今はひげを剃るのがエチケットですが、
戦前は主に政治家・役人・教師などはヒゲを生やす人が多くいました。
福井県の米騒動では、リーダー人の中にヒゲの人がいたので、
安心して参加した、という声もあったほど、
ヒゲ=お偉いさん、信頼の証…になっていました(◎_◎;)
今回は、そのヒゲのブームが始まった明治時代初期の話をマンガにしてみました☆
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇ヒゲの大流行
明治7年(1874年)8月4日の『新聞雑誌』に、次のような記事が載りました。
「近来官員の口髭を伸ばす事大いに流行せり。勅奏官(※1)の紫毛森然、馬車に駕し路塵を蹴立て、喝々疾駆せるは高位貴官の威儀仰がれていとも殊勝なれど、更に抱腹に堪えざるは、下等官員のみだりにこれを模擬し、鼻下に少しの毛を蓄え、世にいわゆる那波列翁(ナポレオン)ひげ(※2)と云えるものの如くし長袴を着け、行厨(べんとう)を腰にし、沓音高らかに歩行す。あたかも参議卿輔の有様の如し。その級を問えば十二三等、その居を問えば某街幾番地水菓子渡世某楼上寄留などと、その形を視てその中を察す、識者の嘲りを免れず。そもそも人民の開明ひとり頭髪衣服に在らずといえども、世の虚飾名利に走る、その弊果して何の日に止まんか」
※1 勅奏官…明治4年(1871年)、役人は15等級に分けられました。1~3等は勅任官、4~7級は奏任官、それ以下が判任官といい、格が違いました。1等にあたるのは左院の議長、右院の諸省長官、諸省の卿など。太政大臣や左右大臣・参議も1等とされていました。武官では元帥が1等です。
中江兆民は9等として岩倉使節団に随行し、帰国後は、明治8年(1875年)に7等の権少書記官に任じられています。
前島密は明治2年(1869年)に9等で役人となり、明治4年(1871年)には4等の駅逓頭になっています。
※2 ナポレオンひげ…フランスのナポレオン三世がはやしていたような、八字ひげを言います。
明治時代になると、ヨーロッパ人をまねて、口髭を生やす役人が多くなった、高官ならまだわかるが、下っ端の方の役人でもひげを生やして威張っている、このような見栄を張る悪習は、いつになったら止むのだろうか…というのです。
このひげで見栄を張る風習は、太平洋戦争で負けるあたりまで続いたようで、
歴代総理大臣を見ても、大隈重信・西園寺公望・原敬などの例外はあるものの、戦前・戦中の総理大臣はほとんどひげを蓄えています。
しかし、戦後はひげを生やしているのは鳩山一郎・田中角栄など数人になり、平成以後は誰もひげを生やしていません。
アメリカでは20世紀に入ってからひげを生やす人はほとんどいなくなったそうで、その文化が入ってきたような感じでしょうか。
日本は戦国時代までは貴族や武士などが、ひげを生やしていたのですが、
江戸時代になって、1670年に大髭禁止令が出され、ひげの文化は一度消滅します。
江戸時代に禁止されたのは、日本人が野蛮人と差別していたアイヌ人がひげを蓄えていたので、ひげ=野蛮だとみなされるようになったのだといいます。
当時の中国人はひげを生やしていることを考えると、この説は少し苦しい気もしますが…。
徳川家康の隠し子と言われる土井利勝が、ひげが伸びてきたら徳川家康にとても似て来たので、そって登城したところ、次第にそれにならってひげをそる人が増えていった、とする説もありますが、どうなんでしょうね(;^_^A
いったん消滅したひげ文化が、明治時代になって再び復活したわけですが、
ひげで有名なのは大久保利通・板垣退助でしょう。
板垣退助はひげが有名ですが、実はひげを生やすのはだいぶ後で、
刺された事件の時でもひげを生やしていませんでした。
この時1882年で、45歳ですから、人生の半分以上はひげ無しだったわけです。
当時の事件のことを知らせた号外にも、ひげ無しで書かれているのですが、
ひげがある写真に、「遭難当時の板垣伯」と書いてあるのがあるんですよね…💦
よくわかりませんが、この前後にひげを生やし始めたのは事実なようです。
一方の大久保利通ですが、明治4年の岩倉使節団出発頃に生やし始め、
帰国する頃には教科書などで見る立派なひげになっていたということです。
最初に訪れたサンフランシスコの新聞では、
「大変知的な風貌の持ち主で、少しほつれたような長い頬ひげと口ひげとを気どって蓄えている」と書かれており、最初の方からけっこうひげは生えていたようです。
大久保利通はビスマルクをまねてひげを生やしたともいわれていますが、
大久保利通は欧米を視察中に撮った写真を西郷隆盛に送ったところ、
「みっともなさの極みです。もう写真はおやめください。まことにお気の毒千万でございます」
と返されてしまったそうです。
たしかに西郷隆盛はひげを生やしていませんし、写真も撮っていません。
おそらく、極端に西洋にかぶれていく大久保利通に、思うところがあったのでしょう。
ちなみに、大久保利通はひげは立派でしたが、髪の毛の方は心もとなかったようで、
岩倉使節団でともに欧米を回った田辺太一(1831~1915年。外交官として活躍)は、
「公の頭の天辺には大きな禿があった。ちょっと左の方へ寄った所だったから、髪の毛を長くしてそれを七分三分くらいに分けて、綺麗になでつけて禿を隠されたものだ。床から起きると、まず鏡に向かって髪の始末にかかられるといったふうで、洋服でも鏡の前でキチンと着けて、それから人に遭われたものだ。それだから朝が早いと待たされる」と語っています💦
カエサルも後ろの髪を伸ばして前に持ってきたという話がありますが、
同じように大久保利通も髪の毛を気にしていたのですね。
人間らしくていいですよね😆
0 件のコメント:
コメントを投稿