社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 第二次ポーランド分割につながった第二次露土戦争(1787~1792年)

2023年2月27日月曜日

第二次ポーランド分割につながった第二次露土戦争(1787~1792年)

 1772年、ポーランドは第一次ポーランド分割によって領土と人口の3分の1を失いましたが、

それでも現在のポーランドよりも1.6倍の面積(52万㎢)がありました。

現在でいうとヨーロッパ面積ランキング4位のフランス(55万㎢)とほぼ同程度です。

しかし1793年、そのポーランドは再び周囲の国々に分割されてしまいます。

第一次ポーランド分割の時と同じように、

分割が起きたのには理由があります。

今回は、なぜ第二次ポーランド分割が起きたのか?を見ていこうと思います🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇第二次露土戦争(1787~1792年)

1774年に第一次露土戦争が終結した後、クリミア半島周辺にあった国、クリミア・ハン国はオスマン帝国から独立を認められましたが、

ロシアの影響下に置かれました。

1776年にはロシアはクリミア半島で、黒海艦隊と、セヴァストポリ軍港の建設に着手し、

1783年にはロシアはクリミア・ハン国を併合してしまいます。

1787年にはエカチェリーナ2世の大々的なクリミア半島の巡行も実施されましたが、

これらがオスマン帝国をいちいち刺激しました。

同年、オスマン帝国はクリミア半島の巡行を挑発ととらえ、

ロシアに宣戦布告します。

すると、ロシアにオ-ストリアが味方につきました。

なぜかというと、バルカン帝国に勢力を伸ばしたいオーストリアのヨーゼフ2世(1741~1790年)と、

孫のコンスタンチン(1779~1831年)を皇帝とするビザンツ帝国の復活(ギリシア帝国)を目指し、ギリシャ・コンスタンチノープル周辺の獲得を目指すロシアのエカチェリーナ2世の思惑が一致し、

1781年にロシアーオーストリアは、ロシアが攻撃を受けた際にオーストリアはこれを援助する、という秘密条約を結んでいたからでした。

ロシア・オーストリアの攻撃を受けたオスマン帝国は各地で敗れていきました。

しかし、1789年には今を好機と見たスウェーデンがロシアを攻撃して戦争が起こったり(1790年、スウェーデンは苦戦しロシアと和平して戦争は終結)、

1790年にオーストリアのヨーゼフ2世が肺結核で死去し、跡を継いだ弟のレオポルト2世(1747~1792年)がオスマン帝国と単独で和平をして戦争から離脱したりするなど、

状況の悪化もあって、1792年1月にロシアはオスマン帝国と講和条約を結びました。

露土戦争中にロシアに攻撃を仕掛けたスウェーデンのように、

露土戦争を好機ととらえたのがポーランドでした。

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