社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 2月 2023

2023年2月28日火曜日

織田家の出自と劔神社

 織田信長は一代で国を作ったわけではありません。

先祖が少しずつ力を蓄えたものがあってこそ、あそこまでの活躍が可能になったのです。

今回からは、織田信長が生まれるまでの織田氏の歴史を見ていこうと思います🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇織田家の出自

まず、江戸時代に織田家の出自はどう伝えられていたかを『日本外史』で見てみましょう。

…織田氏の先祖は平重盛平清盛の子)である。重盛の次男が資盛であり、

資盛の子は母と共に近江(滋賀県)に逃れ、津田郷の郷長にかくまわれた。

ある時、越前国(福井県北部)の織田荘の神主がやってきて郷長の家に泊まった。

そこで、「私には子がいない。あなたの子を一人養子にしたい」と言った。

そこで郷長は資盛の子を神主の養子にすることにした。

資盛の子は親真と名付けられ、その子孫が代々神主となった。

室町時代となり、越前の守護となった斯波義重は、織田の神社を訪れた時に、

神主の子が美しいのを気に入り、これを近臣にした。

当時、斯波義重には鹿草・二宮・甲斐・朝倉・増沢・細河という6人の重臣があったが、

増沢祐徳が罪を犯して流罪となったので、織田氏が増沢氏の代わりに重臣となった。

織田親真から15代後の織田敏定の時、主君の斯波氏は斯波義敏・義廉で家督をめぐって争った。

織田敏定はこれを仲介し、義廉の子、義良を義敏の養子にし、敏定が尾張(愛知県西部)の清須城で義良を補佐することになった。

尾張には8郡あったが、これを上下4郡ずつに分けて、敏定は下4郡を支配し、上4郡は一族の信安を岩倉城に置いて任せた。

敏定の子は敏信であり、敏信の子は常祐であった。

敏定の庶子の信定は弾正忠を名乗ったが、その子が織田信秀(織田信長の父)であり、備後守を名乗った。

信秀は勝幡城にいて、他の2人と共に本家の役人となり、下四郡を分けて治めた。

信秀は、武芸にいそしみ、教養のある者を厚遇したので、人々は信秀に従った。

…と。

最初の平氏の子孫であるという云々は伝説めいていますが、

実際はどうだったのでしょうか。

織田信長や同族の守護代・織田達勝などが「藤原」を名乗って署名していることから、

「藤原氏」がルーツであったことが有力なようです。

1393年、藤原信昌・将広父子が、劔神社再興に力を尽くすと書いた文書を劔神社に奉納しています。

それには、仕事が忙しくなかなか神社の修理ができなかったが、父子が心を合わせて劔神社復興に力を尽くした、劔神社の土地にはこれからも税はかけない、…といったことが書かれています。

この藤原信昌・将広父子が織田氏の祖先ともいわれているのですが、二人は、劔神社の神官になったとも、織田荘園の荘官であったともいわれています。

神社再興に力を尽くす、と言っているので、外部から来た感じもしますね。

劔神社は、福井県越前町(旧織田町)にある、越前国二の宮の神社です(一宮は気比神宮)。

以下、劔神社に伝わる劔神社の歴史を紹介します(『劔大明略縁起』)。

劔神社は14代天皇である仲哀天皇の第二皇子・忍熊王が福井周辺を無事平定できたことを感謝して織田町に神社を建てたのが始まりであり、

この時以来神職を務めたのが、忍熊王に同伴して劔神社をこの地に作ることを勧めた、忌部香椎宿祢中臣氏[のちの藤原氏]の先祖である、中臣烏賊津[雷大臣命]の子とされる)の子孫たちである、

劔神社には歌道の秘伝書が伝えられており、

平清盛はそれを見たいと言ったが、神社側はそれを断ったので、

清盛の怒りに触れて焼かれてしまった、

しかし、清盛の子の平重盛は神罰を恐れて神社を再興した、

その頃神職を務めていたのは、忌部香椎宿祢の49代の子孫、忌部親信で、

平家滅亡の際、平資盛の子どもが近江津田郷まで母に連れられ逃れてきたのを、

養子とし、信真と名付けた、

この信真の10代後の忌部常勝が斯波氏の家臣となり、

ここで初めて織田を名乗った、

その7代目が織田信定で尾張の四郡を領し、幕府の家来となった、

つまり織田家は藤原・平の二家の子孫である…

『日本外史』の内容とほぼ一致しますね。

しかし、藤原信昌・将広父子の書いた文書に「絶跡」と書いてあったように、

1393年頃の劔神社はひどくさびれていたことがうかがえますから、

平重盛復興云々は伝説の域を出ないのではないか、と思います。

平資盛の子を養子云々も、信真の年齢とズレがあり、これもまた作り話のようです。

平家の子孫というのはマユツバにしても、藤原氏の子孫であることは濃厚なようです。

先に出てきた斯波義重(1371~1418年)は、1391年に加賀守護(1393年に辞任)、1398年に越前守護、1400年には加えて尾張守護、1405年には管領・遠江守護にもなっている人物で、藤原信昌・将広父子と同時代の人です。

父の斯波義将(1350~1410年)は1380年頃までに越前守護となっていたので、

藤原将広の「将」は、斯波義将の一字を与えられたものでしょうか。

1403年以降、織田常松(?~1430年頃?)なる人物が尾張守護代となって尾張に入っているのですが(『劔大明略縁起』に出てくる忌部常勝というのは、織田常松のことであるようです[「じょうしょう」の音がいっしょ])

この織田常松は藤原将広と同一人物なのではないか、と言われているそうです。

なぜなら、2人の花押が非常に似ている、からだそうな。

しかし、美氏は、

花押の形似については主観的な問題もあり、根拠とはなりにくい。」

「藤原信昌の文書の添書には、『信昌七十八』とあり、藤原信昌は1316年生まれであることがわかる、…そうなると嫡男の将広は1393年には40代~50代であったと考えられ(つまり1334~1353年頃の生まれ)、1428年頃まで活動している常松と同一人物とは考え難い」

…と主張し、織田常松は藤原将広の子とするのが妥当だと考えています。

しかし、1350年頃の生まれとするならば、1428年まで活動するのは十分あり得るでしょう。嫡男が遅く生まれて、1360年頃(それでも父親は40歳前後です)生まれれであれば、まったく違和感はなくなります。

藤原将広=織田常松を否定するには弱い主張であると言わざるを得ません。

『日本外史』の、

「斯波義重は、織田の神社を訪れた時に、

神主の子が美しいのを気に入り、これを近臣にした。」

…という文章を信じるならば、1371年生まれの斯波義重と同世代、もしくは若いことになるので、将広のこと考えるのが自然になりますが。

まぁ、将広か、将広の子かわからないにせよ、

織田常松なる人物が織田氏を始めた人物である可能性は高いでしょう。

ちなみに「織田(おた)」の地名は、「小(お)」・「所(と)」に由来するそうで、実際、旧織田町は山に囲まれた盆地にあります。

この織田町に土地を持っていた藤原氏が、守護代(もしくは武士)になるにあたって、

領地に由来する「織田」を名乗ったのでしょう。

織田信長は自身のルーツである織田の劔神社を大事にしていたようで、

それは柴田勝家の出した次の文書からもよく分かります。

織田劔大明神寺社ならびに門前居住、先規の如く諸役高除けの由、其の意を得候条、今以て同前に候、もし兎角の族(やから)これ在るに於ては申し越さるべく候。

当社の儀は殿様の御氏神の儀に候へば、聊かも相違あるべからざるの状、件の如し。

天正3年11月5日 勝家 織田寺社中」

…劔神社の土地には以前の通りに税はかけません、あれやこれや言ってくる者がいたら私に言ってください、劔神社は殿様(織田信長)の氏神(氏族に縁の深い神様)でありますので、少しでも間違いがあってはいけないと思っております…

ここに「殿様の氏神」とあるように、織田信長の家臣たちも最大限の配慮をしていたことがわかります。


2023年2月27日月曜日

第二次ポーランド分割につながった第二次露土戦争(1787~1792年)

 1772年、ポーランドは第一次ポーランド分割によって領土と人口の3分の1を失いましたが、

それでも現在のポーランドよりも1.6倍の面積(52万㎢)がありました。

現在でいうとヨーロッパ面積ランキング4位のフランス(55万㎢)とほぼ同程度です。

しかし1793年、そのポーランドは再び周囲の国々に分割されてしまいます。

第一次ポーランド分割の時と同じように、

分割が起きたのには理由があります。

今回は、なぜ第二次ポーランド分割が起きたのか?を見ていこうと思います🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇第二次露土戦争(1787~1792年)

1774年に第一次露土戦争が終結した後、クリミア半島周辺にあった国、クリミア・ハン国はオスマン帝国から独立を認められましたが、

ロシアの影響下に置かれました。

1776年にはロシアはクリミア半島で、黒海艦隊と、セヴァストポリ軍港の建設に着手し、

1783年にはロシアはクリミア・ハン国を併合してしまいます。

1787年にはエカチェリーナ2世の大々的なクリミア半島の巡行も実施されましたが、

これらがオスマン帝国をいちいち刺激しました。

同年、オスマン帝国はクリミア半島の巡行を挑発ととらえ、

ロシアに宣戦布告します。

すると、ロシアにオ-ストリアが味方につきました。

なぜかというと、バルカン帝国に勢力を伸ばしたいオーストリアのヨーゼフ2世(1741~1790年)と、

孫のコンスタンチン(1779~1831年)を皇帝とするビザンツ帝国の復活(ギリシア帝国)を目指し、ギリシャ・コンスタンチノープル周辺の獲得を目指すロシアのエカチェリーナ2世の思惑が一致し、

1781年にロシアーオーストリアは、ロシアが攻撃を受けた際にオーストリアはこれを援助する、という秘密条約を結んでいたからでした。

ロシア・オーストリアの攻撃を受けたオスマン帝国は各地で敗れていきました。

しかし、1789年には今を好機と見たスウェーデンがロシアを攻撃して戦争が起こったり(1790年、スウェーデンは苦戦しロシアと和平して戦争は終結)、

1790年にオーストリアのヨーゼフ2世が肺結核で死去し、跡を継いだ弟のレオポルト2世(1747~1792年)がオスマン帝国と単独で和平をして戦争から離脱したりするなど、

状況の悪化もあって、1792年1月にロシアはオスマン帝国と講和条約を結びました。

露土戦争中にロシアに攻撃を仕掛けたスウェーデンのように、

露土戦争を好機ととらえたのがポーランドでした。

2023年2月26日日曜日

『信長公記』を書いた男、太田牛一の信念

 『信長公記』のマンガ化、まず首巻分が終わったので、

『信長公記』の後書き(池田家文庫本[数少ない太田牛一直筆4点のうちの一つ]巻十二の奥書[書籍の最後に書かれた文]…内容的には前書き)といえる部分を書いてみました😄

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇『信長公記』の筆者・太田牛一

太田牛一(読み方が不明なので音読みで「ぎゅういち」と読まれる。和田裕弘氏は『信長公記』で当時の人々は「一」を縁起のいい「勝」と同じ「かつ」と呼んでいたので、「うしかつ」と読むのが正しいとしている)は1527年、尾張で生まれました。通称は又助。名ははじめ信定といったようですが、後に牛一に改めます(信長死後?)。

初め尾張守護斯波義統の家来。

1554年に斯波義統が殺された後に、織田信長の直臣となったと考えられます。

『信長公記』には、天沢和尚武田信玄と会話している中に、

織田家の弓衆の3人のうちの一人として登場します。

(他の2人は浅野長勝[?~1575年。浅野長政の母の兄で、後に浅野長政を婿養子にする。豊臣秀吉の妻、ねねの養父]・堀田孫七[豊臣秀吉の鷹匠頭となった堀田一継の父?])。

弓の扱いに長けていたことは、堂洞砦の戦いの記述の中で触れられています。

上洛後は丹羽長秀付きの行政官となって主に京都付近で働いていたようであり、

織田信長の祐筆(書記官)であったわけではありませんでした。

『信長公記』は織田信長からの命を受けて公式に書きとめていたものではなかったので、

正確性に欠ける部分も散見されるのですが、金子拓氏によれば、「巻八(1575年)以後はきわめて正確」であるようで、この頃から意識して記録をつけるようになっていたようです。

角川文庫『信長公記』による、各巻のページ数を見てみると、

巻一(1568年)…10p

巻二(1569年)…10p

巻三(1570年)…20p

巻四(1571年)…8p

巻五(1572年)…10p

巻六(1573年)…24p

巻七(1574年)…12p

巻八(1575年)…30p

巻九(1576年)…14p

巻十(1577年)…16p

巻十一(1578年)…28p

巻十二(1579年)…42p

巻十三(1580年)…30p

巻十四(1581年)…36p

巻十五(1582年)…51p

…となり、巻十一(1578年)から特に詳述になっているので、

「巻八以後」というよりかは、巻十一以後、と見るのが適切でしょう。

太田牛一は織田信長死後は隠居しますが、後に豊臣秀吉の招きを受けて仕え、

再び行政官として働きます。

豊臣秀吉死後はその子の豊臣秀頼に仕え、1613年、86歳の高齢で死去しました。

『信長公記』は1600年前後に成立したとされていますが、

太田牛一は死ぬ頃まで『信長公記』の手直しを続けていたり、

各大名に『信長公記』を贈る際にも、その大名家に関する部分について変更・書き加えなどを行っていたりしたため、現在に伝わる写本は内容が少しずつ異なっているようです。

その中で最もポピュラーなのが、近衛家に伝わる史料を保管した「陽明文庫」所蔵の『信長公記』で、「陽明本」と呼ばれ、角川文庫から書籍となって1969年に発売されています。

他にも、角川文庫版より先に1965年に刊行された新人物往来社の『信長公記』[史料叢書]があり、こちらは町田家に伝わっていた、通称「町田本」を明治時代に発売したものをもとにしています(しかしこちらは原本の「町田本」は行方不明になっている(◎_◎;))。

それ以外で最近注目を浴びているのが天理大学附属天理図書館所蔵のいわゆる「天理本」で、2014年に『愛知県史資料編14』に収録された後、かぎや散人氏によって2018年に首巻部分が現代語訳されたのですが、首巻部分が他のバージョンの物と大きく異なる部分があります。

以上のように、内容が少しずつ違って伝えられている太田牛一の『信長公記』ですが、この『信長公記』の書名、正しくは『信長記』であったようです💦

それなのになぜ「公」をつけるのでしょうか。

江戸時代初期に、小瀬甫庵が(おそらく太田牛一の『信長記』をもとにして)物語風にまとめた『信長記』が多くの人に読まれた一方で、

太田牛一の『信長記』は一部の人にしか知られない存在でした。

(これは『三国志』『三国志演義』の関係に似ている)

明治時代になってようやく太田牛一の『信長記』は刊行されますが、

その際に人々によく知られた小瀬甫庵の『信長記』と混同しないように「公」の字がつけられて『信長公記』となったようです。

本家なのにかわいそう…( ;∀;)

〇『信長公記』記述の自負

現在伝わる数ある『信長公記』の中で、岡山藩池田家に伝わる史料を保管した池田家文庫所蔵の『信長公記』(数少ない太田牛一直筆4点のうちの一つで貴重)は、15巻のうち巻十二だけは写本なのですが、その巻十二の奥書(書籍の最後に書かれた文)に、『信長公記』を書いたことについて、太田牛一が自分の思いを書いた部分があるので、それを紹介します。

「此の一巻、太田和泉守 生国 尾張国春日郡山田の庄 安食の佳人なり、

八旬(80歳)に余り頽齢(老齢)巳に縮まりて、

渋眼を拭い老眼の通路を尋ぬるといえども愚案(くだらない考え)を顧みず、

心の浮かぶ所禿筆(自分の文章力をへりくだって使う言葉)を染めおわんぬ、

予毎篇日記のついでに書き載するもの自然に集と成るなり、

曾て私作・私語に非ず、直にあることを除かず無きことを添えず、

もし一点の虚を書するときんば天道如何、

見る人はただ一笑をして実を見せし玉え

自元

内大臣信長公の臣下なり、其の後

太閤秀吉公臣下、今又

右大臣秀頼公臣下なり、

将軍家康公

関白秀次公

五代の軍記此くの如し、且、世間の笑草綴り置くなり

太田和泉守(花押)」

…私はもう80歳を過ぎ、目もしょぼしょぼして視界も狭くなってきていているのだが、くだらない考えと下手な文章でもってこの書物を書いた。

『信長公記』は、日記のついでに日々知ったことを書き留めていたものをまとめて書いたのであり、

実際にあったことは無かったことにせず、実際になかったことをつけ加えるようなことは一切していない。

もし一点の偽りでも書いているのであれば、天罰がおそろしい。

見る人は笑いながら内容を見ていただければ幸いである。…

『信長公記』内では、「~という良くないことをしたため、このような結末になってしまった、おそろしいことである」という箇所が何度も出てきますが、

太田牛一は因果応報を強く信じていたものと思われます。

そのため、太田牛一はおそらく本人の言うとおり、創作・脚色・捏造のたぐいはしていないと考えられます。

しかし、それは太田牛一本人のことであって、

当時書きとめていた日記には、自分が間接的に伝え聞いた事実が多数含まれていたでしょうから、その元ネタがあやまっていたり、脚色されたものであったりすることもあったでしょう。

例えば、斎藤道三の出自を書いた部分には、一代で成り上がったように書かれていますが、実際はそれは否定されており、親子二代で出世したことがわかっています。

そのため、確実に信頼できるのは、太田牛一が直接参加した戦い・上洛後は京都周辺で起きた出来事、に限られてくるでしょう。

しかし、誤伝であったとしても、当時生きていた人々から聞き知ったことであり、当時の人々がどういったイメージを持っていたかがわかるので貴重ではあります。

(斎藤道三が死んだ頃すでに30歳近くになっていた太田牛一が斎藤道三の出自をよく分かっていなかったことは興味深いと思うのです。斎藤家に仕えていた存命の人物も相当いたと考えられるのに)

「マンガで読む!信長公記」は、『信長公記』をベースとしながら、『信長公記』の内容を他の資料などで知りえた情報で補完しながら書き進めていきます。

太田牛一と同じく、創作・捏造はしないようにするつもりですが、マンガ的表現の脚色はあります(;^_^A

実際の織田信長に少しでもせまれるよう、微力を尽くすつもりです。

2023年2月24日金曜日

鷹が好きすぎる男~公方様御憑み百ヶ日の内に天下仰付けられ候事(1559~1564年頃?)

 今回の話は、16巻からなる『信長公記』の最初の巻にあたる、

首巻の最終部分になります😆

16巻分の1ですが、ボリューム的には首巻は4分の1あります💦

ようやっと4分の1が終わったということになりますね(;^_^A

織田信長の誕生日の7月3日から書き始めて、

首巻が終わったのが2月ですから、約8か月かかったことになります😓

このペースで行くと『信長公記』マンガ化完了まであと2年を要することになりますね…(;^_^A アセアセ

大変な道のりですが、ここからがメインなので、がんばります🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇京都の人々の笑いものになった織田信長

首巻は1568年に織田信長が上洛を果たしたという話で終わっていますが、

上洛については『信長公記』巻一の冒頭部分で詳しく扱っていますので、

今回の部分では上洛についての話はダイジェストな感じになっています。

(予告編のような感じ??)

そしてマンガで描いたエピソードですが、この話は実は『天理本』には書かれていません。

丹波国(京都府中部・兵庫県東部)・長谷城主の赤沢加賀守(義政。松永長頼[内藤宗勝]の与力[配下]。?~1603年)は、

鷹がとにかく大好きな男で、

ある時、自ら関東まで出かけて熊鷹を2羽手に入れました。

帰る途中、尾張で織田信長に会い、

「2羽のうちどちらか好きな方を差し上げましょう」

と言いますが、織田信長は、

「お気持ちはありがたいが、上洛して天下に号令するまであなたに預けておこう」

(志の程感悦至極に候。併[しかしながら]、天下御存知の砌[みぎり]、申請くべく候間、預け置く)

と答えました。

赤沢加賀守は京都に戻ってこのことを話すと、聞いた人々は、

「京都から離れたところにいるのだから、実現できるわけがない」

(国を隔て、遠国[おんごく]よりの望み実[まこと]しからず)

…と言ってみんな笑ったそうです。

そして、筆者の太田牛一はこう続けます。

…しかし、この話から十年もたたないうちに織田信長は上洛を達成したのだから、

世にも不思議なことである…

ここで10年もたたずに、と出てきているので、この鷹の話は、1559年~1568年のどこかの話ということになります。

もう少し範囲を狭めると、赤沢加賀守の上司であった松永長頼は1565年に亡くなっているので、1559年から1564年あたりの話だといえるでしょう。

(ちなみに、赤沢加賀守は上洛した織田信長と敵対して、城を明智光秀に落とされて囚われの身になっています)

人々がなんと無謀な、と言って笑っているので、

もしかすると桶狭間前の話であったのかもしれません。

織田信長は1549~1552年頃に父の跡を継ぎましたが、

その後は尾張国内での他の織田氏や実の弟との骨肉の争い、

それを乗り越えたら大大名の今川義元との決戦、

義元を撃破した後は美濃との戦い…

戦いに次ぐ戦いでした。

普通であったら途中で何度も死んでいるでしょう。

しかし織田信長はそれを自らの決断力と行動力で突破してきました。

そしてついに京都とほとんどゆかりの無かった男が上洛を達成するまでになるのですが、

上洛後も、これまで以上に、厳しい戦いの連続の中に身を置くことになります。

『どうする家康』ではないですが、「どうなる、信長!!」

2023年2月22日水曜日

2023年2月21日火曜日

美濃平定、成る!~いなは山御取り候事(1567年)

 北伊勢を攻略中であった織田信長に、ある報告が届きます。

それは、美濃三人衆が寝返った、というものでした!

その方を受けた信長は、例のごとく素早く行動を開始します!!😝

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇「美濃三人衆」は二度裏切った!?

「美濃三人衆」とは、西美濃に勢力を持っていた、

稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就の3人のことを指します。

この中で最大の勢力を持っていたのは氏家卜全(直元。出家して卜全。元の名字は桑原。1512?~1571年)であったようで、

宣教師の報告書には「美濃の3分の1を領していた」とまで書かれていますが、

おそらくそれは言いすぎだとしても、西美濃一帯の旗頭的存在であったのでしょう。

持っている城も西美濃の中心となる大垣城です。

その次が安藤守就(義龍~龍興の頃は伊賀氏を名乗る。伊賀守であったので伊賀伊賀守となる(;^_^A。出家して道足[どうそく]。1503~1582年)。

西美濃の北方城の城主。

『信長の野望』ではどちらかというと知将タイプですが、

『松平記』には「武辺者」と書かれています。

1554年、織田信長の村木砦攻めの際には、尾張に援軍として派遣されています。

1564年、娘婿である竹中半兵衛と共に一時、稲葉山城を乗っ取りました

その頃に出家しているようですが、稲葉山城を斎藤(一色)龍興に返還する際に頭を丸めたのかもしれません。

しかし、その後も子の貞(定)治(?~1582年)は龍興の四奉行の1人として重用されています。

稲葉一鉄(良通。1574年、再出家して一鉄。1515~1589年)は、

三人衆の中で一番知名度は高いですが、三人の中では勢力はもっとも弱かったようです。

そもそも外様の人間で、伊予(愛媛県)の河野氏の一族であり、一鉄の祖父の代に美濃に流れて来たようです。

しかし姉が斎藤道三の妻となった(斎藤義龍を産んだとされている)ため、出世したようです。

居城は曽根城

この3人が一度に織田信長に寝返ったのですが、このことは

『信長公記』に「 8月朔日、美濃三人衆、稲葉伊予守・氏家卜全・安東伊賀守 申合せ侯て、「信長公へ御身方に参るべきの間、人質を御請取り侯へ 」と申越し侯。」

…と書かれています。

三人衆の寝返りは、有名な事実なのですが、いろいろとナゾの部分があります。

例えば、なぜ寝返ったのかがわかっていません(;^_^A

調略の結果なのでしょうが、なぜこのタイミング?というのがあります。

また、寝返った日にちについても、『信長公記』では「8月1日」と書かれていますが、これが怪しいのです。

前回のマンガでも紹介しましたが、

『勢州軍記』には、

「信長、楠カ城ヲ攻玉フ。ホドナク楠降参シテ、却テ魁シテ案内者トナル。 神戸ノ老(オトナ)山路弾正忠カ城高岡ヲトリマキ玉フトキ、 美濃西方三人衆、心替シケル由、飛脚到来ス。」

…とあり、織田信長が北伊勢の楠城を落とし、高岡城に進んでこれを包囲したときに美濃三人衆の寝返りの情報が入った、と書かれているのですが、

連歌師・里村紹巴(1525~1602年)がつけていた記録には、

永禄10年(1567年)8月20日に楠に行くと、織田軍の先鋒がが暮れにはやってくるらしく、騒がしかった、と書かれているので、

楠城に8月20日に至り、その後に楠城が陥落、そして高岡城に移ってこれを包囲中に美濃三人衆が寝返った…とすると、

8月1日に寝返り、は明らかにおかしいことになります。

『瑞龍山紫衣輪番世代帳』には、「永禄十丁卯九月織田上総乱入」と書かれているので、

寝返りは8月1日、ではなく、9月1日、の誤りなのではないでしょうか。

一方で、寝返りは一度ではなかったのではないか?とする史料もあります(◎_◎;)

信ぴょう性は疑われている書物ではあるものの、

『武功夜話』の内容も一応紹介すると、

滝川一益が中心となって伊勢長島を攻めるために砦を作った、

氏家卜全は、これは自分の領地を攻めるためなのではないかと勘違いして

織田を裏切って再び斎藤方につき、墨俣砦を攻撃した、

伊勢方面にいた佐久間信盛は、氏家卜全・安藤守就の裏切りを聞いて美濃にとって返し、墨俣砦を守る木下秀吉を救援したので氏家卜全らは敗れて退いた、

木下秀吉は稲葉一鉄を通じて氏家らと話をしたところ、

氏家らは今回の行動を恥じ入り、人質を差し出して降伏し、再度味方となった、

信長はこれを知って3000余りの兵を率いて、13日、河野島より瑞龍寺山を攻め登り、翌日の午前9時には稲葉山城を落城させた。これは永禄10年(1567年)8月のことであった、

…とあり、美濃三人衆は一度織田方に寝返ったが、さらに裏切って墨俣砦を攻撃、敗れてまた織田に降伏した…という驚きの事実が書かれてあり、また、稲葉山落城を8月14日としているのですが、どこまで本当なのかはわかりません(;^_^A

もしこれを事実とするならば、織田信長は、三人衆の寝返りを聞いてもこれを疑って美濃に向かわず伊勢を攻め、伊勢に向かったことを知った氏家・安藤が今の内だと墨俣を攻めたが敗北して降参、ここで織田信長はとって返して稲葉山城を攻略した…つまり、一度目の寝返りは織田をだましていた?ということになります。

また、比較的史料価値の高い『勢州軍記』は、

『信長公記』と同じく、描写が異なる別バージョンの写本も存在するのですが、

(先に紹介したのは稲垣泰一氏蔵『伊勢軍記』)

『三重県郷土資料叢書 第39集 勢州軍記 上巻』には、

信長軍は攻撃する際は必ず村々に火を放った、このため敵方は混乱した。

故に「戦に勝つには、夜討をしたほうが良い、城を落とすには、放火をしたほうが良い」というのである。

…という部分と、

美濃三人衆が裏切ったのを聞いて織田信長が美濃にとって返したことを述べているところに、

安藤伊賀守は、武田信玄と通じて(信長に)謀反をしたということである。

…というのが追加されています。

これを見ると、味方になったはずの美濃三人衆が裏切った、ということがわかります。

これを山路弾正の流したデマとし、これに信長はひっかかってしまった、とする説もありますが、

武田信玄とは同盟を結んでいるので、信玄云々はデマとしても、

『武功夜話』にも書いてありますし、実際に裏切った可能性もあります。

安藤守就は後に1580年に突然、織田信長から追放処分を受けますが、

その理由について、『信長公記』は、

信長が昔大変だった時に野心(身分不相応のよくない望み)を抱いたからだ、と書いていますが、

それはこの時のことだったのかもしれません💦

さて、まとめてみると、美濃三人衆の寝返りの日にちや経緯については、

以下の三説が考えられるのではないでしょうか。

A説

①織田信長、8月15日に伊勢に進攻

②8月20日に楠城を落とし、高岡城に移りこれを包囲する

③美濃三人衆の寝返りを知った織田信長は美濃三人衆の人質の提出を待たずに稲葉山城に攻め入る

B説

①美濃三人衆が寝返ったが、織田信長は信じきれず、8月15日、様子見で伊勢に向かう

②8月20日に楠城を落とし、高岡城に移りこれを包囲する

③山路弾正が今のうちに墨俣砦?を攻撃するように美濃三人衆をそそのかす

④(稲葉一鉄を除く?)美濃三人衆が墨俣砦?を襲うが、撃退され、降参する(9月1日)

⑤美濃三人衆の降参を知った織田信長は美濃三人衆の人質の提出を待たずに稲葉山城に攻め入る

C説

①8月1日、美濃三人衆の寝返りを知った織田信長は美濃三人衆の人質の提出を待たずに稲葉山城に攻め入る

②8月15日、稲葉山城陥落、斎藤龍興が伊勢長島へ逃れる

③織田信長、斎藤龍興を追って伊勢長島に攻め入る

…どれが正しいんでしょうかね(;^_^A

自分としては、のちの安藤守就追放の件もあり、

B説が正しいのではないか…とも思っています💦

〇稲葉山城の陥落

美濃三人衆の寝返りを聞いた織田信長は、

村井貞勝・島田秀満の2人に三人衆のさしだした人質を受け取りに行かせ、

2人が帰ってこないうちに早くも美濃に入って稲葉山城と山続きになっている瑞龍寺山に攻め込みました。

美濃勢はあまりのスムーズさに、「あれは敵か?味方か?」と戸惑っていましたが、

そうしているうちに城下町などに火がつけられてしまいます🔥

その日は風が特に強かった、と書かれているので、あっという間に日は燃え広がったことでしょう。

翌日、信長は指示を出して稲葉山城の周りに鹿垣を築かせてこれを包囲します。

そうしているときに美濃三人衆が信長の所にやってきたのですが、

『信長公記』には、

「肝を消し、御礼申し上げられ侯。」

…ひどく驚きながら、信長に挨拶をした、と書かれています。

驚いた理由は2つあったと思います。

①通常は、寝返りをしたものが先鋒となって敵を攻めるものです。

しかし、信長はそれを待たずにスピーディに稲葉山城に攻撃を仕掛けました。

②織田信長が稲葉山城を攻撃した、と聞いて慌ててかけつけたところ、

昨日攻めこんだという話なのに、もう四方に鹿垣が築かれ包囲が完了していた。

美濃三人衆は織田信長の決断と行動の迅速さ・手際の良さに恐れをなしたのだと思います。

『信長公記』には、

「信長は何事も、かように物軽に御沙汰なされ侯なり。」

…信長はこのように、何事も迅速に(慎重さを持たずに)命令された。

…とも書かれています。

せっかちな性格であったのかもしれませんが、

この圧倒的なスピードで数々の成功を収めてきたのが織田信長という男です。

おいつめられた一色義紀(斎藤龍興)は、ついに籠城をあきらめて、

舟で伊勢長島へと逃れていきました。

『信長公記』では落城の日を「8月15日」としていますが、

関市龍福寺の「年代記」には、

「信長入濃九月六日」とあり、

横山住雄氏は、この日をもって稲葉山城落城としています。

しかし、9月6日に美濃に乱入した、ということかもしれないので、

9月6日以後に稲葉山城が落ちた、と見るのがいいのかもしれません。

『信長公記』は8月15日としてたので、一か月分間違えて書いていたのだとすると、

9月15日に稲葉山城が落城したのかもしれません。

一方、稲葉山城の落城について、別の経緯を伝える話もあります。

それは、ルイス・フロイス『日本史』です。

そこには、美濃勢と陣をかまえて向かい合い、夜に軍の半分以上を7・8里(約30キロ)迂回させ、美濃勢の後ろにつかせた、兵力の減った織田軍相手に優勢に戦いを進めた一色義紀(斎藤龍興)は喜んだが、そこに背後から、美濃勢の旗を持った織田軍が突進して挟撃の形となり、美濃勢は崩壊した、信長は続いて稲葉山城を攻撃してこれを攻略した、一色義紀(斎藤龍興)は数名と共に脱出し、京都、さらに堺へと逃れていった…と書いてあるのです💦

『信長公記』の場合だと野戦の描写はありませんが、

フロイスは1563年から1595年に死ぬまでほぼ日本に滞在し、

稲葉山落城の頃は京都にもいたので、信頼できる部分もあります。

一方、『信長公記』は美濃攻めの部分については簡略な記述が多く、

書き洩らされている事実も多いことから、そこまで信頼できません。

稲葉山落城の経緯については、

自分はフロイスの方に軍配を挙げたいのですが…どうでしょうか(;^_^A

さて、こうして7年かけて織田信長は美濃平定(東美濃は武田勢力圏)に成功しました。

織田信長の次なる目標は上洛であり、そのため、本拠地も京都により近い稲葉山城に移します。

この際、小牧山城は廃城となってしまいますが、

後に1584年の小牧・長久手の戦いの際に徳川家康により、その遺構を基に大改修され復活しています。

また、織田信長は稲葉山の城下町が井口(いのくち)と呼ばれていたのを、

「岐阜」に改名したことは有名ですが、

実は以前から臨済宗の僧の間では井口や稲葉山のことを、

中国をまねて「岐山」「岐阜」「岐陽」などと呼んでおり、

信長は臨済宗の僧・沢彦宗恩から、改名するならばこの3つの中から選んではどうかと提案、

信長が「岐阜」を採用したという経緯があったようです。

…ということは、「岐山」県や「岐陽」県になる可能性もあったということですね(;^_^A

「岐陽」県だと、しうまいの崎陽軒とかぶっちゃってましたね(;^_^A アセアセ・・・

2023年2月19日日曜日

ジャガイモは火あぶりの刑を受けたことがある!?

 肉じゃがやフライドポテト・ポテトチップスなど、身近で人気の食べ物であるジャガイモ

そのジャガイモは、意外にも苦難の道を歩んだ歴史があったようです…(;^_^A

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇ジャガイモとは何か

ジャガイモ(ばれいしょ)の発祥の地はアンデス山脈の真ん中にあり、ペルーボリビアにまたがるチチカカ湖の周辺です。

アンデス山脈でとれることからもわかるように、

冷涼な気候でも、土地の栄養分が低い場所でも栽培可能です。

それなのにジャガイモは栄養価が高く、

タンパク質・炭水化物などは米・小麦に劣りますが、

カリウム(細胞の浸透圧の維持・水分の保持・心臓機能や筋肉機能の調節・血圧を抑制などの効果がある)は米・小麦の10倍含まれており、米・小麦では取れないビタミンCまで含まれています。

そのため、「大地のリンゴ」ともよばれるそうな🍎

そのことから全世界に栽培が広がり、今では世界四大作物の1つに含まれるそうです(他はトウモロコシ[10.3億トン]・小麦[7.4億トン]・米[4.8億トン]。ジャガイモは3.8億トン])。

ジャガイモはアンデス地域では「パパ」と呼ばれていたそうですが、

ヨーロッパに伝わった際、「パパ」はローマ教皇を指すので都合が悪く、

「パタタ(patata)」と言い換えました。

これの英語読みが「ポテト(potato)」です。

ジャガイモ大国、ドイツでは「カルトッフェル(kartoffel)」と全然違う呼び方をされていますが、これはトリュフを意味するイタリア語、「タルトゥーフォ(tartufo)」から来ているそうです。

なぜトリュフ?というと、ドイツの人は地中に育つ幻のキノコをトリュフというらしい、というのを聞いていて、

そこに地中で育つジャガイモがやってきたので、これがトリュフか、と勘違いしたからだとか(;^_^A

(…というかトリュフってキノコやったんや…(〃ノωノ))

(※ちなみにドイツ語でトリュフは「トリュッフェル(Trüffel)」です。)

ドイツからジャガイモが伝わったロシアは「カルトフェル(kartofel)」と呼んでおり、誤解されたまま伝わっていることがわかります(;^_^A

伝言ゲームみたいですね…。

日本ではジャガイモですが、これはインドネシアのジャガタラ(現在のジャカルタ)から伝わったことに由来しています。

(※日本では縄文時代後期から山芋・里芋・長芋が栽培されていました)

(※「いも」の語源は、地中に埋もれていたことから、ウモ→イモ、となったという説があります)

(※別名の「ばれいしょ(馬鈴薯)」は、中国の呼び方で、馬の首につける鈴の形に似ていることからつけられたもの。現在の中国ではジャガイモのことは「土豆」と言っている)

〇火あぶりにされたジャガイモ

このように世界に普及したジャガイモですが、

その普及には苦難の歴史がありました(-_-;)

アメリカ大陸からヨーロッパに伝わったのは1570年頃と言われています。

しかし、ジャガイモはヨーロッパの人々から強い拒絶反応を受けます。

なぜか。

①昔のジャガイモは形が悪く、ごつごつしていて、ハンセン病などを連想させ、また、色も悪かったため。

②ジャガイモの芽や緑色に変色した部分にはソラニンという毒が含まれていたため。ソラニンの致死量は400㎎と、かなり強力。毒ではないが、よく聞くタウリン1000㎎の半分以下である。

(ジャガイモは乾季を生き延びるために地中の茎[実に見えるのは茎]にエネルギーをためておく。これがイモ部分。エネルギータンクを食われては生きていけないので、外敵から身を守るために毒を持つようになったのだという)

聖書に書かれていない植物だったため。聖書には、植物は、種子によって増える、と書かれていたが、イモはイモを植えることで増える。

…などのことから、ヨーロッパでは「悪魔の植物」扱いをされたそうです。。

フランスでは、ある地方の議会で栽培禁止が決定され、

ロシアではジャガイモ栽培反対の一揆(1842年)が起こり、

あと、どこの国かもはっきりしていませんが、ある国ではジャガイモは宗教裁判にかけられ、あわれ火あぶりの刑になってしまったといいます。

しかし、当時は1550年~1850年頃にかけて、小氷期と呼ばれる寒い時期が続いていて、フランスでは16世紀…13回、17世紀…11回、18世紀…16回の飢饉が発生したといいます。

食料不足の解決は喫緊の課題でした。

エリザベス1世(1533~1603年)はジャガイモパーティを開き、

ジャガイモの普及を図りましたが、

コックの調理方法の不手際で、女王自身がソラニンの毒にあたってしまい、イギリスでの普及を逆に遅らせる結果になってしまったそうです💦

プロイセン(ドイツ東部)のフリードリヒ2世(1712~1786年)は、

1756年、ジャガイモ令を出します。その内容は、

①農民にジャガイモ栽培のメリットを理解させ、栽培を勧めること。

②空いた土地があればジャガイモを栽培すること。

③農民がちゃんと栽培するか、兵士や使用人に監視させること。

…というものでした。

その強制栽培により、プロイセンではジャガイモが広まることになりました。

そのプロイセンの影響でジャガイモが広まることになったのがフランスです。

濃学者であったパルマンティエ(1737~1813年)は7年戦争(1756~1763年)に参加、プロイセンの捕虜となりますが、捕虜生活の中でジャガイモを食べさせられます。

パルマンティエはここでジャガイモの有用性に気づき、1772年、フランスアカデミーの「食料飢饉を緩和する食物」の論文募集に応募してジャガイモの栽培を訴え、採用されます。

パルマンティエはジャガイモ普及のために3つの作戦を実行します。

①パリ郊外のジャガイモ畑を柵で囲み、兵士に厳重に守らせることで、人々にジャガイモに対する興味を持たせるとともに、その価値を高めた。また、夜はわざと警備を緩くし、人々が畑からジャガイモを盗めるようにした。

②上流階級の人たちにファッションの一環でジャガイモの花を挿してもらうようにした。これを受けてルイ16世マリー・アントワネットたちがジャガイモの花を挿したので、上流階級でジャガイモの花が流行し、抵抗感が薄れていった。

③ジャガイモを美味しく食べられるように料理をいくつも考案した(オムレツ・ポタージュ・グラタンなど)。

その後、フランスでは1788年にフランス革命につながる飢饉が起こり、

ジャガイモ普及が促進されました。

また、ナポレオン(1769~1821年)も国家プロジェクトとしてパルマンティエを支援してジャガイモ栽培を推進、フランスのジャガイモ生産は15倍まで拡大したといいます。

以上のような涙ぐましい努力などもあり、ジャガイモは世界4大作物まで出世したのです。

現在、ジャガイモの生産ランキングは、

①中国 ②インド ③ウクライナ ④ロシア ⑤アメリカ ⑥ドイツ ⑦バングラデシュ ⑧フランス ⑨ポーランド ⑩オランダ ⑪イギリス…となっています。

2023年2月17日金曜日

美濃から伊勢に転進?~北伊勢攻略(1567年)

美濃河野島の戦いで手痛い失敗をしてしまった織田信長

織田信長は失敗をした後は同じ作戦はとりません。

次の戦いの場所に選んだのは伊勢北部でした。

なぜ伊勢北部を攻撃したのか?美濃攻略はあきらめたのか?

今回はその謎について迫ってみようと思います(;^_^A💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇滝川一益と伊勢

織田軍の伊勢攻めの中心メンバーとなったのが滝川一益(1525~1586年)です。

この滝川一益はどんな人物なのかというと、

『勢州軍記』には、なんと12代景行天皇の子孫だと書かれています。

たぶん盛ったんでしょうが(;^_^A

近江国(滋賀県)の甲賀郡の大原出身と書かれています。

大原というと、滋賀県の最南部にある甲賀市の中でも、だいぶ南の方にあり、

伊勢(三重県)にほど近いところにあります。

地元でよくないことをしたのでいられなくなり、浪人して尾張に流れ着き、

織田信長に認められて仕えるようになったようです。

『寛永諸家系図伝』では、一族の者といさかいになって殺してしまい、

浪人していたところ、鉄砲の腕を買われて織田信長に仕えるようになった、とあります)

つまり譜代でも何でもないのですが、豊臣秀吉や明智光秀のように抜擢されて出世し、蟹江城を与えられて(『蟹江町史』では、蟹江城を任されたのは1574年以降とされています)長島の抑え・伊勢攻略を担当するまでになります。

さて、その伊勢ですが、どのような状態だったのかというと、

『勢州軍記』によれば、大きく4つの勢力圏に分かれていたようです。

伊勢は13郡からなるのですが、

南の5郡を支配していたのは北畠氏。伊勢の国司を務めていた由緒正しい貴族大名です。

北の8郡は3つに分かれ、

一番北から員弁郡・桑名郡・朝明郡・三重郡は、

北勢四十八家(実際に48あるわけではない)と呼ばれる小さな国衆が乱立している状態でした。

員弁郡→上木家・白瀬家・高松家

桑名郡→持福家・木股家

朝明郡→南部家・加用家・梅津家・富田家・濱田家

三重郡→千草家・宇野部後藤家・赤堀家・楠家

この中で最も大きかったのは千草家、次いで楠家でした。

千草家はあの南北朝時代の千草忠顕の子孫であり、北勢四十八家の棟梁という扱いであったようです。

1555年、近江の六角家が北伊勢に侵入した際に千草城主・千草忠治は善戦し、和睦に持ち込んだのですが、ちょうど子がいなかったので、

六角家の家老、後藤賢豊の弟を養子としています(千種三郎左衛門

しかしその後、子が産まれてしまうという最悪のパターンとなり、

疑心暗鬼となった後藤賢豊の弟は千草忠治とその子を追放してしまいます。

名門の千草家もここまで落ちぶれてしまったわけですね…( ;∀;)

後に織田信長の子の信雄により、千草忠治は千草城に復帰することができましたが、この時には子はすでに滝川一益によって亡き者にされてしまっていた状態にありましたので、津城主・富田信高の甥を養子としました(千草顕理)。

しかしこの千草顕理は1615年、大坂夏の陣で戦死、千草家は断絶してしまいます…。

楠家はあの南北朝の争乱の楠木正成の子孫を名乗る家柄で、楠城を本拠としていました。

楠正忠(1498~1574年。後に楠木と改姓)は関氏一族の神戸氏と婚姻関係を結んでおり、

北勢四十八家というよりは、関氏のグループに所属していました。

六角氏とも友好関係にあったようです。

続いて鈴鹿郡・河曲郡を治めていたのが関氏です。

関氏の「関」は鈴鹿の関に由来しています。

関氏の分家にあたるのが鈴鹿郡の峯家・国府家・鹿伏兎家

河曲郡の神戸家でした。

関盛信(?~1593年)は六角氏の家臣、蒲生定秀の娘を妻としており、

六角氏のグループに属していました。

北伊勢で一番南にある安濃郡・奄芸郡を治めていたのが工藤家で、

あの鎌倉御家人・工藤祐経の子孫とされます。

伊勢の長野に住んでいたので、長野氏を名乗りました。

工藤(長野)の分家には、

安濃郡の生家・家所家・細野家・分部家

奄芸郡の雲林院家がありました。

領地を接する北畠家と抗争を続けていましたが、

1558年、北畠具教の次男を養子にせざるを得なくなり、臣従することになりました。

つまり、まとめてみると伊勢は、4つというよりかは2つに分かれている、といったほうがよさそうです(;^_^A

六角グループ→北勢四十八家・関家

北畠グループ→北畠家・工藤(長野)家

〇北伊勢攻略作戦

『勢州軍記』には、

永禄十年ノ春、濃州ノ住人織田上総介平信長、伊勢ノ国ヲ取ルベシトテ、滝川左近将監大伴ノ宿称一益ヲ大将トシテ、勢州北方ヘ向ヒケル。滝川家尾州境、桑名長嶋ヘン、美濃境多度ヘンヘ打出、北方ノ諸士、或ハ攻、或ハ和之、武威ヲフルヒ、員弁郡、桑名郡両郡ノ諸士、上木、木俣、持福以下、自然ニ織田家ニシタカヒケルトカヤ。」

…とあり、永禄10年(1567年)の春には滝川一益に命じて伊勢攻めを実施、

桑名長島・多度方面を攻撃し、上木・木俣・持福家などが降伏し、

員弁郡・桑名郡を攻略していたことが読み取れます。

伊勢攻めはこれで終わらず、

8月に第二弾を実行に移します。

「永禄十卯年八月、信長ハ初テ桑名表ヘ発向シ玉フニ、北方ノ諸士、南部、加用以下、随之。其後信長、楠カ城ヲ攻玉フ。ホドナク楠降参シテ、却テ魁シテ案内者トナル。 神戸ノ老(オトナ)山路弾正忠カ城高岡ヲトリマキ玉フトキ、 美濃西方三人衆、心替シケル由、飛脚到来ス。依之、信長、滝川左近将監一益ニ北方ノ諸士ヲ相ソエ、勢州ノ押ヘトシ、勢ヲ打入、岐阜ヘ帰リ玉フ。」

…織田信長自ら伊勢に攻めこみ、朝明郡の南部・加用家はさしたる抵抗もせずに織田信長に従った、続いて楠城を攻め、これを落とし、楠家を先導役としてさらに神戸具盛の家老、山路弾正の守る高岡城を包囲した、この時、美濃三人衆が寝返った、という知らせが届いたので、伊勢の抑えに滝川一益を残し、織田信長は美濃に急行した…という内容です。

連歌師・里村紹巴(1525~1602年)がつけていた記録がこれを補完しています。

曰く、

8月15日に、津島に向かい、桑名に行こうと思ったら、「長島成敗に尾州太守出陣なれば」…長島攻めのために織田信長が出陣した

18日に大高で、「夜半過ぎ、西を見れば、長島をいおとされ、放火の光夥しく、白日のごとくなれば、起出で」

20日に楠に行くと、織田軍の先鋒がが暮れにやってくるらしく、騒がしかった。…

これを見ると、伊勢を攻める前に、まず長島を攻撃していることがわかります。

『弥富町史』には、

鯏浦城の服部友貞が北伊勢の国衆に応援を頼みに城を離れたところを狙って、

織田信長の弟、織田信興(織田信秀の七男。?~1570年)を大将、補佐役に滝川一益がつき、鯏浦の服部党を攻撃、これを破って興善寺に放火した、…と書かれています。

おそらく里村紹巴の見た夜の放火の光というのはこれのことを指しているのでしょう。

ちなみにその後、織田軍は長島近辺に古木江城・鯏浦城を築き、長島の一向宗勢力(服部党)を圧迫していくことになります。

織田信長は美濃三人衆の寝返りで中断したものの、

北伊勢攻略作戦を2度にわたって進めていたわけですが、

なぜ北伊勢を攻略しようとしたのでしょうか?

説の1つには、

足利義昭を救援するための上洛ルートとして、

美濃を使いたいが、河野島の戦いで撃退されたのもあり、難しい。

ならば、ということで、伊勢周りで近江→京都に至る上洛ルートを確保しようとした、というものがありますが、かなり強引すぎやしないでしょうか…。

北伊勢は六角氏グループに属していた、というのを先に述べましたが、

その六角氏は美濃斎藤氏と友好関係にありました。

つまり、この北伊勢攻撃は六角氏の斎藤氏援助ルートをたたこうとしたものであったのではないでしょうか?

長島も攻撃していますし、北伊勢や木曽川を通じて美濃に支援するルートをたたくことで、

美濃の武士たちの動揺を誘った…。

美濃三人衆が織田方に降ったのも、これが関係しているかもしれません。

次回は、その美濃三人衆の寝返りから稲葉山城落城までを取り扱っていこうと思います!🔥


2023年2月15日水曜日

2023年2月13日月曜日

2023年2月10日金曜日

2023年2月9日木曜日

明治日本にも影響を与えたポーランド分割(1795年)

 東ヨーロッパの国、ポーランドは、

1795年に周囲の3カ国に分割されて、1918年まで滅びてしまっていた時期があります。

ポーランドはなぜ滅びることになったのか。

ポーランドが滅びたことは、明治時代の日本人たちにも影響を与え、

同じような道を歩まぬように反面教師とされていきます。

ポーランド滅亡は決して遠い過去の話ではなく、

現在でも起こりうることです。

その原因について学ばなければいけません。

※マンガの後に補足・解説を載せています。



〇ポーランド王国の誕生

ポーランドはポラニェ(レフ)族のポーランド公ミェシュコ1世(935?~992年)の時に、

諸部族に分かれていたのを統一されます。

次のボレスワフ1世勇敢公(966?~1025年)は勇猛で、ボヘミア王国(現在のチェコ)を支配下に置き、

キエフ公国(現在のロシア・ウクライナ)を破り、神聖ローマ帝国からも土地を奪いました。

死ぬ直前に王位につき、ポーランド公国は王国に昇格しています。

ボレスワフ1世死後のポーランドは混乱が続き、

王が亡命したり、ボヘミアの反撃に遭ったり、神聖ローマ帝国と争ったり、

モンゴル軍の侵入を受けたり、ドイツ騎士団の東進を受けたりしました。

その中で現れたカジミェシュ3世 (大王。1310~1370年)は外交で譲歩しながらボヘミア・ドイツ騎士団・神聖ローマ帝国と和睦に成功し、

一方でウクライナ方面に攻めこんで領土を大きく拡大させました。

このカジミェシュ3世が男子無くして落馬して死ぬと、

甥にあたるハンガリー王ラヨシュ1世(1326~1382年)が王に選ばれます。

このラヨシュ1世も男子が無く、

中小貴族(シュラフタ)たちにわずかな税などを除き一切の負担を免除するという譲歩の代わりに、末娘のヤドヴィガ(1373?~1399)を女王にすることを認めさせます。

ポーランドは混乱の中で貴族の力が高まっていたのですが、ここで決定的に貴族が大きな力を持つようになります。

〇ヨーロッパの大国~リトアニア=ポーランド王国

ポーランドは一時、ヨーロッパで最大の面積を持つ国だったことがあります。

1386年、ポーランド女王のヤドヴィガと、リトアニア大公ヨガイラ(1362?~1434年)が結婚して、リトアニア=ポーランド王国が成立したのですが、

その面積は100万㎢、人口は1200万を数えました。

ヨガイラはポーランド王家と特段血のつながりはなかったものの、

東に勢力を広げつつあったドイツ騎士団という共通の敵がいたこともあって、

結婚と相成ったのです。

ヨガイラはポーランド名ヤギェウォで、ここから始まる王朝をヤギェウォ朝(ヤゲロー朝)といいます(1386~1572年。ほぼ室町時代)。

ヨガイラは即位してヴワディスワフ2世と名乗り、

1410年にドイツ騎士団に戦いを挑んでグルンヴァルト(タンネンベルク)の戦いでこれに勝利します。

3代目のカジミェシュ4世(1427~1492年)は1454~1466年の13年戦争で、再びドイツ騎士団を破り、首都マリーエンブルク(マルボルク)を陥落させます。

ドイツ騎士団との戦いは1525年、ジグムント1世(1467~1548年)の時に終わりを告げ、騎士団はポーランドに臣従し、騎士団領はプロイセン公国となり、ポーランドの保護下に入りました。

しかし一方でポーランドでは中小貴族たち(シュラフタ)の力が強まり始めており、

ジグムント1世はシュラフタを軽視した態度を取っていましたが、

ある時戦争の際にシュラフタに総動員をかけると、シュラフタはこれに抵抗、

結局ジグムント1世は総動員を撤回せざるを得ませんでした。

次のジグムント2世(1520~1572年)が跡継ぎ無くして死ぬと、

その後はシュラフタの選挙により王が選ばれるようになりました。

しかし1587年、シュラフタの選挙で選ばれたジグムント3世(1566~1632年)は、

絶対君主制を望んだため、シュラフタと内戦状態(1606~1609年)となりますが、ジグムント3世は1609年、これを屈服させ、以後、シュラフタの力は弱まっていきます。

ジグムント3世は、ロシアに遠征し、モスクワ・スウェーデン連合軍を破ってモスクワを占領、ロシアの西部を得ます。

ここがポーランドの絶頂でした。

経済的にも、ポーランド・ウクライナの平原で生産される穀物がヨーロッパで売れに売れ、

1490年頃には6000ラスト輸出していた小麦・ライ麦は、

1620年代には7万5000ラストも輸出されるようになっていました。

この頃、ポーランドで生産された穀物は約60%も輸出に回されていたといいます。

シュラフタは関税免除・外国商人と直接契約できるなどの特権を手に入れており、

その富はかなりのものになっていました。

〇斜陽

1620年、ポーランドはオスマン帝国と戦い、ツツォラの戦いで大敗します。

1621年、三十年戦争などで有名なスウェーデン王グスタフ2世アドルフの攻撃を受け、

スウェーデン・ポーランド戦争(1621~1629年)が起き、

序盤はリトアニアのリガを失うなど敗戦を重ねますが、次第に体勢を立て直し、

1629年に戦争は終結しますが、リトアニアの一部を失ってしまいます。

ヤン2世(1609~1672年)の時、

ウクライナでシュラフタによる収奪に怒りを覚えていたコサックたちの反乱(1648~1654年)があり、

1654~1660年にはロシア・スウェーデンと戦争になり、

ロシアとの戦争に敗れてウクライナの領土などを失い、スウェーデンとは苦戦しながらも押し返しますが、リガを失ってしまいました。

1640年以降のポーランドは経済的にも下降線をたどるようになっていました。

それまでの主力商品であった穀物の売り上げが低下していったのです。

なぜかというと、西ヨーロッパでジャガイモの栽培がおこなわれるようになったことが大きいと言われています。

西ヨーロッパでジャガイモが栽培されるようになったのは、

大航海時代の結果、アメリカ大陸からジャガイモが伝わったことによります。

さらにこの頃(1648~1660年頃)のポーランドは戦争とペストの流行により、

人口の4分の1を失い、国力は大きく低下していきました。

退潮のポーランドを盛り返させたのがヤン3世(1629~1696年)であり、

彼は1673年、ホチムの戦いでオスマン帝国を破って名を挙げ、

翌年、王に選ばれた男でした。

1683年、オスマン帝国によるウィーン包囲が起きると、

オーストリアと連合していたポーランドはこれを救援、

ヤン3世は軍制改革に努めて強化していた重装騎兵でオスマン帝国軍に突撃してこれを破り、

キリスト教世界の英雄と呼ばれるようになりました。

しかし一方でロシアの力は次第に強まってきており、1686年、ヤン3世はロシアの圧力に屈してロシアにとって有利な条約を結ぶことになります。

また、ヤン3世は、選挙で選ばれた弱みもあり、シュラフタに対して強く出ることができませんでした。

当時、議会は完全一致制で、1人の反対でもあれば議事は決まりませんでした。

17世紀後半に開かれた44回の議会のうち、15回は中断があり、2回は一つも法律を作れずに解散されたといいます。

ポーランドは前進しようにも、シュラフタに足を引っ張られていたのです。

次に王に選ばれたアウグスト2世(1670~1733年)の時に、

絶対王政を導入しようとしてシュラフタとの内戦が起こり、これにロシアが介入して解決したので、ますますロシアの影響力は強まっていきました。

アウグスト2世が死ぬと後継をめぐってポーランド継承戦争(1733~1735年)が起こりますが、

アウグスト3世(アウグスト2世の子。1696~1763年)はロシアの力を借りてこの戦争に勝利、国王になりますが、ここまでくるとロシアとの優劣は明らかでした。

こういう状況の中で、国王を中心に団結してロシアに立ち向かっていかなければならないはずですが、

ルソーは、『ポーランド政府論』(1771年)で、「ポーランド民族は、すべてであるシュラフタと、無である市民、無以下の農民、の3つの身分からなる」と述べているように、

シュラフタたちは自己の権益のことばかりを考えて行動しており、

また、彼らの横暴により、18世紀前半には議会はまったく機能しなくなっていたといいます。

ポーランドは自ら壊れていったのです。

〇第一次ポーランド分割(1772年)

1763年、アウグスト3世が死ぬと、ロシアの女帝エカチェリーナ2世の元愛人で寵臣、スタニスワフ(1732~1798年)がポーランドの王位につきます(スタニスワフ2世)。

国王選挙は、1万4000ものロシア兵がワルシャワを包囲する中で実施されました。

その結果、選挙は「なにごともなく満場一致で選出された」(スタニスワフ2世)。

ロシアに反発する声もありましたが、

スタニスワフはポーランド人、それもシュラフタ出身だったので、

ほとんど反対の声はなかったということです。

1767年には、ロシアは臨時議会を強行開催させ、

王国内の非カトリック教徒の権利を認めさせます(ロシアは正教会)。

当時、非カトリック(正教会・プロテスタント)は議員を出したり、

軍隊や行政機関で高い地位に就くことが認められていませんでした。

また、新しい教会を建設することも度々拒否されていたといいます。

議決の際には、議会はロシア兵に包囲され、議場内にも数名のロシア兵がいるという状態でした。

それでも司教たちが非カトリックの権利に反対する演説をしましたが、

ロシア兵は司教2名を逮捕、ロシアに送ります。

また、ポーランドの憲法はロシアの同意なしには変更できないことも認めさせました。

ここにポーランドは完全にロシアの傀儡国家となってしまったわけです。

シュラフタはバール連盟を作り、同じカトリックであるフランスやオーストリアの援助を得てロシアに抵抗しますが、一方で非カトリックである西ウクライナのコサックたちの反乱がおきたこともあり、1772年、ロシアに屈し、参加者たちはシベリア送りにされました。

(非カトリックに権利を認めることに反対する様子を、ヴォルテール「国民の4分の1が市民権を享受することを阻止するために」戦っている、と評した)

そしてこの年、ロシア・オーストリア・プロイセンによる第一次ポーランド分割が行われます。

分割を潔しとしない議員たちは議会に出席を拒否しました。分割反対派で出席した議員の一部は逮捕されました。その他の議員は賄賂(わいろ)を渡されていて、分割を認めてしまいます。

ロシアは9.2万㎢、オーストリアは8.3万㎢、プロイセンは3.6万㎢を得ました。

(ロシアは正教会地域・オーストリアはカトリック地域・プロイセンはプロテスタント地域)

面積では一番多いのはロシアですが、住民数ではオーストリアが一番でした。

一方、プロイセンが得た地域は面積は狭かったのですが、

グダンスク(ドイツ名はダンツィヒ)周辺の海に面した、経済的に豊かな地域を手に入れました。

これでポーランドは面積の30%、人口の35%を失いました。

このポーランド分割の背景には、

第一次露土戦争(1768~1774年)がありました。

オスマン帝国は隣り合うポーランドにロシアの勢力が伸びるのが好ましくなく、

フランスの後押しもあって、

1768年、バール連盟と戦っている途中のロシアに宣戦布告しますが、

オスマン帝国は陸に海に連戦連敗します。

(ロシアは1770年7月7日のラルガの戦いでは7万人のオスマン帝国軍を、7月21日のカグールの戦いでは15万人のオスマン帝国軍を撃破した。海では、バルチック艦隊を大回りさせて地中海に派遣し、1770年6月25~26日に行われた海戦でトルコ戦艦をほぼ全滅させることに成功した)

この状況を快く思っていない国がありました。オーストリアです。

オーストリアはバルカン半島は自身の勢力圏だと考えていたため、

ロシアがバルカン半島に進出するのを嫌がりました。

(この関係は第一次世界大戦まで変わってませんね💦)

オーストリアはオスマン帝国に協力してロシアと戦う準備を進め始めていました。

(1771年にはオスマン帝国を援助する秘密条約を結んでいた)

同じくポーランドを支援しているフランスも参戦するかもしれませんでした。

プロイセンのフリードリヒ2世はロシアと次のような条約を結んでいました。

どちらか片方が1つの国に攻撃された場合、もう片方の国は財政援助を行う。

どちらか片方が2つの国に攻撃された場合、もう片方の国は歩兵1万・騎兵2千を派遣する。

オーストリアも戦争に参加するとロシアは2国から攻撃されたという形となり、

プロイセンは援助だけではすまなくなる。フランスも加わると大戦争になってしまう。

フリードリヒ2世はこれを嫌がり、戦争を回避する案を考え出します。

それがポーランド分割でした。

ポーランド分割はロシア・プロイセン・オーストリア三者にとって得であり、

これでオーストリアはロシアに対して口をつぐんだのです。

つまりポーランドは大戦を抑えるための犠牲にされたのです。

第二次世界大戦前のチェコスロバキア(第二次世界大戦を抑えるために、イギリスなどがドイツがチェコスロバキアを併合することを認めた。この際、ポーランド・ハンガリーもチェコスロバキア分割に加わっている)を思い出させるできごとでした。

〇1791年5月3日憲法

1774年に第一次露土戦争が終結した後、クリミア半島周辺にあった国、クリミア・ハン国はオスマン帝国から独立を認められましたが、

ロシアの影響下に置かれました。

1776年にはロシアはクリミア半島で、黒海艦隊と、セヴァストポリ軍港の建設に着手し、

1783年にはロシアはクリミア・ハン国を併合してしまいます。

1787年にはエカチェリーナ2世の大々的なクリミア半島の巡行も実施されましたが、

これらがオスマン帝国をいちいち刺激しました。

同年、オスマン帝国はクリミア半島の巡行を挑発ととらえ、

ロシアに宣戦布告します。

すると、ロシアにオ-ストリアが味方につきました。

なぜかというと、バルカン帝国に勢力を伸ばしたいオーストリアのヨーゼフ2世(1741~1790年)と、

孫のコンスタンチン(1779~1831年)を皇帝とするビザンツ帝国の復活(ギリシア帝国)を目指し、ギリシャ・コンスタンチノープル周辺の獲得を目指すロシアのエカチェリーナ2世の思惑が一致し、

1781年にロシアーオーストリアは、ロシアが攻撃を受けた際にオーストリアはこれを援助する、という秘密条約を結んでいたからでした。

ロシア・オーストリアの攻撃を受けたオスマン帝国は各地で敗れていきました。

しかし、1789年には今を好機と見たスウェーデンがロシアを攻撃して戦争が起こったり(1790年、スウェーデンは苦戦しロシアと和平して戦争は終結)、

1790年にオーストリアのヨーゼフ2世が肺結核で死去し、跡を継いだ弟のレオポルト2世(1747~1792年)がオスマン帝国と単独で和平をして戦争から離脱したりするなど、

状況の悪化もあって、1791年12月にロシアはオスマン帝国と講和条約を結びました。

露土戦争中にロシアに攻撃を仕掛けたスウェーデンのように、

露土戦争を好機ととらえたのがポーランドでした。

ポーランドは今ならロシアの干渉を受けずに国を改革できると考えて、

1788年から4年にわたる議会を開催(四年議会)、

1791年には「1791年5月3日憲法」(統治法)を作り上げます。

この憲法は、以下のようなものでした。

「我々の制度の老朽化した欠陥」を認め、

「ヨーロッパがおかれている好機」を利用し、

「他国の屈辱的な命令や強制から自由に」なるため、

「祖国とその国境を守るために、断固たる決意をもって以下の憲法を定める」。

第1条 宗教の自由

第2条 シュラフタの権利の保障

(一方で、1791年4月に作られた法律では、一定数の税金を払わないシュラフタの参政権は認められないことになった。また、一定数の税金を納める者は、シュラフタ身分が与えられ、参政権が与えられることになった

第4条 農民

農民は、「よき配慮がなされ、法と国内統治権力の保護下に置かれなくてはならない」。「一定の土地を保有する農民は、それに付随する義務を排除することはできない」。

第5条 三権分立

「人間社会のあらゆる権力は国民の意思に端を発している。国家の統一や公民の自由や社会の秩序を…永遠に保つためには、…政治体制を3つの権力が構成せねばならない。」立法権・最高執行権・裁判権である。

第6条 立法権

議会は代議院と、国王を議長とし、司教・県知事・城代・大臣で構成される元老院から成る。「代議院は国民が全権であることの化身かつ統合体として、立法の聖域となる」。すべての議案はまず代議院で決議される。代議員で決まったことは続いて元老院に送られ、元老院に送られた法律が留保されたときは、次回の代議院に送られ、合意された場合は、採択される。議会は2年ごとに開催する。議決は全員一致制を廃止し、多数決制とする。 

第7条 執行権

執行権は法律の範囲内で行われる。執行権には、法の制定権・課税権・公債発行権・予算変更権・宣戦布告、講和を行う権利は含まれない。

国王は、世襲制とする。「秩序を転覆させた空位期による周知の混乱」の回避・「世襲制時代の我々の祖国の繁栄と幸福の記憶」・「外国やポーランドの有力者に王権への野心を閉ざす必要」があるためである。

ザクセン選帝侯家(1697~1763年までザクセン選帝侯家が国王を務めていた)が代々ポーランド王につくこととする。

国王は「自分を通じて何も」行えないので、責任を持たず、身の安全を保障される。専制者であってはならず、この憲法を守らなければならない。

戦争の際の最高指揮権は国王にあり、司令官の任命も国王ができるが、国民はこれを自由に変更できる。

大臣の更迭について、両院合同の無記名投票で3分の2以上の賛成があれば、国王は直ちに別のものを大臣にしなければならない。

第8条 裁判権

「裁判権は立法権、国王いずれによっても行使できない」(司法権の独立)。

県・地区・郡ごとに第一審法廷を置き、判決に不服な際は各州の大法院へ控訴ができる。

第10条 国王の子どもたちの教育

国王の子どもたちに「国の憲法への愛情を植えつける」ように教育は行われなければならない。

第11条 兵役の義務

国民は、「自分の領土を守ることを義務付けられる」。「軍隊とは、国民に由来する」。国民は、「軍隊に褒美を与え、軍隊に敬意を表する義務を負う」。「軍隊は国境守備と普遍的治安維持によって国民を守る、すなわち国民の最強の盾とならねばならない」。軍隊は「執行権の従属下に置かれ、国民と国王に忠誠を誓い、国民の憲法の擁護を誓わなければならない」。



〇第二次ポーランド分割


〇木戸孝允、ポーランド滅亡を語る

木戸孝允(1833~1877年)は1871年12月より、1873年9月まで、岩倉使節団の一員として欧米を回りました。

帰国後の10月、木戸孝允は演説をしましたが、その際にポーランド滅亡について触れました。

「…私は汽車に乗ってプロイセンからロシアに行くときに、悲しい笛の音色を聞いて目が覚めた。ガラス窓を開けると、ポーランドの住民がお金をめぐんでくれるように願っているのだった。私はポーランドの栄えていたときを思い、涙が流れるのを止めることができなかった。…」

原文:(…予火車に駕し、普より魯に行く、一暁悲に徹し、残夢たちまち破る、起ちて玻璃窓を推せばホーランドにして、土人の旅客に銭を乞うものなり、よってその盛時を追想し、涙禁ぜざるものこれを久しうす…

(※3ページ目以降は近日中に更新します!💦)

2023年2月8日水曜日

世界の国々のビックリ!(◎_◎;)な正式名称③~ポーランド・オランダ

 前回はメキシコの正式名称についての話をしました(メキシコの話をしたのが9月26日だったので、およそ4か月ぶり…(-_-;))が、

今回は「ポーランド」と「オランダ」!

関係がなさそうな二国ですが、実は意外なつながりがありまして…!?

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇ポーランドとオランダ

ポーランドは、ヨーロッパでは面積12位の国で、31万㎢、日本の82%ほどの面積。

人口はヨーロッパ8位、人口3780万で日本の30%程度。

日本と比べると人口密度は低いのですが、ヨーロッパの中では人口密度が高い国だということがわかります(面積順位よりも人口順位の方が高いので)。

ヨーロッパの民族は大きくゲルマン・ラテン・スラブに分かれますが、

ポーランドはロシアと同じスラブ系に入ります。

チェコなどもスラブ系です。

『物語 ポーランドの歴史』によれば、外国では

つづり(Poland)がにているので、オランダ(Holland)とよく間違われるそうです。間違うかな??(;^_^A

ちなみに、2020年1月1日をもって、オランダは通称のHolland使用を廃止して、

Nederland(英語読みだとthe Netherlands)のみを使用することに切り替えたんだそうな。

(観光ロゴもHollandとチューリップだったのが、Nederland(Netherlands)の略、NLとチューリップに変更された)

なぜなら、Hollandはオランダの一部地域(ホラント州)しか表さない言葉だからだとか。

日本は戦国時代から、Hollandのポルトガル語読みであるHolandaから、「オランダ」と呼ぶようになったのですが、

オランダはこの呼び方の変更は求めないそうですが

ネーデルラント(英語読みネザーランド)と呼ぶのが適切です。

ネーデルラントは「低い土地の国」という意味。

オランダの国土の4分の1は0メートル以下です。

フランスはオランダのことをペイバといいますが、これはフランス語で「低地」を表すんだそうな。

ちなみにポーランドも正しくはジェチュポスポリタ・ポルスカ。

「ジェチュポスポリタ」は共和国という意味で、

「ポルスカ」は「ポラン人の国」という意味になります。

「ポラン人」はポーランドを建国した民族で、「レフ族」というそうです。

またまたちなみに、「ポラン」は「平原」を意味する「ポーレ」から来ているそうです。

たしかにポーランドは平原が広がり、山地は南部の30%程度しかありません。

「ポーランド」は平原の国、という意味の英語読みです。

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