今回の話は、16巻からなる『信長公記』の最初の巻にあたる、
首巻の最終部分になります😆
16巻分の1ですが、ボリューム的には首巻は4分の1あります💦
ようやっと4分の1が終わったということになりますね(;^_^A
織田信長の誕生日の7月3日から書き始めて、
首巻部分を一度終えたのが2月でしたが、それから『信長公記』前史を3・4月に書いて、首巻部分の修正・加筆作業を5~8月でやったので、約11か月ほどかかったことになります😓
このペースで行くと『信長公記』マンガ化完了まであと3年を要することになりますね…(;^_^A アセアセ
大変な道のりですが、ここからがメインなので、がんばります🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇京都の人々の笑いものになった織田信長
首巻は1568年に織田信長が上洛を果たしたという話で終わっていますが、
上洛については『信長公記』巻一の冒頭部分で詳しく扱っていますので、
今回の部分では上洛についての話はダイジェストな感じになっています。
(予告編のような感じ??)
そしてマンガで描いたエピソードですが、この話は実は『天理本』には書かれていません。
丹波国(京都府中部・兵庫県東部)・長谷城主の赤沢加賀守(義政。松永長頼[内藤宗勝]の与力[配下]。?~1603年)は、
鷹がとにかく大好きな男で、
ある時、自ら関東まで出かけて熊鷹を2羽手に入れました。
帰る途中、尾張で織田信長に会い、
「2羽のうちどちらか好きな方を差し上げましょう」
と言いますが、織田信長は、
「お気持ちはありがたいが、上洛して天下に号令するまであなたに預けておこう」
(志の程感悦至極に候。併[しかしながら]、天下御存知の砌[みぎり]、申請くべく候間、預け置く)
と答えました。
赤沢加賀守は京都に戻ってこのことを話すと、聞いた人々は、
「京都から離れたところにいるのだから、実現できるわけがない」
(国を隔て、遠国[おんごく]よりの望み実[まこと]しからず)
…と言ってみんな笑ったそうです。
そして、筆者の太田牛一はこう続けます。
…しかし、この話から十年もたたないうちに織田信長は上洛を達成したのだから、
世にも不思議なことである…
ここで10年もたたずに、と出てきているので、この鷹の話は、1559年~1568年のどこかの話ということになります。
もう少し範囲を狭めると、赤沢加賀守(ちなみに、赤沢加賀守は後に上洛した織田信長と敵対して、城を明智光秀に落とされて囚われの身になっている)の上司であった松永長頼は1565年に亡くなっているので、1559年から1564年あたりの話だといえるでしょう。
(『名将言行録』は根拠は示さないが永禄4年[1561年]のこととしている)
人々がなんと無謀な、と言って笑っているので、
もしかすると桶狭間前の話であったのかもしれません。
織田信長は1549~1552年頃に父の跡を継ぎましたが、
その後は尾張国内での他の織田氏や実の弟との骨肉の争い、
それを乗り越えたら大大名の今川義元との決戦、
義元を撃破した後は美濃との戦い…
戦いに次ぐ戦いでした。
普通であったら途中で何度も死んでいるでしょう。
しかし織田信長はそれを自らの決断力と行動力で突破してきました。
そしてついに京都とほとんどゆかりの無かった男が上洛を達成するまでになるのですが、
上洛後も、これまで以上に、厳しい戦いの連続の中に身を置くことになります。
『どうする家康』ではないですが、「どうなる、信長!!」
0 件のコメント:
コメントを投稿