今回でとうとう「鎌倉殿の13人」が終わってしまいましたね…(-_-;)
北条義時、「不器用」の言葉に尽きました…。
今回のマンガは、北条義時についてのエピソードです。
しかし、北条義時は、ほんとに人となりがわかるようなエピソードが全然ないんですよね💦
今回書いたエピソードは、義時の貴重なエピソードの1つなんですが、
「鎌倉殿の13人」では使われませんでした…(´・ω・`)
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇北条義時と承久の乱
今回のエピソードについては、『吾妻鏡』に次のようにあります。
「戌刻、鎌倉の右京兆の舘之釜殿于雷落す。疋夫一人之の爲 侵被 畢。
亭の主頗る怖畏し、大官令禪門を示し招き合い云はく。
武州等の上洛者、朝庭を傾け奉らん爲也。而るに今此の怪有り。若し是、運命之縮端 可き歟者り。
禪門云はく。君臣の運命、皆天地之所掌也。倩ら案ずるに今度の次第、
其の是非は宜しく天道を仰ぐ之决断、全く怖畏之限りに非。
就中に、此の事、關東に於て佳例爲歟。
文治五年、故幕下將軍、藤泰衡征する之時、奥州の軍陣に於て雷落ち訖。
先規、明かと雖も故に卜筮有る可き者り。親職、泰貞、宣賢等、最吉之由同心に之を占うと云々。」
北条義時(建保5年[1217年]に右京権大夫となっていました。これは中国でいうと右京兆にあたります)邸の湯や御膳を用意する釜殿というところに雷が落ち、
そこで働いていた人夫が1人亡くなるという事件が起こります。
承久3年6月8日の午後8時のことでした。
承久3年6月8日というのは、西暦に換算すると1221年6月29日の事です。
後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたのは承久3年5月15日(5・15事件…!といいたいところですが、西暦に換算すると6月6日のことです)の事でした。
それに対し、鎌倉方が北条泰時を出発させたのが5月21日のことでした。
以下、経過を追ってみると、
5月29日 佐々木信実(加地信実とも。佐々木盛綱の子。子孫は戦国時代に活躍した新発田氏・竹俣氏。1176~1243年)が、京都方の首謀者の一人、藤原信成(水無瀬信成とも。1197~1262年)の家人である酒匂家賢(梶原氏の一族)が越後国加地庄(新潟県新発田市佐々木)の願文山に立てこもったのを追討する。
6月5日 武田信光らが大井戸(岐阜県可児市土田)で京都方の大内惟信を破る
6月6日 北条時氏らが摩免戸(各務原市前渡)・筵田(本巣市糸貫町)で京都方を破り、株河・洲俣・市脇などの要害を奪う
6月8日 北陸道を進む北条朝時らが越中国の砺波山付近で京都方を破る
6月13・14日 宇治・瀬田で京都方との決戦、これを破る
6月15日 鎌倉方、入京。北条時房・泰時、六波羅に到着。三浦胤義(三浦義村の弟)、自殺。
7月8日 後鳥羽上皇、出家
7月9日 仲恭天皇(1218~1234年。4月20日に父の順徳上皇の譲位を受けて4歳で即位したばかりだった。78日の在位は歴代最短)譲位、後堀河天皇(1212~1234年)が践祚
7月13日 後鳥羽上皇、隠岐国に遷る(到着は8月5日)
7月20日 順徳上皇(1197~1242年)、佐渡国に遷る(そのまま当地で死去)
7月24日 雅成親王(1200~1255年)、但馬国に遷る(その後赦されて京都に戻るが、雅成親王を天皇にしようとするたくらみが発覚して但馬に戻され、当地で死去)
7月25日 頼仁親王(1201~1264年。源実朝の次の征夷大将軍に予定されていた人物)、備前国児島に遷る(そのまま当地で死去)
10月10日 土御門上皇(1195?~1231年)、志願して土佐国に遷る(のちに阿波国。そのまま当地で死去。1242年、子が即位して御嵯峨天皇となる)
…ということになります。
つまり、北条義時邸に雷が落ちたのは戦いの最中だったわけですね⚡
北条義時は非常に驚き、大江広元(1217年に出家して覚阿と名乗る)に、
「今私のしていることは朝廷に逆らうことだ、そしてこの異変があった。これは命運が尽きる兆しだろうか」と相談します。
それに対し大江広元は、「君主や家来の運命は神様が決めるものです。今の戦いの是非については、戦いの起こった経緯を考えると、まったく恐れる心配はございません。しかも、落雷というのは関東にとってはめでたいことです。文治5年(1189年)8月7日に、故幕下将軍(源頼朝)が奥州合戦の際に赴いた国見の陣営に雷が落ちましたが、戦いに勝ちました。吉例なのは明らかですが、念のため占わせてみましょう」と答えます。
安倍親職・泰貞・宣賢(幕府の陰陽師。京都から源実朝付きの陰陽師として派遣されていたが、実朝暗殺後に京都に戻ってくることを禁止されたため、そのまま鎌倉に陰陽師として残った)らが占ったところ、全員「最吉」と出ました。
これで北条義時は恐らく落ち着いたのでしょうが、
押しが強く鉄面皮と思われていた北条義時がここまで動揺するとは、人間らしいですね(;^_^A
まぁ、平将門しかり、藤原純友しかり、朝廷に対して戦いを挑んで勝った例はありませんから、不安だったのでしょうが、
もしかするともともと北条義時は不安症だったのかもしれません。
だから、自らの敵となる存在を怖がり、排除していったのかもしれませんね💦
〇女好きだった北条義時
『吾妻鏡』を読んでいて驚くのは、
承久3年(1221年)11月に義時の妻(伊賀の方?この頃30代後半と考えられるが…でも、北条政子も35歳で源実朝を出産している💦当時で高齢出産は大変だったろうに…)が女子を出産した、承久4年(1222年)12月に義時の妻が男子(北条時経)を出産した、という記述があることです(◎_◎;)
北条義時は1163年の生まれですから、この時58・59歳ですよ!死ぬ2・3年前です…(;^_^A
父親の北条時政も51歳の時に北条政範をもうけていますから(このとき北条義時はすでに26歳、しかも義時の子の泰時は6歳でした。つまり、泰時には6歳年下の叔父がいたことになります💦)、父親譲りだったのでしょう…。
そして、義時の子の北条泰時もまた女好きであったようで、1241年、死ぬ一年前の58歳の時に三男の公義をもうけています(;^_^A
北条氏、すごすぎる…(;'∀')
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