社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 帝人事件~戦前最大の疑獄事件

2024年5月5日日曜日

帝人事件~戦前最大の疑獄事件

 朝ドラ「虎に翼」で主人公の父親が逮捕された共亜事件。

この元ネタとされているのが、1934年(昭和9年)に起こった帝人事件でした。

どのような事件であったのか、見ていこうと思います!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


(続きは近日中に更新します)

●帝人(帝国人造絹糸)と台湾銀行

台湾は1894~1895年の日清戦争の後、日本領となっていましたが、

この台湾でとれる樟脳(クスノキからとれ、カンフルともいう。医薬品や香料の原料)や砂糖についての利権を獲得したのが鈴木商店で、

鈴木商店はその後急速に発展、鉄鋼やビールなどにも手を伸ばしていきましたが、

手を出したもののうちの1つが人造絹糸(略して人絹。レーヨンともいう)で、これは、薬品によって綿糸を絹糸に似たものに加工した製品でした。

人々はつややかな絹糸にあこがれを持っていましたが、高価で手を出せていませんでした。しかし、人絹は絹糸に比べて安価であったので、人絹は爆発的は人気を持つに至ります。

この人絹を扱う鈴木商店の子会社の「東工業」が山形県の米沢製糸場を買収して設立したのが米沢人造絹糸製造所で、これは第一次世界大戦下でヨーロッパから人絹の輸入がストップしていた間隙をぬって発展を遂げて、1918年に株式会社となり、社名は「帝国人造絹絲(略して帝人)」となります。

このようにして帝人は誕生したわけですが、その親会社の鈴木商店は第一次世界大戦終了後に大戦景気が終息して一気に経営が悪化していきます。

この鈴木商店と強い癒着関係にあったのが台湾銀行で、台湾銀行の貸出金額7億円のうち、なんと3億5千万は鈴木商店に貸し出されていました。

台湾銀行のみならず、銀行全体が苦境に陥ったのは1923年の関東大震災で、日本に大規模な被害が出ましたが、企業も大打撃を受けます。

なぜなら、企業は銀行から金を借りて、新たな設備投資を行なっていたのですが、これが大震災で破壊されてしまったので、借金返済が難しくなってしまったからです。

このため、銀行は企業に貸し出していた金の回収のめどが立たなくなり(いわゆる「焦げ付き」)、経営状態が悪化していきます。

その中で、1927年、若槻礼次郎内閣の大蔵大臣、片岡直治が国会において、実際は破綻していなかったのにかかわらず、「東京渡辺銀行が破綻いたしました」としゃべってしまったのがきっかけとなって、人々は銀行が危ない、倒産する前にお金を引き出さないと、と続々と銀行を訪れ、取り付け騒ぎが発生します。

銀行は預金を企業に貸し出して利益を得ているのですが、その貸したお金が大震災により返ってこない状態にある訳ですから、金庫には預金分のお金はなく、預金者に変えそうにも返せないわけです。

そのため、銀行は続々と倒産していくことになります(金融恐慌)。

この中で、台湾銀行は苦しむ鈴木商店に、返ってくる見込みのない追加の貸し出しを続けていましたが(倒産されると貸し出し総額の半分が返ってこなくなるため)、遂に見切りをつけることを決断し、3月26日、鈴木商店に対する貸し出しを停止することを発表します。

これを知った人々が台湾銀行から預金の回収を進めたため、台湾銀行は破綻の危機を迎えますが、台湾銀行が破綻することの危険性を知っていた政府は、なんと6億円もの資金を投入して、台湾銀行を救済しました。

一方で、自転車操業が不可能となった鈴木商店は4月5日に倒産しています。

これに伴い、帝人は独立企業となりましたが、鈴木商店と協力関係にあった台湾銀行は帝人の株を貸し出しの担保として大量に保有(40万株中22万株)していたため、帝人と台湾銀行の関係は残っていました。

独立した帝人を待っていたのは空前の「人絹ブーム」でした。

当時、日本円は円安が進んでおり、そのために輸出(主にアジア・アフリカ・オセアニア)が好調となったこともあり、人絹は売れに売れました。

昭和9年1月21日の時事新報には、「昨年は人絹万能時代を出現した。日本・倉敷・旭を初め増資または株式払い込みをして工場の大拡張をやる。三井の東洋レーヨンは株式を公開する。金を附けても貰い手のなかった町田徳之助君の東京人絹までが三、四割も儲かるようになる。新たに宮島君の日清レーヨンや岩崎清七君の国光レーヨン、さては金光庸夫君の日本人造羊毛をはじめ雨後の筍のように続出する。で、レーヨンでなければ夜も日も明けなくなった」とその「人絹黄金時代」の様子が書かれているのですが、これにあるように、絶好調な人絹関係の企業の株式は高騰していっていました。

帝人株は鈴木商店倒産(1927年)の頃は40円台をつけることもあったのが、1932年内には157円にまで上がっており、この株価はさらなる上昇が予想されていました。

こうなってくると、人々は帝人株が喉から手が出る程に欲しくなります。

先ほどの1月21日の時事新報には、「人絹事業中の玉ともいうべき帝国人絹株が台湾銀行の金庫の中で欠伸をしているのをなんで見逃そう。大小有象無象が手を替え品を替え、台銀島田頭取の処に参詣するに至ったのである」とその熱狂ぶりが記されています。

そしてこの帝人株をめぐって帝人事件が起こる事となるのです…!😥

●帝人事件のきっかけを作った「番町会を暴く」

1934年1月17日から、『時事新報』紙面上に「番町会を暴く」と題した連載が始まりました。

第1回は次の文章で始まっています。

「何が目覚しいといって、近頃番町会の暗躍位目覚しいものはない。寧ろ凄じいと云った方が良かろう。いや凄じいでもまだ足らぬ。全く戦慄に値するものがある。実際経済会社では、最近この一派の猛烈な暗躍に、非常な戦慄を感じているものが少くない。とりわけその一派の副総理格たる中嶋君が商工大臣になってから、この一派の暗躍は悪化した。実は中嶋君の商工大臣になったことそのことが既に此の一派の暗躍の結果だというが朝にいて中嶋君が大臣の名刺を振り廻し、野に物凄い面々が腕節を誘って、上下挟撃ちで経済界を掻廻すのである堪まったものではない。」

「番町会」なるグループが、経済界を牛耳って、やりたい放題をしている、というのですね😧

この「番町会」とは、どのようなグループなのでしょうか。

「番町会は今から12年前の、大正12年2月に旗揚げしたものである。酒と女には目がないが、我利亡者の多い財界には珍しい金に恬淡で、太っ腹の郷誠之助君を取巻く、少壮実業家連が、その太っ腹と親分肌を見込んで郷君とその弟分であり、秘書格である中嶋久万吉君を中心に、会員は互に精神的にも物質的にも助け合うという誓約を交し、別に会則などは設けなかったが堅い団結を作るに至ったものである。…そして毎月十四日の夜、全会員は麹町番町の郷君の邸に集まり、郷君、中嶋君から何か修養になる話を聞くということにして来たのである。…会の名を番町会というのは、こうして御大郷君の邸が番町に在って、その月々の修養会をそこで開くところから、いつとはなしに番町会というようになったのである。…会員数は初め9人であったものが、現在は11人となっている。…さてしからば専属役者たる番町会正会員11名の顔触れは如何、次に示す如く、中には真面目な人もあるが、大部分は相当風雲を起し兼ねまじい面々であり、その関係会社を見れば、如何に一派の手が各方面に延び、その職場が広いかに驚かされる。

河合良成君 (東京商工会議所議員、福徳生命専務、帝国火災、菊池電気軌道、日本ビルディング、中央毛糸紡績各取締役帝国人絹、留萌鉄道、東京湾汽船監査役)

永野護君(東京商工会議所議員、帝国人絹、大宮瓦斯、東京湾汽船、山叶、日本レール、東洋製油、東華生命各取締役、横浜取引所、南部鉄道各監査役、日本放送協会関東支部監事)

後藤圀彦君 (成田鉄道副社長、池上電気鉄道、京成電気軌道、京成乗合自動車各専務、王子環状乗合、王子電軌、北海道鉄道、京王電軌、渡良瀬水電、日本商事、大正生命各取締役、西武鉄道、玉川電気各監査役)

中野金次郎君 (東京商工会議所副会頭、国際通運、大日本自動車保険、大北火災海上、運送相互保証、門司合同運送、東京合同運送、横浜、京都、大阪、神戸各駅合同運送、郵船運輸各社長、上毛電気、朝鮮運送各取締役、日本空中電気鉄道監査役)

伊藤忠兵衛君 (伊藤忠商事、呉羽紡績、富山紡績各社長、三光紡績取締役)

金子喜代太君 (東京商工会議所議員、大阪石綿工業会長、浅野セメント、日本セメント各専務、浅野山倉製鋼、関東運輸、日之出汽船、富士製鋼、浅野スレート、浅野造船所、日本ヒューム鋼管、小倉築港、南部鉄道、日魯漁業、伏木板紙、三岐鉄道、浅野ブロック製造、青梅電気、五日市鉄道、信越木材、内外石油各取締役、関東水力電気、浅野物産、浅野石材工業各監査役)

春田茂躬君 (中日実業、大東京鉄道各専務、東亜土木企業、礼豊洋行各取締役、東洋塩業、大正電気各監査役)

渋沢正雄君 (昭和鋼管社長、富士製鋼社長、汽車会社、実用自動車、石川嶋造船、同自動車、同飛行場、秩父鉄道、大阪乗合、フラー建築、日本建築各取締役)

岩倉具光君 (合同運送専務、タクシー自動車、桜セメント、東亜石灰各取締役、阪急電車監査役)

正力松太郎君 (読売新聞社長)」

そうそうたる顔ぶれですね…💦

あの伊藤忠商事の伊藤忠兵衛、あの読売新聞の正力松太郎、あの浅野財閥の中心企業である浅野セメントの専務である金子喜代太、そして、あの渋沢栄一の子の渋沢正雄、あの岩倉具視の孫の岩倉具光😧

さて、この番町会が、先にふれた、帝人株の取得に向けて動き出すのですね。

「番町会を暴く」によれば、まず、台湾銀行の帝人株は、愛国生命の原邦造のもとに渡る予定であったといいます。台湾銀行の島田頭取の考えとしては、原邦造は稀に見る人格者である、大量の帝人株を手にしても、帝人を自分の都合のいいようにしようとすることはしないだろう、というものであったそうです。

その後の経緯について、「番町会を暴く」に書かれていることを要約すると、次のようになります。

…しかしこれに待ったをかけたのが番町会のメンバーの河合良成で、島田に言う事を聞かせるために、台湾銀行の監督官庁である大蔵省に影響力を持つ、元大蔵大臣の三土忠造に動いてもらうことにした(河合と三土は遠縁でもあるという)。中島が三土に会った際、「台銀所有の帝人株を河合の手に渡すようにしたいが骨折ってくれないか」と言った。すると三土は「それは会えば私からも話するが正力君を頼んだが良かろう」と答えたので、話は「凄腕」の正力松太郎に回り、正力は黒田英雄大蔵次官を動かし、黒田が島田に話をするに至って、ついに台湾銀行は1933年5月にその保有する帝人株22万株のうち11万株を1株あたり125円(正しくは1円手数料を加えて126円)で手放すことになった。河合はこの11万株を根津嘉一郎(「鉄道王」と呼ばれる東武鉄道社長)、原邦造、中島久万吉と相談し、それぞれの関係筋に分割した(河合系は21500株、本人は500株にとどまる。根津系は23000株、原邦造は1万株。その他、伊藤忠兵衛が8300株など)。この帝人株は直後から急騰して、1株190円にまで至った。その差分は台湾銀行の損という事になる。台湾銀行は国家による貸し出しを受けているので、帝人株の処理はできる限り有利に処理して、返済に宛てなければならないはずであるのに、株価が暴騰すると思われていた情勢であったのにかかわらず、有利に処分できなかったのは、背任行為と言われても仕方がない。

また、時事新報の社長、武藤山治は1月18日に「本社は何故に番町会の問題を取り上げたか」で次のように言っています。

本社が此問題を捨て置き難きものと考えた主たる理由は、世間に問題にされている是等株式の売渡値段の当否にあるのではない吾々が此問題を最も重要視するのは、是等の株式は普通銀行の担保流れと違っている点である。台湾銀行は昭和2年の恐慌に際し何に依って救われたか、言うまでもなく我国民に6億円という多大の損失を負担せしむるに至った彼の特融法の御蔭である。して見れば台湾銀行の担保物は公有物とも見らるべきものである。即ち一円でも高く売上げて国庫の損失を軽めるべき義務あるは勿論、其処分方法に到っては極めて公明正大でなければならない。然るに台湾銀行の当事者は、之が処分に当って之を公売するの手段を採らず特融の監督取扱の責任者たる日本銀行の之を認可したるは如何なる理由に依るか、是れ第一に糺さねばならぬ点である。今回の如き問題の起るのも、元はと言えば台湾銀行が不透明なる売却手段を採った為めである。吾々は固より悪人を善人にする力は持たないが吾々の此問題を取上げたのは悪人に利用せらるる善人の反省を促し、斯の如き重要事件に対する世上の監視を要求する故である。今回の問題は単なる実業界に於ける通常一般の利慾問題でない。これを此儘にして置けば折角浄化されんとしつつある政界の腐敗をさえ再び誘発する危険がある。国家社会を思う正義公平の観念に富む人々は、何人と雖も我社の此挙を是なりとせらるることを信じて疑わない」

公売によらず、内々で帝人株のやり取りをしたのが問題だ、と言っているのですね。

まとめると、今回の事件の問題点は次の2つにしぼることができるでしょう。

①台湾銀行は国の貸し出しによって救われたのだから、少しでも高い価格で帝人株を売って、返済に充てるべきであったのに、そうしなかったこと。

②公有物ともいえる帝人株を公売の方法をとらず売却したこと。

まぁ、新聞を読んだ人々は、「一部の者たちが権力に物を言わせてうまい汁を吸った」ことに怒りを感じたと思うんですけどね。

さて、この「番町会を暴く」は、大きな波紋を呼び、一大騒動に発展していくことになります。


0 件のコメント:

コメントを投稿

新着記事

「「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事」の5ページ目を更新!

   「歴史」 の 「戦国・安土桃山時代」 の [マンガで読む!『信長公記』] のところにある、 「「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事」 の5 ページ目を更新しました!😆 補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!

人気の記事