の準備を始めたので、朝倉義景は大いに驚いて、私は必ず疎略に扱いません、当国にいつまでも落ち着いていてください、織田とは代々同輩であり、婚姻によるつながりもあるといえども、近年は「腹黒」であるという話を聞きます、信長の言うことに任せて、美濃に御移りになられれば、後で必ず私は讒言に遭い、幕府の敵として討伐を受ける対象となるのは間違いありません。これまでの忠勤が無駄になる事が悲しくてたまりません、と言った。これを聞いて、公方は自ら一通の御内書を書いて義景に渡した。「この度、当国を去ることになったが、朝倉の忠義、立派に思う。今後、見放すことは決して無い。…6月24日 朝倉左衛門督殿へ」…

7月12日に義昭が上杉景虎に宛てて送った書状が残っており、そこには、

…上洛の事について、信長がはっきりと約束したので、美濃に移ることにした、朝倉も上洛の際に忠節を尽くす覚悟をしているので、上杉も上洛の際には協力をするように、…

と書かれています。以前、信長に約束を破られたことがある義昭ですが、それでも信長の言うことを信じたようです。

その理由について、『朝倉始末記』には、

…信長は尾張を討ち従えただけでなく、美濃まで奪い取り、両国を併呑し、勢いはますます強まるばかりであったので、義昭公が頼みとしたのも当然であった…

と書かれています。

当時の信長はそれだけでなく、北伊勢も占領していましたし、領土を接する武田・徳川・浅井と同盟を結び、上洛に集中できる状態を整えていました。

『信長公記』には義昭が美濃に移ったことについて、

「朝倉事、元来その者に非ずといえども、彼の父上意を掠め、御相伴の次(なみ)に任じ、我国において雅意に振る舞い、御帰洛の事中々其詞に出だされざるの間、是又、 公方様御料簡なく、この上は、織田上総介信長を偏(ひとえ)に頼み入られたきの趣仰せ出ださる。既に国を隔て、其上信長尫弱 (おうじゃく)の士たりといえども、天下の忠功を致さんと欲せられ、一命を軽んじ、御請けなさる。

…朝倉義景は、もともと将軍を迎える力量のある者ではなかった。朝倉氏は幕府の相伴衆を務めるが、これは義景の父の孝景が将軍の機嫌を取って得たものである。義景は越前において思い通りにふるまい、公方様(義昭)の上洛の話をなかなか口に出さなかった。公方様は手の打ちようがなく、こうなっては、信長を頼みにするしかない、と仰せになった。信長は京都から離れた場所にいるし、弱いものであるのだが、それでも天下のために忠義を尽くしたいと思い、死ぬことを恐れず、この話を受けた。…

と、朝倉義景に対してかなり手厳しく書いています(;^_^A

織田と朝倉はもともと仲が悪いですし(織田は朝倉を格下だと思っている)、

朝倉義景としては将軍を保護するという名誉を(よりによって)織田に奪われた、というのも面白くなかったでしょう(◎_◎;)

また、『総見記』には、


『足利季世記』には、

…やがて、信長から、上洛の準備が整いました、という報告が入り、公方様は喜んだ。

…とあり、ついに足利義昭は勇躍、越前を出発して美濃に移り、信長と対面することになります…🔥

(続きは近日中に公開しますm(__)m)

2023年11月23日木曜日

北伊勢を手中に収める~織田信長二度発向勢州之事

 永禄11年(1568年)2月、織田信長は伊勢国(三重県)に進攻します。

前年には春に続き、8月にも伊勢北部を攻めていましたが、美濃三人衆が寝返ったことを知って進軍を中止していましたから、その続きということになります🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇信長の伊勢進攻(第三次)

『伊勢軍記』『勢州軍記(続群書類従)』をもとに、伊勢攻めの経過を見ていこうと思います(下線部の部分は『勢州軍記』にのみ見られる部分です)。

まずは前半部分。

…永禄11年(1568年)2月に、信長は4万余りの兵を率いて、再び伊勢に出陣した。三重郡以北の北勢四十八家は皆信長に従った。信長は再び高岡城(神戸方)を包囲した。信長は神戸具盛に使者を遣って和睦した。具盛には娘が1人いたが息子はいなかった。そこで、信長の三男で11歳(数え年)の三七(織田信孝。母は信長の側室、坂氏)が具盛の養子となった。養子を入れて国を治めるのは、大変巧妙なやり方であるこの時、神戸具盛があいさつのために信長の陣所を訪れたが、尾張・美濃の武士たちは、神戸の武威を伝え聞いていたので、こぞって神戸を見に来たという幸田孝之が三七(織田信孝)の守役となり、他に岡本良勝・三宅権右衛門・坂口縫之介・山下三右衛門など多くの家臣も付けられた。坂口だけは信長に呼び戻され、先鋒の部隊に入れられた。その後、近江堅田の戦いで戦死したという。さて、神戸などが味方となったが、亀山の関氏だけは六角の仲間となり、信長に味方しなかった。また、神戸の叔父の円真房は六角の人質となっていたが、神戸が裏切ったことを知った六角義賢は怒り、円真房を塩責め(傷をつけてそこに塩を塗り込む)にした。このため狂人となった円真房は神戸に戻されたという。円真房は神戸具盛の祖父の神戸楽三の末子で、福善寺で出家していたのだという

信長の勢いの前に、神戸氏は降伏、養子に信長の三男の三七(信孝)を迎えることになり、神戸氏は織田氏に乗っ取られることになりました(◎_◎;)

鈴鹿郡・河曲郡を治める関一族は神戸・峯・国府・鹿伏兎家が信長に従ったものの、本家の関氏だけは信長に抵抗を続けます💦

ちなみに、『勢州軍記』は信長の兵力を「4万余り」としていますが、『氏郷記』は「数千騎」としています。「4万余り」というのは余りにも誇大なような感じはしますね(;^_^A

また、『氏郷紀』には、信長と神戸が和睦する際に、信長は使者を遣って「源氏の者が道理に外れた行いをしたために、国土は支配者に背き逆らうことが絶えない。私は平氏の血を引く子孫として、謀反を企む者たちを攻め滅ぼし、国土を安定させようとしている。あなたは平家の嫡流(本家の家筋)、どうして同じ一族と戦えるだろう。はやく和睦しよう。聞くところによれば、あなたは蒲生定秀の娘との間に1人娘がいるが、息子はいないとか。私には多くの子どもがいるから、1人を養子として行かせよう」と伝え、これに対して神戸具盛は「まことにかたじけない」と答え、まもなく和睦が成った、と書かれています。

信長は元亀2年(1571年)頃から「平」姓を名乗っていることが確認できるのですが、

『氏郷記』の内容が確かならば、永禄11年(1568年)までさかのぼることになりますね(◎_◎;)

続いて後半部分。

…信長は北勢四十八家を先導として、長野家を攻撃するために安濃津に進んだ。まず細野藤敦が守る安濃城を攻めたが、細野は剛の者であったので、なかなか城は落ちなかった。その中で、その弟分部左京亮・川北内匠亮(長野家の分家)は長野家を裏切り、信長に対し、長野家の存続を許して下されれば、長野次郎(具藤。伊勢国司・北畠具教の子)を追い出して、味方しますと伝えた。そこで、信長は弟の織田信包を長野家の跡継ぎとして、奄芸郡の別保上野城に入れ、神戸具盛の妹を妻に迎えた。そして、長野次郎は城から追放され、多気の北畠具教を頼って南伊勢に逃れていった。まもなく、工藤一族の雲林院・草生・家所・細野・中尾・乙部などは、皆信長に従った。この頃、関一族の中で一人抵抗を続けていた関盛信も信長に降った。こうして、北伊勢の8郡は皆信長に従うことになり、工藤一族は織田信包の与力となった。また、滝川一益を勢州の奉行とし、また、西尾張の長島・河内を担当させた。千草・宇野部・楠・赤堀・稲生・南部・加用・梅津・冨田・上木・白瀬・濱田・高松・木股・持福などの北勢四十八家の者たちが与力となった。滝川一益は、武芸・智略共に優れていたので、自然と出世し、名が知られるようになった。戦いの際には常にこう言っていた。「家来の討ち死にが告げられれば、私はその家来のために米を支給しよう。心配せずに死ねばよい」。家来が死んだ後は僧に供養させ、必ずその死を弔った。また、罪を犯した人を殺すことが少なかった。安濃城には織田掃部助(忠寛。織田藤左衛門家の一族。藤左衛門家の系図はよく分かっていないが、父の姉妹に織田信貞の妻であった「いぬゐ」[含笑院]がいたため、信長にとっては祖母の兄弟の子、「いとこおじ」にあたる。永禄8年[1565年]に使者として武田に赴いている)を城主として置き、南方の抑えとした。そして岐阜城へと帰還した。…

こうしてみると、信長は美濃の統治と違って、伊勢の統治では、自分の一族を現地の有力国衆の養子にして家を継がせたり、重要地点の城主にしたりするなど、織田一族を多く用いています。

この違いはいったい何なのでしょうね(;^_^A

昔、平氏本家の本拠地が伊勢にあったので、これを重視したのでしょうか…?(゜-゜)

ともあれ、今回の出兵で、織田信長は伊勢の北部8郡を完全に手中に収め、

そのうち、員弁郡・桑名郡・朝明郡・三重郡は滝川一益が、

残りの鈴鹿郡・河曲郡・安濃郡・奄芸郡は織田信包(織田掃部助が補佐)が担当することとなりました。

これで信長は大和で三好三人衆たちと戦っている松永久秀への支援ルートを確保したことになります。

そして信長は、いよいよ上洛に臨むことになるのです…!🔥

2023年11月21日火曜日

お市の方、浅井長政に嫁ぐ~浅井備前守長政御縁者となられた事(1567年?)

 美濃(岐阜県南部)を平定した織田信長は、上洛に向けて動き出していましたが、

安易に京都に至るまでの大名を倒しながら進むの、という方法を取るのではなく、

外交でもって、味方を増やし、少しでも短い期間で上洛できるように努力していました。

京都に行く途中にあるのは、近江(滋賀県)で、そこにいる大名は、浅井氏六角氏でした。

信長は、この2つの大名に対して交渉を重ねていくことになります。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇浅井は「あさい」?「あざい」?

浅井氏の出身地とされる滋賀県の浅井郡(1878年に東浅井郡・西浅井郡に分割)は、「あざいぐん」と読み、現在は長浜市になっている浅井町も「あざいちょう」と読みますから、浅井は「あざい」と読む、とするのが通説でした。

しかし、10世紀前半に書かれた『和名類聚抄』には「アサイ」「阿佐井」と書いてあるのですね(◎_◎;)

古くは「あさい」と読んでいたようなのですが、では、戦国時代のころはどうなのか。

太田浩司氏が『浅井長政と姉川合戦』で書かれたことを箇条書きでまとめてみると、

・『ニ水記』の大永5年(1525年)の条に、「中書(※京極高清)被官アサイ城」とある。

・慶長2年(1597年)に写された『節用集』には、「あざい」と書かれているが、朝倉も「あざくら」と書かれている。

・慶長16年(1611年)の書状には、浅井亮政を「あさい」、浅井久政を「あさい」、浅井長政を「あざい」、浅井氏三代の事を「あざい」とある。一方で、この書状の写しには、どれも「あさい」として書かれている。しかし、この写しには小谷城のことを「おだに」と書いてあるところもあれば、「おたに」と書いてあるところもある。

こうしてみると、戦国時代のころは「あさい」か「あざい」かで読み方が混乱していたことがわかりますね…(;^_^A

現在は「あざい」で統一されているわけですが、

しかし、名字の読み方となると、

「浅井」で「あざい」と読む人はめったにいません💦

「浅井」が名字の有名人を調べてもみんな「あさい」ですし、

名字についてのネットのサイトを見ても、

「一般的に「あさい」と読む」「読み方は一種類あり、「あさい」」

などと出てきます(◎_◎;)

うーん、これを見ると、当時も「あさい」だったのでは?と思ってしまいますね…(;^_^A

戦国時代の記録も土地の名前は「あざい」なのに名字は「あさい」なので混乱していたのかもしれません…💦

真相は闇の中…。

〇浅井氏の歴史

浅井氏が史料に出てくるのは文明12・13年(1480・1481年)頃のことで、

『清水寺再興奉加帳』に「浅井直種」と言う人物が出てきます。

この人物は『江北記』で、浅井亮政の父、と紹介されています。

明応4年(1495年)、美濃で斎藤妙純派・石丸利光派に分かれて争う船田合戦が起こりましたが、斎藤妙純に援助を求められた近江(滋賀県)北部の大名、京極高清(1468~1538年)は美濃に援軍を送りますが、ここで送られた「浅井氏」というのが、浅井直種だったとされています。

つまり、浅井氏は最初、京極氏の家来であったわけですね。

この船田合戦は、以前にも紹介したように、尾張にも影響を与え、石丸派の清須織田家、斎藤派の岩倉織田家が対立し、尾張は2つに分かれて戦う騒乱状態になりました。

織田信長の出身の弾正忠家は、主君が清須織田家にあたりますから、斎藤派の京極氏と、石丸派の清須織田家・弾正忠家はこの時は敵対関係にあった、ということになりますね(;^_^A

さて、浅井直種ですが、直種は文亀元年(1501年)、京極氏の内輪もめに関わって、そのさなかに起きた今浜の戦いで戦死しています。

次の浅井亮政が登場するのは大永3年(1523年)のことで、

この時、近江は、京極高清の跡継ぎをめぐって揺れていました(◎_◎;)

京極高清は跡継ぎを京極高慶(のちの高吉。1504~1581年)にと考えていたのですが、国衆の浅見貞則・浅井亮政らは高慶の兄の京極高延を跡継ぎにすべきだと反対、高清と対立します。

そして両者は激突、京極高清は敗れて尾張に逃れ、京極高延がその後を継ぐことになりました。

立派な下剋上ですね…(◎_◎;)

ちなみに京極高清は尾張に逃れたとありますが、この頃の尾張は織田達勝が守護代を務め、そのもとで織田信長の祖父にあたる織田信貞が津島に勢力を伸ばしている時です。

京極高清が尾張に亡命した後、北近江の実権を握ったのは浅見貞則でしたが、

大永5年(1525年)、なんと浅井亮政は京極高清と結んで浅見貞則と争うことになります(◎_◎;)

これに南近江の大名、六角定頼が浅見氏側に味方して北上、浅井亮政の籠もる小谷城を攻撃します。

浅井亮政はよくこれを防ぎましたが、越前(福井県北部)の大名、朝倉教景が六角氏に味方して小谷城を攻めるに至り落城し、『ニ水記』によると、京極高清とともに尾張に落ち延びることになりました💦

享禄4年(1531年)、浅井亮政は再び六角氏と争いますが、箕浦の戦いで再び敗北します。

普通なら浅井亮政はこれでジ・エンドなのですが、亮政はなおもあきらめません。

六角定頼は京都方面でも別の敵と戦っており、二方面に敵を抱えるのが苦しくなった定頼は、天文2年(1533年)、京極高清・浅井亮政と和睦、浅井亮政が六角氏に臣従する代わりに、六角氏の保護を受けていた京極高慶は近江から去ることになりました。

天文7年(1538年)に京極高清が死ぬと、六角高広が跡を継ぎますが、これに対し、京極高慶は近江への復帰を図り、六角軍と共に北近江に進みます。

六角定頼は各所で高広方を破り、浅井亮政は小谷城に追い込まれました。

そして京極高慶を当主とすると言う条件でどうやら和睦したようです(詳しくはわかっていません💦)。

これに不満を持った高広は(この頃出した書状に、浅井亮政の行動が許せないので、挙兵した、と書いている)天文10年(1541年)、挙兵して浅井亮政と戦います。

この戦いのさなか、天文11年(1542年)に浅井亮政は病死します。51歳でした。

浅井亮政は『信長の野望・新生』では統率:83、武勇73、知略67、政務62と、なかなか高い評価を与えられていますが、

こうして見ると、その粘り強さ、不屈さは注目に値するものの、六角定頼に何度も敗れ、定頼に降伏し、最後は内乱の内に死去するなど、そこまで評価されるような人物には思えませんね…(;^_^A アセアセ・・・

昭和2年(1927年)に編纂された『東浅井郡志』にも、「戦ふ毎(ごと)につねに敗るるも、尚(なお)最後の勝利を期する希望を失わず」「弾力性と粘着性の強き意志」を持っていた、とあります。やはり…(;'∀')同じ感想だった…。

『東浅井郡志』には「終(つい)に能く江北統一の大業を成せり」とも書かれていますが、統一はできていないと思います…(-_-;)六角の勢力下だし…。

亮政の後を継いだのは子の浅井久政(1526~1573年)でした。

亮政の死で京極高広の勢いは強まり、苦戦した浅井久政は天文19年(1550年)に高広と和睦することになります。

勢いに乗った高広は、天文19年から六角氏との戦いを始めます。最初は敗れたものの、その後三好長慶と連合したこと、天文21年(1552年)に六角定頼が死んだことにより、六角氏は後退し、高広は佐和山城を攻略することに成功します。

(京極高広は『信長の野望・新生』では統率:40、武勇:36、知略:46、政務:26とショボい能力だが、もっと高くてもいいように思う(;^_^A)

しかし高広の攻勢もここまででした。

天文22年(1553年)の『天文日記』に「北郡錯乱」とある(「錯乱」とは戦争による混乱のこと)ことから、もしかすると浅井久政が六角方に寝返って、北近江で内乱状態となったのかもしれません。

京極高広は敗れ、その後、行方不明となります(◎_◎;)

一方、浅井久政は六角氏に臣従するも、六角氏との戦いで奪った佐和山城は確保していましたし、六角氏を後ろ盾として、北近江に地盤を固めていくことにも成功、これが後の浅井長政の代での飛躍につながることになります。

浅井久政はよく暗愚な人物であった、と言われますが、有能な人物であったと言えるでしょう。

(『信長の野望・新生』では統率:39、武勇:37、知略:47、政務:63とショボいですが…💦)

しかし、永禄3年(1560年)、六角氏と浅井氏は再びぶつかることになります。

その原因は定かではないのですが、弘治3年(1557年)~永禄元年(1558年)頃に六角義賢が出家して承禎と名乗り、子の義弼に家督を譲ったこと、その義弼が斎藤氏と同盟関係になったことが関係しているでしょうか。

『江濃記』は、浅井久政の子、浅井賢政(長政)が六角氏の家臣、平井氏の娘と結婚していたのを、赤尾・遠藤などの家臣が、「祖父高政(亮政の誤りか)入道のごとく六角家の下風に立まじ」(祖父の亮政の時のように、六角の支配下から独立しなければならない)と言って、平井氏の娘を六角に送り返したことで、浅井と六角との関係を断絶した、とするのですが、どうなのでしょうね(;^_^A

ともあれ、浅井と六角は断交し、永禄3年(1560年)8月、野良田(現・彦根市野良田町)で合戦となりました。

この戦いについて、『江濃記』は、浅井賢政が「南北の分け目の合戦であるから命を惜しむな」と軍を激励し、六角氏を激戦の末に破り、首を920取った、としていますが、六角氏は翌年、2方面で軍を動かすなど活発に動いているので、どうも『江農記』は戦いをだいぶ誇張して書いているようです(;^_^A(勝利を報告する書状は残っているので、浅井が勝ったのは確かな様ですが)

この頃、浅井久政は家督を賢政に譲っていますが、引退したわけではなく、権限の一部は保持していたようです。

野良田で勝ちを収めた浅井賢政ですが、『厳助往年記』に、永禄4年(1561年)3月、「江州左保山城自南取之、百々腹切云々」と書いてあるように、六角氏の攻撃を受けて城将の百々隠岐守が切腹、佐和山城を失ってしまいます。

永禄4年(1561年)5月頃、浅井賢政は、六角義賢から一字をもらった名前を嫌って「長政」と改名することによって、六角との完全な決別を表明します。

そしてこの年に六角氏が三好氏と戦うために京都方面に進んだのを見て、六角氏の太尾城を攻撃しますが、これは失敗に終わっています💦

しかし永禄6年(1563年)に大チャンスがやってきます。

10月1日、六角義弼が重臣の後藤賢豊を殺害するという事件(観音寺騒動)が起こり、これに反発した六角氏の家臣たちが観音寺城を攻撃、六角義弼が城から脱出するというハチャメチャな状況となります(◎_◎;)

これを知った浅井長政は兵を南下させ、太尾城を奪うだけでなく、佐和山城も奪還することに成功します。

佐和山城から観音寺城まではわずか18㎞(!)にすぎません(◎_◎;)

この頃のことについて、『江濃記』には次のような妙な記述があります。

…美濃の西方三人衆、安藤伊賀守・稲葉一鉄・氏家卜仙(「全」の誤りか)が、「斎藤道三様は斎藤義龍に殺される前に、織田信長に国を譲ろうとされていた、織田信長に味方して信長を美濃に引き入れよう」、と話し合っていたのを日根野備中守が知り、日根野は、「織田信長が国主となっては国が滅亡する、ならば浅井備前守を引き入れて一度合戦した上で和睦し、そのまま、備前守とともに尾張に攻めこもう」と考え、浅井備前守を誘ったところ、備前守はこれを受け入れて、永禄7年(1564年)3月に6千余りの兵を率いて美濃に進入し、美濃勢と一度合戦し、和睦した。しかし、六角承禎は浅井が美濃に行ったことを知って佐和山城を乗っ取ろうと考え、3月22日、1万4千の兵を出して佐和山城を包囲した、これを受けて浅井備前守は近江に退却、追撃してくる美濃勢を撃退して近江に戻ったところ、これに驚いた六角承禎は包囲を解いて去っていった。…

永禄7年(1564年)3月というのは、安藤(当時の名字は伊賀)守就が竹中半兵衛とともに稲葉山城を乗っ取っていた時期にあたります。

『江濃記』では、安藤守就は織田信長を美濃の国主にしようとしていますが、実際は織田信長が稲葉山城に接近してきても譲り渡そうとしていません。

まずここが明らかな誤りなのですが、そこは置いておいて、城を奪われた日根野が浅井長政に救援を要請した、と見るのはどうでしょう?(゜-゜)

浅井長政に安藤・竹中を排除してもらい、そしてそのまま美濃にやって来ている織田信長を一緒に撃破する…というのならなんとなくつじつまはあいます。

安藤守就云々の話以外はだいたい合っている話なのかもしれません(゜-゜)

宮島敬一は『浅井氏三代』で、この話を、六角氏に佐和山城が落とされてしまった永禄4年(1561年)3月の誤りではないか、としています。

『東浅井郡志』も、「江濃記に、之を永禄7年3月22日のこととなせど、その紀年は固より誤なり信ずべからず。但その月日は、果して拠る所ありしにや。是も亦覚束なし」と手厳しいです(;^_^A

しかし、佐和山城の南方わずか6.5㎞にある多賀大社が永禄6年(1563年)10月26日に六角義弼が観音寺城に帰還できたことを祝した文書を出している一方で、永禄7年(1564年)1月7日に浅井氏に対して年始の礼を執り行い、永禄8年(1565年)1月11日には佐和山城主・磯野員政が多賀大社に対し条目を定めていることから、観音寺騒動の際に佐和山城を手に入れたと考えるのが自然なのではないでしょうか💦

永禄9年(1566年)には浅井長政は江南近江で数回にわたって六角氏と合戦、始めは敗北していますがその後には大勝しています。

浅井長政は内紛により弱体化した六角氏相手に優勢に戦いを進めていました。

このまま行けば、浅井氏単独でも近江を制覇していたかもしれません(゜-゜)

そんな中、永禄10年(1567年)に織田信長が隣国・美濃を制圧します。

上洛を目指す信長にとって、浅井領は通り道にあたります。

浅井長政にとっても、隣国に強大な勢力が現れたわけで、放っておくわけにはいきません。

ここに両者は接近することになるのです…!🔥

〇織田・浅井の同盟~浅井長政とお市の結婚

織田と浅井は、(おそらく永禄10年[1567年]の)9月15日に初めて書状を交わしました。

「未だ申し述べず候と雖も、啓し達し候、尾張守殿へ書状を以て申し候、宜しく御執りに預かるべく候、仍って太刀一腰・馬一疋を進覧し候、向後申し承るべき便までに候、尚氏家方・伊賀方伝説有るべく候、恐々謹言」

これは浅井長政が信長の家臣の市橋長利にあてて送ったもので、その内容は、

…初めて書状を送ります。尾張守殿(織田信長)に書状を送ったので、よろしく御取り成しください。太刀・馬を一つずつ贈ります。氏家(卜全)方・伊賀(安藤守就)方からも伝言があると思います。

…というものです。

9月15日といえば稲葉山城陥落のすぐ後ですね😲

一色(斎藤)氏の滅亡はあっという間でしたから、浅井長政も予測できていなかったのでしょう。

あわてて、氏家卜全・安藤守就を通じて、信長に接触を図ったものでしょうか。

その後の織田と浅井の関係の進展を示す書状が残っています。

(おそらく永禄10年[1567年])12月17日のもので、その内容は、

「…仍(よ)って浅井備前守と信長縁辺(えんぺん)の入眼(じゅがん)し候と雖も、まず種々申し延べ信長別儀無く候。なお以て心より切々に調略し候条、油断無く疎意に存ぜず候。急度(きっと)罷り上り御意を得るべく候。…これらの趣き宜しく御披露に預かるべく候。」

(…浅井氏と織田氏の婚姻が成りましたが、これまで申しましたように、信長は六角氏に対して支障は感じていません。私も自ら信長に働きかけておりますので、六角氏をなおざりにしているわけではありません。必ずそちらに出向いて話を伺うつもりです。…以上のことを、六角義賢殿にお伝えください)

…というもので、足利義秋家臣の和田惟政が、六角義賢(承禎)家臣の三雲定持・成持父子に送った書状になります。

信長もそうですが、足利義秋は、上洛の通り道となる、六角氏を味方につけようと工作していました。

しかし、六角家中で織田と組むことに強く反対したのが三雲父子だったと考えられます。

なぜなら、三雲定持の子で成持の兄の賢持は浅井氏との戦いの中で戦死しているからです。

浅井氏に恨みを持つ三雲父子は、その浅井と織田が婚姻したと聞いて、織田に対しても敵対感情を持ったことでしょう。

そのため、和田惟政は、三雲父子に対し、浅井・織田が婚姻したが、それは六角氏に対する同盟ではないから心配しないでほしい…ということを伝える必要があったのでしょうが、

この書状で大事なのは「織田と浅井が婚姻した」ということですね💦

ここで婚姻したのは、浅井長政と、織田信長の妹のお市である、というのは非常に有名な話ですね。

しかし、この結婚にはいろいろな議論が存在します(◎_◎;)

どんなことかというと、「二人はいつ結婚したのか?」というものです。

これまでは、永禄10年(1567年)年という前提で話を進めてきましたが、異説もたくさんあるのですね。

例えば次のようなものです。

①『川角太閤記』…永禄2年(1559年)6月

②『東浅井郡志』…永禄4年(1561年)

③『総見記』…永禄11年(1568年)4月下旬

④奥野高広氏『織田信長と浅井長政の握手』…永禄10年(1567年)末~永禄11年(1568年)頃

年代に大きな幅がありますね(◎_◎;)

①の『川角太閤記』には次のようにあります。

…この話は『信長公記』には書かれていないが、それは、著者の太田又助(牛一)がまだ若かったため日記をつけていなかったからである。永禄元年(1558年)、尾張はようやく信長のもとに統一されたが、それでも時々国内で合戦となる時があった。当時は、朝倉は越前、浅井は近江小谷にいて天下をうかがい、近江観音寺は佐々木(六角)承禎、伊勢岐阜(?)清須は信長、三河・遠江・駿河の辺りは今川義元、小田原には北条がいた時であったが、信長は妹を近江の浅井備前守に嫁がせた。浅井家臣の磯野伯耆守は内心、信長が天下を取ると思っていた。浅井備前守は結婚していなかったので、周囲から結婚の話が色々と来ていたのだったが、磯野伯耆守は信長の妹と備前守を結婚させようと思っていた。夏に伯耆守は清須に赴き、佐久間右衛門(信盛)の仲介で織田信長に結婚の話を持ちかけた。信長は近江までの道中に敵がいることを心配したが、伯耆守は来年6月にもう一度夫婦で東国に社参に向かう、その際に密かに輿に信長殿の妹を載せて近江に帰れば安全です、と伝えた。信長はこれを聞いて、妹を御目に懸けようと言って、伯耆守を奥へ連れて行った。伯耆守は信長の妹に会って、来年、祝言ができるように準備いたします、と伝えて帰国した。翌年6月、磯野伯耆守は東国への社参と偽って近江を出発した。清須についた際に、信長の妹を密かに乗り物に載せ、近江に無事に連れて帰り、婚姻が成った。信長は川崎という者を商人に変装させて近江に向かわせて祝言を見届けさせていたが、帰国した川崎から婚姻が成ったことを聞いて、非常に喜んだ。周囲の国々の者たちは磯野伯耆守の計略をほめ、特に松永弾正が感心したという…

宮島敬一氏はこれについて、永禄元年(1558年)のころの「尾張の時代状況の把握は正確で、記述の信頼度を高めている」として、永禄2年(1559年)説を推している。

②『東浅井郡志』は、浅井長政の子どもたちの生年に注目し、長男の万福丸は『信長公記』に天正元年(1573年)に10歳で殺された、とあるので永禄7年(1564年)生まれたのであるから、永禄6年(1563年)以降に結婚したとする説は「何れも皆誤なり」とする。『総見記』は万福丸はお市との間に生まれた子ではない、と記しているが、これは結婚したのは永禄11年(1568年)とする前提に基づく誤りである、とする、『川角太閤記』の永禄2年(1559年)説については、『川角太閤記』が史料として引用することのできる良書であると評価したうえで、その記述が正しいとすると、六角氏の家臣の娘(平井氏)と結婚しないまま離別したことになる、『川角太閤記』は具体的な結婚の時期を書いていないので、この記事は永禄4年(1561年)5月頃の、浅井長政が信長の一字をもらって改名した時期にあたるのではないか、とする。

宮島敬一氏はこれについて、「確たる論拠はない」平井氏の娘が離縁されたのは永禄2年(1559年)4月だと「確定する史料もない」「離縁と婚姻が同時進行していても必ずしも不思議ではない」「信長が偏諱を受け信長としたことと婚姻とは直接には関係しない」と手厳しく論じている。

③『総見記』の「浅井備前守長政御縁者となる事」には、次のように書かれています。

…信長はその頃岐阜にいて、天下一統を志したが、京都に向かう途中に近江があり、近江を従えなければ京都に行って五畿内を治めることは難しい。畿内を治められなければ天下を一統できない。そこで家臣を集め、近江平定について話し合った。佐久間信盛が進み出て言った、「武士であれば天下を望むのは当然の成り行きであります。まず近江を平定されようとされているのはもっともなことではございますが、近江には六角・浅井の両大将がおり、六角は「弱者」(ルビは「よわもの」)なのですぐ従うでしょうが、浅井を倒すのは容易ではありません」信長はこれに応えて言った、「貴様が言うとおり、浅井の祖父・亮政は武勇の者で、武功を挙げて半国の主となった。その子の久政も勇士である(!)今の備前守長政も先祖を越える剛の者で、六角と戦うために16歳(数え年)で家臣と示し合わせて父を隠居させ、その後は佐和山の城を攻め取り、野良田で大勝し、愛知川以北をことごとく平定するなど武勇の誉れ隠れなく、家臣たちも武功の者が多いと聞く。彼らを敵にしては短期間での上洛はかなわなくなってしまうだろう。戦わずに味方につける手はないかと考えたところ、幸いにして長政はまだ結婚していないので、備前守を妹の聟(むこ)にして味方につけようと思う。浅井氏に伝手(つて)がある者は仲介せよ」家臣たちが信長の智謀に感心する中、不破河内守が言った、「私は以前越前に行ったときに、途中で近江にしばらく滞在し、その際に浅井の家臣の安養寺三郎左衛門と親しい仲になりました。彼にその話をしてはどうでしょうか」信長はこれに了承して河内守を小谷に派遣した。浅井氏はともかく相談して決めると答えて河内守を岐阜に帰した。織田信長は言った、「浅井もどうやら同じ考えのようだが、我らの心中を見究めようとしているのだろう」そして再び河内守を近江に送ったが、その際に内藤勝助を添えた。浅井氏は再び家臣を集めて相談した。浅井久政は言った、「信長に味方し、承禎を倒すことができれば、京都に旗を立て、天下(足利義昭のことか)の政治を助けることができるのは確実だろう。しかし、ここに一つの難題がある。織田氏は代々朝倉氏と仲が悪い。浅井氏は朝倉氏に従属して、これまでに深い恩がある。それに加えて、子々孫々、朝倉に敵対することは無いと誓紙を交わして堅く約束している。信長が朝倉と戦う事になったときは、浅井氏はどうすればよいのか」中島日向守が進み出て言った、「仰られたことはもっともなことにございます。信長にそのことを確認して、朝倉を攻めないことを約束させた上で、結婚を受け入れるのはいかがでしょうか」家臣たちが皆同じ意見であったので、使者を岐阜に派遣することにした。信長は使者と対面していった、「結婚のことは我らが浅井氏に言い出したことである上は、そちらの望むことは受け入れよう。たとえ天下を切り従えたといっても、朝倉義景に対して、決して心変わりはしない」使者は喜んでこれを浅井父子に報告したが、浅井父子は共に用心深い者であったので、証拠がなければ信用できない、と言って、信長が誓紙を書くことを希望した。信長は安いことだ、と言ってすぐさま誓紙を書いて使者に渡した。使者が近江に戻る際、信長は使者を厚くもてなし、その際に使者の安養寺三郎左衛門には長光の太刀を、河毛三河守には国次の脇差を贈った。誓紙を見た浅井父子は大いに喜んだ。信長には多数の「妹子(いもとご)」がいたが、その中の「御市の御方」を永禄11年(1568年)4月下旬に浅井氏に嫁入りさせた。「おいちの御方」は「近国無双の美人」であると評判であり、また、信長は長政を尊敬して、弟のように親しく接したので、人々は浅井殿は「大果報の人」だと言いあった。「御市の御方」は後に「小谷の御方」と呼ばれることになるが、結婚の際、不破河内守・内藤勝助が付き添い、藤掛三河守が「御市の御方」の執事として付けられた。この頃、斎藤龍興は浅井久政の妹婿であったので近江にいたが、長政が信長の縁者になったので、上方に落ち延びていった。

この『総見記』の記述は、『浅井三代記』と非常によく似ていますね~(゜-゜)

おそらく参考にしたのでしょう(『浅井三代記』は寛文年間[1661~1673年]末頃成立、『総見記』は1685年成立)。

異なる点をかいつまんで挙げてみますと、

・婚姻の話をするのは浅井が美濃に攻めこみ、斎藤右兵衛(斎藤龍興)と戦った年(つまり永禄6年[1563年])だとしている。信長は美濃の大半は抑えたが、浅井に内通したり、浅井に属していたりするものも多い、と言っている。

・信長は浅井亮政の事を「世に隠れなき弓取」と評している。

・浅井長政は16歳(数え年)の時、平井加賀守の娘を離縁したので、妻がいない状態だと言っている。

・信長は浅井長政と交渉する際に、我等よりも美濃に近いので、美濃でほしいところがあれば譲ろう、と言ったが、長政は美濃の事については、浅井の家来となっている者に干渉さえしなければそれでよい、と答えている。

・朝倉氏との関係について、長政は、数年にわたり浅井氏と親しくし、浅井亮政の代に特に世話になった、と言っている。

・浅井久政について、「年を重ねているので」朝倉氏に対しての恩義を守ることを望んだ、と書かれている。

・織田・浅井の婚約が成立したがすぐに結婚はしておらず、織田信長が美濃を平定した翌年の春に浅井長政とお市は結婚している。また、信長は妹のお市を養女とした上で、浅井長政に嫁がせている。

・岐阜城を出発したお市を、浅井方の安養寺三郎左衛門・川毛三河守・中島宗左衛門は垂井(岐阜県垂井町)まで迎えに来ている。

・お市の事を、「其比天下に隠れなき御生付」(世の中に広く知れ渡っているほどの容姿)と書いている。

…となります。

総じて浅井氏をアゲ↑↑ております(;^_^A

『浅井三代記』は、足利義昭が滞在していた近江矢島の事を、「小谷の麓矢島野」のことだと書いています(おそらく長浜市八島町のことか)が、これは明らかな誤りなんですが、こういうのを見てもわかるように信ぴょう性は高くありません💦

(『東浅井郡志』には、「沢田源内の捏造せる小説を、其儘襲用したる者なり。信ずべからず」とある。沢田源内[1619~1688]は六角氏郷を名乗り、『江源武鑑』などの偽書[とされる]を執筆した)

宮島敬一氏は、『総見記』も「信頼性は低い」とバッサリ切り捨てていますが(;'∀')

…以上から、宮島敬一氏は、『浅井氏三代』において、浅井長政とお市の結婚が成ったのは永禄2年(1559年)6月以降で、遅くとも永禄6年(1563年)で、永禄10年(1567年)・11年(1568年)説はない、と断じているのですが、

宮島敬一氏が永禄10・11年説を否定する理由として「万福丸が永禄7年(1564年)には生まれていること」が大きな比重を占めていると思うのですね。

しかし、福田千鶴氏によれば、万福丸の母がお市であったことを示す史料はない、…ということなので、この時点で宮島説の論拠はもろくも崩れてしまうのですね(-_-;)

また、浅井氏が織田氏と初めて書状を交わしたことを示す史料(前掲)には、織田信長のことを「尾張守」と呼んでいる部分があるのですが、

信長が「尾張守」を名乗っていた時期は永禄9年(1566年)9月13日から永禄11年(1568年)8月までなので、この点からも、永禄9年より前は結婚の時期として適当ではない、ということになりますね(;'∀')

そうなると、永禄10年・11年説が真実味を帯びてくるのですが、

永禄10年(1567年)説ではあり得ない、という批判があります💦

それは何かというと、お市の長女の淀殿は永禄10年(1567年)に生まれているのだから、永禄10年末に結婚して永禄10年中に淀殿が生まれるのはあり得ない、というものです。

しかし、淀殿が1567生まれとするのは、淀殿が生まれてだいぶ後の、江戸時代後期の1772〜1791年に書かれた『翁草』だけなので、信ぴょう性に疑問符を付けざるを得ないのですね(;^_^A

一方、井上安代氏は、『義演准后日記』慶長11年(1606年)5月3日の条に、5月2日から、淀殿と秀頼が「有卦」に入るための修法に入った、という記述に注目して、淀殿の生年を割り出しました(◎_◎;)

「有卦」というのは、出生年に割り当てられた星に応じ、吉年の廻り年があり、有卦に入れば、それから7年は吉事が続く、というスピリチュアルなものなのですが、

慶長11年(1606年)に有卦入りする星座は土星か水星の2つで、

生まれた年の星が土星か水星にあたるのは、1567年前後で言うと、

1566年(土星)、1567年(水星)、1569年(土星)の3つであり、

そこから、淀殿が生まれたのは永禄12年(1569年)である、と導き出したわけなのですね。

永禄12年(1569年)生まれなら無理はありませんね(゜-゜)

そして、実はもう1つ、永禄10・11年結婚説に反対する意見があります。

それは、「結婚する年齢が遅いのではないか」というものです(◎_◎;)

『柴田勝家公始末記』には、お市が天正11年(1583年)に死んだとき、数え年で37歳であった、と書かれているのですね。

ここから考えると、お市は天文16年(1547年)生まれ、ということになります。

そうなると、お市が結婚したのは20歳か21歳の時、ということになるのですが、

黒田基樹氏『家康の正妻 築山殿』によると、戦国の女性の結婚年齢は17・18歳が多いそうなので、確かに少し遅いということになります💦

しかし、黒田基樹氏は『お市の方の生涯』で、『柴田勝家公始末記』が書かれたのはお市が死んでから、少なくとも20年以上経った江戸時代に書かれたもので、しかも、お市の娘たちが関わった形跡は見られないので、「十分な信用性があるとは認め難い」とし、生まれた年は天文19年(1550年)頃であったのではないか、と推定しています。

父親の織田信秀は天文21年(1552年)3月に亡くなっているので、最大天文21年生まれ、とすることも可能なのですが、病が篤くなった天文19年(1550年)より後は表舞台に姿を現さなくなるので、このあたりが限界値と言えそうです。

…以上から、浅井長政とお市が結婚したのは、だいたい永禄10年(1567年)末頃だろうと考えられるのですが、

(ちょっと気になるのは、『渓心院文』に、川崎六郎左衛門を初がなぜか大事に扱っていた、という部分があることです。この川崎は『川角太閤記』に出てくる川崎で、お市の婚姻に関わった人物なので、大事にされていたのではないか、と考えられるので、『川角太閤記』の記述に信ぴょう性が出てくるのですよね…💦)

お市については、なんと次のような説が存在するのですね。

それは、お市は「織田信長の妹ではない」という説です(◎_◎;)

〇お市は信長の妹ではない!?

『東浅井郡志』は、『以貴小伝』の台徳院(徳川秀忠の戒名)の条に「御所の御台所(江)は贈中納言藤原の長政卿浅井備前守どのの御事なりの御女にて御諱は達子と申す。御母ハ織田右府信長の御妹なり諸書にしるす所みな妹という。しかるに渓心院という女房の消息を見しに、信長のいとこなりという。若ハいとこにておわせしを、妹と披露して長政卿におくられしにや。御兄右府のはからいにて長政卿に嫁し姫君三所をもうけ給う」という、「お市=信長のいとこ説」という衝撃の文章を紹介した後に、『織田系譜』に、信長の叔父である信康の孫の「女子」の下に「浅井」と注記されているのを紹介し、いとこの娘ではないか、と推察しています(◎_◎;)

たしかに「渓心院文」には、「しょう高院様は…御ふたり(※「たり」は「くろ」の誤りか)さまハのふ長さまの御いとこニて、ひめさま御いちさまと申…」とあり、信長の「いとこ」だと書いてありますね(◎_◎;)

これに対し、黒田基樹氏は、「渓心院文」を見ると、「いとこ」の関係を記す場合は、その親同士の関係が記されている(例えば、京極高次[宰相]はお市の娘、初[常高院]と結婚したが、京極高次の母は浅井長政の姉で、初の父は浅井長政なので、京極高次と初はいとこ同士ということになるのだが、それについて、「渓心院文」は次のように書いている。「…しょう高院さまハ…京極さいしょうさまへ御やりましまいらせ候、さい相さまの御ふくろさまハあさい殿御きょうだいゆえ、御いとこと(※「と」は「す」の誤りか)ち(※いとこ筋)にて候事、…」)、「弟」について「おととこ」と書いているので(例えば、「…若さ守護御おととこさまニて、…」とある)、「いとこ」は「いもとこ」の誤写だとしています。

渓心院文」は、先にいくつか紹介した一部の文章だけでもすでに誤写がかなり見られるのですが(;^_^A、文章中の「妹」について書かれた言葉を拾い上げてみました。

「…まつ御いもとさまかたを…」

「…高しゅ院さま御いもとこさまニて御さ候、…」

「…しんしゅ院は御いもとの御事のように、…」

…こうして見ると、「こ」は抜かすことはあっても、「いもとこ」を「いとこ」と書いている例は見られませんね(;^_^A

「いもとこ」の誤写だというのは少し無理があるかもしれません💦

しかし、比較的早い寛永年間(1624~1644年)に書かれたとされる『当代記』に「浅井備前守妻女は信長妹也」と記されていたり、加賀藩前田家の家臣、村井重頼(1582~1644年)が書いた覚書に「信長公御妹」と書かれていたりするため、「妹」である可能性はかなり高いとは思われます(゜-゜)

『渓心院文』はそれより遅れて、1676~1695年頃に作られていますし。

さて、とにもかくにも、(永禄10年[1567年]末?に)織田信長は、上洛の道筋にある北近江の大名、浅井(あ「さ」い?)長政に、(妹?の)お市を嫁がせることで、浅井氏と同盟を結ぶことに成功しました。上洛にまた一歩近づいたわけです。

そして、遂に運命の永禄11年(1568年)を迎えることになるのです…!🔥

2023年11月19日日曜日

瀬戸に制札を出す~信長初期の経済政策(1563年)

 辞書を引くと、「瀬戸物」は「陶磁器の総称」とか、

「当時の通称」。「焼きものの事」などと出てきます。

粘土でできた皿などを見ると、あ、瀬戸物、と思うのですが、

実は「瀬戸物」とは、愛知県瀬戸市で作られている焼き物のことなのですね(◎_◎;)

西日本では「陶磁器」のことを「唐津焼」と呼ぶんだそうですが、東日本では「瀬戸物」と呼びます。

(主に東)日本のやきものの代名詞まで上り詰めた瀬戸物。

この瀬戸物と織田信長の関係について、今回は見ていこうと思います♪

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇「瀬戸物」とは

瀬戸陶磁器卸商業協同組合さんのサイトによれば、

焼き物…正しくは陶磁器は、主成分が粘土のものを陶器(土もの)、陶石のものを磁器(石もの)と呼び、

陶器を初めて本格的に焼いたのが瀬戸で、磁器を初めて作ったのが唐津なのだそうです😲

瀬戸は良質の粘土がよく取れる土地で、5世紀後半には須恵器の生産が始まっていたとか。

諸説ありますが、「瀬戸」の名前は「陶(すえ)戸」から転じた物、とも言われています。

瀬戸物の特徴は「釉薬」(ゆうやく・うわぐすり)がかけられていることで、釉薬がつけると耐水性が増すとともに、焼いた時に独特の色や光沢、模様がつくのだそうです。

日本の代表的な焼き物を「六古窯」と言い、瀬戸物のほかには越前焼・常滑焼・信楽焼・丹波焼・備前焼があるのですが、瀬戸物以外は釉薬を用いません(現在の信楽焼は釉薬を使用するようになったそうですが…💦)。

そして戦国時代になると、瀬戸物は美濃(岐阜県南部)でも作られるようになっていくのですが、このことに織田信長が関係している、とも言われているのですね(◎_◎;)

その信長と瀬戸について、信長が瀬戸に出した制札の内容が伝わっているので、紹介したいと思います。

〇織田信長と瀬戸物

「制□(札?)  □□(瀬戸?)

一、瀬戸物之事、諸口商人国中往反不可有違乱事

一、当□(郷?)出合之白俵物并□(塩?)あい物以下、出入不可有違乱、次当日横道商馬停止之事

一、新儀諸役・郷質・所質不可取之事

右条々、違犯之輩在之者、速可加成敗者也、仍下知如件

永禄6年(1563年)12月 日(花押)

この制札が言っている内容は、だいたい次のようなものです。

①瀬戸物を売買する商人は、関銭を免除する(国内通行の自由)。

②瀬戸の市では塩・魚を自由に売買してもよいが、市場が開かれる際、瀬戸に向かわない道を通行することを禁止する。

③新しく諸役(年貢以外の雑税)を設けることを禁止する。

この制札を出した目的は何だったのでしょうか?(゜-゜)

①は、現代に置き換えて言うならば、瀬戸物を買いに瀬戸に訪れる人は、高速料金を無料にしますよ、という感じになります。そうなれば、瀬戸物を購入しようという者が増えますよね。

②は、伊勢湾周辺の塩・魚商人に関するきまりです。宮本常一『塩の道』によれば、伊勢湾周辺の人々は、潮と魚を、海がない信濃(長野県)に運んで大きな利益を得ていました。そのルートとなったのは木曽川(美濃ルート)・庄内川(尾張ルート)・矢作川(三河ルート)で、これらは「塩の道」と呼ばれたそうです。そして、瀬戸は庄内川を使う尾張ルートの中継地点でした。

塩・魚を自由に売買してもよい、というのは、瀬戸にもあったと考えられる、塩座・魚座による独占販売(瀬戸で塩・魚を売れるのは瀬戸の塩・魚座に属している商人だけ)を禁止しているということです。

瀬戸の塩・魚座の者は面白くなかったでしょうが、これを実施することにより、伊勢湾周辺の商人は尾張ルートを選択する人が増えるようになり、そうなると、塩・魚を売って瀬戸物を買う人も増えることになります。

瀬戸に必ず立ち寄るように命令していることも、瀬戸物を購入する機会を増やすことにつながった事でしょう。

つまり、①・②の政策はどちらも、瀬戸物がより売れるようにすることを狙ったものであった、ということになります。

では、信長はなぜ瀬戸物がたくさん売れるようにしたかったのでしょうか?(゜-゜)

それは、③を見るとわかります。

③は、新たな税の徴収を禁じるものであり、昔からの税を免除する、と言っているわけではありません。

奥野高広氏は、瀬戸物売買については旧来通り課税し、商業税は徴収した、としています。

商業税は売り上げにかかる税ですから、瀬戸物が売れれば売れるほど信長に入ってくる収入が増えるわけで、信長の狙いは収入の増加にあった、と言えるかと思います(゜-゜)

また、別の見方もあります。

16世紀後半になると、瀬戸の焼きもの職人が大量に美濃に移って瀬戸での瀬戸物生産が衰えるという現象(これを「瀬戸山離散」という)が起こっているのですが(1610年に尾張徳川家による呼び戻し政策が実施されて瀬戸焼は復興する)、

この理由について、戦乱のため美濃に移ったという説、陶磁器生産に必要な木材や粘土が枯渇したという説、信長が美濃を平定した際に美濃に移った(もしくは移動させられた)という説があります。

「戦乱のため美濃に移った」という説は、『方事書留記』に「…時に戦乱相続き、斯業振はず…」とあるように、たしかに瀬戸は尾張・三河の国境で、品野城などをめぐって、織田と今川の抗争の最前線であったので、1550年代は非常に危険な場所になっていましたから、この頃比較的安定していた美濃に移った、ということは確かに考えられます。

以上から、信長が瀬戸に制札を出したのは、衰えていた瀬戸の産業を復興させるのが目的だったのではないか、とも考えられるわけですね(゜-゜)

『瀬戸考略記』は、制札が出される永禄6年(1563年)のこととして、次の逸話を紹介しています。

織田信長は鷹狩のついでに、瀬戸村にやってきて 陶器の名品を見ていたとき、狩人の身なりをした者が、深川神社境内に隠れて、鉄砲で信長を撃とうとした。その時、深川神社の神主や陶工たちが、これを見つけて捕まえ、信長の前に連れて行った。信長が理由を取り調べると、斎藤竜興に頼まれたと白状した。信長はすぐさまこの者の首をはね、急いで城に戻った。危難を逃れることができたので、同年冬、深川神社へ奉射祭神料として、75石の神領を寄付した…

これを見ると、瀬戸村の者たちに命を助けられたことが、瀬戸に対し保護政策を実施する契機になったことがわかります(真実かどうかはわかりませんが)。

一方で、信長に移住を命じられたのではないか、という説もありますが、永禄6年(1563年)に瀬戸に対して上記の制札を出していたり、瀬戸の名工6人(加藤宗右衛門・加藤長十・俊白・新兵衛・加藤市左衛門・加藤茂右衛門)を選定していたり、天正2年(1574年)に、信長が瀬戸物の陶工である加藤市左衛門に、「瀬戸焼物釜の事、先規の如く、彼の在所に於いて之を焼くべし、他所として一切釜相立つべからず」(瀬戸物生産について、先に定めたように、例の場所で焼く事、別の場所で焼くのは認めない)という朱印状を出していたりして、瀬戸での焼きもの生産を保護している姿勢が見られることから、強制移住説に反対する意見もあります。

信長と瀬戸物について、ORIBE美術館のサイトには、「茶陶に関しては全て最高権力者の織田信長が直轄管理しました。窯業生産の管理育成は信長重臣の美濃の森領主(長可)が信長の信任ををうけ厳しく管理していたようです。また流通についても茶陶については信長指定の業者が担当し、収入は織田信長の収入であったようです。…桃山時代の美濃古陶(茶陶)の流通は、従来考えられてきた名もなき陶工が市場の要請に応えて作品を制作して販売したものではなく、織田信長、豊臣秀吉の管理の下で組織的に生産され組織的管理のもとで流通された歴史事実があります」とあり、信長が金銭収入を増やすために、茶陶(茶の湯で用いる陶器)の生産から流通までを厳しき管理、独占販売を実施していたことがわかりますね(◎_◎;)つまり、茶陶生産は国策産業であったわけです💦

しかし、信長の保護政策があっても、瀬戸から美濃に移住する焼き物職人は後を絶ちませんでした。

『陶磁器お役立ち情報』のサイトには、瀬戸山離散により瀬戸が一時的に衰退する一方、美濃では黄瀬戸(きぜと)・瀬戸黒(せとぐろ)・志野(しの)・織部(おりべ)など近世を代表する茶陶が作られました」「美濃産の茶碗に「瀬戸」の名がみられる理由は、桃山期には瀬戸と美濃の区別がなかったためです。美濃焼という区分がされるのは明治の廃藩置県後のことです」とあり、瀬戸の職人が美濃に移ったことが茶陶の名前からもうかがえます。

また、信長が選んだ瀬戸の名工6人のうちの1人、加藤市左衛門景光(1513~1585年)は天正11年(1583年)に美濃に移り、久尻(くじり)清安寺(岐阜県土岐市泉町久尻)の裏山に窯を築いています(久尻焼の起源)。

加藤市左衛門が美濃に移った理由は、先に紹介した永禄6年(1563年)の朱印状と共に伝わっている正徳二年(1722)の文書に記されており、そこには、同業者のねたみに対して命の危険を感じたためだ、と書かれています。

これを見ると当時の瀬戸は相当殺伐としていたのでしょうか…(;'∀')

もしくは旧態依然としていて、新しいことに挑戦する人が目の敵にされる状態にあったのかもしれません。

だいぶ時代が下った江戸時代中期の文書ですし、実際にそうだったかどうかはわかりませんが…。

ORIBE美術館のサイトには、「永禄8年織田信長は家臣で一番信頼の厚い実力者の森可成(信長側近の森蘭丸の父)(今川との桶狭間の戦いで織田信長に奇襲作戦を進言した織田信長にとって最重要人物)を美濃領主と定め、行政面からも窯業育成に本格的に力を入れました」とあり、

土岐市美濃陶磁歴史館のサイトには、「元屋敷陶器窯跡は、天正年間に織田信長の産業振興策により、瀬戸から移動した陶工が開窯したと伝えられ、天正10年(1582)の「本能寺の変」の後、東濃地方を平定した森氏の配下に入った妻木氏の領地になります。妻木氏は窯業を積極的に支援し、元屋敷陶器窯跡では美濃桃山陶生産が盛んに行われました」とあり、

これらによれば、信長や森可成は美濃において陶磁器生産を積極的に支援したため、これに魅力を感じた陶工たちが美濃に移っていった…ということになりますね(゜-゜)

この説が一番いい線いっているのではないかな、と個人的は思います。

また、赤羽一郎氏は『室町時代の常滑窯業』で、瀬戸の陶工の移動は、「瀬戸一帯の燃料や良質陶土の枯渇も原因としてあげられますが、あらたな生産体制をつくりあげるに適した東濃地方を目指したことが想定される」と述べています。

陶器生産がまた活発になっていなかった美濃は、新しいことを始めるのに適した土地であったといえるでしょう。

まとめてみると、

①1550年代、織田と今川の抗争の最前線となり、瀬戸物職人の中で美濃に逃れる者が現れた。

②永禄3年(1560年)、信長は今川義元を桶狭間の戦いで破り、永禄4年(1561年)には徳川家康と同盟したため、瀬戸周辺は平穏になる。

③永禄6年(1563年)、信長は敵対する美濃から職人を呼び戻そうと、瀬戸に対する保護政策を打ち出す。

④永禄10年(1567年)、美濃を平定した信長は、森可成を通じて、美濃で茶陶生産を積極的に支援、茶陶生産・販売を一元管理する政策を実施していく。茶陶生産に魅力を感じた瀬戸の陶工が美濃に流れるようになった。

…ということになりますね。

信長が長篠の戦いで大量に鉄砲を用意できたのも、この茶陶マネーがあればこそ、だったのかもしれませんね(゜-゜)

2023年11月15日水曜日

「天下布武」の朱印状

 永禄10年(1567年)8・9月頃に美濃(岐阜県南部)を平定した織田信長。

その後、ある有名な朱印を使用することになります。

しかし、その字の解釈が、最近はだいぶ変わってきているようで…?💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇「天下布武」の朱印状

織田信長は、永禄10年(1567年)11月に、家臣の坂井利貞に対して、次の非常に有名な書状を出しています。

「扶助として、旦の嶋のうち、二十貫文を申し付くるの上は、全く知行し、相違有るべからざるの状件の如し」

坂井利貞は、織田氏の吏僚で、長く奉行を務めることになる人物ですが、その利貞に、領地として、旦の島(現・岐阜県岐阜市守口町)のうち、40石相当の土地を与える…という内容の書状なのですが、なぜこれが非常に有名なのかというと、

実はこの書状は、あの有名な「天下布武」の朱印が押された、現在確認できる最古の書状なのですね(◎_◎;)

さて、有名な「天下布武」ですが、これはいったいどういう意味なのでしょう?

通説は、

「天下に武を布(し)く」と読んで、天下(日本全体)を武力で統一する、というものです。

つまり、この「天下布武」の朱印を採用したのは、美濃を制圧したばかりの織田信長が、これから天下統一に向け邁進していくぞ、と宣言した、という意味になるわけですね。

しかし、この通説に対して、近年様々な意見が出るようになってきています(◎_◎;)

まず「天下」についてです。

「天下」は日本全体、というような意味にとられることが多いですが、

当時の用例をいくつか見てみると、イメージが変わってきます。

一色(斎藤)の四奉行が永禄9年(1566年)に(おそらく)快川紹喜に対して出した書状

「織上天下の嘲弄これに過ぐべからず候」

(天下が信長をあざけってバカにする様子は、これ以上のものはないほどです)

②永禄13年(1570年)に織田信長が足利義昭に送った書状

天下の儀、何様にも信長に任せ置かるるの上は…」

(天下のことについて、とにかく信長に任されたのですから、…)

天下御静謐の条、…」

(天下が鎮まったのですから、…)


①の「天下」は、「日本国全体」…というとオーバーな感じもしますね。しかし、信長のことを悪く言っている書状なので、それもあり得るかもしれません。

②はどうでしょう。足利義昭が、「天下」のことを信長に任せた、と言っているのですが、義昭は日本全体を信長に任せたのでしょうか?

しかし、この時まだ信長は日本全体を平定していません。ですから、日本全体を任せられるはずがないのです。

その後、「天下」が落ち着いた、とも言っています。まだ日本全体が落ち着いていないのに…。

どうやら、「天下」は「日本全体」という事ではなさそうです(゜-゜)

ならば「天下」は何なのかというと、ルイス・フロイスの報告書を見るとわかってきます。

①1582年…織田信長は、公方を都から追い出して、日本の「君主国」、すなわち「天下」と称する「近隣諸国」の征服に乗り出した。

②1584年…信長の死後、誰が「天下」、すなわち、「都に隣接する諸国」からなる「君主国」の支配と政治を手にしたか。

③1588年…「畿内の5カ国」の君主を「天下の主君」、すなわち、「日本の君主国の領主」と呼ぶ。

…こうして見ると、当時の「天下」は日本の中心地域である、畿内の5カ国(山城・大和・河内・和泉・摂津)のことを指す、ということがわかりますね(゜-゜)

天正10年(1582年)に羽柴秀吉が、「坂本を持ち候えば、天下を包み候て」と書状に書いています。

当時、秀吉は播磨国(兵庫県南西部)を領国としていて、山崎の戦いの後の論功行賞で、秀吉が近江の坂本も手に入れると、「天下」を取り囲む形になる、と言っているのですが、このことは「天下」の範囲が京都周辺であったということを補完するものでしょう。

ここで、戦国時代以前の「天下」について考えてみたいと思います。

「天下」の言葉の最も古い用例は、大和政権の君主を指す「治天下大王」になります。

この場合の「天下」は、「天の下」。

『日本書紀』などでは、2人の神様(イザナギノミコト・イザナミノミコト)が天の上にある神様が住むところ(高天原)から下界に日本を作った後、天から降りて来て天皇となった、と書かれていますから、当時は「天下」=人間の住む下界全体という認識であったわけです。

鎌倉時代になると、

『吾妻鏡』の文治元年(1185年)12月6日の条に、

「光雅朝臣は追討の宣旨を下され畢。天下草創の時、不吉の職事也。早く停廢されるべき也」

(藤原光雅は源頼朝の追討の宣旨を出した者なので、頼朝の天下が始める時にあたって不吉な者ですから、早く辞めさせるべきです)

…とあり、この場合は「世の中」という意味になるでしょうか(゜-゜)

藤原道長の「この世をば我が世とぞ思う」みたいなもんでしょうか。

俺の時代が来た!みたいな。

建久元年(1190年)6月29日の条には、

「天下落居の後は、万事君の御定を仰ぐべく候事也」

(天下が落ち着いた今、この後は後白河上皇の命令を聞くべきである)

…とあり、この場合も「世の中」にあたりますが、

これは奥州合戦を終え、日本中が平定された後なので、「天下」の範囲は「日本全体」を指していることがわかります。

…以上から考えると、戦国時代の「天下」の範囲はだいぶせばまっていたことがわかりますね(;^_^A

ちなみに、『日葡辞書』で「天下」を引くと、

「君主の権、または、国家」「天下第一…世界中で唯一独特のもの」

…と出てきます。

これでいくと、国を動かす実権、もしくは、日本国全体だととらえられていることがわかりますね…(゜-゜)

これは天下統一されて10年以上経った後に作られた辞書ですから、ルイス・フロイスの時と違って「天下」の範囲が広がっていたのでしょうか??

さて、「天下」が「畿内5か国」のことだとわかったところで、

つづいては「布武」についてです。

こちらは「武力で統一する」という解釈が一般的ですが、

神田千里氏は『織田信長』で畿内を平定し、将軍の命令が行き渡るようになることだとし、

柴裕之氏は『織田信長』で、室町幕府再興を実現すること、

久野雅司氏は『足利義昭と織田信長』で、「将軍が支配する秩序の回復」だとしています。

「武力で統一」じゃないの!?とビックリしますが、

そもそも「布武」には「武力で統一する」という意味はないんだそうですね(◎_◎;)

中国の古典の『礼記』には、「堂上には武を接し、堂下には武を布く」とあります。

これは「宮殿内において、皇帝の近くでは「武」を近づけ、それ以外では「武」を離す」という意味で、

どういうこと?と思うのですが、

どうやら「武」には「足跡」という意味もあるようです。

つまり、この『礼記』の文章は歩き方のマナーについて示したものなのですΣ( ̄□ ̄|||)

これは「宮殿内では足跡をつなげるように歩幅を狭くし、宮殿の外では節度を守った歩幅で歩く」…という意味なんだそうですが、

川口素生氏は、この『礼記』から、『織田信長101の謎』で、「信長が、従来にはない方法(歩き方、姿勢)で天下をわがものにしようと考え、この印文を用いた可能性が高いように思います」と記し、

『平成談林』というブログでは、「天下布武」とは「天下を節度を持って歩む」という意味だ、としています。

信長はその後の行動の様子を見ても、無秩序な様子を非常に嫌った(ルイス・フロイスも「正義において厳格であった」と記しています)人であったので、納得できる考え方です。

しかし、織田信長の行動は「節度」(行き過ぎの無い程度)とはほど遠いような…(;^_^A 

曲がったことをした人間を許さない厳格さや、後年の安土城でのイベント・馬揃えなどで見せる派手好きな様子を見ると、とても「節度」を守っているようには思えないのですよね(-_-;)

一方で、「布武」には別のとらえ方もあります。

立花京子氏が『信長と十字架』で述べたように、「武」は中国の古典、『春秋左氏伝』に由来するのではないか、という者です。

岩波文庫版『春秋左氏伝』宣公12年(紀元前597年)のところには、

「「武」という字は戈(軍事)を止める意味である。」

「「武」とは、暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにするためのもの」という言葉が出てきます。

明治37年に作られた辞書・『言海』にも、「武」と引くと、「(1)威力を以て暴を服すること。能く兵乱を定むること。(2)いくさ。軍隊。(3)戦の力」と、一番最初に、暴れる者を従わせること、戦乱を収めることだと出てきますね(゜-゜)

「布く」というのは、「行き渡らせる」という意味ですから、

「天下布武」というのは、「畿内に秩序を行き渡らせる(安定した状態にする)」ということになるでしょう。

うーん、こちらの方がしっくりきますねぇ(;^_^A

また、「天下布武」を採用した時の話が、『政秀寺古記』に載っていますので、紹介したいと思います。

…沢彦は呼ばれて岐阜城に行ったところ、信長は興奮した様子で次のように言った、「天下を治めようとするにあたっては、朱印が必要になる。朱印に彫る字を考えていただきたい。」沢彦は何度も辞退したが、信長が強く頼むので、仕方なく「布武天下」と書いた紙を手渡した。信長は、「私の考えにピッタリな字だ(「思召の儘の字なり」)しかし、文字数が4つ、というのは、いかがなものだろうか」と言った。沢彦は次のように答えた、「中国の明国は皆4字を使います。日本で4字を嫌うのは、誤った考え方です。」信長はこれを聞いて非常に喜び、花井伝右衛門を呼び寄せて、「朱印の字が決まったから、黄金でもって判屋に作らせよ」と命じた。…

4字を嫌う…たしかに、上杉氏は「梅」の1字、里見氏は「里見」・徳川氏は「福徳」の2字、今川氏は「如律令」の3字、なのですが(武田氏は龍の絵が書かれているだけ)、北条氏は「禄寿応穏」と4字の朱印を1518年から使っているんですけどね(;^_^A

まあ、それはともかく、大事なのは「天下を治めよう(天下を平和にしよう)としていた信長の考えていたこと」と「天下布武」が一致していた、ということですね。

『政秀寺古記』が伝えることが正しいならば、「天下布武」の意味は、「(戦乱や不法行為を収め、秩序を取り戻すことで)畿内を平和にする」ということになり、「布武」は『春秋左氏伝』由来の意味であった、ということになるでしょう(゜-゜)


2023年11月12日日曜日

「「楽市楽座」とは何か?~加納楽市令」の5ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

「「楽市楽座」とは何か?~加納楽市令」の5ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年11月9日木曜日

「「楽市楽座」とは何か?~加納楽市令」の4ページ目を更新!

  「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

「「楽市楽座」とは何か?~加納楽市令」の4ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年11月8日水曜日

「「楽市楽座」とは何か?~加納楽市令」の3ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

「「楽市楽座」とは何か?~加納楽市令」の3ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年11月7日火曜日

「「楽市楽座」とは何か?~加納楽市令」の2ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

「「楽市楽座」とは何か?~加納楽市令」の2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年11月5日日曜日

「楽市楽座」とは何か?~加納楽市令

 あまりにも有名な「楽市・楽座(楽市令)」。

ずっと疑問だったのは、「税を免除して支配者側には何のメリットがあるのだろう?」ということでした(゜-゜)

調べると、たくさん面白いことが分かったので紹介したいと思います😆

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇加納楽市令

永禄10年(1567年)10月、美濃(岐阜県南部)の加納に、ある制札が掲げられました。

「制札」とは、禁止する事や、新しく作られたきまりについて箇条書きで示した、小型の木の板のことです。

今回紹介するこの制札は現在に残っているためその大きさがわかっています。

タテ37.5㎝、ヨコ32.7㎝、厚さ0.7~1.0㎝(両端が薄い)です。

たしかに小型…(;^_^A イメージよりちっちゃい…。

内容については後で触れますが、

この制札は加納の「楽市場」に向けて出されたものでした。

翌年の永禄11年(1568年)9月、信長は再び制札を出していますが、

その中には、

「一、楽市楽座之上、諸商売すべき事」

という文言があります。

以上の2つは、信長の経済政策として、非常に有名な「楽市・楽座」に関する重要な制札になります(◎_◎;)

有名な「楽市・楽座」ですが、いったいどんな政策だったのでしょうか?

現代でも各地で「楽市・楽座」とつくイベントが行われているのですが、

・北海道の知床では「楽市・楽座」というイベントが開催されていますが、これはグルメ屋台の『楽市』と、音楽&パフォーマンスステージ『楽座』からなるイベントで、「楽しい」という意味で使われているみたいですね。

・埼玉県の狭山では「狭山楽市楽座」が奇数月の第4土曜日に定期的に開催されていて、 実行委員会のサイトには「ものづくりを通して誰もが自由に参加できる市場として、さまざまな楽しい空間を作る」とあり、「自由」「楽しい」という意味で使われているようです。

当時の「楽市・楽座」はどのような政策だったのか、山川出版社の「詳説 日本史B」を見ると、

「…楽市令を出して、商工業者に自由な営業活動を認めるなど、新しい都市政策を打ち出していった」

とあり、楽市令についての史料も紹介されていて、

これは天正5年(1577年)に安土に出されたものなのですが、

「一、当所中楽市として仰せ付けらるるの上は、諸座・諸役・諸公事等、ことごとく免許の事」

という文章の説明書きに、

「この城下町を楽市とすることにしたので、城下町は楽座(無座)で、住民の一切の税は免除となる」

と書かれています。

つまり「楽市・楽座」というのは、①特定の商品の売買を独占する団体である座を認めない=自由な営業活動を認める、②一切の税を免除する、という政策である、ということになりますね(゜-゜)

これまでの研究者たちは、「楽市・楽座」をどのように定義してきたのかについても見てみましょう。

最初に「楽市・楽座」について定義したのは、平泉澄(1895~1984年)で、戦前の1926年に、次のように説明しました。

…楽市は「①課税免除、②自由商売…の2つの性質を有する市」で、楽座は楽市において特権を認めない、ということを意味する。

この時点で山川出版社の説明とまったく一緒ですね(;^_^A

以下、他の研究者の定義を見てみましょう。

・小野晃嗣(1928年)…楽市は「完全なる課税免除の市場」

・奥野高広(1969年)…楽市は「市場税・商業税の免除と旧来の座商人の特権の廃止された市場」。

これらを見ると、平泉澄の意見と大差はないように思えます。

…ということは、平泉澄から100年たって、全く研究は進展していない、ということになるのでしょうか?

いやいやそんなことはなく、紹介していなかっただけで、様々な驚きの新説が出てきているのです(◎_◎;)

<1>「楽市」は一切の税を免除する政策か?

確認されている楽市令は、長澤伸樹氏によれば、28通確認されているそうですが、いくつかの楽市令の内容を抜粋して見てみることにします。

・富士大宮の楽市令(永禄9年[1566年]・今川氏真)

→富士大宮で月6回開かれる市では、一切の諸役徴収を停止し、楽市とする

・小山新市の楽市令(永禄13年[1570年]・徳川家康)

→楽市であるので、一切諸役は徴収しない

・金森の楽市令(元亀3年[1572年]・佐久間信盛)

→楽市楽座とすること、とあるが、諸役免除には触れていない。

しかし、2か月後、織田信長から再度出された物には、

楽市楽座である以上、諸役は免除する、とある

・安土の楽市令(天正5年[1577年]・織田信長)

→楽市である以上、諸座・諸役・諸公事等を一切免除する。普請役・伝馬役・臨時課役・家並役も免除する。

・世田谷新宿の楽市令(天正6年[1578年]・北条氏政)

→諸役は一切徴収しない

・淡河の楽市令(天正7年[1579年]・羽柴秀吉)

→楽市である以上、商売座役を徴収してはならない

・北野の楽市令(天正13年[1585年]・前田利長)

→楽市楽座とすること、と書かれているが、諸役免除には触れていない

・荻野の楽市令(天正13年[1585年]・北条氏直)

→楽市とする、とあるが、諸役免除には触れていない

・白子の楽市令(天正15年[1587年]・北条氏規)

→楽市とする、とあるが、諸役免除には触れていない

・黒野の楽市令(慶長15年[1610年]・加藤貞泰)

→楽市とする、地子と諸役については5年間免除とする

ポイントは何度も出てきている「諸役」とは何か?ということですね(゜-゜)

佐藤和彦・編『租税』によれば、税は年貢とそれ以外の諸役(雑税)に大別できると。

つまり諸役というのは年貢以外の税の総称ということになりますね。

『日葡辞書』では「すべての役目、または、任務」とありますが…(;^_^A

有光友学は、『今川氏不入権と「諸役免許」』などによれば、諸役には、

・棟別銭(持っている建物の数に応じてかけられる税。『日葡辞書』には「ムネベッ。一軒一軒の家に対してかけられる租税」とある)

・段銭(田畑の広さに応じてかけられる税。『日葡辞書』には「田圃について支払われていた一定の金」とある)

・伝馬役(荷物を運ぶ手伝い。『日葡辞書』には「主君などの命令によって、所から所へと無賃で提供する馬」とある)

・普請役(土木作業の手伝い)

・軍役(戦争に兵士として参加する)

・座役(特権を認められる代わりに、特産物や銭を納める税)

・市庭銭(市にかけられた税金)

・商売役(営業税)

・職人役(負担を免除される代わりに、職業に応じて奉仕をする。例えば後北条氏では、棟別銭と諸役を免除される代わりに、毎年槍2丁を納入するように命じた例がある)

・関役(席を通過する際にかけられる税)

・船役(津料。港に出入りする船にかけた税)

…などがあったようです。

つまり諸役免除、というのは、年貢以外の税を免除する、ということなわけですね。

しかしそう単純ではないようで(;^_^A アセアセ・・・

安土の楽市令では、諸役を免除すると言っておきながら、その後に普請役・伝馬役などを免除する、と言っていますよね。

ここから考えるに、普請役や伝馬役は、諸役に含まれていなかったのではないでしょうか??

普請役については、楽市令に、但し書きがついており、信長様が出陣していたり、京におられるなどして安土を留守にされているときは免除しない、とありますから、諸役免除に含まれていないのは確実です。

先述の『租税』によれば、後北条氏では、商売役は免除されることはあっても、町人に伝馬役は負担させていたようです(後北条氏で諸役免除に触れていない楽市令が多いのはこのためか??)から、伝馬役は重要視されていたことがわかります。そのため、諸役とは切り離されていたのではないでしょうか?(゜-゜)

池上裕子『戦国時代社会構造の研究』でも、「陣夫(※軍需品の輸送・道や橋の修理のために徴発された人夫)・大普請を不入や免除の対象からはずすのが北条氏の基本的な政策で、この2つの夫役の確保がきわめて重要な課題であったことを示している」…と書かれています。

つまり、「諸役免除」とはいっても、一切の税の免除を意味するのではなく、普請役・伝馬役の税負担は存在していたことになります。

また、先述した後北条氏の例からもわかるように、諸役は免除しても職人役は免除の対象になっていませんでした。

普請役・伝馬役・職人役などは、戦争に影響を与えるものであるので、諸役免除の対象とされていなかったのではないでしょうか…?(゜-゜)

また、商人に対する課税についても、いくつかの意見があります。

川戸貴史は『戦国大名の経済学』で、

織田信秀は熱田の加藤延隆(信秀の御用商人だったとも言われる)に対して、諸役免除などの商売上の特権を認めたが、「信秀は、このような特権付与に対する礼銭はもちろん、待権を与えた商人の商業活動にともなう種々の上納(賄賂)がその後ももたらされることを期待したのだろう。つまり、流通拠点や門前町などの都市を支配することによって、そこで活動する商人に特権を付与する権限を独占することとなり、特権付与の対価として得られる上納を重要な財源としていたのだ。」

…と記し、諸役は免除してもその後、上納(賄賂)が期待できた、としています。

また、天正2年(1574年)に信長は、越前(福井県北部)の唐人座・軽物座に対し、諸役免除されているとはいっても、役銭として、上品の絹を一疋(約12m)を納めること、違反するなら座から追放する、と言い渡していますが、このことについて、長澤伸樹は、『楽市楽座例の研究』で、「他の座にも同様の規定が設けられた可能性は否定できない」と述べています。

信長は他にも、永禄12年(1569年)に、美濃国の鉄座に対して、「鉄・鍬商売をする者は、諸役は免除するが、役銭はこれまで通り納めること」と通達しています。

諸役を免除されていても、商人に対して役銭が課されていたことがわかりますね(◎_◎;)

以上のように、諸役免除、といっても、決して全ての税が免除されたわけではない、ということがわかります。

また、諸役免除とはいえ、先に税は年貢と諸役に分かれる、と述べたように、年貢は免除されたわけではありませんでした(◎_◎;)

町人たちは田畑を持たないので、米などを納めるわけではありません。

町人たちが収める年貢は地子銭でした。

地子銭は家の間口(正面の幅)に応じてかけられる税でした(『日葡辞書』では「住んでいる屋敷とか或る田畑とかの借地料」とあります)。棟別銭と似ていますが、あっちは建物を持っている数でしたので、富裕者に対する税金だったと言えるでしょう。こっちは言うなら住民税のようなものですね。

安野眞幸は『楽市論』で、「諸役」とは住民税にあたり、「諸役免許」とは<住民税の免除>という意味で、通説の<「営業税」を免除されたのが楽市場>とは異なる、としていますが、これは誤りでしょう(;^_^A 住民税は別に免除されていません。

…ということで、まとめると、「諸役免除」は「一切の税を免除する」ことを意味するのではなく、地子(住民税)は支払い、普請役・伝馬役も負担し、職人は職人役の負担があり、商人にも役銭の負担が求められていましたから、「税の一部免除」というのが正しいでしょう。

さて、「楽市」は一切の税を免除する政策か?…に対する回答ですが、

そうではなくて、一部の免除を意味する…ということになる…のですが、

実はそれも正しくはなくて(;^_^A

諸役免除に触れていない「楽市」も存在するため、そもそも「楽市」=「諸役免除」というわけでもないのですね💦

淡河の楽市では「諸役免除」ではなくて「商売座役免除」ですし。

他にも、羽柴秀吉は三木町を「諸役免除」としたが、「楽市」には指定していない、という例も存在します。

ですから、「楽市」は一切の税を免除する政策か?…と問われれば、

「楽市である場合、一部の税が免除されることが多いが、楽市であっても税を免除しない場合もある」

…つまり、

「楽市だからといって必ずしも税が免除されるわけではない」

「税の免除は、楽市であるための必要条件ではない」

と答えるのが正解となるでしょう(゜-゜)

では「楽市」とはどんな場なのか?というと、

近江(滋賀県)の石寺新市の事例からそれを理解することができます。

<2>「楽市」とはどのような場所か?~六角氏・石寺新市の楽市

岐阜県にある円徳寺は、永禄10年(1567年)、その寺内町で織田信長が楽市場を開いたとして、「楽市場発祥の地」と書かれた看板がありますが(近くの御園町、という説もあるのでこちらにも同様の看板が出ている)、

その約20年前には楽市が別の場所に存在していたことが明らかになっています(;^_^A

それはどこかというと、滋賀県近江八幡市の安土町石寺というところです。

なぜそれがわかるのかというと、次の文書が残っているからです。

「紙商売のこと。石寺新市の儀は、楽市たる条、是非に及ぶべからず。濃州・当所中の儀、座人の外商売せしむるにおいては、見相に荷物を押さえ置き、注進いたすべし。天文18年12月11日 枝村惣中」

この意味は、次のようになります。

…美濃紙商売のこと。石寺に新しく作られた市は、楽市なのでどうしようもないが、それ以外の場所で、美濃・近江において、紙座(枝村商人)以外の者が美濃紙の売買をしていたら、その荷物を差し押さえ、報告するようにしなさい。

近江(滋賀県)の枝村(現在の滋賀県豊郷町下枝)には、近江・美濃において美濃紙の専売を認められた座がありました(代わりに座役として、本所の宝慈院に毎月美濃紙を納める)。『世界大百科事典』には、枝村商人は「美濃大矢田の市場と京都の間の紙荷運搬を独占していた。諸国から京都へ搬入される紙荷には入公事が課せられたが,枝村商人はこの免除権を所持していた」とあります。

しかし得珍保(とくちんのほ。比叡山延暦寺の僧、得珍が開発したとされる)の保内商人が比叡山延暦寺や六角氏の保護のもとに急速に台頭、美濃紙も扱うようになったので、怒った枝村商人はこれを六角氏に訴えたのですね。

これに対して六角氏は、枝村商人に対し、「楽市」である石寺以外での美濃紙の専売を認めたのですが、

ここからは、「楽市」がどんな場所であったかがわかります。

「楽市」では座の特権である専売が認められない…つまりだれでも自由に商売ができる場所、ということですね。

石寺の楽市は「新市」と書かれているように、新しく作られた楽市でした。

おそらく六角氏によって設けられた楽市だと考えられるのですが、これは、保護している保内商人が美濃紙を売買できる場所を作り、その代わりに保内商人から献金を受け取れるようにしたものではないでしょうか(゜-゜)

つまり「楽市」は御用商人の保護政策でもあったわけです。

しかし、ここで1つ疑問が浮かびます。

「楽市」が「座の特権を認めない自由な市場」という意味であるとしたら、

じゃあ「楽座」って何なんだいと。

「楽座」が「座を廃止する」という意味なら、「楽市」と「楽座」は意味が被るんじゃあないかいと(◎_◎;)

でもこういう意見もあるでしょう。

「楽市」は特定の地域で座の特権を認めないことで、「楽座」はそこから一歩進んで座自体を無くそうとする政策だ、かぶってなんかいない、と。

この説を唱えたのが豊田武(1910~1980年)で、戦国大名による一時的な商業特権の打破・否定策が「楽市」であり、楽市がより広く恒常的に特権商業・商人座を完全撤廃・解体するのが「楽座」…と述べ、「楽座」は「楽市」の進んだもの、としています。

しかしどうやらこの説は正しくないようなのですね(◎_◎;)

どういうことなのか。見ていきましょう。

<3>「楽座」は座を廃止することなのか?

先に述べたように織田信長は加納に「楽市楽座」と記した制札を出しています。

「楽座」が「楽市」の進んだものだとしたならば、「楽座」とだけ言えば良いわけです。

さらに言うと、脇田修(歴史学者。1931~2018年)が「信長の楽市楽座令は不徹底なもので、座を温存させるものであった」と言っているように、織田信長は「楽座」と言いながら、座を温存する立場を取っているのですね(◎_◎;)

例を挙げてみましょう。

・永禄7年(1564年)…美濃の合物・鳥座などから、10貫文(現在の80万円ほど)ずつ座役銭を徴収

・永禄12年(1569年)…山城(京都府南部)の薪座を安堵・美濃の鉄座の諸役を免除、役銭は今まで通り納入させる

・元亀2年(1571年)…近江の炭座を安堵

・天正元年(1573年)…越前の軽物座を安堵・近江朽木での材木の購入を朽木の材木座だけに認める

・天正3年(1575年)…越前において、鍛冶座の許可がない道具の販売を禁止

・天正4年(1576年)…近江において、建部油座の専売権を認める・山城において、三条釜座を安堵

・天正7年(1579年)…和泉(大阪府南部)において、堺南北馬座を安堵

・天正9年(1581年)…美濃の鉄座を安堵

座を積極的に廃止する方針は見られず、逆に、座を残し、座の特権を認めている(安堵)ことがわかりますね(◎_◎;)

一方、豊臣秀吉の場合は、天正13年(1585年)途中までは信長と同じように座の特権を安堵する文書を出しているのですが、天正13年(1585年)途中からは安堵の文書が見られなくなり、代わりに、

・天正13年(1585年)…山城の洛中洛外において、「座を破らる」

・天正15年(1587年)…大和(奈良県)の郡山において「座破れ」と通達

・天正16年(1588年)…山城の嵯峨清凉寺内・浄福寺内の諸座を「御棄破」

…というように、座を廃止する政策を進めていくことになります。

このような政策について、『角川新版日本史辞典』は、「近年はこれを破座と表現し、楽市令の楽座と区別している」と述べています。

以上から、「楽座」は座を廃止する政策ではない、という事がわかります。

では、「楽座」とはどのような政策であったのか?

『楽市楽座令の研究』『楽市楽座はあったのか』を著した長澤伸樹は、「楽市」は記さず、「楽座」のことだけを述べている文書が1つだけあり、そこから、「楽座」の内容がわかる、と述べています。

その文書とは、

「諸商売楽座に申し出るといえども、軽物座唐人座においては、御朱印ならびに去年勝家一行の旨に任せ進退すべし…」

という内容の、天正4年(1576年)9月11日に、柴田勝家が越前の橘屋三郎左衛門尉に対して出した物です。

その意味は、…諸商売を「楽座」にする、と知らせたが、軽物座・唐人座は、御朱印(信長)と、去年に柴田勝家が通達した通りに行動しなさい…というものですが、これだけ見るとなんのこっちゃ、になります(;^_^A

わからないのは織田信長と柴田勝家の通達がどのようなものであったのか、ということですね。

織田信長の通達というのは、先に述べましたが、

越前の唐人座・軽物座に対し、諸役免除されているとはいっても、役銭として、上品の絹を1疋(約12m)を納めること、違反するなら座から追放する。越前の外から軽物座・唐人座の商品を買いに来た者は、10疋を納めること。

…という内容の物で、

柴田勝家の通達というのは、天正3年に、唐人座・軽物座に対して出されたもので、

…役銭徴収に抵抗する者がいるが、これは処罰する。先に出された御朱印の内容通りに行動するようにしなさい。

…という内容の物です。

つまり、先ほどの「楽座」の文書は、

諸商売を「楽座」にする、と知らせたが、軽物座・唐人座は、御朱印(信長)と、去年に柴田勝家が通達した通りに、役銭を納めるようにしなさい。

…という意味だと分かりますが、こうすると、「楽座」の意味を2通りに理解することができます。

①諸商売において座を廃止すると言ったが、軽物座・唐人座は存続を認めてやるのだから、きちんと役銭を納めるように。

②諸商売の座は役銭は納めなくてもよい、と言ったが、軽物座・唐人座はその対象外で、役銭を納めるように。

前者が通説にあたるのですが、これはいろいろと無理があります(◎_◎;)

・信長は座を温存する方針を取っている。

・他の座は廃止されて、軽物座・唐人座だけが座の存続を認めてもらっているのに、役銭徴収に抵抗するのはつじつまがあわない。

それよりも、②のほうが、他は許されているのになぜウチだけ…!と怒り、抵抗する…という流れがスムーズに理解できます(゜-゜)

「楽座」の「楽」は、1603年に書かれた『日葡辞書』にその意味は「楽しみ。快楽。あるいは、歓楽」だとあり、「楽遊び」の項目には、「自由気ままな遊び」と記されています。

「楽座」の「楽」とは、おそらく「自由」…制約を受けない、という意味でしょう。

「楽市」は「(座による)制約を受けない市」という意味なのですから、

「楽座」は「(役銭などによる)制約を受けない座」という意味でなければならないはずです。

(自由は「フリー」ですが、アルコールフリーのフリーは「アルコールを無くす」という意味ではなく、「アルコールが含まれていない」という意味です)

(フィギュアスケートにはショートとフリーがありますが、ショートはジャンプの種類や回転数にかなり制限が加えられているのですが、フリーはそれに比べて制限がかなりゆるく、だいぶ自由にジャンプをすることができます。フィギュアスケートのフリーも「制約を受けない」という意味になります)

一方、豊臣秀吉の行った「破座」については、『日葡辞書』に、

「棄破」…もはや不要になった紙とか証書とかを破り捨てること。

「破る」…破り裂く。また、打ち滅ぼす。

「破れ」…敗れ裂けること。または、破滅すること。

…とあり、「無くす」「消滅させる」という意味があります。

以上から、「楽座」とは、「座に対し役銭を免除(もしくは減免)する事」になるでしょう。

長澤伸樹は、

「楽市」が含まれる文書は21通あるのに、「楽座」が含まれる文書は8通しかない。「楽座」がより限られた回数・場面しか現れないのは、特権保障の見返りとして要求する役銭の利益が相当な物であり、役銭を減免するのは容易に認め難いものであったためであろう。

…と述べています。

「楽座」というのはかなりのレアケースだったわけですね(;^_^A

ですから、近年では「楽市・楽座」と言わずに、単に「楽市令」と言う場合が多いそうです。

<4>「楽市楽座」のメリットとは?

楽市・楽座のメリットについて、織田信長が永禄10年(1567年)・永禄11年(1568年)に美濃で出した「楽市令」をもとに考えてみましょう。

①永禄10年(1567年)10月 加納楽市令

「定 楽市場

一、当市場に越居(おっきょ)の者、分国の往還に煩い有るべからず。並びに借銭・借米・地子・諸役を免許せしめ訖(おわんぬ)譜代相伝の者たりといえども、違乱有るべからざるの事。

一、押買・狼藉・喧嘩・口論すべからざるの事。

一、理不尽の使を入るるべからず。宿を取り、非分を申し懸くべからざるの事。

右の条々、違犯の輩に於いては、速やかに厳科に処すべきものなり。仍って下知件の如し。」

(一、加納の楽市場に移り住む者には、関を通る際の通行料をとらない。また、以前住んでいた土地で旧領主から借りていたお金・米は返さなくてよい。住民税やその他の税も免除する。旧領主はこれを妨害してはならない。

一、この楽市では、商品を強引に安く買う事・乱暴・喧嘩・口論を禁止する。

一、不当な要求をする者は楽市に立ち入ってはならない。)

②永禄11年(1568年)9月 加納楽市令

定め 加納

一、当市場に越居(おっきょ)の輩、分国往還の煩い有るべからず。

並びに借銭・借米・下がり銭・敷地年貢、門なみ諸役免許せしめ訖(おわんぬ)。

譜代相伝の者たりというとも、違乱すべからざる事。

一、楽市・楽座の上、諸商買すべき事。

一、押買・狼藉・喧嘩・口論、使い入るべからず。並びに宿をとり、非分を申しかくべからざる事。

右の条々、違背のやからに於いては、成敗を加うるべきものなり。」

(一、加納の楽市場に移り住む者には、関を通る際の通行料をとらない。また、以前住んでいた土地で旧領主から借りていたお金・米は返さなくてよい。住民税やその他の税も免除する。旧領主はこれを妨害してはならない。

一、この市場では座による専売を認めない。座は役銭を納めなくてもよい(もしくは減免)。

一、この楽市では、商品を強引に安く買う事・乱暴・喧嘩・口論を禁止する。不当な要求をする者は楽市に立ち入ってはならない。)

この2つの内容はほとんど変わりませんね(;^_^A

「楽座」が加わっていることくらいでしょうか?(゜-゜)

簡単にまとめると、加納の楽市は、

①通行の自由 ②過去の借金の帳消し ③税の免除(不輸の権) ④不法行為の禁止 ⑤不入権(領主の使者の立ち入りを拒否できる権利)

…となり、不輸・不入の権が認められた自由市場、ということになるでしょう。

(勝俣鎮夫[歴史学者。1934年~]は、「楽市場」の機能は、①大名権力の介入を許さない不入権、②暴力行為の禁止、③住人の通行税の免除、④完全な免税、⑤座の存在を認めない楽座、⑥領主の年貢滞納・他人の債務を負う者も、関係が消滅し.追及されない場、⑦奴隷も住人になれば解放される、…の7つがある、と言っている)

しかし、この楽市令を見るとある疑問がわきます(◎_◎;)

…税を免除して、信長には何のうまみ(メリット)があるんだ…!?と(;'∀')

1つ目ならまだ座役銭はとってますからまだわかりますけど、2つ目になると楽座までしてますし、

しかもこの楽市令は他の楽市令と違って地子…住民税も免除してますからね💦

この楽市令の目的は人(主に商人・職人)を集めることでしょう。

小野晃嗣は稲葉山合戦で焼失荒廃した岐阜城下の再興が目的と言っています。

基本、信長は城下町を焼き払って城を裸城にする戦法を取りますからね(;^_^A

税がかからない、借金帳消し、自由に商売ができる!…ということでたくさん人は集まってきたことでしょう。

本当であれば、人口が増えれば住民税収入は増えますし、人が増えれば物もよく売れるので、営業税収入も伸びるはずです。

しかし、この楽市では住民税も営業税も期待できないのです(◎_◎;)

信長はいったい何がしたかったのか!?ということなんですが、

川戸貴史は『戦国大名の経済学』に、「この疑問へのさしあたっての解答は、諸役免除による商業振興によって、結果的に大名領国の全体的な経済発展に寄与するというものである。それが最終的には年貢増収などの形で大名へと還元されるだろうし、また、富裕となった商人たちから各種献金を徴することも期待されていたということになろうか」と記しています。

楽市において商業が盛んになることが、なぜ大名領全体での経済発展につながるのでしょうか??(◎_◎;)

その理由については書いてくださっていないのですが、考えてみるに、

楽市では自由に物が売れるし、課税されない。→近郊の農民が米や特産物を楽市に売りに来たり、座の商人が楽市で売るために遠方の市場で米や特産物を買いつけることが増えたり、国外の商人が売りに来ることが増えたりするようになり、商品の流通がよくなる→座による独占販売が無く、価格が自由競争で決まるため、価格が安くなり、より商品が売れる→物がよく売れるようになれば、農民たちも米や商品作物の栽培に精を出し、生産量が増加する。→生産量が増えるため、年貢の増加が期待できる…ということなんでしょうか💦

また、楽市の商人たちが、楽市から離れた市場で米や特産物を買い付けることが増えれば、その市場は楽市ではなく、税がかかるので、営業税の増収も見込めるでしょう。

それに、楽市外の商人や、国外の商人は自由通行権がないので、関所を通る際に通行料を支払いますが、楽市に向かう商人が増えれば通行料の増収も期待できます。

収入以外の面でもいいことはあります。

物資が各地から集まるので、戦争に必要な物資を効率よく、大量に手に入れることができるようになります。

つまり楽市は物流の拠点…卸売市場を作ろうとした政策だったともいえるでしょう。

信長は加納で楽市を実行することによって、岐阜の城下町を復興させ、上洛戦に必要な物資が集まる拠点にすることを短期間で実現することができたわけですね。

上洛の準備は、着々と進んでいました…!🔥

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