社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 桶狭間始末~桶狭間の戦い⑥

2023年7月29日土曜日

桶狭間始末~桶狭間の戦い⑥

 駿河・遠江・三河の軍勢を動員した今川軍の大軍も、

丸根・鷲津砦を落としただけで、

今川義元の死によってもろくも崩れ去ります。

織田・今川のパワーバランスは大きく変わることになり、

織田信長は尾張国内に存在した今川方の勢力をほぼ駆逐することに成功します。

そしてここから織田信長の雄飛が始まるのです…!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇桶狭間始末

『信長公記』は、今川義元の戦死について述べた後、

山田新右衛門と云う者、本国駿河の者なり。 義元別して御目を懸けられ侯。討死の由承り侯て、馬を乗り帰し討死。寔(まこと)に『命は義に依りて軽し』と云う事、此の節なり。二俣の城主松井五八郎、松井一門・一党200人、枕を並べて討死なり。爰にて歴々其数討死侯なり」

…と記しており(「天理本」にこの箇所はない)、今川義元以外に山田新右衛門・松井宗信が戦死した、と書かれていますが、

両者の死亡時期は大きく異なるようです(◎_◎;)

先に死亡したのは松井宗信でした。

松井宗信(1515~1560年)は、1529年に二俣城主を受け継いでから、

北条氏との戦い(河東一乱)では「比類無き動き」をし、

三河の田原城の戦いでは敗戦した味方を支え、名のある敵を4人討ち取り、逆に敵を城内に押し戻し、

小豆坂の戦いでは後退した今川方の後を追ってきた織田方を数度撃退し、

吉良氏との西尾城での戦いでは今川方が敗北した際に、とって返して敵を追い返すなど、

逆境に強い、各地で抜群の戦功をあげた勇将でした。

桶狭間では、本隊の前備を務めますが、味方が敗北し、宗信得意の逆境の場面になります。

宗信はこの時も織田方を度々追い払い、数十人に手傷を負わせる活躍をしますが、この時は味方の劣勢を支えることができず、戦死しました。『信長公記』では一族郎党200人とともに戦死した、と書かれています。

戦後に今川氏真が出した書状には、この時の宗信の働きについて、「誠に後代の亀鏡(※手本のこと)、無比類の事」と記されています。

(これだけ活躍した武将なのに『信長の野望』では冷遇され、1997年以降登場していない…😢)

一方、山田新右衛門(元益)は、今川義元の戦死時は岡崎城代として岡崎城におり、

『武徳編年集成』には、義元の死を知って「遥か後陣より山田新右衛門驅来て忠死す」とあり、

『日本戦史』には、義元の戦死後2日目に討ち死にを遂げた、とあります。

これだと桶狭間の戦いの後すぐに織田信長は清須城に引き上げていますが、

今川義元戦死後も数日間、周辺で戦いは続いていたようですね(おそらく鳴海城を囲むように織田軍が残っていて、そこに攻撃をかけたか?)(゜-゜)

『信長公記』には山田新右衛門の死について、「命は義に依りて軽し」とはこのことだ、と書かれていますが、これは中国の後漢の歴史を記録した『後漢書』朱穆伝に由来しています。

その内容とは、次のようなものです。

…侯生・豫子が自分の身を捨てたのは、主君の恩を受けて感情が動かされたことにより、命を「義」のために惜しもうとしなかったためである。…

「義」とは何でしょうか?『広辞苑』には「利害をすてて条理にしたがい、人道・公共のためにつくすこと」とあります。なんだか難しいですが、損得を考えずに人の為に行動する、ということでしょう。

この話に例として登場する二人の人物を紹介します。

「侯生」(侯嬴)は貧しい門番で、年齢も70歳の老齢でしたが、魏の王族の信陵君に厚くもてなされて仕えることになります。後に信陵君の危機の時に策を授け、自身はその成功のためのいけにえとなると言って自害しました。

「豫子」(豫譲)は自分を大切に扱ってくれた主君が殺された際、「士は己を知る者の為に死す」(立派な男子というものは、自分を理解してくれた者の為に死ぬのだ)と言って仇の命を狙ったが果たせずに自害しました。

侯生・豫子どちらも、主君の恩に報いるために命を捨てた人物です。山田新右衛門も、今川義元から特に目を懸けられていた、と『信長公記』にありますから、主君を追って命を捨てた新右衛門の行動を、太田牛一は中国の侯生・豫子に重ね合わせたのでしょう。

また、『信長公記』には書かれていませんが、『三河物語』に「松井を初として拾人余、枕を并打死をしけり」とあるように、松井宗信・山田新右衛門以外にも今川方の武将の戦死者はいて、

井伊直盛(娘はおんな城主・井伊直虎、従弟の子が井伊直政)は松井宗信と同じく本隊の前備として先行していましたが、本陣に慌てて戻ったところで戦死しています。

他にも蒲原氏徳(氏政とも。今川氏の庶流)、三浦義就(あの鎌倉三浦氏の子孫。前線の笠寺砦を任せられていた)、由比正信岡部長定(本隊の左備侍大将)、朝比奈秀詮(先陣侍大将)、久野元宗・宗経兄弟(先鋒)、久能氏忠(今川義元の甥?)、吉田氏好(軍奉行)、江尻親良(今川一族)庵原忠春藤枝氏秋(前備侍大将)、一宮宗是斎藤利澄松平政忠・忠良兄弟(長沢松平家)、松平宗次(宮石松平家)、長谷川元長富永氏繁(庵原忠春の援軍として派遣された)、飯尾乗連葛山長嘉(後陣の旗頭。以前笠寺砦の守将の一人だった)など多数…。

丸根砦攻撃の際には松平正親 (大草松平家。家康に仕えた)、高力重正(清長の叔父)なども討ち死にするなど、

今川軍は戦死率こそ多くないものの、武将クラスの多くが戦死しており、

すさまじい戦いだったことがわかります(◎_◎;)

今川軍にとってまったくの奇襲であり、迎撃準備も不十分な中、戦いを強いられたため、このように武将クラスのが死者が激増したのだと考えられます(-_-;)

今川軍の戦死者の数について、

『道家祖看記』は5千、

『中古日本治乱記』は3907、一説に2500余り、信長方は580余人、

『武徳編年集成』は武士583人、雑兵2500(或は3807)…と記し、

『桶狭間合戦討死者書上』(長福寺文書)によれば、

桶狭間の戦いにおける今川方の死者は2753人、

織田方の死者は990人余りであったそうです。

今川方は兵力が1万~4万5千、織田方は2千~5千であったといいますから、

『桶狭間合戦討死者書上』の内容を確かとすれば、戦死率は今川方が6~28%、織田方は20~50%となり、

織田方は勝利したもののすさまじい損害が出ていることがわかります。

織田方は、佐久間盛重・服部玄蕃(丸根砦)織田秀敏・飯尾定宗(鷲津砦)

佐々政次・千秋季忠・岩室長門守など、多くの武将を失いました。

一方の今川方は、今川義元が戦死したものの、まだまだ大兵力を有していたのにもかかわらず、敗走したことになります。

『中古日本治乱記』にも、「駿州勢は若于の大勢なりしかども大将を討れ茫然と呆けるにや弔軍せんとも思わず」…とあり、

今川義元の戦死のインパクトがあまりにも大きかったという事なのでしょう💦

また、興味深いのは、『中古日本治乱記』に、近江(滋賀県)の佐々木から織田方に援軍として派遣された前田右馬助・乾兵庫介の配下の者が37人討ち死に、重傷を負った3人が20日の午後7~9時頃に死亡、その他に272人が負傷した…と記されていることです。

近江の佐々木方からの援軍、というのは『桶狭間合戦討死者書上』にも記載があり、そこには織田方990人余りの死者のうち、272人は佐々木から援軍として派遣された者たちであった、とあります。

この「近江の佐々木」とは六角氏のことです。

…ということは織田と六角氏は同盟関係にあったということなのでしょうか⁉😲

これはビックリです(◎_◎;)

名古屋の徳川美術館には、今川方の渡邊又兵衛が寄進したという鐙が収蔵されているのですが、これは又兵衛が六角氏の武将を討ち取ったときに手に入れたものであるそうで、織田と六角が協力関係にあったことを裏付けるものになっています。

『中古日本治乱記』には、永禄3年(1560年)10月に織田信長の娘(『江源武鑑』には信長の兄・信広の娘で信長の養女になったとある。年齢的にもそちらが正しいか)が六角義秀(六角定頼の兄で六角氏13代当主の氏綱の孫。1532~1569年)に嫁いだ、という記述がみられます。

『中古日本治乱記』は続いて次のように記します。

六角氏の家老、後藤但馬守(賢豊)・進藤山城守(賢盛)はこれを受け入れたものの、六角の当主・六角承禎(義賢)は、織田は越前の神職の子孫にすぎず下等の出で、しかも織田信長は以前は六角氏に従属していた浅井長政の妻の兄であり、ということは家格的には家来筋にすぎない、と言って結婚に反対、将軍・足利義輝が仲介したためしぶしぶこれを受け入れたが、六角家中にはしこりが残った。

この3年後の1563年には観音寺騒動が起こり、後藤賢豊が殺害されるという事件が起こっていますが、これによって織田と友好的であった後藤賢豊が死に、六角・織田に亀裂が入るまでは、六角と織田は六角義秀を通じて協力関係にあったのかもしれませんね(゜-゜)

さて、このように多くの将兵を失って敗れ去った今川方ですが、『信長公記』は

尾張の海西郡を支配し、今回の戦いでは今川方について戦った荷之上・鯏浦の服部友貞について触れています。

服部友貞は、千艘もの船を率いて海路、大高城に兵糧を補給しに来ていましたが、今川軍敗退を知って、活躍することなく本拠地に戻ることになりました。

友貞は、ただ帰るのも癪なので、その途中、熱田を焼き討ちしようとしますが、

「町人共よせ付けて、噇と懸け出し、数十人討ち取り候」と『信長公記』にあるように、

熱田の町人による激しい抵抗を受けて撃退されてしまいます(◎_◎;)

熱田の町人たちというのは、織田信長が善照寺砦まで行くときに見物についていって、負け戦と感じて戻っていった者たちかもしれませんね。

服部友貞はむなしく引き上げるしかありませんでした( ;∀;)

さて、清須城に戻った織田信長は首実検をすることにしますが、

首がそれぞれ誰のものなのか判然としません。

困っているところに、下方九郎左衛門という者が、今川義元の同朋衆(大名の近くで雑務や芸能にあたった人々)の1人(名前は『信長公記』には出てこないが、『総見記』によれば権阿弥)で、今川義元の鞭・弓懸(弓を射る時にはめる手袋)を管理していた者を生け捕りにしていたのを連れてきます。

織田信長は、「近頃珍しい手柄である(近比名誉仕候)」と言ってほめたたえました。

織田信長はこの同朋衆に首はそれぞれ誰なのか、

今川義元死亡のあたりの状況を尋ねています。

様々な情報を知れた織田信長は、この同朋衆に金銀飾りの大刀・脇差を与え、

義元の首も持たせて駿河に送り返してやっています(しかも10人の僧付き)。

『総見記』によれば、この同朋衆はのちに権太夫と名前を改め、今川氏真に仕えたそうです。

また、織田信長は、今川義元の持っていた名刀・左文字を手に入れます。

左文字は南北朝時代の名工・左衛門三郎によって作られた刀で、

作成者の名前の一字「左」が刀身に刻みこまれているため、

「左文字」と呼ばれます。

はじめ三好政長(三好宗三)が所有していましたが、

1536年に武田信虎のもとに贈られ、

1537年、信虎の娘が今川義元に嫁いだために、引き出物として贈られて義元が所有するようになりました。

この左文字を手に入れた織田信長は何度も試し切りをしてその切れ味にほれこみ、

以後愛刀とし、刀には「織田尾張守信長」「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」と刻み込ませています。

『信長公記』には「鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠侯、降参申侯間、一命助け遣わさる。大高城・沓懸城・池鯉鮒の城・鴫原の城、5ヶ所同事に退散なり」とあり、今川義元戦死後も岡部元信が鳴海城に立てこもって抵抗をつづけたていたが、降伏したので命は助けられた、鳴海陥落と同時に大高城・沓掛城・池鯉鮒城・鴫原城(重原城)を今川方が城を明け渡して退去した、とあり、

難なく織田信長がこの五城を手に入れたような感じを受けますが、

実際はそうではなかったようで、諸書には次のように書かれています

『三河物語』…義元が死んだ後、沓懸の兵は逃亡したが、岡部五郎兵衛は信長と一度戦った後、降参して城を明け渡して駿河に去っていったが、その際に信長から義元の首を得ていた。岡部ほどの武勇・義理は、日本ではこれまでになかったものであり、尾張から東で、岡部五郎兵衛のことを知らない者はいないだろう。義元が死んだ後、大高城にいた松平元康は、家来から撤退を勧められたものの、元康は義元が死んだことが嘘であれば人々の笑いものになると言って受け入れなかった。そこに緒川の水野信元が使者の浅井六之助を通して、明日織田軍が大高城を攻めよせるから、今のうちに城を出た方が良い、と知らせて来たので、大高城を出た。

『松平記』…瀬名・三浦・朝比奈等は、今川義元の弔い合戦もせず、池鯉鮒城を明け渡して落ち延びていった、大高城には松平元康がいたが、水野信元は元康と叔父・甥の関係であったので、浅井という者をひそかに派遣して、義元が死んだので城から出るように伝えた、元康はこれを聞いて城から去っていった、岡部元信は今川方の武将が城を明け渡して去っていく中、この城で討ち死にすると言って5月20日まで城を出なかった。佐々蔵人(成政)が先陣として鳴海を攻めたが、ひるまずに抵抗した。今川方の武将は使者を派遣して城から出るように岡部元信を説得したが、受け入れなかった。信長は岡部元信の奮戦に感じ入り義元の遺体・首を渡すことを条件に和談することにし、元信はこれを受け入れて城を出たが、刈谷城のそばを通りかかったときに、苅谷城主の水野藤九郎(信近)が油断して守りが手薄になっていることに気づくと、配下の伊賀の者を使い、浜の手から攻め寄せて城に火を放った。混乱の中で忍びの者が城に押し入って水野藤九郎の首を取った。藤九郎の家老の玄蕃助は今川方の入城を防ぎ、伊賀の者30人ほどを討ち取り、藤九郎の首を取り返した。このため岡部元信は刈谷城から去ったが、信長と和談をするまで鳴海城を守ったこと、今川義元の遺体を受け取ったこと、刈谷城主を討ち取ったことは比類なきことであると諸国で話題になったという。

『家忠日記増補追加』…水野信元は浅井六之助を派遣して、大高城にいる松平元康に「義元は死に、今川方は城を棄てて駿河に逃げている、現在尾張に残る城は大高城のみである、織田軍が城を囲む前に城を出るべきである」と伝えさせた。元康は「信元は姻戚関係にあるとはいえ、織田に属していて敵であり、謀り事かもしれない。これに乗って城を出たら天下の笑いものになるかもしれない。ここは浅井を人質にして、味方が義元の死を告げるまでは城に残ることにしよう」と言ったが、今川方の武将の多くが義元の死を告げたので、元康は城を出ることにし、浅井六之助に「お前を先導にする、私に忠誠を尽くせば恩賞として土地を与える」と伝えた。六之助はこれを受け入れて先導となった。池鯉鮒を過ぎる時、蜂起した一揆勢が道を遮った。また、池鯉鮒には水野信元の兵が今川方の敗残兵を討ち取るためにやってきていた。六之助は「水野信元の使者の浅井六之助である」と大声で叫んだ。これを聞いて水野信元の兵は囲みを解いて去っていった。六之助は今村郷までついていった後、帰っていった。…一方、鳴海城は岡部五郎兵衛が守っていたが、信長は佐々成政に命じてこれを攻撃させた、岡部は「義を守り命を軽んじて」防戦したため城は落ちなかった、今川方の武将は書状を岡部に送り、諸将と同じように城を棄てて駿河に帰るように言ったが、岡部はこれを聞きいれなかった。信長は岡部の「忠義勇敢」に感じ入り、攻撃をやめて和議を要請した、岡部はこれを受け入れたが、この時今川義元の首を信長に請い、信長はその志に感じて首を岡部に与えた、岡部は大いに喜び駿河に向かったが、その途中で配下の者たちに、鳴海城を守って戦ったが力尽き、駿河に帰ることになったが、敵兵の心を考えると、勝ちに乗って敵兵は油断して戦いの準備を怠っているだろう、その油断をついて突然城を襲えば、落城させることができるだろう、と言った。ちょうど近くに水野信近が守る苅屋(刈谷)城があったので、これを攻めると、岡部の思い通りに城内の兵はわずかであった。夜に伊賀の忍びが海をまわってひそかに熊村の堀を渡り、城中に入って火を放ち鬨の声をあげた。城兵は驚き騒ぎ、信近は敵の攻撃を防ぎきれずに戦死した。信近の家臣の玄蕃允は城の外にいたが、敵の攻撃を知って城内に突入し、伊賀の服部党の30余人を討ち取り、信近の首を奪い返し、岡部勢を城外に追い出した。信近の兄の水野信元は小川(緒川)城から兵を送って苅屋城の防備を固めた。このため岡部は再び城に入ることができず、駿河に戻った。今川氏真は岡部の「忠義武勇」をほめて感状を与えた。

『中古日本治乱記』…水野信元は義元の死を大高城の松平元康に知らせた際、使者の浅井六之助を案内役に使ってもらってかまわないと伝えた。元康は城を出る際に追撃してくるものがいるかもしれないと考えて、城中の所々に旗を立てて置いてから、雨の降る中、夜に城を出た。浅井六之助が松明をもって先導した。池鯉鮒では1000の一揆勢が待ち構えていたが、一揆の大将、上田半六は松平勢を見て、「この道を通ろうとしているのは誰だ、一人も通さぬぞ」と言った。これに対し、浅井六之助が進み出て、「私は水野信元の家来の浅井六之助である、小川勢を連れて桶狭間に援軍に向かい、今は残党を討ち取るために三河に向かおうとしているところだ」と大声で言った。これを聞いた上田半六は「これは味方だ、間違って攻撃してはならない」と言って道を開かせて松平勢を通した。元康は岡崎城に無事入ると六之助をもてなし、馬・太刀を与えた。六之助は大いに喜んで、小川の城に帰っていった。

『武徳編年集成』…夕方になって、今川義元の戦死が大高城に伝わってきた。また、鷲津・沓掛の兵も皆逃げ去った、という報告も入った。家来は元康に城を出ることを勧めたが、元康は虚説を信じて城を明け渡せば世の人々のそしりを受けることになる。真偽が明らかになるまでしばらく待とう」といってこれを受け入れなかった。そこに刈谷城主・水野信元が浅井六之助を派遣して義元が死亡したこと、明日信長が攻めてくるから、夜のうちに城を出て帰国したほうが良い、と伝えてきた。元康が「信元は叔父であると言っても敵方だ、ここは六之助を捕まえて本当のことを話させてから去るべきだろう」と言っているところに、戦場に派遣していたものが帰ってきて、今川軍の陣があった所は静まり返っていて、死体は皆東に向かって倒れている、このことから、義元が負けたのは疑いないと報告した。家来たちはこれを聞いて早く出るように勧めたが、元康は闇夜に出れば迷ってしまう、月が出るのを待とうと言った後、浅井六之助を呼んで道を案内せよ、厚く恩賞を与えると言った。酒井忠尚・松平家次が兵を引き連れて桶狭間の今川方に加わっていたので、当時大高の城には80騎ほどしかいなかった。元康は本多修理を城に残し、月が出るのを待って城を出た。地元の者たちが道を遮ろうとしたが本多百助(信俊)数回にわたって馬上から弓を射て、その間に浅井六之助が松明をもって先導した。水野信元の兵が敗残兵を討ち取るために池鯉鮒に来ていたが、浅井六之助が水野信元の使者であると言うと水野勢はたちまち道を開いた。浅井六之助は今村に至ったのち別れを告げたが、元康はその労をねぎらい、後日恩賞を与える際の証拠とするために持っていた扇子を割って六之助に与えた。この時扇子に六本の骨が残っていたので、浅井六之助の子孫は、幕府に仕える際に六本骨の扇を家紋とした。一方、鳴海城は岡部五郎兵衛が固く守り、今川義元の元老が書を送って城から出るように伝えても、これを受け入れなかった。信長は大いに感じ入り、岡部の求めに応じて僧十人に義元の首を持たせ、権阿弥を添えて鳴海城に派遣したところ、岡部は城を明け渡した。岡部は駿河に戻る途中、敵の油断に乗じて一つの城を落とそうと言って、諜者に刈屋城を探らせたところ、城将の水野信元は小川城に行っており、残った弟の信近は城下の熊村に愛する妾がいて、夜ごと密かに通っているということがわかったので、夜に伊賀の服部党を城内に忍び込ませ、城内に火を放たせた。城内の兵は4・50人に過ぎず、水野信近はたちまち命を落とした。信近の重臣・牛田玄蕃はすぐさま城に入り、岡部の諜者30余人を討ち取って信近の首を取り返し、残党を城外に追い出した。信元も小川からやってきたので、岡部は再び城を攻めることができずに駿府に帰った。今川氏真はその忠勲を賞し、人々は岡部をほめたたえた。

以上からわかるように、鳴海城の場合は、岡部元信が抵抗し、攻防が繰り広げられたのです。

岡部元信は、それによって今川義元の首(と遺体?)を獲得しただけでなく、帰りがけに水野氏の刈谷城を攻撃し、城主である水野信近を討ち取っていますが、

岡部元信は後に高天神城でも長きにわたって籠城して、徳川軍を苦しめた男であり、名将の一人と言っても過言ではないでしょう(;^_^A

この岡部元信の奮戦については、史料上においても裏付けがなされており、永禄3年(1560年)6月8日に今川氏真が出した書状(上述の『家忠日記増補追加』にもその旨が書かれていますね)には、

今回の「尾州一戦」の際、大高・沓掛城の将兵は城を捨て去ったが、鳴海城は城を堅く守って持ちこたえたのは粉骨の至りである、包囲された中で将兵を無事連れて帰ってきたのは比べるものが無い忠功である、それだけでなく策をもって刈屋(刈谷)城の城主・水野藤九郎とその配下の多くを討ち取り、城内をことごとく放火したのは、他と比べることができない働きである。以前没収した土地があったが、褒美としてこれを返還する。

…と書かれています。

また、沓掛城について、諸書では今川方の兵が逃げ去ったとし書かれていませんが、

実際は近くの高圃城に移っていた近藤景春が沓掛城に移って抵抗し、義元戦死2日後の5月21日に落城して城主の近藤景春が戦死しています。

また、注目ポイントの1つは松平元康の大高城退却ですね。

諸書では、後の伊賀越えと似たようなドラマティックな場面として記述されています。

この際に活躍した浅井六之助については、松平元康が5月22日に出した次の書状(『武徳編年集成』に引用されている)が残っています。

…浅井六之助殿の今回の忠節に対し、「約束」の通り土地を与える。…

しかし、「約束」という表現は当時あまり見られないそうなので、信ぴょう性には疑問があるようですね(;^_^A

さて、こうして尾張から、海西郡を除き、今川方をほぼ追い出した織田信長は、

三河方面や美濃方面に勢力を広げていくことになります🔥

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