「津島くつわ踊り」という踊りがあります。
なぜ「くつわ」踊りなのかというと、馬のくつわ(馬の口に含ませた、手綱につなぐ金具)を鳴らすのに合わせて、朱傘を持つ傘振りが踊るからなのだとか。
この踊りは愛知県指定の無形民俗文化財にも選ばれている由緒正しいものであり、
寛文3年(1663)に行われた記録が残っているので、350年以上前から行われていることになります(◎_◎;)
なぜこの踊りについて説明しているのかというと、実はこの踊り、織田信長が発祥ともいわれているんですね💦
信長と「津島踊り」の関係について『信長公記』に書かれていますので、
今回はそれについて見ていこうと思います😆
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
※マンガの2ページ目は都合により公開いたしません(-_-;)
〇信長の「女おどり」と神対応
『信長公記』には「7月18日おどりを御張行」とあり、
織田信長が7月18日に「おどり」を興行したことが記されています。
7月18日…というのがいつの7月18日なのかわからないのですが、
1つの手がかりとなるのは、『大祭勘例帳(大橋家文書)』に、
「弘治4年…従清須神幸を御延候而、(6月)16・17日にわたり申候。かつさ殿、橋の上に御座候而御見物被成候、…」(弘治4年[2月28日に永禄と改元されているので、正しくは永禄元年[1558年]、織田信長は例年6月14・15日[現在は7月第四土曜・日曜]に行われる津島天王祭を16・17日に延期させ、天王橋[一番良い祭りの見物場所であったという]の上から祭りの様子を見物なさった)とあることです。
これに感じ入った(もしくは延期させた負い目からか)信長が翌月の7月18日に踊りを実施した…ということなのかもしれません(;^_^A
永禄元年(1558年)は岩倉織田家との対決が完了し、信長も一息つけた時期でした。
(谷口克広氏は踊りの実施時期について、「天文年中」(1531~1555年)としている。信長が家督を継いだのは1552年なので、可能性があるのは1552~1555年となるが、1552年は継いだばかりで、周囲の状況も不穏であり可能性は低く、1553年は同日に中市場の戦いがあり不可能、1555年は6月26日に織田秀孝が殺されたことにより守山城をめぐって騒動が起きているため難しい…となると1554年しか可能性はないのだが、後述するように、当時岩倉織田家に仕えていた前野長康が踊りに参加しているのは不自然なようにも感じられる。ここはやはり永禄元年[1558年]とするのがよいのではないか)
信長が実施した「おどり」というのは風流(ふりゅう)踊りのことで、風流踊りとは、華やかな衣装や仮装をしたうえで、集団で踊る、というものです。
この時はどのような仮装をしたのかというと、
平手内膳(平手政秀の一族?)たちは赤鬼、浅井備中守(四郎左衛門?熱田衆で、娘・「たあ」は千秋季忠の妻。医師であったという)たちは黒鬼、滝川一益たちは餓鬼、織田信張(織田藤左衛門家、小田井城主。妻は織田信康の娘)たちは地蔵。
集団の地蔵…(;^_^A
そして、単独で仮装したのが、前野長康(岩倉織田家に仕え、浮野の戦いにも岩倉方で参陣。織田信長に仕えるようになったばかり)・伊東夫兵衛(武兵衛とも。親衛隊である黒母衣衆の一人)・市橋伝左衛門(市橋利尚ではないかとされるが、利尚は美濃斎藤氏の家臣で、1560年に織田信長と美濃で戦っている記録があるため、同一人物とは考えにくい。[信ぴょう性に疑いはあるが]『武功夜話』で出てくる伝左衛門は早くから織田信長に仕えており、1556年の稲生の戦いにも参加している。こちらの方が自然な感じもする)・飯尾定宗で、彼らはみな弁慶となりました。なんで弁慶ばかりなんでしょうかね?(;^_^A 弁慶はモテるからでしょうか…?😅
他に祝重正(事務官)が鳥の鷺(さぎ)に扮しています。鷺に仮装して踊るのは、牛頭天王(疫病をつかさどる)を祀る全国の神社で広く行われていたものであったようで、現在では島根県の津和野弥栄神社での鷺舞が有名で、国の重要無形民俗文化財に指定されています。尾張の津島神社も昔は津島牛頭天王社といったことからも明らかなように、牛頭天王を祀る神社ですから、鷺舞が行われたのでしょうね。
『信長公記』には「鷺になられ侯、一段似相申すとなり」とあり、とても似合っていたようです。
そして、以上の者たちだけでなく、あの踊りが好きな人物も仮装して踊ります。
その人物とは、織田信長です!!(◎_◎;)
『信長公記』には「天人の御仕立に御成り侯て、小鼓を遊ばし、女おどりをなされ侯」とあり、「女おどり」をしたとありますから、おそらく天女の仮装をしたのでしょうね。うーん、かぶいとりますな(;^_^A
信長をはじめとした仮装集団は、おそらく清須をスタートして、津島までを踊りつつ進み、津島の堀田道空の館の庭で踊った後、清須に戻りました。
これに対し、津島の5つの村々(米之座・堤下・今市場・筏場・下構)の者たちが返礼として踊りを行い、津島から清須まで踊りつつ進んだところで、清須城内に呼ばれ、織田信長と面会することになりました。
そしてここで織田信長は「神対応」を見せます!(◎_◎;)
信長は招いた者たち一人一人に「滑稽で面白かった」「似合っておった」などど親しく声をかけたのです。
そしてそれだけでなく、招いた者たちを、
「御団(うちわ)にて冥加なくあおがせられ」…
なんと自ら団扇(うちわ)であおいだのです!!(◎_◎;)
そして「お茶をどうぞ」とお茶を飲むことを勧めたといいます。
信長のこの神対応に、招かれた者たちは暑さを忘れ、ありがたさの余りに涙を流しながら津島に帰っていったといいます。
信長の優しい人となりがわかる、貴重なエピソードですね😄
0 件のコメント:
コメントを投稿