『信長公記』のマンガ化、まず首巻分が終わったので、
『信長公記』の後書き(池田家文庫本[数少ない太田牛一直筆4点のうちの一つ]巻十二の奥書[書籍の最後に書かれた文]…内容的には前書き)といえる部分を書いてみました😄
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇『信長公記』の筆者・太田牛一
太田牛一(読み方が不明なので音読みで「ぎゅういち」と読まれる。和田裕弘氏は『信長公記』で当時の人々は「一」を縁起のいい「勝」と同じ「かつ」と呼んでいたので、「うしかつ」と読むのが正しいとしている)は1527年、尾張で生まれました。通称は又助。名ははじめ信定といったようですが、後に牛一に改めます(信長死後?)。
初め尾張守護・斯波義統の家来。
1554年に斯波義統が殺された後に、織田信長の直臣となったと考えられます。
『信長公記』には、天沢和尚が武田信玄と会話している中に、
織田家の弓衆の3人のうちの一人として登場します。
(他の2人は浅野長勝[?~1575年。浅野長政の母の兄で、後に浅野長政を婿養子にする。豊臣秀吉の妻、ねねの養父]・堀田孫七[豊臣秀吉の鷹匠頭となった堀田一継の父?])。
弓の扱いに長けていたことは、堂洞砦の戦いの記述の中で触れられています。
上洛後は丹羽長秀付きの行政官となって主に京都付近で働いていたようであり、
織田信長の祐筆(書記官)であったわけではありませんでした。
『信長公記』は織田信長からの命を受けて公式に書きとめていたものではなかったので、
正確性に欠ける部分も散見されるのですが、金子拓氏によれば、「巻八(1575年)以後はきわめて正確」であるようで、この頃から意識して記録をつけるようになっていたようです。
角川文庫『信長公記』による、各巻のページ数を見てみると、
巻一(1568年)…10p
巻二(1569年)…10p
巻三(1570年)…20p
巻四(1571年)…8p
巻五(1572年)…10p
巻六(1573年)…24p
巻七(1574年)…12p
巻八(1575年)…30p
巻九(1576年)…14p
巻十(1577年)…16p
巻十一(1578年)…28p
巻十二(1579年)…42p
巻十三(1580年)…30p
巻十四(1581年)…36p
巻十五(1582年)…51p
…となり、巻十一(1578年)から特に詳述になっているので、
「巻八以後」というよりかは、巻十一以後、と見るのが適切でしょう。
太田牛一は織田信長死後は隠居しますが、後に豊臣秀吉の招きを受けて仕え、
再び行政官として働きます。
豊臣秀吉死後はその子の豊臣秀頼に仕え、1613年、86歳の高齢で死去しました。
『信長公記』は1600年前後に成立したとされていますが、
太田牛一は死ぬ頃まで『信長公記』の手直しを続けていたり、
各大名に『信長公記』を贈る際にも、その大名家に関する部分について変更・書き加えなどを行っていたりしたため、現在に伝わる写本は内容が少しずつ異なっているようです。
その中で最もポピュラーなのが、近衛家に伝わる史料を保管した「陽明文庫」所蔵の『信長公記』で、「陽明本」と呼ばれ、角川文庫から書籍となって1969年に発売されています。
他にも、角川文庫版より先に1965年に刊行された新人物往来社の『信長公記』[史料叢書]があり、こちらは町田家に伝わっていた、通称「町田本」を明治時代に発売したものをもとにしています(しかしこちらは原本の「町田本」は行方不明になっている(◎_◎;))。
それ以外で最近注目を浴びているのが天理大学附属天理図書館所蔵のいわゆる「天理本」で、2014年に『愛知県史資料編14』に収録された後、かぎや散人氏によって2018年に首巻部分が現代語訳されたのですが、首巻部分が他のバージョンの物と大きく異なる部分があります。
以上のように、内容が少しずつ違って伝えられている太田牛一の『信長公記』ですが、この『信長公記』の書名、正しくは『信長記』であったようです💦
それなのになぜ「公」をつけるのでしょうか。
江戸時代初期に、小瀬甫庵が(おそらく太田牛一の『信長記』をもとにして)物語風にまとめた『信長記』が多くの人に読まれた一方で、
太田牛一の『信長記』は一部の人にしか知られない存在でした。
(これは『三国志』と『三国志演義』の関係に似ている)
明治時代になってようやく太田牛一の『信長記』は刊行されますが、
その際に人々によく知られた小瀬甫庵の『信長記』と混同しないように「公」の字がつけられて『信長公記』となったようです。
本家なのにかわいそう…( ;∀;)
〇『信長公記』記述の自負
現在伝わる数ある『信長公記』の中で、岡山藩池田家に伝わる史料を保管した池田家文庫所蔵の『信長公記』(数少ない太田牛一直筆4点のうちの一つで貴重)は、15巻のうち巻十二だけは写本なのですが、その巻十二の奥書(書籍の最後に書かれた文)に、『信長公記』を書いたことについて、太田牛一が自分の思いを書いた部分があるので、それを紹介します。
「此の一巻、太田和泉守 生国 尾張国春日郡山田の庄 安食の佳人なり、
八旬(80歳)に余り頽齢(老齢)巳に縮まりて、
渋眼を拭い老眼の通路を尋ぬるといえども愚案(くだらない考え)を顧みず、
心の浮かぶ所禿筆(自分の文章力をへりくだって使う言葉)を染めおわんぬ、
予毎篇日記のついでに書き載するもの自然に集と成るなり、
曾て私作・私語に非ず、直にあることを除かず無きことを添えず、
もし一点の虚を書するときんば天道如何、
見る人はただ一笑をして実を見せし玉え
自元
内大臣信長公の臣下なり、其の後
太閤秀吉公臣下、今又
右大臣秀頼公臣下なり、
将軍家康公
関白秀次公
五代の軍記此くの如し、且、世間の笑草綴り置くなり
太田和泉守(花押)」
…私はもう80歳を過ぎ、目もしょぼしょぼして視界も狭くなってきていているのだが、くだらない考えと下手な文章でもってこの書物を書いた。
『信長公記』は、日記のついでに日々知ったことを書き留めていたものをまとめて書いたのであり、
実際にあったことは無かったことにせず、実際になかったことをつけ加えるようなことは一切していない。
もし一点の偽りでも書いているのであれば、天罰がおそろしい。
見る人は笑いながら内容を見ていただければ幸いである。…
『信長公記』内では、「~という良くないことをしたため、このような結末になってしまった、おそろしいことである」という箇所が何度も出てきますが、
太田牛一は因果応報を強く信じていたものと思われます。
そのため、太田牛一はおそらく本人の言うとおり、創作・脚色・捏造のたぐいはしていないと考えられます。
しかし、それは太田牛一本人のことであって、
当時書きとめていた日記には、自分が間接的に伝え聞いた事実が多数含まれていたでしょうから、その元ネタがあやまっていたり、脚色されたものであったりすることもあったでしょう。
例えば、斎藤道三の出自を書いた部分には、一代で成り上がったように書かれていますが、実際はそれは否定されており、親子二代で出世したことがわかっています。
そのため、確実に信頼できるのは、太田牛一が直接参加した戦い・上洛後は京都周辺で起きた出来事、に限られてくるでしょう。
しかし、誤伝であったとしても、当時生きていた人々から聞き知ったことであり、当時の人々がどういったイメージを持っていたかがわかるので貴重ではあります。
(斎藤道三が死んだ頃すでに30歳近くになっていた太田牛一が斎藤道三の出自をよく分かっていなかったことは興味深いと思うのです。斎藤家に仕えていた存命の人物も相当いたと考えられるのに)
「マンガで読む!信長公記」は、『信長公記』をベースとしながら、『信長公記』の内容を他の資料などで知りえた情報で補完しながら書き進めていきます。
太田牛一と同じく、創作・捏造はしないようにするつもりですが、マンガ的表現の脚色はあります(;^_^A
実際の織田信長に少しでもせまれるよう、微力を尽くすつもりです。
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