社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 7月 2023

2023年7月31日月曜日

信長の「女おどり」~おどり御張行の事(1558年?)

 「津島くつわ踊り」という踊りがあります。

なぜ「くつわ」踊りなのかというと、馬のくつわ(馬の口に含ませた、手綱につなぐ金具)を鳴らすのに合わせて、朱傘を持つ傘振りが踊るからなのだとか。

この踊りは愛知県指定の無形民俗文化財にも選ばれている由緒正しいものであり、

寛文3年(1663)に行われた記録が残っているので、350年以上前から行われていることになります(◎_◎;)

なぜこの踊りについて説明しているのかというと、実はこの踊り、織田信長が発祥ともいわれているんですね💦

信長と「津島踊り」の関係について『信長公記』に書かれていますので、

今回はそれについて見ていこうと思います😆

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


※マンガの2ページ目は都合により公開いたしません(-_-;)

〇信長の「女おどり」と神対応

『信長公記』には「7月18日おどりを御張行」とあり、

織田信長が7月18日に「おどり」を興行したことが記されています。

7月18日…というのがいつの7月18日なのかわからないのですが、

1つの手がかりとなるのは、『大祭勘例帳(大橋家文書)』に、

「弘治4年…従清須神幸を御延候而、(6月)16・17日にわたり申候。かつさ殿、橋の上に御座候而御見物被成候、…」(弘治4年[2月28日に永禄と改元されているので、正しくは永禄元年[1558年]、織田信長は例年6月14・15日[現在は7月第四土曜・日曜]に行われる津島天王祭を16・17日に延期させ、天王橋[一番良い祭りの見物場所であったという]の上から祭りの様子を見物なさった)とあることです。

これに感じ入った(もしくは延期させた負い目からか)信長が翌月の7月18日に踊りを実施した…ということなのかもしれません(;^_^A

永禄元年(1558年)は岩倉織田家との対決が完了し、信長も一息つけた時期でした。

(谷口克広氏は踊りの実施時期について、「天文年中」(1531~1555年)としている。信長が家督を継いだのは1552年なので、可能性があるのは1552~1555年となるが、1552年は継いだばかりで、周囲の状況も不穏であり可能性は低く、1553年は同日に中市場の戦いがあり不可能、1555年は6月26日に織田秀孝が殺されたことにより守山城をめぐって騒動が起きているため難しい…となると1554年しか可能性はないのだが、後述するように、当時岩倉織田家に仕えていた前野長康が踊りに参加しているのは不自然なようにも感じられる。ここはやはり永禄元年[1558年]とするのがよいのではないか)

信長が実施した「おどり」というのは風流(ふりゅう)踊りのことで、風流踊りとは、華やかな衣装や仮装をしたうえで、集団で踊る、というものです。

この時はどのような仮装をしたのかというと、

平手内膳(平手政秀の一族?)たちは赤鬼、浅井備中守(四郎左衛門?熱田衆で、娘・「たあ」は千秋季忠の妻。医師であったという)たちは黒鬼、滝川一益たちは餓鬼、織田信張(織田藤左衛門家、小田井城主。妻は織田信康の娘)たちは地蔵。

集団の地蔵…(;^_^A

そして、単独で仮装したのが、前野長康(岩倉織田家に仕え、浮野の戦いにも岩倉方で参陣。織田信長に仕えるようになったばかり)・伊東夫兵衛(武兵衛とも。親衛隊である黒母衣衆の一人)・市橋伝左衛門(市橋利尚ではないかとされるが、利尚は美濃斎藤氏の家臣で、1560年に織田信長と美濃で戦っている記録があるため、同一人物とは考えにくい。[信ぴょう性に疑いはあるが]『武功夜話』で出てくる伝左衛門は早くから織田信長に仕えており、1556年の稲生の戦いにも参加している。こちらの方が自然な感じもする)・飯尾定宗で、彼らはみな弁慶となりました。なんで弁慶ばかりなんでしょうかね?(;^_^A 弁慶はモテるからでしょうか…?😅

他に祝重正(事務官)が鳥の鷺(さぎ)に扮しています。鷺に仮装して踊るのは、牛頭天王(疫病をつかさどる)を祀る全国の神社で広く行われていたものであったようで、現在では島根県の津和野弥栄神社での鷺舞が有名で、国の重要無形民俗文化財に指定されています。尾張の津島神社も昔は津島牛頭天王社といったことからも明らかなように、牛頭天王を祀る神社ですから、鷺舞が行われたのでしょうね。

『信長公記』には「鷺になられ侯、一段似相申すとなり」とあり、とても似合っていたようです。

そして、以上の者たちだけでなく、あの踊りが好きな人物も仮装して踊ります。

その人物とは、織田信長です!!(◎_◎;)

『信長公記』には「天人の御仕立に御成り侯て、小鼓を遊ばし、女おどりをなされ侯」とあり「女おどり」をしたとありますから、おそらく天女の仮装をしたのでしょうね。うーん、かぶいとりますな(;^_^A

信長をはじめとした仮装集団は、おそらく清須をスタートして、津島までを踊りつつ進み、津島の堀田道空の館の庭で踊った後、清須に戻りました。

これに対し、津島の5つの村々(米之座・堤下・今市場・筏場・下構)の者たちが返礼として踊りを行い、津島から清須まで踊りつつ進んだところで、清須城内に呼ばれ、織田信長と面会することになりました。

そしてここで織田信長は「神対応」を見せます!(◎_◎;)

信長は招いた者たち一人一人に「滑稽で面白かった」「似合っておった」などど親しく声をかけたのです。

そしてそれだけでなく、招いた者たちを、

御団(うちわ)にて冥加なくあおがせられ」…

なんと自ら団扇(うちわ)であおいだのです!!(◎_◎;)

そして「お茶をどうぞ」とお茶を飲むことを勧めたといいます。

信長のこの神対応に、招かれた者たちは暑さを忘れ、ありがたさの余りに涙を流しながら津島に帰っていったといいます。

信長の優しい人となりがわかる、貴重なエピソードですね😄

2023年7月29日土曜日

桶狭間始末~桶狭間の戦い⑥

 駿河・遠江・三河の軍勢を動員した今川軍の大軍も、

丸根・鷲津砦を落としただけで、

今川義元の死によってもろくも崩れ去ります。

織田・今川のパワーバランスは大きく変わることになり、

織田信長は尾張国内に存在した今川方の勢力をほぼ駆逐することに成功します。

そしてここから織田信長の雄飛が始まるのです…!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇桶狭間始末

『信長公記』は、今川義元の戦死について述べた後、

山田新右衛門と云う者、本国駿河の者なり。 義元別して御目を懸けられ侯。討死の由承り侯て、馬を乗り帰し討死。寔(まこと)に『命は義に依りて軽し』と云う事、此の節なり。二俣の城主松井五八郎、松井一門・一党200人、枕を並べて討死なり。爰にて歴々其数討死侯なり」

…と記しており(「天理本」にこの箇所はない)、今川義元以外に山田新右衛門・松井宗信が戦死した、と書かれていますが、

両者の死亡時期は大きく異なるようです(◎_◎;)

先に死亡したのは松井宗信でした。

松井宗信(1515~1560年)は、1529年に二俣城主を受け継いでから、

北条氏との戦い(河東一乱)では「比類無き動き」をし、

三河の田原城の戦いでは敗戦した味方を支え、名のある敵を4人討ち取り、逆に敵を城内に押し戻し、

小豆坂の戦いでは後退した今川方の後を追ってきた織田方を数度撃退し、

吉良氏との西尾城での戦いでは今川方が敗北した際に、とって返して敵を追い返すなど、

逆境に強い、各地で抜群の戦功をあげた勇将でした。

桶狭間では、本隊の前備を務めますが、味方が敗北し、宗信得意の逆境の場面になります。

宗信はこの時も織田方を度々追い払い、数十人に手傷を負わせる活躍をしますが、この時は味方の劣勢を支えることができず、戦死しました。『信長公記』では一族郎党200人とともに戦死した、と書かれています。

戦後に今川氏真が出した書状には、この時の宗信の働きについて、「誠に後代の亀鏡(※手本のこと)、無比類の事」と記されています。

(これだけ活躍した武将なのに『信長の野望』では冷遇され、1997年以降登場していない…😢)

一方、山田新右衛門(元益)は、今川義元の戦死時は岡崎城代として岡崎城におり、

『武徳編年集成』には、義元の死を知って「遥か後陣より山田新右衛門驅来て忠死す」とあり、

『日本戦史』には、義元の戦死後2日目に討ち死にを遂げた、とあります。

これだと桶狭間の戦いの後すぐに織田信長は清須城に引き上げていますが、

今川義元戦死後も数日間、周辺で戦いは続いていたようですね(おそらく鳴海城を囲むように織田軍が残っていて、そこに攻撃をかけたか?)(゜-゜)

『信長公記』には山田新右衛門の死について、「命は義に依りて軽し」とはこのことだ、と書かれていますが、これは中国の後漢の歴史を記録した『後漢書』朱穆伝に由来しています。

その内容とは、次のようなものです。

…侯生・豫子が自分の身を捨てたのは、主君の恩を受けて感情が動かされたことにより、命を「義」のために惜しもうとしなかったためである。…

「義」とは何でしょうか?『広辞苑』には「利害をすてて条理にしたがい、人道・公共のためにつくすこと」とあります。なんだか難しいですが、損得を考えずに人の為に行動する、ということでしょう。

この話に例として登場する二人の人物を紹介します。

「侯生」(侯嬴)は貧しい門番で、年齢も70歳の老齢でしたが、魏の王族の信陵君に厚くもてなされて仕えることになります。後に信陵君の危機の時に策を授け、自身はその成功のためのいけにえとなると言って自害しました。

「豫子」(豫譲)は自分を大切に扱ってくれた主君が殺された際、「士は己を知る者の為に死す」(立派な男子というものは、自分を理解してくれた者の為に死ぬのだ)と言って仇の命を狙ったが果たせずに自害しました。

侯生・豫子どちらも、主君の恩に報いるために命を捨てた人物です。山田新右衛門も、今川義元から特に目を懸けられていた、と『信長公記』にありますから、主君を追って命を捨てた新右衛門の行動を、太田牛一は中国の侯生・豫子に重ね合わせたのでしょう。

また、『信長公記』には書かれていませんが、『三河物語』に「松井を初として拾人余、枕を并打死をしけり」とあるように、松井宗信・山田新右衛門以外にも今川方の武将の戦死者はいて、

井伊直盛(娘はおんな城主・井伊直虎、従弟の子が井伊直政)は松井宗信と同じく本隊の前備として先行していましたが、本陣に慌てて戻ったところで戦死しています。

他にも蒲原氏徳(氏政とも。今川氏の庶流)、三浦義就(あの鎌倉三浦氏の子孫。前線の笠寺砦を任せられていた)、由比正信岡部長定(本隊の左備侍大将)、朝比奈秀詮(先陣侍大将)、久野元宗・宗経兄弟(先鋒)、久能氏忠(今川義元の甥?)、吉田氏好(軍奉行)、江尻親良(今川一族)庵原忠春藤枝氏秋(前備侍大将)、一宮宗是斎藤利澄松平政忠・忠良兄弟(長沢松平家)、松平宗次(宮石松平家)、長谷川元長富永氏繁(庵原忠春の援軍として派遣された)、飯尾乗連葛山長嘉(後陣の旗頭。以前笠寺砦の守将の一人だった)など多数…。

丸根砦攻撃の際には松平正親 (大草松平家。家康に仕えた)、高力重正(清長の叔父)なども討ち死にするなど、

今川軍は戦死率こそ多くないものの、武将クラスの多くが戦死しており、

すさまじい戦いだったことがわかります(◎_◎;)

今川軍にとってまったくの奇襲であり、迎撃準備も不十分な中、戦いを強いられたため、このように武将クラスのが死者が激増したのだと考えられます(-_-;)

今川軍の戦死者の数について、

『道家祖看記』は5千、

『中古日本治乱記』は3907、一説に2500余り、信長方は580余人、

『武徳編年集成』は武士583人、雑兵2500(或は3807)…と記し、

『桶狭間合戦討死者書上』(長福寺文書)によれば、

桶狭間の戦いにおける今川方の死者は2753人、

織田方の死者は990人余りであったそうです。

今川方は兵力が1万~4万5千、織田方は2千~5千であったといいますから、

『桶狭間合戦討死者書上』の内容を確かとすれば、戦死率は今川方が6~28%、織田方は20~50%となり、

織田方は勝利したもののすさまじい損害が出ていることがわかります。

織田方は、佐久間盛重・服部玄蕃(丸根砦)織田秀敏・飯尾定宗(鷲津砦)

佐々政次・千秋季忠・岩室長門守など、多くの武将を失いました。

一方の今川方は、今川義元が戦死したものの、まだまだ大兵力を有していたのにもかかわらず、敗走したことになります。

『中古日本治乱記』にも、「駿州勢は若于の大勢なりしかども大将を討れ茫然と呆けるにや弔軍せんとも思わず」…とあり、

今川義元の戦死のインパクトがあまりにも大きかったという事なのでしょう💦

また、興味深いのは、『中古日本治乱記』に、近江(滋賀県)の佐々木から織田方に援軍として派遣された前田右馬助・乾兵庫介の配下の者が37人討ち死に、重傷を負った3人が20日の午後7~9時頃に死亡、その他に272人が負傷した…と記されていることです。

近江の佐々木方からの援軍、というのは『桶狭間合戦討死者書上』にも記載があり、そこには織田方990人余りの死者のうち、272人は佐々木から援軍として派遣された者たちであった、とあります。

この「近江の佐々木」とは六角氏のことです。

…ということは織田と六角氏は同盟関係にあったということなのでしょうか⁉😲

これはビックリです(◎_◎;)

名古屋の徳川美術館には、今川方の渡邊又兵衛が寄進したという鐙が収蔵されているのですが、これは又兵衛が六角氏の武将を討ち取ったときに手に入れたものであるそうで、織田と六角が協力関係にあったことを裏付けるものになっています。

『中古日本治乱記』には、永禄3年(1560年)10月に織田信長の娘(『江源武鑑』には信長の兄・信広の娘で信長の養女になったとある。年齢的にもそちらが正しいか)が六角義秀(六角定頼の兄で六角氏13代当主の氏綱の孫。1532~1569年)に嫁いだ、という記述がみられます。

『中古日本治乱記』は続いて次のように記します。

六角氏の家老、後藤但馬守(賢豊)・進藤山城守(賢盛)はこれを受け入れたものの、六角の当主・六角承禎(義賢)は、織田は越前の神職の子孫にすぎず下等の出で、しかも織田信長は以前は六角氏に従属していた浅井長政の妻の兄であり、ということは家格的には家来筋にすぎない、と言って結婚に反対、将軍・足利義輝が仲介したためしぶしぶこれを受け入れたが、六角家中にはしこりが残った。

この3年後の1563年には観音寺騒動が起こり、後藤賢豊が殺害されるという事件が起こっていますが、これによって織田と友好的であった後藤賢豊が死に、六角・織田に亀裂が入るまでは、六角と織田は六角義秀を通じて協力関係にあったのかもしれませんね(゜-゜)

さて、このように多くの将兵を失って敗れ去った今川方ですが、『信長公記』は

尾張の海西郡を支配し、今回の戦いでは今川方について戦った荷之上・鯏浦の服部友貞について触れています。

服部友貞は、千艘もの船を率いて海路、大高城に兵糧を補給しに来ていましたが、今川軍敗退を知って、活躍することなく本拠地に戻ることになりました。

友貞は、ただ帰るのも癪なので、その途中、熱田を焼き討ちしようとしますが、

「町人共よせ付けて、噇と懸け出し、数十人討ち取り候」と『信長公記』にあるように、

熱田の町人による激しい抵抗を受けて撃退されてしまいます(◎_◎;)

熱田の町人たちというのは、織田信長が善照寺砦まで行くときに見物についていって、負け戦と感じて戻っていった者たちかもしれませんね。

服部友貞はむなしく引き上げるしかありませんでした( ;∀;)

さて、清須城に戻った織田信長は首実検をすることにしますが、

首がそれぞれ誰のものなのか判然としません。

困っているところに、下方九郎左衛門という者が、今川義元の同朋衆(大名の近くで雑務や芸能にあたった人々)の1人(名前は『信長公記』には出てこないが、『総見記』によれば権阿弥)で、今川義元の鞭・弓懸(弓を射る時にはめる手袋)を管理していた者を生け捕りにしていたのを連れてきます。

織田信長は、「近頃珍しい手柄である(近比名誉仕候)」と言ってほめたたえました。

織田信長はこの同朋衆に首はそれぞれ誰なのか、

今川義元死亡のあたりの状況を尋ねています。

様々な情報を知れた織田信長は、この同朋衆に金銀飾りの大刀・脇差を与え、

義元の首も持たせて駿河に送り返してやっています(しかも10人の僧付き)。

『総見記』によれば、この同朋衆はのちに権太夫と名前を改め、今川氏真に仕えたそうです。

また、織田信長は、今川義元の持っていた名刀・左文字を手に入れます。

左文字は南北朝時代の名工・左衛門三郎によって作られた刀で、

作成者の名前の一字「左」が刀身に刻みこまれているため、

「左文字」と呼ばれます。

はじめ三好政長(三好宗三)が所有していましたが、

1536年に武田信虎のもとに贈られ、

1537年、信虎の娘が今川義元に嫁いだために、引き出物として贈られて義元が所有するようになりました。

この左文字を手に入れた織田信長は何度も試し切りをしてその切れ味にほれこみ、

以後愛刀とし、刀には「織田尾張守信長」「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」と刻み込ませています。

『信長公記』には「鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠侯、降参申侯間、一命助け遣わさる。大高城・沓懸城・池鯉鮒の城・鴫原の城、5ヶ所同事に退散なり」とあり、今川義元戦死後も岡部元信が鳴海城に立てこもって抵抗をつづけたていたが、降伏したので命は助けられた、鳴海陥落と同時に大高城・沓掛城・池鯉鮒城・鴫原城(重原城)を今川方が城を明け渡して退去した、とあり、

難なく織田信長がこの五城を手に入れたような感じを受けますが、

実際はそうではなかったようで、諸書には次のように書かれています

『三河物語』…義元が死んだ後、沓懸の兵は逃亡したが、岡部五郎兵衛は信長と一度戦った後、降参して城を明け渡して駿河に去っていったが、その際に信長から義元の首を得ていた。岡部ほどの武勇・義理は、日本ではこれまでになかったものであり、尾張から東で、岡部五郎兵衛のことを知らない者はいないだろう。義元が死んだ後、大高城にいた松平元康は、家来から撤退を勧められたものの、元康は義元が死んだことが嘘であれば人々の笑いものになると言って受け入れなかった。そこに緒川の水野信元が使者の浅井六之助を通して、明日織田軍が大高城を攻めよせるから、今のうちに城を出た方が良い、と知らせて来たので、大高城を出た。

『松平記』…瀬名・三浦・朝比奈等は、今川義元の弔い合戦もせず、池鯉鮒城を明け渡して落ち延びていった、大高城には松平元康がいたが、水野信元は元康と叔父・甥の関係であったので、浅井という者をひそかに派遣して、義元が死んだので城から出るように伝えた、元康はこれを聞いて城から去っていった、岡部元信は今川方の武将が城を明け渡して去っていく中、この城で討ち死にすると言って5月20日まで城を出なかった。佐々蔵人(成政)が先陣として鳴海を攻めたが、ひるまずに抵抗した。今川方の武将は使者を派遣して城から出るように岡部元信を説得したが、受け入れなかった。信長は岡部元信の奮戦に感じ入り義元の遺体・首を渡すことを条件に和談することにし、元信はこれを受け入れて城を出たが、刈谷城のそばを通りかかったときに、苅谷城主の水野藤九郎(信近)が油断して守りが手薄になっていることに気づくと、配下の伊賀の者を使い、浜の手から攻め寄せて城に火を放った。混乱の中で忍びの者が城に押し入って水野藤九郎の首を取った。藤九郎の家老の玄蕃助は今川方の入城を防ぎ、伊賀の者30人ほどを討ち取り、藤九郎の首を取り返した。このため岡部元信は刈谷城から去ったが、信長と和談をするまで鳴海城を守ったこと、今川義元の遺体を受け取ったこと、刈谷城主を討ち取ったことは比類なきことであると諸国で話題になったという。

『家忠日記増補追加』…水野信元は浅井六之助を派遣して、大高城にいる松平元康に「義元は死に、今川方は城を棄てて駿河に逃げている、現在尾張に残る城は大高城のみである、織田軍が城を囲む前に城を出るべきである」と伝えさせた。元康は「信元は姻戚関係にあるとはいえ、織田に属していて敵であり、謀り事かもしれない。これに乗って城を出たら天下の笑いものになるかもしれない。ここは浅井を人質にして、味方が義元の死を告げるまでは城に残ることにしよう」と言ったが、今川方の武将の多くが義元の死を告げたので、元康は城を出ることにし、浅井六之助に「お前を先導にする、私に忠誠を尽くせば恩賞として土地を与える」と伝えた。六之助はこれを受け入れて先導となった。池鯉鮒を過ぎる時、蜂起した一揆勢が道を遮った。また、池鯉鮒には水野信元の兵が今川方の敗残兵を討ち取るためにやってきていた。六之助は「水野信元の使者の浅井六之助である」と大声で叫んだ。これを聞いて水野信元の兵は囲みを解いて去っていった。六之助は今村郷までついていった後、帰っていった。…一方、鳴海城は岡部五郎兵衛が守っていたが、信長は佐々成政に命じてこれを攻撃させた、岡部は「義を守り命を軽んじて」防戦したため城は落ちなかった、今川方の武将は書状を岡部に送り、諸将と同じように城を棄てて駿河に帰るように言ったが、岡部はこれを聞きいれなかった。信長は岡部の「忠義勇敢」に感じ入り、攻撃をやめて和議を要請した、岡部はこれを受け入れたが、この時今川義元の首を信長に請い、信長はその志に感じて首を岡部に与えた、岡部は大いに喜び駿河に向かったが、その途中で配下の者たちに、鳴海城を守って戦ったが力尽き、駿河に帰ることになったが、敵兵の心を考えると、勝ちに乗って敵兵は油断して戦いの準備を怠っているだろう、その油断をついて突然城を襲えば、落城させることができるだろう、と言った。ちょうど近くに水野信近が守る苅屋(刈谷)城があったので、これを攻めると、岡部の思い通りに城内の兵はわずかであった。夜に伊賀の忍びが海をまわってひそかに熊村の堀を渡り、城中に入って火を放ち鬨の声をあげた。城兵は驚き騒ぎ、信近は敵の攻撃を防ぎきれずに戦死した。信近の家臣の玄蕃允は城の外にいたが、敵の攻撃を知って城内に突入し、伊賀の服部党の30余人を討ち取り、信近の首を奪い返し、岡部勢を城外に追い出した。信近の兄の水野信元は小川(緒川)城から兵を送って苅屋城の防備を固めた。このため岡部は再び城に入ることができず、駿河に戻った。今川氏真は岡部の「忠義武勇」をほめて感状を与えた。

『中古日本治乱記』…水野信元は義元の死を大高城の松平元康に知らせた際、使者の浅井六之助を案内役に使ってもらってかまわないと伝えた。元康は城を出る際に追撃してくるものがいるかもしれないと考えて、城中の所々に旗を立てて置いてから、雨の降る中、夜に城を出た。浅井六之助が松明をもって先導した。池鯉鮒では1000の一揆勢が待ち構えていたが、一揆の大将、上田半六は松平勢を見て、「この道を通ろうとしているのは誰だ、一人も通さぬぞ」と言った。これに対し、浅井六之助が進み出て、「私は水野信元の家来の浅井六之助である、小川勢を連れて桶狭間に援軍に向かい、今は残党を討ち取るために三河に向かおうとしているところだ」と大声で言った。これを聞いた上田半六は「これは味方だ、間違って攻撃してはならない」と言って道を開かせて松平勢を通した。元康は岡崎城に無事入ると六之助をもてなし、馬・太刀を与えた。六之助は大いに喜んで、小川の城に帰っていった。

『武徳編年集成』…夕方になって、今川義元の戦死が大高城に伝わってきた。また、鷲津・沓掛の兵も皆逃げ去った、という報告も入った。家来は元康に城を出ることを勧めたが、元康は虚説を信じて城を明け渡せば世の人々のそしりを受けることになる。真偽が明らかになるまでしばらく待とう」といってこれを受け入れなかった。そこに刈谷城主・水野信元が浅井六之助を派遣して義元が死亡したこと、明日信長が攻めてくるから、夜のうちに城を出て帰国したほうが良い、と伝えてきた。元康が「信元は叔父であると言っても敵方だ、ここは六之助を捕まえて本当のことを話させてから去るべきだろう」と言っているところに、戦場に派遣していたものが帰ってきて、今川軍の陣があった所は静まり返っていて、死体は皆東に向かって倒れている、このことから、義元が負けたのは疑いないと報告した。家来たちはこれを聞いて早く出るように勧めたが、元康は闇夜に出れば迷ってしまう、月が出るのを待とうと言った後、浅井六之助を呼んで道を案内せよ、厚く恩賞を与えると言った。酒井忠尚・松平家次が兵を引き連れて桶狭間の今川方に加わっていたので、当時大高の城には80騎ほどしかいなかった。元康は本多修理を城に残し、月が出るのを待って城を出た。地元の者たちが道を遮ろうとしたが本多百助(信俊)数回にわたって馬上から弓を射て、その間に浅井六之助が松明をもって先導した。水野信元の兵が敗残兵を討ち取るために池鯉鮒に来ていたが、浅井六之助が水野信元の使者であると言うと水野勢はたちまち道を開いた。浅井六之助は今村に至ったのち別れを告げたが、元康はその労をねぎらい、後日恩賞を与える際の証拠とするために持っていた扇子を割って六之助に与えた。この時扇子に六本の骨が残っていたので、浅井六之助の子孫は、幕府に仕える際に六本骨の扇を家紋とした。一方、鳴海城は岡部五郎兵衛が固く守り、今川義元の元老が書を送って城から出るように伝えても、これを受け入れなかった。信長は大いに感じ入り、岡部の求めに応じて僧十人に義元の首を持たせ、権阿弥を添えて鳴海城に派遣したところ、岡部は城を明け渡した。岡部は駿河に戻る途中、敵の油断に乗じて一つの城を落とそうと言って、諜者に刈屋城を探らせたところ、城将の水野信元は小川城に行っており、残った弟の信近は城下の熊村に愛する妾がいて、夜ごと密かに通っているということがわかったので、夜に伊賀の服部党を城内に忍び込ませ、城内に火を放たせた。城内の兵は4・50人に過ぎず、水野信近はたちまち命を落とした。信近の重臣・牛田玄蕃はすぐさま城に入り、岡部の諜者30余人を討ち取って信近の首を取り返し、残党を城外に追い出した。信元も小川からやってきたので、岡部は再び城を攻めることができずに駿府に帰った。今川氏真はその忠勲を賞し、人々は岡部をほめたたえた。

以上からわかるように、鳴海城の場合は、岡部元信が抵抗し、攻防が繰り広げられたのです。

岡部元信は、それによって今川義元の首(と遺体?)を獲得しただけでなく、帰りがけに水野氏の刈谷城を攻撃し、城主である水野信近を討ち取っていますが、

岡部元信は後に高天神城でも長きにわたって籠城して、徳川軍を苦しめた男であり、名将の一人と言っても過言ではないでしょう(;^_^A

この岡部元信の奮戦については、史料上においても裏付けがなされており、永禄3年(1560年)6月8日に今川氏真が出した書状(上述の『家忠日記増補追加』にもその旨が書かれていますね)には、

今回の「尾州一戦」の際、大高・沓掛城の将兵は城を捨て去ったが、鳴海城は城を堅く守って持ちこたえたのは粉骨の至りである、包囲された中で将兵を無事連れて帰ってきたのは比べるものが無い忠功である、それだけでなく策をもって刈屋(刈谷)城の城主・水野藤九郎とその配下の多くを討ち取り、城内をことごとく放火したのは、他と比べることができない働きである。以前没収した土地があったが、褒美としてこれを返還する。

…と書かれています。

また、沓掛城について、諸書では今川方の兵が逃げ去ったとし書かれていませんが、

実際は近くの高圃城に移っていた近藤景春が沓掛城に移って抵抗し、義元戦死2日後の5月21日に落城して城主の近藤景春が戦死しています。

また、注目ポイントの1つは松平元康の大高城退却ですね。

諸書では、後の伊賀越えと似たようなドラマティックな場面として記述されています。

この際に活躍した浅井六之助については、松平元康が5月22日に出した次の書状(『武徳編年集成』に引用されている)が残っています。

…浅井六之助殿の今回の忠節に対し、「約束」の通り土地を与える。…

しかし、「約束」という表現は当時あまり見られないそうなので、信ぴょう性には疑問があるようですね(;^_^A

さて、こうして尾張から、海西郡を除き、今川方をほぼ追い出した織田信長は、

三河方面や美濃方面に勢力を広げていくことになります🔥

2023年7月27日木曜日

決戦、桶狭間~桶狭間の戦い⑤

  今川軍はミッドウェーの戦いの時の日本軍のように油断しきっていました。

簡単に丸根・鷲津砦を落とせたこと。

織田軍本隊についてきていた見物人が帰っていくのを見て、

織田軍の兵士が逃亡していると誤解したこと。

そもそも、長い時間をかけて遠征してきたにもかかわらず、

織田信長清須城にいて、鳴海・桶狭間方面で待ち構えていませんでしたから、

織田信長は怖がって籠城策を選んだ、鳴海・桶狭間方面で決戦はない、と考えてもいたでしょう。

しかもこちらは圧倒的な大軍です。

その油断しきっていた今川軍に、織田軍は小勢で突撃を仕掛けたのです。

思いもよらない攻撃だったでしょう。

しかも大雨で織田軍の移動は隠され、まったくの不意打ち状態にありました。

今川軍の兵は、驚いて今川義元を見捨てて逃走していきます。

残ったのは旗本300騎のみ。

今川義元の命は風前の灯火でした。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

※マンガの1・3P目は、都合により公開いたしません💦

〇今川義元という男

今川義元(1519~1560年)は、足利義氏(足利氏3代当主。1189~1255年)の庶長子、吉良長氏の子として生まれた今川国氏(1243~1282年)を祖とする今川氏の11代当主です。

今川氏は今川国氏の孫の今川範国(1295?~1384年)の時に遠江守護・駿河守護、幕府の引付頭人を務めるなどして勢力を強めました。

(遠江系今川氏となったのは範国の子、今川貞世[了俊。1326~1420年?九州探題の後、遠江と駿河、それぞれの半国守護となる]。子孫は瀬名氏や関口氏となった)

しかし、15世紀に入って間もなく、遠江守護は斯波氏に奪われる形となってしまい、

8代当主の今川義忠(1436~1476年。北条早雲[伊勢新九郎盛時]の姉と結婚)は応仁の乱のさなかに斯波氏と遠江をめぐって争うが、流れ矢にあたって戦死してしまいます。

子の氏親(1471?~1526年)はまだ若年であったため、

義忠の従兄弟の小鹿範満(?~1487年)に実権を奪われることになってしまいますが、

1487年、伊勢盛時の助けを借りて小鹿範満を討つことに成功します。

以前にも紹介しましたが、伊勢盛時はその後も今川氏に力を貸し、遠江における今川氏の勢力拡大に貢献し、三河を攻めたことすらありました。

今川氏親も伊勢盛時に助けられてばかりではなく、関東に兵を出してたびたび伊勢盛時を助けています。

氏親は1508年、ついに幕府から念願の遠江守護に任じられ、その後も斯波義達(1486?~1569?)と戦いは続いたものの、1517年、引馬城を陥落させて遠江を平定することに成功しました。

氏親は他にも甲斐にもたびたび出兵して、武田氏とも争うなど、バリバリの戦国大名でした。

死の2か月前には分国法「今川仮名目録」を制定しています。

氏親の子の氏輝(1513~1536年)も武田氏と戦い、一時は甲斐の南半分を奪いましたが、23歳で急死します。

その後、弟の玄広恵探梅岳承が家督をめぐって争う花倉の乱が起こり、勝って勝利したのが梅岳承芳で、この人物が還俗して名乗った名前が今川義元です。

今川義元は武田氏と同盟を結び武田氏との戦いを終わらせますが、

このことが北条氏綱(伊勢盛時の子)の怒りを買い、長く続く対立(河東一乱[1537~1539・1545年])となります。

この間に織田信秀が三河に乱入してきて、今川氏の勢力は三河から大きく後退することになります(◎_◎;)

1545年、今川義元は山内上杉と同盟を結び、北条氏を挟撃する策に出ますが、これがうまくいき、北条氏が駿河に持っていた領土をすべて奪うことに成功します。

これで落ち着いた今川義元は、1548年、小豆坂の戦いで織田信秀に大勝し、

1549年、松平家の当主・松平広忠が亡くなったことに付けこみ岡崎城を占領、一挙に三河に勢力を広げます。

この年には安城城も攻略、以後、尾張に進攻し、鳴海城や蟹江城などを織田氏から奪っていきます。

1554年には武田氏・北条氏と三国同盟を結んで後顧の憂いを立つことに成功します。

ここまでは順風満帆でしたが、

1555年に右腕であった太原雪斎が病死・

三河国で吉良氏・奥平氏などが今川氏に敵対し(三河忩劇)、この鎮圧に1558年までかかることになるなど、逆風に見舞われることになります💦

織田信長はその間に尾張国内の織田氏の抗争をほぼ終わらせることに成功しました。

今川義元としては、三河の反乱に手を貸して三河経営を混乱させた上に、これによって織田信秀死後も続けていた尾張進攻をしばらく頓挫させた織田信長に対する憎しみの気持ちが強くあったと考えられます。

1558年、今川義元は家督を子の氏真にゆずり、織田との対決に神経を集中させ、1560年、満を持して尾張に進攻。

こうして、今川義元は運命の地・桶狭間に向かうことになったのです…。

〇決戦・桶狭間

空晴るるを御覧じ、信長鎗をおっ取て、大音声を上げて、すわかかれかかれと仰せられ、黒煙立てて懸かるを見て、水をまくるがごとく後ろへくわっと崩れたり。弓・鎗・鉄炮・のぼり・さし物、算を乱すに異ならず。 今川義元の塗輿も捨て崩れ逃れけり。旗本は是なり、是へ懸かれと御下知あり。未刻(午後2時頃)東へ向てかかり給う。初めは300騎ばかり真丸になって義元を囲み退きけるが、2・3度、4・5度、帰し合せ帰し合せ、次第次第に無人になりて、後には50騎ばかりになりたるなり。信長も下立って、若武者共に先を争い、つき伏せ、つき倒おし、いらったる若もの共、乱れかかってしのぎをけずり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。然りといえども、敵身方の武者、色は相まぎれず。爰にて御馬廻・御小姓衆歴々手負・死人員(かず)を知らず」

『信長公記』に書かれている、桶狭間の戦いの場面です。

この部分は、軍記物語のように、非常に躍動的というか、ドラマティックな書き方がされている部分ですね😅

…今川義元の本陣に到着した織田信長は、馬から降りて、他の若武者たちと先を争って敵陣に突入し、敵を突き伏せ、突き倒し、苛立った(せきたてられた、血気にはやる)若者たちは、各自思い思いに突撃し、刀と刀がぶつかり合い、刀の鎬(しのぎ。刃の背に沿って小高くなっている部分)は削れ、鍔(つば。柄を握る手を防御するもの)は割れ、火花が散って火の粉が舞った。しかし、乱戦になったけれども、味方は味方と判別できるようにしていたので、同士討ちが起きるようなことはなかった。激戦となったため、信長の馬廻衆(大将の護衛や伝令を務める。親衛隊のような存在)・小姓衆(大将の身の回りの世話をする。親衛隊のような存在)で負傷した者・戦死した者は数知れなかった。…

『三河後風土記』によれば、信長軍は1500。対する今川軍は300。

数では押していましたが相手も旗本で精鋭中の精鋭であり、また、必死なので、

信長も多くの死傷者を出していました。

しかし、(おそらく三河方面に)逃げる中で今川義元の旗本は数を減らしていきます。

そして、現在今川義元の墓がある豊明市栄町のあたりで最期を迎えることになります。

今川義元の最後について、『信長公記』は次のように記しています。
服部小平太、義元にかかりあい、膝の口きられ、倒伏す。毛利新介、義元を伐臥せ(「天理本」では「切伏せ」)頸をとる。是偏(ひとえ)に、先年清洲の城において、武衛様を悉く攻殺し候の時、御舎弟を一人生捕り、助け申され候、其冥加忽(たちま)ち来って、義元の頸をとり給うと、人々風聞候なり。

義元に一番槍をつけたのは服部小平太(「天理本」では弟の小藤太)でしたが、服部小平太は今川義元に膝を斬られて倒れてしまい、義元の首を逃してしまいます。

この服部小平太は、桶狭間の戦いのこの場面のために有名な人物なのですが、
その後の人生は全くといっていいほど知られていません…💦

服部小平太は、諱を一忠もしくは春安などといいます。

織田信長の馬廻の一員だったといいますから、側近の一人だたのでしょう。

しかし、織田信長は若い時期の側近たちをその後あまり厚遇していません(-_-;)

信長の怒りに触れて悲しい最期を遂げるものも多いのです…。

服部小平太はその後長く活躍が見られなくなります。

弟の小藤太は『信長公記』に出番があり、

本能寺の変の際に、織田信忠のいる二条城から明智軍に突撃して死亡しています。

小平太はその後豊臣秀吉に仕え、小田原征伐で功を挙げ、

1591年、松坂城主となり、3万5000石を得ます。翌年には文禄の役にも参戦して朝鮮に渡っています。

ついに報われた小平太ですが、しかし、ここから人生は暗転します(-_-;)

豊臣秀次の与力大名となっていたことがあだとなり、

豊臣秀次の処刑に連座して切腹を命じられてしまうのです。

桶狭間の英雄の、あまりにかわいそうな最後でした…😥

さて、倒れた小平太に代わって義元の首を落としたのは、毛利新介でした。

毛利新介は織田信長の馬廻であったといいます(小姓であったとも)。

『信長公記』では、今川義元の首を取るという大功を得ることができた理由として、

天文22年(1554年)に尾張守護である斯波義統が殺された際(以前にマンガで紹介)、

その子の1人(のちの毛利長秀[秀頼])を助けたからだ、と書いているのですが、

毛利長秀を救出したのは「毛利十郎」です。

しかし、わざわざこう書いてあるということは、

名字も同じですし、毛利十郎と毛利新介は血縁関係にあり、

斯波義統の子を救出する際に新介は十郎に協力していたのかもしれません💦

毛利新介、諱は良勝(毛利良勝とだけ聞いて、誰だかわかる人が世の中にどれほどいるだろうか…(;^_^A)は、この後『信長公記』には2度登場します。

1つは永禄12年(1569年)に行われた伊勢の大河内城攻めに参加した時で、

もう1つは本能寺の変の時のことです。

毛利新介は、服部小平太の弟、小藤太とともに、二条城からうって出て戦死しています😥

桶狭間の英雄は二人とも、普通に亡くなることはできなかったんですね…。

ちなみに、毛利新介はイメージと違い、

その後は主に官吏として働いていたようです。

今川義元に指をかみちぎられたという逸話がありますが、

それが事実だとすると、その時の傷がひどく、あまり前線で戦えなくなってしまったのかもしれません💦

運の尽きたる験(しるし)にや。おけはざまと云う所は、はざまくてみ、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云う事限りなし。深田へ逃入る者は所をさらずはいずりまわるを、若者ども追付き追付き、二つ、三つ宛(ずつ)手々(てんで)に頸(くび)をとり持ち、御前へ参り候。頸は何れも清洲にて御実検と仰出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず(「天理本」だと「御満足は無限」)、もと御出で候道を御帰陣候なり。」(今川軍は運が尽きたのだろう、逃げた場所は「おけはざま」というところで、狭い湿地帯で、足がとられる深田もあり、高いところは木が生い茂り、この上もない難所であった。深田に逃げこんだものは抜け出せずに這いずり回っているところを追いつかれて首を取られてしまった。馬廻・小姓たちは、各自首を2・3個持って織田信長のもとにやってきた。織田信長は「首実検は清須で行う」と言ったが、今川義元の首だけはここで見て、非常に満足そうであった)

…この部分は、「おけはざま」について触れている非常に大事な部分ですが、

今川義元の死の後に書かれています。

…ということは、今川義元の死を知って、もうだめだとバラバラになって逃走したところ、

そこは難所の「おけはざま」で、深田に足を取られ次々と首を取られていった、ということなのでしょう。

ですから、桶狭間古戦場と言われているところは追撃戦が行われた場所で、主戦場ではなかったのかもしれません。

「山口左馬助、同九郎二郎父子に、信長公の御父織田備後守、累年御目を懸けられ鳴海在城。不慮に御遷化候えば、程なく御厚恩を忘れ、信長公へ敵対を含み、今川義元へ忠節として居城鳴海へ引入れ、智多郡御手に属す。其上、愛智郡へ推入り、笠寺と云う所要害を構え、岡部五郎兵衛・かつら山・浅井小四郎・飯尾豊前・三浦左馬助、在城。鳴海には子息九郎二郎入置き、笠寺の並び中村の郷取出に構え、山口左馬助居陣なり。

 かくの如く重々忠節申すの処に、駿河へ左馬助・九郎二郎、両人を召し寄せ、御褒美は聊(いささか)もこれなく、無情無下無下と生害させられ候。世は澆季(ぎょうき)に及ぶと雖も、日月未だ地に堕ちず、今川義元、山口左馬助が在所へきたり、鳴海にて四万五千の大軍を靡(なび)かし、それも御用に立たず。千が一の信長、纔(わず)か二千に及ぶ人数に扣(たたき)立てられ、逃死に相果てられ、浅猿敷(あさましき)仕合、因果歴然、善悪ニつの道理、天道恐敷(おそろしく)候なり。」

この場面では、今川義元が討ち死にして果てることになった因果を説明しています。

山口教継父子については、これまでにも何度か説明してきましたね。

山口教継父子は織田氏を裏切った後は今川氏に忠節を尽くし続け、

今川氏の尾張国内における領土拡大に貢献したのに、

今川義元は冷淡に殺害した。

今は末の世だというけれど、天は義元の行動をしっかりと見ており、

今川義元が山口教継の持っていた鳴海周辺までやってきたところ、

その大軍は用をなさず、わずか2千の織田軍にたたきのめされ、

逃げるところを殺されることになった。

みじめな最期を遂げることになった因果は歴然、善悪2つの道理は明らかで、

悪い行いをすると運命が変わって悲惨な最期を必ず迎えることになる。恐ろしいことである。

…今川義元が無残な死を遂げたのは、忠節を尽くした山口父子を殺したからだ、

というのです。

この論理でいくと、山口父子が殺されたのも、主君である織田信長を裏切ったからだ、ということになりますね(゜-゜)

他の史料では今川義元の戦死の場面をどのように記しているか、見てみましょう。

①『三河物語』

織田軍の兵は数人ずつ山を登り、今川軍はわれ先にと逃亡した、義元はそれを知らず、大雨の中で昼食を取っていた。信長はそこを3千ほどの兵で攻撃、義元は毛利新助がその場で討ち取った。他にも多くの者が敗走する中で殺された。信長はそのまま駿河まで攻め取ることもできたが、信長は勝ちにおごる人ではなかったので、清須に引き返した。

②『松平記』

鳴海桶狭間で祝勝の昼食を取っていたところに、織田軍が突然攻め寄せてきた。おが軍は笠寺の東の道を通り、善照寺で二手に分かれ、1つは今川軍の先陣を、1つは今川軍の本陣の油断しているところを襲い、鉄砲を撃ちかけてきた。今川軍はことごとく敗れ騒ぐところに、「上の山」からも100人ほどが駆け下ってきて、服部小平太という者が青貝柄の長い槍で義元を突いた。義元は応戦して槍を切断し、小平太の膝を割った。毛利新助が義元の首を取る際に、義元の口に入った左の指(『三河後風土記』では左の小指)が食いちぎられた。義元の旗本たちはよく奮戦したので、織田方も物頭(侍大将)である佐々隼人正(政次)・千秋新四郎(季忠)・岩室長門守・織田左馬允・一色など多くが戦死した。

③『道家祖看記』

佐々政次隊が350の兵で今川軍本陣に突撃、喧嘩が起きたかと6万の今川軍が騒ぎ立つところに、信長が2千の兵で、「一人ものがさじ」と叫んで斬りかかった。今川軍は支えることができずにどっと崩れ、義元は毛利新助に討ち取られた。この時西から大風が吹き、あられが降り、大高・沓懸の大木が倒れたという。

④『武徳編年集成』

沓掛の上の山の喬木(丈の高い木)が倒れるほどの風雨のため、信長軍が廻り来たのは今川軍にはわからなかった。信長は森三左衛門可成の進言を受け入れ、騎馬のまま敵陣に突撃した。突然織田軍が攻め寄せて来たので、今川軍は失火か、喧嘩か、反逆・裏切りかとあわてふためいた。水野清久(信元の従兄弟)が最初に手柄を挙げた。信長は塗輿が捨て置かれているのを見て今川軍の本陣であることは間違いないと判断し、未刻(午後2時頃)に東に向かって逃げる敵軍を追撃した。義元は300人ほどで退却していたが4・5度と戦ううちに50人ほどにまで減った。それでも義元は猛将なので兵士を励まし戦っていたが、そこを服部小平太が槍で突いた。義元は松倉郷の名刀をもって小平太の膝を割った。続いて毛利新助が義元を組み伏せたが、義元は新助の人差し指を噛みちぎった。それでも新助は義元の首を取り、義元の持っていた左文字の刀・松倉郷の刀も得た。義元は享年42歳(数え年)であった。

⑤桶狭弔古碑

今川方の武将で桶狭間の戦いで戦死した松井宗信の子孫は、養子に入って津島神社の神官になっていましたが、1809年、尾張藩の許可を得て現在、今川義元の墓がある辺りに石碑を建立します。

そこには、

・5月19日、今川義元は桶狭間山の北に陣を布いた。

・今川義元は丸根・鷲津砦陥落を聞いて、明日の朝食には清須城を落とせているだろうと言った。

・その時大雨が降り、そこに信長が今川軍を背後から突然襲い、これを滅ぼした。

…といった色々と興味深い内容が記されています(゜-゜)

かくして、織田信長は今川義元を討つことに成功しました。

大名レベルが戦死した例は、他には沖田畷の戦い龍造寺隆信厳島の戦い陶晴賢などがあるでしょうが、非常に珍しいことです。

次回のマンガでは、今川義元が死んだ後の尾張がどうなったか、それについて見ていこうと思います😆

2023年7月23日日曜日

織田信長、桶狭間へ~桶狭間の戦い④

 丸根・鷲津砦が陥落し、佐々・千秋隊も敗れます。

状況は刻々と悪化していく中、

織田信長は周囲の制止を振り切って、

今川義元に決戦を挑もうとしていました…!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

※マンガの1・3P目は都合により公開いたしません💦

〇桶狭間へ向かう織田信長

丸根・鷲津砦が陥落し、佐々・千秋隊も敗れた織田軍。

それを見て、今川軍は相当気が緩みつつあったと思いますが、

さらにその気の緩みを促進させるような出来事が起こります。

『信長公記』天理本によれば、

途中から信長本隊についてきていた見物人たちが、

佐々・千秋隊が敗れたのを知って、

「急ぎ帰れと申し、皆罷り帰り候き、弥(いよいよ)手薄に成候也」

とあるように、もう負け戦だ、と判断して、ぞろぞろと帰ってしまったといいます。

今川軍はこの様子を見て、士気が落ちた織田軍は兵士の逃亡まで始まっている、

この戦いは早く終わるかもしれない、と考えたことでしょう。

その中で、織田信長は前進を続けようとしますが、

家来の者たちが信長の馬の轡に取り付いて、

「中島砦へ向かうと敵から丸見え、小勢なのがばれる」と引きとめようとします。

この時止めようとした家来の者たちは、『信長公記』には「家老の衆」としか書かれていませんが、

「天理本」には、「林・平手・池田・長谷川・花井・蜂屋」であったと記されています。

それぞれ、林秀貞(家老)・平手久秀?(平手政秀の子)・池田恒興(信長の乳母の子。以前のマンガで紹介)・長谷川与次?(長谷川橋介前回のマンガの解説文で紹介]の兄)・花井三河守?(星崎城の守将?)・蜂屋頼隆(土岐氏の一族。以前のマンガで紹介)だと思われます。

(※『中古日本治乱記』小瀬甫庵『信長記』『総見記』は引きとめたメンバーを林秀貞・池田恒興・毛利新助・柴田勝家とする。毛利新助、そんなにえらかったのか…?)

しかし織田信長は、次のように演説して制止を振り切り前進します。

「各よくよく承り候え。あの武者、宵に兵粮つかいて、夜もすがら来り、大高へ兵粮を入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍ニシテ大敵ヲ怖ルル莫カレ。運ハ天ニアリ。此の語は知らざるや。懸らぱひけ、しりぞかば引付くべし。是に於いては、ひ稠(ね)り倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕をなすべからず。打捨たるべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべし」

…今川軍は昨晩から兵糧入れや砦攻めでつかれている、

しかしこちらはつかれていない。

「少ない軍勢だからといって大軍を恐れてはいけない。勝敗は天が決める」という言葉もある。

敵が押して来れば引き、敵が引けば追撃せよ。逃げるものをひねりつぶすのはたやすいことだ。

倒した敵の首や武器は放置してとにかく前進せよ。

この戦いに勝てば、この戦いに参加した者たちの名は、末代まで家の名誉となるだろう。

ひたすらに励むのだ!

…という意味になるでしょうか。名演説ですね(◎_◎;)

その名演説を終えた後に、

佐々・千秋隊の生き残り(もしくは、先行して出撃していた部隊?)の、

前田利家・毛利長秀・毛利十郎・木下雅楽助・中川金右衛門・佐久間弥太郎・森小介・安食弥太郎・魚住隼人が今川方の首を持ってやってきたので、

この者たちにも先の演説と同じ内容を言い聞かせます。

※ここで出て来たメンバーを紹介!

前田利家(1539?~1599年)…荒子城主前田利春の子。幼名は犬千代。1551年頃から信長に仕え、その後元服して前田又左衛門利家と名乗る。萱津の戦いで初陣、その後稲生の戦い浮野の戦いでも活躍し、「槍の又左」と呼ばれるようになる。1558年、従妹のまつ(この時11歳!💦しかも翌年出産…)と結婚する。1559年、前田利家の道具を盗んだ拾阿弥を殺害しますが、拾阿弥は織田信長のお気に入りであったので、出仕停止の処分を受けてしまいます。一説には、織田信長と拾阿弥・前田利家は男色関係にあり、三角関係のもつれから起きた殺人事件ともいわれています。浪人となった前田利家は桶狭間の戦いに信長に無断で参加、活躍して信長の怒りを解こうとします。

・毛利長秀(1541~1593年)…尾張守護・斯波義統の子。義銀の弟。斯波義統の殺害後、毛利十郎に育てられる。後に秀頼と名を改める。豊臣姓の名乗りも許されているから、「豊臣秀頼」ということになるのだが、本物の豊臣秀頼が生まれた2か月後に死去。2か月間主君の子と同じ名前だったわけだが、大丈夫だったんだろうか(;^_^A

・毛利十郎…父は加納口の戦いで戦死した毛利十郎とされる。父の名前が敦元とする説もあれば、こちらが敦元という説もあってはっきりしない💦尾張守護・斯波義統が殺された後、その子を養子とするが、これが毛利長秀である。つまり養子と一緒に戦ってたんですな。ほほえましい…(?)😊

・木下雅楽助…中川重政の弟。その後長く歴戦し、1584年の小牧・長久手の戦いで戦死した。

・中川金右衛門…中川重政の一族?後に伊勢の大河内城攻めに参加。

・佐久間弥太郎…丸根砦で戦死した佐久間盛重の子。先祖の地である奥山荘(建仁の乱の城氏の持っていた土地ですね!)にちなみ、後に奥山盛昭と名乗る。文禄の役まで歴戦した。

・森小介…おそらく森氏の一族?ここでしか出てこない。

・安食弥太郎…名は重政。後に小牧・長久手の戦いで徳川方として参加。

・魚住隼人…はじめは斯波氏に仕えた。1568年、近畿の池田城攻めで活躍。

〇今川義元はどこにいたのか!?

今川義元の本陣はどこにあったのか。

主流となっているのは「桶狭間古戦場公園」「今川義元本陣跡碑」が存在する、桶狭間北という地名の所です。

他には、国指定史跡にもなっている「桶狭間古戦場伝説地」がある豊明市栄町。

ここには今川義元の墓や「今川義元公本陣跡碑」などがあります。

他にも中島砦のすぐ南の丘陵、漆山にあったという説や、

大高城と桶狭間の中間地点の殿山付近にあったという説もあります。

では、桶狭間の戦いが行われた1560年になるべく近いときに成立した書物の記述を見てみましょう。

『松平記』慶長年間[1596~1615年]頃。1637・38年頃という説もあり)

今朝の御合戦御勝にて目出度と鳴海桶はざまにて、

昼弁当参候処に、其辺の寺社方より酒肴進上仕り、…

…とあり、今川義元は「鳴海桶狭間」にいた、とアバウトにしか書かれず、場所は特定できません💦

しかし、「其辺の寺社方」とあるので、付近に寺社があったところだとわかります。

これだと、殿山説は付近に集落がほぼないので適さないことになります。

桶狭間古戦場説だと近くに長福寺(1538年に建立され、のちに今川義元の供養寺となる)があるので、可能性は高くなりますね(゜-゜)

漆山説だと、少し離れたところに鳴海の集落があるので、そこから酒を持ってきた可能性が出てきますが、鳴海は織田信長の勢力範囲でもあるんですよね…。

『三河物語』(1630年頃)

『三河物語』には、今川義元は大高城に入ったのち、棒山の砦(丸根砦)を巡検し、そこで長い軍議をした、と書かれた後、突然、信長の兵が山を登ってきたので義元の兵はわれ先に逃げた…という描写が現れます。

とりあえず山の上にはいたようですが、居場所がよく分かりません。丸根砦が見える位置にある山の上でしょうか。でもそうなると大高城に近く、信長に攻められた時に逃げこめそうなものです。うーん、『三河物語』で居場所をつかむのは至難の業と言った方がよいでしょう(;^_^A

『中古日本治乱記』(1677年頃)

『中古日本治乱記』はまず、桶狭間の戦いが19日・20日と2日間にわたっています。

1日目は佐々・千秋の戦死までです。「瀬山」にいる今川軍の先手を攻撃して討ち死にしています。

2日目、大雨の中で織田軍は動き、「道より遥に隔つ西の山陰に陣取」っていた今川軍の先陣を攻撃し、「田楽坪」にいて酒宴をしていた本陣を襲撃した。

『中古日本治乱記』からわかるのは、「今川軍の先陣は道から遠く離れた西の山陰(瀬山?)に陣取っていた」「今川本陣は田楽坪にあった」ということです。

「田楽坪」はちょうど現在の「桶狭間古戦場公園」があるところです。

「道から遠く離れた西の山陰」はおそらく先に述べた「瀬山」のことだと思われるのですが、実は「瀬山」という地名は現在残っておらず、「瀬山」がどこの山のことなのかわからないのです(-_-;)

候補となるのは先陣がいたとされる「高根山・幕山・巻山」です。

高根山とすると、道に近い方なので、幕山か巻山あたりになるでしょう。

「山陰」とは山の北側をいうそうなので、そうなると北の方にある高根山かもしれませんが、

そうなると道に近くなるので、幕山か巻山の北側という事なんでしょう(;^_^A

『総見記』(1685年)

「桶狭間の山下の芝原に敷皮しかれ義元それに坐し休(やすら)い勇み誇りける處…」とあり、

桶狭間にあるどこかの山の下にいた、という非常にアバウトな記述(-_-;)

『三河後風土記』(1610年・正保年間[1644~1648]という説もある)

こちらは15~20日の6日間(!)に渡って戦闘が繰り広げられています。

鷲津砦が陥落したのが15日夜。

この日に中村城・鳴海城を守っていた山口父子が今川方に寝返っています。

その後丸根砦も陥落。

19日の夕方から雨が降り注ぎ、しかも向かい風であったため、今川軍本陣は「鳴海桶狭間の内にて田楽が窪」から動けなかった。

20日の朝、佐々・千秋隊が「瀬山」に陣取っていた今川軍先陣を攻撃した…とあります。

今川軍の先手は「瀬山」にいた、というのは『中古日本治乱記』と同じですね。違うのは本陣は「田楽が窪」にあった、と言っているところです。

「田楽が窪」の地名は現在も残っており、「沓掛町」にあります。

今川義元は「田楽が窪」にいた、とする書物は他にもあり、

『武徳編年集成』にも「桶狭間田楽が窪義元の陣所」とあり、

また、天正15年(1587年)に駿河清見寺の僧、東谷宗果が、義元の軍師であった太原崇孚雪斎の33回忌について書いた記録には、「5月19日、礼部尾之田楽窪一戦而自吻矣」…とあり、今川義元が田楽窪で戦った後、自ら首をはねた、と書いてあります。

では、それでは今川義元の本陣は「田楽が窪」にあったのでしょうか?(゜-゜)

1628年、俳人・斎藤徳元(斎藤道三の曽孫にあたる)は、東海道を西から東へ移動した際、「馬手」(右手)に「小高き古塚」があった、これは昔織田信長公が駿河の今川義元と「夜軍」(夜戦)をし、戦いに負けてこの場所で死んだ今川義元の「古墳」であると聞いた、と『関東下向道記』に記しています。

これを確かだとするならば、今川義元は東海道より南側で死んだことになります。

…となると、東海道より北(左手)に3㎞も離れた「田楽が窪」は今川義元が死んだ場所として正確ではないということになります。

それではなぜ、清見寺の東谷宗果は今川義元が「田楽が窪」で死んだと書いたのか??

「田楽が窪」は鎌倉街道にあり、東海道が整備されるまでは主要道でした。

「田楽が窪」はその名の通り窪地になっており、「濁池」と呼ばれる大きな池もあるため印象に残りやすく、古くは和歌にも詠まれたようです。

そのため、戦いのあった「田楽坪」と、聞き知っている「田楽が窪」を混同してしまった…のではないでしょうか(゜-゜)

今川義元の本陣の場所は通説の通り、名古屋市緑区桶狭間北にある、桶狭間古戦場公園周辺、ということでいいでしょう。

〇新説・今川義元が桶狭間に至ったのは撤退中のことだった!?を検証する

今川義元の動向について、近年、かぎや散人氏や水野誠志朗氏などにより新説が提示されました。

それは、

5月18日の夜、今川義元は大高城に入り、翌日、丸根・鷲津攻撃の前に小川道を通って漆山に赴き、丸根・鷲津砦の陥落を見届けると、撤退を開始して手越川沿いに桶狭間に向かい、まず高根山にいったん陣を布いた、撤退していく今川軍の殿軍を佐々・千秋が攻撃したが撃退された、これを喜んだ今川義元はさらに進んで桶狭間村に入った、

…というものです。

この説に信ぴょう性を与える素材が2つあり、それは、

①小瀬甫庵『信長記』に、佐々・千秋隊が進軍しようとした際に、「見るとひとしく義元が先陣の勢山際に引へたるに…」とあり、今川軍の先陣が山の裾の方に退いていった、という記述があること。

②「天理本」にて、織田信長が「尾張に踏み込まれて逃げられては情けない」と言っていること。

…の2つですが、

信長としてはこれまでの戦いを通して、今川軍は攻め寄せては引いていく、というのを繰り返していたため、今回も短期間で退却していく、と考えていたのかもしれません。

しかしその考えは誤りです。今回の戦いで今川義元が短期間で撤退していくとは考えにくいからです。

なぜか?理由は4つあります。

①いつもは武将に任せているのに、今回は今川義元自ら出陣していること。

②織田信長の活躍を際立たせるための誇張でなければ、今川軍はいつも以上の大軍を動員していること。

③丸根・鷲津砦を落としただけで撤退しては、鳴海城はまだ包囲されたままになる上に、織田に再び大高城周辺に砦を再建される可能性が高く、状況は改善されないこと。

④後述するが、今回の戦いで今川義元は大高城の部隊を服部友貞が率いてきた船に乗り、内応した斯波義銀・吉良・渋川により海上から尾張領内に突入する計画を立てていたこと。

この4つから、今川義元が丸根・鷲津砦を落としただけで撤退するとは到底思えないのです(-_-;)

〇織田信長は部隊を二つに分けていた!?

織田信長は今川義元と戦うために中島砦を出撃するのですが、桶狭間までどのような進路をたどったのか、諸説あって定まっていません。

(例えば藤本正行氏は今川軍を正面から突撃して破ったとする正面攻撃説を唱え、桐野作人氏は織田信長は丸根・鷲津砦方面の敵に攻撃を仕掛けこれを蹴散らした後、東に向かい進軍しているときに大高城に向けて進軍する今川義元本隊を発見、これを攻撃した、という説を唱えている)

諸書にはどのように記述されているか、見てみましょう。

①『信長公記』

「山際迄御人数寄せられ侯の処、俄に急雨(むらさめ)石氷を投打つ様に、敵の輔(つら)に打付くる。味方は後の方に降りかかる。沓懸の到下の松の本[「天理本」では「松の本」は削除されている]に、二かい・ 三かいの楠の木、雨に東へ降倒るる。余りの事に熱田大明神の神軍かと申し侯なり。」(中島砦を出発して山の裾に進もうとしたところ、急に雹が降ったような雨が降ってきて、西向きの敵軍には顔面に、東向きの織田軍には後方から降り注ぐ形となった、沓掛峠にあった二抱え・三抱え分もある大きな楠の木が東向きに倒れたので、織田軍の兵士たちは熱田大明神が味方してくれているのだと言った)

これからわかるのは、

1:中島砦から山の方向に向けて進んだところ、激しい雨が襲ってきた

2:織田軍は東向きに進み、今川軍は西向きに陣を布いていた

3:織田軍は沓掛峠を進んでいた

…ということですね。

とりわけ大事になってくるのが3で、後でもふれます。

②『松平記』

「永禄三年五月十九日昼時分大雨しきりに降。…鳴海桶はざまにて、昼弁当参候処に、…信長急に攻来り、笠寺の東の道を押出て、善勝寺の城より二手になり、一手は御先衆へ押来、一手は本陣のしかも油断したる所へ押来り、」

昼、大雨が降っていた、その頃、織田信長が急に攻め寄せてきた。織田軍は善照寺で二手に分かれ、一つの部隊は今川軍先陣を攻撃し、もう一つの部隊は今川軍本陣を攻撃した…。

善照寺砦で二つに分かれた、と書いてあるのが一番のポイントですね。

今川軍先陣を攻撃した部隊というのは、佐々・千秋隊のことでしょうから、

織田信長本隊はそれとは別のルートで今川軍本陣を攻撃した、ということになりますね。

③『中古日本治乱記』

19日、織田信長は善照寺砦で軍勢を整え、5千余りの軍勢を二つに分け、佐々・千秋隊は信長の木瓜紋の旗を掲げて瀬山の裾に陣取る葛山播磨守・同備中守・富永伯耆守を攻撃した、今川軍は食事中だったので混乱し、敗走したが、そこに朝比奈・庵原・三浦などが増援に駆けつけたので佐々・千秋は討ち死にした、岩室長門守は側面から攻撃をかけたが大軍に取り囲まれて討ち死にした、しかし今川軍も830もの兵を失ったので後退し、桶狭間に至って織田方の大将首3つを今川義元に献上した。信長は今川義元が布陣している山の背後に回って明日、攻撃を仕掛ければ勝てる、と将兵に檄を飛ばして夜間に二手に分かれて進んだ、翌日(20日)、大雨の中で今川義元の本陣を攻撃した、今川軍は不意を突かれたうえに激しい風が吹きつけて目を開けることもままならず、信長は天の時を得たというべきであった…。

こちらも善照寺砦で二手に分かれています。また、一軍は佐々・千秋隊であったとはっきり書かれています。『中古日本治乱記』の内容は小瀬甫庵の『信長記』の内容に酷似(文章表現も)していますが、変わっているポイントは夜に進み、翌日、雨が降っていることであり、戦いが2日間にまたがっていることです。あと、信長は今川義元の背後を狙って行軍していますが、敵の顔に向かって風が吹きつけているのは謎です(;^_^A

『三河後風土記』

織田信長は善照寺砦の東の山際に兵を集め軍議を開き、佐々・千秋を呼んで「自分は間道を進んで今川義元の本陣を襲う、佐々・千秋は信長の馬印を押し立てて(本隊のふりをして)、瀬山の際にいる今川本隊の先手を攻撃せよ、敵は本陣から助けを向かわせるであろう、そうすれば本陣はがら空きになる、そこを攻撃すれば義元を討ち取れる」と言い、5千の軍を二手に分け、3500を佐々・千秋に預け、自らは1500で敵軍のいる山の後ろから攻撃することにした。19日の夕方から雨が降り注ぎ、しかも向かい風であったため、今川軍本陣は「鳴海桶狭間の内にて田楽が窪」から動けなかった。20日の朝、佐々・千秋隊が「瀬山」に陣取っていた今川軍先陣を攻撃した、佐々・千秋隊は「離合集散秘術」(ゲリラ戦法のことか?)を尽くしたため、今川軍は手を焼いた、そこに岩室長門守が横槍を入れて今川軍は総崩れになったが、庵原美作守(元政)・朝比奈主計頭(秀詮)等の猛将が自ら槍を取って奮戦したので佐々・千秋・岩室は戦死した。一方、織田信長は雨の中、織田造酒丞(信房)・林佐渡守(秀貞)等を先手として「山間の細道」を進んでいた、すると瀬山の近くに至ったときに鬨の声がおびただしくしていたので、もう佐々・千秋は戦いを始めたか、この機を逃してはならないと、自ら率先して今川軍に突撃した、…とあります。

『中古日本治乱記』よりも詳しいですね。詳しすぎて不安になります(;^_^A

「離合集散秘術」などと言われるとますます不安になります(;'∀')

直前に山口教継が死んだという記述もあるのを見るとどこまで本当なのだろうか…と思いたくなります。

こちらも善照寺砦で二手に分かれ、信長は「山間の細道」を通って今川義元の背後から攻撃しようとしています。「瀬山」がどこかはわからないのですが、「瀬山」での戦いの声が聞こえたとあるので、別動隊と本隊はそこまで離れた位置にいなかったことがわかります。

(「山間の細道」について、江戸時代後期の田宮如雲(1808~1871年)は、『桶狭間図』内に「中嶋の砦に入直に東の山間を押太子が根の麓より屋形狭間へ横入の由」と記し、中島砦の東の丘陵のことだとしています)

⑤『道家祖看記』(1643年成立)

佐々正次は信長に、「我々は東むきに今川はた本へみだれ入べし、殿はわきやりに御むかい、てっぽう・ゆみもうちすて、ただむたいにうちてかからせたまい候え」(我々は東向きに今川本陣に突撃するので、殿は、鉄砲も弓も持たなくてもいいので、とにかく側面から攻撃してください)と提案し、350人ほどで突撃した、今川軍が混乱するところに、信長は「一人ものがさじ」と大音声をあげて2千の兵で側面より攻撃した。…

信長の進行方向はわからないのですが、二手に分かれて今川軍を攻撃、信長は側面より攻め入ったことがわかります。

以上、様々な史料から類推するに、二手に分かれて今川本陣を攻撃した、というのは間違いないと思われます。

醍醐寺理性院の僧、厳助僧正のつけていた記録には、永禄3年(1560年)4月(5月の誤り?)に今川義元が尾張に入った、織田信長は「武略を廻らし」義元を討ち取った…とあり、

1573年以降に書かれたとされる『足利季世記』には、「19日尾州おけはさまと云処にて、伏兵起て信長の為に打れける」という記述が見られ、

当時の人々も信長が単に正面から突撃しただけで勝ったわけではないと考えていたことがわかります。

さて、諸書によれば信長本隊は善照寺砦で2つに分かれていますが、佐々・千秋隊は中島砦にいたので、これには含まれません。

…となると、この善照寺で分かれた別動隊はどこに行ったのでしょうか?(゜-゜)

手掛かりとなるのは『信長公記』の「沓掛の到下の松の本に、二かい・三かいの楠の木、雨に東に降り倒るる。余りの事に熱田大明神の神軍(かみいくさ)かと申候なり」という記述です。

沓掛は桶狭間古戦場公園からは直線距離で3km以上も離れており、

この記述は遠く離れた出来事を挿入しただけだとされていました。

「余りの事」は、暴風雨のことと解釈するのが一般的ですが、

そうではなく、普通に読んで、

「非常に太い楠の木が暴風雨で倒れた」のをその目で見たため、

「余りの事」と織田軍が驚いた、とするべきでしょう(゜-゜)

さて、この記述から、織田軍は鎌倉街道の沓掛峠を通っていることがわかるのですが、

ここを通っているのは信長本隊でしょうか?別動隊でしょうか?

織田信長は善照寺砦から中島砦に向かった、という記述がありますので、

反対方向になる沓掛峠方面に行くというのは考えにくい。

沓掛峠に向かったのは別動隊、ということになります。

橋場日月氏は、別動隊は沓掛峠を越えて、沓懸城にほど近い松本(沓懸城の北東部)まで進出、そこから南下して豊明市栄町上ノ山より西進して今川義元の背後を襲ったとしています。

上ノ山より…という説のもとになっているのは、『松平記』にある「上の山よりも百余人程突て下り…」という記述などです。

しかし、松本まで行くのはオーバーランすぎます(;^_^A

「天理本」では削除されていますし、「松の本」という記述は気にしなくてもいいのではないでしょうか。

私は、沓掛峠の田楽が窪あたりで南下し、桶狭間にある上の山(豊明市の上の山とは別)方面から今川義元を攻撃したのではないか、と考えます。

これだと、橋場説の13㎞、徒歩時間3時間と比べ、

9㎞、徒歩時間2時間と大幅に短縮できます。

沓掛峠まで行くと大回りすぎる、という批判があるかもしれません。

しかし、

善照寺砦~桶狭間北にある「今川義元本陣跡碑」までの距離(本隊のルート)は4㎞、徒歩で52分。

善照寺砦~沓掛峠経由~桶狭間上の山~桶狭間北にある「今川義元本陣跡碑」までの距離(別動隊のルート)は9㎞、徒歩で1時間55分。

両方の差は5㎞なので、走っていくと30分ほどの差にしかなりません。

その間、信長は中島砦に移動するのに引きとめられていたり、演説したりしているので、その時間の差はだいぶ埋まるでしょう。

もしかすると、これは別動隊と攻撃を合わせるための時間調整だったのかもしれません(゜-゜)

信長としては今川軍先陣を正面から攻撃、その間に別動隊に本陣を襲わせる…という計画を立てていたのかもしれませんが、暴風雨の発生という予期せぬ出来事が起こり、信長は敵の先陣に気づかれずに今川軍本陣付近に到達することに成功します(そのため、別動隊よりも先に今川本陣を攻撃することになった)。

ついに、決戦の時が訪れようとしていました…!🔥

2023年7月18日火曜日

丸根・鷲津砦の陥落~桶狭間の戦い③

 5月19日の夜明け頃まで、酒宴をしていた織田信長は、丸根砦・鷲津砦を守る佐久間盛重・織田秀敏から、

今川軍が攻撃を仕掛けてきた、という報告を受けます。

報告を受けた織田信長がとった行動は、思わぬものでした…!!(◎_◎;)

※マンガの後に、補足・解説を載せています♪

※マンガの2・3P目は都合により公開いたしません💦

幸若舞「敦盛」

織田信長が踊ったのは「幸若舞」の「敦盛」の一部分です。

「幸若舞」とは「曲舞(くせまい)のことであり、

「曲舞」とは拍子に合わせて長い物語を舞いながら語っていくものです。

織田信長は幸若舞を愛好し、1574年には幸若八郎九郎に100石の領地を与えています。

信長は「幸若舞」の中でも「敦盛」を特に愛しました。

「敦盛」とは「平敦盛」(1169~1184年)をモデルとしたものです。

平敦盛は源平の一ノ谷の戦い熊谷直実(1141~1207年)と戦って15歳の若さで死亡しますが、

『平家物語』では熊谷直実は先年に戦いで失った自分の子どもと同じ頃の年齢の少年を殺したことを悔やみ、のちに出家したとされますが、

この熊谷直実の出家のシーンで流れるのが、マンガでも出てきた歌になります。

前後の部分も紹介すると以下のようになります。

「さる間に、熊谷よくよく見てあれば、菩提の心ぞ起こりける。

(そうするうちに、熊谷直実は出家しようという心が起こった)

今月十六日に讃岐の八島を攻められるべしと聞いてあり、

(一ノ谷の戦いから一年たち、讃岐[香川県]の屋島を攻撃すると聞いた)

我も人も憂き世に長らえて、かかる物憂き目にも、また直実や遇はずらめ。

(私のようなつらい目に合う者がまた現れるのであろうか)

思へばこの世は常の住み家にあらず

(思えばこの世に永遠に続くなどというものはない)

草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし

(草葉についた水滴・水に映る月よりもはかないものだ)

金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる

(中国の晋の時代に石崇が作った華麗な別荘「金谷園」も無くなり)

南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり

(中国の四川にある南楼の月を楽しんでいた者たちも姿を消してしまった)

人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

(人間界の50年など、1日が人間界の800年分にもなる化楽天に比べれば夢や幻のようなものだ)

一度生を享け、滅せぬもののあるべきか

(一度生まれて、滅びないものなどない)

これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」

(これを悟りをひらく動機と思わないのは情けないことである)

(※『信長公記』では一部表現が異なり、例えば「化天」は「下天」になっている。「下天」と「化天」は大きく異なり、「下天」は天界の中でも一番下で、1日は人間界の50年分に相当するが、「化天」だとその1つ上の天界で、1日は人間界の800年分に相当する)

幸若舞「敦盛」では一ノ谷の戦いの翌年の1185年に熊谷直実は出家した、ということになっていますが、

実際は、文治3年(1187年)8月4日の流鏑馬に参加しているので、

それ以後の事だったと言われています。

(※『吾妻鏡』では、建久3年(1192年)11月25日の裁判の際に口下手な熊谷直実が悔しくてその場で髪を切った、とあるが、その前の年にはすでに出家していたことがわかる書状が発見されたため、誤りとされる)

織田信長が「敦盛」を桶狭間の戦いを前にして踊ったのは、

「生まれて滅びない者などないのだから、死を恐れて何になるか!」と決意を示したものでしょう🔥

信長はこれまでも、何度も何度も命を顧みず突進して戦って勝利を得てきました(村木砦の戦いなど)。

今回の危機も、信長は死を恐れず突進することで打開しようとしていました。

〇織田信長、清須城から出撃

「敦盛」を舞い終わった織田信長は、「螺吹け、具足よこせと仰せられ、御物具 めされ、たちながら御食をまいり、御甲(かぶと)をめし侯て御出陣なさる」と『信長公記』にあるように、すさまじいスピードで出撃します。

これについてこれたのは、小姓衆の岩室長門守(重休)長谷川橋介赤塚の戦いでも活躍)・佐脇良之(前田利家の弟。浮野の戦いでも活躍)・山口飛騨守加藤弥三郎の5名だけであったといいます。

この5人は織田信長の信頼厚い者たちであったと思われますが、

この5人はその後、全員非業の死を遂げることになります…( ;∀;)

出発した後の動向について、『信長公記』は次のように記します。

…熱田まで3里(12km。実際に12㎞程度。走って1時間ほどの距離になる)の距離を一気に駆けて、辰剋(午前7~9時) に源大夫殿宮(上知我麻神社)の前から東の方向を見ると、鷲津・丸根砦は陥落したらしく、煙が上がっているのが見えた。この時、6騎、雑兵200人ほどしかいなかった。浜の方から行けば早く行けるのだが、潮が満ちていたため馬で渡ることができず、熱田から「かみ道」(上の道)を強行して進み、丹下砦にまず到着、続いて佐久間信盛が守る善照寺砦に着いて、兵士を集めて態勢を整えた。…

この内容の中で気になるのは「かみ道」(上の道)とはどこなのか、ということです💦

藤本正行氏の『桶狭間・信長の「奇襲神話」は噓だった』や橋場日月氏『新説 桶狭間合戦』では、

野並から村上社に至るルートに「上道(上ノ道)」と記され、

古鳴海から笠寺へ至るルートに「下道(下ノ道)」と記されています。

一方で、『張州雑志』では、藤本氏や橋場氏の言う所の「上道」より北の、井戸田から鳴海に至るルートが上野の道と呼ばれていた、とあります。

今は干拓されて陸地になっていますが、当時は笠寺と鳴海の間には「鳴海潟」が広がっており、干潮時には浜となって歩いて通ることができますが、満潮時には通行不能になる場所でした。室町時代までの海面が高い時期は満潮時は船で渡っていたそうです。

『せきれい』[https://www.m-cd.co.jp/sekirei/vol65.pdf]によれば、村上社は「干潟の西岸の船着場」であったといいます。)

後醍醐天皇の子、宗良親王は「なるみ潟 汐の満ち干の たびごとに 道ふみかうる 浦の旅人」(年魚市潟を通る旅人は、潮の満ち引きによって道を変えている)と歌に詠んでいます。

では、当時の織田信長は、藤本・橋場氏の言う所の「上道(上ノ道)」を通ったのでしょうか?それとも「上野の道(上野街道)」を通ったのでしょうか?

それは潮の満ち引きの程度が関係してくるでしょう…。

気象庁のサイトには、名古屋周辺の潮位の記録が1997年以降の26年分載っています。

桶狭間の戦いが起きたのは5月19日ですが、西暦に直すと6月12日。

1997~2023年の6月12日のデータをまとめてみると、1年で平均3時間11分ほど満潮時間が前にずれてきていることがわかります。

それでいくと、1560年の6月12日は、午前3時頃が満潮だったことになります。

『信長公記』には、佐久間盛重・織田秀敏が、援軍がやってこられないように、潮の満ち引きを考えて、敵は朝方に丸根・鷲津砦に攻めてくるでしょう、と信長に報告した、という記述があります。

たしかに朝方に満潮を迎えていたわけです。

そして『信長公記』は、思った通りに夜明け方に敵は攻めてきた、と記します。

過去の記録を見ると、名古屋の6月の日の出の時間は決まって4時39分頃ですから、夜明け方というのは、このあたりの時間になります。

このあたりに攻撃を仕掛けられて、信長に報告に行かせるのに21㎞の距離を馬で1時間(狼煙なら即座にすぐ伝えられるが)、そこから信長が出発するのに少し時間がかかって熱田につくのに1時間少々。『信長公記』には辰の刻(7~9時)とありますが、だいたい7時くらいだったでしょう。

過去の記録によれば、3時頃に満潮を迎えると、10時頃に干潮を迎えるまで潮はだんだんと引いていきます。試しに、1999年~2003年で3時頃に満潮を迎えている時の潮位の平均を取ると、潮位は3時283㎝→4時280㎝→5時262㎝→6時230㎝→7時193㎝→8時156㎝→9時131㎝→10時121㎝、となっています。これを適用すると、信長が天白川を渡る頃…だいたい8時頃だと思われる…は、潮位は1m以上も低くなっていることがわかります。

この時間帯ではどのあたりまで潮が満ちていたのでしょうか?(゜-゜)

天白川周辺は、「土地分類基本調査(土地履歴調査)説明書 名古屋南部」 によれば、戦後に丘陵地を住宅地に開発する際に削った土砂により厚く盛土が行われ(…といっても、明治期の地図と比較しても50㎝も高くなっていないように見えるが)、しかも江戸時代に天白川周辺は干拓・新田開発が行われており、土壌改良のために土を入れたと考えられるので、戦国時代の正しい標高はわかりにくくなってしまっています。

ここは仮に、戦国時代は今より1mほど標高が変化しているとします。

すると、潮位が100cmくらいであれば、「下道(下ノ道)」は通行可能です。

150㎝にもなると、「下道(下ノ道)」がまず水没して通れなくなります。

「上道(上ノ道)」は250㎝を超えるようになると西側半分が水に浅くつかり始め、300㎝を超えると西側半分はすっかり水没してしまいます。

…となると、信長が天白川を渡った8時頃は、潮位は156㎝程なので、「下道(下ノ道)」は通れないが、「上道(上ノ道)」は十分通ることができる時間帯であった、ということになります。

『信長公記』でいうところの「かみ道」は「上野の道(上野街道)」のほうではなく、藤本・橋場氏の言う所の「上道(上ノ道)」で正しいと言えるでしょう💦

ちなみに江戸時代の尾張藩士・天野信景(1663~1733)は、『塩尻』に熱田社に伝わる信長の進路を記していますが、それによれば、信長は熱田→蛇塚→井戸田→山崎→野並→古鳴海→太子根(大将ヶ根)というように道を進んだようです。山崎から野並に行っているので、「かみ道」=「上道(上ノ道)」説を補完します。

こうして信長は遠回りを強いられることになったわけですが、疑問点が2つあります。

そもそも「下道(下ノ道)」「上道(上ノ道)」は3.3㎞:4.1㎞と0.8㎞ほどしか違いはなく、時間的に徒歩時間では42分:52分と約10分の差しかなく、走っても4分の差しかありません。そんなに遠回りでもないのです。

1分1秒が惜しかったのでは?という指摘もあるかもしれませんが、それならなぜ、信長は敵が朝攻めてくるとわかっていながら、報告が来るまで清須城に待機していたのでしょうか?夜明けまでに天白川を越えて丹下砦や善照寺砦に行っていればいい話です。

報告というのも、狼煙を使えばすぐに伝えられたはずです。

まとめると、信長は最初から丸根・鷲津砦を助ける気はなかったのではないでしょうか??💦敵を消耗させるための捨て石と考えていたとしたら、すさまじく冷徹なリアリストだった、ということになります…(◎_◎;)

〇丸根・鷲津砦の陥落

今川軍先鋒は、二手に分かれて丸根砦・鷲津砦に猛攻を仕掛けます。

しかし、『信長公記』にある丸根砦・鷲津砦の戦いについての記述は、

「夜明けがたに、佐久間大学・織田玄番かたより早鷲津山・丸根山へ人数取りかけ候由、追々御注進これあり」

「辰尅(8時頃)に源太夫殿宮のまえより東を御覧じ候えば、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り候」

「5月19日午刻(12時頃)、戌亥(北西)に向て人数を備え、(今川義元は)鷲津・丸根攻落し、満足これに過ぐべからずの由候て、謡を三番うたわせられたる由候」

「今度家康は朱武者にて先懸をさせられ、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依て、人馬の息を休め、大高に居陣なり」

…以上がすべてで、夜明け頃に丸根・鷲津砦への攻撃が始まり、8時頃には落城か落城寸前となっており、12時までには完全に落城していたこと、松平元康(徳川家康)が先鋒を務めていたこと、がわかります。

丸根砦・鷲津砦の攻防について、諸書にどう書かれているか見てみましょう。

①『松平記』…5月19日早朝に飯尾近江守(定宗)・隠岐守(尚清)父子が籠もる鷲津城を今川軍の先陣が攻略し、佐久間大学(盛重)が籠もる丸根城は松平元康隊が攻め落とした。しかし、松平善四郎(正親)・高力新九郎(重正。清長の叔父)・筧又蔵(正則)など多くの将兵が討死した。佐久間玄蕃(盛政であるがこの時6歳なので誤りだろう。大学はどこに行った??)は城を明け渡して退いていった。

②『三河物語』…『松平記』とほぼ同様。殺されずに逃げ延びたのは「佐間」(佐久間)とだけ記す。

『武徳編年集成』…松平元康は石川日向守家成を先鋒として丸根城に向かい、部隊を3つに分け、一つは正兵として正面を、一つは遊兵として側面を担当させ、一つは馬廻(親衛隊)とした。正兵は松平又七郎家広…(多くの人物名が書き連ねられる)、遊兵は松平勘解由康定…(多くの人物名が書き連ねられる)、馬廻には酒井左衛門尉忠次…(多くの人物名が書き連ねられる)。奉行は石川日向守と酒井左衛門尉であった。丸根城の兵は門を開いて打って出て来た、元康は敵は小勢なので守ることは不可能なので野戦で勝負をかけてきたのだろうと考えた。そして足軽隊にこれを防がせ、敵の隙をついて城を乗っ取るように命令した、酒井・石川はそのように命令したが敵の攻撃が早く合戦となった、朱具足の出で立ちの元康は団扇でもって指揮をとり、将兵は奮戦したが高力新九郎重吉・筧又蔵・野見松平庄左衛門重昌(24歳)・大草松平善兵衛三光(48歳、正親の父)等が戦死した。しかし敵も敗れ、佐久間大学は鉄砲にあたって戦死した。その間に贄掃部氏信が城内に一番乗りし、左右田興平などが突入して丸根城を陥落させた。鳥居彦右衛門元忠(22歳)・本多平八郎忠勝(13歳)は初陣であった。ある者は次のように言う、戦いの前、佐久間大学は城内の兵が400しかなく、今川義元の兵が来れば忽ちに城は落ちるだろう、去りたいものは去ってもかまわない、私一人ここで死のうと言ったが、服部玄番が城兵に義の心を励ますと、渡邊大藏・太田右近・早川大膳・原田隠岐らは主将とともに死ぬことを誓い、皆討ち死にしたと。佐久間大学の娘は佐久間玄蕃允盛政に嫁ぎ、盛政の死後は新庄越前守直好(直頼の誤り)の側室となった。

丸根城攻めと同じ時刻に今川方の先鋒・朝比奈備中守泰能(泰朝の誤り)は鷲津城を厳しく攻めてこれを陥落させ、城将の飯尾近江守定宗・織田玄番允信昌以下、城兵は大半が戦死し、城のほとんどは焦土と化した。この定宗は京都幕府(室町幕府)の相伴衆を務め従四位下侍従となっていた(幕府に仕えた飯尾氏と間違えている)。実は尾張奥田城主織田左馬助敏宗の子で、信長の親族にあたり、そのため鷲津城を任されたのだという。

④『中古日本治乱記』…5月19日、井伊信濃守直盛と松平元康が先陣となって鷲津城を攻めた、飯尾近江守致公(定宗の誤り)・舎弟(子の誤り)隠岐守致衡(尚清の誤り)・織田玄番允信平(秀敏の誤り)は弓・鉄砲を雨の如く浴びせて今川方に多くの死傷者を出させ、城兵も門を開いて突撃したが、攻撃方は次々と新手を繰り出すため敗れて城から落ち延びていった、その後今川軍はすぐに丸根城を攻撃した、元康の兵が先頭に立ち、門を破り塀を乗り越えようとした。城の大将・佐久間季盛(盛重の誤り)・山田藤九郎は弓・鉄砲で抵抗したため、松平善四郎正親・高力新九郎直重・筧又蔵らが討ち死にした。しかしその死も顧みずに突撃を繰り返す松平勢の前に、もともと小勢であった城兵はだんだんと力を失っていき、ついに降伏して開城した。

⑤『徳川実紀』…松平元康は先陣の一人となって丸根城を攻め落とし、しばらくして鷲津も駿河勢が攻め落とした。

『武徳編年集成』の詳細さが際立っていますね(;^_^A

(どこまでが本当かわかりませんが…💦)

異なる点を整理してみると、

・『中古日本治乱記』以外は鷲津砦は駿河勢が、丸根砦は松平勢が担当したことになっているが、『中古日本治乱記』だけは鷲津を攻略した後に丸根も攻撃したことになっている。

・『松平記』『三河物語』『中古日本治乱記』は佐久間盛重の死を記さずに丸根砦が降伏開城したと記しているが、『武徳編年集成』は盛重の戦死を記している。

・『中古日本治乱記』は鷲津砦の飯尾定宗・織田秀敏は敗れて落ち延びていった、としているが、『武徳編年集成』では戦死している。

…の3点ということになるでしょうか。

まず1つ目、松平元康は丸根だけでなく、鷲津砦も攻撃したのか?ということですが、たしかに『信長公記』にも「鷲津・丸根にて手を砕き…」と両方に参戦したという記述があります。

しかし、松平氏側の史料である『三河物語』などが、松平元康の活躍を誇張して丸根・鷲津両方を落としました、と書けばいいものをそうしていないことから、松平元康が攻略したのは丸根砦だけとするのが正確でしょう(゜-゜)

2つ目、佐久間盛重の生死についてですが、『武徳編年集成』以外は降伏開城して落ち延びていっていますが(『松平記』は生死不明)、その後「佐久間大学」は『信長公記』にも一切登場しなくなるので、戦死した可能性が非常に高いと考えられます(◎_◎;)

同じように、3つ目の飯尾定宗・織田秀敏の生死についてですが、飯尾定宗はその後『信長公記』に登場しなくなるため、戦死したとするのが正確かと思われます。一方、織田秀敏はその後『松平記』に登場するので、おそらく落ち延びたのでしょう。

ちなみに飯尾定宗の息子、飯尾尚清[1528~1591。主に吏僚として活躍し、1590年には侍従にまでのぼった]はその後の活躍が確認できるので、砦から落ち延びたことがわかります。

こうしてみると、鷲津・丸根で多くの織田方の将兵が寝返ることをせずに、戦死を遂げていることがわかります。

寝返ることが無かったのは、以前にも説明したように、尾張で今川方に寝返った者が冷遇を受けた、ということがあるでしょう。

(織田信長は寝返ったものを冷遇することなく、そのまま元の土地を安堵しています。朝倉氏を滅ぼした際には織田方に寝返った前波吉継に越前[福井県北部]を任せています[これがもとで後に越前一向一揆が起こってしまうことになりますが…💦])

おそらくこれは織田信長からの死守命令が出ていたものと思われます。

織田信長としては、各砦で少しでも今川軍を損耗させ、疲れさせたかったのでしょう。

実際、丸根砦で思わぬ被害を受けた松平元康は兵糧入れからの疲れがあるだろうということで、大高城に戻されてもいます。

〇佐々政次・千秋季忠の突撃の謎

『信長公記』には、「信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正 ・千秋四郎二首(かしら)、人数300ばかりにて義元へ向て足軽に罷出で侯えば、噇(どっ)とかかり来て、槍下にて千秋四郎・佐々隼人正初めとして50騎ばかり討死候。是を見て、義元が戈先には天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと悦で、緩々として謡を唄わせ陣を居(すえ)られ侯。」とあり、

織田信長が今川義元と戦う前に戦闘があったことが記されているのですが、

この信長に先んじて戦闘を行った佐々政次・千秋季忠がどこにいたのか、『信長公記』陽明本には書かれていません。

しかし、天理本には、

「中嶋の取出より信長善照寺へ御出を見申す佐々隼人正・千秋四郎二首、山際まで懸向かわれ候」とあり、中島砦にいたことがわかります。

佐々政次は以前にも紹介しましたが、佐々成政の兄であり、「小豆坂七本槍」の1人でもある勇猛な男です。

千秋季忠(1534~1560年)は、加納口の戦いで戦死した千秋季光の弟です。

兄と同じく熱田神宮の大宮司ですが、兄弟そろって武闘派だったようです🔥

この2人は織田信長が善照寺砦までやってきたのを見て出撃するわけですが、

この出撃について、「陽動説」「抜け駆け説」(藤本正行氏)があります。

「陽動説」は、佐々・千秋隊が今川軍の先鋒を引きつけている間に、

織田信長が今川軍本陣を突く作戦であったというもの。

「抜け駆け説」は、織田信長本軍が来る前に功績をあげねばと、はやって行ったというもの。

典拠はわかりませんが、『大いなる謎・織田信長』(武田鏡村:著)には、

桶狭間の勝利後、みんなが祝う中で佐々・千秋隊の生き残りの者たちは端っこの方で恥ずかしそうにしており、

しかも戦争直後に松平元康に対する備えを命じられて最前線に送られた、とあり、

陽動ではなかった、独走であったとしています。

もし陽動であれば、それは名誉の死であり、『信長公記』にそのまま書けばいいのです。しかし『信長公記』にそう書かれていないとなると、これは抜け駆けであったのでしょう(;'∀')

また、佐々・千秋隊の突撃については、もう一つ謎があります。

「天理本」には佐々・千秋隊は「山際」に向かった、と書かれていますが、それはどこの山のことなのか??というものです。

この謎を解くためには、まず今川軍の前線はどこにあったか、ということがわからなければいけません。

前線があった場所を推定する手がかりとなるのが、地名です。

中島砦から南に少し行ったところに、「伊賀殿」「左京山」という地名がありますが、

「伊賀殿」は藤枝伊賀守氏秋が布陣していたこと、「左京山」は島田左京進将近の布陣していたこと、に由来していると言われています。

では、佐々・千秋隊はどちらを攻撃したのか。

『信長公記』には今川義元の所に向かって突進した、とありますので、

進行方向に桶狭間がある「左京山」に布陣していた島田左京進将近を攻撃した、とするのが正しいと思われます(゜-゜)

しかし、この説だと『信長公記』にそぐわない部分があります。

『信長公記』には、「是を見て」とあり、これを「今川義元は佐々・千秋が死んだのを見ていた」と解釈すると、

桶狭間からは高根山(有松神社付近)が邪魔して佐々・千秋が討ち取られる様子が見えないからです。

そこで、今川義元の本陣は高根山にあったのではないか、とする説や、

なんと今川義元が、中島砦のすぐ南にある丘陵、漆山にいたとする説まであります(『桶狭間合戦之図』)😱

ビックリですが、たしかに、中島砦から佐々・千秋隊が来た一部始終ははっきりと確認できます(;^_^A

しかし、漆山だとあまりに中島砦に近すぎて最前線すぎますから、これはトンデモ説のたぐいでしょう(-_-;)

自分としては、「是を見て」の「是」は「佐々・千秋の討ち死に」ではなく、「佐々・千秋の首」のことだと思います。

『武徳編年集成』でも、「桶狭間田楽が窪義元の陣所へ駿州の先鋒最初討捕る岩室・千秋等が首級を送る所に義元大いに欣こび誇り…」とありますし。

こちらの方が無理が無いだろうと思います(;^_^A

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