社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 8月 2023

2023年8月31日木曜日

「新聞紙条例による自由民権運動弾圧」の2ページ目を更新!

 「歴史」「明治時代」ところにある、

新聞紙条例による自由民権運動弾圧2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください♪

2023年8月30日水曜日

新聞紙条例による言論弾圧(1875~1876年)①改正新聞紙条例・讒謗律の公布

 日本国憲法21条に「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 検閲は、これをしてはならない」とあるように、

現在の日本では言論・出版の自由があります。

「言論」とは何か。

明治37年(1904年)の辞書『言海』には、

「言論…議論に同じ」とあり、それではと「議論」を調べると、「互いに己が説を言出して論ずるヿ(こと)」とあります。

続いて「出版」を調べてみると、「書物を版に刻り、摺りて、世に出すヿ」とあります。

つまり、「言論・出版の自由」とは、「自分の考えていることを口にしたり、書物にして世の中に出したりすること」が自由、ということになります。

しかし戦前では、「言論・出版の自由」に制限が加えられていました。

大日本帝国憲法29条に「日本臣民は法律の範囲内に於て言論著作印行集会及結社の自由を有す」…とあるように、法律によって制限を受けていたのです。

では、その法律とはどのような内容であったのか、その法律に対し当時の人々はどのような反応を示したのか…それについて、今回は見ていこうと思います😄

※マンガの後に補足・解説を載せています♪




〇言論・出版の自由の制限

・新著翻刻書私刊禁止布告(行政官布告第358号)…明治元年(1868年)閏4月28日

「新著幷翻刻書類」は、「以後総て官許を経ざる品売買堅く差し停められ候事」とあり、出版物について全て許可制となりました。

現在の日本では出版するのに許可は必要ありませんが、なぜ昔は出版するのに許可が必要だったのか?(゜-゜)

その理由が、次の法律に書かれています。

・太政官布告451号…明治元年(1868年)6月8日

「近日、新聞紙頻りに刊行、人心を惑わし候品少なからざるに付、先達て官許を経ざる書類刊行差し停められ候段御沙汰候処、猶且陸続上梓致候趣に付、官許之無く分は、御吟味の上、板木・製本も取上、以後相背候節は、刊行書林は勿論、頭取幷に売弘候者迄、屹度御咎仰せ付けらるべく候間、此旨相心得べく候事」

最近、いろんな新聞紙が出まくっているけど、その中には人々の心を混乱させるような内容の物が少なくない。2か月前の閏4月28日に行政官布告358号で出版物は官許を経ずに売買するのは禁止だよ、って言ったよね!?その後も勝手に新聞がどんどん出されている。官許が無いのに出した物に付いては、よく取り調べたうえで、その新聞の版木[印刷のもとになる木版]・製本を取り上げ、その後も無許可で出した場合は、その新聞の販売にかかわった者たちを厳しく処罰するから、肝に銘じておくように。)

これを見ると、明治の初めから新聞が多数創刊されまくっていたことがわかりますね(;^_^A

明治11年(1878年)の『教育新誌』には、

明治6年(1873年)6月までに創刊された新聞紙は80(そのうち14が現存)、その後明治7年(1874年)2月までに創刊されたのは18(うち1が現存)、2~12月に創刊されたのは25(うち3が現存)、明治8年(1875年)中に創刊された新聞は61(うち13が現存)、明治9年(1876年)は108(現存24)、明治10年(1877年)10月までは432(現存122)

…とあり、新聞が創刊されまくっている様子がわかります(明治10年10月までに計724)。

一方で廃刊も多く(明治10年10月までに計547。約76%、4分の3にものぼる)、長続きさせることは至難の業であったようです(;^_^A

当時は正確な情報を手に入れるのは難しかったでしょうし、噂程度のものを新聞に載せたり、売れるために実際より誇張して書いたり、実際にはないことをあったように書いたりすることもよくあったでしょう。

やりたい放題を防ぐためにも、「当時は」許可制が必要だったのです。

さて、書物を出版するための許可を得るためには、どこに持っていけばよかったのでしょうか?

それは次の法律に書かれています。

・明治2年(1869年)出版条例

あとで出版条例の内容を見ていこうと思いますが、まずは許可を得る先がどこかについて述べられている部分を見てみましょう。

「一、図書を出版するに先だちて、書名、著述者・出版人の姓名・住所、書中の大意等を具え学校へ出し、学校にて検印を押して彼に付す。此れ即ち免許状なり」

なんと提出先は学校!Σ( ̄□ ̄|||)

しかし「学校」といっても今の小中学校とかではなく、

国の機関の昌平学校と開成学校のことを指しています。

昌平学校は江戸幕府の「昌平坂学問所」由来の漢学系の学校ですね。

一方の開成学校は江戸幕府の「蕃書調所」→「開成所」由来の洋学系の学校です。

書物を研究するところだから適任と考えられたのでしょうが、

怒涛の如く出版物が届けられると本職がおろそかになってしまいますから、

出版を管理する機関はすぐに変更され、

明治3年(1870年)に大史局→明治4年(1871年)文部省→明治8年(1875年)内務省…と移っていきます。

さて、出版条例の内容をかいつまんで見てみましょう。

①出版物には必ず作者・出版者・販売店の姓名や住所を明記すること。冊子ではなく一枚の紙に印刷された物も同様である。これに違反する者は罰金。

②「妄に教法を説き、人罪を誣告し、政務の機密を洩し或いは誹謗し、及び淫蕩を導くことを記載する者、軽重に随て罪を科す」(むやみやたらに宗教の教えを説いたり、虚偽のことを書いて人を貶めたり、政府の機密について書いたり、政府のことを悪く書いたり、よくない生活に導こうとすることを書いたりした場合、その重大性を考えて、罰を与える)

③出版した者は、その出版した物を専売できる。その期間は、それを書いた者が生きている間とする。その親族が延長を望んだ場合はその限りではない。

④出版物を出す前に、書名・著者・出版者の姓名・住所、内容の要点を書いて学校に提出し、免許状を得ること。

⑤出版物が許可を得た後は、5部を学校に納めること。これは各所の書庫に分配するためである。

(現在の日本でも、出版物は国立国会図書館に納本する義務、というのがあります[文化財の蓄積が目的]。なんと同人誌や自費出版もその対象で、出版から30日以内に国会図書館に最良で完全な物を一部納めなければなりません。これに違反したらば価格の5倍の金額を国に納めなくてはならなくなります(◎_◎;)…実際はそこまで厳しく取り締まられておらず、納本する人は少ないようですが…(;^_^A)

⑥許可を得ずに出版した者・これを売った者は、出版物の版木・製本を没収する。売上金も没収する。

⑦政府の許可を得たと偽った場合は罰金とする。

⑧重版(この場合、出版者以外の者がその出版物を印刷して売ること)した場合、版木・製本を没収し、罰金とする。罰金の多少は著者・出版者に与えた被害の程度によって変わる。罰金は著者・出版者に与えられる。

…この内容を見ると、「言論・出版の自由」に制限がかかる場合は、

「宗教関係・ウソを書いて人に苦痛を与えること・政府の機密漏洩・政府の批判・風紀を乱すこと」の5つであったことがわかります。

これについて、同じく明治2年(1869年)の新聞紙印行条例では、次のように書かれています。

・明治2年(1869年)新聞紙印行条例

①新聞の記事に怪しい部分がある場合、編集者は弁解しなければならない。答えられない場合は罰金とする。

②法律をむやみやたらと批評してはならない。

③軍事のことについて、誤ったことを書いていたら罰を与える。

④天変地異・物価・火災・嫁娶(結婚)・生死・学芸・遊宴(宴会)・衣服・飲食・洋書の訳文・海外の雑話など、世の中に害のない内容は書いてもよい。

⑤虚偽のことを書いて人を貶めてはならない。

⑥むやみやたらと宗教のことを説いてはならない。

これを見ると、「機密」のことについては書かれていませんが、政府の批判、というのは法律の内容に対しやたらとあーだこーだいう事であったということがわかります。

批評自体を禁止しているのではなく、やたらと批評してはならない、と言っているのでまだソフトな感じはしますね(;^_^A

この内容が、明治4年(1871年)になると次のように変わります。

・明治4年(1871年)新聞紙条例

①新聞紙の目的は新たな知識を人に伝えることで、見る者の見聞を広めることで頑固で偏った考え方を改め、世の中を文明開化に導くことにある。

②外国に対し失礼なこと、外国に対し日本を大きく見せるようなことを書いてはならない。

③法律について少しでも悪口を書いてはならない。

④むやみやたらに宗教のことを説いてはならない。

事実無根のことを書いて人を貶めてはならない。

⑥常識から外れたことを書いてはならない。

⑦人の心を惑わすようなことを書いてはならない。

⑧匿名の投書を載せてはならない。

⑨人々の行動をいましめるようなこと、新発明の器具のことなど、世の利益になるようなことはどんどん書いてよろしい。人に害を与えず、人を笑わせるような内容も書いてよろしい。しかし、酒色にふけるような生活に導くような文章は書いてはならない。

⑩不思議なこと・珍しい話を載せてもいいが、真実でないような内容の物は、そのようにはっきり書くこと。実際のことでなかった場合は、その後の号で弁明すること。

⑪文章はわかりやすく、やさしくすること。

⑫近い範囲の者だけに利益のある内容にしてはならない。

⑬新聞紙は、歴史書を書くように書くべし。そうすれば、でたらめなことを書くことが少なくなる。一方で、小説を書くようにも書くべし。そうでないと、まじめすぎて、人々は読みたくなくなる。

⑭新聞紙は人々を退屈させるようなものであってはならないが、起きていないことをあったかのように書き、そうでないことをそうであったかのように書いて人々の心をあおってはならない。

⑮発行の際、8部を国に納めること。

後半部分は今の新聞を書いている方々にも読んでもらいたい内容ですね(心がけておられると思いますが)。

また、書いてもいいものの例に、風雨水旱(風水害)・疾疫(伝染病)・盗賊・豊凶・昆虫草木…のことなどが追加されています。

制限については、法律の批判は少しも許さない、と変わっており、制限が厳しくなっていることがわかります(◎_◎;)

一方で、明治5年(1872年)、出版条例の内容は、次のように改められました。

・明治5年(1872年)出版条例

<変更点>

①出版物に、販売店の情報を記載する必要が無くなった(そりゃそうだ)

②書いてはいけない内容が、「妄に成法を誹議し人罪を誣告する事を著することを許さず」(できた法律を悪く言う事・虚偽のことを書いて人を貶める事)の2点になった。

政府の機密洩らしてもいいんでしょうか(;^_^A(新聞紙条例にも書かれていませんし…)

当時の政府は、法律の批判・虚偽のことを書くこと、を制限することに主眼を置いていたことがわかりますね(゜-゜)

明治6年(1873年)に改正(?)された新聞紙条例にもその傾向が見られます。

・明治6年(1873年)新聞紙発行条目

①国の体制を悪く言ったり、法律を議論したり、外国の法律を紹介したりすることで、日本の法律の妨害をすることを禁止する。

②政治・法律のことについて、やたらと批評することを禁止する。

③やたらと宗教の教えを書いて、法律の妨害をすることを禁止する。

④人々の心を惑わしたり、性に関してだらしがないような雰囲気に誘導することを禁止する。

⑤事実無根のことを書いて人を貶めてはならない。

⑥役人は、事務の事、外交のことを新聞に掲載してはならない(公開されているものは除く)。

⑦記事に誤りがあれば改めること。

⑧記事の内容に疑いがある時は編集者は弁解する責任があること。

「法律を少しでも悪く言ってはならない」から、「やたらと批評してはならない」に戻っています。

しかし制限が加わった箇所もあり、

外国の法律はこうなのに、日本の法律ときたら…!という風に書けなくなったり、

ようやく機密漏洩の禁止が盛り込こまれたりしています。

宗教の教えを書くのはなんでダメなんだろう、と思っていたら、

ここにようやく理由が書いてありましたね(;^_^A

〇〇教の教えではこうなのに、日本の法律はこうなのはおかしい!…となるのがイヤだったんですね(-_-;)

当時の政府はとにかく法律のことについて悪く言われるのがイヤだったようですが、

これに対して、津田真道(1829~1903年。官僚、政治家)は明治7年(1874年)4月に『明六雑誌』に「出版自由ならんことを望む論」を書きます。

その内容は次のようになります。

・野蛮の政治は人を束縛する。文明の政治は人を束縛しない。文明・野蛮を分けるものは、言論の自由があるかないか、である。人はそもそも自由である。「大悪魔王」であっても自由を妨げてはならないのであるが、言論の自由を、権力をもって禁止したり、法律をもって制限したりする場合が見られる。権力をもって自由な発言を禁止するのは、「野蛮の醜政」、論外である。法律をもって制限するのは、「半開の国」(野蛮・文明国の中間。主にアジア諸国)の専制政治でよく見られるし、文明国でも見受けられることである。イギリス・アメリカは言論の自由がある。人に迷惑を与えてはいけない、という条件があるだけである。フランスなどでは出版条例があり、政府の許可を得ないと出版ができない。フランスなどでは政治の議論が活発で、世論が沸騰しやすく、これが何度も政府が倒れるもとになったので、政府はこれに懲りて、治安を保つために言論を制限した、…というが、私は、言論の自由を妨げたのが、政府の倒れるもとになったと思う。日本の政府は、民間の人々が議論するのを憂えてはならない。出版条例があっても、年間数十~数百万にもなる出版物の語句をいちいち調べることは難しいだろう。政府は堂々として、小さなことにこだわらず、政令を出して出版の自由を認めるべきである。これが文明国に進むための近道であると思う。

しかし事態は津田真道の考えたものとは違う方向に進むことになります。

政府は言論・出版の自由の制限の度合いを強めていくのです。

その理由として、

同時代の末広鉄腸(重恭。1849~1896年。のち衆議院議員)は『新聞経歴談』で、

前年副島・板垣の諸氏が民撰議院の献言を為せしより国民は参政権を得るの熱心を増加し速かに国会の開設あらん事を希望し、当時の慣用語にて云えば新聞社の多数は所謂急進論に傾き、政府の意思を代表して漸進論を主張する者は一の日々新聞あるにすぎず。各社其論鋒を一にして政府を攻撃し時には頗る激烈の議論ありたり。其の中に就き評論新聞と云う一ヶ月数回発兌する雑誌あり、其の社長は鹿児島人にて十年の役に西鄉に通じて禁鋼せられし海老原穆氏が社主となり、…其の社は実に長州派に反対する者の梁山伯なり。此の雑誌は毎号内閣を攻撃して余力を遣さず。殊に尾去沢鉱山一件にて井上馨氏を初め之に関係する人々の秘密を発摘して之を攻撃せしに至ては実に痛快を極めたり。此等は最も直接に政府の注意を呼起せしならん。且当時我が国内を観れば鹿児島には私学校の団体あつて何時破裂すべきを知らず、不平士族は天下に充満して兵乱の起るを待つ勢あれば、新聞紙の漸く勢力を増加して人心を煽動するは政府の最も危険とする所なり。是に於てか一二学者の献言により新聞条例を制定するに至れり。」と記し、

岡義武(1902~1990年。政治学者。東京大学教授)は『明治政治史』で、

征韓論争、ついで民撰議院設立建白がなされて、世上でこれらについて種々論議が行われるようになると、諸新聞は世上の政論を記事として報道するようになったが、明治八年には多くの新聞は社説を設けて、政治問題、そのほか時の重要問題について新聞社としての意見を表明する有様になった。しかも、新聞がこのように次第に政治的色彩を帯びるにいたったとき、東京の代表的新聞のきわめて多くは反政府的立場をとることになった。それは、この前後の時期に新聞を主宰したものが薩長以外の諸藩出身の士族であり、しかも、有力な若干の新聞の中心には主家を倒した薩長に対する憤りと憎しみとに燃える旧幕臣たちがいたのによること、大である。そして、藩閥政治に対するこれら諸新聞の痛烈な攻撃、嘲弄の筆陣は、士族層を中心にひろく鬱積する現状不満の空気の中で大きな反響を世上に生み出すようになった。新政府は、その成立の当初には前述したように、新聞の啓蒙的役割をきわめて重要視して、新聞事業に対して保護、奨励の方針をとった。けれども、新聞が以上のようにして政治的色彩を帯びるにいたったとき、ここに新聞に対するその方針を改めて、新聞紙条例の改正と讒謗律の制定を行って、反政府的言論を厳重に取締るようになった」…と説明しています。

こうして、明治8年(1875年)に至って、新聞紙条例の改正(悪?)・讒謗律の制定となったわけです(◎_◎;)

・明治8年(1875年)新聞紙条例

第1条:許可を得ずに新聞を発行した場合、発酵を禁止、社主・編集人・印刷人に罰金100円。国の許可を得たと偽った場合は、罰金100~200円の上、印刷機も没収する。

第8条:筆者が変名を使った時は、禁獄30日・罰金10円。他人の名前を借りた時は、禁獄70日・罰金20円。

第12条:新聞でもって人をそそのかし、罪を犯させた場合、犯した者と同罪とする。

第13条:政府を変更したり、倒したりすることについて書いた者は、禁獄1年~3年。

第14条:法律を悪く言ったり、法律に違反した者をかばう記事を書いた者は、禁獄1月~1年・罰金5円~100円。

第16条:許可を得ずに建白書(政府に提出する意見書)を載せた者は、禁獄1月~1年・罰金100円~500円。

内容が非常に厳しくなり、また、内容が政府批判に対するものに偏っていることがわかります。

・讒謗律

〇事実かどうかを確認せずに人の名誉を傷つけること、これを讒毀(ざんき)という。悪い評判を広めること、これを誹謗という。出版物によって讒毀・誹謗する者は、次の罰を与える。

①天皇を讒毀・誹謗→禁獄3月~3年・罰金50円~1000円。

②皇族を讒毀・誹謗→禁獄15日~2年半・罰金15円~700円。

③役人を讒毀→禁獄10日~2年・罰金10円~500円。

 役人を誹謗→禁獄5日~1年・罰金5円~300円。

④その他を讒毀→禁獄7日~1年半・罰金5円~300円。

 その他を誹謗→罰金3円~100円。

「讒毀」は辞書で引くと悪口を言うことだと出てきます。

「誹謗」は辞書で引くと悪く言うことだと出てきます。

…実際には意味には違いはないのですが(;^_^A、ここでは讒毀のほうが程度がヒドイとみなされているようです。

「讒」だけで引くと、事実でない悪口を言う事だとでてきます。

「謗」だけで引くと、悪口を言う事だとでてきます。

こちらの方が合っているようですね(;^_^A

つまり、「誹謗」は実際に良くないことをしたことに対して攻撃することで、「讒毀」は良くないことをしてないのに、やったことにして攻撃するすることなので、「讒毀」の方が罪が重くなっているわけですね。

さて、法律の内容ですが、役人を批判から手厚く守っていることがわかります。

役人だけ士族・平民の中で独立して扱われていますからね(;^_^A

三宅雪嶺も『同時代史』で、皇族と役人の差が特に少なく、ほとんど同一である、と言っています💦

しかし、政治家を「誹謗」…批判することは悪いことなのでしょうか??

政治家は一般人と違い権力があるわけですから、批判ができないと、人々に都合の悪いことが行われたり、政治家に都合のいいことが行われたり、みんなから集めた税金を好き勝手に使われたりしてしまいます。

税金で生活し、税金を使う立場にある政治家に対する批判はあってしかるべきものです。

まぁ、確かに当時は、例えば『草莽雑誌』は「暴虐官吏は刺殺す可きの論」を載せ、『評論新聞』は1876年1月に「圧制政府は転覆すべきの論」を載せ、「政府の義務は人々を保護し、自由の幸福を受けさせることにある。それなのに、世には むやみにいばり、法律を増やし、行動・言論の自由を束縛する、人々の幸福の上で害毒でしかない政府がある。これは政府の義務を果たさない暴政府である。このような政府に対し、人民は精一杯抵抗し、やむを得ない場合は暴政府を倒して新たに自由の新政府を立てる必要がある。アメリカ独立の檄文には人民の自由を剥奪する暴政府は倒して新たに自由の政府を作るのは人民の義務である、とあり、フランス革命の檄文にも同様の文章が載っている。今の日本政府は江戸時代の束縛をゆるめ、人民に自由の権を与え、人民に大いに安全幸福を与えている。今、日本に生きる人民はなんと幸せなことか。しかし今後、先に述べた暴政府が現れないとも限らない。その時には人民の義務を果たして政府を倒さなくてはならない」と書いて革命をあおったり、「四大臣を斬らんとするの建言」を載せ、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・大隈重信の暗殺をあおったりしていたので、

末広鉄腸が「府が此の処置を取りしは幾分か治安を維持するの道に於て已を得ざるもの有りしならん」と『新聞経歴談』で述べているように、度を越えた誹謗を抑えるためには仕方ない面もあったかもしれません。

それでも、政治家に対する批判全てを禁止するかのような法律はどう見てもおかしいでしょう。

感情的な批判は取り締まられるべきですが、論理的な批判は許されるべきです。

2023年8月23日水曜日

鷹が好きすぎる男~公方様御憑み百ヶ日の内に天下仰付けられ候事(1559~1564年頃?)

 今回の話は、16巻からなる『信長公記』の最初の巻にあたる、

首巻の最終部分になります😆

16巻分の1ですが、ボリューム的には首巻は4分の1あります💦

ようやっと4分の1が終わったということになりますね(;^_^A

織田信長の誕生日の7月3日から書き始めて、

首巻部分を一度終えたのが2月でしたが、それから『信長公記』前史を3・4月に書いて、首巻部分の修正・加筆作業を5~8月でやったので、約11か月ほどかかったことになります😓

このペースで行くと『信長公記』マンガ化完了まであと3年を要することになりますね…(;^_^A アセアセ

大変な道のりですが、ここからがメインなので、がんばります🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇京都の人々の笑いものになった織田信長

首巻は1568年に織田信長が上洛を果たしたという話で終わっていますが、

上洛については『信長公記』巻一の冒頭部分で詳しく扱っていますので、

今回の部分では上洛についての話はダイジェストな感じになっています。

(予告編のような感じ??)

そしてマンガで描いたエピソードですが、この話は実は『天理本』には書かれていません。

丹波国(京都府中部・兵庫県東部)・長谷城主の赤沢加賀守(義政。松永長頼[内藤宗勝]の与力[配下]。?~1603年)は、

鷹がとにかく大好きな男で、

ある時、自ら関東まで出かけて熊鷹を2羽手に入れました。

帰る途中、尾張で織田信長に会い、

「2羽のうちどちらか好きな方を差し上げましょう」

と言いますが、織田信長は、

「お気持ちはありがたいが、上洛して天下に号令するまであなたに預けておこう」

(志の程感悦至極に候。併[しかしながら]、天下御存知の砌[みぎり]、申請くべく候間、預け置く)

と答えました。

赤沢加賀守は京都に戻ってこのことを話すと、聞いた人々は、

「京都から離れたところにいるのだから、実現できるわけがない」

(国を隔て、遠国[おんごく]よりの望み実[まこと]しからず)

…と言ってみんな笑ったそうです。

そして、筆者の太田牛一はこう続けます。

…しかし、この話から十年もたたないうちに織田信長は上洛を達成したのだから、

世にも不思議なことである…

ここで10年もたたずに、と出てきているので、この鷹の話は、1559年~1568年のどこかの話ということになります。

もう少し範囲を狭めると、赤沢加賀守(ちなみに、赤沢加賀守は後に上洛した織田信長と敵対して、城を明智光秀に落とされて囚われの身になっている)の上司であった松永長頼は1565年に亡くなっているので、1559年から1564年あたりの話だといえるでしょう。

(『名将言行録』は根拠は示さないが永禄4年[1561年]のこととしている)

人々がなんと無謀な、と言って笑っているので、

もしかすると桶狭間前の話であったのかもしれません。

織田信長は1549~1552年頃に父の跡を継ぎましたが、

その後は尾張国内での他の織田氏や実の弟との骨肉の争い、

それを乗り越えたら大大名の今川義元との決戦、

義元を撃破した後は美濃との戦い…

戦いに次ぐ戦いでした。

普通であったら途中で何度も死んでいるでしょう。

しかし織田信長はそれを自らの決断力と行動力で突破してきました。

そしてついに京都とほとんどゆかりの無かった男が上洛を達成するまでになるのですが、

上洛後も、これまで以上に、厳しい戦いの連続の中に身を置くことになります。

『どうする家康』ではないですが、「どうなる、信長!!」

美濃平定、成る!~いなば山御取り候事(1567年)

 北伊勢を攻略中であった織田信長に、ある報告が届きます。

それは、美濃三人衆が寝返った、というものでした!

その方を受けた信長は、例のごとく素早く行動を開始します!!😝

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇「美濃三人衆」は二度裏切った!?

「美濃三人衆」とは、西美濃に勢力を持っていた、

稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就の3人のことを指します。

この中で最大の勢力を持っていたのは氏家卜全(直元。出家して卜全。元の名字は桑原。1512?~1571年)であったようで、

宣教師の報告書には「美濃の3分の1を領していた」とまで書かれていますが、

おそらくそれは言いすぎだとしても、西美濃一帯の旗頭的存在であったのでしょう。

持っている城も西美濃の中心となる大垣城です。

その次が安藤守就(義龍~龍興の頃は伊賀氏を名乗る。伊賀守であったので伊賀伊賀守となる(;^_^A。出家して道足[どうそく]。1503~1582年)。

西美濃の北方城の城主。

『信長の野望』ではどちらかというと知将タイプですが、

『松平記』には「武辺者」と書かれています。

1554年、織田信長の村木砦攻めの際には、尾張に援軍として派遣されています。

1564年、娘婿である竹中半兵衛と共に一時、稲葉山城を乗っ取りました

その頃に出家しているようですが、稲葉山城を斎藤(一色)龍興に返還する際に頭を丸めたのかもしれません。

しかし、その後も子の貞(定)治(?~1582年)は龍興の四奉行の1人として重用されています。

稲葉一鉄(良通。1574年、再出家して一鉄。1515~1589年)は、

三人衆の中で一番知名度は高いですが、三人の中では勢力はもっとも弱かったようです。

そもそも外様の人間で、伊予(愛媛県)の河野氏の一族であり、一鉄の祖父の代に美濃に流れて来たようです。

しかし姉が斎藤道三の妻となった(斎藤義龍を産んだとされている)ため、出世したようです。

居城は曽根城

この3人が一度に織田信長に寝返ったのですが、このことは

『信長公記』に「 8月朔日、美濃三人衆、稲葉伊予守・氏家卜全・安東伊賀守 申合せ侯て、「信長公へ御身方に参るべきの間、人質を御請取り侯へ 」と申越し侯。」

…と書かれています。

三人衆の寝返りは、有名な事実なのですが、いろいろとナゾの部分があります。

例えば、なぜ寝返ったのかがわかっていません(;^_^A

調略の結果なのでしょうが、なぜこのタイミング?というのがあります。

また、寝返った日にちについても、『信長公記』では「8月1日」と書かれていますが、これが怪しいのです。

前回のマンガでも紹介しましたが、

『勢州軍記』には、

「信長、楠カ城ヲ攻玉フ。ホドナク楠降参シテ、却テ魁シテ案内者トナル。 神戸ノ老(オトナ)山路弾正忠カ城高岡ヲトリマキ玉フトキ、 美濃西方三人衆、心替シケル由、飛脚到来ス。」

…とあり、織田信長が北伊勢の楠城を落とし、高岡城に進んでこれを包囲したときに美濃三人衆の寝返りの情報が入った、と書かれているのですが、

連歌師・里村紹巴(1525~1602年)がつけていた記録には、

永禄10年(1567年)8月20日に楠に行くと、織田軍の先鋒がが暮れにはやってくるらしく、騒がしかった、と書かれているので、

楠城に8月20日に至り、その後に楠城が陥落、そして高岡城に移ってこれを包囲中に美濃三人衆が寝返った…とすると、

8月1日に寝返り、は明らかにおかしいことになります。

『瑞龍山紫衣輪番世代帳』には、「永禄十丁卯九月織田上総乱入」と書かれているので、

寝返りは8月1日、ではなく、9月1日、の誤りなのではないでしょうか。

一方で、寝返りは一度ではなかったのではないか?とする史料もあります(◎_◎;)

信ぴょう性は疑われている書物ではあるものの、

『武功夜話』の内容も一応紹介すると、

滝川一益が中心となって伊勢長島を攻めるために砦を作った、

氏家卜全は、これは自分の領地を攻めるためなのではないかと勘違いして

織田を裏切って再び斎藤方につき、墨俣砦を攻撃した、

伊勢方面にいた佐久間信盛は、氏家卜全・安藤守就の裏切りを聞いて美濃にとって返し、墨俣砦を守る木下秀吉を救援したので氏家卜全らは敗れて退いた、

木下秀吉は稲葉一鉄を通じて氏家らと話をしたところ、

氏家らは今回の行動を恥じ入り、人質を差し出して降伏し、再度味方となった、

信長はこれを知って3000余りの兵を率いて、13日、河野島より瑞龍寺山を攻め登り、翌日の午前9時には稲葉山城を落城させた。これは永禄10年(1567年)8月のことであった、

…とあり、美濃三人衆は一度織田方に寝返ったが、さらに裏切って墨俣砦を攻撃、敗れてまた織田に降伏した…という驚きの事実が書かれてあり、また、稲葉山落城を8月14日としているのですが、どこまで本当なのかはわかりません(;^_^A

もしこれを事実とするならば、織田信長は、三人衆の寝返りを聞いてもこれを疑って美濃に向かわず伊勢を攻め、伊勢に向かったことを知った氏家・安藤が今の内だと墨俣を攻めたが敗北して降参、ここで織田信長はとって返して稲葉山城を攻略した…つまり、一度目の寝返りは織田をだましていた?ということになります。

また、比較的史料価値の高い『勢州軍記』は、

『信長公記』と同じく、描写が異なる別バージョンの写本も存在するのですが、

(先に紹介したのは稲垣泰一氏蔵『伊勢軍記』)

『三重県郷土資料叢書 第39集 勢州軍記 上巻』には、

信長軍は攻撃する際は必ず村々に火を放った、このため敵方は混乱した。

故に「戦に勝つには、夜討をしたほうが良い、城を落とすには、放火をしたほうが良い」というのである。

…という部分と、

美濃三人衆が裏切ったのを聞いて織田信長が美濃にとって返したことを述べているところに、

安藤伊賀守は、武田信玄と通じて(信長に)謀反をしたということである。

…というのが追加されています。

これを見ると、味方になったはずの美濃三人衆が裏切った、ということがわかります。

これを山路弾正の流したデマとし、これに信長はひっかかってしまった、とする説もありますが、

武田信玄とは同盟を結んでいるので、信玄云々はデマとしても、

『武功夜話』にも書いてありますし、実際に裏切った可能性もあります。

安藤守就は後に1580年に突然、織田信長から追放処分を受けますが、

その理由について、『信長公記』は、

信長が昔大変だった時に野心(身分不相応のよくない望み)を抱いたからだ、と書いていますが、

それはこの時のことだったのかもしれません💦

(この時でなければ、信長が大変だった時…というと信長が浅井氏に裏切られた時か、信玄が西上作戦をとった時、なのですが、前者はその後すぐの姉川の戦いに参陣しているので可能性は低いと思われます。…となると、可能性が高いのは信玄の西上作戦の時、でしょうか)

ちなみに『総見記』には、高岡城を攻めているときに、「濃州より飛脚来て申しけるは、甲州の武田信玄、日比の和平を叛て別心を企つ。西方三人衆稲葉伊予守・氏家卜全・安藤伊賀守等同心して甲信の人数を引入る由、風聞頻也と告ぐ。信長是を聞し召され、指置べきに非ずとて勢北表をば滝川一益を押えとして残し置かれ、北伊勢味方の諸侍を皆々一益に属け置かれて信長早々岐阜の城へ御隑陣なり。然る処に信玄事実儀にあらず。三人衆も申しわけ陳謝有て何事なく治まりけり。其の中に安藤伊賀守計り別心の儀隠れ無し。信長思慮深き大将故此の方より無事を破らず。伊賀守を助け置かれ。陳謝の旨御許容有て。本の如く召仕われけり。」…とあり、三人衆が背いたという噂があったが実際は安藤守就だけ本当であった、守就が謝ったので許した…ということが書かれています。

さて、まとめてみると、美濃三人衆の寝返りの日にちや経緯については、

以下の三説が考えられるのではないでしょうか。

A説

①織田信長、8月15日に伊勢に進攻

②8月20日に楠城を落とし、高岡城に移りこれを包囲する

③美濃三人衆の寝返りを知った織田信長は美濃三人衆の人質の提出を待たずに稲葉山城に攻め入る

B説

①美濃三人衆が寝返ったが、織田信長は信じきれず、8月15日、様子見で伊勢に向かう

②8月20日に楠城を落とし、高岡城に移りこれを包囲する

③山路弾正が今のうちに墨俣砦?を攻撃するように美濃三人衆をそそのかす

④(稲葉一鉄を除く?)美濃三人衆が墨俣砦?を襲うが、撃退され、降参する(9月1日)

⑤美濃三人衆の降参を知った織田信長は美濃三人衆の人質の提出を待たずに稲葉山城に攻め入る

C説

①8月1日、美濃三人衆の寝返りを知った織田信長は美濃三人衆の人質の提出を待たずに稲葉山城に攻め入る

②8月15日、稲葉山城陥落、一色義紀(斎藤龍興)が伊勢長島へ逃れる

③織田信長、斎藤龍興を追って伊勢長島に攻め入る

…どれが正しいんでしょうかね(;^_^A

A説が正しいと思うのですが、自分としては、のちの安藤守就追放の件もあり、

B説もあり得るのかな…とも思っています💦

〇稲葉山城の陥落

美濃三人衆の寝返りを聞いた織田信長は、

村井貞勝・島田秀満の2人に三人衆のさしだした人質を受け取りに行かせ、

2人が帰ってこないうちに早くも美濃に入って稲葉山城と山続きになっている瑞龍寺山に攻め込みました。

美濃勢はあまりのスムーズさに、「あれは敵か?味方か?」と戸惑っていましたが、

そうしているうちに城下町などに火がつけられてしまいます🔥

その日は風が特に強かった、と書かれているので、あっという間に日は燃え広がったことでしょう。

翌日、信長は指示を出して稲葉山城の周りに鹿垣を築かせてこれを包囲します。

そうしているときに美濃三人衆が信長の所にやってきたのですが、

『信長公記』には、

「肝を消し、御礼申し上げられ侯。」

…ひどく驚きながら、信長に挨拶をした、と書かれています。

驚いた理由は2つあったと思います。

①通常は、寝返りをしたものが先鋒となって敵を攻めるものです。

しかし、信長はそれを待たずにスピーディに稲葉山城に攻撃を仕掛けました。

②織田信長が稲葉山城を攻撃した、と聞いて慌ててかけつけたところ、

昨日攻めこんだという話なのに、もう四方に鹿垣が築かれ包囲が完了していた。

美濃三人衆は織田信長の決断と行動の迅速さ・手際の良さに恐れをなしたのだと思います。

『信長公記』には、

「信長は何事も、かように物軽に御沙汰なされ侯なり。」

…信長はこのように、何事も迅速に(慎重さを持たずに)命令された。

…とも書かれています。

せっかちな性格であったのかもしれませんが、

この圧倒的なスピードで数々の成功を収めてきたのが織田信長という男です。

おいつめられた一色義紀(斎藤龍興)は、ついに籠城をあきらめて、

舟で伊勢長島へと逃れていきました。

『信長公記』では落城の日を「8月15日」としていますが、

関市龍福寺の「年代記」には、

「信長入濃九月六日」とあり、

横山住雄氏は、この日をもって稲葉山城落城としています。

しかし、9月6日に美濃に乱入した、ということかもしれないので、

9月6日以後に稲葉山城が落ちた、と見るのがいいのかもしれません。

『信長公記』は8月15日としてたので、一か月分間違えて書いていたのだとすると、

9月15日に稲葉山城が落城したのかもしれません。

一方、稲葉山城の落城について、別の経緯を伝える話もあります。

それは、ルイス・フロイス『日本史』です。

そこには、美濃勢と陣をかまえて向かい合い、夜に軍の半分以上を7・8里(約30キロ)迂回させ、美濃勢の後ろにつかせた、兵力の減った織田軍相手に優勢に戦いを進めた美濃国主(一色義紀[斎藤龍興])は喜んだが、そこに背後から、美濃勢の旗を持った織田軍が突進して挟撃の形となり、美濃勢は崩壊した、信長は続いて稲葉山城を攻撃してこれを攻略した、美濃国主(一色義紀[斎藤龍興])は数名と共に脱出し、京都、さらに堺へと逃れていった…と書いてあるのです💦

『信長公記』の場合だと野戦の描写はありませんが、

フロイスは1563年から1595年に死ぬまでほぼ日本に滞在し、

稲葉山落城の頃は京都にもいたので、信頼できる部分もあります。

一方、『信長公記』は美濃攻めの部分については簡略な記述が多く、

書き洩らされている事実も多いことから、そこまで信頼できません。

稲葉山落城の経緯については、

自分はフロイスの方に軍配を挙げたいのですが…どうでしょうか(;^_^A

さて、こうして7年かけて織田信長は美濃平定(東美濃は武田勢力圏)に成功しました。

織田信長の次なる目標は上洛であり、そのため、本拠地も京都により近い稲葉山城に移します。

この際、小牧山城は廃城となってしまいますが、

後に1584年の小牧・長久手の戦いの際に徳川家康により、その遺構を基に大改修され復活しています。

また、織田信長は稲葉山の城下町が井口(いのくち)と呼ばれていたのを、

「岐阜」に改名したことは有名ですが、

実は以前から臨済宗の僧の間では井口や稲葉山のことを、

中国をまねて「岐山」「岐阜」「岐陽」などと呼んでおり、

信長は臨済宗の僧・沢彦宗恩から、改名するならばこの3つの中から選んではどうかと提案、

信長が「岐阜」を採用したという経緯があったようです。

…ということは、「岐山」県や「岐陽」県になる可能性もあったということですね(;^_^A

「岐陽」県だと、しうまいの崎陽軒とかぶっちゃってましたね(;^_^A アセアセ・・・

2023年8月22日火曜日

美濃から伊勢に転進?~北伊勢攻略(1567年)

 河野島の戦いで手痛い失敗をしてしまった織田信長

織田信長は失敗をした後は同じ作戦はとりません。

次の戦いの場所に選んだのは伊勢北部でした。

なぜ伊勢北部を攻撃したのか?美濃攻略はあきらめたのか?

今回はその謎について迫ってみようと思います(;^_^A💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇滝川一益と伊勢

織田軍の伊勢攻めの中心メンバーとなったのが滝川一益(1525~1586年)です。

この滝川一益はどんな人物なのかというと、

『勢州軍記』には、なんと12代景行天皇の子孫だと書かれています。

たぶん盛ったんでしょうが(;^_^A

近江国(滋賀県)の甲賀郡の大原出身と書かれています。

大原というと、滋賀県の最南部にある甲賀市の中でも、だいぶ南の方にあり、

伊勢(三重県)にほど近いところにあります。

地元でよくないことをしたのでいられなくなり、浪人して尾張に流れ着き、

織田信長に認められて仕えるようになったようです。

『寛永諸家系図伝』では、一族の者といさかいになって殺してしまい、

浪人していたところ、鉄砲の腕を買われて織田信長に仕えるようになった、とあります)

つまり譜代でも何でもないのですが、豊臣秀吉や明智光秀のように抜擢されて出世し、蟹江城を与えられて(『蟹江町史』では、蟹江城を任されたのは1574年以降とされています)長島の抑え・伊勢攻略を担当するまでになります。

さて、その伊勢ですが、どのような状態だったのかというと、

『勢州軍記』によれば、大きく4つの勢力圏に分かれていたようです。

伊勢は13郡からなるのですが、

南の5郡を支配していたのは北畠氏。伊勢の国司を務めていた由緒正しい貴族大名です。

北の8郡は3つに分かれ、

一番北から員弁郡・桑名郡・朝明郡・三重郡は、

北勢四十八家(実際に48あるわけではない)と呼ばれる小さな国衆が乱立している状態でした。

員弁郡→上木家・白瀬家・高松家

桑名郡→持福家・木股家

朝明郡→南部家・加用家・梅津家・富田家・濱田家

三重郡→千草家・宇野部後藤家・赤堀家・楠家

この中で最も大きかったのは千草家、次いで楠家でした。

千草家はあの南北朝時代の千草忠顕の子孫であり、北勢四十八家の棟梁という扱いであったようです。

1555年、近江の六角家が北伊勢に侵入した際に千草城主・千草忠治は善戦し、和睦に持ち込んだのですが、ちょうど子がいなかったので、

六角家の家老、後藤賢豊の弟を養子としています(千種三郎左衛門

しかしその後、子が産まれてしまうという最悪のパターンとなり、

疑心暗鬼となった後藤賢豊の弟は千草忠治とその子を追放してしまいます。

名門の千草家もここまで落ちぶれてしまったわけですね…( ;∀;)

後に織田信長の子の信雄により、千草忠治は千草城に復帰することができましたが、この時には子はすでに滝川一益によって亡き者にされてしまっていた状態にありましたので、津城主・富田信高の甥を養子としました(千草顕理)。

しかしこの千草顕理は1615年、大坂夏の陣で戦死、千草家は断絶してしまいます…。

楠家はあの南北朝の争乱の楠木正成の子孫を名乗る家柄で、楠城を本拠としていました。

楠正忠(1498~1574年。後に楠木と改姓)は関氏一族の神戸氏と婚姻関係を結んでおり、

北勢四十八家というよりは、関氏のグループに所属していました。

六角氏とも友好関係にあったようです。

続いて鈴鹿郡・河曲郡を治めていたのが関氏です。

関氏の「関」は鈴鹿の関に由来しています。

関氏の分家にあたるのが鈴鹿郡の峯家・国府家・鹿伏兎家

河曲郡の神戸家でした。

関盛信(?~1593年)は六角氏の家臣、蒲生定秀の娘を妻としており、

六角氏のグループに属していました。

北伊勢で一番南にある安濃郡・奄芸郡を治めていたのが工藤家で、

あの鎌倉御家人・工藤祐経の子孫とされます。

伊勢の長野に住んでいたので、長野氏を名乗りました。

工藤(長野)の分家には、

安濃郡の生家・家所家・細野家・分部家

奄芸郡の雲林院家がありました。

領地を接する北畠家と抗争を続けていましたが、

1558年、北畠具教の次男を養子にせざるを得なくなり、臣従することになりました(息子はいなかった)。

つまり、まとめてみると伊勢は、4つというよりかは2つに分かれている、といったほうがよさそうです(;^_^A

六角グループ→北勢四十八家・関家

北畠グループ→北畠家・工藤(長野)家

近江の六角氏が北伊勢に進出している、というのが驚きですが(◎_◎;)、

北伊勢と六角氏については、

①『天文御日記』天文9年(1540年)10月2日条…「北伊勢…の在所いずれも小弼方の者持ち候所に候」(北伊勢は定頼方が領有する所である)

②天文18年(1549年)8月に伊勢朝倉氏が書いた書状…「先年千草退治にて国錯乱の砌、…梅戸謂われなき違乱これありといえども、五十石米においては、相違有るべからざるの旨、既に佐々木霜台直札これあり」(以前、千草征伐があって、伊勢国が乱れた時に、梅戸氏が秩序を乱すことがあったが、五十石米は朝倉氏の者であることを六角定頼が保証した文書がある)

③『勢州軍記』…六角義賢は、弘治年中(1555~1558年)に、北伊勢を攻め取ろうと、3人の家老の内の1人、小倉三河守に3000余りの兵を付けて千草の城を攻めた。千種家は良く守ったが、六角家の執権、後藤但馬守の弟を千草家の養子とすることを受け入れて和睦した。小倉三河守は続いて千草と共に三重・朝明の両郡を攻撃し、これを支配下に置いた。弘治3年(1557年)3月、近江勢は三重郡の柿城を攻めた。この柿城は神戸方の城であり、神戸与五郎が守っていた。28日、神戸下総守は1000の兵を率いてこれを助けに向かったが、神戸家の家老で鬼神岡城主・佐藤中務丞父子が謀反し、小倉三河守に味方して、神戸城から神戸一族を追い出した。しかし、佐藤の家臣の古市与助は佐藤に背いて鬼神岡の城を取り、神戸家を引き入れた。主人と家来の城が入れ替わったわけである。この頃、神戸と関一党は仲が良くなかったので、長野家に助けを頼んだ。長野家は工藤勢を率いて援軍に駆けつけ、神戸とともに神戸城を攻めた。小倉は防戦したが、神戸が奮戦して城内に突入するに及び、城から出て千草城に落ち延びていった。こうして神戸家は会稽の恥を雪いだのである(『伊勢軍記』では、長野家ではなく、関氏が神戸に味方している)。神戸は佐藤父子を赦すと言って城に招き、父子が城にやって来たところを殺害した。佐藤父子の死骸は市に3日さらされた(『伊勢軍記』は「これを北方の大乱という」と書いている)。小倉三河守はその後、近江市原で一揆勢と喧嘩になり、ついに農民によって殺された。その後、関盛信・神戸友盛は共に六角家臣の蒲生氏の娘を妻とし、永禄年中(1558~1570年)に六角氏の味方となった。関氏の分家にあたる峯家・国府家・鹿伏兎家もみな六角氏についた。工藤(長野)氏は、伊勢国司・北畠具教の次男を養子としていたので、これに従わず、北畠氏についた。この後、関氏と工藤氏は度々争った。ある時、工藤衆は北方の諸将と示し合わせて、船で三重郡塩浜に上陸したが、関衆は兵を隠してこれを待ち構えていた。工藤衆が上陸したところで打って出て、大勝利を収めた。これは大合戦であった。それから関氏の勢力が強まり、北方の諸将は関氏の五家(関・峯・国府・鹿伏兎・神戸)に従うようになった。

…と各史料にあります。

〇北伊勢攻略作戦

『勢州軍記』には、

永禄十年ノ春、濃州ノ住人織田上総介平信長、伊勢ノ国ヲ取ルベシトテ、滝川左近将監大伴ノ宿称一益ヲ大将トシテ、勢州北方ヘ向ヒケル。滝川家尾州境、桑名長嶋ヘン、美濃境多度ヘンヘ打出、北方ノ諸士、或ハ攻、或ハ和之、武威ヲフルヒ、員弁郡、桑名郡両郡ノ諸士、上木、木俣、持福以下、自然ニ織田家ニシタカヒケルトカヤ。」

…とあり、永禄10年(1567年)の春には滝川一益に命じて伊勢攻めを実施、

桑名長島・多度方面を攻撃し、上木・木俣・持福家などが降伏し、

員弁郡・桑名郡を攻略していたことが読み取れます。

伊勢攻めはこれで終わらず、

8月に第二弾を実行に移します。

「永禄十卯年八月、信長ハ初テ桑名表ヘ発向シ玉フニ、北方ノ諸士、南部、加用以下、随之。其後信長、楠カ城ヲ攻玉フ。ホドナク楠降参シテ、却テ魁シテ案内者トナル。 神戸ノ老(オトナ)山路弾正忠カ城高岡ヲトリマキ玉フトキ、 美濃西方三人衆、心替シケル由、飛脚到来ス。依之、信長、滝川左近将監一益ニ北方ノ諸士ヲ相ソエ、勢州ノ押ヘトシ、勢ヲ打入、岐阜ヘ帰リ玉フ。」

…織田信長自ら伊勢に攻めこみ、朝明郡の南部・加用家はさしたる抵抗もせずに織田信長に従った、続いて楠城を攻め、これを落とし、楠家を先導役としてさらに神戸具盛の家老、山路弾正の守る高岡城を包囲した、この時、美濃三人衆が寝返った、という知らせが届いたので、伊勢の抑えに滝川一益を残し、織田信長は美濃に急行した…という内容です。

連歌師・里村紹巴(1525~1602年)がつけていた記録がこれを補完しています。

曰く、

8月15日に、津島に向かい、桑名に行こうと思ったら、「長島成敗に尾州太守出陣なれば」…長島攻めのために織田信長が出陣した

18日に大高で、「夜半過ぎ、西を見れば、長島をいおとされ、放火の光夥しく、白日のごとくなれば、起出で」

20日に楠に行くと、織田軍の先鋒がが暮れにやってくるらしく、騒がしかった。…

これを見ると、伊勢を攻める前に、まず長島を攻撃していることがわかります。

『弥富町史』には、

鯏浦城の服部友貞が北伊勢の国衆に応援を頼みに城を離れたところを狙って、

織田信長の弟、織田信興(織田信秀の七男。?~1570年)を大将、補佐役に滝川一益がつき、鯏浦の服部党を攻撃、これを破って興善寺に放火した、…と書かれています。

おそらく里村紹巴の見た夜の放火の光というのはこれのことを指しているのでしょう。

ちなみにその後、織田軍は長島近辺に古木江城・鯏浦城を築き、長島の一向宗勢力(服部党)を圧迫していくことになります。

織田信長は美濃三人衆の寝返りで中断したものの、

北伊勢攻略作戦を2度にわたって進めていたわけですが、

なぜ北伊勢を攻略しようとしたのでしょうか?

説の1つには、

足利義秋を救援するための上洛ルートとして、

美濃を使いたいが、河野島の戦いで撃退されたのもあり、難しい。

ならば、ということで、伊勢周りで近江→京都に至る上洛ルートを確保しようとした、というものがありますが、かなり強引すぎやしないでしょうか…。

北伊勢は六角氏グループに属していた、というのを先に述べましたが、

その六角氏は美濃斎藤氏と友好関係にありました。

つまり、この北伊勢攻撃は六角氏の斎藤氏援助ルートをたたこうとしたものであったのではないでしょうか?

長島も攻撃していますし、北伊勢や木曽川を通じて美濃に支援するルートをたたくことで、

美濃の武士たちの動揺を誘った…。

美濃三人衆が織田方に降ったのも、これが関係しているかもしれません。

次回は、その美濃三人衆の寝返りから稲葉山城落城までを取り扱っていこうと思います!🔥


将軍・足利義輝殺害と三好氏の内紛~公方様御生害の事(1565~1567年)

 ヒヤリとする場面もありながらも、

中濃(美濃中部)の制圧に成功した織田信長。

これで斎藤(一色)龍興の勢力範囲は美濃西部に限られることになりました。

織田信長は斎藤龍興を追いつめるためにさらに手を打っていきますが、

その中で京都で騒動があり、これが織田信長の行動にも影響を与えることになります💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇永禄の変~将軍・足利義輝の横死

1467~1477年の応仁の乱、その後の1493年の明応の政変を経て、

室町幕府の権力は大幅に低下していました。

明応の政変後、将軍であった足利義稙を追放し、足利義澄を将軍に就けて幕政をほしいままにしたのは、「半将軍」とも呼ばれた細川政元(勝元の子。1466~1507年)でした。

政元には3人の養子(澄之・澄元・高国)がいましたが、

この3人の間で跡継ぎをめぐって争いが起き、

政元は1507年に澄之派の家臣に暗殺されてしまいます(永正の錯乱)。

澄元・高国は澄之討伐の兵を挙げ、澄之はこれに敗北して自害します。

続いて澄元・高国の間で争いが起こり、1508年、高国は勝利して管領となり、足利義稙を将軍に就け、幕政を思うがままにします。

この義稙が1521年に阿波(徳島県)へ出奔すると、高国は義澄の子、義晴(1511~1550年)を将軍に就けました。

ここまでは順風満帆でしたが、1526年、讒言を信じて家臣を粛清したことから、

丹波(兵庫東部・京都中部)での反乱を招き、さらに阿波で細川澄元の子・晴元(1514~1563年)も挙兵、これらの反乱軍に敗れた高国は、1531年に自害して果てました。

こうして今度は細川晴元が幕府の支配者になったのですが、

その晴元も、高国の養子・氏綱を擁して挙兵した重臣の三好長慶(1522~1564年)の攻撃を受け、1549年に起きた江口の戦いで敗北して、将軍の義輝(1536~1565年。義晴は1546年に将軍職を子の義輝に譲っていた)と一緒に近江の坂本に逃れました。

こうして長く続いた細川一族による政権は崩れ、三好長慶が畿内の覇者となる時代がやってきました。

しばらく京都に将軍が不在となりましたが、1552年、義輝は長慶と和睦して京都に復帰しました。

幕府の力を取り戻す志のある足利義輝は長慶に幕政を牛耳られることを嫌い、翌年にはさっそく細川晴元と結んで三好長慶打倒を図りました。

しかし晴元は敗れ、義輝も近江の朽木に逃れることになり、再び京都に将軍が不在の時期がやってくることになります。

義輝が京都に復帰できたのは1558年、三好長慶との和睦が成ってからのことで、5年もの月日が経っていました。

この後、義輝は全国の大名に上洛を求めたり、新御所の造営を始めたり、伊達晴宗を奥州探題、大友義鎮(宗麟)を九州探題に任じたりするなど、将軍の権威を復活させるために多方面で派手に活動します。

が、こんな動きをして三好長慶ににらまれないのか?と思うのですが(◎_◎;)、

義輝は三好長慶を御供衆から家格が最も上の御相伴衆に格上げ・四職家などがなる修理大夫に任官・将軍家の紋である桐紋の使用を許可するなど優遇、敵対する姿勢も見せなかったので、三好長慶としては不利益を感じず、義輝を追放することもしなかったのでしょう。

義輝と長慶の蜜月時代は長く続きますが、

1564年、三好長慶が42歳で亡くなると、風向きが変化し、翌永禄8年(1565年)5月19日に、最悪の形で破局を迎えることになります。

『信長公記』には、5月19日に起きた事件について、次のように記しています。

「永禄8年5月19日に清水参詣と号し、早朝より人数を寄せ、則ち、諸勢殿中へ乱れ入る。御仰天なされ侯といえども、是非なき御仕合せなり。数度切て出で伐り崩し、余多に手を負わせ、公方様御働き侯といえども多勢に敵わず、御殿に火を懸け、終に御自害なされ侯訖ぬ。

同三番目の御舎弟 鹿苑院殿へも、平田和泉を討手に差し向け、同尅に御生害。御伴衆悉く逃散り候。其の中に、日頃御目を懸けられ侯、美濃屋小四郎、未だ若年 15・6にして、討手の大将、平田和泉を斬り殺し、御相伴仕り、高名比類無し。誠に御当家破滅、天下万民の愁歎これに過ぐべからずと云々

早朝、軍勢が御所に攻め入り、御所にいた者たちが奮戦して軍勢を切り崩し、将軍も活躍したものの、多勢に無勢、御所に火を放って義輝は自害した。弟の周暠も同じ頃に死に追い込まれた。お付きの者たちは皆逃げ去ったが、周暠に目を懸けられていた美濃屋小四郎は、討手の大将である平田和泉を殺した後、自害した。義輝の死を、世の人々は悲しむこと、これ以上の物はなかった…。

なんと、将軍が死に追い込まれたというのです(◎_◎;)

室町幕府の将軍が殺されたのは、1441年、嘉吉の変で6代将軍・足利義教が殺されたのと、今回の事件(永禄の政変と呼ばれる)の2回だけです。

戦国時代であっても、将軍を殺すことは憚られていて、追放が関の山でした。

なぜ義輝は殺されなければならなかったのでしょうか??

まず、義輝を殺したのは誰なのでしょうか。『信長公記』にはその主語が書かれていません。

6月16日、越前(福井県北部)の朝倉義景の家臣、山崎吉家・朝倉景連が、越後(新潟県)の上杉輝虎の家臣・直江景綱に、永禄の政変の様子を伝える書状を送っていますが、それには、

「去月19日、三好左京大夫・松永右衛門佐、訴訟と号し、公方様御門外まで伺い致し候、人数御殿へ打ち入るにより、直に度々御手を下され、数多討捨てなされ、比類なき御働きに候といえども、御無人の条、御了簡に及ばず、御腹を召さるの由に候、誠に恣の仕立て、前代未聞、是非なき次第、沙汰の限りに候、鹿苑院殿様も、路次において御生害候、鹿寿院(義輝の母)殿様殿中において御自害候、其外諸侯の面々卅(30)人ばかり、女房衆も少々相果てらるの旨に候…」

…とあり、三好義継と、松永久通のやったことである、と書かれています。

山科言継や勧修寺晴右の日記にも、三好義継・松永久通がやった、と書かれていますので、ほぼ間違いないでしょう(ルイス・フロイスの『日本史』では、実行犯は三好義継と松永久通であるが、計画を立てたのは三好義継と松永久秀となっている)。

三好義継(1549~1573年)は長慶の甥で、長慶の養子となり、長慶の死後はその後を継いでいた人物で、

松永久通は、三好氏の重臣・松永久秀の子で、永禄6年(1563年)に久秀から家督を譲られていた人物です。

では、なぜこの2人は将軍を殺すことを決意したのでしょうか。

『信長公記』には、三好長慶が幕政を思うがままにしていたのを、将軍が恨みに思って、挙兵しようとしていることを察知したからだ、と書かれています。

やられる前にやってしまえ、ということでしょうか。

『細川家記』は三好を討つために、近国の大名に三好討伐を求める書状を送ったことが知られたため、とあります。『信長公記』と同系統といえるでしょう。

『足利季世記』は、阿波にいた足利義栄(足利義澄の孫で、足利義晴の甥。1538~1568年)が将軍になりたいため、足利義輝の排除を三好に働きかけたため、とします。

山科言継も、足利義維・義栄父子のどちらかを将軍にするためではないか、という噂があった、と日記に書き留めていますし、ルイス・フロイスも阿波にいる公方(足利義維)の近親者を将軍にしようと考えたため、と書いています。

しかし、足利義栄が阿波から京都に移ったのは永禄の政変から1年以上も経った後のことであり、足利義維・義栄が首謀者であった、というのはあり得ず、足利義栄を将軍にするため、というのはおそらく誤りでしょう。

やはり一番考えられ得るのは、足利義輝が、三好長慶が亡くなり、若年の三好義継が継いだことを奇貨として、三好の打倒を図ったが、これを察知した三好に先手をうたれた、というものでしょう。

もしくは、永禄の変の翌年に、足利義栄・三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通の三好の重臣たち)と、三好義継・松永久秀・久通父子の間で対立が起き争いが起きているので、

足利義輝と友好的で、三好長慶死後の三好氏の実権を握っていた松永久秀を排除するため、将軍に訴えをしに行っただけであったのに、三好三人衆が暴走して将軍を死に追い込んだのかもしれません。

先の越前の山崎義家の書状にも書いてありましたが、名目上であるかもしれませんが、大軍で御所に向かったのは将軍に訴えることがあったから、とされています。

では、どのようなことを将軍に要求しようとしたのでしょうか?

要求の内容を記しているのはルイス・フロイスの『日本史』であり、それには、将軍側近の進士晴舎の娘で義輝の側室の小侍従局や、将軍の側近たちの多数を殺すことであった、と書かれています(◎_◎;)

これが真実であれば、小侍従局は三好にとって都合の悪いことをしている人物だと考えられていた、ということになるでしょうか。

『日本史』には、進士晴舎はこの内容を見て憤り、義輝に「三好殿の無礼・悪行は極まりました、私は先にあの世へ行きます」と言って自害して果てた、とありますが、

『足利季世記』の内容は異なり、訴えの内容は明かさずに、これは訴状が将軍にまで届けられる間に兵を御所内に入れるための作戦であった、と記すのみで、進士晴舎が自害した理由も、訴えを聞き入れるかどうかを話し合っている間に敵兵の侵入を許したことを知り、敵の計略に乗ってしまったのが悔しかったため、となっています。

しかし、責任を取って自害する、というのは不自然です。義輝にすれば、攻め寄せてくる敵といっしょに戦ってほしかったはずです。

ですから、進士晴舎の自害は、責任を取ったため、とするのはおそらく誤りで、自らを犠牲にして鎮静を図った、とするほうがしっくりきます。

ちなみに『日本史』によれば、訴状を渡したのは三好三人衆の一人、石成友通であるということで、訴状の内容を将軍方が聞き入れることができないようなものにすり替えた可能性もありますが。

その後の動向について、『日本史』は次のように記します。

…三好方は御所内に向けて鉄砲を打ちかけるだけでなく、火を放った。将軍は勇猛な武士であったので、長刀をもって外に出ようとし、母に止められたが、「自分は隠れて死にたくない、将軍らしく戦死したい」と言って打って出て、多くを死傷させたので、周りの者は驚いた、将軍は胸に一槍、頭に一矢、顔面に刀傷二つを受けて倒れたが、敵はさらに何度も切りつけて殺害した。母は自害しようとしたが敵に殺された。将軍と共に、側近の者たち約100名が死んだ。僧侶である弟は都から少し離れたところにいたが、襲われて殺された。この時、15歳の家来が、主人を殺した物を殺害した。将軍から寵愛されていた小侍従殿は逃れることに成功したが、隠れていたところを捕まった。ナカジ・カンノジョウという者に首を斬られることになったが、首を斬るつもりで振った刀は誤って彼女の顔を斜めに切った。小侍従殿は、自分は覚悟してきたというのに、なんと手際が悪い、と言った。二度目で彼女の首は切り落とされた。

『信長公記』や先の山崎吉家の書状と比べると、自ら戦った、というところ、弟を殺した者を15歳の家来が仇を取った、というのは同じですが、大きく違うのは自害ではなく殺された、という点です。

勧修寺晴右の日記には自害とありますが、山科言継の日記には討ち死にしたとあります。当時から情報は錯綜していたのでしょう。

そのような中で、果たして訴状の内容が『日本史』のように伝わったのかは疑問です💦

『足利季世記』の内容も見てみましょう。

…将軍の家来たちは打って出て戦ったが皆討ち取られ、残ったのは女性や幼い者だけになった。将軍は多くの刀を地面に突き刺し、取り替えながら敵と戦った。敵は恐れて近づけなかったが、池田丹後守の子が戸の脇に隠れながら将軍の足を薙ぎ払い、将軍が倒れたところを倒した障子で押さえつけ、槍で突いて殺害した。池田の子は将軍の目を突いたが、その後目が見えなくなってしまった。将軍のお供の者たちは31人討ち死にした。将軍の母は火の中に飛び込んで死んだ。将軍が寵愛していた小侍従殿は殺された。将軍の弟の鹿苑寺殿は供の者3人と共に自害した。…

義輝の死の場面は詳細で、よく使われる有名なものですね。こちらも義輝は自害ではなく殺されたことになっています。それ以外の内容は、山崎吉家の書状の内容とほぼ同一です。

『日本史』『足利季世記』どちらも小侍従局が殺されたことが記されており、フロイスはこれをもとに訴状に小侍従局のことが書かれていたと考えたのかもしれません。

こうして、将軍・足利義輝は殺されてしまったわけですが、弟の覚慶(のちの足利義昭)は京都から離れた興福寺にいたため殺されずに生き残っていました。

しかし命の危機は迫っていました(◎_◎;)

『信長公記』にはその後の動向について、次のように記されています。

「然て、二男御舎弟 南都一乗院 義昭、当寺御相続の間、御身に対し、聊か以て野心御座なきの旨、三好修理大夫・松永弾正かたより、宥め申され侯。尤もの由仰せられ侯て、暫く御在寺なさる。或る時、南都潜に出御ありて、和田伊賀守を御憑みなされ、…」(足利義晴二男の覚慶は、興福寺にいる間は危害を加えるつもりはない、と三好義継・松永久秀から言われていたので、しばらく興福寺にとどまっていたが、ある時、ひそかに興福寺を出て、近江甲賀の豪族である和田惟政を頼って伊賀より甲賀に移った)

一方で、興福寺を脱け出したことについて、『足利季世記』は、「覚慶は、兄が殺されたことについて、嘆き、また、悔しく思っていたが、顔色に出さず過ごしていたが、松永が討手を送って殺そうとしている、という話を聞いて、甲賀出身の家来の者を細川藤孝のもとに送り、将軍家再興の気持ちがあることを伝えた上で、ひそかに寺を離れ、まず和田和泉守(伊賀守の誤りか)の屋敷に逃れ、」と記し、

フロイスの『日本史』には、「殺された将軍には僧侶で、大和国奈良の一寺にいる弟がいた。兄には子が無かったので、将軍職を継ぐ権利は彼にあった。しかし彼は松永久秀に殺されるかもしれないと心配し、寺を脱出して甲賀の和田惟政の館に行った。そして自分が将軍になれば、彼を大侯にすると約束した」…とあり、

『足利季世記』・『日本史』ともに、覚慶(足利義昭)が寺を脱け出した理由は滅永久秀から殺される危険から逃れるためだった、ということが記されています。

『信長公記』では、危害を加えるつもりはない、と三好義継・松永久秀から言われていた、とあります。どちらが正しいのでしょうか??(゜-゜)

実は覚慶は、義輝が暗殺された3日後の永禄8年(1565年)5月22日に、松永久通にあてて、

…霜台(松永久秀)は誓紙をもって、私に危害を加えることは決してしない、ぞんざいな扱いはしない、と言ってくれたので、安心した。あなたを頼りとしている。

…と記した書状を送っているのですね。

両者とも本心を隠しているだけなのかもしれませんが、この後、松永久秀と足利義昭は長く共闘することになるので、それを考えると松永久秀は足利義昭を殺すつもりはなかった、ということなのでしょう。

ともあれ、大和から去った覚慶は、甲賀郡の和田惟政のもとにしばらく身を寄せたのち、

『信長公記』に「江州 矢島の郷へ御座を移され、…」とあるように、矢島という所にさらに移動し、ここで還俗して「足利義秋」と名乗るのですが、

この矢島というのは、京都からわずか20㎞の場所です(◎_◎;)

松永久秀と違い、他の三好の者たちは足利義秋の命を狙っています。

いくら京都に復帰したいとはいえ、危険な三好の勢力圏に接近して大丈夫なのか⁉と心配になりますが、

実は、京都にほど近い矢島に移動しても大丈夫だったのは、情勢の変化がありました。

それは何かというと、三好氏の中で内紛が発生したのです!!Σ( ̄□ ̄|||)

〇三好氏の内紛

話が少し戻りますが、足利義輝が殺害された際、三好の行動に最も強く反発したのが、紀伊畠山家の重臣・安見宗房でした。

安見宗房は三好に奪われた河内国をめ取り返すために三好長慶に何度も戦いを挑んだ男です。今回の将軍殺害で、人々の心が三好から離れると見て、今が三好氏を倒す好機だと考えたのでしょう。宗房は、6月24日に遠く越後の上杉輝虎(謙信)の重臣である河田長親・直江景綱にまで書状を送り、「5月19日に公方(足利義輝)様は三好・松永によって切腹に追いこまれることになった、これは『先代未聞』のことである、『天下諸侍御主』に対してこのような仕打ち、悔しくてたまらない」と述べ、弔い合戦に加わるように訴えています。その後、覚慶(のちの足利義昭)が近江に脱出したことを知った宗房は、8月6日に、薬師寺弼長という者に対して書状を送り、覚慶を将軍にすることへの協力を求めていますが、この書状には、丹波の荻野(赤井)直正の上洛が近いこと、根来衆と手を結んだことも記されています。

ここから、紀伊畠山・紀伊の根来衆・丹波京都府中部・兵庫県東部)の赤井氏による反三好包囲網が形成されていたことがわかります🔥

一方、三好氏は包囲網に対抗するために結束しなければならない時だというのに、逆に内部分裂を起こしてしまいます(◎_◎;)

その内部分裂とは、三好氏が、三好三人衆派と、松永久秀派に分かれて相争った、というものです。

ここで「三好三人衆」について説明しておきましょう。

三好三人衆の1人目、三好長逸は三好長光、もしくはその弟の長則の子といわれています。

長光・長則は三好之長の子です。三好之長の子が長秀、その子が元長、その子が三好長慶になります。

つまり、三好長慶にとって、三好長逸は曽祖父の弟の子ということになるわけです。

三好長逸は何年に生まれたかわかっていないのですが、三好長光・長則は両方とも1520年、細川高国と戦って敗れ、殺されていますので、三好長逸は1520年より前に生まれていることは確かです。

『信長の野望・新生』では、1514年生まれということになっています(;^_^A

ルイス・フロイスの『日本史』には、1566年の時点で、「彼は55歳くらい」であった、と書かれているので、フロイスが予想した年齢が的中していたとすれば、1511年生まれ、ということになります(;^_^A

三好長慶が死んだ時点では、三好一族の長老的立場にありました。

また、長逸はキリスト教に対して友好的であったため、

ルイス・フロイスの『日本史』には、

「日向殿は、生来善良な人であり、教会の友人であった」と書かれています。

永禄8年(1565年)にフロイスたちが京都から追放される際には、

バテレンの所有物は没収してはならぬ、道中、通行税を支払わなくてもよい、と書かれた書状を手渡しています。

三人衆2人目の三好宗渭は、細川高国と争った細川澄元の子、細川晴元に最初仕えていました。この晴元は三好長慶と対立して追放されましたが、その後三好宗渭は細川家臣を代表する立場となり、発言力を高めたようです。

三人衆3人目の石成友通は三好一族出身ではなく、出自もよくわかっていませんが、才覚を買われ、松永久秀に次いで台頭してきた人物です。

さて、『足利季世記』には、この三好三人衆と松永久秀が仲たがいしたことについて、次のように記しています。

…両雄並び立たず、必ず争うのが世の常であるので、三人衆と松永久秀はお互いに疎遠になり、三好家中は2つに分かれることになって争うことになった。

これだけだとよくわかりませんね(;^_^A

(両雄並び立たずと言ったらなんで三人衆は三人いっしょなままなんだ…)

天野忠幸氏は、『三好一族』で、「久秀が排斥された原因は、久秀が足利義昭を取り逃がし、三好包囲網に大義名分を与えたこと。内藤宗勝が討死し丹波を失ったことである。久秀はこのような相次ぐ失態の責任を問われ失脚した。」と説明しています。

これも理由の説明になってはいない気がしますが💦、三好長慶死後の主導権争いの中で、失点が見つかった松永久秀をこれ幸いとばかりに排除することにした…ということであり、もし4人の中で他の人が失策をしていたらその人が蹴落とされていた、ということになるのでしょうか??

それよりも、松永久秀は義輝殺害に乗り気ではなく、殺害を実行した三人衆と対立が生まれ、さらに義昭(足利義輝の弟)を取り逃がした久秀に対して三人衆は「義昭を取り逃がしたのではなく、わざと助けたのでは?義昭を戴いて、我らを除こうとしているのでは?」と疑念を持ち、先手を打って松永久秀を排除することにした、ということなのではないでしょうか?(゜-゜)

石成友通は永禄8年(1565年)10月26日に、大和(奈良県)の国人・井戸良弘に対し書状を送り、筒井藤政(のちの順慶)に属する向井専弘と結んだことを伝え、反三好側ではなく、三好側につくように求めています。

筒井藤政は大和で松永久秀に抵抗を続けていた人物で、「大和四家」と呼ばれる有力な勢力の1つでした(他は十市氏・箸尾氏・越智氏)。

その筒井方の者と手を組んだということは、松永久秀に敵対するということです。井戸良弘に書状を送ったのも、三好側につくように、というより、松永久秀ではなく、三人衆につくように求める意図があったのでしょう(この後、井戸良弘は三人衆方についている)。

この書状で石成友通は、松永久秀にも現在の状況を知らせたいが、具合が悪いという噂を聞いたので、伝えない、とも書いていますが、おそらくわざとであり、三人衆と松永久秀との間に亀裂が入っていることがわかります(◎_◎;)

そして三人衆は、11月15日、ついに表立って反松永の行動を実行します。

『多聞院日記』には、その模様が次のように書かれています。

…16日、昨日の夕方に三好日向(長逸)・下野(三好宗渭)・石成(友通)三人衆千ばかりにて飯盛城へ打ち入り、長勝軒(淳世)・金山駿河(長信)を殺害、左京大夫(三好義継)に霜台(松永久秀)を見放すように訴えた。左京大夫はすでに松弾との関係は切れていると言った。…

三人衆は電光石火で三好氏の当主である三好義継を手中に収めることで、三好家中における正統性を得たわけです。

しかし、三好義継は松永久秀との関係は断っている、と言っていますが、側近が殺された状況から考えると、これは自己の保身か、それとも無理矢理言わされたものでしょう。

こうして、三好三人衆と松永久秀の対立は表面化し、三好家中は分裂して相争うことになりました。

ちなみに、「三好三人衆」という言葉ですが、この言葉は松永との対立以前には見られなかった言葉であり、

天野忠幸氏は『三好一族と織田信長』で、松永久秀が排除されるまでは、三好長逸・三好宗渭が連署する文書はあっても、石成友通と連署する文書は無かった、それが松永久秀の排除後は連署する文書が現れてくるので、「『三好三人衆』という組織」は、「松永久秀が三好本宗家から排除され、その地位が石成友通に継承されて成立した」、としています。

さて、三人衆は三好から松永久秀を排除することに成功したわけですが、三人衆は2つの面で苦境に立たされることになります。

①久秀に味方した城が多かったこと

久秀の本拠地である大和以外に、摂津の瀧山城・越水城、山城の西院城・勝竜寺城・淀城、丹波の八上城(城主は松永久秀の甥の松永孫六)などが松永久秀に味方しました。

久秀が反三好包囲網に加わったこと

久秀は三人衆に対抗するため、反三好包囲網に参加します。久秀は、義輝殺害の際に、足利義昭の保護を表明するなど、足利義昭に心を寄せており、反三好包囲網に加わるにあたって支障がほとんどありませんでした。

(支障が全くなかったわけではなく、包囲網の一角を務める丹波の荻野直正は久秀の弟の内藤宗勝[松永長頼]を討ち取った男であった)

また、和泉(大阪府南部)の重要な拠点である岸和田城を任されていた松浦孫八郎(三好義継の弟)も反三好包囲網に加わるなど、三人衆に敵対する勢力は非常に大きなものとなってしまいました(◎_◎;)

松永久秀はこの優位な状況を背景に大和で攻勢に出て、三人衆が三好義継を拉致し、対立が鮮明となった11月16日からわずか2日後の11月18日には筒井藤政のいる筒井城を攻撃して城を奪うことに成功します😲(あまりにも手際が良すぎるので、三人衆によって三好から排除されたことを受けて久秀が動いた、というよりは、久秀の動きを察知した三人衆が慌てて義継の拉致に動いた、と見る方が正しいでしょう)

また、11月21日に覚慶(のちの足利義昭)は、居場所を近江(滋賀県)南部の甲賀から、京に近い近江の矢島に移していますが、

この積極的な動きは、反三好包囲網の優勢を背景にしたものであったでしょう。

このように、松永久秀は三好義継を取られてしまったこと以外は、三人衆に対して優勢に事を進めていました。

これに対し、三人衆方は、12月14日に大和で井戸良弘を味方につけることに成功すると、12月21日には大和に向けて兵を出す(『多聞院日記』…河内より三人衆の兵3000余りが乾脇までやって来た。多門山城から(迎撃の)兵が出たが、特に目立ったことは無かった)など、積極的に行動します。

両軍が本格的にぶつかることになったのは永禄9年(1566年)2月17日のことで、反三好包囲網の紀伊畠山・和泉松浦連合軍が河内に進入したのを三人衆が迎撃して、大きな戦いとなりました。

この戦いについて、『多門院日記』は、

…河内において大合戦があった、畠山・遊佐方は負けて堺に逃げた、和泉衆は多くが討ち死にした、18日、高屋城で首実検をしたところ、首は463あった。

と記し、『足利季世記』は、

永禄9年(1566年)2月1日、松永久秀は紀伊の畠山高政(正しくは高政の弟の秋高か)・根来衆・遊佐・安見を合わせて7000余の兵力で堺の遠里小野(おりおの。現在の堺市堺区遠里小野町)に進んでここに陣を布いた。これに対し、三人衆方で安宅信康率いる淡路衆は松永方の摂津瀧山城を攻撃、瀧山城側は小勢であったため敗北して11人が戦死した。13日には畠山高政・安見・遊佐率いる紀伊衆・根来衆が河内に乱入、三人衆方は高屋城から打って出て、鉄砲を撃ち合い、両軍とも退いた。17日、三好義継は1万3千を率いて堺に攻め寄せた。畠山高政は堺から、和泉衆は家原城から出てこれを上芝(現在の堺市西区上野芝町)というところで迎撃したが、畠山方は敗北して300余人が戦死、畠山は堺に、和泉衆は岸和田城に引き籠った。

と詳しく記しています。松永久秀自身が出陣していたかどうかはわかりませんが、反三好包囲網方の大敗北だったわけです(◎_◎;)

悪いことは重なるもので、2月26日には丹波における松永方の拠点・八上城が波多野氏によって攻略されてしまいます(この後、三好氏が丹波を取り戻すことはありませんでした)。

(『足利季世記』…その頃、丹波国の八上城は松永久秀の甥の松永孫六郎が守っていたが、波多野秀治が先祖代々の城である八上城を取り返す、と言って数日にわたって攻めたが苦戦している中で、地元の者から城の水源を聞いてこれを断ったところ、松永孫六郎は苦しくなって和睦に応じ、城を明け渡して、26日、尼崎に移り、そこから堺へ船で落ち延びていった。)

劣勢となった松永久秀は、4月21日、一時的に停戦する代わりに筒井藤政に美濃庄城を譲り渡します。

これで大和を落ち着かせた松永久秀は、5月18日の夜、大和を出て摂津に進みます。

(このことについて、『多聞院日記』は、…(5月23日)大雨が降った。田畑の実り具合は非常に良い。祈祷を連日のように行った結果、霜台が河内に移り、合戦が他国に行ったのである。神慮ありがたしと、奈良中がほっと一息をついた…と記しています。戦争は大和から出ていったかもしれませんが、他国の人は苦しむんですけどね(-_-;))

そこから転じて堺に入った松永久秀は、畠山軍と合流、さらに、摂津の松永方の城である伊丹城・芥川山城・瀧山城・越水城からも兵が集まってきました。

(芥川山城について、『足利季世記』は、次のように書いている。…松永方の松山彦十郎・中村新兵衛は芥川城にいたが、三人衆方に寝返った。その後、松山彦十郎は尼崎に行って、松永方の伊丹親興に寝返り、その婿になったので、「児の手柏の二面」(児の手柏の葉は表裏が見分けづらい。これにかけて、三人衆方か松永方かわかりづらい、という意味)だと人々は笑ったという)

これで松永方は総勢6000余り(『足利季世記』)となりました。松永久秀はおそらく決戦を意識していたのでしょう(◎_◎;)

これに対し、三人衆側は、15000(『足利季世記』)もの兵を集め、5月30日、堺に攻撃を仕掛けました。

戦いの結果について、『多門院日記』は、

…今日の申の刻(午後4時頃)に堺で合戦があった。霜台は行方が知れないという。

と記し、

『足利季世記』は、

松永・畠山はこれを迎撃したが、兵が少なかったので苦戦し堺に追い詰められ、6月1日には松永方に加勢していた者たちも自分の城に戻ってしまった。

と記しています。またしても松永方の大敗北でした(◎_◎;)

ここから一気に松永方の勢力は衰えていくことになります💦

ルイス・フロイスの『日本史』には、一連の経緯について、

「司祭たちを都から追放することを促した暴君弾正殿は、主君なる公方様を殺害するという、かの残酷な叛逆を行なった後、さっそくデウスの正しく神聖なお裁きにより、困苦、迫害、戦争、兄弟や家臣の死、ならびに財産の大いなる損害喪失という罰を受けた」と書かれています💦

6月8日には、大和で筒井藤政により、筒井城が攻略されました。筒井藤政は、約半年ぶりに居城を取り戻すことに成功したわけですね。

このことについて、『多聞院日記』は、「筒井平城を多羅尾源太・尾張国衆のよこ田おあい新衛門が守っていたが、和議により落城した。午の刻(正午の12時頃)に筒井六郎が入城した。」と記しているのですが、

この文章の中に驚きの内容が書かれていますね!!!

なんと松永方に、尾張からの援軍がいたというのです!!Σ( ̄□ ̄|||)

つまり、織田信長と松永久秀は手を組んでいた、ということになります。

どうして両者はつながったのか…キーマンとなったのは足利義秋です。

『足利季世記』には、矢島に移った後の覚慶(足利義秋)の動静について、次のように記しています。

…近江の矢島に移られ、ここで還俗されて、諸国の大名に対し、三好を討伐し、足利義秋が将軍家を相続できるように軍を動かすように促した。

実際は、甲賀郡にいる時である、永禄8年(1565年)8月5日(奈良から甲賀に脱出したのが7月28日なので、わずか1週間後)には越後(新潟県)の上杉輝虎(謙信)に上洛の協力を要請しているのですが、

足利義秋は、ここから約2年の間に、上洛の協力を求める書状を全国の大名に次々と送っています。

わかっているだけでも、上杉輝虎、甲斐(山梨県)の武田信玄、相模(神奈川県)の北条氏康、上野(群馬県)の由良成繁、能登(石川県北部)の畠山義綱、美濃(岐阜県南部)の一色(斎藤)義紀、尾張(愛知県西部)の織田信長、近江の六角承禎、越前(福井県北部)の朝倉義景、大和の十市遠勝、丹波の荻野直正、安芸(広島県西部)の吉川元春、肥後(熊本県)の相楽義陽、薩摩(鹿児島県西部)の島津貴久、とかなりの数にのぼるのですが、その範囲の広さに驚かされてしまいます(◎_◎;)

さて、義秋から書状を受け取った織田信長ですが、

12月5日には、信長は義秋家臣の細川藤孝に上洛に協力する意思があることを伝えています。

その書状には、次のように書かれていました。

御入洛の儀に就きて、重ねて御内書を成し下され候。謹みて拝悦致し候。たびたび御請け申し上げ候ごとく、上意次第、不日なれども御供奉の儀、その覚悟無二に候。然らば越前・若州を早速仰せ出され、尤もに存じ奉り候。」(御上洛について、何度も御内書を下され謹んで拝閲しました。そのたびに「お請けいたしました」と言いましたように、公方様の意思次第で、いつでも出陣してお供をする覚悟でいます。越前の朝倉や若狭の武田も上洛の協力を了承したということも聞いております)

信長は足利義秋の上洛の支援に積極的であったことがわかります。つまり、信長も反三好包囲網の一員となっていたわけですね(゜-゜)そのため、松永久秀とも、当然つながっていることになるわけです。

しかし、信長が大和まで援軍を送っていた、というのは衝撃的な事実ではあります(◎_◎;)

実は『総見記』にも、「義次(※継の誤り)も松永父子も潜に岐阜へ内通して信長公上洛有らば味方に参るべき由を云い送りける」と書いてあるのですが(ビックリ(◎_◎;))、信長と松永久秀の関係がよくわかる書状が実際に残っているので一部を紹介します。

永禄9年(1566年)か10年(1567年)の8月21日、信長は大和の国人である柳生新左衛門(家厳。柳生城主)に書状を送っているのですが、その文中には、「松少と連々申し談ずる事に候」(私は松永久秀と絶えず相談しあっている)とあります。

永禄10年(1567年)12月1日、信長は次の内容の書状を、筒井順慶や、多田四郎(筒井方)・岡因幡守(松永久秀の家臣)・柳生新左衛門(家厳。柳生城主)などに送っています。

御入洛の儀、不日に供奉致すべく候。この刻み御忠節肝要に候。それに就きて、多聞に対し、いよいよ御昵懇専一に候。久秀父子も見放すべからざるの旨、誓紙を以て申し合わせ候条、急度加勢を致すべく候」([足利義昭が]上洛される時は、すぐに私は供をする。その時、忠節を尽くすことが肝要である。ついては、松永久秀とますます親密になることだけをこころがけるように。久秀父子を見放すことはないということを、私は誓紙で約束しているので、必ず松永久秀に援軍を送る。)

さて、信長は上洛の支援を表明したわけですが、実際には、信長はなかなか上洛の軍を起こすことができませんでした(-_-;)

その理由は、上洛ルートに存在する、美濃の一色(斎藤)氏との和睦がなかなか進捗しなかったからです。

翌永禄9年(1566年)になると状況は変わったようで、3月10日、義秋が上杉輝虎に送った書状には、美濃と尾張が和睦するように求めていたが、これを両者が受け入れた、ということを伝える内容が記されており、信長の上洛の障害は取り除かれたことがわかります。

義秋は4月18日には尾張にいた和田惟政・細川藤孝に対し、信長が上洛する事について都合が悪いことは無いとのこと、喜ばしい限りである。ついては、信長から、いつ上洛できるのか、誓紙を書かせて持ち帰るように、という書状を送っています。

しかし、6月11日、再度和田惟政を尾張に派遣して信長に上洛を促させているように、5月が過ぎ、6月になっても、信長はなおも上洛の軍を起こせずにいました。

7月1日に義秋は、上杉輝虎に一色(斎藤)義紀・織田信長・松平家康が上洛協力の意思を固めたことを知らせる書状を送っていますが、どうなんでしょうか💦上杉輝虎を動かすために、内容を盛った可能性があります(;^_^A

しかし、7月13日になると、足利義秋は若狭武田氏に、尾張・美濃が和睦し、来月、上洛の軍を出陣させる予定であることを伝えており、ついに信長が上洛の軍を起こすことを決意したことがわかります。

7月17日の大覚寺義俊の書状には、

「来月22日織田尾張守参陣致し、御動座(将軍の移動のこと)御供申すべく候」

とあり、織田信長は上洛の軍を起こし、8月22日には矢島に参陣することを決意したようです。

(この書状では三河・美濃・伊勢も出兵することは確実だ、とも書かれていますが…💦本当かなぁ…。)

しかし、8月22日、信長は矢島に参陣することはできませんでした(◎_◎;)

なぜなのか…そもそも、信長はなぜなかなか腰をあげようとしなかったのか…それは、畿内の情勢が極度に悪化したことが関係していました💦

〇阿波三好家の参戦

6月になると、松永方の状況を決定的に悪化させる出来事が起こります。

これまで内部抗争に沈黙していた阿波三好家が、三人衆方に味方して参戦したのです(◎_◎;)

阿波三好家は、この機に乗じて、阿波に居住していた足利義親(1538~1568年)を将軍とすることを狙っていました。

足利義親は、11代将軍足利義澄の孫にあたる人物です。義澄の子、義維は、阿波の細川澄元のもとで育てられていますから、この時から阿波との関係があったようです。1526年、細川晴元(澄元の子)・三好元長(長慶の父)にかつがれて畿内に進撃、一時は京都を制圧しましたが、1532年、細川氏の中で内紛が起こり、義維は阿波に逃れることになり、その後は長く阿波三好家のもとで保護されて暮らす形となっていました。阿波三好家が三好氏の内部抗争に参戦したとき、義維はまだ生きていましたが、55歳(57歳?)と高齢であり、体調も思わしくなかったので、阿波三好家はその子の義親をかついだのでしょう。

6月11日に、25000(『足利季世記』)もの兵を率いて兵庫に上陸した篠原長房(阿波三好家の重臣)は、すさまじい快進撃を見せることになります🔥

以下、攻略した城とその日付です(『細川両家記』)。

6月24日…淀城・勝竜寺城(淀城・勝竜寺城は7月17日という説も)

7月13日…西院城(『細川両家記』には6月24日とあるが、『言継卿記』には「13日、…今朝、西院小泉城は城を明け渡し、大津へ落ち延びていった。数は200ほどであったという」とあり、7月13日が正しいだろう)

7月17日(13日?)…越水城

8月14日…堀城

8月17日…瀧山城

(瀧山城について、『足利季世記』は次のように記している。…瀧山城は淡路衆・播磨衆が6月11日より攻撃、水の手を断ったところ城方は降参して開城した。瀧山城は代々楠木氏のものであったが、正成の時に水の手を断たれて落城したのを忘れていたのだろうか。しかし、瀧山城にいた楠木氏は当時は備前(岡山県南東部)に移っていたので、仕方ないという人もいた。)

8月3日には三人衆方が近江に進入し、足利義秋の手勢と坂本で合戦する、という出来事まで起きています(◎_◎;)

この勢いの前に、7月には和泉の松浦孫八郎・紀伊の畠山秋高・摂津伊丹城(有岡城)の伊丹親興も三好と和睦し、ここに反三好包囲網は崩壊に至りました(;'∀')

状況が日々悪化する中で、足利義秋の最後の希望の星となったのは織田信長でした。

信長は8月22日には上洛すると宣言していましたから、足利義秋や松永久秀はかなり期待していたことでしょう。

しかし、

佐久間信盛が8月28日に柳生家厳にあてて送った書状に、

「信長上洛の儀、江州表裏に就きて、まず延引し候」

とあるように、

近江の六角氏が上洛を阻む姿勢を見せたため、信長は予定日に上洛を実行することができませんでした(-_-;)(この書状は翌年の物という説もある)

(六角が敵対の色を見せたのは、三人衆・篠原長房の快進撃が伝わっていたからでしょう。信長が上洛を取りやめたのも、成功の公算が小さいと考えたからかもしれません)

信長の上洛の中止によって希望を失った足利義秋は、8月29日の夜、近江矢島を発って、妹の婿である武田義統を頼って若狭、さらには越前に落ちていきました。

このことについて、『信長公記』は、「佐々木左京大夫承禎を憑み思し召すの旨、種々様々上意侯といえども、既に主従の恩顧を忘れ、同心能わず。結句雑説を申し出だし、情無く追い出し申すの間、憑む木の本に雨漏れ、甲斐無く、また、越前へ下向なされ訖んぬ」(公方様[足利義秋]は六角承禎[義賢]を頼みにしているとおっしゃられていたのに、六角は主君から目をかけられているのにもかかわらず、主君に協力せず、ついには、様々なうわさが飛び交っていると言い出し、非情にも近江から追い出すことになり、公方様は当てが外れて途方に暮れ、仕方なく、越前に向かわれることになった)と記し、

『多聞院日記』は、

去る29日の夜、上意(足利義秋)様は矢島を離れ、若狭へ御移りになった。六角が三人衆と申し合わせて謀反したためだという。浅猿浅猿(あさましあさまし[嘆かわしい])。若狭でも武田殿は親子で対立していると聞くが、どのようなことになるのだろうか…と記しています。

三好と六角氏の関係については、

『言継卿記』の12月21日の条に、

…三好日向守(長逸)・三好下野入道(宗渭)が今朝坂本に赴いた。近江衆と話し合うことがあるのだという。

という記述があり、京都の貴族にも、三好と六角が連携していることは周知の事実であったことがわかります。

また、一色(斎藤)方の四奉行、伊賀(安藤)貞治・延永(日根野)弘就・成吉(竹腰)尚光・氏家直元が永禄9年(1566年)閏8月18日に(出した先はおそらく武田領国にいた快川紹喜)を出した書状に、

…今年の春より、三好方からこちらに色々と要請があったように、彼らは何重にもはかりごとをめぐらしていて、それによって公方様の上洛は滞り、それだけでなく、近江矢島にとどまることもできなくなって、朽木か若狭に移られるようですが、どうしようもないことです。

という記述があり、どうやら三好=六角だけではなく、これに一色(斎藤)氏も加わっていたようです(◎_◎;)

この書状には次のような記述もあります。

公方様(足利義秋)が上洛することについて、織田上総(信長)も参陣を決めたということで、公方様は美濃が尾張と和睦すれば忠義である、と仰せられました。信長が上洛をするとは到底思えないのですが、信長を妨害するとこちら側の落ち度になるので、御命令に従い、和睦をすることを細川兵部大輔(藤孝)に伝えました。織田が美濃から近江に移動できるように準備を整えたところで、細川兵部大輔が信長に参陣の催促に行きましたが、信長は態度を変えて参陣をやめました。こちらとしては予想通りのことでしたが、公方様は言語道断だと思われることでしょう。「織上天下の嘲弄これに過ぐべからず候」(世の中の人々が信長をあざけってバカにする様子は、これ以上のものはないほどです)。このような状況なので、公方様の思いを疎略にするわけではありませんが、織田と和睦をすることはできなくなりましたのも、仕方がないことです。…

白々しいですね…(;^_^A

おそらく一色(斎藤)は、三人衆方の優勢を見て、三人衆方につき、上洛を妨害することを決めたと思われるので、先に態度を変えたのは一色(斎藤)氏の方だったはずです💦

信長は六角・一色(斎藤)の不穏な様子を見て上洛を取りやめることになったのでしょうが、

足利義秋は、9月13日、上杉輝虎に送った書状の中で、

…織田尾張守(信長)が出兵するという約束を守らなかったことと、三好・松永の計略によって、私は矢島にいられなくなった。

と書いており、不満の矛先を信長にぶつけています(◎_◎;)

(松永の計略、と書いていることについて、天野忠幸氏は、『三好一族と織田信長』で、「久秀と結んでいた畠山政頼や根来寺が三好義継や三好三人衆と和睦したため、義昭は久秀の立場も誤解していたようだ」と書いている)

信長としては、このままでは黙っていられなかったでしょう。

そこで信長は、一色(斎藤)氏に戦いを挑むことになります…(◎_◎;)

〇河野島の戦い

上洛できなかった織田信長は一色(斎藤)氏の行動を怒り、

永禄9年(1566年)8月29日、北進して増水していた川を渡り、河野島に軍を進めます。

河野島は現在の岐阜県岐南町とされますが、当時は美濃ではなく尾張の一部でした。

しかしこのあたりまでは一色(斎藤)氏の勢力下にあったのです。

一色義紀(斎藤龍興)はすぐに兵を出し、両軍はにらみ合いますが、

翌日も風雨がひどく、戦うことはできませんでした。

(『御湯殿の上の日記』には、京都でも8月29日~閏8月23日の約一か月間にわたって、荒天が続いた、と書かれている)

閏8月8日、ようやく水が引いてきたところで、

美濃方は織田軍に攻撃をかけようとしますが、

織田信長は先手を打って退却を始めていました。

なぜ戦わずに退却したのかというと、足利義秋が8月29日に近江矢島を逃れて若狭(福井県南部)に移ったという情報が信長に伝わったため、一色と無理をしてまで戦う必要は無くなった、と考えたからでしょう。

こうして信長は上洛をあきらめて撤退することになったのですが、まだ水量は多かったので、織田軍でおぼれ死ぬものも多く、まだ川に到達していなかった後続の部隊は、「少々」討ち取られてしまいました(美濃方が言っているので少々なのだろう。もしくは、誇大に言っているかもしれないので、誰も討ち取れなかったのかもしれない。溺れる者もいなかったのかもしれない)

織田軍は「兵具」(鎧・刀・弓)なども捨てて遁走していたのですが、

これは「前代未聞のことである」、と言っています。

織田信長としては、とにかく被害を抑えたかったので、川を渡る際に不要な兵具を置いていかせたのでしょう。

信長の合理精神が伝わってきます。

これに対し、一色(斎藤)四奉行は、「一戦もできずに相手が退却したので、大勢を討ち取ることができなくて無念だ」と言っています。

信長としては相手の思うようにはさせず、損害を抑えることに成功したのですが、一色(斎藤)氏から、連続して不本意な目にあう結果になったわけです。

また、この戦いについては、将軍・足利義昭は閏8月26日の手紙で、

尾張・美濃の停戦のことについて、人質の話もまとまったと喜んでいたのに、

信長が美濃に乱入したと聞いて驚いた、と反応しています。

義秋は、一色(斎藤)氏方の言い分を鵜吞みにしていたのでしょうか…💦

しかし義秋は、11月にも細川藤孝を派遣して織田信長に上洛を促しており、信長に対して望みを捨てたわけではありませんでした。

信長はこれに応える形で、別の上洛の方法を探っていくことになります。

〇松永久秀の再起

反三好包囲網を崩壊に導いた篠原長房は、擁立した足利義親を将軍にすべく、朝廷に対し運動を行っていきます。

これまで足利氏で征夷大将軍となる者は、先に朝廷から左馬頭に任じられるのが慣例になっていましたが、

朝廷は永禄9年(1566年)4月21日に、足利義秋を左馬頭に任じていました。

朝廷は足利義秋を正統だと認めていた、ということになります。

しかし、その後の情勢に変化により朝廷も足利義親を認めざるを得なくなり、

12月28日には、朝廷から足利義親を左馬頭に任じることが伝えられます。

これについて、『足利季世記』は、次のように記しています。

12月28日、朝廷から勅使が来て、阿波御所を左馬頭に叙任する事が伝えられた。長年望んでいたことが達成することができて、三人衆・篠原長房はこれ以上のことは無いと喜ぶこと限りが無かった。

こう書いてありますが、三人衆は足利義輝を殺害した後もずっと新たな将軍を立てようとしていなかったので、三人衆はもともと望んでいたわけではなかったでしょうが(;^_^A、阿波三好家の者にとっては悲願だったわけです。

永禄10年(1567年)1月5日に足利義親は正式に左馬頭に任じられ、これを機に名を義親から義栄に改めています。

こうなったら将軍に任命される日も近い、と思われたのですが、将軍に任じられるまでなおも1年を要することになります(◎_◎;)

なぜ足踏みしたのかというと、再び三好家中において内部分裂が起こったからでした…!💦

『言継卿記』2月17日の条には、「昨日(2月16日)、松永久秀が蜂起したという」と記されています。

長く行方をくらませていた松永久秀はなぜこのタイミングで立ち上がったのでしょうか?(゜-゜)

ルイス・フロイスの『日本史』には「一通の書状を受け取った。その中には、前夜、河内の国主であ」る「三好殿が、謀反の為に排斥されたと記されていた」とあり、

『多聞院日記』の2月18日の条には、「去る16日、三好左京大夫(義継)が堺で宿所を変えたのを、河内では人々は松弾(松永久秀)と心を同じくしたのではないかと言っている。左京大夫は大坂に行ったという」とあります。

なんと、三好氏の当主の三好義継と松永久秀が手を結んだというのですね(◎_◎;)

なぜ三好義継が松永久秀に寝返ったのか。

『足利季世記』には次のように書かれています。

…明けて永禄10年(1567年)2月16日のこと。三好義継は若かったため、何事も三人衆の言われるがままであった。そのため、光源院(足利義輝)様殺害の時も、阿波御所(足利義栄)が頼ったのは三人衆と松永であった。今回の上洛も、篠原長房・三好康長・三人衆が取り計らったものであった。阿波御所は三好義継を冷遇し、三人衆・三善康長・篠原ばかりを頼みにしたので、金山駿河守は怒って義継に松永方に離反することを勧めた。こうして、義継は密かに松永方に加わった。松永久秀は大いに喜び、4月6日には、義継を信貴山城に迎え入れた。

ルイス・フロイスの『日本史』には、

「この頃、日本の君主国すなわち天下を三人の異教徒の殿たちが支配していた。その一人は石成、他は下野、第三人目は日向殿と称し、彼らは常に堺に住んでいた。…この頃、彼ら以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは、篠原殿で、阿波国において絶対的権力を有する執政であった」と書かれており、

反三好包囲網との戦いを終わらせる主力となった阿波三好家の力が高まる一方で、三好本宗家の存在感は相対的に低下したことがわかります。

ルイス・フロイスの『日本史』には、

「三人衆は年老いており、三好殿は彼らの意見に従わなければいけなかったので、彼らを嫌悪し、殺害しようと欲した」とありますが、

自分が軽んじられていると感じた三好義継は、権力を取り戻すために、三人衆・阿波三好家と袂を分かち、松永久秀と手を組むことにしたのでしょう。

その後、畿内は再び戦乱に見舞われることになるのですが、

織田信長は永禄9年(1566年)か10年(1567年)の8月28日に久秀に対し、書状で、

「諸口調い次第、南都に至り罷り上るべきの旨に候」(状況が整い次第、奈良に向けて兵を送る)

と述べていますが、

信長は、再び蜂起した松永久秀を助けるため、大和までの支援ルートの開拓が必要でした。

その支援ルートとして考え得るのは、北伊勢~伊賀~大和へと続くルートです。

このルートを通る際に邪魔となるのは、北伊勢の六角勢力でした。

信長は松永久秀支援の為にも、北伊勢へと出兵していくことになります…🔥


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