社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 1月 2023

2023年1月26日木曜日

「一票の格差」とは?

 2023年1月25日、最高裁判所は、

2021年に行われた衆議院議員総選挙の「一票の格差」をめぐる裁判で、

「合憲」とする判断を示しました💦

「一票の格差」ってよく聞きますけど、

何が問題なんでしょうか?

何が憲法に違反しているんでしょうか?

なぜ最高裁判所は憲法に違反してないよ、と言ったんでしょうか?

それについて今回は取り上げてみました(;^_^A

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇「一票の格差」とは?

今回の裁判を起こした弁護士グループは、

裁判を起こした理由について、次のように述べています。

「『1人1票』を要求する憲法に違反している」

「国会議員の多数決の結果が、国民の意思と一致していない」

どういうことでしょうか?

まず、①1人1票を要求する憲法に違反している、ですが、

憲法を見ても、「1人1票」とはどこにも書かれていません。

選挙について憲法に書かれているのは、

「成年者による普通選挙」

「投票の秘密」

だけです。

なので、関係がありそうな条文は、

12条の「法の下の平等」ということになります。

これは、法律では全ての人を平等に扱いますよ、ということです。

選挙に関する法律は、「公職選挙法」です。

公職選挙法を見ると、第36条に「投票は、各選挙につき、一人一票に限る」とあります。

みんな1人1票と書いてあるのだから、平等に扱っているのでは?と思いますが、

弁護士グループの方たちは、

「その公職選挙法に書いてある選挙の区分けがおかしいせいで、

実際は1人1票になっていない」と言うのです。

現在、衆議院小選挙区は、例えば東京は25区、鳥取は2区に分かれており、

東京からは25人の国会議員が選ばれ、鳥取からは2人の国会議員が選ばれることになっています。

東京は鳥取の12.5倍も国会で投票権を持つ代表者(国会議員)を出せるわけですが、

有権者(投票できる人。つまり成年者)は、東京は鳥取の24倍いるのです。

本当は48人代表を出せるはずなのに、約半分の25人しか代表を出せていない。

これでは投票券は半分の価値しかないじゃないか…。

この状態を、弁護士グループは

「東京の人は鳥取の人と比べ、投票価値が半分しかない。本当にこのままでいいのか」と言います。

そして、このようにズレがある状態だと、国民の多数意見=国会議員の多数意見とならない、これでは国民主権ではなく、国会議員主権になる、というのです。

とてももっともな感じがしますが、

反対意見もあるのです。

なぜかというと、多数意見=人口の多い都会の意見、になります。

そうなると、都会を重視した政策ばかり取られて、地方はなおざりにされてしまいます。ただでさえ立場が弱いのに。ますます人が都会に行っちゃいます。

弁護士グループの言っていることももっとも、

反対意見ももっともです。

そうなると、選挙制度がまずい、ということになります。

例えばアメリカでは、上院と下院に分かれていますが、

下院は人口比で議員が決められるのに対して、

上院は、人口に関係なく、各州で2名ずつ選ばれます。

つまり、下院は都会有利、上院は地方有利と、バランスを取っているわけです。

日本の参議院は、衆議院のコピーで、意見の違いが見られない、無駄だ、という意見もあるのですから、日本も、このようにするといいと思うのですが、いかがでしょうか…。

※ちなみに、自民党の憲法改正案では、

い」とし、人口を「基本」として、他の様々な状況も総合的に判断して選挙区割りを決める、としているので、このように憲法が改正されると、今の状態の選挙は「違憲」とは言えなくなります。




2023年1月23日月曜日

最後の帝国議会物語②~憲法改正案が提出される(1946年6月20日)

 第90回帝国議会が開会される前に、衆議院議長選挙でひと悶着あったわけですが、

その議長について、開会前にもうひと騒動が起こることになります(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇衆議院議長の交代

帝国議会開会を6月20日に控えて、その前にひと騒動が起きます。

5月16日に帝国議会の投票で衆議院議長に選ばれた三木武吉が、

なんとたった2日後の18日に議長を辞職してしまったのです。

三木武吉は1928年、京成電車疑獄事件に関与し、有罪判決を受けて

一時政界から離れた後、もう一度国会議員になっても、

大臣にはならないことを決意しますが、

衆議院議長にだけはなりたいと、就任を熱望していたそうです。

その念願の議長になれたのに、なぜやめてしまったのか。

それは、三木武吉に「GHQの公職追放の対象になっている、

議長をやめたら追放の指定から外れるかもしれない」と助言した者があったからで、

それに従って三木武吉は議長をやめたのです。

また、それだけでなく、国会議員も辞職しています。

しかし、議長をやめても公職追放の指定から外されることはなく、

6月23日に公職追放が決定されてしまいました。

公職追放となった主な理由は、「大日本興亜同盟の顧問となり、日本の膨張主義と全体主義を公的に支持した」というものでした。

しかし、公職追放は政府の方で一応、拒否もできました。

実際、三木武吉の時も、GHQから25名分のリストをもらいながら。

追放処分になったのは8名だけでした。

それでも三木武吉を追放したことについて、

吉田茂首相にとって、「三木が存在しない自由党の方が,運営面で好都合であると判断したに相違ない。」と増田弘氏は述べています(河野一郎と三木武吉の公職追放)。

三木武吉は、「ただ今,不肖三木は追放令を受けました。追放該当者となった以上,もはや政治活動は一切禁止されてしまったわけです。諸君と共に敗戦日本の再建に挺身し老後の余命を捧げて,あらん限りの働きをする決意でしたが,それさえも許されぬことと相成りました。諸君の後ろには家なく,食なく,…悲惨な同胞の姿を,洪手傍観しなければならない追放者の無念をおくみとり下さい」と言って、故郷の香川県に戻り、公職追放が解除される1951年まで5年間にわたって政治の舞台から去ることになりました。

三木武吉に代わって議長となったのは、樋貝詮三(1890~1953年)でした。

樋貝は、先の議長投票で三木武吉に次ぐ次点でした(三木武吉267点、樋貝234点。投票では議長にふさわしいと思う者を3人まで書くことができた)。

樋貝が選ばれた理由について、増田弘氏は、「推論の域を出ないものの,吉田にとって自己に近い樋貝が議長に就任するためには,三木のパージこそ望まし」かった、としています。

吉田茂は国会議員を嫌っていましたが、樋貝は官僚出身で、今回が初当選でした。

樋貝はのちに第三次吉田茂内閣で国務大臣にもなるなど、

だいぶ吉田茂のお気に入りだったようです。

〇第90回帝国議会の開会

昭和21年(1946年)6月20日(木)、第90回帝国議会の1回目の本会議が開かれます。

開会にあたり、天皇より勅語がありました。

本日、帝國議會開院の式を行ひ、貴族院及び衆議院の各員に告げる。

今囘の帝國議會には、帝國憲法の改正案をその議に付し、なほ、國務大臣に命じて緊要な豫算案及び法律案を提出せしめる。

各員心をあはせて審議し、協贊の任をつくすことを望む。』

これに対し、奉答文の起草委員が18名選ばれ、奉答文の起草に取り掛かり、

11時37分に本会議は休憩となります。

そしてはやくも午後1時2分には本会議は再開され、

起草委員の委員長、坂東幸太郎が、起草した奉答文を読み上げました。

(坂東幸太郎[1881~1974年]…北海道出身。1924年衆議院議員に当選。治安維持法に反対。母子保護法成立に尽力。自由党総務などを務めた。1949年落選)

「『陛下親しく第九十回帝国議会開院の盛式を行わせられ、優渥なる勅語を賜わり、議員一同、誠に感激の至りにたえません。

我等は、重大なる帝国憲法改正案その他の議案につき、心を合せて慎重審議し、協贊の任を完うして陛下の信任にこたえ、国民の委託にそわんことを期して居ります。ここに、衆議院議長樋貝詮三謹んで奉答申しあげます。』

奉答文案は只今謹読致しました通り起草致しました、此の段謹んで御報告申上げます」

続いて、今回の議会のメインである、帝国憲法改正案が提出されました。

これには勅書がついていました。その重要度がここからもわかります💦

『朕は、国民の至高の総意に基いて、基本的人權を尊重し、國民の自由の福祉を永久に確保し、民主主義的傾向の強化に対する一切の障害を除去し、進んで戦争を放棄して、世界永遠の平和を希求し、これにより国家再建の礎を固めるために、国民の自由に表明した意思による憲法の全面的改正を意図し、ここに帝国憲法第七十三条によって、帝国憲法の改正案を帝国議会の議に付する。』

ここですでに、日本国憲法の三大原則が示されているのは興味深いですね(゜-゜)

日本国憲法の前文に近いイメージも受けます。

ちなみに勅書の中に、「帝国憲法73条によって…」とありますが、

大日本帝国憲法第73条は、

1. 将来此の憲󠄁法の条項を改正するの必要󠄁あるときは勅命を以て議案を帝国議会の議に附すべし

2. 此の場合に於󠄁て両議院は各々其の総員三分󠄁の二以上出席するに非ざれば議事を開くことを得ず出席議員三分󠄁の二以上の多数を得るに非ざれば改正の議決を為すことを得ず」

…とあるように、憲法改正について述べている部分です。

これにのっとり、勅命を以て憲法改正の案が出され、帝国議会で審議されることになったわけです。

はたして政府から提出された憲法改正案に対して、国会議員たちはどのように審議をしていくのか!

とてもワクワクしますね~!😆

2023年1月19日木曜日

旧国名が市町村名!~京都府編~京都ブランドのすごさ

 市町村合併などを機に、新市町村名に旧国名をつけるパターンが

ほぼ全国的に見られます。

前回は静岡県編をやりましたが、

今回は、第五弾、旧国名が「山城・丹波・丹後国」の京都府編です!

京都にあやかりすぎ!!(;^_^A

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇山城国・丹波国・丹後国

山城ははじめ「山背」(平城京から見て山の後ろ)であったが、794年、平安京遷都の際に、

桓武天皇により「山城」(周りが山になっていて自然の城になっている)に変更された。

この後、それまで「じょう」や「き」と呼ばれていた「城」を、

「しろ」の当て字で使用したため、「しろ」とも呼ぶようになったという。

丹後国ははじめなく、713年に丹波から分立し、丹波の後ろの国ということで、「丹後」となったという。

(丹「後」はあるのに、丹「前」は無い珍しいパターン)

〇京丹後市

2004年、網野町・丹後町・弥栄町・峰山町・大宮町・久美浜町が合併して成立。

日本に他に「丹後市」は無いのに、なぜ「京」をつけるのかというと、

①合併時に「丹後町」があったので、それと区別するため。

(丹後町に吸収合併されたイメージになるから)

ちなみに市役所があるのは旧峰山町であり、人口が最も多いのは旧網野町である。

旧丹後町の人口は合併した町の中で下から2番目。

旧丹後町の歴史はまぁまぁ古く、

1955年に、 間人町・豊栄村・竹野村・上宇川村・下宇川村が合併して成立している。

②「京」をつけるとイメージアップになるから(;^_^A

新市名は公募され、合併協議会委員により、

まず「丹後市」「たんご市」 「京丹後市」 「京たんご市」 「北丹後市」 「北丹市」 「北都市 」「北京都市」「羽衣市」「峰山市」の、重複の多かった上位10案にしぼられ(1位は「丹後市」、2位は「北丹市」、3位は「京丹後市」であった)、

そこからさらに、「北都市」(読み方は「ほくとし」)「丹後市」(もしくは「たんご市」)「京丹後市」(もしくは「京たんご市」)の3つにしぼりこまれた。

「北都市」

・京都の北の都として発展していくように願って。

・新しい「市」になるに際し、新しい名称でスタートすべき。

「丹後市」

・丹後半島に位置し、地域住民や観光客になじみ深いから。

・6町に共通しているなじみ深い名前だから。

・由緒ある歴史と地名を残したいから。

・丹後のブランドを作るには、丹後という名称ははずせない。

「京丹後市」

・丹後という地名がなじみ深く、加えて京都の丹後ということが一目瞭然となりわかりやすい。

・京を付けることにより丹後のイメージアップが図れる。

公募の重複が最も多かったのは「丹後市(たんご市)」で、2位の3倍近くあった。

委員49人で投票をしたところ、

「北都市」7 票、「丹後市」10 票、「京丹後市」30 票で、「京丹後市」に決定した(無効票2)。

続いて、「京丹後市」がいいか、「京たんご市」がいいか、

投票をしたところ、

「京丹後市」24票、「京たんご市」24票で同数となった(無効票1)。

再投票の前に、漢字を推す理由、ひらがなを推す理由について話し合った。

<漢字派>

・漢字にすると、ひらがなにしても、カタカナ表記にもできるが、ひらがなにしてしまうと、平仮名だけに限定されてしまう。

・ひらがなだと、「たんご」はどこかイメージしにくい。

・子どもは短いのや、簡単なのを好み、難しいのは覚えなくなる。子どもを甘やかさず、漢字にして難しくても覚えてもらえるようにする。

<ひらがな派>

・「後」には暗いイメージがある。

・「たんご」にすると、いろんな意味にとれるようになる。「端午の節句に丹後でタンゴを歌おう」…。

・「た」に点々をつけると「だんご」になり、非常にユーモアのある言葉にもなる。

・やわらかくて馴染みがあって非常に書きやすい。

・東京の人としゃべっていて、「丹後」はどんな字ですか、と言われて、「ひらがなです」と言えたら楽だと思ったから。

・「京丹後市丹後町」になると、「丹後」が続いてしまう。

・新しいチャレンジの意味を込めて。

・丹後を離れる若者は、「丹後」がなんとなくのしかかっている感じがすると言っている。

その後、再投票となったが、再び同数となってしまった。

くじにするという案もあったが、くじを引く人の責任が重すぎる、将来に禍根を残す、ということになって再び投票することになり、

そして再々投票が行われたのであるが、

漢字31票、ひらがな18票で大差となり、漢字で「京丹後市」に決定した。

名付け親賞として、「京丹後市」と書いた人から抽選で1名に、

10万円分の旅行券、

10名は優秀用として、1万円分の図書券が贈られた。

また、ユーモア賞に選ばれたのは、

「丹後市」「北都市」「丹後王国市」「七姫市」「いらっしゃいま市」の5点で、

5千円分の図書券が贈呈された。

公募された作品をいくつか紹介すると、

「七姫市」…丹後には乙姫、羽衣天女、間人皇后、静御前、小野小町、細川ガラシャ、安寿姫の7人の姫にまつわる電照が残されていることから。なので「竜宮市」・「おとぎ(御伽)市」・「おとぎばな市」・「うらしま市」などもあった。

「羽衣市」「はごろも市」…丹後には最古の天女の羽衣伝説があることから。

「ちりめん市」「丹後ちりめん市」…丹後地方の絹織物を指す。京丹後市・与謝野市が主な産地で、なんと日本の着物の6~7割を生産している絹織物王国。なので「シルク市」というのもあった。

「天橋立市」というのもあった。それはお隣の宮津市にあるのですよ…(;^_^A

他に「ウルトラ市」・「北にある市」・「ネクスト(NEXT)市」・「天統夢市」(てんとうむし)・「六町合併1市」などのおふざけ意見もあった。

ユーモア賞を狙ったんだろうか??😓

〇南丹(なんたん)

2006年、園部町・八木町・日吉町・美山町が合併して成立。

丹波国の南部という意味。

新市名は公募され、その中から

「南丹市」・「西京都市」・「京丹波市」・「京南丹市」・「京口丹市」(きょうくちたんし)の5案に絞られた。

※重複が最も多かったのは「西京都市」、次に「南丹市」「口丹波市」「京丹波市」「京南丹市」だったが、口丹波市ではなく、9位の「京口丹波市」の方が候補に選ばれた(投票で1票差で敗北)。

(「口丹波」とは、丹波の南地方、京都に近い方の丹波のこと)

その後、合併協議委員により投票となり、

「南丹市」21票・「西京都市」17票・「京丹波市」1票・「京南丹市」1票・「京口丹市」0票となり、

(ちなみに2004年に、お隣兵庫県に「丹波市」が先に成立済みであった。さらにちなみにお隣りが先んじて「京丹波町」となっていた。それを知りつつ「京丹波市」に投票した人はいったい…😰)

「南丹市」「西京都市」で決戦となった。

すると、「南丹市」23票・「西京都市」17票で、「南丹市」が「西京都市」をわずかに上回り、「南丹市」となった。

アイデンティティが守られてよかったね( ;∀;)

京都の植民地になるところでした…(笑)

あと、応募作品の中には「大日本京都市」というのもあった(;^_^A

…というか、「京」がつく応募作品が多かった。。アイデンティティ…。

南丹市は、丹波国の中心であり、古代は国府が置かれ、中世は守護所として八木城があった。

江戸時代には「園部城」「園部藩」があり、明治時代、廃藩置県によって一時「園部県」となった。

…という過去があるのだから、「園部市」で良かったのではないかと思う。。

(応募も6位だったし)(市役所も園部町にあるし)

(園部町に吸収合併される感じで嫌だったのか??)

〇京丹波町

2005年10月11日、丹波町、瑞穂町、和知町が合併して成立。

旧丹波町は1955年から丹波町を名乗っていた(須知町・高原村が合併)。

丹波牛などの生産地。

〇南山城村

1955年、大河原村・高山村が合併して成立。

茶畑が広がり、日本三大茶の1つ、宇治茶を生産している。

過疎地域にもなっており、なぜ他と合併しないのか気になるが、

平成の大合併のころは、木津川町などと合併する予定があったが、

南山城村などと合併を進めていた木津川町長が公職選挙法で捕まり、

代わって、南山城村などを含まない合併を公約した人が当選したため、

合併に乗り遅れる形となってしまった。

合併特例期間は2005年3月で終わったものの、今からでも合併した方がいいのでは…?(;^_^A

2023年1月18日水曜日

最後の帝国議会物語①~尾崎行雄の訴え(1946年5月16日)

 1946年、4月10日に、女性の参加も認められた選挙が実施され、

それによって当選した議員により、6月20日から最後の帝国議会となる、

第90回帝国議会が開かれることになりました。

その最後の帝国議会は、どのようなものだったのか。

その4か月間を追っていこうと思います!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇「憲政の神様」尾崎行雄の訴え

敗戦後、初めての選挙を経て開かれた最初の国会(第90回帝国議会)で、最初に登壇したのはあの「憲政の神様」、1890年の第一回衆議院選挙から連続25回当選し、1953年まで国会議員を務めた、尾崎行雄でした。

尾崎行雄は、次のように発言します。

<要約>日本は建国以来の未曾有の状態となっている、こうなったのは立憲政治を国民が正しく理解せず、間違った行動をしてしまったからだ、今、軍部だけを責めているが、国会議員もほとんどが軍部の後押しをした、その国会議員を選んだのは国民であるから、全国民が懺悔して、間違っているところを直さなければならない。

間違ってしまった根本の原因は何か、それは、藩閥政府が、憲法や法律を国民や国会議員を抑えるために作ったということだ。

立憲政治というものは、国民の代表者が、行政官の圧迫に反対して、国民の幸福を進めるためのものだ、国会は政府を監督して、国民の生命財産の保護者番人とならなければならない、それなのに、現在の国会議員は、政府に服従し、政府の手先となって働くことが名誉なようになっている、これを直さなければ正しい立憲政治はできない、そのための第一歩として、まず議長選挙を改めたい。

今まで議長は、国会に於て多数を占める党が務めることになっていたが、これでは国会は政府のいいように動かされてしまう、議長は政府の味方をするものではなく、正しく、公平で、敵を憎まず、味方も贔屓しない、中立公平な存在でなければならない。だから、議長を選挙するときには人格を第一に選ばなければならない。そして、議長に当選した者は、中立公平でなければならないから、その所属する政党をやめなければならないようにしていただきたい…。と。


尾崎行雄の自伝『民権闘争七十年』には、

与党となった自由党・進歩党は議長・副議長の取り合いをし、両党談合の末に、

議長を自由党が、副議長を進歩党が取ることにした、

これに対し尾崎行雄は「かねて議長・副議長の選挙だけでも党利党略を離れてむしろ少数党から人格者を選ぶべしとの意見を抱いていた」ので、

早朝から議会に行き、選挙の前に登壇することを提案した、

自由党・進歩党の中には一部反対者がいたが、

結局尾崎行雄は十年ぶりに登壇することになった、

と尾崎行雄が登壇することになった事情が書かれています。

この提案に対し投票が行われ、「可とする者 217 否とする者 228」で、尾崎行雄の提案は否決されてしまいます。

賛成者の中には、浅沼稲次郎(社会党)・片山哲(社会党)・鈴木茂三郎(社会党)・三木武夫(協同民主党)・二階堂進(協同民主党)・志賀義雄(共産党)・徳田球一(共産党)・野坂参三(共産党)・尾崎行雄(無所属)などがいました。

一方、反対した議員には、石井光次郎(自由党)・大野伴睦(自由党)・河野一郎(自由党)・三木武吉(自由党)・犬養健(進歩党・犬養毅の三男)・齋藤隆夫(進歩党)・星一(進歩党・星新一の父)などがいました。

当時、国会で多数を占め、与党となっていたのは自由党・進歩党でしたが、

多数党であった自由党・進歩党の者たちが、多数党の者が議長とならないようにする提案に反対したわけで、

尾崎行雄が目指す「正しい立憲政治」は、最初の一歩から暗雲が垂れ込める結果になってしまったのです。

その後、議長・副議長を決める選挙が実施され、大差ではありませんでしたが、

議長は自由党の三木武吉が、副議長は進歩党の木村小左衞門がそれぞれ最多得票を得ます。

数で押し切る、国民本位ではなく政党本位の、政府に有利となってしまう行動が、

国会議員によって行われてしまったことになります。

尾崎行雄は『民権闘争七十年』で、

「私は新顔の議員で構成されている議会だけに、私の忠告に耳を傾けるものも多いだろうとひそかに期待していたところ、イザ選挙となるとやはり議長には三木、副議長には木村という筋書きどおりの選挙が行われた。新しい議会にも私の提案は顧みられなかったから私はおおいに失望した」と書いています。

ちなみにその後、議長は第一党の長老議員が、副議長は野党第一党の長老議員が就くことが慣例となり、毎回、議長選挙は全会一致で選ばれるようになっていきます。

議長は、人格本位で選ぶべき、という尾崎行雄の願いはまったく無視されてしまったわけですが、

議長となったものは所属政党をやめる、ということについては、1973年から慣例となっており、形式にすぎないとはいえ、こちらの面では尾崎行雄は少しは報われたというべきなのでしょうか…。


[資料]帝国議会議事録(第90回帝国議会 衆議院 本会議(議院成立に関する集会) 昭和21年5月16日)より抜粋

○尾崎行雄君 今日は懺悔旁旁諸君に議長選擧の方法に付ての動議御聽きを願はなければならぬことがあります、實は日本も建國以來未曾有の境遇に陷りましたから、是非とも是から立直らなければならぬ、立直るのにはどうしても立憲政體の常道を踏んで、上下擧つて正しく働くより外に途はないかと思ひます、然るに私共申譯ないことは、初期議會以來此處に列席して居りますけれども、立憲政體の運用は殆ど跡形のないまでに壞してしまひました、其の極點が遂に政府指名の候補者に全國大多數の選擧人が投票を致して、而して遂に無條件降參と云ふ所まで漕付けたのであります、誰が考へても是れ程悲慘なことはございませぬが、茲に陷つた原因の重大なるものは、立憲政治の根本に背いて全國人民が間違つた働きをしたと云ふことに歸著するのであります、今日は軍部官僚のみを咎めて居ります、無論惡い、非常に惡い、併しながら茲に列席した我我の同僚代議士は殆ど全會一致で此の後押しを致したのであります、然らば軍部官僚が惡いだけよりか、代議士は尚ほ惡かつたと言はなければならぬ、併し其の代議士は全國人民が選んだのでありまするから、全國人民も亦亡國の手傳ひを致したと云ふ事實は辯解の餘地はない、是に於て上下擧つて懺悔致して、是までの間違つたる働きをば漸次直さなければなりませぬ、間違ひを擧ぐれば殆ど一から十まで悉く間違つて居つたと言つて宜しいのである、其の原因に付ては、半ばは藩閥官僚が全國人民を抑へる爲に、一種の憲法を制定することに手傅つて、隨て議院法、選擧法、議事規則に至るまで藩閥官僚は此の人民の代表者を抑へて、其の權力を殺ぐと云ふことを大目的にして作られたものであります、我々は之に反して立憲政治の本色を發揮しようと致しましたけれども、如何にも殘念なことには力が足らず、徳望もない、全國人民も亦我々に贊成するだけの智能を持たない、是に於て上下擧つて藩閥官僚の壓伏を受けて、遂に段々堕落して、もう立憲政治の形は存するけれども、精神は殆ど皆滅亡した状態になつて今日に來つたのである所へ、今般は選擧法を大いに改正して、選擧民を殖やし、又是まで選擧權のなかつた婦人等にも之を與へ、茲に新議會が開かれて諸君に御目に掛かることの出來るに至つたのは實に愉快の至りでありまするけれども、茲で私共の懺悔旁旁最も心配になるのは、是まで議席に列して居つた所の古い議員は、悉く己れの無力と藩閥官僚、續いては藩閥の後繼者となつた軍閥の壓伏を受けて、それに服從して、古い議員は悉く非常な惡い習慣が殆ど骨髓に徹して居ります、直せと言つても一朝一夕には、惡かつたと云ふことすらも分らぬ程に惡習慣が滲み込んで居ります(拍手)斯く申すは、實に古い友達に對して遺憾の至りでありまするけれども、私などが最も其の罪人の頭である、一番古く居りますから、隨て罪も一番古い譯であります、兎に角舊議員は、隨分勝れた人間もありまするけれども、立憲政體の下の議員としては、もう惡習慣が骨髓に徹して居るから、此の方々と共に立返ると云ふことは餘程骨が折れます

 然らば新しい諸君はと云ふと、是は私共とは時代が違ひまして、私共は如何なる考へを持つておいでになるか殆ど想像が出來ませぬ、大抵私共と比べれば二代目三代目の方々と思ひます、此の中には餘程勝れた方々も多いとは思ひますけれども、如何せん議席に列して政治機關の運用に當ることは今囘が初めでありまするから、動もすれば古い議員に引廻されて、其の惡い眞似を第一著に覺えると云ふことになりはしないかと云ふ心配がある(拍手)それは大變なことである、どうしても立直つて改めなければならぬ人が、古い人の指圖に從つて惡い癖が付いたならば、是はやはり片輪者になる、斯くの如く古きも新しきも一緒になつて此の惡習慣を續けまするならば、立憲政治は名あつて實なく、我が國は立返ることは出來ますまいかと心配を致す、實に斯く申すことは殘念の至りでありまするけれども、誠心誠意に考へなければ、餘程立返ることは難しくあります、けれども是非とも立返らなければならぬ、而して改める第一著手は今日が初めてである、新しい諸君と古い諸君とが新らしき世の中の下に集會したのであるから、今日只今茲で改革に著手しないで、古い過ちを踏んで行くならば、此の途中で改めることは殆ど不可能かとも思ひまするが故に、私は今日十分の準備もございませず、且つ病後にして甚だものを説くのにも困りますけれども、抂げて今日此の場合に於て、是非魂を入換へることに致したいと云ふ御相談の爲に茲に演壇に登つたのである、惡い例は澤山あります、是れ程間違つたと云ふことは恐らくは誰も感ぜぬかも知れませぬ、餘り長いから、例へば元來を申せば、立憲政治と云ふものは多數の人民を代表して行政官の壓迫に反對して、人民多數の幸福を進める爲に開かれたのであつて、即ち立法府はどうしても行政部を監督せなければなりませぬ、茲で生命財産を根據にして行政部が何かしようとするのには、どうしても人民の生命財産を使はなければならぬ、之を使はれると云ふことに付て一歩誤れば非常な禍を蒙りまするから、生命財産の保護者番人として、何萬人か何十萬人かに付て一人づつ議員を選び出すのである、故に此の議員はどうしても行政部の監督者と云ふことを日夜忘れては相成らぬ筈のものでありますけれども、如何せん官尊民卑の世界に久しく先祖代々住み來つた御同樣として、今日も尚ほ官吏は尊いもの、人民は卑しいものと云ふ思想が上から下まで滲み込んで居ります、隨て監督すべき立法府の人々が、監督せらるべき行政部の人に服從し、其の手先となつて働くことを名譽と考へるやうな心得違ひが中々廣く行はれて居ります、眞を申せば立法府の職員、書記官長を初めとして、是等の職員は皆立法府から任命するのが當り前の道理でありまするけれども、藩閥官僚は行政部が總ての役人を任命して、それを以て立法府を支配させようと云ふやうな底意がある、隋て其のことが實際に行はれて居ります、今日只今此の會議を見ても、是は私申兼ねることは、此の書記官長は多年私も承知して居る、洵に立派な人で、人としては一言の批判を容れるべきものではありませぬけれども、兎に角行政部の人が任命した人であります、立法府に監督せらるべきものが却つて之を任命して、立法府を支配するやうな道具に使つた、其の結果として今日會議を開くにも、行政部が任命した書記官長を議長席に著かせて、監督者たる諸君が平氣で會議を開いて居ると云ふ状態になるのであります、是は昔からやり來つたことであるから、別に誰も咎める譯には行かない、我々は第一に其の責に任ぜなければなりませぬけれども、洵に物を解する人であるならば、此の會議の開き方と云ふものがもう既に立法府の體面に、泥を塗るべき開き方であると云ふことだけは御承知にならなければなりませぬ(拍手)直ぐ之を改めよと云ふのではありませぬけれども、間違ひは既にここまで廣く行はれて居つて、誰もこんなことは怪しまぬと云ふことまでになつて居る、何も行政部の人を頼んで來て議長席に著いて貰はずとも、諸君の中の年長者を擧げて著かせてもどうしても幾らでも方法はあるのであるけれども、兎に角立法府をば抑へ付けようと云ふ藩閥官僚の初めの考へでやつたのが、ずつと五十年間行はれて、今日も尚ほ改めることが出來ぬ、總てが其の通りになつて居るのである

 全體から申しますと議會に於ては、議員の外は發言權を許すべからざるものである、大臣であらうと、政務次官であらうと、議會に於ては發言を許さぬのが正しき道である、さうでなければ彼等の爲に誤られる、又現に日本は誤られて居るのである、然るに我が國の議院法に於ては、大臣や政府委員は殆ど議員以上に發言權を與へられて居る、是等が最も間違つたやり方であるが、それが五十年間習慣となつて居れば、誰しも其の過ちを知らない、其の上に雛壇の如きものを作つて、大臣とか政府委員と云ふものを一段高い所に坐らせて、議長、議員よりは尊いものの如き形を具へて居る、怪しからぬことである(拍手)是等は「ドイツ」あたりのまだ立憲政治の發達しない國の眞似を致したので、發達しない所は日本の藩閥官僚には最も氣に入りますから、惡い所所と探して其の眞似を致したのが今日の状態である(拍手)「イギリス」「フランス」の如きは稍稍進歩して居るが、明治の時代から其の眞似は決して致しませぬ、隨て是等も將來は改革の第一歩として席を作り直して、大臣などで議員となつて居れば當り前の席に著かせる、然らずんば大臣としては議場に出席を許さぬと云ふやうに致したいものであります(拍手)現に「イギリス」ではさうなつて居る、若し議員が大臣になりまして、行政府を監督する爲に選ばれた議員が行政官になりますれば、其の位置が變る、隨て選擧人の意見を問はなければならぬと云ふのが道理の命ずる所でありますから、「イギリス」では其の通りになつて居つて、議員が大臣になりますれば、必ず議員を辭職致す、併しながら議員でなければ議會で發言が出來ませぬから、再び選擧人に向つて、自分は監督者から被監督者の身分となつたが、それでもまだ俺を選擧して呉れるかと云ふことを選擧人に尋ねます、さうすると其の時には投票は必ず減ります、減るのが正しい道である、時々は落選致します、落選すれば無論大臣を辭さなければなりませぬ、議員でなければ、立憲國の「イギリス」に於ては大臣は務まらぬことになつて居ります、議院で説明することが出來ない、所が日本はどうでありませう、私も大臣となつて議員の選擧に臨んだことがありますが、投票は減るどころか非常に殖えます、是に於て我が國民が如何に立憲政治の知識が缺けて居るかと云ふことが分る、どうしても減らなければならぬ筈のものである、監督者が被監督者の位置に立てば減らなければならぬ筈であるが、私の實驗に依りますれば、投票は一層殖えた、他の人々も其の通りに殖えるのである、即ち官尊民卑の奴隸的根性がどれだけ深く日本人の腦髓に滲み渡つて居るかと云ふことが分るでありませう、之を改めなければ眞の立憲政治の運用は出來ませぬ、是等のことを總て改める第一著手として、今日議長選擧から始めなければならぬと考へた爲に、身體の不自由をも顧みす、此處で諸君に御目に掛かるのである、どうか能く御考への末、議長選擧と云ふことに付て精神的に改めて戴きたい

 是までの議長選擧は、多數黨から出すと決まつて居ります、多數黨から必ず議長を出す、議長は多數黨の爲に議事を主宰するものではありませぬ、滿場一人殘らずの爲に議長席に著いて居るものでありまするから、多數黨の贔屓などをしては、もう議長たるの資格はないと云ふことは、是は子供にても分るべき道理であるけれども、我が國民にはまだそれが分らぬものと見えて、多數黨から始終出して居ります、黨派の大小を問はず、能力の有無を問はず、議長として一番大切なのは人格であります、極く正しい、極く公平な人、敵をも憎みもせぬ、味方にも贔屓をせぬと云ふのが議長の役目であります、それにはどうしても人格第一に選擧をしなければならぬ、所が同じやうな人格者が多數黨にもあり、小數黨にもあり得るのである、其の時には「イギリス」邊りでは必ず少數黨の人を同じ人格者ならば議長に推します、昔からさうである、多數黨の人でありますると、後ろに多數の同志があると思へば、不公平なことはすまいと思つても油斷はあります、氣が緩まる、後ろには多數の應援者がある、之に反して少數黨から出た議長であると、どんな失策をしても、後ろには少數の應援者よりない、多數から反對されると云ふことが分つて居りまするから、一層人格を高めて、議事に對しては注意を致し公平になる、是でこそ初めて議長の職務が務まるのである、日本に於ては今まで澤山議長が選ばれましたけれども、本當に立派に議長の職責を盡した者は片岡健吉君外一兩名ありましたが、あとは皆駄目であります、多くは私の友達であるけれども、殘念ながら駄目であります、やはり味方の贔屓をする、敵であれば意地惡く當る、是は議長の資格のなき者である、其の資格のなき者に平氣で滿場の多數の人は投票を入れた、此の過ちを改めなければならぬ、第一、人格本位と云ふことで投票を入れなければならぬ、黨派の大小、才力の高下などよりか、人格を第一にせなければならぬ、さうして一旦選ばれた後には、やはり終身其の職に置かれて行く位の心持を以て致しましたならば、選ばれた者も、選んだ人も共に滿足するやうな結果を生じますと思ひまするから、今日はさう云ふ考へで、從來の選擧の仕方は悉く誤つたと云ふことをどうぞ本當に御考へを願ひたい、口先だけでは役に立ちませぬ、心の底から惡かつたと考へなければならぬ、併し其の結果としては、ひよつとしたならば、諸君が交渉會などで決めた人が多數になるかも知れませぬ、結果は同じでも、私は心掛が誤つて投票を入れたならば、其の人が他日不都合な働きをした時に、後悔の原因がそこにありまするから、どうか同じ人に投票をするにしても、斯くすべきものであると、精神を改めてやはり投票を入れて戴きたいのであります(拍手)それから出來るならば當選した人が若し政黨員であつたならば、當選して陛下の御沙汰を受けたならば、脱黨をするやうに致したいものであります、是は外から迫らぬでも、議長になつた人が己の良心に問うて見たならば、議長の職責と黨員と云ふことは兩立せぬと云ふ位のことは、人格者であれば必ず分ると思ひます、故に當選して任命を受けた人は、どうぞ自ら進んで脱黨をして、一個の議員となつて其の職責を全うするやうにして戴きたいのである、斯くの如くするのには、其の前に議長選擧の列國の模樣──私は不幸にして餘り廣く知りませぬ、多少知つて居つたことも老衰の結果忘れてしまひましたから、茲で私は全院委員會と申したのでありまするが、それが議事規則に違ふとか何とか云ふ些細なことで、他のことに改めたやうである、元來憲法すら改正せなければならぬと云ふ世の中に於て、區々たる議事規則の上に拘泥して、此の問題を左右すると云ふ心掛けが、もう既に間違つて居るのであります(拍手)併し私はそれに對しては苦情を餘り言ひませぬ、官僚輩は其の位の心掛けより外に持たない筈でありまするから、敢て咎めませぬが、さう云ふ間違つた心掛けを止めて、物の大小、輕重を判斷して致したい、而して全院委員會だとか──私が殊に言つたのはなぜかと云へば、我が國ではまだ全院委員會を利用することを知りませぬ、五十年以上掛つても、一度も全院委員會を利用したことはないのである、立憲政治を運用する上に於ては、全院委員會程大切なものはないのであります、斯くの如き正式の議會であると、餘程形式張つて、總てにやかましく言はなければならぬ、餘り儀式張り過ぎて、條理が能く疏通することが出來ませぬから、そこで全體の人間が皆委員となつて、餘り規則に拘泥せず、打解けて能く懇談をし、同じ人が二度、三度、幾度起つても宜いと云ふやうな、儀式を紊して懇談をして、總ての問題を纒めますると、國家の問題が洵に好く纒まる、それが略略纒まつた所で、正式の本會議を開いて決定すると云ふのが、進んだ立憲國の状態であるが、我が國民の中にはどうしてもそれが分らぬ、私共隨分説きましたけれども、微力、不徳の致す所、誰も聞いて呉れない、隨て全院委員會と云う一番大切なものを利用し得ないのである、隋て本會議が非常な亂雜となり、亂れると云ふのは其の爲であります、又更に甚だしきことは、豫算委員會が今全院委員會の仕事を餘程横取りをして居る、豫算關係以外のことを、内治、外交總ての問題を豫算委員會で政府を相手にして談判、問答を致して居る、それは結果は大層宜しい、併しながら是は全院委員會ですべきものであつて、豫算以外のことは豫算委員會ですべきものではありませぬが、其の規則、區別を紊つてしまつて、今豫算委員會が全院委員會の仕事を横取りをして働いて居る、さうすると自分の權利を奪はれたる議員先生達は怒りもせないで、羨ましさうに豫算委員會に滿場一ぱい入つて傍聽して居ります、何たる不甲斐ない、物の分らぬ人間であるか、私は其の状態を見る毎に涙が出ます、我々の同僚の議員が是れ位の不見識なことはない、自分の職責を奪はれて居つて、羨ましがつて傍聽に行く、如何にも見苦しい状態であるが、舊來の議員はそれすら分らなかつた者が多い、分つた人もありますが、分らぬ者が多かつた、新しい議員はどうか絶對に左樣なことをせぬやうに、憲法上に與へられたる權力は十分に護るやうにして戴きたいのである、他の委員會に横取りせられて傍聽に行くと云ふやうな醜態なことは、絶對にお止めを願ひたい

 それと共に、今日も御目に掛つて、甚だ殘念に思つて居るのは、各派交渉會と云ふものをやつて居ります、是がやはり初め政府が議員の職權を縮める爲に、議院法や色々なことでいたづらをした、それを更に輪を掛けて、二十五名以上でなければ交渉團體として色々議案を出したり何かする便利を妨げることを、今度は議員の方からして居る、初めは政府が議員の權力を抑へて自分達が我儘をする爲に、二十人の贊成者とか、十人の贊成者と云ふ法律を作つたのが、今度は議員の方が其の上に伸して、政府より以上の、二十五名以上の團體を作らなければ、交渉はさせないと云ふやうなことをして居るのを見ると、何たる不甲斐ないことであるか、全く自殺的行動である(拍手)言ふまでもなく議員は一人の議員として憲法上完全な權利を持つて居るのであります、然るに二十五名以上揃はなければ交渉出來ない、怪しからぬことである、此のことから考へても、斯樣な不理窟は分ることであるが、多年の習慣として古い人も分らぬので、若い新しい人も平氣でそれに臨んで居るやうである、是は早速御廢止を願ひたい、若し政治以外のことで交渉する必要があるならば、議員の方に部屬と云ふものを定めて、ここには部長理事と云ふものがある、此の部長を集めて交渉をすれば、どんなことでも皆各部の代表者として直ぐ纒まるのである(拍手)一人殘らず其の交渉には應ずることが出來る、然るに今のやうなことをすれば、二十五名以下の團體、若しくは無所屬に居る所の人人は、憲法上に於て與へられたる議員の職權を行ふことが出來ないのである、是等のことは銘々一人殘らず御考へになつて然るべきことであります

 之を要するに、此の類のことを擧げますれば際限なくあります、惡い方のこと──善い方のことは殘念ながら殆どないかと思ひまするが、惡習、惡例は幾らでもあります、之を悉く改めて正しき道に立たなければ、日本の立憲政治は迚も發達は出來ませぬ、隨て選擧人を直すなどと云ふことも出來ませぬ、今囘の選擧などに付ても、私から見れば實に殘念なことが數限りなくあるのでありますけれども、議員が既にさう云ふ數限りなく不都合なことをして居る議員でありますから、之を捨てて置いて選擧人を改めようなどと云ふことは、如何に言つた所が、迚も行はれるものではありませぬから、先づ議員が議員自ら其の職分を全うし、憲法上に與へられたる權利を奪ひ去られない工夫をして、然る後選擧人に及ぶと云ふことにしたいのである、今日所謂政治家、政黨等のする仕事は、どうも總て間違つて居るやうであります(拍手)今日は餓死する人、住むに家なき人、幾らでもある、是が少し續きますれば、内亂、暴動の小さなものも起りませう、それがどうしても今日から三月ばかりは最も危險な状態であります、其の時に當つて内閣を倒すとか、新たに内閣を作らなければならぬと云ふのは何たることであります、平常無事の日ならばそれは宜しい、併しながら生きるか死ぬかの境、もう三、四箇月すれば國家がどうなるか分らぬと云ふ時に、内閣が善いの惡いのなどと云ふことは、言ふべき時ではございませぬ(拍手)善くつても惡くつても成べくお互に力を協せて、全國一致して、先づ餓死する者を防がなければならぬ、然るに餓死するやうに働いて居ります、政府は智慧のあらん限りを使つた積りでありませうけれども、ある食物を出させることが出來ない、そこで權力を用ひて出させることに決めたらしい、是は平生のことならば餘り善いことではない、私共も人より先に立つて咎めたでありませうけれども、今日餓死者の道に横たはると云ふ場合に於ては、假令手段は惡くつても、米を出させる方に働けば、是は邪魔をせない方が宜いのである(拍手)今のやうに強權使樣に反對致しますると、政府の力に押されて出さうと考へて居つた人も、いやこつちに味方があるから出すまいと云ふ氣になることは當り前である(「ひやひや」、「其の通り」と呼ぶ者あり、拍手)さうかと思ふと、其の惡いと言ふ人は、どうしてもそれが惡ければ、自分達は選擧區の人に説くなり、關係の町村に説くなり、組合に説くなりして、任意に出させるやうに努めれば、ここから出る、反對すれば出るべきものも出ない、少しづつなりとも政府の手でも出、民間の手でも出ますれば、不足はどれだけか減るのである、こんなことは分り切つたことであるが、それすらしないで、お互ひ邪魔をして居る、「インフレ」の仕事に付ても其の通りである、政府の仕事には無論落度はあります、けれども其の落度を探して攻撃をして居れば尚ほ落度は惡くなりますから、それより、それを成たけ助けてやつて、手傳つてやり、こちらも手傳ふやうにすれば、やはり食物の出方と同じことで、「インフレ」の防止も幾何か捗る、萬事其の通りである、兎に角國家危急存亡の秋、丁度大都會に大火事が始まつた時のやうな場合に於ては、あの消し方はいけない、あの火消を退けなければいけぬと云つて喧嘩をして居るべきでない、惡くても善くても皆總掛りで火を消して、然る後に喧嘩はすべきものであります(拍手)それが今日の状態である、それすら分らないのである、さうして内閣を倒せ、大層元氣の好いことを言ふ、注文通り倒れると、自分達は一週間相談しても、二週間相談しても、後代りはまだ作ることが出來ぬ(拍手)實に失態千萬である、斯くの如き場合に於て内閣を倒すと云ふ時には──内閣を倒すなどと云ふことに付ては、私は人並以上に好きな人間であることは御承知を願ひたい、併しながら斯くの如き場合に於て倒す時には、倒れたら直ぐ自分達がより良き内閣を作るだけの準備が整つて、初めて倒すと云ふ手續を運ぶべき筈のものである(拍手)倒した後、幾ら相談しても出來ない、何と云ふ不樣であるか、國家などと云ふことの理解力のある人間の働きとは少しも私には思はれぬのである(「官僚が惡い」と呼ぶ者あり)官僚が惡いと言ふ、それでは今度はどんな人間で内閣を作るかと思ふと、進歩黨も自由黨も官僚の古手を總裁に戴いて内閣を作らうとして居る(拍手)何たる醜態であらう、然るに其の醜態すら分らないのである、是はどうか冷靜に立戻つて、當り前の人間の考へるやうにして貰ひたいのである、殊に甚だしきは、是は最も左の方の人の指揮だと世間では申して居りますが、色々な群衆が議事堂にも來たとか云ふことである、政黨の本部をも圍む、御所の前にも詰掛けるなんと云ふことである、そんな必要のないやうに、それ等の代表者として議員を選ばせて居るのであります、議員と云ふものがなければ、群衆自ら職業を捨て、飢ヱを忍んで運動しなければならぬけれども、さうしないでちやんと運ぶやうに代表者が選ばれて居るのであるから、天皇陛下に伺ひたいことがあれば此の議員が出づべきものである、議員を差措いて、あの群衆が御所の門前に參集すると云ふことは、實に恥かしいことである、議員が働かなければ、群衆が議院の内に詰掛けるのは宜しい、御所に詰けるのは見當違ひである、こんな風に何處を見ても一から十まで間違つて居ります(拍手)我が國民と雖も是れ程下等な人間ではありませぬけれども、恐らくは前古未曾有の屈辱に出遭ひ、無條件降伏を致して、餘り智慧のない人間の頭が、更に狂つたものと見る外はない(拍手)狂亂状態でなければ、こんなことは、我が同胞如何に下等なりと雖もする氣遣ひはないと私は思ひます、どうしても頭が狂つたのである、無理はごさいませぬ、神武天皇以來夢にも見たことのない悲慘な状態に陷つたのであります、それも専制時代に陷つたならば全國人民は關係ありませぬけれども、立憲時代に滿場一致の勢ひを以て贊成して陷つたのであるから、是はどうしても全國人民と共に改めるより外に改める途がないから、私は諸君に大層憎まれることを覺悟で、思つたことをありの儘に言ふのであります、どうか冷靜に立戻つて、日本民族の體面を汚さぬやうに、立憲國人民、殊に民主主義などと云ふことを口にする以上は、其の主義に適ふやうな働きを致すべき筈である、今やつて居る大騷ぎをするものは民主運動ではございませぬ、或は民主運動と考へて居るかも知れませぬが、それは誤解で、是は亂民運動であります、どうしても共産黨も、社會黨も無所屬も力を協せて、亂民が暴動の如き働きをなすことをば即日止めさせなければならぬ(拍手)必要があれば、我々が御所へでも何處でも參る、自分の職務を盡さずして人を煽動するなどと云ふことは怪しからぬことである

 まだ申上げたいことは澤山ありまするけれども、要するに凡ゆる方面に惡い癖が付いて居るのであると云ふことを、どうぞ新舊議員諸君共に御考へ願つて、而して議長選擧のことに付ては、其の魂を以て、全院委員會が惡ければ相談會と名を付けて宜しい、總て集まつて、ああ云ふ風にしようとか、又斯う云ふ方法があると云ふことを、交渉會などの少數な人に任せず、諸君お互に皆で相談するのが當り前のことと思ひます、是が軈て、大問題に付ては正式に全院委員會を開いて本當の議事を進める手續になると思ひまするが故に、今日直ちに相談會を御開きになり、それが皆同意であるならば詳しく御相談を遂げずとも宜しい、皆滿一致で此の精神で行かうと云ふことになれば、直ちに議長候補者選擧の投票に御取掛りになつても宜しい、それは諸君の御理解に任せるから、どうぞ此のことは眞面目に御考へを願ひたく存じます(拍手)

2023年1月12日木曜日

ヒゲの大流行!~大久保利通には秘密が…⁉

 今はひげを剃るのがエチケットですが、

戦前は主に政治家・役人・教師などはヒゲを生やす人が多くいました。

福井県の米騒動では、リーダー人の中にヒゲの人がいたので、

安心して参加した、という声もあったほど、

ヒゲ=お偉いさん、信頼の証…になっていました(◎_◎;)

今回は、そのヒゲのブームが始まった明治時代初期の話をマンガにしてみました☆

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇ヒゲの大流行

明治7年(1874年)8月4日の『新聞雑誌』に、次のような記事が載りました。

「近来官員の口髭を伸ばす事大いに流行せり。勅奏官※1)の紫毛森然、馬車に駕し路塵を蹴立て、喝々疾駆せるは高位貴官の威儀仰がれていとも殊勝なれど、更に抱腹に堪えざるは、下等官員のみだりにこれを模擬し、鼻下に少しの毛を蓄え、世にいわゆる那波列翁(ナポレオン)ひげ(※2)と云えるものの如くし長袴を着け、行厨(べんとう)を腰にし、沓音高らかに歩行す。あたかも参議卿輔の有様の如し。その級を問えば十二三等、その居を問えば某街幾番地水菓子渡世某楼上寄留などと、その形を視てその中を察す、識者の嘲りを免れず。そもそも人民の開明ひとり頭髪衣服に在らずといえども、世の虚飾名利に走る、その弊果して何の日に止まんか」

※1 勅奏官…明治4年(1871年)、役人は15等級に分けられました。1~3等は勅任官、4~7級は奏任官、それ以下が判任官といい、格が違いました。1等にあたるのは左院の議長、右院の諸省長官、諸省の卿など。太政大臣や左右大臣・参議も1等とされていました。武官では元帥が1等です。

中江兆民は9等として岩倉使節団に随行し、帰国後は、明治8年(1875年)に7等の権少書記官に任じられています。

前島密は明治2年(1869年)に9等で役人となり、明治4年(1871年)には4等の駅逓頭になっています。

※2 ナポレオンひげ…フランスのナポレオン三世がはやしていたような、八字ひげを言います。

明治時代になると、ヨーロッパ人をまねて、口髭を生やす役人が多くなった、高官ならまだわかるが、下っ端の方の役人でもひげを生やして威張っている、このような見栄を張る悪習は、いつになったら止むのだろうか…というのです。

このひげで見栄を張る風習は、太平洋戦争で負けるあたりまで続いたようで、

歴代総理大臣を見ても、大隈重信・西園寺公望・原敬などの例外はあるものの、戦前・戦中の総理大臣はほとんどひげを蓄えています。

しかし、戦後はひげを生やしているのは鳩山一郎・田中角栄など数人になり、平成以後は誰もひげを生やしていません。

アメリカでは20世紀に入ってからひげを生やす人はほとんどいなくなったそうで、その文化が入ってきたような感じでしょうか。

日本は戦国時代までは貴族や武士などが、ひげを生やしていたのですが、

江戸時代になって、1670年に大髭禁止令が出され、ひげの文化は一度消滅します。

江戸時代に禁止されたのは、日本人が野蛮人と差別していたアイヌ人がひげを蓄えていたので、ひげ=野蛮だとみなされるようになったのだといいます。

当時の中国人はひげを生やしていることを考えると、この説は少し苦しい気もしますが…。

徳川家康の隠し子と言われる土井利勝が、ひげが伸びてきたら徳川家康にとても似て来たので、そって登城したところ、次第にそれにならってひげをそる人が増えていった、とする説もありますが、どうなんでしょうね(;^_^A

いったん消滅したひげ文化が、明治時代になって再び復活したわけですが、

ひげで有名なのは大久保利通・板垣退助でしょう。

板垣退助はひげが有名ですが、実はひげを生やすのはだいぶ後で、

刺された事件の時でもひげを生やしていませんでした。

この時1882年で、45歳ですから、人生の半分以上はひげ無しだったわけです。

当時の事件のことを知らせた号外にも、ひげ無しで書かれているのですが、

ひげがある写真に、「遭難当時の板垣伯」と書いてあるのがあるんですよね…💦

よくわかりませんが、この前後にひげを生やし始めたのは事実なようです。

一方の大久保利通ですが、明治4年の岩倉使節団出発頃に生やし始め、

帰国する頃には教科書などで見る立派なひげになっていたということです。

最初に訪れたサンフランシスコの新聞では、

「大変知的な風貌の持ち主で、少しほつれたような長い頬ひげと口ひげとを気どって蓄えている」と書かれており、最初の方からけっこうひげは生えていたようです。

大久保利通はビスマルクをまねてひげを生やしたともいわれていますが、

大久保利通は欧米を視察中に撮った写真を西郷隆盛に送ったところ、

「みっともなさの極みです。もう写真はおやめください。まことにお気の毒千万でございます」

と返されてしまったそうです。

たしかに西郷隆盛はひげを生やしていませんし、写真も撮っていません。

おそらく、極端に西洋にかぶれていく大久保利通に、思うところがあったのでしょう。

ちなみに、大久保利通はひげは立派でしたが、髪の毛の方は心もとなかったようで、

岩倉使節団でともに欧米を回った田辺太一(1831~1915年。外交官として活躍)は、

「公の頭の天辺には大きな禿があった。ちょっと左の方へ寄った所だったから、髪の毛を長くしてそれを七分三分くらいに分けて、綺麗になでつけて禿を隠されたものだ。床から起きると、まず鏡に向かって髪の始末にかかられるといったふうで、洋服でも鏡の前でキチンと着けて、それから人に遭われたものだ。それだから朝が早いと待たされる」と語っています💦

カエサルも後ろの髪を伸ばして前に持ってきたという話がありますが、

同じように大久保利通も髪の毛を気にしていたのですね。

人間らしくていいですよね😆

2023年1月5日木曜日

1月の最高気温の平均が10℃を超えている都道府県がある!?

 新年あけましての初ビックリでした💦

1月と言えば気温ヒトケタじゃないですか。。

なのに、平均最高気温二ケタの都道府県があったんですよ!

沖縄は2ケタあると思ってたんですよ。そりゃ亜熱帯ですから。

でも、沖縄以外にも1月の平均最高気温10℃を超えてる都道府県がけっこうあったんですよ!!!

1月=気温ヒトケタ、は常識ではなかったのか…😱

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇1月の最高気温の平均が二ケタだって!?!?

(※近日中に更新します💦)




2023年1月1日日曜日

「一富士、二鷹、三茄子」~徳川家康と静岡県と促成栽培~

 あけましておめでとうございます!!😆🎊

あっという間に2023年となりましたね~💦

時が経つのは本当にはやい…(-_-;)

お正月といえば初夢!

皆さんは初夢は見たでしょうか??😋

初夢といえば、見ると縁起がいいと言われているものに、

「一富士二鷹三茄子」がありますね!🗻

しかし、富士山は縁起がいいのはなんとなくわかりますが、

残りの2つはよくわかりませんよね💦

今回は、「一富士…」の由来を調べてみました!!😆

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


徳川家康促成栽培

「一富士二鷹三茄子」は、百井塘雨(?~1794年)が全国を巡ってまとめた、

『笈埃随筆(きゅうあいずいひつ)に書かれているそうなので、

warakuwebより)

江戸時代中期頃にはすでにあったようです。

その由来はいろいろありまして、

富士は「無事」、鷹は「高い」、茄子は「成す」を意味し、縁起のいいものを並べたとする説や、

駿河国(静岡県)で日本一の物を並べた(富士山は一番高い山、鷹は日本で一番の種[という]、茄子も一番おいしい[とされる])という説があります。

他にも、「一富士二鷹三茄子」は徳川家康と関係があるという説…があります(おそらく創作とは思いますが…💦)

今回はこの説を取り上げてみようと思います(;^_^A

徳川家康は晩年、征夷大将軍を引退して大御所となると、

1607年に駿河国の駿府城を修築してここに移り住みます(ここで1616年に亡くなっています)。

徳川家康は、側室に隠居場所としてなぜ駿府を選んだのか、と聞かれたときに、

「まず日本一の名山があり、2つ目に鷹狩の地として適している。3つ目に、とても美味しい茄子の産地であり、しかも他の地域よりも早く食べられる」と言ったそうな(静岡・浜松・伊豆情報局より)。

静岡は、鎌倉時代にも、源頼朝の巻狩りの地(御殿場市・裾野市・富士宮市)として選ばれており、

狩りを行うのに絶好の地とされてきました。

(駿府城からは40km~70kmほど離れており、歩いて9時間~15時間ほどもかかりますが(;^_^A)

また、名産の茄子ですが、「折戸なす」という丸っこい茄子が名産なのだとか。

(しかし、茄子の生産ランキングで、静岡県は圏外で、生産量は40位以下となっています…💦)

静岡市に、駿河湾に向けて飛び出た三保半島がありますが、

その砂地で栽培されたのが発祥と言われているそうです。

静岡県は温暖な地であるということは、1614年に書かれた『供奉記』にも書かれているそうです(冬が温かく、老人が過ごしやすいと書かれているとか。これも隠居の地としてふさわしいですよね)。

その温暖な気候を生かして、江戸時代から、茄子の促成栽培がおこなわれていたそうです。

静岡県の1月の平均気温は、6.7℃で、なんと全国5位!

1位~12位は、静岡県を除いて近畿・中国四国・九州と、日本南部に属する地方にある都道府県なので、静岡県の暖かさは際立っています。

しかもポイントは、大消費地である江戸(東京)に近いという点!

温暖な冬を生かして、野菜を栽培しない手はありません!!(野菜生産量は現在14位とそこまで高くありませんが…💦)

静岡市が温かい理由は、海の近くで、その海には暖流の黒潮が流れているということと、

周辺に山が多く山に囲まれており、冷たい風が吹きこみにくいことがあるそうです。

江戸っ子は「初物」が好きでした。その年で一番早く取れた野菜やら魚やらを食べたがったのです(初物を食べると75日長生きするといわれていたそうです)。

しかし茄子は夏野菜です。少しでも早く食べて周りに自慢したい江戸っ子の要望に応えるには、相当な努力が必要です(◎_◎;)

そこで実施されたのは、地面に生ごみ・わら・落ち葉を敷きつめて、発酵時に出る熱に、炭火を炊いたときに出る熱を加え、油障子(雨を防ぐために油紙を貼った障子)で囲って熱が逃げるのを防ぐ、という江戸版ビニールハウスともいうべき方法でした💦

これだけ手間暇をかけたので、それは値段が張ります。

正月に出された茄子は、サイズは大きくないのに、1つ1両(3~5万円)ほどもしたそうです💦

一説には、徳川家康は正月の茄子の値段を聞いて、

「正月の駿河で高いものは、一に富士、二に愛鷹山(あしたかやま。1504m。静岡県では43位だが、駿府城から見える山で二番目に高い、ということだろうか)、三に茄子だな」と言ったのだとか。

この説だと、鷹は鳥ではなく、愛鷹山ということになっていますね。

真実の所はわかりませんが、

「一富士二鷹三茄子」から、徳川家康のこと、静岡県の事こと、促成栽培のことが学べるという話でした(;^_^A

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