社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 4月 2024

2024年4月24日水曜日

「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事

 京都市は言わずと知れた日本有数の観光地ですが、その中でも特に観光客が多い観光地は、京都府ホームページによれば、2021年・2022年ともに、

①清水寺、②嵐山、③金閣寺…となっています。

そしてそれに次ぐのが、今回扱う「二条城」なのですね(2021年6位、2022年4位)。

この二条城は慶長8年(1603年)に徳川家康によって建てられたものなのですが、実はこの二条城は4代目であり、以前は別の位置にありました。

そして、二条城の2代目(と3代目)を作った人物というのが、あの、織田信長であったのでした…!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


● 二条城(旧二条城・義昭二条城)築城

本国寺の変で足がが義昭が危機に陥ったのを見て、信長が考えたことは「京都に城を築く事」でした。

『信長公記』には、信長は事態に対処できる備えが無ければならないと考えた、とあります。

また、『浅井三代記』には、信長が義昭に「今回の急難に遭ったのも、ただおられた場所が悪かったためです。そこで、もとの御所があった場所に普請を致します」と言ったと書かれています。

もとの御所というのは、義昭の兄、義輝が住んでいた御所のことです。

この御所について、『言継卿記』永禄7年(1564年)10月26日条には、義輝が「武家石蔵」を築くために「院御所御跡之虎石」を引っぱってきたという、とあり、石垣を築いていたことがうかがえ、1565年3月6日付のフロイスの書簡には、公方様の邸は非常に深い堀で周りを囲まれている、とあり、石垣だけでなく、深い堀で囲まれていたこともわかります。

このような状態となっていた御所について黒嶋敦氏は「「城」としての呼称がふさわしいものとなっていた」「義輝二条城と呼ぶことにしたい」と『天下人と二人の将軍』に記しています。

義輝が城と呼べる状態に改造していた御所ですが、この御所は「永禄8年(1565年)5月に義輝が暗殺された際に焼き払われ、跡地には真如堂が建てられていた」(『天下人と二人の将軍』)ようです。

(フロイスの書簡には、跡地に2つの寺院が建てられていた、とある)

もとの御所のあった場所に城を築くにあたって、この真如堂(天台宗の寺院)の存在が邪魔になるので、1月26日、信長は真如堂に対し、次の書状を出しました。

…真如堂のある所に、将軍の「御殿」を元のように作るので敷地を提供するように。替地として一条の西の四丁町を寄進するので、こちらに真如堂を再興されるとよろしい。

『言継卿記』1月27日条には、

勘解由小路室町にある真如堂の敷地に、光源院(足利義輝)が作っていた城を再興するという事で、織田弾正忠信長が奉行に命じて普請を始めた。これに立ち寄り、(信長と)しばらく雑談をした。

…とあり、真如堂に書状を出した翌日には早くも城の造営に取りかかっていたようです。

(この時任じられた奉行は『信長公記』には「村井民部・島田所之助」とあり、村井貞勝と島田秀満の2人であったようです。この2人は稲生の戦いの後に織田達成(信勝)の謝罪する場面でもセットで登場しています)

一方で、『言継卿記』の2月2日条には、

勘解由小路室町真如堂に、近日中に元のように「武家御城」を作り始めるという。

…とあり、あれ?普請が始まっていたんでないの?と思うのですが、

『信長公記』には、

「2月27日辰の一点鍬初これあり」(2月27日[1月27日の誤りか。まるまるひと月も間違っている💧]辰の刻(午前7~9時)の最初の30分(つまり7時~7時半の事)に鍬初をした)、とあり、

どうやら1月27日は鍬初の儀式が行われただけであったようです。

鍬初とは、「鍬入れ」とも呼ばれるもので、現在でも工事にあたって行われる地鎮祭(土地の氏神に土地を利用する許可を得て、工事の安全を祈願する儀式)の中で実施されています。

ふじイベントサービスのサイトによると、

「鍬入れの儀を行うために「盛砂(もりずな)」が設置されます。盛砂とは、砂を円錐形または台形に盛ったもので、通常その天辺に萱(かや)の葉を立てます。

【① 鎌(刈初の儀)】

整地するという意味を表し、鎌で盛砂の天辺に立てられた萱の葉を刈る動作をします。

【② 鍬(穿初の儀)】

基礎工事をするために土を掘ることを表す動作をします。鍬で盛砂を掘ります。掘るのは少しで良いです。

【③ 鎮物(鎮物埋納の儀)】

鎮物を埋納することを表す作法です。鎮物とは土地を鎮めるための物という意味があり、通常その時代の物を納めます。鎮物は神主によって行われます。

【④ 鋤(鋤取の儀)】

鎮物を埋めることを意味する作法です。鋤で鎮物に軽く盛砂をかける動作をします。」

…というのが「鍬初(鍬入れ)」の儀式の流れであるようです。

さて、鍬初を終えた信長は、2月から実際に普請に取りかかります。

『言継卿記』2月2日条には、

今日から「石蔵積」(石垣作り)が始まったという。尾張・美濃・伊勢・近江・伊賀・若狭・山城・丹波・摂津・河内・大和・和泉・播磨から石が運ばれてきて、西の方から普請が始まったという。

…とあり、まず石垣作りから始まったことがわかります。

この石垣作りについて、フロイスの『日本史』には、

「建築用の石が欠乏していたので、彼は多数の石像を倒し、首に縄をつけて工事場に引かしめた。領主の一人は、部下を率い、各寺院から毎日一定数の石を搬出させた。人々はもっぱら信長を喜ばせることを欲したので、少しもその意に背くことなく石の祭壇を破壊し、仏を地上に投げ倒し、粉砕したものを運んで来た」

…と書かれており、なんと、地蔵・石仏も石垣作りに利用した、ということが書かれています😱

これについては、実際に地蔵・石仏が使われていたことが発掘調査で判明しているようで、洛西竹林公園には、発掘調査で出土した地蔵・石仏を並べた場所が存在します。

そこに並べられている地蔵・石仏を見ると、首が無い物があったり、胴体の半分より下が無くなっている物があったりするのがわかります。

フロイスの「粉砕したものを運んで来た」という記述が確かだったことがわかるわけですね。

しかし、こんなことをして罰が当たるとは考えなかったのでしょうか😓

フロイス『日本史』には、「都の住民はこれらの偶像を畏敬していたので、それは彼らに驚嘆と恐怖の念を生ぜしめた」とあり、当時の人々も眉をひそめる行為であったようです。

しかし、信長は、「神(camis)や仏(fotoques)に対する崇拝や予兆・迷信といったものを軽蔑していた」(フロイス『日本史』)人物であり、そんなことはお構いなしだったようです😓超合理的精神の持ち主ですね。

さて、この石垣作りは驚異的なスピードで進んだようで、『言継卿記』の記述を見ると、

2月7日…西の方の石垣はだいたいが完成していた。高さは四間一尺(約7.6m)であるという。

2月14日…石垣は西側は完成し、南側も半分以上ができた。

2月19日…南西の石垣はだいたい完成していた。

3月7日…城の内側の石垣は今日完成したという。

3月11日…南御門の櫓揚げ(門の上に櫓を設置する事)が昨日行われた。寒嵐(冬の冷たい嵐)が吹いていたため、信長は外に出てこなかったので、代わりに三好左京大夫が大石引の指揮を取った。

3月28日…西門の櫓揚げが終わった。

4月2日…石垣は3重のものが完成し、南巽の「だし」(出丸)の石垣も完成、今は東の「だし」を作っていた。この部分は近衛の敷地であったが、みな奉公衆の屋敷となってしまった。「不運之至」である。

…という経過をたどったようです。

フロイスの書簡には、城壁の高さは身の丈の6~7倍もある箇所があり、城壁の幅は、7~8尋(約1.1~1.2㎞ある部分があった、とあり、これだけの立派な石垣(『乙津寺雑集』には「天下奇観」とある)を短期間で完成させたことは、『言継卿記』3月7日条に「驚目事也」と書かれているように、人々を驚嘆させることになりました(フロイスは書簡で、「感嘆に値するのは、この普請が信じることができぬほどの短期間にそれを成就したことで、少なくとも4、5年[『日本史』では2、3年と短くなっている]はかかると思われたものを、石普請に関しては70日間で完了した」とある)。

2024年4月17日水曜日

信長の三毬打(左義長)見物

 本国寺の変後の1月10日に京都に駆けつけた織田信長は、そのまま4月21日まで、約3か月にわたって京都に滞在することになります。

その中で、信長は京都で行われた行事を見物しているのですが、そこであるアクシデントが起こってしまうのでした…(;^_^A

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


●三毬打(左義長)

「左義長」という行事があります。

福井県勝山市の左義長がとくに有名で、杉や松の木を中央に据えて、それに竹を左右斜めに掛け合わせて四角錐の形となった「松飾り」と呼ばれるものに、役目を終えた正月飾りを中に入れ、藁で囲み、夜間に燃やす火祭りです。

現在は観光客のことを考えて2月に行われていますが、古くは小正月(1月15日前後)にあたる1月14日に行われていました。

この左義長はもともとは「三毬打」と書いたのですが、これは、馬に乗って毬を打ち、毬門に入れたグループを勝ちとする競技で使われる道具、毬打(ぎっちょう)を竹を組んだものに3つ結び付けていたことに由来しているそうです。

朝廷ではすでに鎌倉時代から行われていたようですが、室町時代になると、1月15日に加えて、18日にも三毬打を行うようになりました。

15日の三毬打は東庭で公開せずに行なった一方で、18日の三毬打は南庭にて一般の人々にも公開で行われ、しかも15日のものより大規模に実施されたので、15日のものを「小三毬打」を呼ぶのに対し、18日のものは「大三毬打」と呼ばれたそうです(村上紀夫氏『中近世の禁裏三毬打と大黒』)。

この公開された「大三毬打」は庶民に大人気となっていたようで、『言継卿記』には、

・見物に来た雑人(庶民)は近年では特に多かった。(永禄9年(1566年))

・見物の群衆が南庭に満ちていた。(永禄10年(1567年))

・大雪の中であったけれども、貴賤男女を問わず多くの者が見物に集まった。(永禄11年(1568年))

…と書かれています。

大人気であった「大三毬打」ですが、その中ではこんな事件も起きたようです。

暮れに三毬打が始まった。26・27本を燃やした。例年の如く、見物の者たちと聲聞師との間で喧嘩が起こり、負傷する者もあったという。危険な感じになってきているのはけしからぬことである。公家の家来たちもこれに加わっているとか。言語不可説不可説(まったくけしからぬ)。(天文17年[1548年])

ここで出てくる「聲聞師」について説明すると、芸能者の集団で、三毬打の際には内裏に呼ばれて、『お湯殿上の日記』によると、「ふえ。たいこ。つつみ。かつこ。はうなとにてはやしまいらする」とあり、笛・太鼓・鼓・鞨鼓を鳴らしたり、棒を振ったり、囃子(舞の調子を取るかけ声や演奏)を行なったりしたようです。

『言継卿記』を見ると、

・未明に参内した。三毬打は例年の如く聲聞師が囃子を行なった。(永禄9年(1566年))

・寅の刻(午前4時頃)、三毬打のため参内した。例年の如く聲聞師が囃子を行い、夜が明けるまでこれを行なった。(永禄10年(1567年))

・明け方、三毬打を例年の如く行なった。大黒以下の聲聞師は参内して囃子を行なった。(永禄11年(1568年))

…と聲聞師の活動が記されています。

篠崎東海(1686年~1740年)が書いた『故実拾要』には次のように、詳しく聲聞師の行う囃子の様子が書かれています。

左義長を焼く時に「陰陽師大黒」が囃子を行なう。先ず扇を持って清涼殿の庭の中央右の方に立ち、囃子を行ない、次に笹の枝を持った大黒が向かい合って囃子を行なう、次に鬼面をつけた子どもが短い棒を持って舞曲を行なう、次に面をつけ、頭に赤熊をかぶった子ども2人が太鼓を持って舞曲を行なう、次に小さい鞨鼓を前にかけて打ち鳴らしながら舞曲を行なう、舞曲の際には、他の者が笛・小鼓を鳴らして囃子を行なう。この間に、左義長に吉書(書初め。三毬打で焼くと書道の腕が上がるとされていた)を添えて焼くのである。

囃子で行うかけ声について、

唐土やおほん左義長やおほん、とはやしをどりて、火をもやす、京中の諸人あつまりミる」

と、中川喜雲が寛文2年(1662年)に『案内者』に記しています。

(信長が安土城を作った近江八幡市にある日牟礼八幡宮の左義長祭では、「チョウサ、ヤレヤレ」「チョウヤレ、ヤレヤレ」とかけ声をする)

ここまで聲聞師について紹介をしましたが、天文17年(1548年)の三毬打では、この聲聞師と見物の人々との間でなぜ喧嘩に発展するようなことがあったのでしょうか。

中川喜雲は『案内者』に次のように記しています。

左義長の竹を取った者勝ちで取って、弓を作り、小的を射れば、1年間疫病にかからずに済む、という言い伝えがあるので、皆この竹を欲しがって燃えているところに集まる。その年の恵方に向けて倒すのだが、このことをよく知らない者は、(恵方の方にいて)倒れてきた三毬打の火で髪の毛や衣服を焦がす。人々は倒れた竹を引き合い、奪い合って、手の内を火傷する者もいれば、騒ぎ争う者もいるという。

…竹をめぐって取り合いが起こるので、竹の近くにいる聲聞師が「邪魔だ!」ということで喧嘩になることがあったのでしょう😓

さて、ここまで三毬打(左義長)については話をしてきましたが、その理由は、織田信長と関係する事があるからなのですね。

永禄12年(1569年)の三毬打の様子を、『言継卿記』に拠って見てみます。

1月14日…明日禁裏で三毬打があるというのに、届くのが遅い。内侍所に行ってこのことを伝えると、堅く申し付けるとのことだった。山科大宅郷から三毬打用の竹が例年のように280本届いた[70門の分である](山科言継は三毬打を用意する担当であった)。三毬打10本を禁裏に進上した(進上したことを知らせる山科言継の書状には「三きつちやう」と書かれている)。

1月15日…自宅で三毬打3本を焼いた。暮れに参内し、東庭で三毬打を行なった。吉書を納め、蠟燭をもって火をつけた。例年の如く仕丁(朝廷の雑用係)が囃子を行なった。葉室(頼房)から注文していた藁が届いた。18日の三毬打用のものである。

1月16日…例年の如く、深草から18日の三毬打用の竹[9寸]4本、「しん竹」(真竹。心竹とも。三毬打の要となる大型の竹)1本などが届いた。

…ここまで、例年通りに準備が進んでいたのですが、

1月17日…明日の三毬打は延期になったという。諸国の衆が以ての外に集まっているからだそうである。

…いつも18日に行われていた三毬打が延期となってしまいます。本国寺の変後、義昭救援のために諸国から軍勢がかけつけてきていましたが、左義長を見物しようと集まり、いい場所を得ようと、物騒な雰囲気になったためでしょうか。

1月18日…明日に三毬打が行われることになった。織田弾正忠が三毬打の見物に来るという。また、警固もすると申し出てきたという。朝食後、例年のように、禁中で三毬打の準備を行った。

…しかし、左義長は1日延期しただけで行われることになりました。おそらく、朝廷の様子を見た信長が、混乱が起きないように警固を申し出てきたからでしょう。信長の部隊がいれば、諸国の軍勢も大人しくならざるを得ません。

そしていよいよ、信長参観のもと、三毬打が実施されます。

1月19日[天晴]…早朝に三毬打のため参内した。織田は日の出の後にやって来た。近習500人ほどを連れてきていた。その他の者たちは門外で警固にあたっていた。聲聞師が例年のように囃子を行なった。烏丸右中弁(光宣)が進上した三毬打が最も大きかったが、燃える中で足元が崩れ、平伏する形となったのは見苦しかった。

…連れてきたのが500人とはかなり多いですね😮しかもまだ門外にもいます💦

三毬打が倒れたまま燃えているのを見苦しい、と山科言継は言っていますが、この時はまだ恵方に倒す習慣が無かったのか、それとも、恵方に倒す前に早い段階で勝手に倒れたからでしょうか。

そしてこの三毬打の後、ある事件が起きます。

織田に小御所の庭で酒を賜ることになったが、(信長は)すでに到着しているのに、銚子がなかなか届かず、その間に(信長が)退出してしまった。「仕合せ不弁の至りなり」(物事を運ぶ様子が非常にまずかった)。

…見物に訪れた信長に、朝廷から酒が与えられることになったのですが、手違いからかなかなか酒が用意できず、しびれをきらした信長が帰ってしまった、というのです。

このことについて、今谷明氏は『信長と天皇』で、「信長が本心から朝廷を重んじていたとはとうてい考えられない」としていますが、桐野作人氏は「この一件だけで「尊王家」云々は大げさな議論だろう」と記しています(『織田信長』)。

実際、信長はこの後、朝廷に対していろいろと尽くす行動をとっていますし。

山科言継も信長の退出について、こちらの物事を運ぶ段取りがまずかった、と記しており、朝廷側からも、信長の行動はとんでもない、思いあがった態度だ、とはとらえられていなかったようですし。

まぁ信長も残っていればよかったとは思いますが、いったいどれだけ待たされたんでしょうね😅寒かったでしょうし、フロイスが『日本史』で「inimigo de dilações e grandes preambulos quando se com elle fallava」(信長は話をする際に、だらだらと話されるのと、長い前置きを嫌った)と書いているような、信長のせっかちな性格も関係していたでしょう。

●『言継卿記』の三毬打に関する記述(一部)

永禄9年(1566年)

1月14日…(山科家領の)大宅郷より、三毬打用の竹が今日送られてきた。三毬打70本分の280本であったが、100本不足しているという。

1月15日…自宅で三毬打3本を焼いた。三毬打10本を禁裏に進上した。

1月18日…未明に参内した。三毬打は例年の如く聲聞師が囃子を行なった。見物に来た雑人(庶民)は近年では特に多かった。

永禄10年(1567年)

1月14日…(山科家領の)大宅郷より、三毬打用の竹を巳の刻(午前10時頃)に持ってきた。70門の分280本であったが、10本不足しているという。禁裏用に10本、山科家用に3本、三毬打を用意したが、日が暮れかかってきていたので、禁裏には明日進上することにした。

1月15日…自宅で三毬打3本を焼いた。

1月18日…寅の刻(午前4時頃)、三毬打のため参内した。例年の如く聲聞師が囃子を行い、夜が明けるまでこれを行なった。見物の群衆が南庭に満ちていた。

永禄11年(1568年)

1月14日…(山科家領の)大宅郷より、例年の如く三毬打用の竹280本を持ってきた。

1月15日…吉書を入れた三毬打三本を焼いた。三毬打10本を禁裏に進上した。

1月18日…明け方、三毬打を例年の如く行なった。大黒以下の聲聞師は参内して囃子を行なった。大雪の中であったけれども、貴賤男女を問わず多くの者が見物に集まった。

永禄12年(1569年)

1月14日…明日禁裏で三毬打があるというのに、届くのが遅い。内侍所に行ってこのことを伝えると、堅く申し付けるとのことだった。山科大宅郷から三毬打用の竹が例年のように280本届いた[70門の分である]。三毬打10本を禁裏に進上した(進上したことを知らせる山科言継の書状には「三きつちやう」と書かれている)。

1月15日…自宅で三毬打3本を焼いた。暮れに参内し、東庭で三毬打を行なった。吉書を納め、蠟燭をもって火をつけた。例年の如く仕丁が囃子を行なった。葉室から注文していた藁が届いた。18日の三毬打用のものである。

1月16日…例年の如く、深草から18日の三毬打用の竹[9寸]4本、「しん竹」1本などが届いた。

1月17日…明日の三毬打は延期になったという。諸国の衆が以ての外に集まっているからだそうである。

1月18日…明日に三毬打が行われることになった。織田弾正忠が三毬打の見物に来るという。また、警固もすると申し出てきたという。朝食後、例年のように、禁中で三毬打の準備を行った。

1月19日[天晴]…早朝に三毬打のため参内した。織田は日の出の後にやって来た。近習500人ほどを連れてきていた。その他の者たちは門外で警固にあたっていた。聲聞師が例年のように囃子を行なった。烏丸右中弁が進上した三毬打が最も大きかったが、燃える中で足元が崩れ、平伏する形となったのは見苦しかった。織田に小御所の庭で酒を賜ることになったが、(信長は)すでに到着しているのに、銚子がなかなか届かず、その間に(信長が)退出してしまった。「仕合せ不弁の至りなり」(物事を運ぶ様子が非常にまずかった)。

2024年4月13日土曜日

信長が「将軍の手足を縛った」⁉~殿中御掟

 「手足を縛る」と検索すると、「手足拘束ベルト」なる商品(Amazon)が出てきます。

なんでこんなものが⁉と思ったら、認知症患者の介護用なんだとか。

厚生労働省が精神科病院に対して行った調査では、身体拘束の措置を取った例が、ここ10年で倍増しているそうです(2007年は6786人、2017年は12528人。しかし、都道府県によって実施率に顕著な差があり、埼玉の9.94%に対し、岡山は0.86%という)。

なぜ拘束するのかといえば、厚生労働大臣の定めた基準によれば、

ア 自殺企図又は自傷行為が著しく切迫している場合

イ 多動又は不穏が顕著である場合

ウ ア又はイのほか精神障害のために、そのまま放置すれば患者の生命にまで危険が及ぶおそれがある場合

…の場合に拘束が認められるとされ、「患者の生命を保護すること及び重大な身体損傷を防ぐ」のが目的なのだそうです(認知症になった人は自殺願望が大幅に増加するそうです)。

厚生労働大臣が定めた基準では、「代替方法が見出されるまでの間のやむを得ない処置として行われる行動の制限であり、できる限り早期に他の方法に切り替えるよう努めなければならない」とされています。

つまり、手足の拘束は基本行なうべきでない、やむを得ない場合に許される非常手段であることがわかりますが、

織田信長はなんと将軍義昭の「手足を縛った」ことがあるというのですね(◎_◎;)

この場合は比喩で、直接手足を縛るわけでは無く、「行動の自由を制限する」…将軍としてやれることを制限した、という意味になるのですが、

今回は、この信長が「将軍の手足を縛った」とされる掟について見ていきたいと思います!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


●殿中御掟

信長が上洛してから間もない1月14日に、「殿中御掟」という、室町幕府における規則が作られます。この掟は義昭の承認のもと、信長の名で出されたものでした。

この掟は、奥野高広氏が『織田信長文書の研究』で、「幕府の内部にたいし、信長の与えた掟であって、将軍の手足を縛ったといえよう。将軍と信長が不和となった姿が如実に見られる」としているものですが、実際、どのような内容であったか、見てみましょう。

①不断に召し仕わるべき輩 御部屋衆・定詰衆・同朋以下、前々の如くたるべき事

常に将軍の側に仕えるべき者たちについて述べたものです。

「御部屋衆」は、6代将軍足利義教によって設置された役職で、もともとは2人選ばれて、1日交替で将軍のすぐ側を警固する役職であったようです。その後は将軍の側に仕える役職に変わっていきました。信頼できるものにしか任せられないので、これに選ばれたものは側近中の側近であったと言えましょう。『永禄六年諸役人附』によると、御部屋衆に選ばれたのは、三淵藤英が代表する三淵氏や、大舘氏・一色氏などがいました。

「定詰衆」も、当番制で夜間に将軍の側に控える親衛隊と呼べる役職であったようですが、これは御部屋衆よりはランクは落ちるものの、将軍の近臣であったといえる者たちです。『永禄六年諸役人附』によると、一番から五番の5組編成となっていて、一番組には、以前にも登場した曽我助乗がいました。

「同朋」は、将軍の側に仕え、こまごまとした雑務を担当した僧のことです。

②公家衆・御供衆・申次、御用次第参勤あるべき事

常勤ではなく、将軍が求めた時に働く事になることになっていた役職。

「公家衆」というのは、朝廷に仕えながらも、将軍にも仕える者たちのことです。

「御供衆」は、将軍が外に出る際にその供を務める役職です。『永禄六年諸役人附』によると、一色藤長や、細川藤孝、上野秀政などがいました。

「申次」は、将軍に文書や届け物を取り次ぐ役職です。義昭が覚慶時代から仕えていた飯川信堅や、義昭が近江の矢島にいた時にこれを受け入れた矢嶋越中守定行などがいました。

申次については、掟の⑧に、

⑧申次の当番衆を閣き、毎事別人の披露あるべからざる事

…とあり、申次を通さずに将軍に文書や届け物を渡してはならない、と定められています。

③惣番衆の面々、祗候あるべき事

「番衆」は、将軍の警固を務める役職です。『永禄六年諸役人附』では、「詰衆・番衆」とセットで書かれており、どうやら定詰衆のもとで働いたようです。

祗候とは側で仕えることです。①の「不断に召し仕わるべき輩」と何が違うのかというと、将軍との距離でしょう。将軍近くに控える詰衆と違い、番衆は御所の警固や、将軍の外出時の警固を務める役職であったので、将軍と直接関わる機会は詰衆と比べて少なかったと考えられます。

④各召仕う者、御縁へ罷上る儀、当番衆として罷下るべきの旨、堅く申し付くべし、もし用捨の輩においては、越度たるべき事

将軍に直接仕える立場にないものが御所に入ろうとしたときは番衆が止めなければならない、というきまりです。

①~④について、池上裕子氏は『織田信長』で、幕府が再興して、新参者がいたり、さまざまな者が御所に出入りするようになったので、「動め方・奉公の仕方について明文化」し、決まった者以外は御所に入れないようにすることで、「御所内の秩序づけをはかったものである」としています。

これと同種であるのが⑨で、

諸門跡の坊官・山門衆徒・医・陰の輩以下猥に祗候あるべからず、付り、御足軽・猿楽は召に随って参るべきの事

…とあり、これは、僧侶・僧兵・医者・陰陽師が将軍と節度を越えて面会することを禁じたものです。一方で。足軽衆や猿楽の者たちは将軍に呼ばれたら対面が許されていました。足軽衆は合戦時に将軍の武力となる者たちで、以前に紹介したように、野村越中守や明智光秀がこれを務めていました。

⑤~⑦は政務や裁判に関するきまりです。

⑤公事篇の内奏御停止の事

訴訟について、奉行衆を通さずに将軍に直接訴えるのを禁止したものです。

「奉行衆」とは幕府の政務を担当する者たちのことです。

『永禄六年諸役人附』は、御供衆→御部屋衆→申次→詰衆(番衆)→奉行衆→足軽衆…の順番で書かれているので、高い地位にあったわけではありませんでした。事務方といったところでしょうか。

⑥奉行衆に意見を訪ねらるる上は、是非の御沙汰あるべからざる事

将軍が奉行衆の意見を聞いた際には、その意見の是非を問わずにそのまま採用されるように、というものです。

⑦公事を聞こし召さるべき式日、前々の如くたるべき

裁判の判決を出す日は今までと同様にする。

また、この2日後に、7条の追加が定められているので、これも見てみましょう。

⑩寺社本所領の当知行の地、謂なく押領の儀、堅く停止の事

寺院・神社の土地を横領することは禁止する。

これに関連しているのが⑯で、

⑯当知行の地においては、請文の上を以て御下知を成さるべき事

…とあり、土地を安堵してもらう際には、その土地が確かに自分の物であることを誓う請文を提出する必要がありました。

自分の物であるという証拠、ではないのがなんとも😓

まぁ、当時は神仏に誓ったことを違えた場合は罰が下る、と信じられていましたので、一定の効果はあったのでしょう(悪人には効果はありませんが…)

請取沙汰停止の事

有力な者に裁判や借金の取り立てを代わってもらう事を禁止する。

⑫喧嘩・口論の儀、停止せられ訖んぬ、若し違乱の輩あらば、法度の旨に任せて、御成敗あるべきの事、付り、合力人同罪

喧嘩・口論は禁止する。違反した場合は罰する。味方した者も罰する。

⑬理不尽に催促を入るる儀、堅く停止の事

正当な理由なく年貢などを催促することは禁止する。

⑭直の訴訟は停止の事

これは⑤といっしょです。どうしたんでしょうか。

⑮訴訟の輩在らば、奉行人を以って言上を致すべき事

これは⑧といっしょです。どうしたんでしょうか。

⑭・⑮がかぶっているのをみると、どうも、先の9条の掟とは対象が違っていたようです。

先の9条は幕府内部に対して、追加の7条は幕府外部の者に対して、という感じがします。追加の7条は「武士が」を守護とするとしっくりくるんですよね😕

さて、これまで掟の内容について見てきましたが、奥野高広氏の「幕府の内部にたいし、信長の与えた掟であって、将軍の手足を縛った」ものである、という評価は妥当なものであると言えるのでしょうか。

まず、先に述べたように追加の7条は将軍の権力に関わる事ではありません。

先の9条は将軍と関連するのでこれを見てみると、

⑤の将軍に直接訴えてはならぬ、というのは、将軍の権力を制限している!と言えなくもないですが、これを認めると奉行衆はなんのためにいるのか、ということになってしまいます。現在でも訴状は裁判所に出します。総理大臣に出す人はいないでしょう。

⑧の将軍に直接面会してはならぬ、というのも、将軍の権力を制限している!と言えなくもないですが、これを認めると申次はなんのためにいるのか、ということになってしまいます。会社の社長に会いたい時に社長に直接電話をかける人はいないでしょう。

⑥は裁判などの際に、奉行衆の意見を将軍はノーと言わずにそのまま受け入れなさい、というもので、将軍の権力を制限している!と言えなくもないですが、大日本帝国憲法でも、57条に「司法権は天皇の名に於て法律に依り裁判所之を行う」とあり、裁判は裁判所が行う、と書かれていて、天皇が裁判に関与することを認めていないのです。専門集団でなくて、1人の人間の独断で問題を採決しようとすると、公正な判断がしづらくなるのですよね。鎌倉幕府2代将軍源頼家は裁判に介入することが多く、これが公正さを欠いているという事で問題となり、結局、訴訟問題に頼家が関わることが禁止されることになっていますし。頼家の件もそうですが、将軍(や天皇)を責任から遠ざけることが、将軍(や天皇)を守る事にもつながるのです。

⑨は将軍が僧侶・僧兵・医者・陰陽師を過度に重用してはならない、ということになるので、将軍の権力を制限している!と言えなくもありません。

実際に、先代の将軍の義輝は、僧侶の道増や義俊、医者の曲直瀬道三らを重用し、外交に関わらせていました。

しかし、幕府の構成員でないものが政治に関わる、というのはどうなんでしょう。黒嶋敦氏は『天下人と二人の将軍』で、「彼らが将軍のもとに頻繁に伺候するのは、幕府にとって正常な状態とはいえなかった」と書いていますが、昔、僧侶の道鏡が称徳天皇に寵愛を受けて、一族が次々と昇進するなど、政治に深く関わった時は大騒動となりましたし、現代でも、韓国大統領の朴槿恵が実業家(シャーマンとも)の崔順実(自由に大統領官邸に出入りできた)に政治の機密情報を伝え、その意見に従って政治を行っていた、ということが世間に知られた時は大問題となりました(朴槿恵と崔順実は逮捕されている)。

徳川家康も崇伝や天海を重用したではないか、と言われるかもしれませんが、徳川家康の場合は幕府の草創期で知識人層が不足しており、僧侶に頼る必要があった、と擁護する点もありますし、過度に重用していたわけでもありません(この2人は騒動を起こすことなく、処罰を受けることなく死去している)。

そもそも、⑨は会ってはならない、と言っているわけではありません。過度な寵愛(贔屓)は国を乱すもとになるので、ほどほどになさってくださいね、と言っているのです。

⑥・⑨については、久野雅司氏は『織田信長政権の権力構造』で「天下」の「静謐」(秩序安定)のためには、「恣意・贔屓偏頗を排除した公平性」が必要であった、と書いています。「恣意」とは自分勝手、「贔屓」とは気に入った者を特別扱いすること、「偏頗」とは偏って不公平なことです。

つまりこの掟は世の中が治まるように、将軍の独裁を防ぎ、立憲君主的なものにするものであった、とも言えるでしょう。しかもこれは、幕府の権力を弱める内容の物であったわけでもありませんでした。

また、そもそも、⑥は先例を踏まえたものであったようで、設楽薫氏は『室町幕府の評定衆と「御前沙汰」』で、応仁の乱以降、裁判に関して、管領や評定衆が参加することが無くなり、もっぱら奉行衆だけが意見を述べるようになった、と記しています。

臼井進氏も『室町幕府と織田政権の関係について』で、この掟は「室町幕府が有していた以前の規定を幕府再興に当たり信長の構想した幕府を目指して改めて条文として再確認して規定したもの」であり、「織田信長と将軍義昭が相互に約諾したもの」である、と書いています。

信長がゼロから新たに作り、義昭に押しつけたものではなかった、というのですね。

…こうしてみると、この掟が、「将軍の手足を縛った」ものであるとはとても思えません。

それでは、「支配と秩序の安定をもたらすことを目的とした」(久野雅司氏『足利義昭と織田信長』)この掟はなぜこのタイミングで作られたのでしょうか。

桐野作人氏が、『織田信長』で「信長が上洛してすぐさま、殿中掟と追加を定めたのは、すでに前年の在京中から信長に訴訟や苦情が持ち込まれており、それへの対応策をあらかじめ考慮していたからだろう」とする一方で、

黒嶋敦氏は、前掲『天下人と二人の将軍』で、「たしかに殿中御掟は信長の名義で出されてはいるものの、信長がこのような幕府の司法業務にまで精通していたとは考えにくい。しかも、義昭の将軍就任後すぐに岐阜へ帰り、永禄12年正月10日に再上洛した直後の14日に殿中御掟が出されている。この間、信長が幕府の先例や司法体制について学んでいた痕跡もない」し、この殿中御掟で果実を享受できるのは奉行人を含む将軍側近集団であることから、「殿中御掟の基本スキームは奉行人らによって練られたものとするのが自然ではないだろうか」とし、掟を作った理由を、幕府を本来の姿に戻し、司法業務を推進するためである、としています。

黒嶋敦氏の意見の方が説得力があるように思えますね。後でも述べますが、この時期の信長は、幕政に関しては基本ノータッチで、幕府のことは幕府に任せている傾向が見られます。

しかし、黒嶋敦氏は「なぜこのタイミングなのか」という事は述べていません。

考えてみると、今回の本国寺の変をほぼ幕府の戦力だけで解決することに成功し、畿内における権力を不動のものとした幕府の勢威が向上している時期にあたり、そこにやって来た信長のお墨付きも得て実効性も付与された殿中御掟を出すことで、幕府を本来の形に復古し、幕府が主体となって「天下静謐」をめざしていくことを内外に印象付ける狙いがあった…というのは言いすぎでしょうか。

この時はまだ信長と幕府の関係は蜜月状態にあったといえるでしょう。しかし、両者の関係は次第に齟齬が生まれていくことになるのです…😨

2024年4月7日日曜日

大雪の中、本国寺へ急行~御後巻信長御入洛の事

  足利義昭が襲撃を受けた際、織田信長は岐阜にいました。

足利義昭のピンチを知って、信長はどう動いたのでしょうか…⁉

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

※マンガの2ページ目は都合により公開しません<(_ _)>

●馬借たちの「からかい」

『信長公記』には、1月6日、美濃の岐阜に(六条の合戦についての)報告が入った、とあります。

急報が入った日について、『細川両家記』は「1月5・6日」とし、『信長記』『足利季世記』『総見記』は『信長公記』と同じく「6日」としています。ここは6日でいいのではないでしょうか。

しかしそれにしても、報告が入るのが遅すぎやしないでしょうか😥

1月3日には三人衆方の軍は山城に入り、4日には本国寺に肉薄し、周囲を放火しています。

情報網の整備の違いはあれ、例えば、後の本能寺の変の際は、6月2日に起こったことが、翌日には遠く離れた越中国(富山県)にいた(しかも東部の魚津城)柴田勝家に伝わっています。

この報告の遅れの謎について、説明してくれているのが『足利季世記』で、

今回のことで、信長がすばやく上洛していれば、三人衆方はあっけなく敗れていただろうに、そうしていなかったのはなぜかというと、三人衆方が本国寺を襲うかもしれないという情報が(足利義昭のもとに)もたらされていたが、真実かどうかわからなかったので逡巡した末に、曽我兵庫頭を使者として派遣して村井民部少輔に相談し、村井が上意が心配されるのももっともなことです、と答え、信長に報告した、という経緯があったので、信長への報告が遅れることになったのである。

…と書かれています。

将軍方としても、三人衆方がまさか摂津・河内を突破してまっしぐらに本国寺を狙ってくるとは思いも寄らなかったのでしょう。

さて、報告を受けた信長が取った行動について、『信長公記』は、

信長はすぐさま上洛するように(領国の者たちに)命令し、自身は一騎でも京都に向かおうと、馬に乗った。

…と記しています。

原文は「一騎懸」とありますが、この後に馬借の者たちがついて行っている様子が書かれているので、一人で突っ走ったわけではありません😓

『信長記』にも、馬廻・近習を連れて出発した、と書かれています。

また、出発する前には、氏家卜全・伊賀(安藤)守就・稲葉父子・丸毛父子・近江勢に、本国寺救援のために即刻出陣せよ、と通達しています(『信長記』)。

丸毛父子は、丸毛長照(光兼とも。『信長公記』には「丸毛兵庫頭」として多数登場している)・兼利のことで、美濃国多芸郡の国衆であり、『総見記』では、永禄3年(1560年)に信長が美濃攻めをした際にこれを撃退した、と書かれています(以前にも紹介)。

『足利季世記』には、

諸勢にも京都に向かうように通達、特に近江衆は急いで出陣するように命じた。

…と書かれています。

続いて、『信長公記』は出発の際に起きた出来事を次のように記しています。

この時、馬借の者たちが荷物の重さが違うのではないかと「からかい」(負けまいとして張り合う・争う)を起こした。信長はこれを見て馬を降り、荷物を一つ一つ手に取って、「同じ重さである、急げ」と命令した。奉行の者がえこひいきをして、荷物の重さに違いをつけたのではないかと考えたので、こうしたのであった。

馬借は『日葡辞書』には「馬子、馬方」とあります。「馬借(Baxacu)馬子・馬方」とは、馬を使って物を運ぶことを職業とする者のことですが、運送業にとどまらず、米の販売なども行っていたようです。

寛正6年(1465年)の越前国(福井県北部)の定書(協定書)には、河野浦・今泉浦と山内(中山・湯谷[ゆや]・八田・別所・匂当原)の馬借が塩・榑(材木)を商売するときの取り決め(河野浦・今泉浦と山内で商売量を均等にすること、市場以外での売買を禁止すること[永正5年(1508年)の定書には、他国から塩・榑を運んできた船から直接買ってはいけない、他国に行って買ってはならない、村落に行って商売をしてはならない、とある。豊田武氏『中世日本の商業』には、「外来商人は、都市内の問屋へこれを持込み、小売を委託せねばならなかった。問屋の手を経ずして商取引の契約をなすことは、外来商人には殆ど禁ぜられていたのである。例えば、京都市民の食用に供せられる米穀は、地方より諸口を経、駄を以て陸続として搬入せられたが、それは必ず米場に着ける義務があり、住民への直接小売や小売商への直売は絶対に許されなかった」、堺から奈良への塩は、堺→馬借→問屋→座という移動を経た、と書かれている)が書かれています。

中学校の歴史教科書などには馬借は室町時代のところで登場しますが、11世紀に書かれた『新猿楽記』に「馬借」と書かれているので、すでに平安時代から存在していたようです。

しかし存在感が高まったのが室町時代で、米の販売をめぐってたびたび土一揆を起こしたので、1603年にポルトガル人が著した『日葡辞書』には先に述べた「馬子・馬方」以外に、「一揆・暴動」のこと、一揆・暴動が起こることを、「馬借が起こる」と呼んだ、と書かれるまでになっています。

さて、今回のエピソードでは、この馬借たちが積荷の重さをめぐって争っているのですが、なぜ争うのだろう?といまいちピンときません。

俺は重いのにあいつは軽い!あいつは楽だ、許せねぇ!…ということなのか?とも思ったのですが😅、『勧学講条々』によると、文永7年(1270年)、越前国藤島庄から運ばれた米は敦賀津に送られ、そこから馬借が近江高島郡海津に運んだが、この時、馬借は運ぶ米の量に応じて駄賃(馬で荷物を運ぶ運賃)が与えられた(この場合、荷物の量が多い時は1石につき1斗4・5升、荷物が少ない時は1石につき1斗)、とある(「荷のはやる時は1駄1石に1斗4升5升…、荷の無時は1斗…」)ので、運ぶ量が多いほど多くの賃金がもらえたようなので(他には、年未詳の越前の文書に榑運送の駄賃として1000支につき400文を支払うことを命じた物がある)、あいつは奉行にえこひいきされてたくさんの荷物をもたせてもらってやがる!許せねぇ!…ということでいさかいが起きていた、ということがわかります。

このいさかいに対し、信長は「激怒してだまらせる」という解決法は選択せずに、自ら荷物の重さを確認して、重さに軽重はない事を伝えるという方法でこれを解決しました。

時間が無い中で、あの信長がこのような解決法を取るのは意外な感じがしますね😐

その後について、『信長公記』は、

京都まで3日かかる所を2日で到着した。

…と記しています。

だいぶとばしていますね😦

Googleマップによれば、岐阜城から本国寺は121㎞、歩いて28時間で行ける距離だそうです。

「乗馬用品専門店ジョセス」さんのサイトによれば、日本の在来馬は人を載せて時速15㎞程度で走れるが、この速度を維持できるのは1時間だけだと書かれています。

つまり、(おそらく主要道各所に置かれていたであろう)馬を乗り換え乗り換え走れば、8時間で岐阜から京都に着けるという事になります。

そう考えると、2日かかった、というのは遅い気もしますが、先ほど紹介したように、信長は荷物を運ぶ馬借たちも引き連れていました。

荷物を載せた馬は走ることはできませんから、もちろん歩きます。

馬の歩くスピードは時速5㎞ほどで、1日に歩ける距離はMAX60㎞くらいなんだそうです。

そうなると、岐阜~京都の121㎞の距離を移動するには、まるまる2日必要になるわけですね。

しかも、この時は天候もひどく悪かったようで、『信長公記』には、「其節以外大雪なり」と記されています。そのため、人夫の者で凍死する者が数人出たといいます😨

この状況では進むスピードも遅くならざるを得ません。それでも2日で移動した、というのですから並大抵のことではありません。

『信長公記』には岐阜を出発した日、京都に到着した日が記されていませんが、『言継卿記』には、

10日、美濃より織田信長上洛、松永弾正小弼(久秀)も同行しているという。

…とあり、

『多聞院日記』の1月11日条にも、

松永久秀が昨夕に信長と共に京都に到着したという。

…と書かれているので、京都に到着したのは10日(の夕方)であることがわかります。

(『越州軍記』も、1月10日に駆けつけた、と書いている)

そうなると、出発したのは8日か9日ということになります(谷口克弘氏は2日かかった、というのを1泊2日として、『信長と将軍義昭』で「信長の岐阜出発が9日だったことは動かないと思う」と記している)。

一方で、『信長記』には、

7日に岐阜を出発した。…この日は近江の高宮に陣取った…8日早朝に高宮を出発して、この夜は勢田に着き、翌朝に本国寺に着いた。

…と詳しい行程が記されているのですが、こちらは到着は9日の朝となっています(『信長記』を参考にしたと思われる『足利季世記』『総見記』も同様)。

『信長記』の信憑性は低いので、信用ならんと切り捨てればいい所なのですが、

『言継卿記』には、

1日 巳の刻(午前10時頃)より雨 2日 晴 3日 晴 4日 晴 5日 晴 6日 晴 7日 雨 8日 晴ときどき雪 9日 晴 10日 晴。雪がちらつく。

…と京都における日々の天気が記されており、これを見ると、天候が悪いと思われるのは7日と8日しかないのですね。

美濃・近江・京都と場所は違い、局所的な悪天候はあったと考えられますが、京都の天気を美濃・近江にもあてはめるとするならば、9日出発だと、とても「以外大雪」になるとは考えられないのです😥

(しかも、そもそも論として、9日出発はどう考えても遅すぎやしないだろうか?6日に本国寺の変[六条合戦]は終結していたのだから、9日にはさすがにその情報が岐阜にも伝わっていたはずで、そうなると急ぐ必要もなくなる)

一方、『信長記』を信じるならば、悪天候である7・8日に美濃・近江を移動していたことになります。

『信長記』に書かれている7日・8日の移動距離は、岐阜~高宮間は60.1㎞、高宮~勢田間は47㎞で、1日の移動距離として適切なものであり、ここからも、『信長記』の記述はある程度信用できるのではないか、と思うのです。

『言継卿記』に10日に上洛した、とあるではないか、とお𠮟りを受けるかもしれませんが、当時は合戦の後の混乱した時期であり、また、『信長公記』には、わずか10騎(『越州軍記』では3騎)で六条に入った…とあり、この通りだとすると、京都の人に「信長」が入京した、ということが認知されず、入京がわかったのが1日遅れた可能性もあります。

一方で、『信長記』には、こんな記述もあります。

7日、京に向かう途中で次第に軍勢は増え、6千余となった。先陣は大津・勢田・野洲・永原に満ち満ちていた。

なんと信長は10騎ほどではなく、結構な軍勢を率いていたというのです😧

たしかに考えれば先に話が伝わっていたであろう近江勢が動いていないのはおかしいですよね。

これだけの軍勢が来たのならば、信長が来た、ということがわかりそうなものです。

しかし、次のように考えることもできます。

6千余騎が京都の近くまで進んだものの、本国寺に入ったのは信長などの10騎ほどであった…。

これなら『信長公記』との整合性も取れます。

『足利季世記』に、

途中で三人衆敗北の報を聞いて、喜ばれること限りが無かった。

…とあるように、さすがに6日に勝負が決していたことは信長に途中で伝わっていたでしょうから、6千余もの軍勢を本国寺に向かわせる必要はありませんでした。

以上から、1月10日に到着した、という『言継卿記』の記述が基本線とはなりますが、『信長記』の言う9日到着というのも可能性としてなくはないのではないか、というのが私の考えになります。

さて、本国寺に着いた信長は、本国寺が無事である様子を見て、大いに満足した(『信長公記』)後、足利義昭と対面します。

その様子について、『信長公記』は記していないのですが、『信長記』は、

(信長は)義昭公のもとに参り、無事でおられたのは、まことに天の扶けであります、と言って喜ぶこと限りなかった。

…と記述しています。

(※解説の残り部分は都合により公開しません<(_ _)>)

新着記事

「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事

  京都市は言わずと知れた日本有数の観光地ですが、その中でも特に観光客が多い観光地は、 京都府ホームページ によれば、2021年・2022年ともに、 ①清水寺、②嵐山、③金閣寺…となっています。 そしてそれに次ぐのが、今回扱う「二条城」なのですね(2021年6位、2022年4位)...

人気の記事