社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 12月 2022

2022年12月28日水曜日

マンガでわかる!社会契約論⑨~政治を国会議員任せにしてはならない!?~

  前回の社会契約論マンガは12月22日に公開していたので、

比較的早く更新できました(;^_^A

まぁ、前回の分を書いてた時、大事な内容すぎて、

1Pにおさまりきらなかったため、

アップできなかった分が残っていたというだけなんですが💦

前回のマンガでは、

現在の日本では主権(政治の決定権。ルソーは法律を作る力とする)は国民にあるが、

憲法にも書かれているように、その主権は国民の代表者である国会議員が代行している、

しかしルソーは主権は代表(代行)させてはならない、

一部の人間が全体の意思を代弁できるわけがない、

国会議員に政治を任せると、一部の人間の意志(特殊意志)によって政治を動かされることになるからよくない、

人は「一般意志にしたがう」義務はあるが、「特別意志に従う」義務はないのだから、

国民が参加していない法律は無効だ、とルソーが語った、ということについてやりました。

今回はその続き、国民が政治に無関心であると良くないことについてルソーが述べている部分です🔥(今回のマンガで取り扱うのは、第三編第15章部分になります)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇政治を国会議員任せにしてはならない~ルソーはかく語りき

国会議員は本当に「国民の代表」であるならば、個人や政党の意見で

法律案に対する賛否を決めて投票するのではなく、

自分を選んだ地域の住民の意見を集めて、その多数意見でもって国会で投票すべきです。

しかし、実際にはそのようになっていません(-_-;)

では、どうすれば国民が参加して(国民の意見が取り入れられて)

法律が作られるようになるのでしょうか?

1つは、地方選出議員は、政党に所属しないことです。そうしないとその地域の声を反映させることができないからです。

ですから、現在の制度では、衆議院議員は政党に所属するべきではない、ということです。

参議院には全国区がありますが、これならば、政党に投票してもいいと思います。一部の声ではなく、全国民の声ですから、言うならば国民投票といっしょです。

話はそれますが、参議院の全国区選挙で多数を占めた政党が内閣を組織すれば良いと思います。

その内閣が「一般意志」に沿わないような法律案を作ったとしても、参議院よりもより地域の人々に密接に結びついているために、優越的な地位にある衆議院によって否決されるでしょう。

1つは、国会議員がきちんとこまめに選出された地域に戻り、意見を集め続けることです。

ですから、以下のように憲法は改正すべきです。

①衆議院議員は政党に所属してはならない。

②衆議院議員は法律案の議決までに、選出された地区の住民の意見を集約して公開し、法律案の採決の際は、その多数意見に基づいて投票をしなければならない。

しかし、以上の2点は現状では期待できないので、

実際に国民ができることとしては、「請願」や「陳情」があります。

現在の憲法では、国民に法律を作る力、変更させる力、廃止させる力はありません。つまり主権者なのに立法権はないわけです。

(一方、地方においては、「条例」を作ることを要求する権利、「条例」を変更したり、廃止したりする権利が、住民にあります。つまり、地方では立法権は議会だけにあるわけではなく、住民にもあるのです。このために、「地方自治は民主主義の学校」というのですね)

立法権はありませんが、請願することはできます。

憲法16条に法律…の制定、廃止又は改正…に関し、平穏に請願する権利を有」する、とあるからです。

請願の仕方は、次のようになります。

①請願者の住所・氏名を明記した文書に、要望する内容を簡潔にまとめる。

②国会召集日~会期終了7日前までに、議員の紹介により請願書を国会に提出する。

③請願は内容に応じて適当な委員会に回され、本会議(もしくは内閣)で採択するべきものかどうか審査される(議事は「過半数の賛成」が必要と国会法にあるので、過半数の賛成が必要とはなりますが、国会法には別に議員二十人以上の要求があるものは、これを会議に付さなければならない。」とあるので、20人以上の紹介があれば、委員会は必ず通過できるようです)

(ちなみに2022年1~6月に開かれた208回国会衆議院で採択された請願[9件]は全て内閣に送付されています)

請願は内閣に送付されたとしても、国会法に内閣は、前項の請願の処理の経過を毎年議院に報告しなければならない。」とあるだけで、必ず請願内容を実行しなければならないわけではありません。

また、請願は、208国会衆議院で採択された請願で最も多い署名数が24万名であることからわかるように、少数者の意見を届けようとするものでしかありません(少数意見の尊重のためのシステム?)。

やはり、法律案について、毎回国民の声を吸い上げるやり方が適当でしょうが、

こう思う人もいるかもしれません。

「いちいち意見を国会議員に伝えなければいけないの?

こっちは仕事で忙しいんだよ、そんな暇はないよ。

政治の事は政治家に任せればいいんだよ」

しかし、ルソーはこう言うのです。

「市民の主な仕事が公務ではなくなり、税を払う方を好むようになると、

国は滅亡に瀕している。

そうなると、兵士としてではなく、金を払って軍隊に任せるようになり、

政治も代議士に任せるようになる。

商業や工業に熱中する市民は、国への奉仕を税金で代用する。

奉仕の代わりに利益を増やし、その一部を国に支払う。

しかし、そのように任せきりになると、自由を制限されることになるだろう。

国の事について、『それが私に何の関係があるのですか』と言い出すようになったら、すでに国は滅んだといってよい」

政治家任せにすると、政治家にとって都合のいいように政治をされ、自由を失っていくことになるのだと。

政治に関心を持つようにしなければなりません。

しかし、政治アレルギーな人は多く、

Twitterでも、「政治関係のアカウントはフォローバックしません」というアカウントがあります。

政治家にも責任があります。

政治家は、主権者である国民が政治に関心を持つようにしなければなりません。

しかし、悪い政府にとっては、国民が政治に無関心な方が、政治家のための政治ができるようになるので、都合がいいのです。

ルソーはこうも言っています。

「悪い政府だと人々の足は集会に向かない。

集会で決議されることに関心を持たないからだ」

つまり、今の政府は悪い政府なのでしょう💦

次回では、行政権の拡大と、それを防ぐ方法について述べた部分について紹介したいと思います!


2022年12月26日月曜日

ドキュメント石油危機15 1973年10月25日~資源節約のため新幹線の速度アップは延期!?

 1973年10月23日に第四次中東戦争は終わりを告げたとされていますが、

実際は24日にスエズ運河西岸で戦闘が起こるなど、完全に終わったわけではありませんでした(◎_◎;)

第四次中東戦争の中では、イスラエルに味方する国々に打撃を与えるため、

アラブ諸国により石油の生産の削減などが行われましたが、

その影響は日を追うごとに、日本に現れていくことになります💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


<今回のマンガに関連する新聞記事>(福井新聞縮刷版1973年10月下より)

〇原油供給を削減 国際資本3社が通告

アラブ産油国の生産削減に伴う世界的な原油不足で、国際石油資本(メジャー)はわが国石油業界にいよいよ供給量の削減を通告してきた。25日までに通告してきたのはブリティッシュ・ペトロリアム(BP、英国)、エクソン(米国)ガルフ(同)で、BPの場合11月から対日供給量の10%を削減することになっており、他社の場合も同様の内容とみられている。

一方、丸善石油(宮森和夫[※1]社長、本社大阪)はインドネシアの低硫黄原油の供給が減ったことを理由に25日、東京、関西、中部電力などに引き渡し量の削減を申し入れ、原油不足は電力供給にまで及ぶ事態となってきた。

シェル(英国)、モービル(米国)も来週中に供給削減を通告してくるとみられており、日本石油(滝口丈夫[※2]社長、本社東京)に対して安定供給を約束しているカルテックス(米国)も削減してくる可能性があるとみられている。

わが国は必要とする原油の72.2% (46年度)を8大国際石油資本を含む米、英、石油資本に依存しており、国際石油資本の供給量削減はわが国の石油需要を圧迫、長期化すれば末端需要にまで影響が出るおそれもある。

一方、丸善石油の東電などに対する供給削減は、丸善の供給元であるユニオン・オイル(米国)が、インドネシアのアタカ原油の対米輸出量が増えたことを理由に対日供給を減らしたことによる。

同原油は硫黄分0.1%と極めて良質な原油で電力業界には欠かせないものだけに、今のところ対日供給量は1日あたり5千バレル余と少ないとは言え、東電など業界は「この動きが広まれば、燃料の手当てに困る」と重視している。

わが国の原油輸入実績は47年度2億4360万キロリットルで、これを供給者別に見ると、カルテックス(米国) 15.7%、シェル(英国) 12.8%、エクソン(米国) 11.9%、モービル(同) 9.2%、日本の産油会社8.6%、ガルフ(米国)8.1%、ブリティッシュ・ペトロリアム(英国) 4.2%などである。

※1 宮森和夫(1902~1988年)…1964年に丸善石油の社長に就任。就任時、丸善石油はひどい赤字だったが、宮森は「人生最後の勝負を当社再建にかける」と話し、1967年3月に赤字を解消。1968年アブダビに、1969年アラスカに石油開発会社を設立。1969年に丸善石油の広告のキャッチコピー、「猛烈ダッシュ」から、「モーレツ」が流行語となった。1976年に会長職に退いた。

※2 滝口丈夫…正しくは瀧口丈夫(たけお)。日本石油(現:ENEOS)の元社長。2002年9月21日、肺炎のため95歳で死去した。

〇電力料金は累進制度を 資源節約自民が提言へ

自民党は25日午前、政調審議会、資源対策特別調査会の合同会議を開き「資源エネルギーの合理的利用の推進に関する提言」をまとめた。近く党総務会に諮ったうえ、政府に提出し、具体策の検討を要請する。この提言は、わが国が資源エネルギー不足で深刻な危機に直面しているとして、資源節約の面から国民にも協力を呼びかけたもので、資源対策の「ケチケチ版」。その主な内容は①将来予定されている新幹線のスピードアップは慎重にする②クーラーの普及などの消費電力の増加に応じて電力料金制度を再検討する③安全性の高いノンクラッチ車(※1)の普及も慎重にする。④紙節約のため過剰包装や過度の広告は自粛するーなど。さらにこの合理的利用対策と合わせて新資源エネルギーの技術開発を積極的に推進するよう付言している。この提言は国民の消費生活の抑制につながる恐れがあるため、各方面に波紋を呼ぶことになろう。

自民党は深刻な資源問題に対処するため、今年夏、資源対策特別調査会(倉石忠雄[※2]会長)を設置し、資源エネルギーの使用の合理化推進に関する第一分科会(小沢太郎[※3]主査)新資源エネルギーの開発及び廃資源の活用増進に関する第二分科会(前田正男[※4]主査)資源エネルギーの供給確保及び?資源エネルギーの要請に対する新しい産業構造推進に関する第3分科会(小笠公韶[※5]主査)にそれぞれ分かれて対策を検討してきた。

このうち第一分科会が最初に作業を終えて提言をまとめ、この日の合同会議で了承を得た。その内容は①生産②運輸③流通販売ー各部門の資源エネルギーの合理的利用④エネルギーの多目的利用⑤廃資源の回収再生利用⑥国民運動の展開ーの6項目にわたっている。

この実施にあたっては国、地方公共団体及び民間企業が率先することとし、併せて一般消費者にも協力を呼びかけている。

この中で資源エネルギーの「むだ遣い」としてヤリ玉にあがっているのはテレビ、冷蔵庫、クーラーなどかつての”三種の神器”や新幹線、ノンクラッチ車、広告、ダイレクトメール、自動車などの過度のモデルチェンジ、過剰包装などである。現在のテレビはほとんどがプレヒート式で、受信していない時も常時通電してブラウン管を温め、電力を食っている。このテレビは現在約240万台で、仮に使用時以外にスイッチが切れるよう”改良”した場合は、年間約14万キロワットが節約できるとして製品の改良促進を提言している。新幹線のスピードについては国鉄は将来、現在の時速200キロから250キロにアップする計画を持っている。その場合、年間発電設備で13万キロワット、電力量 5億キロワット時の増加が必要とされるといわれる。したがって提言では、省エネルギーの観点に立って慎重な検討を要請している。

クーラーの普及率の伸びは年々著しく現在750万台。夏のピーク時には相当な電力を食っている。提言ではこれに対応して「累進的な電力料金制度の検討」を述べて、料金引き上げを示唆している。

モデルチェンジについては、大幅変更のフルチェンジは4ー6年ごとに行われるが、軽度の変更は毎年。自動車、家電製品のモデルチェンジは品質向上を図る反面、環境問題、資源浪費につながるので過度のモデルチェンジの自粛が提言されている。

広告、ダイレクトメールについては自粛を求めると同時に、第3種郵便物(※6)の認可基準の広告比率(現在紙面の50%以下)の引き下げや広告税の検討をうたっている。このほか廃車、プラスチック、廃棄タイヤ、空きかんなど廃資源の回収再生利用の促進が指摘されている。

※1 ノンクラッチ車…クラッチペダルがないマニュアル(MT)車のこと。ノークラとも。70年代は「ノン」という言葉がはやっていたそう。作りがシンプルなので(その分操縦者が細かく操作しないといけない)、燃費が良く、その上に値段もオートマチック(AT)車よりも安いらしい。

※2 倉石忠雄(1900~1986年)…1947年衆院選に自由党から立候補し、初当選(以後連続14回当選)。1955ー56、58-59年労働大臣。1966ー68,70ー71,73ー74年農林大臣。1979ー80年法務大臣。1983年引退。政界きってのダンディ男と言われた。

※3 小沢太郎(1906~1996年)…田中義一の娘婿。1953ー60年山口県知事。任期途中で辞職、1960年衆院選に自民党で出て当選するも、1963年時は落選、1967年に再当選を果たす。政務次官を歴任した。1977年、参院選に鞍替えして当選。1983年引退。

※4 前田正男(1913~2008年)…1947年の衆院選に無所属で出て当選。のち自民党結成に参加。1976年、ようやく科学技術庁長官となるが、その年の衆院選に落選し、3か月しか務められなかった。1980年に復活当選を果たす。1983年引退。

※5 小笠公韶(こうしょう)(1904~1985年)…1952年衆院選に出馬も落選、翌年当選を果たす。政務次官や、内閣官房副長官を務めた。1971年、参院選に鞍替えして当選、1期務めた。

2022年12月23日金曜日

旧国名が市町村名!~静岡県編~「伊豆」愛がヤバすぎる

  市町村合併などを機に、新市町村名に旧国名をつけるパターンが

ほぼ全国的に見られます。

前回は山梨県編をやりましたが、

今回は、第三弾、旧国名が「遠江・駿河・伊豆国」の静岡県編です!

温度差が凄い!!(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇遠江・駿河・伊豆

はじめは遠江・駿河の2国だけでしたが、

680年(天武天皇9年)に、駿河の国から分離して伊豆国が誕生しました。

静岡県に遠江・駿河由来の地名は1つもないのですが、

伊豆由来の市町村名はなんと6つもあります(◎_◎;)

伊豆だけ愛が強すぎるぜ!!!(;'∀')

(※ただし、静岡市は2003年に清水市と合併する際に新市名を全国から公募し、

その際応募件数3位に「駿河市」、5位に「するが市」、6位に「駿府市」があった。

ちなみに応募の3分の1は「静岡市」。

〇伊豆市

・2004年、修善寺町・土肥町・天城湯ケ島町・中伊豆町の4町が合併して成立。

・合併した中伊豆町は上大見村・中大見村・下大見村が合併してできた町。

土肥町は西豆町と合併した過去がある。伊豆好きやねぇ…(;^_^A

・伊豆市を名乗るが、伊豆半島の中心だったことはない。市の大半(67%)は山地である。

・新市名を公募。その中から「伊豆」「いず」「中伊豆」「伊豆中央」の4点に候補を絞り、この候補案から委員により選ばれたのが「伊豆市」。全会一致であった。

「伊豆市」を選んだ理由は、

○知名度が高いものである。

○地域で最初の合併であり将来のさらなる合併による

「伊豆は一つ」を目指すうえでも志が高く、夢のもてる名称である。

○4町の人々が等しく愛着をもてる。

などがあった。

最終的に伊豆半島全部で伊豆市になろうとしていたんでしょうかね??(゜-゜)

それにしても最終候補全てに伊豆が入っているとは…(;^_^A

他の応募作品には、「伊豆天城」「踊り子」「天城修善寺」「わさび」などがありました。

この応募作品からは伊豆市がどういうところかわかりますね!😆

・静岡県はわさびの栽培面積・生産量が日本一なんだそうですが、

その中でも伊豆市は屈指の生産量(市町村別だと、長野県安曇野市に次ぐ2位)を誇り、市内のいたるところにわさび田があるそうです。

「道の駅 天城越」には、わさび専門店「わさびの店」もあります💦

わさびがたっぷりつけられたソフトクリームも販売されているそうな(◎_◎;)

意外と辛くないんだとか😲

・川端康成の「伊豆の踊子」の舞台となった場所です。

・でもやはり、修善寺と天城越えが有名なので、修善寺市か、天城修善寺市がよかったようにも思います💦伊豆の中心地でもないですし…(-_-;)

・あと、「駿河市」という応募もあったが、ここは伊豆なんですが…(-_-;)

(大昔は駿河やったけど)

〇伊豆の国市

2005年、伊豆長岡町・大仁町・韮山町が合併して成立。

・合併が伊豆市より1年遅れ、伊豆半島の中心地であったのに伊豆市を名乗れなかった(人口は伊豆市2.7万人、伊豆の国市4.6万人。伊豆系では伊東市がもっとも多く、6.4万人)。

・新市名を公募。

上位10点は、「伊豆中央市」「伊豆長岡市」「伊豆韮山市」「伊豆北条市」

「狩野川市」「狩野市」「北伊豆市」「源氏市」「田方市」「韮山市」であった。

「北伊豆市」と「伊豆中央市」があるのが矛盾している…(;'∀')

伊豆半島の中央なのか…北部なのか…。どう見ても中部は伊豆市だと思う…( ^ω^)

狩野川は、合併した3町を流れ、鮎釣りのメッカであるそうな。

「田方市」は、3つの町とも「田方郡」に属するからだそうな。

ここから協議会委員の投票により2点にしぼられた。

伊豆北条市がもっとも多い10票。

伊豆の国市・狩野川市が5票で同数となり、再投票となって、

伊豆の国市が狩野川市を6票上回り、決勝戦に進んだ。

そして決勝戦。伊豆北条市は準決勝の10票のまま変わらず、

残りの委員は伊豆の国市に投票(12票)し、わずか2票差で伊豆の国市となった。

「伊豆の国市」の応募理由は、「昔からの歴史ある名称」「伊豆という言葉が入り、響きがいい」「農協と同じ名前で地域に定着している」「3町に共通、公平」というものでした。

伊豆の国市よりは伊豆北条市のほうが良かった感じもします💦

伊豆市と区別しづらいですし…(-_-;)

あと、「韮山」は、江戸時代、代官所が置かれて、伊豆の国の統治の拠点になっていた場所なので、「韮山市」で良かった気もします…。。

ちなみに、他の応募作品には、

「アユ市」「鮎市」「イチゴ市」「苺市」「伊豆いちご市」「苺みるく市」「大いちご市」「伊豆スカイライン市」「IZU SENTRAL CITY」(CENTRALの間違いか。恥ずかしい(〃ノωノ))「伊豆の踊り子市」「伊豆の要市」「伊豆ピカ一市」「なかよ市」「21世紀市」「ニュー伊豆市」「にゅうよーく市」「旗上げ市」「堀越市」「レインボー市」「歴市」などがあり、

鮎・いちごが名産なのだとわかる(いちごは2006年時、全国12位の生産量)。

伊豆の踊子はほぼ伊豆市が舞台である。

「旗上げ市」は源頼朝が挙兵した場所(北条氏館。元韮山町)であることから(源氏市や、みなもと市なども同様。頼朝が流されていた蛭ヶ小島も元韮山町)。

「堀越市」は堀越公方が本拠地としていた堀越が元韮山町にあったことから。

あと、「駿河市」という応募もあったが、ここは伊豆なんですが…(-_-;)

(大昔は駿河やったけど)

〇伊東市

・「伊豆国の東部」の意味。

1947年、伊東町と小室村が合併して伊東市となり、その後1955年に対島村、宇佐美村と合併して現在に至る。伊東村は明治時代から存在しており、歴史が長い。

〇東伊豆町

・伊東市と意味がかぶっている。

1959年、稲取町と城東村が合併して成立。

〇西伊豆町

1956年、仁科村と田子村が合併し、西伊豆町となる。その後、2005年に賀茂村と合併し、新しく西伊豆町となる。

(賀茂村は賀茂郡ではなく、那賀郡にあるのに賀茂村という謎の村であった)

この際、新町名は公募されず、西伊豆町と早々に決定。吸収合併の形となる。

〇南伊豆町

・1955年、南中村・南上村・三坂村・三浜村・竹麻村・南崎村が合併して南伊豆町となる。

・2000年代に、南伊豆町・下田市・松崎町・河津町で合併の話があり、

もし合併していれば、公募により決まった「下田市」になる予定だったが、

新市名公募上位3つは「伊豆下田・下田・南伊豆」であり、

伊豆がついた新市名になる可能性があった(;^_^A

2022年12月22日木曜日

マンガでわかる!社会契約論⑧~国会議員は国民を代表できない!?~

 前回の社会契約論マンガは12月1日に公開していたので、

3週間ぶりになりますね💦

前回も約一か月ぶりの公開となっていたので、いつもお待たせしてすみません(-_-;)

前回のマンガでは、

「立法権」「執行権(行政権)」では、大事なのは立法権の方である、

なぜなら、法律を作り、変更し、廃止する権利が、主権者のもとにあるからこそ、

みんながやりたいこと(一般意志)が法律という形となって表れるのであり、

みんながやりたいことと反する法律ができた時に法律を変更したり廃止することができるのであって、

みんながやりたいこと(一般意志)が実現し、守られる社会となるためには必要不可欠なものなのだ、ということについてやりました。

その立法権は、現在の日本では主権者である国民を代表する国会議員に委ねられていますが、「立法権を委ねる(任せる)」ことについてルソーはどう言っているのか、ということについて見ていこうと思います🔥(今回のマンガで取り扱うのは、第三編第15章部分になります)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇主権は代表できない~ルソーはかく語りき

「国民主権」…国民に主権がある、と小学校で習いますが、

「主権」とは何でしょうか?

ルソーは第二編第1章でこう言っています。

「主権とは一般意志の行使に他ならない」

「一般意志の行使」とは何ぞや…!?(;^_^A

「行使」とは実行すること、ですから、

「みんなのやりたいこと(一般意志)を実際に行うこと」ということになりますが、

これだと執行権(行政権)の分野になってしまいませぬでしょうか。

まぁ、第三編第1章には、

「行政権は政府にある。…政府は間違えられやすいが主権者ではなく、…権力の行使を委任されているにすぎない」とあるんですが。

同じく第三編第1章には、

「主権者のすべての行為は法を定めることである」

とあるので、ルソーの言う「主権」とは、「法律を作ること」だということがわかります。

「法律」とは「みんながやりたいこと」を形にしたものです。

政府は主権者が決めたことを実行する存在にすぎません。

つまり、国のやることの最終決定権は、国民にあるということになります。

ある家庭で旅行先を決める最終決定権が、母親に任せられるとしても、

国の法律(一般意志。みんなのやりたいことを形にしたもの)を決める最終決定権(主権)は、国民ひとりひとりにあります。

しかし、現在の日本では、法律を作り、決める力は国民になく、

国会議員にあります。

国会議員は、日本国憲法前文でいうところの、

「正当に選挙された国会における(国民の)代表者」のことですが、

同じく日本国憲法前文に、主権は「国民の代表者がこれを行使」する、とあります。

しかし、この国民を代表して主権を代わりに行使する国会議員について、

ルソーはこう言います。

「主権は代表できない。意志は代表されるものではない。一般意志に中間は存在しない」

国会議員を真っ向から否定しているわけですが💦、なぜでしょうか。

ルソーは、第二編第3章でこう言っています。

「政治団体は作ってはならない。なぜなら、意見の数が減り、より少ない意見によって国が動かされてしまうことになるからだ」

ルソーは意見の多様さを重視します。

同じく第二編第3章で、ルソーはこう言います。

「すべての人の利害は、各人の利害と対立することによってはじめて合致する」

Aの意見とBの意見が対立したとき、その共通する部分が「一般意志(みんながやりたいこと)」になるのだ、とルソーは言います。

例えば200人生徒がいる学校があるとします、

ある校則について200通りの意見が出て、その200個の意見の中では対立する部分も多く見つかり、共通する部分を見つけるのは容易なことではないでしょう。しかし、共通部分が見つかれば、それはみんなが納得するもの(=一般意志)であるはずです。

しかし、10個あるクラスの級長がクラスの代表として10人集まって、その出した意見の共通部分は、全体の意志を代表しているのかといえば、それは明らかに違うでしょう。意見が少ない分、対立する部分が200人の時と比べて少なく、そぎ落とされる部分は多くないために、10人の意見の中で残った共通部分は、学校のみんなが納得できない部分が残っているはずです。

そのため、ルソーはこう言うのです。

「だから代議士は人民の代表ではないし、人民の代表になることはできない。代議士はただの代理人であって、最終的な決断を下すことはできない」

ルソーの言う守る義務のある「社会契約」とは、「一般意志に従う」というものだけです。

代表たちの意見は「一般意志」ではありません。

ですから、代表たちでは人々を従わせる、一般意志が形となった「法律」を作ることができないのです。

ですから、国会議員はなんだか偉そうにしていますが、

(給料も一般人よりも多くもらって)

本当はただの代理人であって、

本当は、自分の意志だけで法律案などに対する意思を表明してはならず、

いちいち地元に帰って、地元民の意志をまとめなければならないのです。

ですから、国会議員の仕事というのは、地元民の意志をまとめて法律案を作ること、法律案の趣旨をわかりやすく説明して地元民の意志を知ること、であるはずです。

しかし実際は国会議員は選挙の時くらいしか顔を見せませんし、何かの行事に挨拶するくらいで、

今国会ではこんな法律案を審議しています、こんな趣旨です、皆さまどう思われますか、皆さまの意見を集約させていただきたいと思います、などと言っている場面は見たことがありません。

一度当選してしまえばこっちのもので、自分の意志や、一部の意志(利権団体など)だけを判断材料にして国会で行動します。

本当は、衆議院であれば、小選挙区は選ばれた地域の意見を集約し、共通部分を見つけることに奔走しなければならないはずで、比例代表区であれば、そのブロック(北陸信越ブロックなど)の意見を集約しなければなりません。

ですから、小選挙区選出の議員からは細かい地域の共通意見が、比例代表区の選出議員からは、より広い範囲の共通意見が期待できる…はずなのですが、実際はそんな仕事している様子はありません。

ルソーも第二編第3章で「政治団体は作ってはならない」と言っていますが、

政党があるために、自分が選ばれた地域のために活動するのではなく、

自分の所属している政党に従って活動しているんですよね…(-_-;)

つまり、「一般意志」(みんながやりたいこと)ではなく、

「特殊意志」(特定の人物・組織がやりたいこと)を優先して活動するわけです。

国民は、みんなのやりたいこと(一般意志)が法律となり、それに従うのなら納得できます。

自分のやりたいことなんですから、言うなれば自分が自分を従わせているのといっしょです。

しかし、実際は政党のやりたいこと(特殊意志)によってつくられた法律に従わせられているわけで、

これだと自分の望まないことに従わせられることになるわけで、

これは奴隷状態であると言ってもいいでしょう😥

ルソーは、

「イギリスの人民は自由だと考えているが、それは大きな思い違いだ。自由なのは、議員を選挙している間だけだ。選挙が終われば、人民はもはや奴隷である」

と第三編第15章で有名な言葉を語っていますが、

国会議員は選挙の時だけペコペコして、地元民の意見を聞こうとする姿勢を見せますが、

当選すればこっちのもんだとばかりに、有権者を顧みなくなります。

ですからルソーは、

人民が自ら参加していない法律は、無効である」と断じるのです。

国会議員に任せていたら、「一般意志(みんなのやりたいこと)」は実現できません。

国民は「一般意志にのみ従う」のであって、「特殊意志」には従う義務はないのです。

次回では、ルソーが人民の政治に参加について述べた部分を紹介したいと思います!

2022年12月20日火曜日

信長公記マンガ 「決戦・桶狭間~桶狭間の戦い⑥」の3ページ目を更新!

 「歴史」の「戦国・安土桃山時代」のところにある、

信長公記マンガ決戦・桶狭間~桶狭間の戦い⑥

3ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

今川義元と戦った服部小平太(小藤太)・毛利新介のその後についても補足しています😆

2022年12月18日日曜日

「雷を恐れた男」北条義時

 今回でとうとう「鎌倉殿の13人」が終わってしまいましたね…(-_-;)

北条義時、「不器用」の言葉に尽きました…。

今回のマンガは、北条義時についてのエピソードです。

しかし、北条義時は、ほんとに人となりがわかるようなエピソードが全然ないんですよね💦

今回書いたエピソードは、義時の貴重なエピソードの1つなんですが、

「鎌倉殿の13人」では使われませんでした…(´・ω・`)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇北条義時と承久の乱

今回のエピソードについては、『吾妻鏡』に次のようにあります。

戌刻、鎌倉の右京兆の舘之釜殿于雷落す。疋夫一人之の爲 侵被 畢。

亭の主頗る怖畏し、大官令禪門を示し招き合い云はく。

武州等の上洛者、朝庭を傾け奉らん爲也。而るに今此の怪有り。若し是、運命之縮端 可き歟者り。

禪門云はく。君臣の運命、皆天地之所掌也。倩ら案ずるに今度の次第、

其の是非は宜しく天道を仰ぐ之决断、全く怖畏之限りに非。

就中に、此の事、關東に於て佳例爲歟。

文治五年、故幕下將軍、藤泰衡征する之時、奥州の軍陣に於て雷落ち訖。

先規、明かと雖も故に卜筮有る可き者り。親職、泰貞、宣賢等、最吉之由同心に之を占うと云々。」

北条義時(建保5年[1217年]に右京権大夫となっていました。これは中国でいうと右京兆にあたります)邸の湯や御膳を用意する釜殿というところに雷が落ち、

そこで働いていた人夫が1人亡くなるという事件が起こります。

承久3年6月8日の午後8時のことでした。

承久3年6月8日というのは、西暦に換算すると1221年6月29日の事です。

後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたのは承久3年5月15日(5・15事件…!といいたいところですが、西暦に換算すると6月6日のことです)の事でした。

それに対し、鎌倉方が北条泰時を出発させたのが5月21日のことでした。

以下、経過を追ってみると、

5月29日 佐々木信実(加地信実とも。佐々木盛綱の子。子孫は戦国時代に活躍した新発田氏・竹俣氏。1176~1243年)が、京都方の首謀者の一人、藤原信成(水無瀬信成とも。1197~1262年)の家人である酒匂家賢(梶原氏の一族)が越後国加地庄(新潟県新発田市佐々木)の願文山に立てこもったのを追討する。

6月5日 武田信光らが大井戸(岐阜県可児市土田)で京都方の大内惟信を破る

6月6日 北条時氏らが摩免戸(各務原市前渡)・筵田(本巣市糸貫町)で京都方を破り、株河・洲俣・市脇などの要害を奪う

6月8日 北陸道を進む北条朝時らが越中国の砺波山付近で京都方を破る

6月13・14日 宇治・瀬田で京都方との決戦、これを破る

6月15日 鎌倉方、入京。北条時房・泰時、六波羅に到着。三浦胤義三浦義村の弟)、自殺。

7月8日 後鳥羽上皇、出家

7月9日 仲恭天皇(1218~1234年。4月20日に父の順徳上皇の譲位を受けて4歳で即位したばかりだった。78日の在位は歴代最短)譲位、後堀河天皇(1212~1234年)が践祚

7月13日 後鳥羽上皇、隠岐国に遷る(到着は8月5日)

7月20日 順徳上皇(1197~1242年)、佐渡国に遷る(そのまま当地で死去)

7月24日 雅成親王(1200~1255年)、但馬国に遷る(その後赦されて京都に戻るが、雅成親王を天皇にしようとするたくらみが発覚して但馬に戻され、当地で死去)

7月25日 頼仁親王(1201~1264年。源実朝の次の征夷大将軍に予定されていた人物)、備前国児島に遷る(そのまま当地で死去)

10月10日 土御門上皇(1195?~1231年)、志願して土佐国に遷る(のちに阿波国。そのまま当地で死去。1242年、子が即位して御嵯峨天皇となる)

…ということになります。

つまり、北条義時邸に雷が落ちたのは戦いの最中だったわけですね⚡

北条義時は非常に驚き、大江広元(1217年に出家して覚阿と名乗る)に、

「今私のしていることは朝廷に逆らうことだ、そしてこの異変があった。これは命運が尽きる兆しだろうか」と相談します。

それに対し大江広元は、「君主や家来の運命は神様が決めるものです。今の戦いの是非については、戦いの起こった経緯を考えると、まったく恐れる心配はございません。しかも、落雷というのは関東にとってはめでたいことです。文治5年(1189年)8月7日に、故幕下将軍(源頼朝)が奥州合戦の際に赴いた国見の陣営に雷が落ちましたが、戦いに勝ちました。吉例なのは明らかですが、念のため占わせてみましょう」と答えます。

安倍親職・泰貞・宣賢(幕府の陰陽師。京都から源実朝付きの陰陽師として派遣されていたが、実朝暗殺後に京都に戻ってくることを禁止されたため、そのまま鎌倉に陰陽師として残った)らが占ったところ、全員「最吉」と出ました。

これで北条義時は恐らく落ち着いたのでしょうが、

押しが強く鉄面皮と思われていた北条義時がここまで動揺するとは、人間らしいですね(;^_^A

まぁ、平将門しかり、藤原純友しかり、朝廷に対して戦いを挑んで勝った例はありませんから、不安だったのでしょうが、

もしかするともともと北条義時は不安症だったのかもしれません。

だから、自らの敵となる存在を怖がり、排除していったのかもしれませんね💦

〇女好きだった北条義時

『吾妻鏡』を読んでいて驚くのは、

承久3年(1221年)11月に義時の妻(伊賀の方?この頃30代後半と考えられるが…でも、北条政子も35歳で源実朝を出産している💦当時で高齢出産は大変だったろうに…)が女子を出産した、承久4年(1222年)12月に義時の妻が男子(北条時経)を出産した、という記述があることです(◎_◎;)

北条義時は1163年の生まれですから、この時58・59歳ですよ!死ぬ2・3年前です…(;^_^A

父親の北条時政も51歳の時に北条政範をもうけていますから(このとき北条義時はすでに26歳、しかも義時の子の泰時は6歳でした。つまり、泰時には6歳年下の叔父がいたことになります💦)、父親譲りだったのでしょう…。

そして、義時の子の北条泰時もまた女好きであったようで、1241年、死ぬ一年前の58歳の時に三男の公義をもうけています(;^_^A

北条氏、すごすぎる…(;'∀')


2022年12月16日金曜日

信長公記マンガ 「決戦・桶狭間~桶狭間の戦い⑥」の2ページ目を更新!

  「歴史」の「戦国・安土桃山時代」にある、

信長公記マンガ決戦・桶狭間~桶狭間の戦い⑥

2ページ目を更新しました!😆

今川義元に最後の時がせまります…(◎_◎;)

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

岩倉具視と床屋の話

 日本人に人気があるのは戦国時代や幕末なんですが、

(でも幕末を扱った大河ドラマの視聴率はあまり良くない)

明治時代以降は、豊富な資料が残っていて、

歴史上の人物の人となりがよくわかるので、

私は明治時代以後も大好きなんですけどね(;'∀')

偏食良くない!

さて、今回は、岩倉具視に関するエピソードを、

『明治百話』(岩波文庫)から拾ってみました😆

※マンガの後に、補足・解説を載せています♪


〇散髪屋の登場

江戸時代までは、みんなちょんまげだったので、髪を切る(刈る)というよりは、

月代をそり、ちょんまげを結う、髪結いという仕事がありました。

月代は剃らないとすぐ生えてくるので、人々はかなり頻繁に床屋に行っていたので、床屋は一種の社交場になっていたようです。

明治時代になると、

明治4年(1871年)には「斬髪を許可する」(許可というよりは、斬髪を奨励する)という「断髪令」も出されて、

徐々にちょんまげの文化は無くなっていったのですが、

慣れ親しんだちょんまげをやめるのを嫌がる人も多かったようで、

『明治百話』には、

屋敷の者の斬髪を頼む、と言われて行ってみたら、

屋敷の者たちが「床屋を屋敷に入れるな、そうしないとみんなチョン切られる」とひどくいやがられた、というエピソードが載っています。

また、明治6年(1873年)3月、敦賀県(現在の福井県)で、断髪令に反対する3万人が散髪・洋装の撤廃を要求した一揆も発生しています(6人が騒乱罪で死刑)。 

しかし、散髪は徐々に普及していき、普及率は、明治5年10%、明治8年20%、明治10年40%、明治13年70%…と伸びていきました。

『明治百話』によれば、散髪を頼みに来る屋敷が非常に多く、

人力車に乗って屋敷と屋敷を駆け回っていたそうです。

〇日本の最初の散髪店

日本人による最初の散髪所は明治2年(1896年)、小倉虎吉という人によって開かれたそうです。

明治31年(1898年)8月7日の時事新報には、

「小倉虎吉率先して明治1、2年の頃、今の148番館即ち俚俗支那屋敷に散髪床を開き、神奈川県庁に出願して理髪営業鑑札48枚を受け、原、松本、竹原等と腕を揃えて専ら西洋流の散髪を始めたり。これを横浜における日本人散髪業者の元祖なり」

…と記されています。

散髪のやり方は、外国船に乗り込んで、西洋人の理髪師のやり方を何度も繰り返し見て覚えたんだそうな。

〇岩倉具視と床屋

『明治百話』によれば、

岩倉具視は「疳の高い」人物であったそうです。

「疳」とは、「癇癪(かんしゃく)」と同じ意味だそうで、

「ちょっとしたことにも興奮し、いらいらする性質・気持ち」(大辞泉)だそうです。

そのため、お付きの二人は、岩倉具視が「疳の高い恐ろしい人だったから、…いつもハラハラしているよう」だった、とあります。

大変ですね…(;^_^A


2022年12月14日水曜日

旧国名が市町村名!~山梨県編~

 市町村合併などを機に、新市町村名に旧国名をつけるパターンが

ほぼ全国的に見られます。

前回は石川県編をやりましたが、

今回は、第三弾、旧国名が「甲斐国」の山梨県編です!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇甲州市

甲州市は2005年に塩山市・勝沼町・大和村が合併して成立しました。

当初は、左隣の山梨市・牧丘町・三富村とも合併する予定でしたが、

この3市町村は、この3つだけで合併して山梨市となりました。

(旧山梨市はだいぶ昔からあって、1954年には旧山梨市が合併して成立しています。

その時合併した町村の1つに、山梨村があり、これは1942年に合併してできています。

「山梨」市を名乗る理由は、「山梨郡」にあるからですが、

山梨郡にあるのは山梨市だけではなく、甲州市や、甲府市もそうなので、

「山梨」を独占して名乗るのはどうなんだろうな、と思ってしまいます💦)

塩山市・勝沼町・大和村が合併するにあたって、新市名は公募で決めることとなりましたが、

その時に集まった新市名名称候補を見ると、甲州市とはこういうところなんだ、というのがわかってきて面白いです😆

例えば「フルーツ市」「フルーツ山梨市」「グレープ市」「フルーツ王国市」からは、

フルーツが豊富にとれるところ、特にブドウが有名なのだとわかります🍇

(古いデータしかないのですが、2006年ではブドウ収穫量は日本2位となっています)

そして「甲州ワイン市」「ロゼワイン市」「ワイン飲め市」があるように、

ワインの生産も盛んな町です。

山梨県は日本の3分の1にあたるワインを生産しており、この割合は日本一です。

そしてそのワインづくりを山梨県で最初に行ったのが、勝沼町であるそうです。

ですから、「甲州ワイン市」を名乗ってもいいんですが、

笛吹市などもワインづくりがさかんなので、笛吹市などは黙ってないでしょうね(;^_^A

また、「一葉市」「樋口一葉市」「一葉果物市」「竹くらべ市」と、樋口一葉関係の応募があったのは、

樋口一葉の両親が甲州市出身だからだそうですね💦

あと、後で述べる甲斐市と同じく甲州市も武田信玄関連の応募が多かったのですが、

「武田氏」の発祥の地はは茨城県ひたちなか市武田だそうです(;^_^A アセアセ・・・

(源義光[新羅三郎として有名]の三男として生まれた源義清は、

武田郷を与えられたが、大掾盛幹との抗争に敗れ、甲斐国に流されたのだという。その後、市川三郷町を本拠としつつ、北杜市に若神子城を作った)

最終的に、

「3市町村に共通し、今後住民が共有できる名称である」

「全国的に知名度が高く、アピール性がある」

「応募総数の約40.6%を占めており、これを選定するのが最も民主的である」

などの理由から、甲州市に決定されました。

甲州市に応募した1388人の中から抽選で選ばれた50名に合併三市町村の特産品(ころ柿・甲州種ワイン・不動尊みそのいずれか1つ)を記念品として贈呈されています。

新市名を公募するにあたって、旧市町村名での応募はNGとされたようなのですが、

昔からの歴史ある地名は残してほしかったところです(-_-;)

自分としては、知名度も高い「勝沼」を使用した勝沼市、もしくは甲州勝沼市などにしてほしかったな、と思います🍇

〇甲斐市

甲斐市は、2004年に竜王町・敷島町・双葉町が合併して成立しました。

その際に新市名を公募しましたが、

一番重複が多かったのは「釜無市」でした。

これは富士川の上流部分である釜無川が流れているからですが、

釜無川は多くの市町村に渡って流れているので、

他の市町村に配慮して採用されなかったのかもしれません💦

実際、最終候補に残った5つ(甲斐市・峡中市・みこま市・みつば市・みどり野市)に入っていません。

他に、27票重複した、「信玄堤市」は、武田信玄が竜王町に作った有名な信玄堤に由来しています。

これなんかはオリジナリティーがあってよかったかもしれませんね。

「北アルプス市」という応募も22票もありましたが、

北アルプスは飛騨山脈のことで、飛騨山脈は山梨県にはないので、

おそらく南アルプス市の北東にあるからなんでしょうが、

北アルプスの方たちから猛烈に怒られるでしょう(;^_^A

「中央アルプス」も6票あったんですが、

中央アルプスは木曽山脈で、これも山梨県とは関係なく、

何をもって中央アルプスと応募したのかはナゾです(;'∀')

応募の中に「パラダイス銀河市」というのがあって、光GENJIのメンバーが甲斐市生まれなのか、

と思って調べたら、何の関係もありませんでした( ;∀;)

甲斐市の応募を見ると、ふざけ半分のものが非常に多くて、見てて面白いんですが、

真剣さにかけていて、なんだかいやな気持になります…(-_-;)

最終的に、「甲斐市」が次の理由から選ばれます。

「甲斐市」で応募した68人の中から、1名に10万円分商品券、10名に1万円分商品券、「甲斐市」以外の最終候補5点に応募した人の中から20名に、5千円分商品券が贈呈されました。)

「「山梨を代表する、また、リーダー的な市であってほしい」との願いが込められています。」

「 歴史的に有名な名称です。昔から甲斐の国として広く知られ、山梨県中央部に位置する新市にはふさわしい名称です。」

「地域が地理的にイメージできます。」

「生き甲斐、遣(や)り甲斐などの用語もあり、元気のでる名称です。」

なんだか甲斐市である必然性は弱く感じられますね(;^_^A

例えば福井県の越前市は、昔国府のあったところなので、わかります。

しかし、甲斐市は、甲斐国の中心だった歴史はなく、「甲斐」を独占するのは違和感があります💦

やはり、どれも巨摩軍にあるので、「巨摩市」がよかったんではないかな、と私は思います…(;^_^A

2022年12月12日月曜日

ドキュメント石油危機14 1973年10月25日~節約運動は買いだめにつながる!?

 以前、「ドキュメント石油危機7 1973年10月11日-15日~各国の考えた石油節約法」

「ドキュメント石油危機10 1973年10月18-19日~「紙節約国民運動」」で、

日本が節約モードに入ってきたことをお伝えしましたが、

今回は「節約運動」に対する福井新聞の論説欄の指摘から、

当時の「節約」の様子を見ていこうと思います💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


<今回のマンガに関連する新聞記事>(福井新聞縮刷版1973年10月下より)

〇節約運動の方向づけを考える

節約論調が活発になってきた。政府は先の閣議で「紙節約国民運動」を展開する方針を決め「紙使用合理化懇談会」を発足させて、期限を切らない国民運動として年内にもスタートさせることになった。国民運動を待つまでもなく県内では、紙不足と紙類の値上がりに対処するため、役所や学校、事業場では具体的な節約運動が始まっている。だから、節約論調が活発になってきたと言うより、節約運動が活発になってきたといったたほうが早いかもしれない。

紙だけではない。通産省では、石油の供給量が制限された場合に備えて、休日や祝日のドライブ中止や電力の節約を具体的に決め、年内にも立法化する方針でいる。米国では、エネルギー節約の8項目が財務省から発表になった。洗濯に湯を使わない。乗用車の最高速度は80キロにするなど、かなり細かい内容である。

おそらく、このままいけば、年内にはあらゆる”物”の節約が叫ばれ、具体的な運動が繰り広げられるようになるだろう。それも、日本だけでなく、資源不足に悩む先進各国で、節約の呼びかけが行われることになるだろう。資源がある場合なら別として、明らかに資源が不足してきた現在、それが当然の現代の要請でもあるわけである。

だから「物を大切にしましょう」「無駄をなくし、節約をしましょう」ということには、誰も異論がないし、みんなが協力をしなければならないという事はいうまでもないことである。ただ、そこで気になるのは、節約運動の目的であり、方向づけである。節約運動が何のために行われるものであるのかについて、国民はわかっているのだろうかという疑問がある。

と言うのは、現在起きている節約運動は、物が足りないからであり、それが即、買いだめにつながることによって、節約運動が盛り上がっているところに、1つの不安がある。節約を口にしながら、自分だけは我慢できないという心魂が衝動買いを誘発、節約を盛り上げているわけである。

節約を求めるという意味の中には、精神的なものと物質的なものとがあって、常にそれが本音と建前に分かれようとする。人間の欲望を抑制させながら、物不足と物価高に対処していくには、方程式としては「節約」が明快な答えとして描かれるのだが、果たして、その方程式で全てを片付けることが出来るだろうか。

昔はよく「もったいない」という言葉が使われた。勤倹、節約が国民の思想として統一されていた時代には「もったいない」という意味も通じた。しかし消費は美徳の思想が、ここ10年、消費者の中に入り込んでしまった現在「もったいない」をそのまま節約と結びつけることのできる人は、あるいは、昔の勤倹、節約の思想の持ち主かもしれない。

だから「もったいない」を節約に置き換えることで、節約運動の方向づけをすることには無理がある。確かに昔に比べ生活は、豊かであり、ぜいたくである。しかしそのぜいたくは「したいぜいたく」のためではなく「しなければならないぜいたく」をしているところに、ぜいたくを敵とする考え方だけで節約運動を推し進めることも出来ないし、とらえることも出来ないわけである。

節約には、心情的に反対できないけれども「しなければならないぜいたく」から足が抜けないため結局は、節約と買いだめが連動してしまう。そこが人間の弱さであり、節約運動の持つ不明瞭さ、方向づけのあいまいさであるような気がする。だから、政府が節約運動を国民的な規模で盛り上げれば盛り上げるほど、買いだめを促進し、物さえ持っておればーということでインフレに拍車をかけることが、一番危険といわざるを得ないわけである。

今日からローマクラブの東京大会が始まるが、ローマクラブの創設者であるベッチェイ博士の「このまま世の中が推移すると、私たちの子や孫の代は、とても幸せを手にできない世の中になってしまう。子や孫のために、なんとか住みやすい未来を残したい」という言葉の重さを、じっくりと味わい痛感したうえでの節約運動が盛り上がることに、期待をかけたいと思う。

〇灯油貯蔵にご注意 福井地区消防本部 大量買い込みで警告

冬を控え、値上がりを心配して灯油を大量に買い込む家庭が急増しているため、福井地区消防本部は25日、石油販売業者や町内会に対し「灯油を大量に売ったり買ったりしないよう、もし規定以上の場合は、安全な貯蔵施設を備えなければ処罰されます」と警告書を出し、注意を呼びかけている。

灯油は需要最盛期になると値上がりする傾向にあり、今年は中東戦争によって品不足になる恐れが出ていることもあり、例年になく早めに、大量に買い込む過程が多くなっている。このため、灯油100リットル以上扱う場合の届出義務等が忘れられ、危険な状態のまま、家の片隅に貯蔵されているケースが多いと同本部では見ている。

福井地区火災予防条例では、灯油100リットル以下の場合は、取り扱いの規定がない。しかし100から499リットルになると「少量危険物」として、消防署へ届け出て、貯蔵する場所が安全であるかどうかの点検を受け、危険物があるとの表示もすることになっている。これらに違反した場合は10万円以下の罰金が課せられる。

灯油1かんは18リットルなので、5かんまでは一括して買っても平常の管理でよいが、6かん以上やあるいはドラムかん(200リットル)の場合、規定に従った手続きや措置を取らなければならないわけ。

同本部予防課では「規定以上に買っていても、気が付かなかったり無関心であるため、届け出がないケースがこれまでもあった。今年は最近の買い込み状況を見るとかなり危険な状態の家があるのではないか」と心配している。

このため灯油を扱う石油店、燃料店、農協など販売する側と、買い求める消費者は町内会を通して「暖房用灯油等の貯蔵と違法販売について」との警告文を配り??徹底を求めた。また11月26日から始まる秋の全国火災予防運動期間中はもちろん、それ以前にも各家庭の査察を行う方針。

福井地区消防本部では「物価値上がりの中で、市民が自衛をしようと、安いうちに大量買い込みをする気持ちは理解できるが、逆に火事や爆発などの原因になってはだいなし。安全貯蔵には充分気を付けてほしい」といっている。

※現在は、指定数量(灯油の場合1000ℓ)の5分の1以上を「少量危険物」としているので、200リットル以上保管している場合は、見やすい箇所に危険物を貯蔵し、又は取り扱っている旨を表示した標識と、危険物の類、品名、最大数量や、防火に関し必要な事項を掲示した掲示板を設けなければなりません。
また、2分の1以上(500リットル以上)保管している家庭では、消防長又は消防署長に届出用紙を提出しなければなりません。これに違反した場合、30万円以下の罰金、となっています。

2022年12月11日日曜日

「ゆずりあった男たち」三浦義村・長江明義

 今回の「鎌倉殿の13人」も面白かったですね!😆

いよいよ来週最終回…💦

北条義時はいったいどうなるのか…!?(◎_◎;)


今回は、「鎌倉殿の13人」で源実朝の拝賀の儀式に三浦義村が参加を止められる口実となった事件をマンガにしてみました!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇ゆずりあい鎌倉

今回の話は建保6年(1218年)7月8日の、御直衣始のために源実朝鶴岡八幡宮に向かった際に起きた事件をマンガにしたものです。

御直衣始とは何か?

goo国語辞書によれば、「三位以上の公卿が、勅許を受けて初めて直衣を着用すること」だそうです。

源実朝は驚異的なスピードで出世していました。

1203年(11歳) 9月 従五位 征夷大将軍

          10月 右兵衛佐

1205年(13歳) 1月 従五位上

            右近衛権中将・加賀介

1206年(14歳) 2月 従四位下

1207年(15歳) 1月 従四位上

1208年(16歳) 12月 正四位下

1209年(17歳) 4月 従三位

          5月 右近衛中将

1211年(19歳) 1月 正三位

            美作権守

1212年(20歳) 12月 従二位

1213年(21歳) 12月 正二位

1216年(24歳) 6月 権中納言

          7月 左近衛中将

1218年(26歳) 1月 権大納言

          3月 左近衛大将・左馬寮御監

          10月 内大臣

          12月 右大臣

実朝は従三位になったのは1209年の時ですから、それからずっと直衣の勅許は出ていなかったのか??と疑問になりますが、

実は建保4年(1216年)11月23日に、源実朝は権中納言となって直衣始をしています。

では、今回の直衣始は?となりますが、1216年の時は鶴岡八幡宮に行っていないので、

「直衣を着て初めて鶴岡八幡宮に行った」ということなのかな、と思います💦

さて、実朝の随兵として、大須賀道信・長江明義がペアに、伊豆(源/森)頼定・三浦義村がペアになっていましたが、

大須賀道信が持病のため参加できなくなり、

伊豆頼定と新たに参加した阿曽沼広綱がペアとなって、

長江明義と三浦義村がペアとなります。

そして二列で並ぶ際に左・右の位置に立つのですが、

どうやら左の位置に立つ方が偉いとされていたようです。

大臣も右大臣よりも左大臣の方が偉いですからね…。

三浦義村が左に、長江明義が右と決まっていましたが、

三浦義村は「明義は私より年齢が高いので、右に並ばせることはできません(明義は高年爲。右于候い難し)」と左の位置を明義にゆずろうとします。

すると長江明義も、「義村は左衛門尉の官職を持ち(明義は無官)、三浦一族を継いでいます。左に立つべきです」と左の位置を義村にゆずろうとします。

ここで長江明義についての説明をすると、

長江明義は三浦郡葉山町長柄の武士で、

母は三浦義明(三浦義村の祖父)なので、義村にとっては父の姉妹の子、つまりいとこにあたることがわかります。

長江氏は三浦氏とつながりがあったため、源頼朝挙兵時に、鎌倉付近の武士が平氏に付いたにもかかわらず、長江義景(明義の父)は源氏に味方して三浦氏の本拠地である衣笠城に立てこもって抵抗しています。

『吾妻鏡』では

正治2年(1200年)9月2日のところで登場し、

源頼家が小坪の海岸(逗子市)に行った際に、小坂光頼とともに食事を用意しています。

建保2年(1214年)2月14日のところでも登場し、

源実朝がいい景色を見たいと言って、杜戸浦(三浦郡葉山町森戸海岸)に行った際に食事を用意しています。

生没年は不詳なのですが、

三浦義村が1168年頃の生まれだとされているので、このエピソードの時は少なくとも50歳以上ということになるでしょう。

さて、この三浦一族同士のゆずりあいで、直衣始の出発が遅れてしまっていました。

二階堂行村(1155~1238年。実朝が死亡したときに出家。1225年に評定衆。姉妹は伊賀親光に嫁いで、伊賀の方を産んだ)がこのことを源実朝に報告すると、

実朝は「ゆずりあう姿勢がすばらしい。感動した。しかし、私は今回の儀式にこだわりがあるので早く出発したい。義村の方がまだ若く、後々も機会があるだろうが、明義は先が短いのでもうこのような機会はないかもしれない。明義を左として、子孫の名誉としてやるのが良い」と述べた。

行村がこれを2人に伝え、明義が左に立つことになった。

結局、義村の意見が通ったことになりますが、長江明義はうれしかったでしょうね。

そのためか、後の宝治合戦では、明義の孫の義重が三浦方について滅亡しています。

三浦義村としては同族の者に恩を売って仲間を増やせたことになりますが、

「鎌倉殿の13人」では、この時出発を遅らせたということで、

翌年の右大臣の拝賀の儀式に参加することを止められていましたね。

(長男の朝村は参加していますが)

実際は義村はなぜ参加していなかったのでしょうね。

このエピソードの後、義村は謹慎をくらっていたという説もあるのですが、

2週間後の22日には侍所の所司5人のうちの1人に選ばれている(他は北条泰時・二階堂行村・大江能範・伊賀光宗)ので、それはないと思います💦

一方で、義村自身の事ではありませんが、三浦氏にかかわる事件が一つ起きています。

9月13日に、鶴岡八幡宮の宿直をしていた義村の息子の駒若三浦光村。後に宝治合戦で死亡)が、若い僧などに無礼な態度を取られたので、怒った駒若が乱闘騒ぎを起こし、謹慎を命じられたという事件です。

三浦義村としては面白くなかったかもしれません。

実朝暗殺犯である公暁は、三浦義村の姉妹の子といわれ、

駒若は公暁の門弟というつながりもありました。

もしかすると黒幕として動くために自身は参加しなかった…のかもしれませんね(;^_^A



2022年12月10日土曜日

信長公記マンガ 「織田信長、桶狭間へ~桶狭間の戦い⑤」の3ページ目を更新!

 「歴史」の「戦国・安土桃山時代」にある、

信長公記マンガ織田信長、桶狭間へ~桶狭間の戦い⑤

3ページ目を更新しました!😆

桶狭間の戦いの織田信長の進路、決戦の地は、実際はこうだったのではないでしょうか!?

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2022年12月8日木曜日

太平洋戦争が始まったとき、日本人はどう感じたか

『臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。今朝、大本営陸海軍部からこのように発表されました。』

…それは1941年12月8日午前7時の事でした。

ラジオから臨時ニュースが流れてきたのです。

これから3年8か月続く、太平洋戦争の始まりを告げるニュースでした。

日本人はこのニュースをどのように受け止めたのか、

『朝、目覚めると、戦争が始まっていました』(方丈社)を参考に、

漫画を描いてみました。

※マンガの後に補足・解説を載せています。


〇意外な反応

「戦争が始まった」と聞けば、次のような反応をしそうなものですー。

岡本太郎(芸術家。「太陽の塔」で有名)「まさかーー私はガク然とした。日本は独伊と同盟を結んでいた。しかしそれは米英などとのさまざまの交渉を有利に展開するためのかけひきであって、強硬なのも結局ポーズだけかと思っていたのに」

金子光晴(詩人)「不覚にも慎みを忘れ、「ばかやろう!」と大声でラジオにどなった」

清沢冽(ジャーナリスト。反戦を貫き、戦争下の様子を書いた『暗黒日記』は有名)「僕は自分達の責任を感じた。こういう事にならぬように僕達が努力しなかったのが悪かった」

正宗白鳥(作家・評論家。日本ペンクラブ設立メンバーの一人)「明治37年2月6日の、ロシアに対する宣戦布告は、…開戦の知らせもロマンチックな気持がしたものだ。しかし、今度はそうでなかった。陰惨な感じに襲われた」

しかし、日本人の大多数は、違った反応を示しました。

吉本隆明(思想家・詩人)「ものすごく解放感がありました。パーッと天地が開けたほどの解放感でした」

黒田三郎(詩人)「今日みたいにうれしい日はまたとない。うれしいというか何というかとにかく胸の清々しい気持だ」

阿部六郎(ドイツ文学者)「前夜まで、狂いやすいばかりで進退二つの未知を量るようにして苛々していた心も、すっきりと澄んで、妙に楽天的に落着いていた」

島木健作(作家。社会運動にかかわり3・15事件で検挙。転向後、『生活の探求』がベストセラーに。終戦2日前に死去)「一切の躊躇、逡巡、猜疑、曖昧というものが一掃されてただ一つの意志が決定された」

長與善郎(作家・評論家)「この数ヶ月と云わず、この一、二年と云わず、我らの頭上に暗雲のごとく蔽いかぶさっていた重苦しい憂鬱は、12月8日の大詔渙発とともに雲散霧消した」

…というように、開戦をむしろ歓迎しているのです。

なぜこのようであったのかというと、太宰治の妻である津島美知子が『回想の太宰治』でわかりやすく説明してくれています。

「真珠湾奇襲のニュースを聞いて大多数の国民は、昭和のはじめから中国で一向はっきりしない〇〇事件とか〇〇事変というのが続いていて、じりじりする思いだったのが、これでカラリとした、解決への道がついた、と無知というか無邪気というか、そしてまたじつに気の短い愚かしい感想を抱いたのではないだろうか。」

昭和時代が始まって以来、

1927~28年の山東出兵、1931年の柳条湖事件・満州事変、1932年に第一次上海事変、1937年の第二次上海事変・盧溝橋事件・支那事変などが起こっていましたが、

どれも宣戦布告もなく、正式な「戦争」ではなかったため、外国の仲介もなく最終的な解決はできないまま、終着点の見えない戦いがズルズルと長引いていました。

それに加えて、中国を支援するアメリカとの対立が根深いものとなり、

日本は戦争を何とか回避するために交渉を重ねていました。

この状況を徳田秋声(作家)は、

「支那事変の進展とともに米英から受けた脅威が大きく、

日米会談が暗雲低迷の裡(うち)に荏苒(なすことがないまま月日が過ぎること)8か月を経過し、戦争か平和かの危機に立っていた」

と書いていますが、とても不安な状態に日本人は立たされていたことがわかります。

当時の日本人は、この戦争で懸案の問題が一挙解決できると考えたため、

開戦を歓迎したわけです。

逆に言えば、そこまで状況は行き詰っていたということです💦

太宰治も、『12月8日』という小説の中で、

開戦を告げるラジオを聴いて、

「じっと聞いているうちに、私の人間は変わってしまった。

強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ」がしたと書いています。

太宰治もこんがらがっていたものがすっきりする感じがしたのでしょう。

妻の津島美知子は、

「その点では太宰も大衆の中の一人であったように思う」

と書いています。

太宰治はまた、『12月8日』で、

「日本も、今朝から、ちがう日本になったのだ」

と書いていますが、同様の感想を持った人は多く、

加藤周一(評論家)「私は周囲の世界が、にわかに、見たことのない風景に変わるのを感じた」

上林暁(作家)「私はもう新聞など読みたくなかった。今朝来たばかりの新聞だけれど、もう古臭くて読む気がしないのだ。我々の住む世界は、それほどまでに新しい世界へ急展開したことを、私ははっきりと感じた」

獅子文六(小説家)「ふと、自分は、ラジオを聴く前と、別人になってるような気持がした。その間に、一年も二年も時間が経ってるような気持がした。一間も二間もある濠を、一気に跳び越えたような気がした」

高村光太郎(詩人、彫刻家。『道程』『智恵子抄』などが有名)「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである…この刻々の瞬間こそ後の世から見れば歴史転換の急曲線を描いている時間だなと思った。時間の重量を感じた」

日常が全くの非日常に変わったことを感じさせます。

そして日本は、大きな犠牲を出すことになる太平洋戦争へと突き進んでいくことになるのです…。


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