永禄11年(1568年)2月、織田信長は伊勢国(三重県)に進攻します。
前年には春に続き、8月にも伊勢北部を攻めていましたが、美濃三人衆が寝返ったことを知って進軍を中止していましたから、その続きということになります🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇信長の伊勢進攻(第三次)
『伊勢軍記』『勢州軍記(続群書類従)』をもとに、伊勢攻めの経過を見ていこうと思います(下線部の部分は『勢州軍記』にのみ見られる部分です)。
まずは前半部分。
…永禄11年(1568年)2月に、信長は4万余りの兵を率いて、再び伊勢に出陣した。三重郡以北の北勢四十八家は皆信長に従った。信長は再び高岡城(神戸方)を包囲した。信長は神戸具盛に使者を遣って和睦した。具盛には娘が1人いたが息子はいなかった。そこで、信長の三男で11歳(数え年)の三七(織田信孝。母は信長の側室、坂氏)が具盛の養子となった。養子を入れて国を治めるのは、大変巧妙なやり方である。この時、神戸具盛があいさつのために信長の陣所を訪れたが、尾張・美濃の武士たちは、神戸の武威を伝え聞いていたので、こぞって神戸を見に来たという。幸田孝之が三七(織田信孝)の守役となり、他に岡本良勝・三宅権右衛門・坂口縫之介・山下三右衛門など多くの家臣も付けられた。坂口だけは信長に呼び戻され、先鋒の部隊に入れられた。その後、近江堅田の戦いで戦死したという。さて、神戸などが味方となったが、亀山の関氏だけは六角の仲間となり、信長に味方しなかった。また、神戸の叔父の円真房は六角の人質となっていたが、神戸が裏切ったことを知った六角義賢は怒り、円真房を塩責め(傷をつけてそこに塩を塗り込む)にした。このため狂人となった円真房は神戸に戻されたという。円真房は神戸具盛の祖父の神戸楽三の末子で、福善寺で出家していたのだという…
信長の勢いの前に、神戸氏は降伏、養子に信長の三男の三七(信孝)を迎えることになり、神戸氏は織田氏に乗っ取られることになりました(◎_◎;)
鈴鹿郡・河曲郡を治める関一族は神戸・峯・国府・鹿伏兎家が信長に従ったものの、本家の関氏だけは信長に抵抗を続けます💦
ちなみに、『勢州軍記』は信長の兵力を「4万余り」としていますが、『氏郷記』は「数千騎」としています。「4万余り」というのは余りにも誇大なような感じはしますね(;^_^A
また、『氏郷紀』には、信長と神戸が和睦する際に、信長は使者を遣って「源氏の者が道理に外れた行いをしたために、国土は支配者に背き逆らうことが絶えない。私は平氏の血を引く子孫として、謀反を企む者たちを攻め滅ぼし、国土を安定させようとしている。あなたは平家の嫡流(本家の家筋)、どうして同じ一族と戦えるだろう。はやく和睦しよう。聞くところによれば、あなたは蒲生定秀の娘との間に1人娘がいるが、息子はいないとか。私には多くの子どもがいるから、1人を養子として行かせよう」と伝え、これに対して神戸具盛は「まことにかたじけない」と答え、まもなく和睦が成った、と書かれています。
信長は元亀2年(1571年)頃から「平」姓を名乗っていることが確認できるのですが、
『氏郷記』の内容が確かならば、永禄11年(1568年)までさかのぼることになりますね(◎_◎;)
続いて後半部分。
…信長は北勢四十八家を先導として、長野家を攻撃するために安濃津に進んだ。まず細野藤敦が守る安濃城を攻めたが、細野は剛の者であったので、なかなか城は落ちなかった。その中で、その弟分部左京亮・川北内匠亮(長野家の分家)は長野家を裏切り、信長に対し、長野家の存続を許して下されれば、長野次郎(具藤。伊勢国司・北畠具教の子)を追い出して、味方しますと伝えた。そこで、信長は弟の織田信包を長野家の跡継ぎとして、奄芸郡の別保上野城に入れ、神戸具盛の妹を妻に迎えた。そして、長野次郎は城から追放され、多気の北畠具教を頼って南伊勢に逃れていった。まもなく、工藤一族の雲林院・草生・家所・細野・中尾・乙部などは、皆信長に従った。この頃、関一族の中で一人抵抗を続けていた関盛信も信長に降った。こうして、北伊勢の8郡は皆信長に従うことになり、工藤一族は織田信包の与力となった。また、滝川一益を勢州の奉行とし、また、西尾張の長島・河内を担当させた。千草・宇野部・楠・赤堀・稲生・南部・加用・梅津・冨田・上木・白瀬・濱田・高松・木股・持福などの北勢四十八家の者たちが与力となった。滝川一益は、武芸・智略共に優れていたので、自然と出世し、名が知られるようになった。戦いの際には常にこう言っていた。「家来の討ち死にが告げられれば、私はその家来のために米を支給しよう。心配せずに死ねばよい」。家来が死んだ後は僧に供養させ、必ずその死を弔った。また、罪を犯した人を殺すことが少なかった。安濃城には織田掃部助(忠寛。織田藤左衛門家の一族。藤左衛門家の系図はよく分かっていないが、父の姉妹に織田信貞の妻であった「いぬゐ」[含笑院]がいたため、信長にとっては祖母の兄弟の子、「いとこおじ」にあたる。永禄8年[1565年]に使者として武田に赴いている)を城主として置き、南方の抑えとした。そして岐阜城へと帰還した。…
こうしてみると、信長は美濃の統治と違って、伊勢の統治では、自分の一族を現地の有力国衆の養子にして家を継がせたり、重要地点の城主にしたりするなど、織田一族を多く用いています。
この違いはいったい何なのでしょうね(;^_^A
昔、平氏本家の本拠地が伊勢にあったので、これを重視したのでしょうか…?(゜-゜)
ともあれ、今回の出兵で、織田信長は伊勢の北部8郡を完全に手中に収め、
そのうち、員弁郡・桑名郡・朝明郡・三重郡は滝川一益が、
残りの鈴鹿郡・河曲郡・安濃郡・奄芸郡は織田信包(織田掃部助が補佐)が担当することとなりました。
これで信長は大和で三好三人衆たちと戦っている松永久秀への支援ルートを確保したことになります。
そして信長は、いよいよ上洛に臨むことになるのです…!🔥
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