社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事

2024年4月24日水曜日

「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事

 京都市は言わずと知れた日本有数の観光地ですが、その中でも特に観光客が多い観光地は、京都府ホームページによれば、2021年・2022年ともに、

①清水寺、②嵐山、③金閣寺…となっています。

そしてそれに次ぐのが、今回扱う「二条城」なのですね(2021年6位、2022年4位)。

この二条城は慶長8年(1603年)に徳川家康によって建てられたものなのですが、実はこの二条城は4代目であり、以前は別の位置にありました。

そして、二条城の2代目(と3代目)を作った人物というのが、あの、織田信長であったのでした…!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


※漫画の2・4ページ目は都合により公開いたしません<(_ _)>

● 二条城(旧二条城・義昭二条城)築城

本国寺の変で足がが義昭が危機に陥ったのを見て、信長が考えたことは「京都に城を築く事」でした。

『信長公記』には、信長は事態に対処できる備えが無ければならないと考えた、とあります。

また、『浅井三代記』には、信長が義昭に「今回の急難に遭ったのも、ただおられた場所が悪かったためです。そこで、もとの御所があった場所に普請を致します」と言ったと書かれています。

もとの御所というのは、義昭の兄、義輝が住んでいた御所のことです。

この御所について、『言継卿記』永禄7年(1564年)10月26日条には、義輝が「武家石蔵」を築くために「院御所御跡之虎石」を引っぱってきたという、とあり、石垣を築いていたことがうかがえ、1565年3月6日付のフロイスの書簡には、公方様の邸は非常に深い堀で周りを囲まれている、とあり、石垣だけでなく、深い堀で囲まれていたこともわかります。

このような状態となっていた御所について黒嶋敦氏は「「城」としての呼称がふさわしいものとなっていた」「義輝二条城と呼ぶことにしたい」と『天下人と二人の将軍』に記しています。

義輝が城と呼べる状態に改造していた御所ですが、この御所は「永禄8年(1565年)5月に義輝が暗殺された際に焼き払われ、跡地には真如堂が建てられていた」(『天下人と二人の将軍』)ようです。

(フロイスの書簡には、跡地に2つの寺院が建てられていた、とある)

もとの御所のあった場所に城を築くにあたって、この真如堂(天台宗の寺院)の存在が邪魔になるので、1月26日、信長は真如堂に対し、次の書状を出しました。

…真如堂のある所に、将軍の「御殿」を元のように作るので敷地を提供するように。替地として一条の西の四丁町を寄進するので、こちらに真如堂を再興されるとよろしい。

『言継卿記』1月27日条には、

勘解由小路室町にある真如堂の敷地に、光源院(足利義輝)が作っていた城を再興するという事で、織田弾正忠信長が奉行に命じて普請を始めた。これに立ち寄り、(信長と)しばらく雑談をした。

…とあり、真如堂に書状を出した翌日には早くも城の造営に取りかかっていたようです。

(この時任じられた奉行は『信長公記』には「村井民部・島田所之助」とあり、村井貞勝と島田秀満の2人であったようです。この2人は稲生の戦いの後に織田達成(信勝)の謝罪する場面でもセットで登場しています)

一方で、『言継卿記』の2月2日条には、

勘解由小路室町真如堂に、近日中に元のように「武家御城」を作り始めるという。

…とあり、あれ?普請が始まっていたんでないの?と思うのですが、

『信長公記』には、

「2月27日辰の一点鍬初これあり」(2月27日[1月27日の誤りか。まるまるひと月も間違っている💧]辰の刻(午前7~9時)の最初の30分(つまり7時~7時半の事)に鍬初をした)、とあり、

どうやら1月27日は鍬初の儀式が行われただけであったようです。

鍬初とは、「鍬入れ」とも呼ばれるもので、現在でも工事にあたって行われる地鎮祭(土地の氏神に土地を利用する許可を得て、工事の安全を祈願する儀式)の中で実施されています。

ふじイベントサービスのサイトによると、

「鍬入れの儀を行うために「盛砂(もりずな)」が設置されます。盛砂とは、砂を円錐形または台形に盛ったもので、通常その天辺に萱(かや)の葉を立てます。

【① 鎌(刈初の儀)】

整地するという意味を表し、鎌で盛砂の天辺に立てられた萱の葉を刈る動作をします。

【② 鍬(穿初の儀)】

基礎工事をするために土を掘ることを表す動作をします。鍬で盛砂を掘ります。掘るのは少しで良いです。

【③ 鎮物(鎮物埋納の儀)】

鎮物を埋納することを表す作法です。鎮物とは土地を鎮めるための物という意味があり、通常その時代の物を納めます。鎮物は神主によって行われます。

【④ 鋤(鋤取の儀)】

鎮物を埋めることを意味する作法です。鋤で鎮物に軽く盛砂をかける動作をします。」

…というのが「鍬初(鍬入れ)」の儀式の流れであるようです。

さて、鍬初を終えた信長は、2月から実際に普請に取りかかります。

『言継卿記』2月2日条には、

今日から「石蔵積」(石垣作り)が始まったという。尾張・美濃・伊勢・近江・伊賀・若狭・山城・丹波・摂津・河内・大和・和泉・播磨から石が運ばれてきて、西の方から普請が始まったという。

…とあり、まず石垣作りから始まったことがわかります。

この石垣作りについて、フロイスの『日本史』には、

「建築用の石が欠乏していたので、彼は多数の石像を倒し、首に縄をつけて工事場に引かしめた。領主の一人は、部下を率い、各寺院から毎日一定数の石を搬出させた。人々はもっぱら信長を喜ばせることを欲したので、少しもその意に背くことなく石の祭壇を破壊し、仏を地上に投げ倒し、粉砕したものを運んで来た」

…と書かれており、なんと、地蔵・石仏も石垣作りに利用した、ということが書かれています😱

これについては、実際に地蔵・石仏が使われていたことが発掘調査で判明しているようで、洛西竹林公園には、発掘調査で出土した地蔵・石仏を並べた場所が存在します。

その場所にある説明板には、「発見された石垣には、自然石の他に石仏、供養碑、五輪塔、礎石、建材等が使用されていた」と書かれています。

また、並べられている地蔵・石仏を見ると、顔がはがされていたり、首が無い物があったり、胴体の半分より下が無くなっている物があったりするのがわかります。

フロイスの「粉砕したものを運んで来た」という記述が確かだったことがわかるわけですね。

しかし、こんなことをして罰が当たるとは考えなかったのでしょうか😓

フロイス『日本史』には、「都の住民はこれらの偶像を畏敬していたので、それは彼らに驚嘆と恐怖の念を生ぜしめた」とあり、また、軍記物語『浅井日記』には「卒爾の普請なる故に、山城中の寺社の石を取るなり。長政曰く、神を後にし己を先とする者、果して天の責あり。奉行等之を知らざる故云々」と書かれており、当時の人々も眉をひそめる行為であったようです。

しかし、信長は、「神(camis)や仏(fotoques)に対する崇拝や予兆・迷信といったものを軽蔑していた」(フロイス『日本史』)人物であり、そんなことはお構いなしだったようです😓超合理的精神の持ち主ですね。

『言継卿記』2月9日条には、武家御城の南の方の石垣普請で、石垣が崩れ、人夫が7・8人死んだという、とあります。これは単なる事故だとは思いますが、もしかすると…?

さて、この石垣作りは驚異的なスピードで進んだようで、『言継卿記』の記述を見ると、

2月7日…西の方の石垣はだいたいが完成していた。高さは四間一尺(約7.6m)であるという。

2月14日…石垣は西側は完成し、南側も半分以上ができた。

2月19日…南西の石垣はだいたい完成していた。

3月7日…城の内側の石垣は今日完成したという。

3月11日…南御門の櫓揚げ(門の上に櫓を設置する事)が昨日行われた。寒嵐(冬の冷たい嵐)が吹いていたため、信長は外に出てこなかったので、代わりに三好左京大夫が大石引の指揮を取った。

3月28日…西門の櫓揚げが終わった。

4月2日…石垣は3重のものが完成し、南巽の「だし」(出丸)の石垣も完成、今は東の「だし」を作っていた。この部分は近衛の敷地であったが、みな奉公衆の屋敷となってしまった。「不運之至」である。

…という経過をたどったようです。

フロイスの書簡には、城壁の高さは身の丈の6~7倍もある箇所があり、城壁の幅は、7~8尋(約1.1~1.2㎞ある部分があった、とあり、これだけの立派な石垣(『乙津寺雑集』には「天下奇観」とある)を短期間で完成させたことは、『言継卿記』3月7日条に「驚目事也」と書かれているように、人々を驚嘆させることになりました(フロイスは書簡で、「感嘆に値するのは、この普請が信じることができぬほどの短期間にそれを成就したことで、少なくとも4、5年[『日本史』では2、3年と短くなっている]はかかると思われたものを、石普請に関しては70日間で完了した」とある)。

(中略)※この部分の解説は公開いたしません<(_ _)>

『浅井三代記』には、次のような話が載っています。

普請は信長卿と長政の2人が請け負う事となった。信長卿の奉行は佐久間右衛門尉・柴田修理亮・森三左衛門、浅井方の奉行は三田村左衛門大夫・大野木土佐守・野村肥後守の3人であった。去年の箕作城攻めの際、浅井勢の動きが鈍かったので、信長卿の配下の者たちは浅井の足軽たちに対し密かに悪口を言った。浅井の者たちがこれを聞いて無念に思っていたところ、佐久間右衛門尉受け持ちの区域の者が、三田村左衛門大夫の受け持ち区域で水を入れ替えた。左衛門大夫の配下の者たちはこれを見て、「自分の持ち場で水を替えるはずではないのか」と言ったところ、「お前たちの持ち場に水を捨てずにどこに捨てるというのだ、浅井の「ぬる若」の者どもめ」と答えて、さらに水を替えようとしたので、浅井の足軽たちは黙っておれず、300人ほどが一斉に簣(もっこ)の棒をはずして佐久間の者たちと叩きあった。浅井の者たちは強くて佐久間の者たちを追い立てた。森・佐久間・柴田はこれを見かねて、刀のさやをはずして「かかれかかれ」と命令する。浅井方もかねてから無念に思っていたので、三田村・大野木・野村の3人が一斉に切ってかかった。浅井の者たちがこれを聞いて集まってきたので、森・柴田は立売堀川(たちうりほりかわ)まで追い立てられた。一方で、信長の者たちもこれを聞いて集まってきたので、浅井勢を二条まで追い下した。ここで浅井の者たち200ばかりがやって来て、また立売まで追い立てたところで、双方とも兵を引いた。この騒動で討たれた者は150人もいた。「合戦でもなかなかこれだけ死ぬことは無いのに、このような大きな喧嘩は見たことが無い」と京の人々は話し合った。森・柴田は信長にこのことを訴えに行ったが、信長は「去年箕作を攻めた時、浅井が鈍かったのでお前たちの家来の者たちが悪口を言ったのだろう。浅井は弓矢の誉れがある家である。がさつなことを言っておいて不覚を取るようなことをするな」、と答え、たいしたことのないように取り扱ったので、森・柴田も動くにも動けなくなってしまった。浅井はこの喧嘩のことを聞いて、信長方が攻め寄せてくると考えて清水寺の備えを固めていたが、翌日、公方の仲介によって両者は和睦した。

この事件について『東浅井郡志』は「浅井三代記に記するが如く、信長の将吏と言を以て相争い、殺傷数百人、義昭の両家を和するに至りて、乃ち止みし事はあらざるなり」とし、創作であろう、としていますが、無かったという証拠も無いので、実際にあった事かもしれません。

しかしこれだけの大事件について、『言継卿記』が何も書き記していないのは不自然なので、やはり創作という線が濃厚なのかもしれません😓

さて、この事件からも、大人数の規律を保たせるのは難しい、ということがわかります。

何より、諸国から集まった軍勢は、本国寺の変が解決して、すぐに帰国できると思っていたのに、それから2か月以上も二条城の普請に駆り出されることになったわけで、不満はたまっていたと考えられ、ちょっとしたことで発火して喧嘩に発展する危険性をはらんでいました。

(後略)※この部分の解説は公開いたしません<(_ _)>


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