社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: お市の方、浅井長政に嫁ぐ~浅井備前守長政御縁者となられた事(1567年?)

2023年11月21日火曜日

お市の方、浅井長政に嫁ぐ~浅井備前守長政御縁者となられた事(1567年?)

 美濃(岐阜県南部)を平定した織田信長は、上洛に向けて動き出していましたが、

安易に京都に至るまでの大名を倒しながら進むの、という方法を取るのではなく、

外交でもって、味方を増やし、少しでも短い期間で上洛できるように努力していました。

京都に行く途中にあるのは、近江(滋賀県)で、そこにいる大名は、浅井氏六角氏でした。

信長は、この2つの大名に対して交渉を重ねていくことになります。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇浅井は「あさい」?「あざい」?

浅井氏の出身地とされる滋賀県の浅井郡(1878年に東浅井郡・西浅井郡に分割)は、「あざいぐん」と読み、現在は長浜市になっている浅井町も「あざいちょう」と読みますから、浅井は「あざい」と読む、とするのが通説でした。

しかし、10世紀前半に書かれた『和名類聚抄』には「アサイ」「阿佐井」と書いてあるのですね(◎_◎;)

古くは「あさい」と読んでいたようなのですが、では、戦国時代のころはどうなのか。

太田浩司氏が『浅井長政と姉川合戦』で書かれたことを箇条書きでまとめてみると、

・『ニ水記』の大永5年(1525年)の条に、「中書(※京極高清)被官アサイ城」とある。

・慶長2年(1597年)に写された『節用集』には、「あざい」と書かれているが、朝倉も「あざくら」と書かれている。

・慶長16年(1611年)の書状には、浅井亮政を「あさい」、浅井久政を「あさい」、浅井長政を「あざい」、浅井氏三代の事を「あざい」とある。一方で、この書状の写しには、どれも「あさい」として書かれている。しかし、この写しには小谷城のことを「おだに」と書いてあるところもあれば、「おたに」と書いてあるところもある。

こうしてみると、戦国時代のころは「あさい」か「あざい」かで読み方が混乱していたことがわかりますね…(;^_^A

現在は「あざい」で統一されているわけですが、

しかし、名字の読み方となると、

「浅井」で「あざい」と読む人はめったにいません💦

「浅井」が名字の有名人を調べてもみんな「あさい」ですし、

名字についてのネットのサイトを見ても、

「一般的に「あさい」と読む」「読み方は一種類あり、「あさい」」

などと出てきます(◎_◎;)

うーん、これを見ると、当時も「あさい」だったのでは?と思ってしまいますね…(;^_^A

戦国時代の記録も土地の名前は「あざい」なのに名字は「あさい」なので混乱していたのかもしれません…💦

真相は闇の中…。

〇浅井氏の歴史

浅井氏が史料に出てくるのは文明12・13年(1480・1481年)頃のことで、

『清水寺再興奉加帳』に「浅井直種」と言う人物が出てきます。

この人物は『江北記』で、浅井亮政の父、と紹介されています。

明応4年(1495年)、美濃で斎藤妙純派・石丸利光派に分かれて争う船田合戦が起こりましたが、斎藤妙純に援助を求められた近江(滋賀県)北部の大名、京極高清(1468~1538年)は美濃に援軍を送りますが、ここで送られた「浅井氏」というのが、浅井直種だったとされています。

つまり、浅井氏は最初、京極氏の家来であったわけですね。

この船田合戦は、以前にも紹介したように、尾張にも影響を与え、石丸派の清須織田家、斎藤派の岩倉織田家が対立し、尾張は2つに分かれて戦う騒乱状態になりました。

織田信長の出身の弾正忠家は、主君が清須織田家にあたりますから、斎藤派の京極氏と、石丸派の清須織田家・弾正忠家はこの時は敵対関係にあった、ということになりますね(;^_^A

さて、浅井直種ですが、直種は文亀元年(1501年)、京極氏の内輪もめに関わって、そのさなかに起きた今浜の戦いで戦死しています。

次の浅井亮政が登場するのは大永3年(1523年)のことで、

この時、近江は、京極高清の跡継ぎをめぐって揺れていました(◎_◎;)

京極高清は跡継ぎを京極高慶(のちの高吉。1504~1581年)にと考えていたのですが、国衆の浅見貞則・浅井亮政らは高慶の兄の京極高延を跡継ぎにすべきだと反対、高清と対立します。

そして両者は激突、京極高清は敗れて尾張に逃れ、京極高延がその後を継ぐことになりました。

立派な下剋上ですね…(◎_◎;)

ちなみに京極高清は尾張に逃れたとありますが、この頃の尾張は織田達勝が守護代を務め、そのもとで織田信長の祖父にあたる織田信貞が津島に勢力を伸ばしている時です。

京極高清が尾張に亡命した後、北近江の実権を握ったのは浅見貞則でしたが、

大永5年(1525年)、なんと浅井亮政は京極高清と結んで浅見貞則と争うことになります(◎_◎;)

これに南近江の大名、六角定頼が浅見氏側に味方して北上、浅井亮政の籠もる小谷城を攻撃します。

浅井亮政はよくこれを防ぎましたが、越前(福井県北部)の大名、朝倉教景が六角氏に味方して小谷城を攻めるに至り落城し、『ニ水記』によると、京極高清とともに尾張に落ち延びることになりました💦

享禄4年(1531年)、浅井亮政は再び六角氏と争いますが、箕浦の戦いで再び敗北します。

普通なら浅井亮政はこれでジ・エンドなのですが、亮政はなおもあきらめません。

六角定頼は京都方面でも別の敵と戦っており、二方面に敵を抱えるのが苦しくなった定頼は、天文2年(1533年)、京極高清・浅井亮政と和睦、浅井亮政が六角氏に臣従する代わりに、六角氏の保護を受けていた京極高慶は近江から去ることになりました。

天文7年(1538年)に京極高清が死ぬと、六角高広が跡を継ぎますが、これに対し、京極高慶は近江への復帰を図り、六角軍と共に北近江に進みます。

六角定頼は各所で高広方を破り、浅井亮政は小谷城に追い込まれました。

そして京極高慶を当主とすると言う条件でどうやら和睦したようです(詳しくはわかっていません💦)。

これに不満を持った高広は(この頃出した書状に、浅井亮政の行動が許せないので、挙兵した、と書いている)天文10年(1541年)、挙兵して浅井亮政と戦います。

この戦いのさなか、天文11年(1542年)に浅井亮政は病死します。51歳でした。

浅井亮政は『信長の野望・新生』では統率:83、武勇73、知略67、政務62と、なかなか高い評価を与えられていますが、

こうして見ると、その粘り強さ、不屈さは注目に値するものの、六角定頼に何度も敗れ、定頼に降伏し、最後は内乱の内に死去するなど、そこまで評価されるような人物には思えませんね…(;^_^A アセアセ・・・

昭和2年(1927年)に編纂された『東浅井郡志』にも、「戦ふ毎(ごと)につねに敗るるも、尚(なお)最後の勝利を期する希望を失わず」「弾力性と粘着性の強き意志」を持っていた、とあります。やはり…(;'∀')同じ感想だった…。

『東浅井郡志』には「終(つい)に能く江北統一の大業を成せり」とも書かれていますが、統一はできていないと思います…(-_-;)六角の勢力下だし…。

亮政の後を継いだのは子の浅井久政(1526~1573年)でした。

亮政の死で京極高広の勢いは強まり、苦戦した浅井久政は天文19年(1550年)に高広と和睦することになります。

勢いに乗った高広は、天文19年から六角氏との戦いを始めます。最初は敗れたものの、その後三好長慶と連合したこと、天文21年(1552年)に六角定頼が死んだことにより、六角氏は後退し、高広は佐和山城を攻略することに成功します。

(京極高広は『信長の野望・新生』では統率:40、武勇:36、知略:46、政務:26とショボい能力だが、もっと高くてもいいように思う(;^_^A)

しかし高広の攻勢もここまででした。

天文22年(1553年)の『天文日記』に「北郡錯乱」とある(「錯乱」とは戦争による混乱のこと)ことから、もしかすると浅井久政が六角方に寝返って、北近江で内乱状態となったのかもしれません。

京極高広は敗れ、その後、行方不明となります(◎_◎;)

一方、浅井久政は六角氏に臣従するも、六角氏との戦いで奪った佐和山城は確保していましたし、六角氏を後ろ盾として、北近江に地盤を固めていくことにも成功、これが後の浅井長政の代での飛躍につながることになります。

浅井久政はよく暗愚な人物であった、と言われますが、有能な人物であったと言えるでしょう。

(『信長の野望・新生』では統率:39、武勇:37、知略:47、政務:63とショボいですが…💦)

しかし、永禄3年(1560年)、六角氏と浅井氏は再びぶつかることになります。

その原因は定かではないのですが、弘治3年(1557年)~永禄元年(1558年)頃に六角義賢が出家して承禎と名乗り、子の義弼に家督を譲ったこと、その義弼が斎藤氏と同盟関係になったことが関係しているでしょうか。

『江濃記』は、浅井久政の子、浅井賢政(長政)が六角氏の家臣、平井氏の娘と結婚していたのを、赤尾・遠藤などの家臣が、「祖父高政(亮政の誤りか)入道のごとく六角家の下風に立まじ」(祖父の亮政の時のように、六角の支配下から独立しなければならない)と言って、平井氏の娘を六角に送り返したことで、浅井と六角との関係を断絶した、とするのですが、どうなのでしょうね(;^_^A

ともあれ、浅井と六角は断交し、永禄3年(1560年)8月、野良田(現・彦根市野良田町)で合戦となりました。

この戦いについて、『江濃記』は、浅井賢政が「南北の分け目の合戦であるから命を惜しむな」と軍を激励し、六角氏を激戦の末に破り、首を920取った、としていますが、六角氏は翌年、2方面で軍を動かすなど活発に動いているので、どうも『江農記』は戦いをだいぶ誇張して書いているようです(;^_^A(勝利を報告する書状は残っているので、浅井が勝ったのは確かな様ですが)

この頃、浅井久政は家督を賢政に譲っていますが、引退したわけではなく、権限の一部は保持していたようです。

野良田で勝ちを収めた浅井賢政ですが、『厳助往年記』に、永禄4年(1561年)3月、「江州左保山城自南取之、百々腹切云々」と書いてあるように、六角氏の攻撃を受けて城将の百々隠岐守が切腹、佐和山城を失ってしまいます。

永禄4年(1561年)5月頃、浅井賢政は、六角義賢から一字をもらった名前を嫌って「長政」と改名することによって、六角との完全な決別を表明します。

そしてこの年に六角氏が三好氏と戦うために京都方面に進んだのを見て、六角氏の太尾城を攻撃しますが、これは失敗に終わっています💦

しかし永禄6年(1563年)に大チャンスがやってきます。

10月1日、六角義弼が重臣の後藤賢豊を殺害するという事件(観音寺騒動)が起こり、これに反発した六角氏の家臣たちが観音寺城を攻撃、六角義弼が城から脱出するというハチャメチャな状況となります(◎_◎;)

これを知った浅井長政は兵を南下させ、太尾城を奪うだけでなく、佐和山城も奪還することに成功します。

佐和山城から観音寺城まではわずか18㎞(!)にすぎません(◎_◎;)

この頃のことについて、『江濃記』には次のような妙な記述があります。

…美濃の西方三人衆、安藤伊賀守・稲葉一鉄・氏家卜仙(「全」の誤りか)が、「斎藤道三様は斎藤義龍に殺される前に、織田信長に国を譲ろうとされていた、織田信長に味方して信長を美濃に引き入れよう」、と話し合っていたのを日根野備中守が知り、日根野は、「織田信長が国主となっては国が滅亡する、ならば浅井備前守を引き入れて一度合戦した上で和睦し、そのまま、備前守とともに尾張に攻めこもう」と考え、浅井備前守を誘ったところ、備前守はこれを受け入れて、永禄7年(1564年)3月に6千余りの兵を率いて美濃に進入し、美濃勢と一度合戦し、和睦した。しかし、六角承禎は浅井が美濃に行ったことを知って佐和山城を乗っ取ろうと考え、3月22日、1万4千の兵を出して佐和山城を包囲した、これを受けて浅井備前守は近江に退却、追撃してくる美濃勢を撃退して近江に戻ったところ、これに驚いた六角承禎は包囲を解いて去っていった。…

永禄7年(1564年)3月というのは、安藤(当時の名字は伊賀)守就が竹中半兵衛とともに稲葉山城を乗っ取っていた時期にあたります。

『江濃記』では、安藤守就は織田信長を美濃の国主にしようとしていますが、実際は織田信長が稲葉山城に接近してきても譲り渡そうとしていません。

まずここが明らかな誤りなのですが、そこは置いておいて、城を奪われた日根野が浅井長政に救援を要請した、と見るのはどうでしょう?(゜-゜)

浅井長政に安藤・竹中を排除してもらい、そしてそのまま美濃にやって来ている織田信長を一緒に撃破する…というのならなんとなくつじつまはあいます。

安藤守就云々の話以外はだいたい合っている話なのかもしれません(゜-゜)

宮島敬一は『浅井氏三代』で、この話を、六角氏に佐和山城が落とされてしまった永禄4年(1561年)3月の誤りではないか、としています。

『東浅井郡志』も、「江濃記に、之を永禄7年3月22日のこととなせど、その紀年は固より誤なり信ずべからず。但その月日は、果して拠る所ありしにや。是も亦覚束なし」と手厳しいです(;^_^A

しかし、佐和山城の南方わずか6.5㎞にある多賀大社が永禄6年(1563年)10月26日に六角義弼が観音寺城に帰還できたことを祝した文書を出している一方で、永禄7年(1564年)1月7日に浅井氏に対して年始の礼を執り行い、永禄8年(1565年)1月11日には佐和山城主・磯野員政が多賀大社に対し条目を定めていることから、観音寺騒動の際に佐和山城を手に入れたと考えるのが自然なのではないでしょうか💦

永禄9年(1566年)には浅井長政は江南近江で数回にわたって六角氏と合戦、始めは敗北していますがその後には大勝しています。

浅井長政は内紛により弱体化した六角氏相手に優勢に戦いを進めていました。

このまま行けば、浅井氏単独でも近江を制覇していたかもしれません(゜-゜)

そんな中、永禄10年(1567年)に織田信長が隣国・美濃を制圧します。

上洛を目指す信長にとって、浅井領は通り道にあたります。

浅井長政にとっても、隣国に強大な勢力が現れたわけで、放っておくわけにはいきません。

ここに両者は接近することになるのです…!🔥

〇織田・浅井の同盟~浅井長政とお市の結婚

織田と浅井は、(おそらく永禄10年[1567年]の)9月15日に初めて書状を交わしました。

「未だ申し述べず候と雖も、啓し達し候、尾張守殿へ書状を以て申し候、宜しく御執りに預かるべく候、仍って太刀一腰・馬一疋を進覧し候、向後申し承るべき便までに候、尚氏家方・伊賀方伝説有るべく候、恐々謹言」

これは浅井長政が信長の家臣の市橋長利にあてて送ったもので、その内容は、

…初めて書状を送ります。尾張守殿(織田信長)に書状を送ったので、よろしく御取り成しください。太刀・馬を一つずつ贈ります。氏家(卜全)方・伊賀(安藤守就)方からも伝言があると思います。

…というものです。

9月15日といえば稲葉山城陥落のすぐ後ですね😲

一色(斎藤)氏の滅亡はあっという間でしたから、浅井長政も予測できていなかったのでしょう。

あわてて、氏家卜全・安藤守就を通じて、信長に接触を図ったものでしょうか。

その後の織田と浅井の関係の進展を示す書状が残っています。

(おそらく永禄10年[1567年])12月17日のもので、その内容は、

「…仍(よ)って浅井備前守と信長縁辺(えんぺん)の入眼(じゅがん)し候と雖も、まず種々申し延べ信長別儀無く候。なお以て心より切々に調略し候条、油断無く疎意に存ぜず候。急度(きっと)罷り上り御意を得るべく候。…これらの趣き宜しく御披露に預かるべく候。」

(…浅井氏と織田氏の婚姻が成りましたが、これまで申しましたように、信長は六角氏に対して支障は感じていません。私も自ら信長に働きかけておりますので、六角氏をなおざりにしているわけではありません。必ずそちらに出向いて話を伺うつもりです。…以上のことを、六角義賢殿にお伝えください)

…というもので、足利義秋家臣の和田惟政が、六角義賢(承禎)家臣の三雲定持・成持父子に送った書状になります。

信長もそうですが、足利義秋は、上洛の通り道となる、六角氏を味方につけようと工作していました。

しかし、六角家中で織田と組むことに強く反対したのが三雲父子だったと考えられます。

なぜなら、三雲定持の子で成持の兄の賢持は浅井氏との戦いの中で戦死しているからです。

浅井氏に恨みを持つ三雲父子は、その浅井と織田が婚姻したと聞いて、織田に対しても敵対感情を持ったことでしょう。

そのため、和田惟政は、三雲父子に対し、浅井・織田が婚姻したが、それは六角氏に対する同盟ではないから心配しないでほしい…ということを伝える必要があったのでしょうが、

この書状で大事なのは「織田と浅井が婚姻した」ということですね💦

ここで婚姻したのは、浅井長政と、織田信長の妹のお市である、というのは非常に有名な話ですね。

しかし、この結婚にはいろいろな議論が存在します(◎_◎;)

どんなことかというと、「二人はいつ結婚したのか?」というものです。

これまでは、永禄10年(1567年)年という前提で話を進めてきましたが、異説もたくさんあるのですね。

例えば次のようなものです。

①『川角太閤記』…永禄2年(1559年)6月

②『東浅井郡志』…永禄4年(1561年)

③『総見記』…永禄11年(1568年)4月下旬

④奥野高広氏『織田信長と浅井長政の握手』…永禄10年(1567年)末~永禄11年(1568年)頃

年代に大きな幅がありますね(◎_◎;)

①の『川角太閤記』には次のようにあります。

…この話は『信長公記』には書かれていないが、それは、著者の太田又助(牛一)がまだ若かったため日記をつけていなかったからである。永禄元年(1558年)、尾張はようやく信長のもとに統一されたが、それでも時々国内で合戦となる時があった。当時は、朝倉は越前、浅井は近江小谷にいて天下をうかがい、近江観音寺は佐々木(六角)承禎、伊勢岐阜(?)清須は信長、三河・遠江・駿河の辺りは今川義元、小田原には北条がいた時であったが、信長は妹を近江の浅井備前守に嫁がせた。浅井家臣の磯野伯耆守は内心、信長が天下を取ると思っていた。浅井備前守は結婚していなかったので、周囲から結婚の話が色々と来ていたのだったが、磯野伯耆守は信長の妹と備前守を結婚させようと思っていた。夏に伯耆守は清須に赴き、佐久間右衛門(信盛)の仲介で織田信長に結婚の話を持ちかけた。信長は近江までの道中に敵がいることを心配したが、伯耆守は来年6月にもう一度夫婦で東国に社参に向かう、その際に密かに輿に信長殿の妹を載せて近江に帰れば安全です、と伝えた。信長はこれを聞いて、妹を御目に懸けようと言って、伯耆守を奥へ連れて行った。伯耆守は信長の妹に会って、来年、祝言ができるように準備いたします、と伝えて帰国した。翌年6月、磯野伯耆守は東国への社参と偽って近江を出発した。清須についた際に、信長の妹を密かに乗り物に載せ、近江に無事に連れて帰り、婚姻が成った。信長は川崎という者を商人に変装させて近江に向かわせて祝言を見届けさせていたが、帰国した川崎から婚姻が成ったことを聞いて、非常に喜んだ。周囲の国々の者たちは磯野伯耆守の計略をほめ、特に松永弾正が感心したという…

宮島敬一氏はこれについて、永禄元年(1558年)のころの「尾張の時代状況の把握は正確で、記述の信頼度を高めている」として、永禄2年(1559年)説を推している。

②『東浅井郡志』は、浅井長政の子どもたちの生年に注目し、長男の万福丸は『信長公記』に天正元年(1573年)に10歳で殺された、とあるので永禄7年(1564年)生まれたのであるから、永禄6年(1563年)以降に結婚したとする説は「何れも皆誤なり」とする。『総見記』は万福丸はお市との間に生まれた子ではない、と記しているが、これは結婚したのは永禄11年(1568年)とする前提に基づく誤りである、とする、『川角太閤記』の永禄2年(1559年)説については、『川角太閤記』が史料として引用することのできる良書であると評価したうえで、その記述が正しいとすると、六角氏の家臣の娘(平井氏)と結婚しないまま離別したことになる、『川角太閤記』は具体的な結婚の時期を書いていないので、この記事は永禄4年(1561年)5月頃の、浅井長政が信長の一字をもらって改名した時期にあたるのではないか、とする。

宮島敬一氏はこれについて、「確たる論拠はない」平井氏の娘が離縁されたのは永禄2年(1559年)4月だと「確定する史料もない」「離縁と婚姻が同時進行していても必ずしも不思議ではない」「信長が偏諱を受け信長としたことと婚姻とは直接には関係しない」と手厳しく論じている。

③『総見記』の「浅井備前守長政御縁者となる事」には、次のように書かれています。

…信長はその頃岐阜にいて、天下一統を志したが、京都に向かう途中に近江があり、近江を従えなければ京都に行って五畿内を治めることは難しい。畿内を治められなければ天下を一統できない。そこで家臣を集め、近江平定について話し合った。佐久間信盛が進み出て言った、「武士であれば天下を望むのは当然の成り行きであります。まず近江を平定されようとされているのはもっともなことではございますが、近江には六角・浅井の両大将がおり、六角は「弱者」(ルビは「よわもの」)なのですぐ従うでしょうが、浅井を倒すのは容易ではありません」信長はこれに応えて言った、「貴様が言うとおり、浅井の祖父・亮政は武勇の者で、武功を挙げて半国の主となった。その子の久政も勇士である(!)今の備前守長政も先祖を越える剛の者で、六角と戦うために16歳(数え年)で家臣と示し合わせて父を隠居させ、その後は佐和山の城を攻め取り、野良田で大勝し、愛知川以北をことごとく平定するなど武勇の誉れ隠れなく、家臣たちも武功の者が多いと聞く。彼らを敵にしては短期間での上洛はかなわなくなってしまうだろう。戦わずに味方につける手はないかと考えたところ、幸いにして長政はまだ結婚していないので、備前守を妹の聟(むこ)にして味方につけようと思う。浅井氏に伝手(つて)がある者は仲介せよ」家臣たちが信長の智謀に感心する中、不破河内守が言った、「私は以前越前に行ったときに、途中で近江にしばらく滞在し、その際に浅井の家臣の安養寺三郎左衛門と親しい仲になりました。彼にその話をしてはどうでしょうか」信長はこれに了承して河内守を小谷に派遣した。浅井氏はともかく相談して決めると答えて河内守を岐阜に帰した。織田信長は言った、「浅井もどうやら同じ考えのようだが、我らの心中を見究めようとしているのだろう」そして再び河内守を近江に送ったが、その際に内藤勝助を添えた。浅井氏は再び家臣を集めて相談した。浅井久政は言った、「信長に味方し、承禎を倒すことができれば、京都に旗を立て、天下(足利義昭のことか)の政治を助けることができるのは確実だろう。しかし、ここに一つの難題がある。織田氏は代々朝倉氏と仲が悪い。浅井氏は朝倉氏に従属して、これまでに深い恩がある。それに加えて、子々孫々、朝倉に敵対することは無いと誓紙を交わして堅く約束している。信長が朝倉と戦う事になったときは、浅井氏はどうすればよいのか」中島日向守が進み出て言った、「仰られたことはもっともなことにございます。信長にそのことを確認して、朝倉を攻めないことを約束させた上で、結婚を受け入れるのはいかがでしょうか」家臣たちが皆同じ意見であったので、使者を岐阜に派遣することにした。信長は使者と対面していった、「結婚のことは我らが浅井氏に言い出したことである上は、そちらの望むことは受け入れよう。たとえ天下を切り従えたといっても、朝倉義景に対して、決して心変わりはしない」使者は喜んでこれを浅井父子に報告したが、浅井父子は共に用心深い者であったので、証拠がなければ信用できない、と言って、信長が誓紙を書くことを希望した。信長は安いことだ、と言ってすぐさま誓紙を書いて使者に渡した。使者が近江に戻る際、信長は使者を厚くもてなし、その際に使者の安養寺三郎左衛門には長光の太刀を、河毛三河守には国次の脇差を贈った。誓紙を見た浅井父子は大いに喜んだ。信長には多数の「妹子(いもとご)」がいたが、その中の「御市の御方」を永禄11年(1568年)4月下旬に浅井氏に嫁入りさせた。「おいちの御方」は「近国無双の美人」であると評判であり、また、信長は長政を尊敬して、弟のように親しく接したので、人々は浅井殿は「大果報の人」だと言いあった。「御市の御方」は後に「小谷の御方」と呼ばれることになるが、結婚の際、不破河内守・内藤勝助が付き添い、藤掛三河守が「御市の御方」の執事として付けられた。この頃、斎藤龍興は浅井久政の妹婿であったので近江にいたが、長政が信長の縁者になったので、上方に落ち延びていった。

この『総見記』の記述は、『浅井三代記』と非常によく似ていますね~(゜-゜)

おそらく参考にしたのでしょう(『浅井三代記』は寛文年間[1661~1673年]末頃成立、『総見記』は1685年成立)。

異なる点をかいつまんで挙げてみますと、

・婚姻の話をするのは浅井が美濃に攻めこみ、斎藤右兵衛(斎藤龍興)と戦った年(つまり永禄6年[1563年])だとしている。信長は美濃の大半は抑えたが、浅井に内通したり、浅井に属していたりするものも多い、と言っている。

・信長は浅井亮政の事を「世に隠れなき弓取」と評している。

・浅井長政は16歳(数え年)の時、平井加賀守の娘を離縁したので、妻がいない状態だと言っている。

・信長は浅井長政と交渉する際に、我等よりも美濃に近いので、美濃でほしいところがあれば譲ろう、と言ったが、長政は美濃の事については、浅井の家来となっている者に干渉さえしなければそれでよい、と答えている。

・朝倉氏との関係について、長政は、数年にわたり浅井氏と親しくし、浅井亮政の代に特に世話になった、と言っている。

・浅井久政について、「年を重ねているので」朝倉氏に対しての恩義を守ることを望んだ、と書かれている。

・織田・浅井の婚約が成立したがすぐに結婚はしておらず、織田信長が美濃を平定した翌年の春に浅井長政とお市は結婚している。また、信長は妹のお市を養女とした上で、浅井長政に嫁がせている。

・岐阜城を出発したお市を、浅井方の安養寺三郎左衛門・川毛三河守・中島宗左衛門は垂井(岐阜県垂井町)まで迎えに来ている。

・お市の事を、「其比天下に隠れなき御生付」(世の中に広く知れ渡っているほどの容姿)と書いている。

…となります。

総じて浅井氏をアゲ↑↑ております(;^_^A

『浅井三代記』は、足利義昭が滞在していた近江矢島の事を、「小谷の麓矢島野」のことだと書いています(おそらく長浜市八島町のことか)が、これは明らかな誤りなんですが、こういうのを見てもわかるように信ぴょう性は高くありません💦

(『東浅井郡志』には、「沢田源内の捏造せる小説を、其儘襲用したる者なり。信ずべからず」とある。沢田源内[1619~1688]は六角氏郷を名乗り、『江源武鑑』などの偽書[とされる]を執筆した)

宮島敬一氏は、『総見記』も「信頼性は低い」とバッサリ切り捨てていますが(;'∀')

…以上から、宮島敬一氏は、『浅井氏三代』において、浅井長政とお市の結婚が成ったのは永禄2年(1559年)6月以降で、遅くとも永禄6年(1563年)で、永禄10年(1567年)・11年(1568年)説はない、と断じているのですが、

宮島敬一氏が永禄10・11年説を否定する理由として「万福丸が永禄7年(1564年)には生まれていること」が大きな比重を占めていると思うのですね。

しかし、福田千鶴氏によれば、万福丸の母がお市であったことを示す史料はない、…ということなので、この時点で宮島説の論拠はもろくも崩れてしまうのですね(-_-;)

また、浅井氏が織田氏と初めて書状を交わしたことを示す史料(前掲)には、織田信長のことを「尾張守」と呼んでいる部分があるのですが、

信長が「尾張守」を名乗っていた時期は永禄9年(1566年)9月13日から永禄11年(1568年)8月までなので、この点からも、永禄9年より前は結婚の時期として適当ではない、ということになりますね(;'∀')

そうなると、永禄10年・11年説が真実味を帯びてくるのですが、

永禄10年(1567年)説ではあり得ない、という批判があります💦

それは何かというと、お市の長女の淀殿は永禄10年(1567年)に生まれているのだから、永禄10年末に結婚して永禄10年中に淀殿が生まれるのはあり得ない、というものです。

しかし、淀殿が1567生まれとするのは、淀殿が生まれてだいぶ後の、江戸時代後期の1772〜1791年に書かれた『翁草』だけなので、信ぴょう性に疑問符を付けざるを得ないのですね(;^_^A

一方、井上安代氏は、『義演准后日記』慶長11年(1606年)5月3日の条に、5月2日から、淀殿と秀頼が「有卦」に入るための修法に入った、という記述に注目して、淀殿の生年を割り出しました(◎_◎;)

「有卦」というのは、出生年に割り当てられた星に応じ、吉年の廻り年があり、有卦に入れば、それから7年は吉事が続く、というスピリチュアルなものなのですが、

慶長11年(1606年)に有卦入りする星座は土星か水星の2つで、

生まれた年の星が土星か水星にあたるのは、1567年前後で言うと、

1566年(土星)、1567年(水星)、1569年(土星)の3つであり、

そこから、淀殿が生まれたのは永禄12年(1569年)である、と導き出したわけなのですね。

永禄12年(1569年)生まれなら無理はありませんね(゜-゜)

そして、実はもう1つ、永禄10・11年結婚説に反対する意見があります。

それは、「結婚する年齢が遅いのではないか」というものです(◎_◎;)

『柴田勝家公始末記』には、お市が天正11年(1583年)に死んだとき、数え年で37歳であった、と書かれているのですね。

ここから考えると、お市は天文16年(1547年)生まれ、ということになります。

そうなると、お市が結婚したのは20歳か21歳の時、ということになるのですが、

黒田基樹氏『家康の正妻 築山殿』によると、戦国の女性の結婚年齢は17・18歳が多いそうなので、確かに少し遅いということになります💦

しかし、黒田基樹氏は『お市の方の生涯』で、『柴田勝家公始末記』が書かれたのはお市が死んでから、少なくとも20年以上経った江戸時代に書かれたもので、しかも、お市の娘たちが関わった形跡は見られないので、「十分な信用性があるとは認め難い」とし、生まれた年は天文19年(1550年)頃であったのではないか、と推定しています。

父親の織田信秀は天文21年(1552年)3月に亡くなっているので、最大天文21年生まれ、とすることも可能なのですが、病が篤くなった天文19年(1550年)より後は表舞台に姿を現さなくなるので、このあたりが限界値と言えそうです。

…以上から、浅井長政とお市が結婚したのは、だいたい永禄10年(1567年)末頃だろうと考えられるのですが、

(ちょっと気になるのは、『渓心院文』に、川崎六郎左衛門を初がなぜか大事に扱っていた、という部分があることです。この川崎は『川角太閤記』に出てくる川崎で、お市の婚姻に関わった人物なので、大事にされていたのではないか、と考えられるので、『川角太閤記』の記述に信ぴょう性が出てくるのですよね…💦)

お市については、なんと次のような説が存在するのですね。

それは、お市は「織田信長の妹ではない」という説です(◎_◎;)

〇お市は信長の妹ではない!?

『東浅井郡志』は、『以貴小伝』の台徳院(徳川秀忠の戒名)の条に「御所の御台所(江)は贈中納言藤原の長政卿浅井備前守どのの御事なりの御女にて御諱は達子と申す。御母ハ織田右府信長の御妹なり諸書にしるす所みな妹という。しかるに渓心院という女房の消息を見しに、信長のいとこなりという。若ハいとこにておわせしを、妹と披露して長政卿におくられしにや。御兄右府のはからいにて長政卿に嫁し姫君三所をもうけ給う」という、「お市=信長のいとこ説」という衝撃の文章を紹介した後に、『織田系譜』に、信長の叔父である信康の孫の「女子」の下に「浅井」と注記されているのを紹介し、いとこの娘ではないか、と推察しています(◎_◎;)

たしかに「渓心院文」には、「しょう高院様は…御ふたり(※「たり」は「くろ」の誤りか)さまハのふ長さまの御いとこニて、ひめさま御いちさまと申…」とあり、信長の「いとこ」だと書いてありますね(◎_◎;)

これに対し、黒田基樹氏は、「渓心院文」を見ると、「いとこ」の関係を記す場合は、その親同士の関係が記されている(例えば、京極高次[宰相]はお市の娘、初[常高院]と結婚したが、京極高次の母は浅井長政の姉で、初の父は浅井長政なので、京極高次と初はいとこ同士ということになるのだが、それについて、「渓心院文」は次のように書いている。「…しょう高院さまハ…京極さいしょうさまへ御やりましまいらせ候、さい相さまの御ふくろさまハあさい殿御きょうだいゆえ、御いとこと(※「と」は「す」の誤りか)ち(※いとこ筋)にて候事、…」)、「弟」について「おととこ」と書いているので(例えば、「…若さ守護御おととこさまニて、…」とある)、「いとこ」は「いもとこ」の誤写だとしています。

渓心院文」は、先にいくつか紹介した一部の文章だけでもすでに誤写がかなり見られるのですが(;^_^A、文章中の「妹」について書かれた言葉を拾い上げてみました。

「…まつ御いもとさまかたを…」

「…高しゅ院さま御いもとこさまニて御さ候、…」

「…しんしゅ院は御いもとの御事のように、…」

…こうして見ると、「こ」は抜かすことはあっても、「いもとこ」を「いとこ」と書いている例は見られませんね(;^_^A

「いもとこ」の誤写だというのは少し無理があるかもしれません💦

しかし、比較的早い寛永年間(1624~1644年)に書かれたとされる『当代記』に「浅井備前守妻女は信長妹也」と記されていたり、加賀藩前田家の家臣、村井重頼(1582~1644年)が書いた覚書に「信長公御妹」と書かれていたりするため、「妹」である可能性はかなり高いとは思われます(゜-゜)

『渓心院文』はそれより遅れて、1676~1695年頃に作られていますし。

さて、とにもかくにも、(永禄10年[1567年]末?に)織田信長は、上洛の道筋にある北近江の大名、浅井(あ「さ」い?)長政に、(妹?の)お市を嫁がせることで、浅井氏と同盟を結ぶことに成功しました。上洛にまた一歩近づいたわけです。

そして、遂に運命の永禄11年(1568年)を迎えることになるのです…!🔥

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