1772年、ポーランドは第一次ポーランド分割によって領土と人口の3分の1を失いましたが、
それでも現在のポーランドよりも1.6倍の面積(52万㎢)がありました。
現在でいうとヨーロッパ面積ランキング4位のフランス(55万㎢)とほぼ同程度です。
しかし1793年、そのポーランドは再び周囲の国々に分割されてしまいます。
第一次ポーランド分割の時と同じように、
分割が起きたのには理由があります。
今回は、なぜ第二次ポーランド分割が起きたのか?を見ていこうと思います🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇第二次露土戦争(1787~1792年)
1774年に第一次露土戦争が終結した後、クリミア半島周辺にあった国、クリミア・ハン国はオスマン帝国から独立を認められましたが、
ロシアの影響下に置かれました。
1776年にはロシアはクリミア半島で、黒海艦隊と、セヴァストポリ軍港の建設に着手し、
1783年にはロシアはクリミア・ハン国を併合してしまいます。
1787年にはエカチェリーナ2世の大々的なクリミア半島の巡行も実施されましたが、
これらがオスマン帝国をいちいち刺激しました。
同年、オスマン帝国はクリミア半島の巡行を挑発ととらえ、
ロシアに宣戦布告します。
すると、ロシアにオ-ストリアが味方につきました。
なぜかというと、バルカン帝国に勢力を伸ばしたいオーストリアのヨーゼフ2世(1741~1790年)と、
孫のコンスタンチン(1779~1831年)を皇帝とするビザンツ帝国の復活(ギリシア帝国)を目指し、ギリシャ・コンスタンチノープル周辺の獲得を目指すロシアのエカチェリーナ2世の思惑が一致し、
1781年にロシアーオーストリアは、ロシアが攻撃を受けた際にオーストリアはこれを援助する、という秘密条約を結んでいたからでした。
ロシア・オーストリアの攻撃を受けたオスマン帝国は各地で敗れていきました。
しかし、1789年には今を好機と見たスウェーデンがロシアを攻撃して戦争が起こったり(1790年、スウェーデンは苦戦しロシアと和平して戦争は終結)、
1790年にオーストリアのヨーゼフ2世が肺結核で死去し、跡を継いだ弟のレオポルト2世(1747~1792年)がオスマン帝国と単独で和平をして戦争から離脱したりするなど、
状況の悪化もあって、1792年1月にロシアはオスマン帝国と講和条約を結びました。
露土戦争中にロシアに攻撃を仕掛けたスウェーデンのように、
露土戦争を好機ととらえたのがポーランドでした。
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