社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 「ゆずりあった男たち」三浦義村・長江明義

2022年12月11日日曜日

「ゆずりあった男たち」三浦義村・長江明義

 今回の「鎌倉殿の13人」も面白かったですね!😆

いよいよ来週最終回…💦

北条義時はいったいどうなるのか…!?(◎_◎;)


今回は、「鎌倉殿の13人」で源実朝の拝賀の儀式に三浦義村が参加を止められる口実となった事件をマンガにしてみました!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇ゆずりあい鎌倉

今回の話は建保6年(1218年)7月8日の、御直衣始のために源実朝鶴岡八幡宮に向かった際に起きた事件をマンガにしたものです。

御直衣始とは何か?

goo国語辞書によれば、「三位以上の公卿が、勅許を受けて初めて直衣を着用すること」だそうです。

源実朝は驚異的なスピードで出世していました。

1203年(11歳) 9月 従五位 征夷大将軍

          10月 右兵衛佐

1205年(13歳) 1月 従五位上

            右近衛権中将・加賀介

1206年(14歳) 2月 従四位下

1207年(15歳) 1月 従四位上

1208年(16歳) 12月 正四位下

1209年(17歳) 4月 従三位

          5月 右近衛中将

1211年(19歳) 1月 正三位

            美作権守

1212年(20歳) 12月 従二位

1213年(21歳) 12月 正二位

1216年(24歳) 6月 権中納言

          7月 左近衛中将

1218年(26歳) 1月 権大納言

          3月 左近衛大将・左馬寮御監

          10月 内大臣

          12月 右大臣

実朝は従三位になったのは1209年の時ですから、それからずっと直衣の勅許は出ていなかったのか??と疑問になりますが、

実は建保4年(1216年)11月23日に、源実朝は権中納言となって直衣始をしています。

では、今回の直衣始は?となりますが、1216年の時は鶴岡八幡宮に行っていないので、

「直衣を着て初めて鶴岡八幡宮に行った」ということなのかな、と思います💦

さて、実朝の随兵として、大須賀道信・長江明義がペアに、伊豆(源/森)頼定・三浦義村がペアになっていましたが、

大須賀道信が持病のため参加できなくなり、

伊豆頼定と新たに参加した阿曽沼広綱がペアとなって、

長江明義と三浦義村がペアとなります。

そして二列で並ぶ際に左・右の位置に立つのですが、

どうやら左の位置に立つ方が偉いとされていたようです。

大臣も右大臣よりも左大臣の方が偉いですからね…。

三浦義村が左に、長江明義が右と決まっていましたが、

三浦義村は「明義は私より年齢が高いので、右に並ばせることはできません(明義は高年爲。右于候い難し)」と左の位置を明義にゆずろうとします。

すると長江明義も、「義村は左衛門尉の官職を持ち(明義は無官)、三浦一族を継いでいます。左に立つべきです」と左の位置を義村にゆずろうとします。

ここで長江明義についての説明をすると、

長江明義は三浦郡葉山町長柄の武士で、

母は三浦義明(三浦義村の祖父)なので、義村にとっては父の姉妹の子、つまりいとこにあたることがわかります。

長江氏は三浦氏とつながりがあったため、源頼朝挙兵時に、鎌倉付近の武士が平氏に付いたにもかかわらず、長江義景(明義の父)は源氏に味方して三浦氏の本拠地である衣笠城に立てこもって抵抗しています。

『吾妻鏡』では

正治2年(1200年)9月2日のところで登場し、

源頼家が小坪の海岸(逗子市)に行った際に、小坂光頼とともに食事を用意しています。

建保2年(1214年)2月14日のところでも登場し、

源実朝がいい景色を見たいと言って、杜戸浦(三浦郡葉山町森戸海岸)に行った際に食事を用意しています。

生没年は不詳なのですが、

三浦義村が1168年頃の生まれだとされているので、このエピソードの時は少なくとも50歳以上ということになるでしょう。

さて、この三浦一族同士のゆずりあいで、直衣始の出発が遅れてしまっていました。

二階堂行村(1155~1238年。実朝が死亡したときに出家。1225年に評定衆。姉妹は伊賀親光に嫁いで、伊賀の方を産んだ)がこのことを源実朝に報告すると、

実朝は「ゆずりあう姿勢がすばらしい。感動した。しかし、私は今回の儀式にこだわりがあるので早く出発したい。義村の方がまだ若く、後々も機会があるだろうが、明義は先が短いのでもうこのような機会はないかもしれない。明義を左として、子孫の名誉としてやるのが良い」と述べた。

行村がこれを2人に伝え、明義が左に立つことになった。

結局、義村の意見が通ったことになりますが、長江明義はうれしかったでしょうね。

そのためか、後の宝治合戦では、明義の孫の義重が三浦方について滅亡しています。

三浦義村としては同族の者に恩を売って仲間を増やせたことになりますが、

「鎌倉殿の13人」では、この時出発を遅らせたということで、

翌年の右大臣の拝賀の儀式に参加することを止められていましたね。

(長男の朝村は参加していますが)

実際は義村はなぜ参加していなかったのでしょうね。

このエピソードの後、義村は謹慎をくらっていたという説もあるのですが、

2週間後の22日には侍所の所司5人のうちの1人に選ばれている(他は北条泰時・二階堂行村・大江能範・伊賀光宗)ので、それはないと思います💦

一方で、義村自身の事ではありませんが、三浦氏にかかわる事件が一つ起きています。

9月13日に、鶴岡八幡宮の宿直をしていた義村の息子の駒若三浦光村。後に宝治合戦で死亡)が、若い僧などに無礼な態度を取られたので、怒った駒若が乱闘騒ぎを起こし、謹慎を命じられたという事件です。

三浦義村としては面白くなかったかもしれません。

実朝暗殺犯である公暁は、三浦義村の姉妹の子といわれ、

駒若は公暁の門弟というつながりもありました。

もしかすると黒幕として動くために自身は参加しなかった…のかもしれませんね(;^_^A



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